死に損ねた男   作:マスキングテープ

11 / 14
第10話 必死な男

 オーベルシュタインがシュヴェーリンの館を訪ねたその日、元帥府と軍務省は、夜遅くまで煌々と明かりが灯っていた。オーベルシュタインはシュヴェーリンから、直接元帥府に馳せ参じ、フェルナーを軍務省に向かわせた。

 オーベルシュタインが地上車を降りると、水瓶をひっくり返したような雨が降り注いでいた。彼は水たまりが撥ねるのも気にせず、元帥府玄関までの僅かな距離を一気に走り抜けた。

 

 元帥府の執務室では、些かも疲れた様子を見せないラインハルトが、オーベルシュタインの到着を待っていた。

ラインハルトは、この日の昼に出頭させた、帝国駐在弁務官ボルテックとの話について掻い摘んで要点を語った後、極小型の音響機器を机の上に置いた。

 再生スイッチを押すと、ボルテック弁務官のやや気取った喋り声が聞こえて来た。オーベルシュタインは、それを無言で受け取る。

 

「首尾はいかがでしたか」

「フェザーンでは、役人とは、独立して商売をやる覇気も才能もない人間がなる職業だ、という言い回しがあるらしいが、それは一部真実なのかもしれぬな。ボルテックは、商売人にはあまり向いていない男だと見える」

 

 ラインハルトは、ボルテックがランズベルク伯とシューマッハについて通報したのが自分達である事を堂々と白状し、幼帝誘拐の件でフェザーンとの共謀を持ちかけて来た事を説明した。皇帝を同盟に亡命させることで、同盟を侵攻する正当な口実を与え、ラインハルトに全宇宙を掌握させる。その代りに、フェザーンとしてはその経済的利益や権益を頂戴したい、という事であった。

 ボルテックとのやり取りの結果、同盟侵攻の口実、幼帝の穏やかな排除の他、フェザーン回廊での帝国軍の無条件通行を、ラインハルトはボルテックを通じてフェザーンから毟り取った。

 

「商売にも色々あると思うが、雨で難儀している時に傘を売れば良かったのだ。まだ青空が広がっている段階で傘を売っても、簡単に高値では売れぬだろうに。ボルテックは売り時を間違えたのだ」

 

 ラインハルトは、ケスラーがまとめた報告書をオーベルシュタインに提示した。オーベルシュタインが、拝見しますと言って、それに目を通す。

 そこには、フェザーンから密告があり、憲兵隊が密かに監視しているランズベルク伯とシューマッハに関して、二人の潜伏先から密かに髪の毛などを採取し、DNA検査などを行ったと記されていた。

 その結果、軍歴があるシューマッハは、個人認証用の情報が残っていたため、そちらと照合したが一致せず。

 ランズベルク伯は、リップシュタット戦役まで軍歴がないため、帝都にある旧ランズベルク伯邸からDNAサンプルを採取して確認を取った。旧邸からは複数人分のDNAが採取されたが、いずれとも一致しなかった。

 以上の事から、彼らはランズベルク伯とシューマッハ本人ではない可能性が高いと記されていた。

 

 ラインハルトの方は、オーベルシュタイン配下である情報部の報告書を読んでいた。そこには、フェザーン総合病院に入院していた男性患者二人、ゲオルグとフェルディナントの検査用血液サンプルと、上記のデータを密かに照合させた結果、一人はシューマッハの本人であると確認が出来た。もう一人の方も、旧ランズベルク伯邸で採取されたサンプルの一つと合致しており、本人である可能性が高い旨が、簡潔に報告されている。

 

「おまけに売る商品の実態についても知らぬと見える。さて、ボルテック自体はへぼ商人だが、後ろで動いている黒狐が厄介だ。ボルテックが良い目くらましになっている」

「ケスラー大将も良くやっておられますが、なかなか狙いの魚を釣り上げられず、雑魚ばかり釣り上げているようですな」

 

 ラインハルトとオーベルシュタインは、つい先日帝都に移送されたランズベルク伯とシューマッハから、おおよその経緯を聞く事が出来ていた。

 彼らによれば、ランズベルク伯は騙されて、シューマッハは部下の生命を盾に脅されて、幼帝誘拐の実行者に仕立て上げられたという。

 ところが、亡命先として当てにしていた同盟が、イゼルローン失陥という大敗を期した。

 ランズベルク伯は、この時点で騙されているとは気付かなかったので、陛下の安全を考えれば、今である必要はないのではないかと口にした。

 ところが、フェザーン側の代理人、ルパート・ケッセルリンクなる人物は、連絡役を通じて、なお皇帝誘拐の計画を当初のスケジュール通りに実行しろと告げて来た為、流石のランズベルク伯もおかしい事に気が付いた。

 更に、シューマッハが部下を人質に取られている事をランズベルク伯に言ってしまい、ランズベルク伯が随分とショックを受けたらしい。それ以来、ランズベルク伯は計画に乗り気ではなくなった。シューマッハは元からだが。

 そうやって時間稼ぎをしながら、彼らはフェザーンが関与しているという証拠を集め、帝国への通報の機会を窺っていた。ある日、彼らは連絡役だったフェザーンの工作員ごと殺されかけたのだという。

 更に入院先でランズベルク伯の命が狙われるに至り、シューマッハはフェザーンの監視の目を潜って、帝国高等弁務官事務所に駆け込んできたのだという。

 それらは、病院関係者の話や診断から一応の裏付けが取れていた。

 

 シューマッハによれば、皇帝誘拐に際して陽動を掛ける予定であり、自分達が使い物にならなくなった今でも、工作員が帝都内に多数潜伏しているだろう、との事であった。

 

 それらの言を受けてラインハルトが命を発し、先月から憲兵隊が帝都中を必死になって洗っている。その為、帝都内の小規模な犯罪組織が次々と摘発されたりしているが、肝心の獲物にはさっぱり結びついていない。ラインハルトは、苛立たし気に唇を噛んだ。

 

「まだ、まだ何かあるはずだ。こちらの知らない何かを黒狐は隠し持っている」

「ランズベルク伯によりますと、伯爵家に代々伝わる秘密通路を経由して皇帝を連れ去る手筈だったようですな。歴代皇帝と皇位継承権保有者の数だけ、新無憂宮の地下に迷路じみた秘密通路と、それに関わった技術者や貴族がいるのです。フェザーンがランズベルク伯以外の候補者を見つけていても、何の不思議もありませんな」

 

 ラインハルトは、その秀麗な面持ちを窓の外に向けた。もうすぐ日付の変わろうとする夜中、外ではまだ土砂降りの雨が降り続いている。彼が口にしたルビンスキーへの警戒は、論理や確たる物証に基づく推理というより、戦場を生き延びた者特有の嗅覚から発していた。

 

「引き続き、二人から話を聞き、帝都内の捜索を続けよ。偽物の方はケスラーに引き続き任せるとして、フェザーンと表面上繋がりがない者もこの際対象に入れるべきだろうな」

「御意。しかし、そうなりますと人手も時間も足りませぬな」

 

 この広い帝都と、そこに行きかう人々全てを調査するには、憲兵隊にしろ、情報部にしろ、人間が足りず、事実上不可能であった。

 ラインハルトは舌打ちをした。これがルビンスキーの狙いの一つだと考えると不愉快だった。

 警備の手を緩めてわざと皇帝を誘拐させ、その分を捜査に振り分ける事も考えた。しかし、ランズベルク伯やシューマッハらの一件を考えると、誘拐とその陽動だけの穏当な線で済むのか怪しい。

 ボルテックは、多大な流血はフェザーン人の好むところではないと請け合っていたが、彼の背後ではルビンスキーが別の動きをしている。そうである以上、ボルテックの意志とは別に、その発言は信じるべきではないだろう。

 

「何の捜索を優先するかは、卿やケスラーの判断に委ねる。……とにかく全力を尽くせ。何かあってからでは遅いのだ」

 

 オーベルシュタインは、頭を下げると、ふと思い出したようにラインハルトに告げた。

 

「そう言えば、姉君が、あれほど過密な予定を続けていては、いずれ体調を崩されるのではと仰って、閣下の事を心配なさっておいででした」

 

 ラインハルトは、それに対してはうんともすんとも返事を返すことなく、無言のうちにオーベルシュタインの退出を促した。

 

 

 

 シュヴェーリンから帰還して、いつもの様に出勤したキルヒアイス氏を待ち構えていたのは、息子とさして年の変わらない上司からの、長く遠回しな訓示、あるいは嫌がらせであった。

 

 上司の機嫌を何故損ねたのかも分からず、キルヒアイス氏は、若い係長の発言を、内心はどうあれ、粛々とした面持ちを維持しながら聞いている。

 

 氏の一人息子ジークフリード・キルヒアイスは、帝国軍上級大将の地位にあるが、それは司法省はもちろん、キルヒアイス氏の出世には何の関りもない。

 もっとも、その一人息子が、現在の帝国宰相ローエングラム公ラインハルトの個人的な友人で、覚えも目出度い、という付帯事項は非常に重たい意味を持つ。

 キルヒアイス氏自身は、息子の立場を気に掛けていはいるが、自身もラインハルトと縁が深いのだという自覚は薄い。それは、他人事ほど自分の事は良く見えないからかもしれないし、ラインハルトと碌に顔を合わせた事もなければ、キルヒアイス氏がラインハルトが権力を握る前も後も、全く出世する気配がないからであった。

 

 キルヒアイス氏は、未だ司法省の一下級官吏、より正確を期すなら司法省民事局総務課総務係長補佐である。この地位は、下級官吏としては結構な出世である。

 しかし、役職は、ラインハルトが権力を握る以前からの既定路線である。キルヒアイス氏がこの地位に着くにあたり、ラインハルトは何一つとして寄与していない。

 下級官吏の順当な出世終着点として、係長補佐があるのは、経験豊富で気の利く下級官吏が補佐について、右も左もわからない上司を支える、という狙いがある。

 身分だけで上級官吏になったような無能はもちろん、有能でも経験の浅い若手官吏が、いきなり現場の指揮官になった所で、仕事は回らない。

 キルヒアイス氏と、目の前の若い係長もその慣習の典型例と言えた。

 

 なお、下級官吏から上級官吏になった場合は、各省庁の下部組織ないしは地方星系にある各省庁支部の長に任じられるのが慣例で、オーディンの省庁本部の係長職に充てられる事はまずない。

 

 帝国の下級官吏は、帝国軍に例えれば下士官に相当する。出世は事務処理能力、年功序列、派閥力学、何より最初にどんな上司にあたるかという運で、その後の昇進がほぼ決まった。

 定年間際に各省庁本庁の係長にでもなれれば、下級官吏としては大出世である。そして下級官吏の殆どはそこまで到達出来ずに終わる。各省庁本庁の係長は、軍人で言えば尉官と言ったところであろうか。

 

「先日、開明派グループの会合があってね、そこで御二方が、君の事を高く評価されておられた」

 

 キルヒアイス氏は、自分が何故上司の機嫌を損ねたかに気付いて、僅かに眉根を寄せた。

 

 現在、ラインハルト体制下で采配を振るうカール・ブラッケ、オイゲン・リヒターら開明派グループは、現役の上級官吏達がその成員の全てである。

 上級官吏になるためには、帝国上級文官試験を受けて合格せねばならない。これには、大学を卒業しているか、下級官吏として一定年数勤続し、上司の推薦を受けている事が受験資格となる。

 また、ラインハルトが覇権を握る以前であれば、門閥貴族枠が存在し、爵位や家格に応じて相応の官職が授けられた。

 

 下級官吏にとっては大出世の各省庁係長も、上級官吏達にとっては単なる出発点である。

 

 なお、下級官吏は、各省庁の人員補充を目的として、年一回採用試験が実施される。

 これには受験資格に上限があり、上級官吏との差別化のためか、大学卒業者及び予定者は受験不可、年齢も二十歳以下と定められている。

 いずれの試験にしろ、各省庁の欠員状況に応じて採用人数が決まるため、年によって合格率が大きく変動する事もそう珍しくはない。キルヒアイス氏も、高等学校を卒業後、試験を受けて司法省に採用された。

 

 以上の様な事情から、上級官吏は下級官吏を学もないボンクラと見下しているし、下級官吏は上級官吏をエリート意識と権力を振りかざして無茶を押し付ける頭でっかちと看做している。

 

「どうやら、君の息子さんを通じて名前をお知りになられたようだが……君をグループに招きたい、と私に頼まれてね」

 

 つまり、彼の自尊心を支える集団に、能無しの下級官吏が混じるのが嫌なのだ。今をときめく開明派の重鎮が名前を憶えていたからと言って、それがどうだというのだろう。あと数年で定年を迎える下級官吏など、上級官吏から見れば、競争相手ですらないのだ。無視して別の事に労力を割けば良いのに。と思ったが、キルヒアイス氏はそんなことを口にするほど迂闊ではない。

 

 下級官吏としてのキルヒアイス氏にとって、ラインハルトが権力を握って得をしたことと言えば、給料額が上がった事位で、それも官吏全体の話である。

 

 これまで、官吏の給料は、貧民よりややましなレベルの年収であった。特に本庁勤務の場合は、軍人や地方勤務と違い、各種手当を得る機会の少ない分だけ安い。

 キルヒアイス氏が三十を過ぎてから夫人と結婚したのも、一つには、任官したばかりの給与では、妻だけならまだしも、将来生まれるであろう子供まで養っていくのは厳しかった、という事情がある。

 もし新任時代のキルヒアイス氏が、今の一年目官吏と同水準の給与をもらっていたら、夫人との結婚を十年近く待つ必要はなかっただろう。多少の物価変動があって一概には比較できないのだが。

 

「開明派グループには、上級官吏しかいない。君が下級官吏としては初めて呼ばれる訳だ。長年の現場経験という物に対して、期待しておられるようだ」

 

 係長はそれがさも素晴らしい事の様に口にしたが、聞いた方は下級官吏への露骨な侮蔑を感じずにはいられなかった。

 

 ルドルフ大帝以来、帝国では、国家に奉職する事は高貴なる者の義務であり、優秀な者に対する名誉であって、生活の糧を稼ぐための手段ではないと、一般的に解釈されている。

 実際、帝国の上級官吏や高級士官は、その多くは貴族、富裕な平民など、教育に力を注ぐ余裕のある家の出が圧倒的多数を占める。彼らは、実家や自身が資産持ちであるが故に、官吏や軍人としての給料が安い事はそれほど大きな問題にならない。

 一方で、貧乏な貴族や平民が、官吏や士官になった場合はどうか。彼らは安月給について上に文句を言う代わりに、立場を利用して得られる金銭や物品で生活を購うか、誰か有力者の忠実な手下になって厚遇される事を選ぶ。

 軍人の場合、各種手当がついて官吏よりはましな給料である。任地での衣食住は支給で、生活費が掛からないため、官吏よりは可処分所得が多い。

 しかしいつ戦死するか分からないという不安もあって、貧家の出身者は誰かの紐付きが多く、そうでなければ汚職の当事者であるのが殆どだった。

 それが、かつて帝国に汚職や賄賂が蔓延り、官吏や軍人が、市民に公然と袖の下を要求出来る大きな理由であった。

 

「どうかね」

 

 係長は表面上とてもにこやかだが、その眼差しからは露骨に、断われという意志が痛いほど伝わって来た。そういう意志を隠せないのは、若さゆえか無能だからかは分からないが、いずれにしても大した出世は望めないだろうと、かつて仕えた上司達を思い出しながら、キルヒアイス氏は査定した。

 しかし、ここで直属の上司の機嫌を損ねるのも得策ではないので、キルヒアイス氏も相手の意志に沿って返す。

 

「いいえ、私の様な人間が、皆様方のお話に付いて行けるとも思われませぬ。そこまで評価して頂けただけでも」

 

 この帝国で出世するには、能力や仕事ぶり以上に人脈も大切になる。

 その為、賄賂など限りなく黒いやり方から、パーティなどの開催、参加、食事や酒席の付き合いまで、とにかく顔つなぎのための出費が多い。

 特に上級官吏や高級士官ともなれば、職務を円滑に進めるためにも、幅広い交際が欠かせない。

 何しろこの国では、政治や軍事の重要事項について、しばしば私的なパーティーの席上で、その提案から決定までが行われるのだから。

 

 上を目指せば目指すほど、その手の出費が加速度的に増えていく為、実家がそこそこ裕福でもその負担に耐えられなくなることも多い。出世の為に、借金までして費用を捻出する者さえ珍しくない。

 こうして、帝国を上を目指すために汚職に手を染める人間も後を絶たず、上に到達後は、投資を回収する為に、汚職に精を出すのである。

 

 つい一ヶ月ほど前、汚職などの罪で起訴されたシャフト前技術総監が、その典型的人物であった。

 彼は若い頃は真面目な科学者であったが、実家は貧しく、生活の為に汚職に手を染め始めた。そこそこ出世し始めた頃には、汚職に対する罪悪感など消え失せ、最早彼自身にも暴走する欲望を止められなくなっていたのである。

 

 今年の春から、ラインハルトが官吏の手当てを一律で引き上げたり、軍人の補償を手厚くしたりしているのは、その様な事情を知悉する、ブラッケやリヒターの提案によるものであった。 

  

 キルヒアイス氏は、そのような事を思いながら、内心で溜息を吐く。

 

「くれぐれも閣下らのご厚意に甘えることなく、職務に精励する様に」

 

 それに型通りの謝辞を述べた後、キルヒアイス氏は何一つ実りのない訓示から解放された。

 

 

 結局、昼食も碌に食べられないまま、キルヒアイス氏は午後の職務に突入し、定時を迎えた。彼が常にない疲労感と空腹に襲われながら、帰宅準備を始めた。

 司法省の建物を出た途端、雨まで降って来て、キルヒアイス氏の気分はさらに下降線を辿った。

 

 途中、官公庁街の近くで、先日オーナーが代わってリニューアルした、高級レストランの前を通りかかった。佐官や将官達が、吸い込まれるように店の中へと入って行く。

 一瞬、空腹の為に、店に入って食事をしたい気分に駆られたが、店から出て来た人々の会話から料理の値段を漏れ聞いて、キルヒアイス氏は、そっとその場を去った。

  

 ふと、前方から佐官の軍服を来た若い男と、美しい少女が連れ立って歩いているのが、キルヒアイス氏の視界に入った。大きな黒傘の下で、二人は親しげに言葉を交わしあっている。

 男は特に美男子でもないが、やや堅物そうな、感じの良い青年である。少女の方は、淡いカスタード色の髪に、オーディンの夏の晴れた昼空を思わせる、澄んだ空色の瞳をしている。絶世の、という程ではないが、成長すれば更に美しくなるだろう、と皆に思わせるだけの何かを備えていた。

 

 男はともかく、少女の方には見覚えがあったので、キルヒアイス氏は軽く会釈をした。少女こそが、ベックマン夫妻が迎えた養女である。少女は、キルヒアイス氏の視線に、やや頬を赤らめた。その仕草は、大人びた外見に反して年相応で、とてもかわいらしい。彼女は優雅な動作で会釈をして、そそくさと先程のレストランに入って行った。

 キルヒアイス氏は、あたりを憚らぬ様子や、男が憲兵隊の襟徽章を付けていた事から、何となく養父母公認の恋人か婚約者だろうか、と考えたが、疲労感と空腹から考えがまとまらない。

 

 

 やがて、キルヒアイス氏が自宅近くに来ると、寂しげな風情のべックマン夫人が、良く手入れされた庭の花々を、雨空の中でぼんやりと見つめていた。

 

 挨拶の声を掛けようとしたものの、急に腹の虫が鳴って、キルヒアイス氏は気恥ずかしさから、そそくさと使用人の待つ自宅に帰った。自宅の外まで、夕食の良い匂いが漂っている。

 

 

 

 フェザーン中央総合病院の小児科待合室。貴族的な美男子が待合室の椅子に堂々と腰を下ろしていた。彼の隣にいる、顔立ちのよく似た少年は、宇宙船についての図鑑本を読んでいる。そこへ看護婦のクララが通り掛かった。少年の方が、クララを見つけて元気よく声を掛ける。

 

「あっ。クララさん、こんにちは」

 

 声を掛けられて、クララは反射的に挨拶を返しながら、少年の方を見た。救急から小児科へと転科した、子供の患者の中の誰かだろうと思ったのである。しかし、そこにいたのは、帝国の空港で出会った子供と、クララの元上司で子供の叔父であった。

 

「あれ?先生。今日はどうなさったんですか」

 

 先生と呼ばれた男は、キルヒアイスの前主治医で、今はこの病院の外科部長代理をしている。彼は、傍にいた七歳児の頭を愛おしげにぐりぐりと撫でた。少年は最初まんざらでもなさそうに撫でられていたが、クララの方を見てから、恥ずかしそうに叔父の手から逃れてしまった。

 男は黙って、幾つかある診察室の一つを指差した。その扉の案内プレートには、小児予防接種外来と書かれている。

 

「秋からこっちの初等学校に進むんだが、帝国で受けていない予防接種があってな」

 

 フェザーンは、帝国と同盟二つの国を繋ぐ境目にあって、貿易と商業で栄えている。その為、伝染病などに対する対策も徹底しており、それは帝国や同盟以上の厳密さを誇っていた。

 帝国や同盟では任意の接種でも、フェザーンでは必須である場合も多い。もっとも、この種の医療施策は、同盟はともかく、帝国は劣悪遺伝子排除法に関わる物以外さしたる関心を寄せておらず、比較してもあまり意味がない。

 何時もの白衣ではなく、明らかにプライベート仕様の服装をしている相手に、彼女は疑問をぶつけた。

 

「でも、先生の家には執事さんとかいましたよね?」

「任せても良かったんだが、最初は俺が連れてきた方が早く済むからな」

 

 後は、将来の職場見学、と続いた答えを聞いて、クララは苦笑いするしかなかった。お父さんみたいですね、という言葉を、彼女は何とか堪えて、少年を見た。

叔父と同じく、フェザーンで一般的なファッションをしているが、それをきちんと自分の物にしている叔父に対して、少年はどこか着慣れていない印象がある。

 少年は、目鼻立ちこそ叔父に似ているが、その色彩は驚くほど異なっていた。叔父は黒茶の髪に、虹彩の位置が分からないほど黒い目で、肌は小麦色。一方、甥は上質の蜜蝋のような透明感のある薄金色の髪に、アクアマリン色の瞳と、やや青白い肌の持ち主である。よく似てはいても、彼らが血縁上の親子ではない事を、その色彩が如実に現していた。

 

 三人が会話を続けていると、ネイビーカラーのスクラブタイプのユニフォームを来た優男が、薄板状の端末に視線を落としながら、三人の方へ近付いて来た。

 彼のユニフォームは、ここの救急センターに勤務する医師だけが着る物で、首に掛かっている認証カード兼名札には、救急救命センター副センター長の文字が記されている。

 その副センター長は、外科部長代理の姿を見つけると、上機嫌を絵に描いたような表情を浮かべた。外科部長の代理の名前を親しげに呼び掛け、副センター長は、水鳥が水面を滑る様な、滑らかな足取りと速さで歩み寄ってきた。

 

「例の件考えてくれた?」

「嫌だ」

 

 いきなり本題を切り出して来た相手に、ごく短い即答で、外科部長代理は頼みを切り捨てた。しかし、それで諦めるような男が、四十を前に大病院で地位を築ける訳もない。副センター長は、いっそ大げさな位声を上げて、外科部長代理にしがみ付いた。

 昼食を買いにここを通っただけのクララは、少年に小さく手を振って、こっそりその場を離脱した。

 

「何もしないから!見るだけ、触るだけだから!勿論見返りなしとか言わないから!……この溢れる情熱を、好きという気持ちをなんでお前は分かってくれないんだ」

「俺はお前じゃないから知らん」

 

 何を言われようと断る気満々の外科部長代理が、更なる拒絶の言葉を吐こうとした所で、彼は自分達を見る周囲の眼差しに気付いた。

 白アスパラガスみたいな四十近い優男が、三十と少しの精悍な男の胴に縋り付いて離れない光景というのは中々人目を引く。

 憐れむような視線と責めるような視線を交互に受けて、こいつ狙ってやったな、と外科部長代理は小さく舌打ちをした。現に、彼の愛すべき甥は、べそをかく男を可哀想だと思ったらしく、執り成しをしてくる始末だった。

 

「俺は、お前が帝国で貰った勲章をただ間近に感じたいだけだというのに……」

「きらきらの鷲?目元がすごくかっこいい」

 

 少年が愛らしい笑顔で、それと思しき物の感想を述べた。副センター長は、外科部長代理からパッと身を離すと、喜色満面の顔を少年に向けた。彼の後ろで、やっぱり演技かよ、と外科部長代理の恐ろしく不機嫌そうな声が響いたが、そんな物は副センター長にとって虫の羽音程度の価値しかない。

 彼は薄板型端末を操作して、少年の見えやすい所に差し出した。

 

「少年、お前は中々見所がある。そこでいいものを見せてやろう。これ何だかわかるか」

「僕、これ読めます……。えーと、『じゆう、わくせい、どうめい、じゆう、せんし、く……くんしょう』こっちは、えっと、七七八?」

 

 彼が子供に見せたのは、自由戦士勲章。同盟における最高位の武功勲章であった。

 この勲章は、余程の勲功がないと授けられず、授けられた人間は、リン・パオ、ユースフ・トパロウル、ブルース・アッシュビーなど、同盟史に残る名将や英雄。そうでなければ、グランド・カナル事件のように、民間人を守って戦死し、英雄になるしかない。

 該当者のいない年もあり、それなりの稀少価値がある。近年、軍の失態を隠蔽する為に、大盤振る舞いされた事もあるが、それを数に入れても、同盟建国以来の授与者は、四桁には到底届かない。

 画像に写っている物は、細かい擦り傷の目立つ勲章本体。所々色褪せ、シミに塗れた皺くちゃのリボンが、物欲を減退させる。

 二枚目は裏面で、ぽつぽつと黒い斑が浮き出ている部分に、アラビア数字で七八八の文字が刻印されている。勲章を収める箱は潰れたように歪んでおり、どう贔屓目に見ても壊れかけており、端的に言えばゴミにしか見えない。

 

 

「そう自由惑星同盟で貰える一番凄い勲章だ。特に宇宙歴七八八年の自由戦士勲章は凄いんだよ。あ、宇宙歴はな、同盟で使われている暦で、このカレンダーに、帝国歴と並んでいる、数字の大きい方だ。話がそれた、それでこの年は、大きな戦いがない年だったから、貰ったのは」

「落札額五千フェザーン・マルク?お前、偽物だったらどうす……ああ、お前が早く入札した所為で、他の人間も気が付いたかもしれねえな、これ」

 

 外科部長代理が、自分の携帯端末画面を覗き込んでいた。同盟とフェザーンの両国を、実質カバーする大手ネットオークションサイトである。ここには、この宇宙にある、値段の付く物なら、違法でない限り何でも出品されている。

 探し出したオークションページは五月半ばの物で、百件を超える入札が掛かっていた。出品者は、同盟領の人間で、ここ一ヶ月で始めたばかりらしい。

 勲章の稀少性が価格に反映されなかったのは、単純に状態が悪いからであった。勲章やその付属品が汚れなどに侵されていなければ、あと一桁は違ったであろう。

 

「しょうがないだろう。いつ患者が来るか分からないのに、終了時間まで入札を待っていられるか」

 

 話を途中で遮られて、勲章マニアの副センター長は不機嫌そうな口調になった。しかし、少年が、では叔父上の貰った勲章はどの位凄いのか、と尋ねて来たので、すぐにその機嫌を直した。

 

「上から三番目の勲章だから、凄いぞ。この上は、皇帝御一家だけの勲章と、降嫁なさる皇女殿下のご夫君に授与される勲章しかない。とても立派な功績を上げないと駄目だが、軍人だと戦功を称える勲章が別にあるから、この勲章の対象じゃない。それと、上から一番目と二番目は、オトフリート四世帝の時代に量産されたし、内戦後に随分市場に流れたから、今はたくさんあるんだ。でも三番目の勲章は持ってる人が少ない。今迄に、フェザーンでこれを授与されたのは、フェザーン自治領の初代領主だけだ。つまり、今の皇帝陛下は、君の叔父上をそれと同じ位評価してるという事さ。まあ、厳密に言えば、同じ勲章でも等級の分類があって、初代領主は第一等級、君の叔父上は三等級なんだけどね」

 

 彼の熱弁が冒頭部を終わろうとしていた頃、院内用の通信端末に急患が搬送されて来ると連絡が届いた。副センター長は、急に真面目な顔になって、慌てて走り去る。

 やがて、外科部長代理と彼の甥も、整理番号での呼び出しが掛かって、診察室に入って行った。

 

 

 六月十五日、ヤン・ウェンリー大将が、六月一日付で軍を退役していた事が、公に発表された。

 それを聞いて、宇宙のあらゆる場所で、様々な人々が思い思いの事を考えたが、フェザーン在住の勲章マニアの医師程奇矯な反応ではありえなかった。

 その日の彼は、ボリス・コーネフと名乗る独立商人から荷物を受け取ると、その中に落札した複数の勲章とその付属品の他、ヤン・ウェンリーの直筆サイン入り添え状を見つけて、小一時間ほど自宅でスキップを踏んでいた。

 

 

 宇宙歴七九八年、帝国歴四八九年の六月前半は、ヤン・ウェンリーの退役以外にはさしたるニュースもなく、どの地域においても時は平穏に過ぎて行った。

 イゼルローン失陥の余波を残す同盟においても例外ではなく、前政権の後始末と敗戦の処理の為、政治家も軍人も黙々と事務処理に追われているだけであった。

 帝国、同盟、フェザーンなど、所属する国の如何を問わず、宇宙の殆どの人々が、このまま何事もなく六月が終わるだろうと思っていた。それは予測ではなく、願望だったかもしれない。

 

 そして、六月二十日、聖霊降臨祭の日。全宇宙を震撼させる事件が、銀河帝国の首都星オーディンでその第一幕を開く。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。