ムスペルヘイムソルフェージュ 仮面ライダー鎧武 外伝 仮面ライダー斧鉞(フェージュ)   作:鉄槻緋色/竜胆藍

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・bパート

「さあてと。まーずーはーここの現在地を教えてくれっかなー」

「は、離せー!」

 男に片手で足首を掴まれて逆さ釣りにされた少女の悲鳴が響く。

「離せよオッサン! 痴漢! 変態!」

「後の二つは否定しないけど、せめてお兄さまと呼んで欲しいなあ。俺様、花の二十六だぜ?」

「否定しないのかよ! 怖ぇよ!」

 いったいどういう筋力なのか、少女一人の体重を支えているにも関わらず、いかに少女がもがいても男の片腕は水平に真っ直ぐ伸びた状態で微動だにしない。

 さらに、少女自身の手で逆立ちの要領で身体を支えようとしても、ぎりぎり腕が突っ張らない程度に床とは微妙な距離を取られているのが、地味にストレスとなっている。

 その少女の頭の真下に、地図が広げて置かれていた。

「まあまあ。人聞きの悪い事を言うなよ。これはビジネスだビジネス。教えてくれたら、その袋は君の物だ」

 地図の隣に、少女が狙っていたパンと牛乳が入ったコンビニ袋が置いてある。

「うるせえー! け、警察呼ぶぞ!」

「はーははは。泣け。喚け。助けは来ないぞう」

 なんとなく悪ノリした男が戯れに煽るが、この場に助けが現れない事は少女も先刻承知だろう。

 なにしろ少女はひったくりをする為にわざわざ人気のない場所を選んだのだ。

 この近辺には通りすがる人影は皆無だし、周辺のビルは、ほぼ無人。

 仮に警官がいても、状況説明をしようとすれば少女自身のひったくり行為の自白にもつながる。

 それにこの少女には、警察に関わる訳にはいかない事情がひったくりの他にもあるだろう事も男は看破していた。

 わざわざそれを指摘するほど野暮ではないが。

「おっといけねえ。忘れてた。 取り引きするのに名前も知らないんじゃ失礼だよな」

 ふと気付いたように話題を変えた男が、手首を捻って逆さ釣りの少女の顔をこちらに向けて見下ろした。

「俺様、裏白 淘滋(うらじろ・とうじ)って言うんだ。気軽にトウジって呼んでくれ。 んで、お嬢ちゃんの名前は?」

「…………!」

 名乗って男が柔和に笑むが、逆さまの少女は仏頂面でそれを睨め上げるのみ。

「お な ま え は?」

 ところが、男は柔和な笑顔のまま少女を掴む腕の向きを九十度ほど移動させた。

 すると頭の下の床が消え失せ、少女の身体は地上まで十メートルほどの虚空に晒された。

 男──裏白 淘滋は、ビルの屋上の角で少女を逆さ釣りにしていたのだ。

「ひゃーーーーーーー!」

 遥か遠い地上を見下ろして、少女が血相を変えて悲鳴を上げた。

「は、離せっ! いや、離すなんっ!」

 あまりの恐怖に前後不覚に陥った少女が両腕を振って暴れ出した。

 もっとも、男の手首は小揺るぎもしなかったが。

「こっ、こここしだ、越田 希沙(こしだ・きさ)いうんな!」

「キサちゃんか。よろしくなキサちゃん」

 言って男は腕を元の位置に戻し、少女の頭の真下に再びコンクリートの床が現れた。

「さてキサちゃん。まずは現在地を、その地図を指して教えてくれ」

「…………!」

 唇を噛んだ少女はそれでもしばらく煩悶としていたが、屋上の縁を横目で見ては身を竦ませて、やがて指先で地図の一点を示した。

「おお。そこか。ありがとな。 んで、「石英病院」ってな、どこかなー」

「……………………」

 次の沈黙はさらに長かったが、結局少女は地図のその地点を指さした。

 

 

◆◆

 

 

「……って事があってんさあ! ひどいと思わんなん? 美雨さん?」

「因果応報、としか言えないけれどな。特にこの町じゃ」

 診察ベッドの上で胡坐をかいて憤然とパンを頬張っている希沙に、振り向いた白衣の女性が指先で真っ赤なフレームの眼鏡の位置を指先で直しながら素っ気なく応えた。

「しかし、それで無傷で解放されて、そんな手土産まで持たされてはむしろ、おまえがありがとうと言うべきじゃないか?」

「こ、これは正当な慰謝料な!」

 美雨(みう)と呼ばれた女性は非常に小柄で、顔立ちのあどけなさも希沙とたいして変わらない。

 だが、白衣の下のスーツやその物腰、そして何より彼女の纏う落ち着いた雰囲気が希沙よりもかなり年上であろう事を感じさせる。

 美雨が事務椅子を引いて腰かけ、診察道具の並んだ机に肘をついて椅子をくるりと回転させた。

「それで? おまえはその粗末な報酬と引き換えに、懇切丁寧にここの場所を教えてやったのか?」

 白い壁に囲まれた部屋の窓から、この建物にかかる古ぼけた看板が見える。

 そこには「石英病院」と書かれていた。

「なワケないじゃんな! そもそもこの辺地図作られてないし。 適当なトコ指さして追っ払ってやったん!」

 咀嚼途中で喚く希沙の口から細かいパンくずが飛散するのを見て、美雨が盛大に眉をしかめた。

「あたしだって、この町の流儀とか一応分かってるつもりんだんよ! 美雨さんを裏切ったりなんか、しないんな!」

 言って、自身の不作法など気にも留めずにがつがつパンに齧りつく。

「……そうか。じゃあ、あのお客は勝手におまえについて来ただけなんだな?」

「?」

 美雨の台詞の意味が分からず、美雨の目線を追って振り向いた希沙は、そこに立っているものを見つけて口の中のものを盛大に噴き出した。

「よう!」

 その開きっぱなしの診察室の入り口には、先ほど遭遇した大男・裏白 淘滋が例の薬指と小指だけ立てた拳をかざして立っていた。

「あーーーーーーー!」

「いやあ、助かったぜ! この辺分かりづらいからよ、道を知ってる誰かについていかねえと辿り着けないとこだったわ」

 朗らかに言いながら診察室に入ってくる淘滋に構わず、希沙は青い顔で震えながら美雨を振り返った。

「……あ……あ、あたし、そんな、つもり、じゃ……」

「いいよ。希沙。分かってる。これはおまえの落ち度じゃない」

 机に頬杖をついた美雨が、希沙に向かってぞんざいに手を振りながら素っ気なく言った。

「そもそもクラスAのインベスを追い払えるやつが相手だったのに、希沙が死体になっていないだけマシだ」

 言っているうちに、淘滋がのしのしと室内の中ほどまで入ってきていた。

「で? おまえの用件は、なんだ?」

 先ほどから変わらぬ姿勢のまま、目前で立ち止まった大男の顔を見上げて美雨が問うた。

 まさかこの見るからに朽ち果てた病院に、医者に掛かりに来た患者ではあるまい。

 年端もいかぬ少女がロックシードを持ち歩いている意味を知って、なお絡みに来る阿呆な人間は一種類しかいない。

「ああ。用はふたつあってさ。 まずは一つ目。あんたに伝言を持ってきた」

「……伝言?」

 初見で自分を「話を通すべき相手」と見抜いた事には今さら驚かないし、とぼける意味もない。

 手慣れた調子で要件を告げる男──裏白 淘滋の闊達な語り口は、確かに美雨の良く知る「まっとうでない」連中特有の覇気を纏っていた。

 ところが、この男は美雨の知るどの人物とも異なる、まったくの想定外の人種だった。

「ゴグルンボリャビリェジョ コション フィミュベリャ」

「ッ!」

 続いて男の口から紡ぎ出た、非常に流暢な異なる言語に、美雨の顔がこわばった。

 希沙は、奇妙なイントネーションで意味のわからない呪文をしゃべる阿呆でも見るように怪訝な顔で睨みつけるだけだが。

「オボリャジョフォグミカ メガウ。 ショビリェ ロ デュグリンジカロショエデュブリョ。 コビリェ ロ フィションウ メジェグシェカショイブリョシャジャ」

「……貴様……!」

 薄い唇の隙間から絞り出すように唸り、美雨の据えた目付きが鋭くなった。

「なに言ってんだか俺様にゃあ良くわかんねえんだけどな。一言一句、間違いなく伝えたぜ」

 睨ね上げる美雨の眼光など無いかのように、淘滋は口の端を歪めて肩を竦めた。

「そんで、二つ目っつうか、俺様の用件なんだけどよ」

 怒気を纏い、椅子の上で重心をわずかにずらした臨戦態勢の美雨に対し、淘滋はあくまでも朗らかに続ける。

「ここらで闇賭博の喧嘩試合やってるって聞いてよ。俺様もぜひ参加させてもらいたくてな」

「……ほう……?」

 美雨の瞳が青白く光っているような気がして、寒気を感じた希沙が身を抱き竦めて微かに震えていた。

 これほどに感情を露わにした美雨を見たのは初めてだった。

「一応訊くが、どこからそれを聞いた?」

「あれ? さっきの伝言が紹介状代わりになるって聞いたけどなあ」

「ふん」

 忌々しげに息を吐き、美雨が足を組み直した。

「いいだろう。進んであそこに入りたがる阿呆など久し振りだ」

 張り詰めていた気配を解いて、美雨が居住まいを正した。

 そこにはもう怒気も冷気もない。ようやく希沙は安心して緊張を解いた。

「ただし。こんな阿呆な催しでも一応審査がある」

「ああ分かってる。なにをすりゃいい?」

「近日中に案内を寄越す」

 淘滋の問いに、美雨は普段の調子の素っ気ない声音で応えた。

「あとは、そいつに聞け。難しい話ではない」

「わかった。んじゃ宜しく頼むわ」

 言うや、淘滋はあっさりと身を翻し、例の薬指と小指を立てた右手を肩ごしに振って診察室からのしのしと出ていった。

 ところどころが割れたリノリウムの床を叩く足音が遠ざかってゆく。

 そう言えば、淘滋がこの部屋に来る時には足音がなかった事を思い出し、その意味に気付いた希沙は戦慄した。

「……なんなんな、あいつ。只者じゃあなんって言うか、ロクな奴じゃあなんって言うか」

「確かに。これまで会った人間の中じゃあ一番の変わり種だ」

 もう一度足を組み替えた美雨が深々と溜め息を吐いた。

「って言うか美雨さん、ホントにあんなヤツをブルートガルドに入れるんの?」

「運営にあたって、おまえの意見は特に必要としてはいないんだがな」

 素っ気ない返答拒否に、希沙が下唇を突き出して拗ねる。

「それよりも。おまえ、もうブルートガルドには来るな。おまえが見て楽しいものでもないだろう」

「ええー? なんでよー。いいじゃんな別にー」

 美雨の言葉に希沙は大仰に顔をしかめた。

 だが美雨は取り合わない。

「それと、近いうちにこの街から出たほうがいい。ロックシードがあれば、よその町でもやっていけるだろう?」

「えー? なんなんなそれえ」

「忠告だ。どうも近々厄介な事が起きそうだからな」

 ベッドの上であぐらをかいて、駄々っ子のように身体を前後に揺すっている希沙の抗弁も無視して美雨は立ち上がった。

 そして床を指さして付け足す。

「あとその前に床を掃除していけ。立つ鳥跡を濁さず、だ」

「ええー? ……あ」

 言われてようやく自分が吹き出したモノに気付いたのか。

 床に広がった惨状に希沙が絶句しているうちに、美雨は奥の扉から立ち去っていった。

 

 

◆◆ 

 

 

 この無人のビル街一帯の区画は、開発される前は「天ヶ瀬(あまかせ)」と呼ばれていた。

 すなわち、瑞架市天ヶ瀬町。

 歴史を紐解けば、「天ヶ瀬」はかつて「雨枷」と表記されており、ひとたび大雨が降れば一面水浸しとなって、住民の生活の足枷となった由来があったそうだ。

 現在は開発のついでに治水の設備も万全に施したらしく大型台風でもない限りは足枷になるほど冠水することはなくなった。

 もっとも今は、足枷を填めるべき住人がいないが。

 「天ヶ瀬」なんて綺麗な字面をあてたところで、今やここは無人のビルに浸食されたコンクリートの荒野に過ぎないのだ。

 ついでに、最新版の地図にすら載っていない。

 

 そんな天ヶ瀬町のビル街を、希沙は鼻歌交じりに歩いていた。

 天候は晴れ。地名の由来など気にするべくもない。

 あの変な男・淘滋にまつわる悶着も、もう一昨日の事。

 ──まあ、確かに印象深すぎてそうそう忘れられる相手でもないが、どうせあれっきり会うこともあるまいし、もう関係ない。

 それはそれとして、今日の希沙は、どこかその辺でたむろしているチンピラ崩れの連中が興じているダンスパフォーマンスでも見ようかと、それを探して天ヶ瀬町を散策していたのだった。

 希沙自身はダンス等はやらないが、誰かが楽しんで何かを成しているのを見るのは、楽しい。

 美雨には難色を示されるが、ブルートガルドで喧嘩試合を観るのも、それと同じような感覚だった。

 そもそもは、まあ──暇つぶしなのだが。

「……よう」

 ところがそこに、左右の路地から二人の男がのそのそと現れて、希沙の行く手に立ちはだかった。

「っ!」

 希沙も立ち止まる。

 だがそれはただ立ち竦んだ訳ではない。既にさりげなく足の重心を変えて、冷静に相手を見定める。

 希沙とてこの街で数年間生きてきたのだ。

 他に誰もいない路地。小柄な少女ひとりを男が複数で待ち伏せる下卑た悪意。

 いいかげん見飽きて反吐が出る。

 だからいつでも逃げられる体勢を取る。

 どちらも剣呑な雰囲気を纏った二十歳ほどの男。濁った目つきだけは鋭くて、血色の悪い顔に曖昧な薄笑いを貼り付け、半開きの口から垣間見える汚い歯、いまいち重心の定まっていない立ち姿勢などからクスリの常習者と見て間違いないだろう。

 だとして、希沙にとっては恐れるに足りない。

 こちらを無力な少女と侮った男の油断を誘うなど、容易い。

 なにしろこちらにはロックシードがあるのだから。

「何の用? ヤクもカネも持っちゃいないよ」

 言いながら、「何の用」と言った時点で希沙は逃走するべく鋭く身を翻した。

 悠長に対話に応じてやる理由もない。あんなふらついた身体では、不意を突いて逃げた自分には追いつけまい。

 追いつかれたら、ロックシードの出番だ。

 そう思っていた希沙が振り返ったそこには、いつの間にかもう一人、いかつい体躯の男が立っていた。

「……なっ!」

 ひっかかった。前の二人の男は陽動だった。希沙が即座に逃げを打つと見て、三人目がこっそりと背後に立ちふさがっていたのだ。

「どけえっ!」

 それは振り返って駆け出そうとした瞬間の出来事。もう既に左右どちらに避けようともこの男に捕まる至近距離。

 だから希沙は瞬時に判断し、パーカーのポケットに手を突っ込んでロックシードを引っ張り出した。

 誤算だったのは、たまたま一番取り出しやすい所に入れてあったのが、クラスDのヒマワリロックシードだったことだ。

 ──構わない。低級インベスでも腕力は成人男性を遥かに凌ぐ──

 だが、リリースボタンを押すより早く男の太い腕が伸び、希沙の手首を掴み上げた。

「ああっ!」

 万力のような握力に手首を捩じり上げられて、希沙の手からこぼれ落ちたロックシードがアスファルトに激突して跳ね跳んだ。

「ガキが。あの女のお気に入りだからって調子コキ過ぎなんじゃねえか、ああ?」

 ぼそりと言った男に腕を背中に回されて関節を極められ、希沙は身動きできなくなってしまった。

「あの新顔の野郎を始末したら、テメエは次行く所の手土産だ。おとなしくしてろ」

 もうこの台詞だけで男たちの事情が分かった。

 美雨が手配した淘滋への案内役にして、美雨の組織の裏切り者だろう。淘滋を殺すことでの免罪でも約束されたか。

(あの野郎! いなくなってもまだこんな面倒ばら撒きやがって!)

 なんて厄介な男だろう。今度会ったらインベスで押さえつけた上で、この手で直々にタコ殴りにしてやる!

 腕を捻られる激痛を胸中の罵倒でごまかしながら身をもがき、脱出の算段を検討する。

 けれど、矮躯で非力な希沙では、一度捕らわれては自力で振りほどくのは不可能だ。

(くそっ! 一番強いロックシードが……)

 いつも複数持ち歩いているロックシードを全て、利き手側のポケットに入れていたということに気付き自分の間抜けさに臍を噛む。

 だが、手を伸ばして届かない位置ではない。

「んー?」

 ところが、掴まれていない方の手を反対側のポケットに伸ばそうとしている動きを、男に悟られたようだった。

「ふん。 おい、お前ら、新顔のトコに挨拶に行く前に、コイツの身体検査しとこうぜ。 他にも何か物騒なモン隠し持ってるかもしんねえ」

 男たちの下卑た薄笑いに、希沙の背に怖気が走った。

 先に立ちはだかった二人の男も、濁った瞳に粘っこい色を混ぜて、身動きのできない希沙に迫ってくる。

「い、やめ、は、離せばかあ!」

「へへ。部屋ならどこのビルも空き放題だからよ。好きなだけ騒げよ」

「そこまでだーあくとうどもー!」

 迫る男の伸ばした手が触れるか触れないかという危機一髪のこのタイミングで、上から棒読みの間抜けな声が降ってきた。

「あ?」

 怪訝にそちらを振り仰いだ男らと同じ方向を見上げると、そこの建物の二階の屋根に、非常に見覚えのある大男が、例の薬指と小指だけ立てた右拳をかざして何やら珍妙なポーズをとっていた。

「天が呼ぶ、地が呼ぶ、人が呼ぶ! ……えーと続き忘れたからもういいや。要するにおまえらチネー! とうっ!」

 頓狂な大見得の途中で台詞を投げ捨てた大男──裏白 淘滋が、両手をぴしりと伸ばした見事なYの字体勢で飛び降りてきた。

 そして、二階の高さから飛び降りてきたとは思えない、実に身軽な仕草で着地する。

 それは物凄い違和感のある光景だった。なにしろ想定される着地の衝撃に対し膝をほとんど曲げていないのだから。

「さああ揃いもそろって残念なツラの悪党ども! その小さいケツの穴にカラーコーンを根元まで突っ込まれたくなかったらその女の子を置いてとっとと失せな!」

 続いて左右に広げた奇矯なポーズで男たちを指さしてのたまう淘滋に、希沙を捕まえている男は心底呆れたように溜め息を吐くと、抱えている希沙を淘滋の方に向けた。

「手間ぁ省けて結構なことだ。余計な手間まで省きやがって。こちとら楽しみが減っちまったじゃねえか」

 言うと、男の手の中で鈍い光が翻り、飛び出した折り畳みナイフの刃が希沙の喉元に突き付けられた。

 予定通り、淘滋に対する人質となってしまった。

 その距離、五歩足らず。

 淘滋が助けに飛び出すより速くナイフが希沙の喉を抉るだろう。

 目だけで左右を伺えば、残り二人の男も同様にナイフを取り出し構えていた。

「まあいい。分かってるだろうが、動くなよ」

「ぷっ!」

 男が脅し口上を述べようとしたところで突如、淘滋が口をすぼめて何かを吹き出すようにした。

「ぅぎっ!」

 同時に、男が希沙を掴む手を離して仰け反った。

 

 ──淘滋が、男の目に弾速のごとき凄まじい勢いで 唾 を吹き込んだ事など、希沙の動体視力では捉えられなかった。

 

 いずれにしても、裏町育ちの経験値が考えるより先に希沙の足を衝き動かし、掴む手が離れるや否や誰もいない方へと駆け出した。

「ああ!」

「待てこらあ!」

 残る二人の男が怒鳴るが、聞く訳がない。希沙はたちまち路地の彼方へ走り去っていった。

「あちょー!」

 頓狂な奇声に二人の男が振り返ると、リーダーの男が淘滋にボコボコに叩きのめされたところだった。

 白目を剥いてのびたリーダーを足蹴にし、意味があるとは思えない怪鳥のポーズで残心に浸る淘滋。

「余所見をしている場合かな? 次にまばたきした時にはもうオマエラは既に死んでいる……」

「う、うるせえ!」

 叫び、残る二人の男たちも破れかぶれな形相で淘滋に襲い掛かっていった。

「ふっ。愚かな……」

 そう淘滋が嘯くと、そこからはまた一瞬の出来事だった。

 ナイフのような小ぶりな凶器を頭上まで振り上げるのは愚行。俗にテレフォンパンチと呼ばれる間抜けを晒した右の男に間合いを詰めて、伸ばした腕の指先で目の下を引っ掻いてやる。それだけで右の男は怯んで突進を止められた。

 そうして二人の連携を崩した淘滋は左の男に身構えて、突き出されたナイフを持つ手首を掴んで狙いを反らすと、がら空きの懐に半身の入れ替えで潜り込むと同時に肘を男の脇に叩き込む。急所を打ち抜かれた男は悶絶して崩折れた。

 即座に振り返り、右の男が体勢を取り戻して相方の沈没を認識するより早く、滑るような歩調で密着し、肩を相手の鳩尾にぴたりと添えると、踏み込みの反作用を込めたゼロ距離体当たりを見舞った。そいつは派手に吹き飛び、道路を横断して反対側のビルの壁に激突して動かなくなった。

 ──ここまでがほんのひと呼吸。

「……戦いは、いつも虚しい……と、最初に言い出したのは誰なのだろうな」

 口ほどに興味もない事を言いながら、倒れ伏す男たちの真ん中で淘滋は構えを解いた。

「さあて。約束通りコイツらのケツにカラーコーン突っ込んでやらねえとな。 ……どっかに落ちてねえかな。トゲトゲがついてると、なお良いんだけど……」

「あるかそんなモン!」

 辺りを見回した淘滋に、いつの間にか戻ってきていた希沙がツッコミを吼えた。

「よう! ひさしぶりだな! 元気だったか?」

「この馬鹿アホ! たったいま襲われてた所だよ!」

 まるで今初めて気付いたように手を振る淘滋に希沙が再度吼える。

「はっはっは。って言うか、俺様ちょーカッコ良くね? ナイスタイミングだったろ!」

「あーあーまったくだんな! いったいどこをうろちょろしてれば、こんなタイミング良く出て来るだんよ!」

 忌々しいこの男に借りを作るなど、希沙にとってはあのまま襲われるのとどちらがマシか迷うところだ。

「いやあ、あんまり良い天気だから、俺様ビルの屋根伝いにお散歩してたのさ! そしたら鼻歌交じりに歩いてるキサちゃん見つけて、実は上からこっそりずっとついていってました」

「ほぼ最初からじゃねえかよっ!」

 アスファルトを踏み付けて怒鳴りつける。この男、希沙が捕まっても、上で悠々と登場タイミングを計っていたのだ。最悪な男だ。

 それにしても、高さもバラバラなこのビル街の上を、屋上を跳んで渡るなどつくづく常人の沙汰ではない。

 淘滋の残念な性癖と人智を超えた身体能力に、希沙はもう呆れるばかりで溜め息しか出ない。

「……はあ。 まああんたならブルートガルドに放り込まれても全然平気かもね」

「む? 「ぶるーとるねーど」ってな、なんだい?」

「「ブ ル ー ト ガ ル ド」! あのね」

 希沙が説明しようとしたところで、足元から何か、妙な唸り声が聞こえた気がして周囲を見回した。

「おっと。 キサちゃん、話はまた今度にして、どっか遠くに逃げたほうがいい」

「え? なに?」

 突如これまでの戯れから一変して真剣な眼差しで手を振る淘滋に、希沙は戸惑いながらも後退してゆく。

「大丈夫。そのまま遠くに行ってくれ」

 淘滋は、足元でノビている三人の男を見下ろしていた。

 その三人の男の身体が、時折ぴくりと痙攣しながら、不自然に脈動し始めた。

「え? なに? なんなの?」

 ビルの影に回り込んだ希沙が、顔だけ出してその様子を見つめる。

 やがてゆらりと男たちが身を起こし、もたもたとした動作で立ち上がった。

 その途上で、肌が、皮膚が変色し、肉を膨張させ、服を内側から引き裂いてそのシルエットを変形させてゆく。

「……な……ぁ……あ……」

 みちみち、ぎちぎちと耳を打つ生々しい音が光景の現実性を嫌でも伝えてくる。

 やがてそこに立ち上がったのは、血を滴らせるおぞましい化け物だった。

 節くれだった四肢や不気味な色の硬質化した表皮。肥大化した上半身の肉に埋もれて潰れたような醜い顔。

 元が人間だなんて思えない異常な変移。いったい彼らの身に何が起きたのか、希沙には皆目見当が付かなかった。

『……ーー……ーー……』

 化け物らは、めいめい喉を唸らせている。

 やがてそこに立つ淘滋の姿を認めたのか、三体ともが淘滋の方に身体を向け。

『ーーーーーッ!』

 そして両腕から爪を剥いておぞましい奇声をあげた。

 これは、肉体を変質させられた被害者の苦悶の声ではない。

 獲物を前に猛るケダモノの咆哮だ!

「ふん。 なるほど、「審査」のための「案内」ね」

 淘滋は。

 化け物らを睨み据え、取り出した自らのロックシードを手の中で回していた。

「御挨拶、まったくもって痛み入る! せめてお前らの苦しみは長引かせずに、一刀両断に終わらせてやる! それが俺様の……美学!」

 叫び、回転させたロックシードを掴み直し、リリースボタンを押し込んで開錠した。

「変身!」

 


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