死に損ねた男   作:マスキングテープ

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第11話 運の良い男

 宇宙歴七九八年、帝国歴四八九年六月十九日。聖霊降臨祭前夜。

 

 聖霊降臨祭とは、古代地球時代に端を発する宗教的行事だが、この時代においては最早宗教的意味は失われ、初夏のお祭り以上の意味はない。毎年同じ日に行われる訳ではなく、その年の気候や曜日などを勘案して、六月中の適当な日が、聖霊降臨祭と定められる。

 この様な古代地球時代の宗教行事に端を発するイベントはいくつかあり、この時代の人々はその意味など知らぬまま、春の復活祭には鮮やかに彩色された卵殻あるいはウサギ型や卵型の装飾品を、秋の収穫祭にはくり抜いた橙カボチャの明かりや伝説上の怪物達のオブジェを、冬の降誕祭にはモミの木に電飾やオーナメントを飾り付けて、しばし酒食を楽しむのである。

 特に帝国において、これらの行事は、公休日の他、臣民に皇帝の慈悲を示したりするのに利用される。

 今年の聖霊降臨祭も、皇帝エルウィン・ヨーゼフの御名において、学校、養護院、恩賜病院、帝都中心部の広場などにおいて、万単位の菓子のカートン箱と酒樽が臣民に下賜される予定だ。

 

 昨年の聖霊降臨祭は、丁度リップシュタット戦役の最中だったこともあって、自粛ムードだった。その反動や、ラインハルト体制下での消費活動の盛り上がりなどもあり、今年は前日から例年以上の盛り上がりを見せている。

 

 そんな中、帝都の下町にあるキルヒアイス家では、ヴィジフォン(TV電話)のこちら側とあちら側で、キルヒアイス夫妻が対峙していた。

 

「じゃあ、どうしてもこちらには来られないのね」

「ああ、品評会と展示即売会が終わるのが夕方の五時頃になるから、そちらのパーティには間に合わんだろう。家に帰って寝るさ」

 

 解像度の低い画像でも、妻が不機嫌になるのが分かって、キルヒアイス氏はひたすら身を小さくしている。キルヒアイス夫妻は、シュヴェーリンの館で行われる、職員慰労パーティ兼アンネローゼの誕生日会への出席を巡って話をしているのだった。

 

「明日が一番高く売れる機会だからな。ジークフリードの今後を考えると、少しでも多くの現金に換えた方が良いだろう」

「それで息子と会える機会を棒に振るのは本末転倒だと思いますけどね、まあいいわ」

 

 男性使用人を呼んでくるよう夫に言い付けて、キルヒアイス夫人は、保留状態になったヴィジフォンの前で溜息をついた。保留中の画面には、美しいが、ありきたりの風景映像が映し出されている。

 

「本当に、あの人は何にも解ってないんだから。ねえ」

 

 手足の逞しい真っ黒な仔犬が、太い尻尾をぶんぶんと振って、夫人の足元に蹲っている。仔犬は、夫人の言葉の意味を解っているのかいないのか、彼女の手をぺろりと舐めた。

 ヴィジフォンの死角にはアンネローゼがおり、夫人はそちらへ小さく首を振った。

 

 

 キルヒアイス氏は、蘭の温室にいる使用人を呼びに行った。

 温室には、普段であれば、氏が独身時代を含め三十年以上掛けて育種、厳選した蘭達が、棚に整然と並んでいるのだが、この日の棚ははがらんどうであった。その代わり、地面には梱包資材が山のように積まれ、その間に蘭の花が咲き誇っている。使用人は、蘭の蕾に薄い袋を被せている所であった。

 キルヒアイス氏は、妻が呼んでいる事を伝えて、使用人の作業を引き継ぐ。

 

 キルヒアイス氏らが、梱包している蘭は、まだ開花しきっていないか、固い蕾の物ばかりであったが、二つだけ例外があった。

 一つは、氷を削り出したような、青みを帯びた涼やかな色合いの花弁を持つカトレアである。ただ、その青が、完全でも純粋でもない事は、唇弁が限りなく青に近い青紫色である事から分かる。そのカトレアは、まるで女王の様に凛と孤高を保って、唯一の花を薫り高く咲かせている。

 もう一つの蘭は赤くて背が高い。花弁の色と質感は、まるで真紅のベルベットのようである。花の中心部は純白で、それが花弁の赤を鮮やかに引き立てている。青い方と違って花弁にはやや丸みがあり、大振りの花ではない。花の大きさを補うように、枝には多数の花が付いており、それが前者とは違った華やかさを、爽やかな香りと共に醸し出していた。

 

 なお、これらの蘭は、まだ人類の領域が地球の表面だけだった時代にカトレアと称された種とは異なっていて、厳密に言えばバルドル星系種と呼ばれる一群である。

 それは、銀河帝国ゴールデンバウム王朝成立以前に遡る。地球連邦時代、現在は帝国領内となっているバルドル星系。そこで発見された新種と掛け合わされた、交配ではなく遺伝子操作によって作出された蘭がその始まりであった。

 カトレア以外には、胡蝶蘭、デンファレ、デンドロビューム、オンシジュームなど、園芸種として当時人気のあった蘭なら、概ねバルドル種が存在すると言って良い。

 花屋の店頭、一般人の間では、バルドルカトレア、バルドル胡蝶蘭など、バルドルの後ろに、各蘭の俗称を付けて流通している。一方で本来の蘭の方を、古来種、地球蘭などと呼称する向きもある。だが、そこまで花に詳しくない人間にとっては、古来の蘭もバルドル種も区別がつかない。

 

 この二つの蘭は、品評会への出品物で、品評会の日に一番美しく咲ける様に、キルヒアイス氏が神経を使って調整をしていた。手塩を掛けて育てた花のお披露目なのだから、折角なら一番綺麗な姿を見てもらいたい、という親心ももちろんあった。

 キルヒアイス氏としては、優勝は無理でも、何らかの賞を取れるだろうという自負があったし、それはあながち根拠のない自信でもない。

 何しろキルヒアイス氏は、これまでいくつもの賞を取った実績があり、たった一度ではあったが皇室献上の栄誉を賜った事もある。

 

 キルヒアイス氏が、己の傑作を見ながら悦に入っていると、通話を終えた使用人が戻って来て、こう告げた。

 

「旦那様、明日は私が会場までお送り致します」

「えっ、明日休みにしてくれ、と……」

 

 言ったばかりじゃないか、と言おうとしたキルヒアイス氏の言葉は遮られた。

 

「花の品評会というものを是非一度見てみたいものだと思い立ちまして。何でしたら、即売会の時にでも私をお使い下さい」

 

 キルヒアイス氏は、妻が使用人に何か言い含めたらしいと悟った。ここで彼が、主人の意志として断るのは簡単だが、これが妻の差し金だった場合、後が怖い。であるからして、

 

「……休日手当を加算しておくから、よろしく頼む」

 

 と、キルヒアイス氏は告げるに止まった。

 

「畏まりました。ところで、奥様がお呼びです」

 

 そして、再びの通話交代によって、キルヒアイス氏の予測は寸分も間違っていなかったことが証明されたのである。

 

 

 六月二十日。聖霊降臨祭当日。

 オーディン郊外の、国立リヒャルト記念動植物園で、蘭や薔薇など園芸植物から旬の農産物まで、各種の品評会が催されていた。

 これは、別に聖霊降臨祭に日程を合わせたわけではなく、夏季の品評会は毎年六月下旬に一週間開催されるのが通例で、今年はたまたま日程が重なったのだった。

 

 園内にあるホールの一つで大物は床に直接、小型の物は簡素な台の上に、くじ引きで決まった番号順に、蘭の花々が陳列されている。

 番号札には、生産者名も品種名も一切記載されていない。これは、花そのものを審査するに当たって、それ以外の要素、情実や偏見を排除しようという主催者側の狙いがある。

 ホールの中には、バルドル種から古来種、鉢物から切り花まで、部門ごとの出品物が並び、その美しさをを競い合っている。 

 

「今年の蘭も相変わらず素晴らしい。やはりキルヒアイスさんが出ると、品評会のレベルも上がりますな。去年などは、キルヒアイスさんも、例の方もお出にならなかったから、寂しい物でした」

「いや、私なんぞまだまだですよ。出来の良い時だけ顔を出しているだけですから。一昨年、去年は、これぞという蘭は咲きませんでした」

 

  キルヒアイス氏は、持参した二鉢の登録を終えると、早々に審査の場を離れて、他の出品者達と旧交を温め始めた。

 

 

 帝国の花卉品評会で賞を取るのは、これまで門閥貴族やその関係者が多かった。門閥貴族に対する贔屓が絶対にないとは言い切れないが、それ以上に大きいのは、彼らの資金力とマンパワーだった。

 優れた品種を生み出すのにも、それを美しく健康に育てるのにも、膨大な手間暇がかかる。門閥貴族は、金と権力を背景に、多くの人手と時間を費やす事でそれを購えた。ただそれだけの、ごく単純な事実である。

 

 その日の朝までに搬入された出品物は、午前中の内に全ての審査を終え、昼には結果が発表された。

 

「バルドルカトレア鉢物部門の銀賞はキルヒアイス氏作出のメーアザルツ(海塩)です。おめでとうございます」

 

 観衆から惜しみない拍手が、キルヒアイス氏に向けられた。彼は何を気負う事もなく、極めて普段通りに振舞い、壇上でトロフィーと賞金を受け取った。

 

 今回の品評会は、主催者が学芸省という事もあって、銀賞の賞金額は約一万帝国マルクと割合良い。現在のキルヒアイス氏の年収の二割弱である。金賞から銅賞までの三人には、副賞として蘭を象った貴金属のピンバッジが授与される。

 

 また、余談ではあるが、薔薇狂いだった先帝フリードリヒ四世。彼の時代に開催されていた、宮内省主催のバラ品評会は、優勝賞金が十万マルクに加え、記念に豪奢な宝飾品まで授与されるとあって、薔薇好きの趣味人から、人脈作りや一攫千金を狙った人間までが、異様なまでに熱心な薔薇栽培者となって、品評会に犇めいていた物である。

 

 情勢が変われば、受賞者の顔ぶれも変わる。今年の品評会で賞を獲ったのは、キルヒアイス氏の他、蘭専門の園芸農家、平民や下級貴族階層の成金と高級軍人、それにフェザーン自治領の豪商であった。昨年以前と受賞者の顔ぶれを比較すれば、今年は門閥貴族やその関係者が綺麗さっぱり消え失せている。

 この内、高級軍人とフェザーンの豪商は今回が初受賞で、更に言えば、フェザーン人豪商はこれが初出品である。

 受賞者達は、蘭に湯水のように資金と人手と手間を掛けられる人々ばかりである。その中に、たかだか下級官吏に過ぎず、設備や育種にさしたる金銭も使えないキルヒアイス氏が、独身時代から三十年近く食い込んでいるのである。

 その事実を鑑みれば、キルヒアイス氏の蘭育成に関するセンス、技術、知識、何より配合に恵まれる運の良さは驚異的であるかが分かろうという物だ。

 そういう訳で、キルヒアイス氏は、帝国の園芸ラン界隈で、それなりに名の知られた人物だった。

 

 門閥貴族から、下級官吏など辞めてお抱えの園芸家にならないかと熱心に誘われた事もあるし、そうなっていれば銀河の歴史は変わっていただろう。

 キルヒアイス氏は潤沢な収入を得て、本来の歴史よりも早く夫人と結婚し、息子はもう少し早く生まれていたかも知れない。キルヒアイス家はミューゼル家と知己を得る事もなく、雇用主の滅亡に付き合わされていた可能性も高い。

 

 

 キルヒアイス氏は、銀賞を得た青白い蘭と、別部門で特別賞を受賞した赤い蘭の前で、広報用の映像や画像を撮影されていた。なお、赤い方の名前はローターパプリカ、意味は赤パプリカ、または赤唐辛子である。彼の過去の受賞作の名前は、ヴァイスヴルスト(白ソーセージ)やクノブラウヒ(大蒜)であったりする。

 ラインハルトに俗な名前だと初対面で評された、ジークフリードという、帝国でありがちな息子の名前。実は、キルヒアイス氏の命名履歴のなかで言えば、比較的ましな部類であった。

 

 

「キルヒアイスさん、あの蘭はもしかして……」

「あの青色に拘っていたのは、あの人しかいないでしょう」

 

 金賞を受賞した園芸農家が、撮影を終えたキルヒアイス氏に話し掛けた。旧知の間柄である二人の話題の中心は、銅賞を獲得した、混じり気のない真っ青なバルドルカトレアであった。

 かつて、この青色に拘っていたのは、熱狂的な蘭マニアの門閥貴族で、品評会の常連受賞者であった。彼はリップシュタット戦役で、貴族連合軍に与したため、去年から品評会などには顔を出していない。

 

 彼らの疑問を氷解させたのは、銅賞の蘭の出品者となっているフェザーン人豪商自身であった。彼は、バルバドカトレア以外でも、古来蘭の切り花部門で金賞を獲得していた。

 彼の語る所によれば、リップシュタット戦役後、蘭マニアの遺族が金に困って、残されていた蘭株を彼に二束三文で売り払ってしまったのだという。

 

「出来れば高く買い取りたかったのですが、御主人が亡くなられて以降、蘭の手入れもままならなかったようでして……余り状態が良くありませんでした」

 

 二人はそれを聞いて妙に納得する所があった。銅賞の蘭は、花の色や薫りに傑出した物がある一方、葉や茎の色形に僅かな歪みがあるのだった。おそらく、それがこの蘭が金賞を獲得できなかった理由なのであった。

 もっとも、その些少な歪さは、彼らの審美眼だから判るのであって、普通に店頭に並んでいても、それに気づく人間は殆どいない。

 

「これから、よろしくお願いします」

 

 そう言った商人の目が、キルヒアイス氏を何とも形容のし難い熱意で眺めまわしている。しかし、それに気が付いていたのは、即売会で粗方の蘭を売り終えて、キルヒアイス氏の元に駆け付けようとしていた使用人だけであった。

 

 

 結局、賞金を含めた幾多の現金、物々交換で手に入れた有望な蘭の種株、使用人が間違って会場に持ってきた培地苗や記録ノートなどを携え、キルヒアイス氏は、午後二時頃には、急遽シュヴェーリンの館へと向かった。夜の慰労パーティ兼アンネローゼの誕生会に間に合いそうだったからである。

 なお、受賞作は、同園の特別温室で数日間展示されるのが慣例であり、彼の手元には存在しない。

 

 キルヒアイス氏は、地上車の助手席で蘭の売買記録を見ながら、感嘆の声を上げた。いつもと売る数が違うとはいえ、明らかに蘭の売単価が上がっている。例年であれば、二鉢で百から三百帝国マルクの売上だが、今年は四十鉢を売りに出して、年収の四割に当たる金額を叩きだしてしまった。

 

「それにしても、君には商人の才があるんじゃないのか」

「いえいえ、旦那様が銀賞を獲得なさいましたでしょう。そのお陰で買いにいらした方々も盛り上がられましてね」

 

 使用人は謙遜したが、一鉢辺りの単価は最大で十倍程も高くなった。キルヒアイス氏も、かつて賞を獲った時、小遣い稼ぎに幾度となく蘭を売り出したが、こんなに値段が上がった事はない。

 何故こんな出来る男が、伯爵夫人からの紹介とは言え、平民の下級官吏の所で通いの使用人に甘んじているのか。キルヒアイス氏はますますわからなくなった。

 

「ところで旦那様。なるべく早くあちらに到着しますよう、少々スピードを上げますので」

「え?」

 

 言うが早いか、使用人はアクセルを力いっぱい踏み抜いた。シュヴェーリンへの一本道を、搬送用小型地上車が凄い勢いで疾走していく。その後ろから、二台の地上車が、二人の後を追い縋っている。

 

 

 

 キルヒアイス氏が、猛スピードのドライブ楽しんでいるのと同時刻。帝都の中心、新無憂宮では最悪の事態が進行していた。

 

 午後一時半。

 新無憂宮の現在の主、エルウィン・ヨーゼフ二世は、銀河帝国皇帝であると同時に、まだ七歳の男児に過ぎない。従って、彼のスケジュールには、昼寝の時間が一時間半から二時間ほど用意されている。

 幼児の昼寝時間は、一般的には遊び疲れた子供の休息など、子供の健やかな成長を考えて行われるが、エルウィン・ヨーゼフ二世の場合はそうではない。側仕え達にとっては、癇癪持ちで面倒の掛かる子供から、一時的に解放されるための休息時間として認識されていた。であるからして、少年の体調や気分がどうであれ、その時間に無理矢理寝かしつけるのが、常態化していた。

 ここ最近は、皇帝誘拐の可能性を考えて、警備側の人間から、外出を控えるよう進言もあって、少年は外に出て思い切り遊ぶ事が出来ない。

 その為、あまり体も疲れておらず、エルウィン・ヨーゼフ二世は、この日も昼寝の時間が近付いて、寝室に連れて来られても、全く眠ろうとはしなかった。

 側仕えが、無理矢理寝室に連れて来られたことで幼帝が癇癪を起す前に、ジュースを飲ませた。すると、エルウィン・ヨーゼフは、見る間に眠気を催して、自ら豪華なベッドの中に潜り込んだ。ジュースの中には、強力な睡眠導入剤が混入されている。それは今年に入ってから、当たり前の様に行われている悪癖であった。

 

 本来、子供の健やかな成長を考えれば、強力な薬剤を用いるべきではないのは当然だ。が、これには理由があった。

 皇帝がぐずり出して騒ぎになれば、皇宮を警備する兵士や、その責任者であるモルト中将が出張って来る。

 これは、皇帝誘拐を案じたが故の行動であったが、皇帝誘拐の危険性など露ほども考えぬ侍従達には、ただ煩わしかったのである。皇帝が安らかに昼寝をしてくれていれば、警備兵達が顔を見せる事もなく、侍従達はゆっくりと休息出来る。

 

 つまり、皇帝への睡眠導入剤の投与は、主に周囲の大人達の勝手な都合であって、少年の健康や将来を案じたものではない。

 侍従達は、幼帝への薬剤投与に対して何ら良心が咎めなかったので、普通にこの事実を帝国の上層部に報告していた。しかし、幼帝を持て余していたラインハルトを始めとして、この事実を知る誰もが、ある種の幼児虐待を為すがままに放置しておいたのである。

 

 エルウィン・ヨーゼフという少年は、両親は既に亡く、現在身近にいる大人の誰からも軽んじられ、疎んじられながら、利用されて来た子供であった。

 子供らしい無垢な愛らしさも、隔絶した美貌を持っている訳でもない。癇癪持ちの気質もあって、言動一つとっても可愛げがない。

 何かの才能や英邁な資質を秘めていた可能性はあるが、それらは芽が出る前に周囲の大人達によってスポイルされた。

 少年が皇帝の座にあるのは、広大な帝国を治められる器量や才覚の成長を期待されての事ではなく、ゴールデンバウムという、宇宙の半分から憎悪と怨嗟を向けられる一族の血を引いたために過ぎない。

 

 だからと言って、それらの事項は七歳児への虐待的な扱いを何一つ正当化しない。大人達が、その事を眼前に突き付けられるのは、後日のことになる。

 

 

 午後三時半。幼帝の養育係である三十代の婦人が、少年を起こすために寝室に入った。彼女が丁重に寝具を捲りあげた時、そこにあったのは幼帝と同じ大きさの人形であった。

 昼寝に入った午後一時半から午後三時半までのいずれかの時点で拐されたのは確かだ。しかし、睡眠導入剤によって深い眠りに陥っていた少年は、犯人の顔を見る事もかなわず、声一つ上げる事もなかったため、それが正確に何時の事だったかは、終ぞ分からず仕舞いであった。

 

 宮中警備兵が異変に気が付いたのは、三時三十三分、皇帝が誘拐された事を侍従達の口から聞かされたのは更にその五分後である。宮中警備兵は、すぐさま警備責任者であるモルト中将に連絡を取ったが、中々連絡が繋がらない。

 

 その時、宮中警備本部のモルト中将は、既に事切れていたが、警備兵はそんなことを知る由もない。幾度か連絡を試みた後、何らかの不測の事態が起こったものとして、現場の警備兵達は他の場所、憲兵本部への連絡に切り替えた。

 連絡を取っている最中の警備兵達と、その通話相手たる憲兵本部の士官の耳に爆音が響いたのは、三時四十分。その直後、寝室近くの警備兵と侍従や宮女達の殆どは、まとめて現世から強制退場させられた。

 それらは、警備本部と、皇帝の寝所で起こった爆発によるものであった。

 

 後に判明する事だが、検死の結果、モルト中将は三時以前に何者かによって、背中から刺されていた。その前後に、憲兵隊の士官を名乗る人物が、緊急の連絡有として警備本部を訪れ、数分後に退出するのを、生き残った士官からの証言、復元された監視カメラ映像、入退出記録から確認した。

 

 いかし、いずれにせよ、これらの事実が判明するのは、数日後の事であって、現時点での帝国軍は何の情報もないまま、これらの事態に対処せねばならなかった。

 特に、モルト中将ら現場指揮官を欠いた宮中警備隊は、統率者と方向性を失って右往左往し、新無憂宮での捜索活動において、著しく精彩を欠いた。

 

 憲兵総監ケスラー大将が、これらの一報を受け取ったのは、午後四時半を過ぎた頃である。彼は帝都オーディンの外れにある軍事施設へ視察に訪れていた。

 ケスラーは、連絡を受け取ったその場で、宇宙港の閉鎖や、幹線道路の封鎖、憲兵隊の総動員などを即座に指示したが、事態は悪化の一途を辿った。

 

 ケスラーが視察先から駆け付ける間に、オーディン宇宙港、下賜の酒が振る舞われていた帝都中心部のルドルフ大帝記念広場、貴族街など、帝都の数か所で爆発が起こった。一般市民に二千人近い死者と、それに倍する怪我人が発生しており、ケスラーはそれを地上車の中で矢継ぎ早に聞かされる羽目になった。

 幹線道路のいくつかは、爆発事件に伴うパニックによって多重事故が発生し、封鎖を指示する前に、帝都中心部の交通網は麻痺しかかっていた。

 

 一方で、憲兵隊の多くは、この日帝都郊外にあるサイオキシン麻薬の密造工場など、これまでの捜査で発見された数多の犯罪組織の一斉摘発に動いているか、聖霊降臨祭のお祭り騒ぎを監視するために動員されていて、それを今すぐ集結させるのも難しかった。

 

 こうして、帝都は混乱の内に夕方を迎えた。

 

 

 ローエングラム公ラインハルトは、オーディン近郊の養護院で、菓子を子供達に振舞うイベントを終えて、その足で元帥府に入った。夕方の五時頃である。

 

 この時点で、ラインハルトの側には、副官のシュトライトやリュッケの他、キスリングら親衛隊員が既に揃っていたが、宰相付首席秘書官であるマリーンドルフ伯爵令嬢ヒルダは、未だ元帥府に到着していない。

 帝都の貴族街にはマリーンドルフ家代々の館があり、ヒルダはそこから出勤している。幸いにも貴族街の爆発は、マリーンドルフ家の邸宅からは遠く、屋敷や住人自体には微塵の損害もなかった。

 だが、そこから元帥府までの道路と市街は、相次ぐ爆破事件で混乱の極みに達していたために、まともに地上車が通れるような状況ではない。ヘリコプターなどを飛ばすには近すぎた。徒歩ではやや遠く、それにしたところで、警護なしで彼女を歩かせられるような状況ではなかった。

 

 貴族街で起こった爆破は、前財務尚書ゲルラッハ子爵邸近郊でのことであり、彼の妻子や使用人達が犠牲になった。ゲルラッハ子爵は即死こそしなかったが、意識を取り戻さぬまま、搬送先の病院で数日後に亡くなった。 

 

 

 

 元帥府にようやく着いたケスラーは、ラインハルトの前に跪き、己の失態を詫びた。

 

「今は失態を謝罪するより、事態の解決を優先せよ。陛下の御身を何としても取り戻すのだ」

 

 ラインハルトはそう言って再び現場にケスラーを送り出したが、これが単なる執行猶予に過ぎない事を、ケスラー自身がよく理解している。

 

 皇帝の誘拐から、その発覚と対処までに、最大で三時間もの空白時間が既に出来ていた。オーディン宇宙港を閉鎖、前後に出航した宇宙船の臨検を開始してはいるが、最悪の場合、既に惑星オーディンの地表にいないどころか、周辺宙域から離脱している可能性すら考えられた。

 

 

 ケスラーは、過去においても現在においても、無能ではありえなかった。だが万能でもなかった。

 ケスラー率いる憲兵隊は、まだ改革の途上であって、その成果が結実するには少しばかり時間の猶予を必要としていた。

 その隙を突かれたのだ、とケスラーがはっきり認識したのは、憲兵隊の士官の内、事件に巻き込まれるなどして、この時点で死亡ないしは連絡の取れない人間のリストを確認していた時の事だった。

 末端の兵士達はさておき、モルト中将の他、ケスラー着任以前から憲兵隊にいた中堅以上の士官ばかりがごっそりリスト入りしているのである。

 

 ケスラーは憲兵隊に着任して早々、汚職の当事者達を厳しく処罰、悪行酷い者や彼に反抗的な人物を、辺境や死刑台に送って威を示し、既存の憲兵隊を自分に従順な犬に変えた。

 それと並行して、自分の艦隊から士官を引き抜いて、憲兵隊士官の半分程を己の息の掛かった者にした。

 これ自体は、彼の意志の下で組織を掌握するに当たって、必ずしも悪手ではない。この試みが成功していれば、彼は憲兵隊に新風を吹き込んだ改革者として、後世に名を遺しただろう。

 

 だが、ケスラーがとった手段は、一時的にではあるが、憲兵隊の捜査能力の低下、自主性の欠如を招いた。

 ケスラーの着任直前までいた汚職士官達は、単なる無能や悪ではなく、彼らは長年の現場経験や、独自の情報網を有している場合が多かった。

 そうでなければ、とうの昔に、彼らは憲兵隊から放逐されていただろう。仕事が出来るからこそ、少々の悪行や不品行が大目に見られたのである。

 

 ケスラーが実権を握って以降、憲兵隊の人間の殆どは、粛清を恐れるあまり、必要最低限の判断しか行わず、ひたすらケスラーの命令と顔色を伺うだけのイエスマンと化した。

 ケスラーが自艦隊から引き抜いた士官達は、能力や自主性はともかく、憲兵隊に必要なスキルや経験を有していなかった。

 もっとも、時が経てば経験を積むことも、必要な能力を身に着ける事も出来るはずで、ケスラーはあまりこれを問題視はしていなかった。

 時が経てば、ケスラーが抜擢した士官達は、清廉で従順な現場指揮官として、彼の役に立つはずだった。

 

 現在の帝国軍首脳部は、艦隊司令官上がりが多い。彼らは、憲兵隊の仕事を『地上を這いまわる犬の如き』と、軽蔑する風潮があった。

 それは、艦隊司令官として多くの経験を積んできたケスラーも同じで、彼は憲兵隊の独自のノウハウという物を、同僚達程ではないにせよ、いささか軽視しているきらいがあった。

 

 それでも、ケスラーは有能であったから、彼が直接憲兵隊を差配することで、その弱点の埋め合わせはされていた。

 しかし、ケスラーが、末端の一兵卒の一挙手一投足まで指示する訳ではない。ケスラーの命令を、うまく咀嚼して兵士達に伝えられる、現場指揮官が必要だった。

 現時点でケスラーが引き抜いた士官達は、その任を全うするには経験が不足していた。その穴を埋めていたのが、旧来から憲兵隊にいて経験も判断力もあり、汚職にも手を染めていない、数少ない良識派士官達だったのである。

 

 事件の首謀者は、的確に憲兵隊の弱点を狙っていた。

 

 そして、憲兵隊の監視下にあったランズベルク伯とシューマッハの偽物が、連続する爆破事件に巻き込まれて、死亡したという一報が、ケスラーに追い打ちを掛けた。

 

 この時、彼は、自分の喉元に見えざる刃が突き立てられたのを悟った。

 ラインハルトの知遇を得、将来を嘱望されていた若手将官の胸を、これまでに感じた事のない恐れと敗北感が侵食した。

 

 

 当時と後世において、ウルリッヒ・ケスラーに関して、大別して二つの意見がある。

 一つは、無能ではないが運がなかった。彼の就任したタイミングが甚だ悪かった、単純に彼には時間が足りなかった、と考える一派。

 もう一つは、足りなかったのは運でも時間でもなく、事件までにうまく憲兵隊を使い物に出来なかった、ケスラーの運営能力の欠如である、とする者。

  

 そして、現在進行形で事件が展開している現在において、オーベルシュタインに報告を持ち込んだ男は、どちらかと言えば後者に近い意見を保有していた。

 

 

「艦隊戦なら、遭遇戦でもない限り、仕掛けた側も仕掛けられた側も、戦いの時期と場所はある程度予測可能です。そうでなくても、ずっと後方にあって将兵達を訓練してから、最前線に出すことも出来たでしょう」

 

 丸々と太った赤ん坊の様な外見を有する男は、まるでオペラのアリアを歌うように嘯きながら、義眼の軍務尚書代理に調査資料を提示した。

 

「陰謀は、艦隊による正面決戦とは違います。陰謀は仕掛けられる側にとって、いつどこが最前線となるかもわからぬのです。僭越ながら、ケスラー大将は、艦隊運用と同じように憲兵隊を統率なさろうとして失敗したのです」

 

 元内務省社会秩序維持局長官ハイドリッヒ・ラングが提示した書類には、ある老夫婦と、その親類縁者についての、簡潔な報告がまとめられていた。

 

 オーベルシュタインが、ラングに何か言いかけた所で、オーベルシュタインの元に直接の通信が入って来た。軍務尚書代理は、無表情の内に、ラングを退出させる。

 

 執務室の通信画面に現れたのは、グリューネワルト伯爵夫人アンネローゼの、美しい面差しであった。

 

 

 フェルナーが報告を持ち込んだのは、ラングが退出した後、夕方六時過ぎの事であった。

 

「蘭の花を無事に届けたと、配達人から報告がありました。それと、古い温室の方が、近隣の爆発事故で、半壊しているそうです」

「こちらも今しがた、受取人から丁寧な礼を頂いた所だ。あちらの温室には虫がいない事は確認済みだ。水も肥料も充分ある。嵐が過ぎ去るまで置いておくのに問題はないだろう」

 

 オーベルシュタインは、そう言うとラングからの報告書を無造作に執務机の上に放り出し、ラインハルトのいる元帥府へと向かった。

 

 捲れ上がった書類には、老夫人と少女、二人の女性の顔写真と幾つかの無機質なデータがあり、最後にこう締め括られていた。

 

 『ベックマン夫人と、彼女と母系の上で繋がりがあるはずの少女に関して、ミトコンドリアDNAは一致せず……』

 

 『従って二人の間に、血縁関係は認められない』

 


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