死に損ねた男   作:マスキングテープ

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第9話 世を儚むどころではない男

  六月を迎え、シュヴェーリン周辺の木々や草は、一層明るく鮮やかな緑を身に纏っている。

 紫や白、黄色の花々が鮮やかな模様を、下草の絨毯に織り込んでいる。その上を、大型草食獣が子供を引き連れて闊歩している。樹上では、孵ったばかりの雛達が巣の中でひしめき合い、太い枝には夏草の実を齧るリスの姿があった。かつて、門閥貴族の勢いがあった頃は、ここでしばしば狩猟が行われたものである。

 

 シュヴェーリン周辺の湖は、それぞれにやや色彩の異なる澄んだ水色を湛えている。覗き込めば、悠々と泳ぐ魚の姿が良く見える程であった。

 シュヴェーリンの小島に館を擁する汽水湖では、小さなボートが浮かんでおり、三人の男が朝早くから釣りに精を出していた。ボートの上に置かれた水入り箱の中には大小様々な魚が犇めいていた。

 彼らは漁師でもなければ観光客でもない。立ち入りが厳しく制限されているこの区域において、そのような人々は足を踏み入れることすら出来ない。

 三人全員、館の関係者である。一人は館の料理長、一人は年少の従僕、一人はキルヒアイスの主治医である。たまに、シュヴェーリンにおける警備の現場責任者が、僅かな休息時間を使ってここに加わる事もある。

 彼らはただ遊んでいる訳ではない。館の住人達に供する食材を確保しているのである。彼らがこの時間をどういう風に位置付けているかはさておき、少なくとも建前上はそうなっている。

 

 シュヴェーリンの館とその周辺は、地理的要因と住人の重要度故に、館の職員から警備兵、医療従事者に至るまで、実質隔離状態にある。

 彼らは交代で休日や休息を与えられてはいたが、このシュヴェーリンを離れることは出来ない。

 キルヒアイスの容体など秘匿しておくべき事も多く、アンネローゼなどを除いて、外への通信や連絡は一切取れない。

 職員や警備兵は、キルヒアイスがオーディンに帰還してから、ずっとこの地に詰めたままで、ある意味ではかつてのイゼルローン要塞やガイエスブルグ要塞に似た環境であると言えた。

 

 だが、シュヴェーリンは、元々皇族や門閥貴族達の保養地で、館はブラウンシュバイク家の元療養用別荘である。その為、要塞等とは違って下々に供する娯楽に乏しい。

 管理者であるグリューネワルト伯爵夫人アンネローゼは、そういう訳で職員達が、釣りに興じるのを認めている。

他にも、万が一にも迷子にならないよう、必ず集団で、最寄りの警備兵達の目の行き届くところにいる、という条件付きで、野生の草花や実を採取しに、湖周辺の森を散策するというのも行われていた。

 

 男達が朝釣りを楽しむ中、湖中心部にあるシュヴェーリンの館は朝日を受けて、その壮麗な姿を誇っている。

 

 

 玉の様な汗を肌に浮かせながら、キルヒアイスは車椅子の手摺を掴んだ。手摺を掴む彼の手が、己の重量をふるえながら負担している。

 生命を与えられた銅像が動き始めたような、重々しく緩慢な動作でベッドから完全に離れ、車椅子の座面にようやく腰を下ろした。車椅子が勢いのついた重量負荷に、小さく軋む音をあげる。その動作は、座るというより、座面に落ちたと表現する方が、より正確に事態を言い表していたが、ともあれキルヒアイスは、誰の手も借りず一人で車椅子に乗れる様になっている。

 そこから、自走式車椅子のモーターに頼らず、自分の腕だけで、元々部屋に据え付けてあった書棚付書物机の方へと、キルヒアイスは進んだ。移動速度は二足歩行を始めたばかりの赤ん坊に近かったが、キルヒアイスの呼吸は既に乱れ、強い疲労感が彼の体を襲っていた。

 

 朝の検診にやって来た看護婦が、感極まって泣き始めた。本格的なリハビリを始めた初日、ベッドの背もたれなしに座っただけで、血流が下がって即座に気絶した時の事を思えば、それは随分と進歩したと言えたからだった。

 そこへ、小柄な軍医が、ぴょこんと病室に入って来た。看護婦からキルヒアイスの事を知らされると、小動物のような愛嬌のある顔にぱっと笑顔が広がった。

 症例をいくつも勉強したが、その中でもかなり早い回復であると、自分と同じ名前を持つ彼が、回復の早さを素朴に喜んでくれるのが、キルヒアイスには何とも面映ゆかった。一方で、キルヒアイスには焦りもあった。

 

 先月、キルヒアイスが従卒の事を問い詰めて以来、ラインハルトはシュヴェーリンの館を訪れていない。

 今や帝国宰相兼帝国軍最高司令官という地位にあるのだから、ラインハルトが単純に執務や公式行事に忙殺されている事は間違いない。

 しかし、ラインハルトの性格を知るキルヒアイスとしては、あの一件以来自分を避けている所もあるのだろう、という確信があった。そして、キルヒアイスの確信は、正しくラインハルトの内情を捉えていた。

 ラインハルトは、首席秘書官ヒルダや副官シュトライトに命じて、慰問や視察などの公務予定を、過密と表現して良いほどスケジュールに入れまくったのである。

 余談ではあるが、ラインハルトは全く自分の都合で、部下の休日を奪う事に内心思う所があったらしく、複数の秘書官や副官達を輪番制で、己の供にあてる事にした。

 

 相手がこちらに来ないなら、自分から相手の所に行くしかないのだ。特に、ラインハルトとキルヒアイスの間においては、どちらに非があろうと、ラインハルトの方が折れたり、歩み寄るなりする事はまずない。

 その為にも、キルヒアイスは一刻も早く体を治し、復帰する所まで到達する必要があった。実際に対面した時、どういう風に実際振る舞うかは別にして、ラインハルトの目の前に立たなければ何も始まらないのだ。

 

 自分は随分辛そうな顔をしているらしいと、キルヒアイスが気が付いたのは、彼と同じ名前の軍医が心配そうにこちらの顔を伺っていたからだった。一通りの検診をされた後、念の為に主治医を呼びに行って来る、と外へ出て行った若い軍医を見送って、キルヒアイスはシュヴェーリンの風景を描いた天井を見上げた。

 まだ思うように動かない、力の入らない己の体にもどかしさを覚えながら、キルヒアイスは自分の拳を握りしめ、徐に立ち上がろうとした。

 

 

 

「閣下には既にお分かりの事とは存じますが、焦る事と急ぐ事は違うのです」

 

 四十代の主治医は、己の長男と同い年の患者に向かって、窘める様に言った。キルヒアイスは、医師の言に、素直に謝罪する。

 主治医が到着するまでの間に、キルヒアイスは無理を押して立ち上がろうとし、失神しかけて盛大に転んだのである。彼の側についていた看護婦を巻き込んで。この様に言われて当然ではあった。

 この頭部が神々しい主治医は、何を言っても人に素直に言葉を聞かせてしまうような、奇妙な引力を持つ声をしていた。そのため、言葉に若干皮肉の響きがあるのをキルヒアイスも理解していたが、経緯の他に、そういう理由もあって不思議と反発心を覚えることはなかった。

 

 これからのリハビリ計画について、懇々と言い聞かせるような説明がなされた後、キルヒアイスは、改めて自走式車椅子に乗り直し、応接セットへとゆったりとしたスピードで移動し始めた。その後ろを、ぶち模様の仔猫が幼い足取りで追跡している。

 

 

 同日の午前中に、シュヴェーリンの館は三人の客人を迎えた。ブラッケの他、財務省上級官吏オイゲン・リヒター、それに軍務尚書代理オーベルシュタイン上級大将である。

 彼らは、キルヒアイスに、戦傷病者支援制度の試験例になる事を依頼する他に、いわば実態調査の為にやって来たのである。

 

「戦傷病者支援制度ですか、それで私が最初の事例の一つになると」

「左様です。提督は、帝国で一番有名な戦傷病者ですからな。この制度を広く帝国の民衆に広める為の、いわば看板となって頂きたいのです」

 

 キルヒアイスの言葉に、恰幅の良い男が答えた。内務省の役人、カール・ブラッケである。その横では、オーベルシュタインが、じゃれて来る仔猫を器用にあやしてやりながら、黙って話を聞いていた。小さな仔猫が、オーベルシュタインの膝の上で、小さな手足を懸命に動かしている。

 

「勝とうが負けようが、一人の兵も死なず、怪我人も出ない戦さなど、まずありません。演習ですら数十人、数百人の死者が出るのですから。しかし、将兵が帝国の為に命を懸けて戦った、その対価は安い物です。遺族年金は多少の増額が決まりましたが、戦傷病で手足を失ったり、障害を負った兵士への補償はまだまだ充分とは申せません」

 

  そう皮肉っぽく言ったのは、オイゲン・リヒターだった。

 この時代、多くの戦いは宇宙空間で行われる。その為、乗船を沈められればもろともに死ぬ事が多く、戦傷病を負って生き残る人間の割合が、地上戦の場合に比べて極めて少ない。適者生存を謳って弱者を切り捨てる帝国の気風もあり、戦死者に比べて数の少ない戦傷病者への補償は兎角後回しにされていたのである。

 

 カール曰く、戦傷病によって働けなくなった兵士達本人はもちろん、彼らの家族に重い負担がかかる。

 働き手を失って減る収入に、重く圧し掛かる医療費。特に義肢は定期的な交換が必要にも拘らず、義肢代を捻出出来ない為に放置し、働けなくなっている将兵も多いという。

 中には、生活不安から犯罪に手を染めたり、戦場で鎮痛剤として投与されて、麻薬の味を覚え、家庭に麻薬乱用の悪癖を持ち込んだケースもある。

 キルヒアイスは、クロイツナハⅢで刑事から見せられた写真を思い出して、思わず吐き気を覚え、安らぎを求める様に仔猫の毛の感触を手に触れさせた。

 

 戦傷病者を放置するのは容易く、短期的に見ればその方が金もかからない。しかし、彼らやその周囲を放置すれば、いずれ社会不安の元になって、長期的には多大なコストが帝国に降りかかって来る。それを避けたいのだと、リヒターは熱っぽく語った。

 そして、彼の手は同じ位の熱心さで、仔猫の毛並を撫でている。仔猫が、ごろごろと気持ち良さそうに喉を鳴らしていた。

 

 気が付けば、彼らの談話は、昼過ぎにまで及んでいた。

 

 

 湖の白身魚を使った昼食に、アンネローゼとキルヒアイス一家、それに客人達が舌鼓を打った後、ブラッケとリヒターは、それぞれキルヒアイス夫妻と主治医に話を聞く為に、談話室の方へ足を運んだ。

 オーベルシュタインは、復帰についての打合せがあると称して、キルヒアイスの病室へと向かった。

 途中、彼はアンネローゼと出くわした。少しだけ横髪を残して結い上げた髪型が、アンネローゼの明るい表情を更に引き立てている。

 アンネローゼの野外用ドレスは、全体的にほっそりとしていて、膨らみやレースが少ない。上半身はオフホワイトの、ボウタイブラウス風のデザインである。ドレスの裾は地面からやや浮いており、ライトグリーンのスカートの下から、野歩きに向いていそうな編み上げの革靴が覗いている。

 オーベルシュタインは、廊下の端に寄って、深々と頭を下げる。アンネローゼがオーベルシュタインに気が付いて、和やかに話し掛けた。その後ろを、濡れた黒い仔犬を抱えた侍女が付き従っている。

 

 オーベルシュタインが仔犬について問うと、非番の警備兵や軍用犬と一緒に訓練を兼ねた遊びをしている内に、はしゃぎ過ぎて湖に落ちたのだ、と答えが返って来た。アンネローゼは、その時の事を思い出したのか、その微笑みが変化した。

 

「先日は警護の件で御足労頂いて、本当にありがとうございました。……これからも弟を宜しくお願いします」

「確かに承りました」

 

 数分程言葉を交わした後、オーベルシュタインに労いと礼の言葉を述べて、アンネローゼは大広間の方へ、侍女は別の方向へと向かっていった。

 

 

 キルヒアイスとオーベルシュタインは、キルヒアイスが軍復帰するにあたって必要になる、具体的な手続きや事務処理について話し合っていた。キルヒアイスの体調回復も目覚ましく、体調も万全になるだろうという医学的判断に基づいての事である。その話し合いは、極めて事務的に、何の感情もなく進んだ。

 

 キルヒアイスはオーベルシュタインが、どちらかと言えば苦手な方であるし、それほど好意がある訳でもない。ただ、他の将帥がオーベルシュタインを疑い、あるいは毛嫌いするのと違って、彼をそこまで非難するような理由も、積極的に彼を貶める熱意も持ち合わせていなかった。

 それは、時に好きの反対が嫌いではなく、無関心であることに似ている。

 

 三十分程で、それらの話は終わり、ふと二人の間に沈黙が降りた。手続と説明のための書面をめちゃくちゃにして遊ぶ仔猫。オーベルシュタインは、優しい手付きで猫を脇にどけ、キルヒアイスが受け取って膝の上に乗せた。

仔猫は、小さな手足を尚も紙に伸ばそうとしていた。が、それが果たされないと理解したのか、キルヒアイスの膝から離れて、大きな執務机の方へと歩んだ。そこには、便箋やメモ帳、本やファイルなど、仔猫にとって素敵なおもちゃが沢山あるのだ。

 オーベルシュタインは、軽くキルヒアイスに礼を言うと、徐に一通の手紙を差し出した。

 

「これは……?」

「卿の従卒であったコールラウシュが、拘束前に書いていた手紙だ。長らく軍務省で保管していたが、重要な証拠物件ではないため、保管する必要なしと先日判断され、処分される事になった。これは封筒の宛名も内容も卿宛てであるので、こちらへ」

 

 オーベルシュタインはそれだけ言って、応接セットから立ち上がった。キルヒアイスが追い縋るように、腰を浮かせたが、うまく立ち上がり切れずに、応接テーブルに手をついた。

 

「……リヒテンラーデ一族で軍務に就いていた者が、彼以外にも幾人かいたはずですが、彼らの物は」

「売却可能な物は近く競売に掛けられる。売却が難しい物、私信や日記の類は廃棄されるが、家族の申請があれば返却される」

 

 キルヒアイスは、手元の手紙を凝視した。従卒の少年の、家族の事を語る幼い笑顔を思い出し、その青玉色の瞳に薄い涙の膜を張った。

 彼は、オーベルシュタインに頭を下げて、ある事を依頼する。オーベルシュタインは、血色の悪い顔を相変わらず動かさずに、その頼みを承諾した。

 

「分かった。後でこちらへ資料を送る」 

 

 

 

 オーベルシュタインは、ラインハルトより呼び出しを受けたため、一人で先にシュヴェーリンの館を辞することになった。館から出ると、小島に続く一本道を大きな搬入用地上車が向かってくるのが見えた。道幅を考えると、搬入用地上車と行き違う事は不可能であるので、オーベルシュタインは迎えの地上車の中で、少し待つことになった。

 

 大きな搬入用地上車が、館の横にある搬入口に到達すると、そこから食料品や酒類の箱がひっきりなしに下ろされていた。

 オーベルシュタインが、あれは何だと口にする前に、運転手の男がそれを読んだように答える。

 

「二十日の聖霊降誕祭とその前夜に、館の職員達を労うためにパーティを開くそうですよ。二十六日がグリューネワルト伯爵夫人のお誕生日だそうで、日も近いから一緒にまとめて、その分盛大にやるそうです。しかし、一、二週間籠城しても持ちそうな量ですね」

 

 そうか、とオーベルシュタインは頷いて、口を開いた。彼はバックミラー越しに、運転手の甘いハンサムな、しかしどこかふてぶてしさに満ちた顔に視線を注ぐ。

 

「ところで、フェルナー。釣りは楽しかったか」

 

 フェルナーは、さて何のことか分からないと言いたげな表情を、バックミラー越しに見える上司にしてみせると、ようやく空いた小道に向かって車を発進させた。その車内には、ごくわずかではあるが、魚の匂いが漂っている。

 

 

 机とセットになっている書棚の扉が、僅かに開いている。手を伸ばして扉を閉じようとして、キルヒアイスは本やノート類とは明らかに質感の違う物が挟まっている事に気が付いた。三色ぶち模様の小さな毛の塊。仔猫である。仔猫は、キルヒアイスを先回りして待ち構えていたのだが、いつの間にか寝てしまったらしかった。寝ている仔猫を指先で軽く撫でると、キルヒアイスはいつもの作業に入った。

 

 キルヒアイスは、最近ラインハルト宛への手紙を書いている。直接会って話合うのが最上だが、今の体調ではそれも叶わない。

 それに、手紙を書くという形で、ラインハルトに何を言いたいのか、どうしてほしいのかを、自身で明確に把握しておこうと思ったのである。

 感情のままに、ラインハルトに言葉をぶつけて後悔したこともあり、主治医の言の正しさを認識したという事もあった。

 

 そうやって、自分の思考をまとめている内に、キルヒアイスは、ある疑問に行き当った。自分とラインハルトの目指す道は、あの少年の日から同じだっただろうかと。

 そして、ある人物からの遅れてやって来た手紙によって、その疑問はより明確になった。

 その手紙の差出人は、マルティン・ブーフホルツ。キルヒアイスの旧友の一人で、反戦地下運動に身を投じて憲兵隊に逮捕され、獄死した青年である。

 その手紙を届けて来たのは、父のキルヒアイス氏であった。

 

 マルティンは、逮捕前に論文を書き上げた。マルティンは、キルヒアイスとの約束をに従って、論文を送って見てもらおうとした。しかし、彼はキルヒアイスの現住所を知らず、その為、キルヒアイス氏にそれを託したのである。

 キルヒアイス氏も、彼が憲兵にマークされている事を知って、受け取った手紙を隠匿し、息子にそれを渡す機会を伺っていたのだった。

 その経緯を知った時、灯台下暗しという言葉がキルヒアイスの脳裏に浮かんだのは言うまでもない。

 

 論文自体は、文学の素養に乏しいキルヒアイスには、正直な所理解出来なかったり、前提が分からない部分も多く、マルティンの生きた証しとして、いつか世間に公表したいと思うに留まった。

 キルヒアイスの胸中を抉ったのは、論文に添えられていた手紙の方だった。

 マルティンは、キルヒアイスに対して、君が信じるラインハルトを冷血だとか悪く言って申し訳なく思う、キルヒアイスが良いと信じるのならラインハルトを自分も信じてみたい、いつか帝国を良い方向へ変えてくれる事を期待している、と結ばれていた。

 

 それでキルヒアイスは、原点を思い出したのである。

 キルヒアイスがラインハルトについていきたいと思ったのは、アンネローゼを取り戻すためだった。アンネローゼを取り戻す為に、略奪者達が拠って立つ旧社会、その象徴であるゴールデンバウム王朝を滅ぼす必要があったのだ。

 やがて、様々な出来事を経て、キルヒアイスの気持ちは一つの化学変化を起こした。

 アンネローゼのような、この歪な社会に翻弄される人を無くすために、世界を変える。その文脈に、宇宙統一、門閥貴族の打倒を位置付けて、彼はラインハルトの覇業に手を貸して来たのだった。

 

 キルヒアイスにとって、この宇宙を良くする為に、ゴールデンバウム王朝を打倒して権力を奪取し、宇宙を統一するのであって、それは逆ではありえない。

 ヴェスターラントの大虐殺を利用したラインハルトに、キルヒアイスがああまで違和感を覚えて反発したのは、己と思考の主客が逆転しているように感じたからだった。

 

 ラインハルトは、この疲弊した社会を改革する為に、ゴールデンバウム王朝を倒し、宇宙を統一するのだ。キルヒアイスは、あの時までは、何とかそう信じていられた。

 

 しかし、実は、宇宙を手に入れる事、ゴールデンバウム王朝や門閥貴族を打倒する事の方が主目的であって、その為に権力を握る必要があり、ラインハルトはその手段として民衆を利用しているのではないか。

 だから、ヴェスターラントを、数の論理で正当化しているのではないか。

 そんな疑惑が、キルヒアイスの中で生まれ始めたのである。

 

 

 それを決定付けたのは、この帝国に公平な税と公平な裁判を普及させるのだ、とラインハルトが語った逸話を聞いた時だった。

 今日、その当事者である、ブラッケとリヒターからその話を聞いた時、キルヒアイスは思ったのだ。

 では、リヒテンラーデ一族の少年達に対する無残な扱いは何だったのだろう。本当に公正な裁判が行われたなら、少年達は死なずに済んだだろうに。

 しかし、実際には、ラインハルトの命令一つで、子供達も処刑されたのだ。

 

 本当に公正さを目指しているのなら、平民も門閥貴族も同じ基準で裁かれるべきだ。ラインハルト個人の激情で、罪の重さが分かれるようなことがあってはいけないのだ。

 

 キルヒアイスは、纏めていた資料の束を取り出した。そこには、ラインハルト体制になって以降の、小さな事件記事が細々と纏められている。

 

 全体的な傾向として、犯罪者が貴族の場合、平民より重い処罰が下され、平民と貴族の間で事件があった場合、加害者か被害者かに関わらず貴族の側が常に非難される傾向にあった。

 ラインハルトが宰相になってから打ち出した、民法制定と貴族特権の廃止。

 帝国の大多数の平民達にとって、民法制定は、大本営発表が良い事であると喧伝しているから万歳三唱するのであって、それが何を意味するか、という事を理解している者は少ないのかもしれない。それが公平な扱いの根拠になるというのに。

 民衆にとって貴族特権の廃止は、今迄贔屓されてきた貴族達が自分達と同じ労苦を味わうのを見る事で、復讐心を満す以上の意味などないのかもしれない。もしかしたら、現在帝国の頂点に立つラインハルトにとっても。

 

 考え込み過ぎて、鬱々とし始めたキルヒアイスの所へ、父親のキルヒアイス氏が訪れて来た。

 キルヒアイス氏は、ブラッケとリヒターから、息子が一時給付金を貰う事に乗り気ではないと聞かされて、説得にやって来たのだった。

 キルヒアイスは、今の自分は充分恵まれているし、これ以上お金をもらう必要がないと述べて、父親に反論した。

 それに対して、父親はため息をつくと、やっぱりお前何にもわかっていなかったのか、と言って、穏やかに息子を諭し始めた。

 

「お前が単なる一士官ならそれで良い。だけど、お前は上級大将で、しかもこの試みにおける最初の一人だ。お前が先例になって、現場の判断が決まる。もし、お前がここで断ったら、一時金の必要な兵士やその家族は、申請に行った役所でこう言われるんだ。あのキルヒアイス提督もお受け取りにならなかったのに、とね。役所とはそういう所なんだ。それで困るのはお前の後に続く兵士達だ。お前一人の評判が上がった所で、彼らに何の得もない」

 

 お前が一人良い格好をするのは構わないが、後に続く人間の事も考えろ、とはっきり父親に言われて、キルヒアイスは自らを恥じた。その時、キルヒアイスの脳裏には、何故か且てオーベルシュタインがラインハルトに掛けた言葉が浮かんだ。

 

「キルヒアイス中将一人を腹心と頼んで、狭い道をお行きなさい」

 

 この日、自分だけが身綺麗でいるだけでは、多くの人を救えない事もあるのだと、キルヒアイスは頭ではなく、実感として認識した。

 

 

 


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