死に損ねた男   作:マスキングテープ

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第5話 ようやく甦った男

 帝国歴四八九年一月下旬。ガイエスブルグ要塞によるイゼルローン攻略作戦が発令された。ケンプ、ミュラー両大将率いる艦隊は、それに先立つガイエスブルグ要塞の移動実験のため、首都星オーディンを出立した。

 これを知るのはケンプやミュラーなどこの作戦の司令部、それに帝国軍の首脳陣など、ごく一握りに過ぎない。それ以外の士官や末端の将兵達へは、これは軍事演習であるとの説明が現時点でなされていた。

 帝国と同盟が内乱に明け暮れてから数か月が経過した。この銀河を舞台に、再び戦乱の幕が開こうとしていた。しかし、それを知るのはまだごく一部に過ぎず、ラインハルトの政策が民心をいくらか和らげたこともあって、この時期の帝国は概ね平和であった。

 

 シュヴェーリンで館の管理者として過ごすアンネローゼも、帝国の安寧を享受している大多数の一人であった。もっとも彼女は、大多数の帝国民と違い、近い将来に弟ラインハルトが銀河に戦争の嵐を起こすことになるだろう、という予感は持っていた。それが具体的にいつでどういう方法までかは分からなかったが。

 アンネローゼは、弟ラインハルトから、政治や軍事の話は一切聞かされたことがない。ラインハルトが政治に進出したのはつい最近のことであるからまだしも、軍事の方ですら、先の戦功によって昇進したとか、出兵で暫く訪れる事が出来ないとか、そういう事が中心であって、それもリップシュタット戦役が始まるまでの話であった。それは、姉を争い事から遠ざけたい、弟なりの優しさであった。

 であるからして、アンネローゼは弟が為している帝国の政治や軍事について、マスメディア若しくは友人達が伝える事以上の情報を知らない。知らない以上、彼女は自分の予感に具体像を与える事もかなわず、それはただ漠然した危惧に留まっている。

 

 アンネローゼは、いつもの様にキルヒアイスとの面会を終えて、館の使用人達にいくつか言い含めた後、自室に戻った。キルヒアイスの母親もこの日は不在であったため、彼女は一人静かに、自分宛ての手紙を確認する作業に没頭した。まず開いたのは、ヴェストパーレ男爵夫人マグダレーナからの手紙であった。

 アンネローゼ宛の手紙や贈り物は、オーディンにあるシュワルツェンの館にまず届き、中身が色々な意味で安全な物か確認された後、館への補給便と一緒にシュヴェーリンの館へと運ばれてくるようになっていた。この確認作業と輸送方法のため、アンネローゼへの手紙や荷物は、通常の配送日数に加え、最短で一日以上タイミングが悪ければ一週間以上遅れるのが常であった。

 その様な事情を見越してか、マグダレーナから届く手紙はいつも、季節の話題や彼女の日常など概ね差し障りのない内容に終始している。今回の手紙では、彼女お気に入りの靴職人が、つい最近帝都を離れフェザーンに行ってしまった事をしきりに嘆いていた。彼が若くハンサムであったことと、彼女が求める活動的に動くための靴、機能性と貴婦人らしい優雅なデザイン。その二点を高度に両立出来る腕とセンスを持つのが、帝都中にも彼しかいないからだ。靴の製作を別の職人に任せたものの、マグダレーナは満足には至っていないようで、フェザーンにある彼の店へ靴を注文しようかしらなどと締めくくっていた。そういう瑣事を書いていてすら、マグダレーナの手紙はいつも楽しく、凛とした知性と気品をうかがわせる。

 また、今回の手紙に限って言えば、キルヒアイスの誕生日を祝うメッセージカードも同封されていたが、当日に届くとは全く考えていなかったらしい。カードには、『もしかしたら、もう過ぎてしまったかしら?』の一言が添えてあり、それらはアンネローゼの苦笑を誘った。

 

 次にアンネローゼは、シャフハウゼン子爵夫人ドロテーアの手紙を開いた。ドロテーアの字は、穏やかな性格が滲み出たゆったりとした筆跡である。夫との馴れ初めなどもあり、植物や気候など自然科学に対する見識に富む彼女は、その独特の視点と優しい筆致で、日々の自然の移り変わりを豊かに書き連ねている。アンネローゼはその文を見るだけで心が安らぐような気がしたが、後に続いた近況報告に、微かにその美貌を曇らせた。

 つい最近、シャフハウゼン子爵家に長年仕えていた使用人夫婦が、高齢のため引退を決意した。すると、どこからそれを聞きつけたのか、あらゆる繋がりと手段によって、使用人の新採用について、千に届く勢いで人材の自薦他薦の書簡や伝言が舞い込んだという。その多くは滅亡した門閥貴族に仕えていた者達であったが、中には新無憂宮において、皇帝の側に仕えていた輝かしい経歴の人間も少なからずいるという。

 彼らの引退前に、後継者を探して引継ぎをさせようと考えていた矢先の事であって、これにはドロテーア達も驚いたという。中には直接、シャフハウゼン子爵家に来る人間もいた。候補者の書類選考、調査、選別、実際の面接まで、家中の者総出で、新規雇用の一件に追われたとあった。そのせいであろうか、気候や植物について語っていた時とは違い、若干ドロテーアの筆致にも疲れが見える。結局新しく二人、その後数人を追加採用をして、今は引継ぎの最中だという。

 マグダレーナやドロテーアからの手紙を通じて、ラインハルトによって新無憂宮の大部分が閉鎖され、多くの侍従や女官などが老人を残して解雇された、という話を、アンネローゼは知っていた。マグダレーナもドロテーアもそのようにハッキリ書いていた訳ではなかったが、彼女達の日常話にはさり気なく宮廷や街の様子が含まれており、アンネローゼは断片的な情報を継ぎ合せることで、概ねその実態を把握していた。それが世間でどの様に言われているかも。

 

 老人を解雇しなかったのは、最早この生き方しかできなくなった年寄りへの、ラインハルトの優しさもあるのだろう、とアンネローゼは推測していた。しかし、若者や働き盛りの人物にまで、ラインハルトの想像力と優しさは及んでいない、という事も、彼女には理解出来てしまった。

 二十代までの若者なら、学び直すなどして新たな道を切り開くことも出来るだろう。しかし、三十を過ぎた辺りから、新たな道を選ぶことが格段に難しくなる。社会階層が極度に固定化された帝国においてはなおさらその傾向が強く、それを跳ね返せるのは飛び抜けて優秀な人材だけだ。今回の閉鎖で首になった人員の中で、料理人や庭師など、特殊技能を以て宮廷に仕えていた職員の割合は、そう多くない。

 ラインハルトの想像した通り、今の帝国には仕事がない訳ではなかったが、それはラインハルトのばら撒き政策における公共工事の増加や消費活動の増大による物だ。募集職の大半が、工事現場作業員やサービス業の非正規雇用が大半を占めている。確かに働けば金になるが、それは彼らの実務能力の向上にも、経歴の箔にもならなかった。

 この帝国において、門閥貴族とは、一種の大企業でもあった。彼らの事業や消費活動とまったく繋がりのない企業など、この帝国には数えるほどしかない。従って、門閥貴族が軒並み戦乱で駆逐された後、彼らと繋がっていた企業もまた淘汰された。門閥貴族との縁が薄く、この機に乗じてのし上がった民間企業がない訳でもなかったが、彼らの規模だけでは、門閥貴族の滅亡で開けた、生産消費や流通、何より雇用面での大穴をカバーするまでに至っていない。

 

 それまでの宮廷での経験を考えれば、新無憂宮の元職員達は、貴族や政府高官の上級使用人に収まるのが一番妥当であった。

 しかし、使用人達の最大雇用者であった門閥貴族は、先の内戦で殆どが滅びた。門閥貴族に変わって、現在の帝国で権勢をふるっているのは職業軍人達であったが、今は平民や下級貴族出身者が多数派を占めている。彼ら多数派は門閥貴族当人はもとより、その贅沢な生活様式や文化を軽蔑する風潮があった。従って、高級軍人達は、使用人の新たな雇用主とはならなかった。

 かつて門閥貴族達に仕えていた人々も、主家の滅亡で職を探しており、今や彼らの就職に関しては、完全な買い手市場である。リップシュタット戦役で滅亡した門閥貴族。彼らに仕えていた経歴は、今や帝国では烙印となりつつあり、元使用人達はその賃金や待遇を極限まで買い叩かれている。新無憂宮を放逐された人員は、彼らと違い嫌われていた訳ではなかったが、そのような理由で安価に使い倒される人材と雇用枠を巡って戦わねばならないのだった。

 こうして、たった数人の雇用枠にその百倍以上の人員が殺到する、シャフハウゼン子爵家の喜劇は生まれたのである。

 

 アンネローゼは、桃色の唇から小さく溜息を吐いた。

 ラインハルトは決して変わった訳ではない、おそらく今でも優しいのだ。ただ、どの様な感情もそうであるように、それは言葉や行動に繋がらなければ、目に見える形で示さねば、周囲には伝わらないし、ないも同然である。

 今、ラインハルトの側には、彼の不器用な優しさを汲み取り上手に提示出来る、そのような人物がいない。それはキルヒアイスが担っていた役割の中で、最大の物であった。そう彼女は考えている。

 

 アンネローゼは思考の海から浮上し、ふと窓の外を見た。外では音もなく、白い雪が降り続いていた。冷たく美しい雪の下に、全ての色と物が覆い隠されている。

 どこまでも続きそうな雪景色は、母が事故で死んだ日の事を彼女に思い出させた。

 

 クラリベルが死ななければ、セバスティアンは酒に溺れる事もなかっただろう。クラリベルが死んで、セバスティアンの不器用さをフォローしていた人間はいなくなり、急激にミューゼル家の事業は傾いた。それでも、犯人が捕まって裁きを受ければ彼はいくらか救われ、立ち直れたかもしれない。だが、犯人は門閥貴族に繋がる人間だったらしく、犯人が罪に問われる事も、それが誰だったのかも公表されなかった。セバスティアンはこの帝国の腐敗に怒り、絶望した。しかし、セバスティアンには、その旧弊をどうにか出来るほどの才覚や力がある訳ではなかった。

 自分の無為から目を逸らすために酒に溺れたのだと、アンネローゼは今なら理解出来る。それは、アンネローゼの実質上の夫であった故フリードリヒ四世、彼と同じ様子であったからだ。

 皇帝の地位にあった老人もまた、帝国の現実を見抜いていたが、それを是正する能力はなく、諦観の内に政治から遠ざかり、酒と薔薇と女に耽溺したのである。

 

 自分の娘を皇帝に売りとばしたセバスティアンを、ラインハルトは己の父親だと思いたくないほどに嫌っていたが、その本質は驚くほど似通っている。彼らに違う所があるとすれば、才能があったか、その才能を生かすための地位や力を手に入れる手段があったかどうか、ただそれだけに過ぎない。アンネローゼは、弟ラインハルトにそれを言った事はないが、ずっとそう思い続けている。

 

 

 

 

 

 一月下旬も半ばを過ぎた頃、ラインハルトは、首席秘書官ヒルダと、新たに副官となったシュトライト少将、加えて護衛として親衛隊長キスリング准将らを伴い、シュヴェーリンの館を訪れた。

 館に至る長い移動時間。その時間を無意味に過ごす事を、ラインハルトは好まなかった。ヒルダやシュトライトから書類を受け取り、それに目を通すラインハルトの存在は、地上車を臨時の元帥府や宰相府としてしまった。

 

 ラインハルトは、持ち込まれた書類や資料全てに目を通してしまい、暇を持て余し始めた。今この場で指示や判断が出来る事柄については、適宜ヒルダやシュトライトに伝えたし、二人の意見も一通り聞いてしまった。暫し悩んだ後、景色などに注意を払わなかった事を思い出して、ラインハルトはシュヴェーリンまでの景色を眺め始めた。

 白い景色の中に、凍った湖のブルー、その更に向こうに見える濃青色は海である。それを彩る常緑樹の緑も、今は暗い緑をしている。どこまでも寒々しい景色の中で、シュヴェーリンの館から漏れる微かな光が、その景色に温かみを加えている。その明かりに近付くにつれ、ラインハルトの白皙の顔に仄かな赤みが差すのを、同乗する誰もが気付かずにはいられなかった。

 

 

 地上車から降りたヒルダは、初めて見るシュヴェーリンの館を見上げた。彼女の翠玉色の瞳はせわしなく館を観察しているが、それは館の美しさや建築方式への関心からではなく、館の住人であるジークフリード・キルヒアイスへの逸るような興味からであった。

 ヒルダがあらかた館を観察し終え、ふと横を見ると、シュトライトが懐かしそうに館を見つめていた。彼の瞳には、悲しげにも優しげにも見える感情が揺らめいている。ヒルダが、シュトライトがブラウンシュバイク家の旧家臣であり、この館がブラウンシュバイク家の別荘であったことを思い出すまでに、そう時間はかからなかった。

 

「ここはブラウンシュバイク家の別荘であったな。もしかして卿もここへ来たことがあるのか」

 

 ラインハルトはシュトライトに話し掛けた。シュトライトは穏やかな笑みを浮かべ、その問いに答える。

 

「はい、閣下。まだ小官が士官学校に入学する前の話になりますが。皆、先代のブラウンシュバイク公や大奥様には随分と良くして頂きました」

「そうか」

 

 シュトライトの答えを聞いても、ラインハルトは少しも不愉快そうではない事が、ヒルダには不思議であった。ラインハルトにしてみれば、アンスバッハやシュトライトのような有能で忠義溢れる人物を家臣に加えておきながら、ブラウンシュバイク公が無駄にしていた事の方が気に食わなかったのである。ラインハルトが知っている方のブラウンシュバイク公が彼らを見出したのではなく、先代の有形無形の遺産を食い潰したのだとすれば、そのアンビバレンツに辻褄が合う。ラインハルトは疑問の答えを知れて喜んだ。

 ラインハルトは一人得心したように微笑み、素早く歩を進めて屋敷の中へと入って行った。玄関ホールでは、アンネローゼと使用人達が、彼らを出迎えるために立っている。

 

 

 結局この日、ヒルダは胸の内に秘めた決意を果たせぬままに終わる。

 まずラインハルトは、主治医達と話をする間、ヒルダ達に待機するように言い含め、キスリングは部屋のすぐ外で待機し、ヒルダとシュトライトらは別室へ案内された。

 更に三十分後、話が長引きそうなので、先に食事をするようにラインハルトから伝言があり、キスリングを除く全員が来賓用の食堂へ案内され、そこで軽い食事を振る舞われた。

 ラインハルトの随行者達が食事を終えた後、ようやくラインハルトが彼らの前に姿を現した。ラインハルトは、行きの車内である程度裁可した事案について、宰相府や元帥府へ持ち帰るように言い渡し、シュトライトとヒルダが明日休暇であることを再確認した。それはつまり、シュトライトやヒルダ達を、シュヴェーリンから帰すという判断であった。

 もし、ラインハルトが随行したのがシュトライトだけであれば、このような判断はなかったであろう。それは、未婚のうら若き女性に対するラインハルトなりの気遣いであった。気遣いではあるのだが、それがヒルダの望みを阻害するものであるとは、ラインハルトは思い至っていない。

 

「これ以上こちらにいると、卿らが帰り着く頃には夜も更けてしまおう」 

 

 そう申し訳なさそうにラインハルトに言われては、ヒルダはこの館に残る事を主張する訳にもいかなかった。まずはシュトライトが、続いてヒルダもラインハルトの命を承諾する。結局、約二時間ほどの滞在で、ヒルダ達は館を辞することになった。なお、親衛隊長キスリングのみは、警護のためこの場に留まる事になっている。

 

 ヒルダ達が客間から出て来た時、ちょうど彼らの視界を、キルヒアイスの主治医達が通り過ぎた。ヒルダは、主治医の端正な顔立ちにどこか見覚えがある気がして、彼が視界から消えるまで、目だけで彼の姿を追った。

 

 

 ラインハルトは、随員達が館を辞した後、キルヒアイスとの面会に向かった。

 キルヒアイスが倒れた直後に比べれば、面会時間がささやかながらも延びた。他にも、動作の指示をする、という新たな話し掛け要素が、主治医達から提示され、キルヒアイスが回復しつつある事をラインハルトに感じさせた。

 しかし一方で、意識不明のまま四ヶ月以上が経過しており、動けないキルヒアイスの体からは筋肉が恐ろしい勢いで衰えていた。医療機器や外部刺激によって、衰弱の進行速度を遅らせてはいるが、あくまで補助的な物に過ぎない。この四ヶ月で、キルヒアイスの体重は二十キロ以上落ちた。

 ラインハルトは、主治医からの報告書により、数字としてはその事を知っていたが、こうしてキルヒアイスと直接対面し、手や腕に触れれば、如何にそれが恐ろしい事であるかを実感した。今や、キルヒアイスは、全盛期の体つきなど見る影もなく、触れた部分は骨と皮ばかりである。

 

「キルヒアイス、俺の所為で、すまない、すまない」

 

 ラインハルトは、医師から受けた予後についての説明を思い出し、キルヒアイスに謝り続けた。キルヒアイスの人生には、これから後遺症が大きな影を落とす。キルヒアイスの輝かしい未来。その可能性を一部奪った、ラインハルトにはキルヒアイスに対して、強烈な負い目があった。

 キルヒアイスは何も語れずとも、生きていてしかも無事でない事それ自体が、ラインハルトに己の愚かさを突き付け続けるのである。キルヒアイスが死んでいれば、ラインハルトは自分に必要な部分だけを切り取り、キルヒアイスの存在を、美しい思い出として昇華出来ただろう。しかし、キルヒアイスは生きていて、ラインハルトにその逃げを許さなかった。

 

「俺はもうお前や姉上を失うのは嫌だ、だからそのためならどんな事でもしよう」

 

 そうやってキルヒアイスに向けるラインハルトの笑顔は、古代宗教画に描かれる天使のような神聖さと美しさがあった。

 その脳裏を、オーベルシュタインの一言がずっと巡り続けていた。現時点で、キルヒアイスの命は、ラインハルトの命運とほぼ直接的に繋がっている。

 キルヒアイスを死なせない為に、ラインハルトは自分に敵対する者すべてを排除し、自身の権力を保持し続ける必要性に駆られていた。

 それと同時に、自死する前のアンスバッハの言葉について思う事もあった。

 キルヒアイスが自分の半身でなければ、アンスバッハはあれほど満足して自死しただろうか。ラインハルトが狙えないと分かった時、キルヒアイスに狙いを変えたのは、キルヒアイスならラインハルトの代わりになるからではないか。キルヒアイスが、ミッターマイヤーやロイエンタール、オーベルシュタインら、諸将と同じ扱いであれば、アンスバッハはキルヒアイスなど無視して、自分を狙い続けたのではないか。

 

「大丈夫だ、キルヒアイス。俺は全部上手くやってみせる。だからお前は何も心配せずに体を治す事に専念しろ」

 

 ラインハルトにとって、今のキルヒアイスは奇妙な立ち位置にいた。己の半身であり、親友であり、家族のような物でああることに変わりはないが、ラインハルトにとって一方的に守る存在にもなってしまったのである。

 ラインハルトとキルヒアイスは、アンネローゼを守る同士であり、戦場では上司と部下であって、どちらかが一方的に守られる関係ではなかったのに。

 

「手術、成功するといいな」

 

 ラインハルトは、すっかり肉付きの薄くなったキルヒアイスの手を握った。キルヒアイスの手は相変わらず、彼が生きているという事実以外、何も伝えては来ない。

 

 

 

 彼女が、自らの既視感の理由に気付いたのは帰りの車中であった。そして、その事に気が付いた時、彼女の脳裏を、ありとあらゆる最悪の状況がよぎった。ヒルダは、恐ろしい想像に顔を強張らせながら、同乗するシュトライトに話し掛けた。

 

「主治医を務めていらっしゃる医師はもしかして、___伯爵家の」

「ええ、フェザーン人女性を母に持つ庶出の方です。兄君達は、先のリップシュタット戦役でそれぞれ戦死か自殺なさっています」

 

 ヒルダが口にしたのは、リップシュタット盟約に参加したある伯爵家の家名であった。ヒルダは主治医本人とは会ったことがなかったが、当主である兄の方は、パーティなどで顔を見たことがあった。それ故の既視感である。

 ルドルフ大帝の頃から、医師や軍人として帝国に奉職して来た家柄で、伯爵家当主であり、主治医にとって長兄に当たる人物は医学者、次兄は軍人、三兄は軍医にそれぞれ就いていた。兄達との繋がりで、彼はリップシュタット連合軍に与するとある貴族の治療を任される事になったのである。

 リップシュタット戦役における最初の武力衝突でまず次兄が戦死、撤退するリッテンハイム候によって三兄が殺され、そして戦役終結間際に長兄が自殺した。

 主治医にとって、ローエングラム公とその臣下は兄達の仇敵ではないのか。

 もし、主治医にその気があれば、キルヒアイスを殺すことなど容易いだろう。キルヒアイスが死んだところで、それが避けられぬ運命だったのか、故意だったのか、判断のしようがない。ラインハルトがわざわざ引き止める位の腕なら、殺意があったとして、その証拠を見つけるのも難しいだろう。

 そこまで考えて、ヒルダの中性的な美貌からさっと血の気が引いた。

 

「ローエングラム公はそれをご存じですの……?」

「はい、おそらくは」

 

 シュトライトが断言しなかったのは、この一件がシュトライトの着任以前に決定された事であって、彼は事後的に得た情報やラインハルトの言動からそのように解釈しただけだからである。

 ヒルダは顔を上げた。進行方向とは逆向きに座っている彼女には、遠ざかり行くシュヴェーリンの館が、自然と目に入る。

 キルヒアイス一人を生き長らえさせる為だけに、貴族連合軍に与していたフェザーン人医師が登用され、治療のためにあの館が用意されたという事実に、ヒルダは幾分批判的であった。

 知識として、帝国の医療水準が極めて低い事を彼女は知っていたが、それだけであの医師に任せて良い物か彼女には疑念があった。

 それは医師個人への不信でもあったし、同時に、キルヒアイスただ一人を助ける為だけに過剰なまでのリソースを割いているのではないか、との疑問でもあった。

 

 この時、ヒルダは、キルヒアイスの状況やその経緯について誤解をしていたのではないかと、後世の研究家から指摘されている。

 少なくともヒルダは、フェザーン人医師達が末端の士官や兵士達に嫌がらせを受けた一件について、確実に知らなかった。また、キルヒアイスについても、彼女の手記や周囲とのやりとりを検証する限り、自身の従弟であるキュンメル男爵ハインリッヒと同じように見ていた可能性が高いと考えられている。

 つまり、キルヒアイスも、ハインリッヒのような寝たきりではあるがきちんと意思表示は出来る状態だと彼女は想定していたのではないか。故にキルヒアイスの現状を甘く見積もり、後にキルヒアイスらに向ける視線が厳しくなったのであろうと言われている。

 

 キルヒアイス提督が無事でいればローエングラム公をお諫めしたであろう、その仮定については、軍上層部やヒルダの共通する所であった。これまでは。

 しかし、キルヒアイスを生き長らえさせる為にあらゆる手を使い倒すラインハルトを目の当たりにして、ヒルダの心にある疑念が齎された。

 キルヒアイスが無事ではない状態で生き長らえている事。それ自体が、ラインハルトの危うさや酷薄さを助長しているのではないか、と。

 この疑念は、ヒルダの心を海とすれば、インクの一滴に過ぎないささやかな量であった。その疑念の一滴が後にどの様な影響を及ぼすのか、それを知る者はまだ誰もいない。

 

 

 二月に入って、最後の大手術が執り行われた。手術は無事成功し、その一週間後、キルヒアイスは数カ月ぶりにその瞼を開いた。

 それは奇しくも、ガイエスブルグ要塞が銀河に最初の羽搏きを記録した日であった。

 

 

 

 


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