「ヒック……ヒック……
森の中で年若い少女が泣いている。
薄闇に包まれた森がその声を飲み込んだ。
◇◇◇◇
「へぇ。
「ええ、本当に」
「なに、才能はあれど、まだまだ小娘でしてのぉ」
「才能があって、伸びる時期に伸びる余地があるわけだ」
「楽しみですね」
玉座の
「まぁ泣き虫なところが玉に瑕と、今も恐がりを克服する訓練しておるところで」
「昨日帰ってきたばかりなのに、もうそんなことしてるのか。
「いいえ、初めて耳にしました」
「じゃあ公覆の言う訓練とかいうのに区切りがついたら、徳操の方でも見てあげてよ」
「了承」
「公覆もお願いね」
「おやすい御用じゃ」
青い羽織の着物姿に黒い短髪、男性タイプの小型生命体が空海。最近お茶をがぶ飲みする程度の能力に目覚めた。
青みがかった銀の長髪を高い位置でまとめた褐色肌の美少女は
黒の長い髪を熨斗袋の結びの様にかんざしでまとめ、藍色の着物に桜色の羽織、羽毛扇を持つ優しげな面立ちの美女は
今日は江陵の初等学校と、高等学校である水鏡学院の運営についての話し合いと、そもそもの学校発足のきっかけとなった街道整備の準備のために集まっている。
遅れて現れたのは二人。
「待たせたのぅ」
筋肉にヒゲが生えたものが卑弥呼。白いビキニを着ている。政治に絡んだ話を得意とするため召喚。
「お待たせして申し訳ありません」
イケメンの少年が左慈。工事の人員を現場で指揮する。軍の責任者でもあるため、工事中の警護も担当。
「全員集まったね。早速だけど、学校の準備状態から聞こう」
「はい」
江陵には現在も初等学校と寺子屋の中間くらいの施設は多数存在している。読み書き計算を習わせるためだ。年齢性別身分の如何を問わずに入学が可能で、一週間でループする授業内容を繰り返して試験に合格するだけの、学校の二歩手前程度の中身でしかない。
今回の初等学校はこれまでの学校に比べれば別格だ。1日1授業×1ヶ月でループする内容が60単位。1日に受けられる授業は最大で5つ。毎月の試験では優秀な成績の生徒には3単位先までの内容が出題され、合格すれば一気に4単位進める。つまり、1ヶ月で最大20単位、最も優秀な場合に3ヶ月で卒業出来る内容となっている。
そして、本命。高等学校こと水鏡学院。
こちらは非単位制で個別の生徒に徹底教育を行う。寮完備。
運動に才ある人間なら、一騎当千を目指すべく、訓練メニューから食事、休憩時間まで徹底管理。有望ならば左慈が出張って稽古を付ける。
商才があるのならば、基礎をたたき込んで商家に奉公。手先が器用ならやはり職人の元で修行を付けさせる。
軍事、政治、外交官、指揮官、その他についても江陵そのものが協力体制を築くことで安定的に一流以上の人材を育て上げるシステムだ。
江陵の最下層と最上層を除いた層に、合わせて60ヶ所ほどの初等学校を設置。
日本の公立学校をイメージして作ったので、校舎が謎の金属製であることを除けばほとんどそのまんまイメージ通りの学校なのだが、江陵の学校では大人と子供が同じ授業を受けるために座席は講堂形式である。
最初に開校するのはこのうち10ヶ所程度で、人口が増えるのに合わせて順次開校していく予定。
そして最上層の一つ下、第四層に水鏡学院。
20ヘクタールほどの土地に学舎、寮、運動設備、職業訓練の施設など、大小20以上の建物。運動場や弓道場なども10個近くが揃う豪華な学校となっている。
こちらは最初の初等学校の卒業生受け入れ後に開校する。
教科書は用意出来た。教員も現在教育中。施設も準備完了。通達も終了。希望者もおおよそ見込み通り集まっている。
「やっぱり見込み通りか」
「はい。やはり見込み通り、希望者は限定的です」
「給食で釣るのは無理なんだっけ」
「はい。残念ながら、食材の購入や調理を任せられる人材が揃いません」
江陵は現在どこもかしこも人手不足である。消費者ばかりが過剰に多いため、人材の取り扱いには慎重にならざるを得ないのだ。
「ご主人様」
「なに、卑弥呼?」
「軍の糧食を回してはどうですかのぅ?」
空海は司馬徽と顔を見合わせ、すぐに軍事担当の左慈を向く。
「左慈、出来るの?」
「はっ。食事内容を凝ったものにすることは出来ませんが、提供だけでしたら量を指定していただければ問題ありません」
「ほほぅ。どうかな徳操?」
「ええ、それで十分です! 日々の授業で惣菜を一品程度用意すれば、十分に事足りるでしょう」
調理は授業の中でも継続性の高いものとして、入学から卒業までの長きにわたって教え続ける内容だ。作ったものをその日のうちに消化出来るというのも良い。腐らせる心配をせずに済む。
「卒業生が増えて学校に就職して貰えたら、その辺を任せられるようになるね」
「はい。そういった人材育成の機会を与えてくださったこと、感謝いたします」
空海の考えてもいない部分にまで先回りしてお礼を言われることにも慣れてきた。
「ん。言葉よりも、そうだね……お前の育てた人材で返せ、司馬徳操」
「了承」
司馬徽の目に強い光が宿る。
「クックック……水鏡先生を本気にさせたようだがヤツは四天王の中でも最強……」
「も、もう! 空海様、茶化さないでくださいっ!」
「はははっ、次っ! 街道の話ね!」
「空海様っ」
「はいはい。卑弥呼、よろしく」
「承知した」
卑弥呼がほっこり笑って声を上げてくれた。司馬徽は顔を赤くしながらも大人しく椅子に座る。
「まずは人員の募集じゃが、半ば強制とはいえ思ったより集まりが良い」
「確か募集に上限は付けておりませんでしたの」
卑弥呼がやや渋い顔をして告げれば、黄蓋が補足する。
更に司馬徽と左慈が口を挟む。
「集まりすぎても監督が追いつきませんね」
「俺が見られるのは多くて5千。それを超えるなら于吉の助けがいるだろう」
「そこで、50日を目処に二期に分け、およそ4千ずつの派遣を考えておりまする」
「50日でこの、
左慈の言葉を受けて卑弥呼が自らの考えを明かした。50日と聞いて疑問を抱いたのは空海だ。広げた地図に書かれた編の地名には聞き覚えがなかった。
編は現在の江陵と
今回の街道整備では江陵から襄陽まで、およそ130㎞を広く平らに整える予定だ。地図を見る限りでは、編は江陵の端から北に70㎞程度の位置にある街のようだ。
「編までならば50日は掛からんじゃろう。だが、編の前後の数十里は少々起伏が豊かな土地じゃから、時間と人員にはいくらか余裕を持っておくべきであると考える」
「あー、あの辺かー。川を挟んでちょっと山みたいになってる所だったね」
半年くらい前に龍を見かけてとっ捕まえた場所だなー、などと口に出さずに考える。
「北の方になれば江陵からの運搬に割く人数も増えますからの。襄陽近くではいっそ襄陽から材料などを買ってしまう方が手間も減って作業もはかどるやもしれませぬ」
「ふむふむ。じゃあ卑弥呼と左慈は残ってその辺を詰めよう。ちょっと注文もあるし」
「承知」「はっ」
卑弥呼と左慈が深く頷く。
「最後に、街道整備後の話になっちゃうんだけど……公覆」
「はっ」
「
司隸は中央の意味だ。東京都みたいなものか。扶風は司隸の西の外れ、涼州との境にある郡である。
「先日話しておられましたな。登用でも試みますかな?」
「ははは、それもいいんだけど、今はまず馬を手に入れたくてね」
「ということは、交易の申し込みですかの?」
「相手は無官だから、何とかこちらに連れて来たいんだよ。護衛や宿泊の費用を出すから交渉して欲しいんだ」
「なるほど。故に街道整備後、ですか」
無官の相手に出向くなど下に見られるだけ、らしいのだ。
「個人的には会いに行ってもいいんだけど、無官を相手にそれはやり過ぎ……らしい」
「うむ。ご自重くだされば幸いじゃ」
「やっぱり官位は面倒だよね。とは言っても、卑弥呼の言いたいこともわかるから、呼びつけることにしたんだけどね」
誠意を持って接しつつ下に見られないよう注意しなくてはならないというバランス感覚の重要な役割である。そのため、学校で忙しい司馬徽か、色々忙しい于吉か、酒を飲むのに忙しい黄蓋くらいしか適役が見当たらなかった。
「謙らず、侮らず、嘲らず。難しい任となるでしょうね」
「うん。
黄蓋は一度目を瞑ると、ゆっくりと目を開き、空海の目をしっかりと見据えて言った。
「お任せあれ」
「うん、よろしくね。黄公覆」
こういう台詞を言ってみせる黄蓋は、やっぱり格好良い。
◇◇◇◇
「おかしい。当陽ってこっちじゃなかったっけ?」
前後左右全て森ではあっちもこっちもあったものではないのだが。
旧当陽市街地に盗賊が住み着いているらしく、街道整備にもその後にも悪影響がありそうだと管理者を交えた会議で話題に上がった。空海は今、当陽を更地にするべく江陵から北西に向かって直進している。
そして。
「あえて言おう。樹木だらけであると!」
空海は考える、
当陽は山際の土地であるからして、山にぶつかったら高いところに上って周りを確認すれば良いのではないか?
自らの発想の素晴らしさに感動を覚えた空海は、そのまま北西っぽい方向に歩き続けることにした。太陽をやや左方向に見つつ前進だ!
前進を決意してから1時間。江陵からは4時間ほども歩き続けた森の中。
「ん?」
どこからか泣き声が聞こえる。
「……女の、子?」
夕闇。
人気のない森の中。
かすれたような女の子の泣き声。
つまり、これは
「
実は太陽を左に見るくらいしか方角を確認する術を持っていなかった空海は声のした方向へ足取りも軽く近づく。
「人里はここかー!」
「ひぅっ!?」
「お、やっぱり女の子か。こんばんちは!」
ギリギリで「こんばんは」の合わない微妙な時間帯であることを挨拶ににじませる。
「あゎ、さ、祭殿ぉ」
「ん? どうした? 大丈夫か? 飲み物いるか?」
果実水の入った水筒を創り、袖から取り出す。
女の子の目の前でチャプチャプと音を立てれば、今にも泣き出しそうだったその顔は水筒へと向けられた。
「ほら、飲み物だ。飲むか?」
「えっ……ぁ」
気になってはいるようだが、警戒して手を出せないようだ。
「飲んで見せようか」
「あ、えと……」
空海は腰をかがめ、顔の高さを合わせて微笑んで見せる。
窺うように顔を上げた女の子は、決意したように力強く首を振り、水筒を受け取る。
「い、いただきます……」
「一気には煽るな。喉が渇いてるなら、一口二口ごとに口を離して一息空けろ」
「あ……はい。……おいしい」
「落ち着くまではそうしていろ」
女の子から一歩離れて様子を観察する。
赤いチャイナドレスっぽい服、黒髪、褐色を思わせる肌、10歳には少し届かないくらいだろうか。
足は汚れ、所々に傷が付いている。そもそも靴がくるぶしすら覆っていない。街を歩いていて突然野山に放り出されたかのような有様だ。
「あの、ありがとう、ございました」
「うん。何でそんな格好でここに居るのかも気になるけど、一つ聞きたいことがある」
「……なんですか」
女の子に警戒が戻る。
「当陽ってどっち?」
「
「はい」
洛陽令というのは、洛陽の県令のことだ。県令は……市長のようなものだろう。
この時代、役人の大半は世襲だ。正確には世襲制ではないが、一族で一定の役職を受け持つものという言葉で、おおよそ現実を示すことが出来る。
つまり、首都洛陽の県令という高官を輩出するくらいの名家の娘ということになる。
「洛陽生まれの洛陽育ちじゃ土地勘はないよなぁ」
「すみません……」
森のど真ん中で少々の土地勘が役に立つかは甚だ疑問であるが、それは口にしない。
「謝らなくてもいいから一緒に落ち込もうず」
「……落ち込んでも何もはじまりません」
「近頃の女の子は強いなー」
「女性に向かってそのようなもの言いはしつれいです」
「ふーむ。それもそうだね。すまなかった、これをやるから許してくれ」
そう言って取り出すのは果実水の入った水筒。空海がそれを女の子に差し出せば、おずおずと伸ばされた手が、しっかりと筒を掴む。
「し、しかたありませんね。いただきます」
「気に入った?」
「……はい」
「そう」
優しげに細められた空海の目から逃れるように、女の子は水筒を傾ける。
「さて、日が暮れる前に目的を確認しよう。俺は当陽に向かっている。お前は?」
「私は……ここで、むかえを待つか、江陵に向かうつもりです」
「こんな目印もないところに迎えが来る当てがあるのか?」
「うっ」
空海が口にしたのは驚きのためだ。江陵へ向かうというにも奇縁を感じたが、迎えを期待しているということには純粋に驚いた。
周りは森が広がっているだけだ。人の手が入った形跡もない。例え地元の人間であってもこの場所には近づいていないと言うことだろう。
「というかここがどの辺りなのか、わかっているのか?」
「ううっ」
江陵に行くとは言っていたが、どちらに向かえば良いのかくらいはわからなくては進むことも出来ない。
しかし、女の子はがっくりといった様子で膝をついた。
空海は落ち込んだらしい女の子の前に屈み、優しく声を掛ける。
「当陽に行った後は俺も江陵に帰るつもりだ。一緒に来るか?」
「えーと、その……」
江陵へ『帰る』という空海の言葉を聞いて彼女の表情にも迷いが浮かぶ。
「ちなみに当陽はここからすぐ北にある! はず」
「で、ではここは江陵の北西なのですね?」
「お? よく知っているなー。俺は江陵から当陽へ、近道しようと思ってまっすぐ進んできたんだ。俺が来た道を辿れば、三時(6時間)くらいで江陵まで戻れると思うぞ」
江陵が直径60㎞を超えるほどの巨大要塞となったため、当陽との距離は劇的に近づいていた。かつては子供の足で2日ほど掛かっていた両者の距離も、今では1日ほど。空海の健脚ならば半日と掛からない。
空海の足でこの場所まで4時間。子供の足ならば1.5倍くらいは掛かるだろうという単純な計算で時間を告げた。実際はもっと掛かるかも知れないが、どうせ江陵に辿り着く前に日をまたぐことになる。
「む、無茶苦茶なことをしているのですね」
「そして俺の勘が正しければ、あと少しで当陽かそこに続く街道に出られる! はず」
「お話を聞けば聞くほど不安になるのですが……!」
「ははは。まぁ動かないならそれでも構わないぞ。一晩くらいなら付き合ってもいい」
もうすぐ日が暮れるため、女の子がここに残ると言うなら、空海も一晩くらいは面倒を見るつもりでいた。
「とはいえ、お前も自分の居場所がわかっていなかったわけだし、動くとしてもこの程度の根拠しかないだろう?」
「それは……そうなのですが。何かなっとくがいかない」
自信満々に動きながらその根拠が勘だと告げる者など、彼女にとっては初めて見る人種である。
それでも、彼女は空海の言動に一定の理性と教養を感じ取ったため、それが言葉通りに全くの勘というわけではなく、経験や計算を加味したものだろうことに気が付いた。
「もう日暮れまで時間が無い。移動するなら、すぐに行くぞ」
「あっ、行きます! 少しだけ待ってください! 荷物を取ってまいります」
空海の言葉に慌てて肯定を返す。今はこの人を信じてみよう、彼女はそう考えた。
「はいはい。荷物なんてあったのか」
女の子は近くにあった木の裏に回って風呂敷のようなものを引っ張り出し、肩に回して胸の前でしっかりと結びを作った。
「お待たせいたしました!」
「む、肩に毛虫が付いてるぞ」
「えっ? きゃあああああああ!!」
「すみません……」
「大丈夫だ」
お姫様抱っこで進む赤と青。縮こまっている方が赤で、包み込んでいる方が青だ。
いざ出発という時に、女の子の腰が抜けるというハプニングに見舞われたが、最初から女の子を背負うか抱っこしていくつもりだった空海にとっては問題はあってないようなものだった。
「ところで、あの場所に置き去りにされたということは聞いたが」
「はい」
「なんであんな所に置き去りにしたの? しかも自炊道具まで渡して」
「……祭殿は、きょうふをこくふくしろ、とおっしゃっていました」
「あんな場所で未知の危険にさらされ続けても、恐怖は克服出来ないと思うが……」
「同感です……」
しばらく、空海の歩く足音だけが響く。
「こう言っては何だが、その人物は信用できるのか?」
「で、出来ます! 祭殿は私をすくってくださいました!」
「ふむ。こんな所まで連れてきて殺すくらいなら、わざわざ助けたりはしないか」
「殺す……そ、そんなことするはずありません」
「すまん。結論を急いだ。許せ」
女の子が落ち着くまで歩調をゆるめる。
「それで、救われたというのは?」
「その、祭殿は私たちののった船が河賊におそわれていた時、助けに入って下さった方なのです」
「役人なの?」
「はい。あ、しかし、その辺りにいる役立たずといっしょにされては――」
彼女はきっと、誰かに話したくて仕方なかったのだろう。空海が軽い相づちを打っているだけだというのに、何分も途切れることなく喋り続け、水筒の果実水を一口含み、そしてまた話し始めた。
「――覚悟したその時、間にわって入って立ちふさる人影が!」
「おお、ついに」
「そうです! 祭殿はたずさえていた剣を抜き、大きな声でこうおっしゃったのです」
『
「祭殿が賊に向かって剣をふり下ろすと、周りから一斉に矢がはなたれました!」
「おおー」
「次々といぬかれる賊たち! しかし賊もさるもの。矢を受けながらも、いく人かは祭殿にきりかかります」
「やるじゃない(ニコッ)」
「祭殿は大声を上げてせまる賊に『甘い!』とするどく叫び、次々ときりふせます!」
「すごいなー」
「そうしてたくさんの賊をきりつけ、ついには頭目の首をきり落として、見事に河賊をたいじしたのです」
「めでたしめでたし、だね」
空海が茶化しながら引き継いだことで、自分が熱く語っていたことを自覚した女の子は顔を真っ赤にして伏せた。
「と、とにかく祭殿にはかんしゃしているのです」
「なるほどねぇ。確かにそれだけ聞くと、森の中に置き去りにするような人には聞こえないな」
「もちろんです! このようなことになったのも、元はと言えば私が祭殿に無理を言って『しゅぎょうを付けて欲しい』とお頼みしたのが始まりなのです」
「修行?」
修行と聞いて空海は山ごもりを思い浮かべる。そして、山ごもりがあるのならば森ごもりもあって良いのかもしれないと考えた。
「はい。祭殿は
「ほー。そいつは教養もあるのか。お前も読めるの?」
「むずかしいご本でしたが、私も洛陽では
「凄いじゃないか。七経は儒学書だっけ?」
「最近では書にもなっているのですね。私は
「へぇー」
――書じゃなかったのかあぶねぇ。
空海は漏らしそうになった言葉を飲み込んで相づちを打つ。
江陵で小規模に取り扱い始めた出版事業で書籍にしているかもしれないと空海は考えていたが、七経は厚手の小説よりも文字数が多く、漢の中心学問の教本でもあるため敷居が高い。そのため、江陵では未だ扱われてはいなかったりする。
「一昨日、私は孫子を読むのに夢中になってしまい、日が暮れてから祭どのにご本をお返しに行きました」
「うん」
「そのとき、暗い場所をおそれていることがわかったのでしょう。昨日になって祭殿はこの荷をまとめ、ご本をかりに上がった私をつれてこの森までやってきました」
空海は改めて女の子の姿を上から下まで観察する。
「その格好は本を借りに行った時の格好か」
「はい」
「なるほど。納得は出来ないが、理解は追いついたよ」
――なんか符合する点が多いよな。やっぱりあの祭だよな。
「聞きたいんだが」
「なんでしょうか」
「お前が先ほどから口にしている祭殿というのは」
「ッ! あなたは真名を!」
「黄公覆の真名の祭か?」
「え?」
一瞬で沸点を突破した様子の女の子は、だが、そのまま一瞬で凝固点を下回ったような顔をして固まった。
「……え?」
「その、もしかして」
長いこと沈黙していた女の子が、おずおずと顔を上げた。しかし少し赤面している。
「あなたは、祭殿の旦那様ですか?」
自分で言った旦那様という言葉を恥ずかしがっているようだ。
「旦那? 公覆の旦那さんかぁ……ちょっと見てみたい、とか言うと怒られそうだな」
「違うのですか?」
「違うねぇ」
「では一体どういったご関係なのですか?」
空海は顔を少し上げ、改めて女に子に笑いかける。
「ふふ。どういう関係だと思う?」
『ふざけてんのか、てめぇ!』
突然横合いから怒鳴られた女の子は心底驚いて周囲に目を向けた。
「えっ――ひぅっ!」
そこには、むさ苦しい男ばかり十数人が空海と女の子を取り囲でおり。
「別にふざけてなんていないよ?」
殺気立つ周囲のことなど全く無視するように空海は薄く笑う。
「てめぇ何者だ! 官憲か!?」
「そんなところだね」
男達は太刀を振りかざして威嚇している。空海は震える女の子を改めて抱き寄せた。
「俺は空海。江陵の主だ」
「そうか――じゃあ、死ね!」
ぽんぽんと軽く叩かれた背中に死を予感し、女の子が強く目を閉じた数瞬の間に、全ては終わった。
ほんの数瞬だ。派手な音もなく、衝撃もなく、もちろん痛みもなく。彼女がおそるおそる目を開けてみれば、そこにはまっさらな土地が残っているだけだった。
城塞も、家も、人影も、草木の一本すら、残っていない。
「はい、当陽の用事は終わったから江陵に戻るよ」
「えぅ?」
「ん?」
「――ヒック」
「すみません……」
「大丈夫だ」
お姫様抱っこで進む赤と青。小さくなっている方が赤で、抱き上げている方が青だ。
「しっかりしている割には泣き虫なんだな」
「……すみません」
「責めているわけじゃない。危機に立ち会ったんだ。その克服にも近づいただろう」
「そう、でしょうか」
大勢の賊に取り囲まれ、刃物で脅されていることを理解した上で泣かない子供がいるのか? と返す。
「お前はアレが生命の危機だと、ちゃんと理解出来たんだろう?」
「はい」
「なら、その危機を乗り越えられるようになれば、克服したも同然というワケだ」
「……」
「納得いかないか?」
「そのようなことで、私の……その、泣き虫、が、直るのでしょうか?」
「直る、というのは正しくないかもしれない。変わるんだ」
吠え掛かってきて恐ろしかった犬を、撫でられるようになるように。
苦くて嫌いだった野菜を、美味しく食べられるようになるように。
その程度の事だ、と空海は告げる。
「……変わる」
何かを決意するように呟く彼女に、空海は笑いかける。
「ま、泣くのが悪いわけではない」
「悪く、ないのですか?」
「泣かずに考えれば、あるいは、泣かずに動けば、助かるかもしれない。そんな可能性もある」
「はい」
「そういう時に、泣くだけで何も出来ないことは、お前にとって良くない」
「私にとって、良くない?」
「そういう時に泣いているのは、お前にとっては、悪いと言えるんじゃないか?」
「はい」
女の子は頷く。空海もわかったように頷く。
「でも、それ以外の時はいつ泣いても良いんじゃないか?」
「ええ!?」
割と極論である。
「というより、泣いていても状況をより良く打開できるなら、泣いても良いと思う」
「ええー!」
極論である。
二人の声は、女の子が寝付くまで、夜の街道をちょっぴり賑わせた。
「お帰りなさいませ、空海様」
「待っておりましたぞ、ご主人様」
「ただいま。ちょっと、この子を寝かせるのに寝台を用意してくれる?」
「了解じゃ」
「あ、街道ね。長坂の辺りまでは軽く整地しておいたから、あとは適当によろしく」
「承知しました」
◇◇◇◇
「お、おはようございます。空海様」
「うん、おはよう。よく眠れたみたいだね」
「ううっ、はい。お世話をおかけしました」
「そんなに畏まらなくてもいいよ。ほら、飲むか?」
そう言って袖から果実水を取り出す。
「い……いただきます」
くぴくぴと水筒を傾ける女の子のお腹が小さく鳴った。
女の子は停止し、一瞬で顔を真っ赤にし、涙目で空海の様子を見る。
「腹も減っているだろうが少し我慢してくれ」
「ううううううぅぅ、わかりました……」
「今から公覆の所へ連れて行く。そこで食事にしよう」
「えっ、はいっ!」
二人並んで街を歩き、黄蓋と司馬徽を呼んだ玉座の広場の裏手を目指す。
女の子が寝ている間に第四層まで移動していたため、玉座までは1時間ほどだ。馬車を乗り換えるたびに抱き上げていたのに、彼女はぐっすり眠ったままだった。やはりとても疲労していたようだ。
「そういえば俺が空海と名乗ったのを聞いていたんだな」
「あ、はい。……その、勝手に呼んでしまって」
「いいよいいよ」
女の子の謝罪を遮り、足を止める。
「では改めて名乗るが、俺は空海だ。姓でも名でも字でもない、号みたいなものだが、空海と呼べ」
「わ、私は周洛陽令が娘、字はまだございません。真名を冥琳ともうします」
「うん? 真名を告げて良いのか?」
「空海様は祭殿の主で、私の命の恩人です。私が、告げよう、そう決めました」
「ん。んー。わかった。字を付けたら預けに来い。その時にまだ真名を預けて良いと考えていたら、改めて名乗れ。それまでは、仮に預かっておくことにする」
「なっ、何故ですかっ?」
告げた真名を預からないなど無礼な行いだ。
「お前は大した子供だが、それでもまだ、子供だからだ」
「しかし真名はっ」
「わかっている。だから、もう一度名乗りに来いと言った」
「空海様っ!」
「――冥琳」
空海は腰をかがめ、顔の高さを合わせて微笑んで見せる。
「俺の勘では、お前はちゃんともう一度、名乗りに来る気がする」
「……勘とはどういう――」
冥琳の追求にも空海は笑ったままだ。勘だ何だと繰り返す空海に、やがて冥琳は怒気を霧散させ、呆れたように空海の顔を見上げる。
「さあ、公覆たちを待たせている。行くぞ」
「まったく。しかたがありませんな」
「ははは」
二人の女性が席に着き、顔をつきあわせている。
深刻そうな表情を浮かべているのは黄蓋公覆。青みがかった銀の長髪を高い位置でまとめた褐色肌の美少女だ。
「水鏡殿、相談がある」
「何でしょうか?」
黒の長い髪を熨斗袋の結びの様にかんざしでまとめ、藍色の着物に桜色の羽織、羽毛扇を持つ優しげな面立ちの美女は、水鏡こと司馬徽徳操である。
「飲みながら出来る調練の方法を考えて欲しいんじゃ」
「まず酒から離れなさい」
こんなこと真面目に口にする黄蓋は、かなり格好悪い。
「子供の教育にはよろしくない場面だったな」
観客となっていた子供は今、龍のごとき怒気を背負っているのだが。
「祭殿おおおおおおおおっ!!」
その日からしばらく、黄蓋が酒屋に現れることはなかった。