死に損ねた男   作:マスキングテープ

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第6話 現世に引き戻された男

 キルヒアイスは、知り合いによく似たワルキューレ達と別れ、示された光の道の中をひたすら歩いていた。

 どれ位歩いた頃であろうか、不意に見知らぬ手がキルヒアイスの首根っこを掴んで、白い道の上をずるずると引き摺って行く。キルヒアイスは急激に浮上するような感覚を感じた。

 

 

 ジークフリード・キルヒアイスは、帝国歴四八九年二月初頭にようやくその瞼を開いた。

 ただ、これは文字通り瞼を開いただけで、彼の完全な回復を意味しない。意識が目覚め始めたとはいえ、それは完全な状態ではなく、一日の中で意識がある時もある、という状態であった。加えて言うなら、その意識がある時ですら、光や音などの外的刺激にぼんやりと反応する程度で、明瞭に世界を認識している訳ではなかった。

 

 ただ、日々の気候が春に向かいつつあるのと歩調を合わせるように、キルヒアイスが目覚める時間は僅かづつではあるが、増えていった。その内、キルヒアイスの目が良く動くようになった。

 

 若い軍医が、今回は主治医のパペットとしてではなく一人の医師として、アンネローゼ達に説明した所によれば、寝起きの時と似たような感覚ではないかという。寝惚けていても、目覚ましの音がうるさい、寝具が心地良いと感じる様に、外的刺激に対してごく原始的な快不快は感じ取れる状態であるらしい。

 

「何かを言っている事は分かるみたいですが、何を言っているかは解っていないようです。でも、だからこそ、その言葉に含まれる好意は敏感に感じるみたいです」

 

 キルヒアイスは呼吸機器を付けたままであったので、声をうまく出せずにいる。勿論、人と口を利かなくなって随分経過するから、そちらの影響もあったかもしれない。獣の唸り声のような物しか口に出来ないキルヒアイスだが、それによってらの気持ちを表現するようになっていた。

 身体チェックで、体の特定部分、例えば目や口に触れられることをひどく嫌がって唸りながら涙を流す事もあれば、手に触れられたり、話し掛けられるのは好ましいらしく、相手に話し掛けるように嬉しそうな声を発する事もあった。

 

 

 二月も半ばを過ぎた頃、キルヒアイスの元を二人の医師が同時に訪れた。一人は執刀医で現在の主治医である男である。もう一人は、つい先日オーディンに到着したばかりの、フェザーン人医師である。

 

「キルヒアイスさん、私は貴方の執刀医で主治医の__です。尤ももうすぐ主治医ではなくなるんですが」

 

 キルヒアイスの手を、がっしりとした長く大きな手が掴んで握手をした。とは言え、キルヒアイスは全くどこも動かせなかったので、主治医が一方的にその手を握っているだけである。

 キルヒアイスは、感覚の鈍った手越しに、何となく白い道の途中で自分の首を掴んで引き摺ったのは、この男ではないかと思った。ただ、そのような事を考えたのは、後日キルヒアイスの意識が明瞭になった時のことであって、この時点でのキルヒアイスは、この見知らぬ人物の言葉に温かさを感じる事と、彼の手が何故か安心出来る事を、何の根拠もなく感じる程度である。

 

「間に合って良かった。私が彼から主治医を引き継、あれ」

 

 次にキルヒアイスの手を握ったのは、中肉中背の温和そうな中年男であった。顔立ちは比較的品良く整っていたが、額から頭頂部を越えてハゲが進行している。寂しい頭部と顔貌の相性が悪いのか、何とも風采が上がらない。キルヒアイスは、心地の良い手だと感じながら、彼の言葉を最後まで聞くことなく再びその意識を沈めた。

 

「まあ自己紹介は改めてという事で。今はゆっくりして下さい。貴方にとってはこれからが大変なんですから」

 

 新たに主治医となる中年医師は、キルヒアイスの手を軽くポンポンと叩くと、キルヒアイスの体の側に戻した。彼は、優しさに満ちた口調ながら、冷静に事実を告げるのであった。

 

 

 

 二月に入ってから、ラインハルトは、ヒルダやシュトライトを連れず一人でシュヴェーリンの館に来るようになった。これは別に他意がある訳ではない。単に元帥府や宰相府など官公庁の休日、つまり日曜祝祭日に、休みを使って赴くようになったために過ぎない。

 

 これに関して、護衛も要らぬ一人で良いとラインハルトは主張した。しかし、帝国の最重要人物である以上、休暇中であろうが無防備にする訳にはいかないと、シュトライトやキスリングに相次いで意見されるに至り、運転手兼護衛の他、もう二人護衛をつけることでラインハルトと彼らの間に一応の妥協が成立した。

 

 そのため、公式行事や急務のない限り、ラインハルトは日曜日の度に館を訪れては、キルヒアイスと面会をし、時には医師から直接報告を聞いて、その日の内に館を辞するという行動パターンが出来上がりつつあった。

 一方で、ラインハルトは、アンネローゼやキルヒアイスの母とは軽く挨拶をするのみでなるべく長い間顔を合わさないようにしていた。キルヒアイス本人に対して程ではないが、ラインハルトはアンネローゼやキルヒアイスの両親に対して罪悪感があった。

 それはまるで、悪い事をした後、親に叱られるのを嫌がって逃げ回る子供のようでもあった。

 

 二月中旬の日曜日。ラインハルトはキルヒアイスにたっぷり話しかけた。キルヒアイスは、ラインハルトの話に相槌を打つように唸り声をあげているだけであったが、今のラインハルトにとっては、それでも充分過ぎる程喜ばしい事であった。

 

 暫し面会を終えた後、ラインハルトは、数日後には主治医でなくなる男の部屋へ赴いた。

 彼はちょうど、小柄な軍医を助手に使って、旅支度の真っ最中であった。二人はラインハルトに気付き、軍医の方はラインハルトに敬礼し、男の方は優雅な仕草で深々と礼をした。軍医は何冊かの医学書やノートを持たされた後、二人の様子を察して部屋から出て行った。

 

「卿には是非直接会って礼を言わねばならないと思っていた。キルヒアイスの命を救ってくれたこと、感謝する」

「いえ、私の方こそ。甥の一件、ご厚情痛み入ります」

 

 男の長兄は伯爵家の当主であり、リップシュタット戦役において貴族連合軍に与して、敗北に先立って自決した。伯爵家は、貴族連合軍に与したとして、家屋敷や財産の全てを没収され、長兄の幼い一人息子は路頭に迷うはずであった。しかし、ラインハルトの命令により、伯爵家はその家名と財産を安堵されたのである。

 

「卿には功があった。功には相応に報いるべきで、卿の働きにはそれだけの価値があっただけの事だ」

 

 男を始め、フェザーン人の医療スタッフや軍医達にも、様々な理由をつけて勲章が授与され、それに伴う一時金が下賜される予定であった。これは、ラインハルトから、彼や彼女達への個人的な報酬と言ったところである。

 

 

 暫く謝辞とそれへの応答が続いた後、不意にラインハルトは男に問いかけた。

 

「卿の兄上達は良い医師であったのだろうな」

「ええ、良い医師で、良い軍人で、私にとっては優しい兄達でした。ただ、先見の明はなかったようです、あるいは」

 

 あるいは、ラインハルト陣営の勝利を予測したかも知れない。しかし、兄達はおそらくは古い柵に縛られて、ラインハルト陣営に付くことは出来なかった。後日、自分が伯爵家の籍にはいないことになっていると知り、男はそう思ったのである。

 

「生きていれば必ず希望があるなどとは思いません。死ぬよりも辛い苦しみという物が世の中には多くあって、医者としてそういう人間も多く見て来ました。でも」

 

 男は手元の古い本に視線を落とした。

 

「死んだ人間は帰って来ません。死んでしまえば、その人物の何もかもは終わりです。喜びも苦しみも悲しみも、そして未来も」

 

 古びた本の間には写真が挟まっていて、その印画紙には、愛らしい少年と、少年とどことなく顔立ちの似た三人の青年達の笑顔が焼き付いている。

 

 

 ラインハルトは男との会話を終えて、部屋を後にした。館を辞そうとしていた時、アンネローゼが彼を呼び止めた。

 

「ラインハルト、少し話があるの」

 

 ラインハルトは、いよいよ悪戯を見つかった子供のような顔をして、アンネローゼの方を振り返った。

 

 

 

 その翌日。出兵準備に向けて元帥府で執務をする合間に、ラインハルトはルッツ大将を呼び出した。呼び出されたルッツは何事だろうかと訝しみながら、元帥の執務室に馳せ参じた。呼び出したラインハルトの方も、まるで他人事のような顔をしてルッツを見たので、ますますルッツは違和感を覚えた。

 ラインハルトはアンネローゼに頼まれて、とある伝言をルッツ宛に預かっていた。

 

 姉からの頼みだったので直接伝えようとしたのであるが、そうまでせずとも、シュトライトかリュッケに伝言を頼めば良かったという事に、ラインハルトは最後まで気付かなかった。

 

 その数分後、スキップでも踏みそうなほど浮かれた様子でルッツが元帥執務室から出て行き、ラインハルトは、そんなに気にいったハンカチだったのか、と独言した。

 首席副官シュトライトと次席副官リュッケの二人はラインハルトの言葉を耳にしていたが、シュトライトの方は眉ひとつ動かす事もなく泰然と、リュッケはラインハルトの方を一瞬見るに留まり、結局二人は特に何も指摘せず執務に専念し続けた。

 

 

 数日後、首都星オーディンの宇宙港。

 この日は、キルヒアイスの治療に当たっていたフェザーン人の医療チームがフェザーンへ帰る日で、フェザーン行きの出発時刻までは、まだ随分と時間があった。

 元主治医は、見送りに来ていた若い軍医と子供と三人で食事をしていたし、他のスタッフもラウンジや喫茶、ショップなどで各々自由に過ごしている。

 黒髪の若い看護婦は藤色の私服に身を包み、空港内の帝国風喫茶で、ケーキセットを同僚の女性スタッフ達と共に楽しんでいた。

 とは言え、シュヴェーリンでの数か月で、最高の腕を持つ料理人とアンネローゼ達が最高の食材を使い、手間暇惜しまず作った菓子類に、彼女達は慣れ親しんでいた。

 彼女達の理性は、値段相応の味とサービスであると認識していて、それについて不満はなかった。一方、彼女達の舌は、シュヴェーリンで食べた菓子の美味をまだ鮮明に記憶しており、このケーキセットでは完全に味覚を満足させるまでには至らなかった。

 また、軍服姿の人物にはやたらサービスが丁寧なのに、そうではない人物は蔑ろになっている傾向があること、従業員を客前で平気で怒鳴るなど殊更雇用者への扱いが悪いことなどが、フェザーンで生まれ育ち、館での待遇を経た彼女達にはどうしても目に付いてしまうのだった。

 フェザーンでは払った金額が同じならサービスは平等であるし、グリューネワルト伯爵夫人やキルヒアイス夫人なら、あんなことはなさらないのに、と。

 

 彼女達が、アンネローゼやキルヒアイス夫人、それに館で振る舞われた菓子について思い出話に花を咲かせている中、黒髪の看護婦はバッグの中に入れている包みを眺めている。

 包みの中には、先年ルッツから借りたままのハンカチがクリーニングされて入っている。

 

 あれ以来、ハンカチを返す機会を彼女は窺っていたが、ルッツが館を再び来訪することはなかった。

 彼女は、警備兵、それにキルヒアイス夫人とアンネローゼに、連絡先を知らないか打診してみたものの、前者は階級差と所属の違いから、後者はキルヒアイスの部下について詳細までは把握しておらず、どちらも空振りに終わった。もっとも連絡先が分かった所で、館から外への連絡は厳しく制限されており、一看護婦に過ぎない彼女は何の連絡も取れなかっただろう。

 手紙を添えて館に置いていくか、館に残る人間に言伝てて預ける事も考えたが、何故かそうしたくない気がして、彼女はハンカチをここまで持って来てしまったのだった。

 

 その時、バン、とガラスを叩くような音がして、店内の会話が止まった。黒髪の看護婦が顔を上げると、ガラスの向こうに、淡い麦藁色の髪をした男がいる。私服姿のルッツであった。黒髪の看護婦が慌ただしく立ち上がって喫茶店を出た。

 宙港のロビーで彼と彼女は包みを渡し渡され、紙きれを交換し合い、半時間ほど何かを語らって、黒髪の看護婦は搭乗口へ、ルッツはそれを見送って宇宙港の建物を出た。遠巻きに様子を見守っていた同僚達に何があったか質問責めに合う彼女は耳まで朱に染まっていたし、ルッツはその日一日、普段青い瞳が血の色を透かして藤色になったままだった。

 

 

 

 二月は毎週のように来ていたラインハルトだったが、三月に入ってガイエスブルグ要塞のワープ実験が大詰めを迎えたことや、三月十七日以降は実験の成功を受けてイゼルローン攻略作戦が実行に移された事で多忙を極め、ぱったりと足が途絶えた。

 キルヒアイスは、ラインハルトが来ていない事を感じ取っているのか、時折何かを探すように、彼のサファイア色の瞳が病室の中をきょろきょろと見回している。

 自分の近くに人がいると、時々問いかける様に声を上げていることもあり、アンネローゼは宥める様にしてその赤い頭を撫ぜることもあった。

 

 

 二月が慌ただしく過ぎ去り、三月が大過なく通り過ぎ、四月に入った。シュヴェーリンの湖畔は明るい緑の葉に覆われ、湖の氷は解けて、春の暖かい日差しを受けて水面が煌めく様になった。

 

 シュヴェーリンの景色が本格的な春の装いを見せ始めた頃、キルヒアイスは集中治療用の特殊なベッドから、ごく普通の病人用ベッドに移った。このベッドにも、患者の命を長らえさせるためのチューブや機器を通す穴が開いていたが、最初の集中治療用ベッドに比べれば、普通のベッドの外見をしていた。

 呼吸補助機器がほぼ外れたキルヒアイスは、相変わらず体の方は動かせないものの、何とか言葉を口に出来るまでに回復を見せた。それ自体は回復への大きな一歩であったが、同時にそれによって辛い事実も判明した。

 

 キルヒアイスは世界を正しく認識出来なくなっていた。

 自分に触れたり、話し掛けている人物が誰かは分かるが、その人物の顔や外見が抽象画の様に見え、彼らの名前が錯綜する。簡単な計算式をすれば、答えはちゃんと暗算出来ているはずなのに、口から出るのはいつも同じ数字ばかり。言いたい言葉と実際に言う言葉が違う。何よりキルヒアイスは、それがおかしい事も、自分の意志と行動が一致しない事にも、全く違和感を抱いていないのであった。

 

 これには、キルヒアイスの回復に希望を抱いていた、アンネローゼやキルヒアイスの両親、何よりラインハルトもショックを隠し切れず、新しい主治医と後事を託された若い軍医は、キルヒアイスの状態を見るのと並行して、彼らの精神にも気を配る必要があった。

 

「動物療法?」

「そうです、患者に動物が寄り添う事で、気持ちを安らげ、混乱を抑えるのです。キルヒアイス提督や皆様は動物がお嫌いでしょうか?」

 

 アンネローゼは首を振った。キルヒアイスの母であるキルヒアイス夫人も同様である。主治医は動物と患者を触れ合わせる事のメリットを一通り説いた後、キルヒアイスが本格的に動けるようになるまでに、子犬や子猫を育ててみてはどうかと提案した。無論生き物相手であるから、途中で放り棄てるような事があってはならならず、キルヒアイス達と動物の相性がいいとも限らない。あくまで選択肢の一つとしてお考え下さい、と念押しした。

 

「今、この館にも馬や犬はいますが、あの子達には警備の仕事がありますから、無理をさせるのもいけない。キルヒアイス提督が移動できるようになれば、触れに行けますが」

 

 それに馬は賢いし可愛いが、病室に入れると狭くてしょうがない、と続けた。それは医師なりの冗談であったのだが、残念ながら盛大に滑った。

 

 アンネローゼとキルヒアイス夫人は、医師から提示された選択肢について使用人の意見も伺いつつ、散々話し合った。そうして、四月中旬頃、内務省管轄の動物管理センターで殺処分の順番を待っていた仔犬一匹と仔猫一匹が、館に迎え入れられることとなる。

 

 

 

 帝国本土にいる人々が、季節的にも政治的にも春を満喫していた頃、イゼルローン回廊では、規模的な意味で、未だかつてないイゼルローン攻略戦が始まろうとしていた。

 

 四月十日。ガイエスブルグ要塞がイゼルローン回廊に出現。同日、超光速通信によって同盟の首都星ハイネセンにその一報が齎され、折悪く国防委員会に呼び出されていたヤン・ウェンリー大将が急ぎイゼルローンへの帰途に就いた。

 

 翌十一日、イゼルローン要塞の金属のドレスが、ガイエスブルグ要塞の主砲、禿鷹の鉤爪によって無残にも引き裂かれた。

 

 四月十四日から十五日までに、帝国軍はいくつかの手を打っていたが、それはほぼ成功しながらも、それによってイゼルローンを制圧するまでには至っていなかった。

 要塞主砲の打ち合いに始まったこの戦いは、イゼルローンの特性を利用して、外壁に穴を開け、装甲擲弾兵を突入させたものの、占領作戦はあと少しの所で失敗。

 無人艦をメインポートに突入させ、同盟側艦隊の行動を封殺する、ミュラーの試みも行われた。その作戦はメインポートの機能をいくらかそぎ落としたが、全て艦艇を封じるまでには至らなかった。結果、無事な部分から出撃して来た同盟艦隊と戦闘状態に入り、ミュラーは敵艦隊と要塞の間に包囲の網が編まれつつあるのを察知して、一時撤退を余儀なくされた。

 

 ミュラー艦隊所属の軍医から、ヤン・ウェンリーがイゼルローン要塞にいない、との複数の捕虜の発言について報告が齎されたのは、ケンプとミュラーが通信を介して協議中の時であった。

 二人にとってこの報告は、ラインハルトが提示したある案を早期に実行することへの、心理的後押しになった。

 

 

 その案については、ガイエスブルグ要塞が初めてのワープに成功した日まで遡る。去る三月十七日、ラインハルトは、ワープ実験に成功したガイエスブルグ要塞を訪れた後、ケンプとミュラー両大将を呼び、改めて今回の作戦目的について述べた。

 曰く、この作戦はイゼルローン要塞を無力化する事にあり、イゼルローン要塞が占拠出来ればそれに越したことはないが、場合によってはガイエスブルグ要塞そのものをぶつけてしまって、イゼルローン要塞を壊しても構わないと言い放ったのである。唖然とする二人に向かって、

 

「少々懐が痛むが、まあ仕方がない」

 

 ラインハルトはやれやれといった風情で言った。

 あれはもしかして主君なりの冗談だったのだろうか、と二人は衝撃から立ち直った随分後になって思った。

 ただ、この時点での二人は何のリアクションも出来ないまま、ラインハルトの言葉を待っているに過ぎない。

 

 ラインハルトにしてみれば、無事でないキルヒアイスが己の愚かしさを突き付け続ける存在であるように、ガイエスブルグ要塞は過去の自分の愚かさを思い出させる場所となっていた。ガイエスブルグ要塞を久方ぶりに訪れて、祝勝会場に残ったキルヒアイスの血痕を見た事で、ラインハルトはこの要塞への忌避感を一層強めた。

 

 ひどく忌まわしいこの場所を、出来れば有効活用しつつ葬り去ってしまおう、それがこの作戦案の根底に流れているラインハルトの思考であった。

 質量で以てイゼルローン要塞を破壊せしめるのであれば、その質量がガイエスブルグ要塞である必然性はなく、他の作戦や道具でも事足りるかもしれない。

 しかし、このアイデアは、まずガイエスブルグ要塞の存在を消す事が最重要であって、イゼルローン要塞にぶつけるのは、その行為を有効活用するための後付けに過ぎない。

 まだラインハルトが十歳の時、喧嘩で洋服に付着した血を誤魔化す為、ひいては姉に喧嘩の事を気付かれて心配を掛ける事のないよう、キルヒアイスと共に噴水に飛び込んだ事があった。心配されるより、馬鹿をやったと叱られる方がずっと良いと思っていたからである。

 この作戦案を口にした時のラインハルトは、この一件と正に同じ思考経路を辿っていたのだが、ケンプやミュラーがそれを知ることはない。

 またガイエスブルグ要塞への感情の他に、ラインハルトには別の考えもあった。

 

「要塞が壊れても、必要になればまた作ればよい。しかし卿ら将兵達はそういう訳にはいかぬ。卿らのような有能な将は得難い。死んだ者達は帰って来ない。作戦の成功と死ぬ兵の数を減らすのに、要塞一つで済むなら安い物だ」

 

 ケンプは、雷に打たれた様に感激に震えた。ミュラーは作戦案を告げられた時の衝撃からやや回復し、ラインハルトの気遣わしげな笑顔を見た。彼はケンプと違い、感激に震えるという事はなく、むしろラインハルトに対して不思議な感覚を覚えていた。それは、彼が目の前の黄金の覇者に抱いていた、熱狂的な崇拝に新たな彩りを与えることになる。

 こうして、イゼルローン要塞に、ガイエスブルグ要塞を文字通りぶつける案は、作戦に正式に織り込まれ、後詰めとしてアイゼナッハ艦隊の出撃も決まった。これは新しくラインハルト旗下に加わった人物という事で選ばれた。

 新参という意味ではレンネンカンプもそうであった。もし、ラインハルトが正面決戦で決着をつけるつもりであれば、レンネンカンプという選択肢もあった。一方アイゼナッハは攪乱や陽動などにおいて傑出した手腕を誇っている。これは、この天才か狂人しか考えない作戦の、成功率を上げるための配置であった。

 

 

 

 二人の将帥はそれらのことを思い返した。最初に口を開いたのはミュラーであった。

 

「あのヤン・ウェンリーが、このような時期に最前線を離れているという状況は俄かに信じがたくはあります。しかし、捕虜が意識不明の重傷者ばかりとは言え、複数人がそれを口にしたというのも見過ごせません。あるいはそれがヤン・ウェンリーの策である可能性も否定できませんが」

「……アイゼナッハ艦隊の到着を待って、B案へ移行する。ヤン・ウェンリーが要塞にいるなら、何がしかの行動に出るであろうし、いないのであれば」

 

 ケンプは武人の矜持として、本当であれば、堂々たる正面決戦によってこの作戦にケリをつけたかった。しかし、ラインハルトから目的と最終手段が明示されている以上、それを無視するような事を忠義を良しとする彼がするはずもない。

 ラインハルトから裁可は出ているのだ。そうであれば、取れる手段は有効に使うべきであろう。最終的にケンプとミュラーの気持ちはその辺りで落ち着いた。

 

 アイゼナッハ艦隊は、四月十七日にイゼルローン回廊に来援した。

 帝国軍は、艦隊による総攻撃の準備、を擬態しつつ、ガイエスブルグ要塞を運用するための最低限の人員と物資を残して、将兵と物資の退避を進めた。寡黙なアイゼナッハの手腕によって、予測よりも早くそれは終わった。

 同時刻、同盟側の方も艦隊の動きから総攻撃が来る事を予測し、万が一を考えて民間人を脱出させ始めていた。既に先日の戦闘によって、イゼルローン要塞が絶対に安全とは言い切れないどころか、居る方が却って危険になりつつあったからである。

 

 翌十八日には、ガイエスブルグ要塞がイゼルローン要塞に向けて全力で死への飛翔を始めた。それにミュラー艦隊らが付き従い、禿鷲の行進を邪魔する者を悉く薙ぎ払う。先日滅茶苦茶にされたイゼルローン要塞のメインポートの修復は、完全には済んでおらず、一度に出撃できる艦艇数に限りがあった事も、帝国軍にとって有利に働いた。

 ガイエスブルグ要塞とイゼルローンの距離が、ある一定を切った所で、ガイエスブルグ要塞は自動航行に切り替わり、内部に残っていたケンプや航行士官らの将兵も、整然と脱出用シャトルなどに分乗し、要塞を離脱した。ミュラー艦隊らも後退を始めた。

 この距離を切れば、トール・ハンマーを撃ってガイエスブルグ要塞を粉砕しようが、要塞の推進エンジンを止めてしまおうが、どう足掻いてもイゼルローン要塞は巻き添えになるのである。

 人々を載せた艦船は、国や艦種の別なく、少しでも二つの要塞から離れようと、全速力を出している。

 

 人々の目の前で、イゼルローン回廊に花火が上がった。まず、オレンジや赤をした無数の小さな光が二つの人工天体の表面を飾った。やがて数分後、大きく白い花火が、時間差で二つ輝いた。その花火はあまりに明る過ぎて、画面越しとは言え、誰もそれを直視出来た人間はいなかった。

 

 こうして、ヤンの帰投を待つことなく、禿鷲と虚空の女王は、無理心中を遂げさせられた。瀕死の女王の手から回廊の制宙権は滑り落ち、三十二年に渡った女王の支配は幕を閉じる。三十二年の内、同盟が女王を頂いてイゼルローン回廊を支配したのは、二年にも満たない僅かな期間であった。

 イゼルローン要塞の民間人や将兵の何割かは要塞から辛くも脱出出来たものの、急であった事やポートのいくつかが損壊していて使えなくなったため、脱出に際し幾つかの悲劇が発生した。イゼルローン崩壊までにあった戦闘を含め、命を落とした同盟の将兵及び民間人の数は決して少なくはなかった。

 

 それは宇宙歴七九八年、帝国歴四八九年の四月十九日、ヤンがハイネセンを出立してから一週間と少しの事であった。

 

 

 

 帝国がこの勝利に沸き返る一方、同盟では、この時期に司令官を最前線から呼び出した国防委員会について、責任を追及する声が高まり、それは被害状況が詳細になるにつれて、一層大きく、激烈になっていた。

 国防委員長ネグロポンティは、マスコミによって過去を根掘り葉掘り穿り返され、何もかもが彼を叩く材料になった。イゼルローン失陥の遠因となった、ヤン呼び出しの一件について責任を取るということで、ネグロポンティは敗戦の三日後に辞意を表明した。

 その同日夜、トリューニヒト最高評議会議長は会見を開いた。

 トリューニヒトは会見の場に殊勝な面持ちでやって来て、今回の一件は、彼の資質を見誤り国防委員長に任命してしまった自分の不見識によるものである、そう述べて深々とカメラの前で頭を下げた。そして、彼を任命した責任を取って議長を辞任すると発表したのである。

 これに伴い、トリューニヒト政権は総辞職。最高評議会によって、新たな議長の選出が行われた。

 この選出の際し、最有力であったのはジョアン・レベロ議員であった。彼の他には、ホワン・ルイ議員らの名前も挙がった。しかし、ホワン・ルイは、トリューニヒト前議長と元々同じ派閥の出身であり、レベロら他の候補者と比較してトリューニヒトにより近い政治家と見られたことから、選出レースから早々に消えた。レベロとホワン以外の人物は、実績の点でこの二人に見劣りがした。

 その結果、至極順当に、ジョアン・レベロが新しい議長に選出される運びとなった。

 

 

 惑星フェザーンの中心街。

 黒髪の看護婦は帝国のニュースを伝える電子新聞を読みながら、同盟の政情を解説している立体TVの報道番組を聞き流していた。愛しい人が今回の出兵に関係しているかを確かめるためだ。と同時に、今回の死者の数に思わず息をのむ。それはかつてその戦場のただなかにいた、リップシュタット戦役を彼女に思い出させる。同じサルガッソ・スペースの狭い抜け道である、フェザーンとイゼルローンで、世界は何と違うのだろうと、そんな漠然とした思いが彼女の脳裏をかすめた。

 

「クララ!宇宙港での事故で急患三人、十分後にくるぞ」

「あっ、はい!」

 

 医師に呼ばれ、クララは新聞を置いて急患の搬入口へと走り出す。新聞をゆっくり読む暇は、今夜の彼女にはなさそうであった。

 

 

 

 帝国と同盟の争いも、帝国と同盟、それにフェザーンの内部においても、大なり小なり勢力図が塗り替わっていった。それはこの季節の嵐の様に、急速かつ強烈な変化をこの銀河に齎そうとしている。

 

 時に宇宙歴七九八年、帝国歴四八九年の四月は、こうして終わりを告げた。

 


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