死に損ねた男   作:マスキングテープ

4 / 14
第3話 死の床から目覚めた男

 帝国歴四八八年十一月一日。

 グリューネワルト伯爵夫人アンネローゼは、キルヒアイスの療養先である、オーディン郊外のシュヴェリーンへと赴いた。

 シュヴェーリンは、サファイアブルーの海と象牙色の砂浜、鬱蒼とした緑の森がコントラストをなし、海と森の間には汽水湖と淡水湖を合わせ、合計十泓もの湖が点在する景勝地である。往時には、皇族や門閥貴族達の避暑地として利用され、しばしば狩猟や釣りなどが楽しまれていた。

 ただ、このシュヴェーリンは、皇帝の御用地であったフロイデン山地がそうであるように、許可無き者は侵入を許されず、周辺を飛行機が飛ぶことも許されていない。当然、滑走路もない。その為、地上車で数時間掛けての移動となった。

 

 シュヴェーリンまでは、地上車用道路が整備されているのみである。分岐も何もなく、すれ違う車もない。この長い長い一本道を走っているのは、アンネローゼを載せた地上車とその警護だけである。

  アンネローゼは、その憂いを帯びたディープブルーの瞳を車窓の外へと向けた。

 秋もそろそろ終わりを迎えている。シュヴェーリンに続く落葉樹の森は、己の黄や赤の葉で地面に厚い絨毯を織り成し、その幹と枝を寒風に晒していた。地面の鮮やかさとは正反対に、見渡す限りの木々。その枝には数えるほどの葉しかなく、背景となる空はべったりと厚い雲に覆われていて灰色をしている。酷く寂しい。アンネローゼは、風景に自分の心中を映し出されているような気にすらなった。

 

 やがて、落葉樹一色だった森に、常緑樹が混じり始めた。常緑樹は、地上車が目的地に近付くにつれてその割合を増していく。落葉樹の葉絨毯が消えて行き、地衣類の鈍緑絨毯と大地の灰茶色の床に代わっていく。木々の並びが途切れ、大きな湖がアンネローゼの目の前に現れた。シュヴェーリン最大の湖であり、唯一の汽水湖であるザルツ湖である。

 

 運転手兼警護人が、もう少しで到着であることを告げた。その言葉に、アンネローゼは後部座席の窓から目を離して正面を向いた。ふと、彼女は視界の端に動く物を見つけた。馬だ。それも人が乗っている。

 この辺りに訪れていた門閥貴族の殆どは滅んでいる。それに避暑に訪れるような時期でもない。遠目に見ても背が高く、体格が良い。馬も上手に乗りこなせている。警備に当たっている軍人だろうか、と彼女は検討を付けた。しかし、その人物の着衣が明らかに軍服でないことが分かった。この地域は厳しく立ち入りが制限されている上、同じ物が見えているはずの運転手が何の行動も起こさないため、関係者であることは確かだろうと、アンネローゼはそれについての興味を失った。

 

 

 アンネローゼの眼前にザルツ湖が広がっている。その湖の中心には小さな島があり、そこに地球時代のフレンチ・ルネサンス様式をモチーフとした小じんまりとした館が建っている。小さいとは言っても、一般的な門閥貴族の館に比べての事であって、平民の家などとは比較すれば、当然この館の方が大きい。

 この館は、元はと言えば、ブラウンシュバイク家代々の持ち物であった。更に先代ブラウンシュバイク公が、自身の病気療養のために改装したものである。その為、医療設備を入れて専門的な治療を施す事を織り込み済みで、短期間で受け入れ準備を整えるのに非常に都合が良かったのである。

 館のある小島には一つだけ橋が架かっていて、これが館に続く唯一の陸路であった。

 そこを通って、館の前に降り立つと、馬の鳴き声がアンネローゼの耳に届いた。彼女が辺りを見回せば、警備兵の幾人かが馬に乗って辺りを警戒している。犬を引き連れた兵士もいた。彼女が不思議そうにしていると、案内役を仰せつかった警備員が、この一帯は保護区であるから、地上車を乗り回したりして荒らすわけにはいかず、動物に頼るのが一番良いと説明した。

 動員されている馬や犬の多くは、門閥貴族達がリップシュタット戦役の折に見捨てて行ったペットの生き残りであるという補足に、アンネローゼは言いようのない悲しみを覚えた。この動物達もまた、戦役の見えざる犠牲者なのだと。

 

 アンネローゼはこの館の由来と背景を知識としては知っていた。

 この館を改装した先代ブラウンシュバイク公とは、先日亡くなったブラウンシュバイク公オットーの父である。ブラウンシュバイク家をあれほどまでに強大にしたのは、この先代の功績だと言えよう。領主としては名君と名高く、フリードリヒ四世の皇帝即位に少なからず貢献した。その功績もあって、息子オットーと皇女アマーリエの結婚が叶ったのである。

 

 アンネローゼの人生に間接的に影響を与えた人物。その遺産を間近で見ると、自分を寵姫として迎え、愛した老人のことを、アンネローゼは思い出さない訳にはいかなかった。

 

 

 

 童顔の軍医に案内されて、アンネローゼ達は衛生衣に着替えた後、キルヒアイスが意識不明になってから初めて彼と対面した。彼女にはよく分からない医療機器に囲まれ、医療用の液体に浸かったキルヒアイスを見て、アンネローゼは思わず声を上げそうになった。キルヒアイスの隣には、背の高い主治医がいて、彼女に話し掛けた。

 

「伯爵夫人、是非声をお掛けになって下さい。患者は今の状態でも声、外界からの刺激を認識できます。そうやって刺激を与える事で、目覚める可能性が高くなります」

 

 アンネローゼは、衛生衣越しに液体に手を入れた。ぬるま湯程度の温感が、薄い膜を通じてアンネローゼの白皙の手に伝わった。彼女はキルヒアイスの片手に自分の手を重ねた。施されている療法のせいか、キルヒアイスの手はアンネローゼの手よりも冷たい。

 

 彼女は戸惑った。言葉が浮かばない。何といって話しかければいいのか分からない。アンネローゼは、キルヒアイスへ言いたい事は沢山あった。ありすぎて、彼女の喉は詰まってしまったのかもしれない。珊瑚色の唇を震わせるアンネローゼへ、童顔の軍医がおずおずと声を発する。

 

「な、何でもいいんです。挨拶とかお天気、今日あった事、それから名前、そう名前をお呼びになって下さい」

「ありがとう」

 

 アンネローゼの金の睫毛が上下した。吸い込まれそうなほど深い青の瞳が、じっと軍医の方を見た。アンネローゼはただ穏やかに礼を言った。アンネローゼはキルヒアイスの方へ向き直った。彼女は、重ねた手が一瞬微かに動いたような感触を覚えた。

 

「おはよう、ジーク」

 

 それは彼女の気の所為ではなかった。モニターしていた医師が、キルヒアイスの僅かな反応を見つけた。アンネローゼは医師達の様子から、うっすらその事を察した。今、彼は生きているのだと、彼女はこの時初めて確信した。

 

「ジーク、お帰りなさい、ジーク……」

 

 彼女の白磁のような頬に、幾筋もの涙が伝う。どんな形であれ、キルヒアイスは生きている。目覚める見込みがある。アンネローゼはただその事が嬉しかった。

 目覚めた時、キルヒアイスが彼女に何を言うかは分からない。ただ、それは目覚めてから考えてもいいのだ、今は彼が目覚めるように出来るだけの事をしよう。そう彼女は決意した。

 

 アンネローゼは、数分しかない面会時間をぎりぎりまで使って、キルヒアイスに話し掛けた。

 

「ジーク、また明日も来るわね」

 

 アンネローゼは、キルヒアイスの手に重ねていた手を外し、部屋の外を辞した。

 

 

 治療室を出た後、アンネローゼは侍女を伴って、自分に宛がわれた部屋に入った。飲み物を持ってくるように頼み、侍女が部屋を辞したのを確かめて、彼女は小さく溜息を吐いた。アンネローゼの顔に僅かに不安の陰りがさしている。

 

 一日僅か数分の面会の度に、オーディン中心部から往復に半日以上掛けるのは、理に適っているとは言い難い。また警備上、重要人物を一か所に集めてしまった方が警備の人員配置を考えれば都合が良い。彼女がこの地に逗留するのは、そのような事情があった。それをアンネローゼは誰言われるでもなく心得ていた。

 また、リップシュタット戦役における論功行賞などラインハルトには、やるべき事決めなければいけない事が山のようにあり、彼が館に帰る暇はない。ラインハルトは帰還後、そのような理由に託けて、姉であるアンネローゼと顔を合わせないように振る舞っていた。その様な弟の心理に、気付かぬアンネローゼではなかった。

 

 キルヒアイスも弟もいないオーディンの館で待ち続けるよりは、キルヒアイスの看病をしながらこの地に逗留した方が良い。それがアンネローゼの当初の考えであったが、それが思い違いである事を、彼女は先程の面会で知った。

 アンネローゼがその人生でもっともよく知る病人は、前皇帝フリードリヒ四世であった。彼女は彼の最晩年にあって、衰弱した彼の世話をも担った。キルヒアイスが意識不明と聞いた時、彼女が脳裏に思い描いたのは、死する最期の十日間におけるフリードリヒ四世の姿であり、自分がやるべき事もそういう物だろうと想定していたのである。

 帝国では、傷病者や老人の世話は、専門的な医療行為以外は、家人が当たるのが良しとされている。一方で、フェザーンや同盟では、専門家である医療従事者達が、介護や看護を担う。

 そういった文化の違いに加え、キルヒアイスの容体は極めて深刻で、彼に施された処置も極めて高度かつ専門的な物である。アンネローゼは専門的な医療知識や技法を修めておらず、病床にある皇帝の世話は、家庭での素人看病の範囲に留まる物であった。その彼女に、今の段階で出来ることは殆どなかったのである。

 

 毎日数分間の話し掛けが、キルヒアイスの覚醒を促進させる。それに希望がある事はアンネローゼも理解している。しかし、残った長い時間をどう過ごせばいいのか、彼女は途方に暮れていた。受けた衝撃を紛らわせるだけの忙しさを、アンネローゼは欲していた。それは、アンネローゼとラインハルト姉弟の、意外な共通点であるかもしれなかった。

 

 

 アンネローゼの悩みに救いの光を齎したのは、意外なことにオーベルシュタインの一言であった。

 アンネローゼが来た翌日、オーベルシュタインは、館に別件で通信を入れていた。そこをアンネローゼに捕まったのである。アンネローゼはオーベルシュタインに、先日の件で礼を述べるとともに、この不安を口にした。オーベルシュタインはしばし押し黙った後、自分の意見を淡々と述べた。

 

「AにはAの、BにはBに向いた仕事という物があります。伯爵夫人に置かれましても、それは同じかと存じます」

 

 伯爵夫人、と称号を嫌に強調していたのがアンネローゼには分かった。そして、彼女はその意味を瞬時に悟ったのである。ただ、この言葉が、かつて彼がラインハルトに自身を売り込んだ時の変奏であるという事までは知る由もない。彼女は、無理矢理引き止めた事を謝罪して通信を切った。

 

 帝国において、子供を産み育てる事以外に妻に求められることは、家内の維持である。夫や子供が健やかに過ごせるように、客人を快く出迎えられるように、家事をこなして家を保つ。貴顕の夫人は、自ら家事をすることはないが、使用人を差配して家中を取り仕切り、家を保つ事に変わりはない。それは皇帝の妻である、皇后や寵姫も同じである。

 高貴な身分の夫人達は家中の司令官であり、家事使用人達は兵士や下士官、執事や家政婦長などは分司令や幕僚のようなものであった。

 

 アンネローゼは医療の専門家ではないから、キルヒアイスを直接看護することは出来ない。しかし、医師達がキルヒアイスの治療に専念出来るように、援護射撃することは出来る。療養所のスタッフが最高の仕事をできるよう、彼らに配慮し、そのための差配をする。キルヒアイスがいつ目覚めてもいいように、常に館内を維持する。アンネローゼは軍事に明るいわけではなかったので、送り込まれた警備兵に関しては専門家に任せる事とした。

 アンネローゼは、こうして自らをこの場所の管理者と定めて行動を開始した。後日、半ば事実を追認する形で、グリューネワルト伯爵夫人を正式に館の管理者とすると定められたのである。

 

 

 十一月三日。アンネローゼがかねてより連絡を取っていた、キルヒアイスの両親がシュヴェーリンに来訪した。アンネローゼは自ら二人を招き入れ、茶を勧めた。移動の疲労が回復するのを待って、彼女は二人をキルヒアイスの治療室へと案内した。二人が息子と再会するのは、帝国歴四八五年の初夏以来、実に三年五ヶ月振りのことである。

 面会を終えて、彼の父母が治療室から出て来た時、キルヒアイスの母が嗚咽を漏らして、その小さな肩を震わせているのがアンネローゼの目に映った。妻を抱き寄せて慰める、キルヒアイスの父親の大きな背中もまた。二人の所へ小柄な軍医がやって来て、キルヒアイスの病状を説明するために、別室へと彼らを誘導していった。

 

 病状の説明を受けたキルヒアイスの両親は、病室を出て行った直後と比較すれば、幾分その悲しみが和らいでいるようだった。二人はアンネローゼに、息子にここまでの事をして頂いて、と何度も何度も丁寧に謝辞を述べた。

 アンネローゼは、二人から礼を言われる度に、胸の奥が痛むのを感じた。自分はキルヒアイスの命を救うのには貢献していない。それどころか、自分の一言が彼らの大事な一人息子を死の淵に立たせたのではないかと考えるにつけ、とても自分が謝辞を受けるに値するとは思えなかった。

 

 

 少しばかり早い夕食を共にした後、アンネローゼは話を切り出した。

 半日近くかかる移動時間の苦労を労わり、もし二人が良ければこの館の客人として逗留し、キルヒアイスの側にいてはどうかという提案である。

 司法局の仕事がある以上こちらに居続けることは出来ないと、キルヒアイスの父親は断りの返事を述べた。キルヒアイスの母親は、しばらく悩んだ後即答を避け、ゆっくりと考えたい旨を告げた。夕食後、辺りはすっかり暗くなっていたが、キルヒアイスの両親は地上車で帰途に就いた。

 

 

 キルヒアイスの母親が、再びシュヴェーリンの館に足を踏み入れたのは、翌週の日曜日の事であった。以降、彼女は一週間をシュヴェーリンで、次の一週間を自宅で過ごすというローテーションで、キルヒアイスの回復までを過ごす事になる。また、キルヒアイスの母が館に逗留する際には、キルヒアイス宅に男性使用人を通わすよう、アンネローゼは個人的に手配をしていた。お蔭で、キルヒアイスの父は、妻が不在の間、食に困る事も、慣れぬ家事に家が荒れる事もなかった。

 

 キルヒアイスの母とアンネローゼは、キルヒアイスとの面会の他、館の維持運営、館の職員達に振る舞う菓子類を作ったり、館の庭園を散歩しながら、思い出話に花を咲かせるなどして日々を過ごした。

 その日々の中で、アンネローゼは最初の来訪時に見た馬上の人影が主治医その人であり、体力作りの一環としてそれを行っているのを知った。

 

 さて、彼女達が館での日々において一番気を使ったのは、職員達の処遇であった。

 如何に風光明美な土地とは言え、実質彼らは隔離状態である。地方星系やフェザーン出身の医療スタッフ達に至っては、リップシュタット戦役からずっと故郷の地を踏んでいない。平均すれば半年、長い者で一年近くになる。

 二人が職員達に菓子を振る舞うのも、せめてもの気晴らしになればと考えての事であった。その他にも、何か職員達の楽しみをと企画を練るのも、彼女達の気を紛らわせるのにうってつけだった。

 特に二人が気に掛けたのが、フェザーン出身の黒髪の看護婦と、地方星系出身の小柄で童顔の軍医であった。どちらも遠く故郷を離れた、医療スタッフの中では一番若い者達である。

 前者の看護婦は、異郷の地で向けられる奔流のような敵意に耐えられずに心労で倒れたことがあり、後者は先年初陣を迎えて地獄を経験し、リップシュタット戦役で酷く傷付き、その心傷も癒えていない。加えて、二人ともキルヒアイスと年齢が近く、それも彼女達の注意を引いた原因かもしれなかった。

 

 

 そんな中、ラインハルトが初めてシュヴェーリンの館を訪れたのは、十一月も終わりの頃だった。ただ、結論から言えばこの訪問は半ば失敗に終わる。キルヒアイスの三度目の手術が行われる日だったからだ。医師達はこの日の手術に備えてキルヒアイスの状態を整えており、一日前に急遽来訪を告げられた所で、手術の予定は変えようもなかったのである。無論、ラインハルトはそれを承知でこの地に赴いたのであり、それは半ば予定された失敗であった。

 手術が終われば面会も可能だったが、今のラインハルトにそれを待つ贅沢は許されなかった。今回の訪問にしても、急遽予定が取り止めになったのを奇貨として、無理矢理時間を開けさせたのである。

 ラインハルトは、手術に立ち会っているアンネローゼとキルヒアイスの母親に挨拶を交わした後、手術室に至る扉の前で立ち止まった。扉の奥を透かし見んとばかりに、氷蒼色の瞳から強い眼差しが向けられる。

 

「キルヒアイス……」

 

 ラインハルトはそれだけ言って、今度こそ振り返らなかった。元帥の白いマントが、白鳥が羽を広げたように翻る。その張りつめた背中を、女性二人だけが見送った。

 

 

 復路の車中でラインハルトは、キルヒアイスと会えなかった残念さを噛みしめていた。しかし自分が無理を押したのだから仕方あるまいと納得していた所へ、

 

「閣下が折角おいでになるというのに、手術位融通を利かせられないのでしょうか。何たる不敬」

 

 同乗していた副官が口走った。その手術にキルヒアイスの命が係っていると知っているラインハルトは、このおべっか使いを今すぐ地上車から投げ捨ててやりたくなった。それを堪えて、ラインハルトは無言で副官を睨みつけた。流石にラインハルトの機嫌を損ねたと分かって副官は黙り込んだ。

 この翌日、ラインハルトはこの副官を更迭した。彼が最良の副官を得るまでには、あと一ヶ月と少しを要することになる。

 

 

 十二月になった。ラインハルトは、年が明ければ帝国宰相の地位に就く事になっており、その為の尚書人事の選考がいよいよ大詰めを迎えていた。ラインハルトは多忙を極め、ついに年内に館を再訪問することはなかった。

 

 十二月の半ばに、キルヒアイスの部下や諸将の代表としてベルゲングリューンとルッツの二人が、シュヴェーリンの館に見舞いに訪れた。

 

 彼らはキルヒアイスとの再開を果たした後、黒髪のフェザーン人看護婦と面談の機会を持った。二人は、まず彼女に、先日の一件について、自分達が至らぬせいで要らぬ心労をかけたことを陳謝した。彼女は最初、静かに二人の謝罪を受け入れていた。

 彼らの謝罪が一通り済むと、彼女はその時自分が感じた不安や恐怖について、ハッキリとした口調で、出来るだけ正確に、努めて冷静に語り始めた。

 語り終えた時、彼女の見目良い顔に涙が流れ始めたのに気が付いて、二人の男は語っていた時の冷静さとの落差に狼狽えた。特に動揺したのはルッツの方で、彼は自分の軍服に仕舞いっ放しであったハンカチを彼女に差し出した。

 そこへ中年の婦人が来て、彼女を慰め始めた。中年の婦人は特に名前など名乗らなかったが、その目鼻立ちはキルヒアイスのそれとよく似ている。彼女がキルヒアイスの母であるのは一目瞭然であった。

 ベルゲングリューンとルッツは、看護婦をキルヒアイスの母に委ねてその場を辞した。

 館を辞すまで、何度もルッツが彼女の方を振り返り、帰りの車中でその看護婦の事を

気にする発言を繰り返したため、ベルゲングリューンはある種の優しさと面倒くささの結果として、そのルッツの発言を聞かなかったことにした。

 

 そのようなこともあったが、それ以外はごく静かにシュヴェーリンでの時は流れ、帝国歴四八八年の十二月が終わった。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。