死に損ねた男   作:マスキングテープ

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第4話 還って来た男

  年が明けて、帝国歴四八九年一月を迎えた。

 ローエングラム候ラインハルトは公爵に陞爵し、帝国宰相代理から代理の文字が取れ、帝国宰相となった。

また、ラインハルトは帝国軍最高司令官としての地位と権限も保持し続けているので、肩書きとしては帝国宰相兼帝国軍最高司令官。ラインハルトは先年の十月から実質的な独裁権を手中にしていたが、今回の人事で政治と軍事両面、位人臣を極めた事になる。

 帝国歴四八九年から始まるラインハルト新体制は、旧来の帝国で法的に存在していた、貴族と平民の扱いの格差を是正することから始まった。

 新たな民法の制定、免税などに代表される貴族特権の廃止も、それらの一環である。

 カール・ブラッケ、オイゲン・リヒターなど、貴族にも拘らず貴族の称号を捨てた、所謂開明派と呼ばれる人々を広く文官の重職に採用したのも、こういったラインハルトの方針を象徴する人事であったといえよう。

 更に、リップシュタット戦役において貴族連合軍に与した者から没収した財産を、ラインハルトは給付金や公共工事などの形で、気前良く帝国民にばらまいた。

 

 帝国のマスメディアでは、若く美しい宰相閣下の改革がどれだけ素晴らしいかを連日喧伝し続けている。

 

『貴族の免税特権を廃止。公平な税制導入の第一歩へ』

 

 アンネローゼは読み終わった新聞を閉じ、使用人に渡した。新聞など紙媒体は使用人の手によってファイリングされ、ニュース映像など映像メディアや電子媒体は記録され、いつか目覚めるであろうキルヒアイスのために、館の書架で大事に保存されている。アンネローゼはそれを終えると、キルヒアイスの母と一緒に、いつもの様にキルヒアイスとの面会に赴いた。それ自体はいつもの事であったが、今日は、この日付自体が特別な日であった。

 

 この日、シュヴェーリンの館では、アンネローゼ達と料理人が腕によりをかけた巨大な赤いケーキが振る舞われた。

 ケーキ表面はベリーの真っ赤なゼリーでコーティングされ、オレンジやキウイなど新鮮なフルーツが彩りを添えていた。スポンジはリキュールや色素で赤く色付いている。何層にも重ねられたスポンジの間には、雪の様に白いクリームが挟んであり、ルビーレッドとスノーホワイトのコントラストが美しい。

 赤いスポンジはしっかりとした甘い果実味とリキュールの香りも芳しく、白のクリームはスポンジの味と香りを引き立てるためか、ごく上品にシンプルに、甘さ控えめに作られている。スポンジはふわりと溶けてクリームと絡み合ってコクを与えられ、舌の上に絶妙な満足感を残しつつ、するりと喉を通っていく。表面の飾りフルーツと一緒に口にすれば、オレンジやキウイの新鮮な酸味と香りが、ケーキの風味にまた違った奥行きを与える。

 この派手なケーキの案は、フェザーン人スタッフが時折話す、フェザーン流行のケーキをヒントに作られた。帝国では古典的な物が良しとされるので、帝国出身の、特に男性スタッフ達は最初このケーキらしからぬ派手な色彩に面食らっていたが、周りが美味しそうに食べているのを見て食べ始めた。

 フェザーン出身のスタッフからは、外見は同じだが味は全然違う、しかし美味しいので問題ないという感想が上がった。いずれにしろ、このケーキは職員達に概ね好評で、切り分けられた傍から職員達の胃袋に消えて行った。

 その賑やかな様子を、館の管理者たる女性達が微笑ましく見守っている。

 

 帝国歴四八九年一月十四日のこの日、ジークフリード・キルヒアイスは未だ意識を回復しないまま、二十二歳の誕生日を迎えた。

 

「ジーク、お誕生日おめでとう」

「おめでとうジークフリード。もう二十二になったのね」

 

 アンネローゼはキルヒアイスの母親に寄り添いながら、治療液に揺蕩うキルヒアイスを見つめた。半透明の液体へ手を差し入れると、キルヒアイスの母は左手で息子の手を握り、もう片方の手で赤髪を掬い上げた。彼の頭皮に繋がっているそれは、記憶よりも随分と伸びているように彼女達は感じた。

 

「あら、もうこんなに長くなって。ジークフリードが起きたら髪を切らなきゃ。それとも後ろで纏めさせようかしら。そのまま切らない方が良いかしら。どれがいいと思う?アンネローゼさん」

「この長さだともうすぐ肩口までに届くかしら、おばさま。どの髪型もきっとジークに似合いますわ」

 

 キルヒアイスの母親は、少し考え込むとゆっくりと首を振った。彼女は何かを思い出したようにクスクスと小さく笑い始めた。

 

「この子は輪郭や雰囲気があの人に似ているから、伸ばして纏めないのはきっと駄目ね。ちょうど初めて会った時のあの人がそうだったの。これは後で聞いたのだけど、尊敬している司法局の先輩がとても長髪の似合う方で、それを真似たらしいの。でもあの人には全然似合ってなかったわ。だから、つい、髪を短くすればもっと素敵なのに、と口にしてしまったの。それから、次に会った時かしら。あの人の髪が短くなっていて。交際を申し込まれたわ」

「素敵なお話ですね」

 

 アンネローゼは、楽しげに話すキルヒアイスの母の手が震えている事に気が付いた。

 キルヒアイスの母は、自分が握り込んでいる息子の手が、三年以上前の帰省の時よりも、初めてシュヴェーリンを訪れた時よりも、ずっと肉付きが薄くなっている事を認識せずにはいられなかった。この細くなりゆく手が、息子の命の灯火を象徴しているように思われて、彼女はそれが怖かった。何か楽しい事を思い出さねば、その恐怖に彼女は耐えられそうになかった。

 震える手を労わる様に、アンネローゼの手がそれを包み込んだ。そうするアンネローゼの手もまた震えていた。

 

 

 

  二人の抱える不安をいくらか減じたのは、一番若い軍医の言葉であった。より正確を期すなら、主治医が彼に言わせた言葉であったが。

 キルヒアイスの誕生日から三日後の一月十七日、二人は治療室隣の部屋で、小柄な軍医から、キルヒアイスの経過についての説明を受けていた。

 

「以上の事から、キルヒアイス提督の容体は現在安定傾向にあります。このまま安定が続けば、数日中に、機器による呼吸補助。この割合を減らす段階に移れます。ここから、最終的には維持装置を完全に外す所まで行けるでしょう。そうですね、春になる頃までには」 

 

軍医は、女性達を安心させるように童顔に笑みを浮かべた。彼の表情や声、目つき、纏う雰囲気には、独特の愛嬌と安心感があって、それが丁寧な説明とも相まって、アンネローゼやキルヒアイスの母の不安をいくらか解きほぐすのだった。

 この軍医は、まかり間違っても美しいとか恰好良いと呼ばれる容姿ではない。可愛いと言われる事がたまにあるが、それはサイズの小さな虫や動物を表現する時のそれに近く、実際に彼は小柄である。怜悧や洗練を感じさせる人物ではない。良く言えば誠実で素朴、悪く言えば愚鈍と野暮という言葉が似合う青年であった。彼は他人から侮られる事はあっても、決して警戒はされない。勿論それは彼の容姿から受ける印象であって、実際に彼が愚鈍であったり、医師として無能であることを意味しない。

 

 対して、執刀医兼主治医を務めているフェザーン人医師は、猛禽の様な鋭い眼光を持つ貴族的な美男子である。上背もあり、その鍛え上げられた体躯は長時間の手術に耐えうるだけの体力と活力がみなぎっている。それは彼の能力や内面を過不足なく表現した外見であると言えた。しかし、彼自身は、不安に怯える患者やその家族にとって、自分の容貌が時にマイナスに働きかねない事を承知しており、アンネローゼ達への説明には年若い軍医を便利に使っていた。無論それだけでもなかったが。

 

 

 軍医が他のスタッフに呼ばれて部屋を辞した後、主治医が告げる。

 

「残る手術は後一回です。容体の安定が続けば、二月頃に手術の予定です。それが終われば、まず私が。その後、提督の回復に合わせて、フェザーン出身のスタッフ達は順次ここをお暇する事になりますので、宜しくお願いいたします」

「ジークフリードの意識が戻るまでいて下さらないのですか」

 

 キルヒアイスの母親は、不安をにじませながら、疑問を口にした。主治医は先程軍医が出て行った扉の方を見た。しまった、間の悪い、と思いながらも、主治医はそれをおくびにも出さず、慎重に言葉を選んで、疑問に答える。

 

「私は専ら手術専門ですから。全ての手術が終わった後に必要となるのは私ではありません。体の機能回復を専門とする医師です。私の知る優秀な医師を推薦しておきました。専門医の到着までは、軍医達に任せます。その為に必要な事を彼らに現在叩き込んでいます。大丈夫ですよ、ご心配には及びません。それに」

「それに?」

 

 主治医は言いにくそうに言葉を切った。その言葉を促したのは、アンネローゼであった。

 

「本来であれば、軍医が治療すべき所を、様々な偶然が重なって私が執刀することになり、そのまま主治医を仰せつかりました。命が掛かっているとは言え、異例の事です。部外者の私が軍医や軍の看護婦を使い、提督の治療を行っている事を良く思わない方もいます。私だけならまだしも、私の指示で治療に当たっている軍医達にまで……潮時です」

 

 主治医は、自分の黒茶の髪に手をやって大仰に溜息を吐いた。アンネローゼは、主治医の言葉で、自分が後宮に収められた時の事を思い出す。

 何の後ろ盾もない帝国騎士階級の少女とその使用人達に向けられる、門閥貴族や宮廷使用人達の敵意、反感、侮蔑。宮廷社会で孤立するアンネローゼに手を差し伸べるのは、ヴェストパーレ男爵夫人マグダレーナやシャフハウゼン子爵夫人ドロテーア位の物であったように、アンネローゼに仕える使用人達もまた、主人と同じように孤立していた。

 それと同じ事が軍医の世界にもあるのだと、アンネローゼは主治医の発言で気づかされた。キルヒアイスの母も、何となくその事を察したのか、それ以上は何も言わず、宜しくお願いします、とただ頭を垂れた。

 

 やがて今後の治療方針と、その見通しについて一通りの説明が終わって、アンネローゼとキルヒアイスの母親は部屋を出るべく立ち上がった。ふと、アンネローゼはある疑問が浮かんで、主治医の方を振り返った。振り返った拍子に、彼女の豪奢な金髪がふわりと揺れた。

 

「あの、先生。一つお伺いしてもよろしいかしら。フェザーンと帝国では治療の方法がとても違うように思います。私も最初は戸惑いました。軍医の方々は、帝国の医術を長年学んで、経験を積まれていらっしゃいます。私以上に戸惑う事が多いのではなくて?それに、フェザーンの技術や知識を学ばれた後、その事で軍に戻られてから戸惑われるような気がするのですけど」

 

 家事使用人といった、どこの家でもやる事がそれほど変わらない職でさえ、各家の事情によって、最適な立ち居振る舞いが微妙に異なる。ある家で長く過ごし、その家風に慣れたものが、別の家に行けばその違いに戸惑い、時にそれがトラブルの火種になる事をアンネローゼは経験で知っていた。

 フェザーンの民間医と帝国の軍医では、各々技術が違い、使う道具が違い、知識が違い、何より前提となる意識が違う。これ程までに大きな違いを抱えて帰って来た軍医や従軍看護婦は、元の様に軍で過ごせるだろうか。それどころか排除されるのではないか。元々市井で医師をしていた者はまだ良い。ずっと軍の中で生きてきた者はどうなる。異端者として排除された所で行き場などあるのだろうか。アンネローゼにはその危惧があった。

 アンネローゼが、医療スタッフと寝食を共にして二ヶ月以上が経過している。双方多少なりと情のようなものも沸いた。キルヒアイスの命を救ってもらったという恩義もある。すぐ傍にいる彼や彼女達が不幸になること。それを座して傍観するほど、今のアンネローゼは冷淡にも無関心にもなれず、全てを諦念している訳でもなかった。

 

「そうですね」

 

 主治医はそう答えたきり、口を噤んだ。彼はただ静かに微笑むのみだ。それ以上回答が得られない事を察して、アンネローゼは部屋を辞した。

 

「それで良いのです、伯爵夫人」

 

 主治医以外誰もいなくなった部屋に、彼の声がした。彼の精悍な顔に浮かぶ笑みは、今は肉食獣のそれによく似ている。

 

 

 

 同じ頃、元帥府で執務中のラインハルトは、つい今しがた、不愉快な出来事、憲兵総監オッペンハイマー大将との面談と、彼の不愉快な邪推による贈収賄未遂を体験したばかりで、その気分はかなりささくれて居た。

 不愉快の大本は、贈収賄の現行犯で連行させた。だが、ブラウンシュバイク公の元部下たるシュトライトを登用した理由を誤解されている事に、ラインハルトは苛立っていた。

 ラインハルトがその能力と人柄を評価し、自分の副官にと熱望しているシュトライト。彼は現時点では着任するに至っておらず、気の利かない部下が副官として傍らにいる事も、彼の不愉快さを更に悪化させている。

 ケスラー大将を次の憲兵総監に当てるように指示して、傍らにいた副官のフェルデーベルトを追い出し、ラインハルトは自らの不快感を暴発させることなくやり過ごした。

 次にラインハルトは、アンネローゼ達が受けたのと同じ内容の報告を、主治医からの書面で受けた。その報告書を読むラインハルトの表情は、僅かばかり笑みをこぼしたかと思えば、次の瞬間には陰鬱になり、何かを考え込んでいるかのような真剣な物へと、目まぐるしく変化した。

 ささくれていたラインハルトの心に、医師からの報告はいくらかの潤いを与えた。ラインハルトが、近い内にキルヒアイスの所へ行こうか、と考え始めた矢先、書記官テオドール・フォン・リュッケ中尉が、去る十六日にあったイゼルローン回廊での遭遇戦を、直接報告しに来た。

 同盟軍が十倍の増援を繰り出してきたため、ケンプ大将旗下アイヘンドルフ艦隊はやむなく撤退したとの詳報を受け、ラインハルトは敵将ヤン・ウェンリーの名を楽しげに呟いた。

 ただ、そのつぶやきには、優れた敵将への敬意やその人物と戦う事への昂揚感の他に、僅かではあるが違った感情を含んでいるのを、聞く者が聞けば判別する事が出来たかもしれない。

 

 その日の午後、ラインハルトは旗下将帥達を集めて元帥府で会議を行い、先のイゼルローン回廊における遭遇戦についてと、新たに自分の旗下にアイゼナッハやレンネンカンプらを大将として加える事を始めとして、多くの将官人事について申し送った。

 その中で特に諸将の耳目を引いたことと言えば、先年九月から指揮官不在で臨時にラインハルトの指揮下に置かれているキルヒアイス艦隊についてであった。キルヒアイス艦隊は、幕僚や艦船の配置換えも特になく、引き続きラインハルトの指揮下に留め置かれている事になった。これは、多くの将帥達に、いずれキルヒアイスを戦列に復帰させるという、ラインハルトの強い意志を感じさせた。

 他にも、ケンプが先のイゼルローン回廊遭遇戦について陳謝し、ラインハルトがそれを寛容に許す場面などもあった。ただ、ラインハルトはこの件についてもっと別の事を考えており、さしあたって先の遭遇戦における勝敗を重視もしていなければ、陳謝される必要性も感じていなかった。

 

 会議終了後、ミッターマイヤーとロイエンタール、二人の上級大将は、シャフト技術大将が脂肪の詰まった太鼓腹を揺らしながら、宰相府へと移動中のラインハルトとオーベルシュタインに追い縋るのを目撃した。

 

「ローエングラム公をあのような場所でお引止めまでするとは。シャフトも必死だな」

「オッペンハイマーが贈収賄で逮捕された一件を聞いて、気が気ではないのだろう。何しろ、シャフトはオッペンハイマーと同様、六年以上あの地位にありながら、本来の職務などより、己の保身のためだけに動いて来た男だからな」

 

 ミッターマイヤーは半ば呆れたように隣の親友に話し掛け、ロイエンタールは軽蔑しているのを隠そうともせず、シャフトの現状を的確に言い当てた。二人の視線の先、酒場の主人のような太鼓腹の中年が、ラインハルトに必死に何かを訴えかけている。ラインハルトは、最初シャフトを冷たくあしらっていたが、やがて何か興味を惹かれたらしく、薄く笑った。オーベルシュタイン上級大将も、シャフトの方を振り返る。その様子を目撃して、二人は顔を見合わせた。先に口を開いたのはロイエンタールである。

 

「何か新技術の開発にでも成功したとみえる」

「そうだな。公のご様子を見る限り、面白い話ではあるのだろう。最も、それを奴自身が見出したとは限らないが」

 

 二人は職務に戻るため、その場を離れた。ラインハルトがシャフトと何を話していたか、それを彼らが知るのは後日の事になる。

 

 

 ガイエスブルグ要塞を新技術で以てイゼルローン回廊までワープさせ、イゼルローン要塞の攻略に当てる。

 シャフト技術大将のこの提案は、その週の内にラインハルトに採用され、作戦の司令官にはケンプ大将、副司令にミュラー大将が当てられることとなった。

 

 その日の夜、ミッターマイヤー、ロイエンタール、ビュッテンフェルト、それにミュラーの四名は士官用クラブ『海鷲』にて、酒席を囲んでいた。話題の中心は、今日決定されたばかりのイゼルローン攻略作戦とつい最近の将官人事についてで、その内容は概ねオーベルシュタインを腐す物であったと言って良かった。

 先年、キルヒアイスが凶弾によって意識不明の重体になって以来、ラインハルト旗下の諸将の間では、オーベルシュタインを非難、もっと低レベルな話で言えば悪口を言うのが最早時候の挨拶代りとなりつつあったし、それを誰も問題視しようとはしなかった。

 人格的に極めて評判が高く、好意を持つ人間も多いミッターマイヤー。彼からして、オーベルシュタインの悪意を何かにつけ疑っているのだから、その傾向を止める人間などいるはずもなかった。何より、当事者であるオーベルシュタイン自身がそれを言わせるがままにしておいたのである。

 

 ミュラーが、オーベルシュタインが最近拾った老犬のために自ら鶏肉を買いに行く、という話を披露して一頻り場が盛り上がった後、まず下戸のビッテンフェルトが、続いて翌日から始まる激務のためにミュラーが、海鷲を後にした。

 残されたミッターマイヤー、ロイエンタールの両提督の会話は、やがてイゼルローン要塞攻略作戦の是非そのものへ話題を移した。先程まで作戦の当事者であるミュラーがいたため、二人は流石にそこまで踏み込む訳にもいかなかったのである。

 

「この様な無益で無用な出兵、ジークフリード・キルヒアイスが無事ローエングラム公のお傍にあれば、きっとお諫めしただろうに」

 

 ロイエンタールは、キルヒアイスが諌めた所でローエングラム公の方にそれを聞く耳があるのか、と問題提起をしようとして思い止まった。ミッターマイヤーは具体的な解決策としてそれを言った訳ではなく、単なる夢想を口にしたに過ぎないと悟ったからだ。

 

「キルヒアイスがいれば、か」

 

 ロイエンタールは、その事について、友人程には薔薇色の夢を見られなかった。

 アンスバッハの事件の直前、ローエングラム候ラインハルトとキルヒアイスが不和であるとの噂が流れていた。その噂について、オーベルシュタインがナンバー2不要論に基づいて、二人の間を引き裂いたのだろう、とミッターマイヤーが口にしていたのを、彼は思い出す。

 だが、ロイエンタールの見解は違った。オーベルシュタインによって二人の仲に罅が入ったのではなく、二人が既に決裂していたからこそ、オーベルシュタイン如きの持論が受け入れられたのではないか、と。

 オーベルシュタインは、本人が語った通り、キルヒアイスがナンバー2でない限りは思う所などないだろうと、ロイエンタールは考えていた。ロイエンタールはオーベルシュタインを心の底から嫌っていたが、彼自身も不思議なことに、その発言の真偽を疑ってはいなかった。

 一方でローエングラム公について、ロイエンタールは一抹の危惧を抱いていた。

 リヒテンラーデ一族への、あまりに苛烈な処罰。二人が決裂した結果としてオーベルシュタインが重用された可能性。そうであれば、復帰したキルヒアイスがどのようであるにせよ、彼を最も倦厭するのはオーベルシュタインなどではなく、おそらくローエングラム公という事になる。

 

 ロイエンタールの背筋を寒気が走った。それは空調の所為でも、体調や飲み過ぎた酒によるものでもない事を、ロイエンタール自身が一番よく自覚している。

 いつのまにか押し黙った親友へ、ミッターマイヤーの灰色の瞳が気遣わしげな視線を送っていた。

 

 

 

 将官用官舎への帰途。地上車の中で、ラインハルトは、自らの首席秘書官マリーンドルフ伯爵令嬢ヒルデガルド、通称ヒルダから、イゼルローン要塞攻略戦の意義についての見識を聞いていた。彼女曰く、この作戦は戦略的に無意味な出兵で、その様な事でいたずらに兵を損耗するより、今は内政にのみ力を注ぎ、民心を慰撫するべき時期であると。

 ラインハルトは、その発言を聞いた時、一瞬愉快そうな表情を浮かべた。その表情が宰相付首席秘書官のエメラルド色の瞳に映り込む。

 

「貴女もオーベルシュタインと同じことを言うのだな。だが、出兵はする。私はこの状況に甘んじて、立ち止まる訳にはいかないのだ」

 

 キルヒアイスのためにも、と続いた言葉を、ヒルダは確かに耳にした。彼女は、美神の如き上司の顔を伺いながら、その言葉の意味を考え始める。

 

 ヒルダは、キルヒアイスと直接の面識がない。カストロプ動乱の折、彼女の父親であるマリーンドルフ伯フランツはキルヒアイス達の手で救出されたが、それだけである。また、リップシュタット戦役直前、当時侯爵だったラインハルトとヒルダが面会した折も、キルヒアイスは職務のため不在であった。

 マリーンドルフ伯爵家の危急を救ってもらったにも拘らず、彼女はキルヒアイスと面識を得る機会が全くなかった。であるからして、キルヒアイスの能力や人柄について、世間や諸将達が話す以上の事を、ヒルダは知らない。ただ、彼女の卓越した知力をもってすれば、それらの情報からある程度類推することは可能であった。

 ヒルダが類推するところ、キルヒアイスという人はこの様な無益な出兵に諸手を挙げて賛同するタイプではない、むしろ諌める側だろう。それが、ヒルダに限らず大方の認識である。しかし、ラインハルトはこの出兵をキルヒアイスのためだと言っている。

 キルヒアイスの人物像とラインハルトの発言。この間にある齟齬が、ヒルダにはどうしても埋められない。

 人の話というのは多かれ少なかれ、話者、あるいは聞き手の偏見が含まれている。キルヒアイスについて話す側も、それを聞く側も、彼に理想や希望を仮託している。

 結果として、キルヒアイスに関する話は、キルヒアイスという人間の実像と乖離している所があった。

 そのバイアスを比較発見出来るほど、彼女はキルヒアイスを知っている訳でもなければ、それを嗅ぎ分けるだけの人生経験も年齢相応でしかない。

 一方で、キルヒアイスのために、と言ってしまうラインハルトの複雑な心境について、深く洞察できる程、彼女は豊かで幅広い人間関係を築いてきた訳ではない。

 むしろ同年代の大多数と比較しても、彼女の交友関係は分野も人数も極めて限られており、かといって少数と深く交流していたのでもない。どちらかと言えば貧しい人間関係しか持ち得ていない、その自覚が彼女にはあった。

 

 ヒルダがその齟齬について困惑していることも知らず、ラインハルトは思い出したように告げる。

 

「そうだ。今月の下旬にシュヴェーリンに行くから、そのつもりでスケジュールを組んで欲しい」

「はい、かしこまりました」

 

 ヒルダは頭を下げて、了承の意を示した。キルヒアイス提督と会えば何かが分かるかもしれない。彼女がそんなことを思いつつ頭を上げると、ラインハルトは既に別の事柄に意識を向けており、手元の書類にじっとその視線を注いでいた。その精気に満ち溢れた顔を、ヒルダは暫く鑑賞していた。

 

 

 

 官舎の門前で、ヒルダがラインハルトを見送っていると、一台の地上車がやって来た。そこから降り立ったのはオーベルシュタインであった。彼はヒルダ達を全く気にする風もなく、それが当然であるかのように、ラインハルトのいる官舎へと入って行った。

 

 ラインハルトが最近起居に使用している高級士官用官舎。そのテラスからは、新無憂宮を始め、帝都オーディンの街が一望できる位置にあった。

 ラインハルトとオーベルシュタインは、テラスに設えたテーブルセットに腰を掛け、夜景を酒の肴に、年代物の赤ワインを傾け始めた。

 

 殆どの門閥貴族が先の内戦で滅亡して、帝都の貴族街は文字通り火が消えたように静かである。新無憂宮はラインハルトの命で必要最小限を残し、残りは閉鎖されている。そのせいで、帝都オーディンの夜景は、往時と比較して随分と華やかさが消え失せている。それだけではない。門閥貴族から仕事を引き受けていた商店や職人も戦役以降立ち行かなくなり、貴族街や新無憂宮ほどではないが、商業区も明かりが減じている。それが目立たないのは、比較対象である貴族街の現状が酷過ぎる事と、空いたテナントへ帝国以外の商人か、全く別業種が入り込んで、表面上は明かりが維持されているからに他ならない。

 帝都の夜景についての話を端緒に、ラインハルトとオーベルシュタインの対話は、現在帝国の頂点に立っている七歳の皇帝、彼の扱いをどうするべきかに話が及んだ。

 

「皇帝は生かしておく。利用価値のある間はな」

「ええ、左様でございますな。今のところは」

 

 ただ、その存在自体が障害になった時は、年齢など関係なく皇帝を殺す。ラインハルトは言外にそう匂わせていた。それに気付いてか、オーベルシュタインはそれを肯定した。

 

 年代物の赤ワイン、最後の一杯。その味と香りを楽しんで、オーベルシュタインはグラスを置いた。立ち上がろうと体に力を入れたその時、ラインハルトは帝都の暗い夜景に視線を向けたまま、口を開く。

 

「ところで、オーベルシュタイン。よくも私を腹話術人形にしてくれたな」

「何のお話でしょう、閣下」

 

 オーベルシュタインは立ち上がろうとしていたのを止めて、ラインハルトの方を見る。ラインハルトは、オーベルシュタインを相変わらず見ようともしない。ラインハルトは、不満そうに、ふんと鼻で笑った。

 

「あの戦勝会場で自分が取った行動を知らぬというか。まあ良い。その判断のおかげでキルヒアイスの命が助かったかもしれんのだから、一応礼は言っておこう。だが、次はない」

「さて、記憶にございませんな。しかし、そのお言葉は肝に銘じておきましょう」

 

 ラインハルトの発言を否定も肯定もせぬまま、オーベルシュタインはラインハルトの前から辞した。一人テラスに残されたラインハルトは、赤ワインに親友の血の色を重ねながら、それを飲み乾した。

 

 

 こうして、帝国歴四八九年の一月中旬は過ぎて行った。やがて春を迎えるころには、銀河で禿鷲が羽搏くことになるが、それを知るのは、まだ極一部の人々に過ぎない。

 


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