無双†転生   作:所長

25 / 36
5-6 日の出

 洛陽の南、豫州潁川郡から山間を通って洛陽に続く道がある。

 司隸の南東、豫州潁川郡襄県から司隸河南尹に入り、梁県、陽人城、新城県を経由して平地に降り、洛水と呼ばれる黄河の支流に沿って洛陽に至る道だ。

 大軍が展開、進軍するのには向いておらず、連合軍もこの道を通らずに東回りで洛陽に迫った。

 

 洛水は新城県から山間を抜けるまで北に流れ、平地に出てからは緩やかに東向きに流れを変える。洛陽では人々の生活を支える水となり、洛陽を越えると偃師(えんし)の南を通ってやがて北東の黄河に流れ込む。

 

 今、偃師と呼ばれる地で反董卓連合軍22万と董卓軍22万が十数里(数㎞)の距離を置いて対峙している。

 連合本隊は後方で陣地を構築中であり、董卓軍もまた董の文字は前面に見えない。

 董卓軍の前面には馬超軍と呂布軍が並んで布陣しており、対する連合軍の前面には江陵軍と公孫賛軍が並ぶ。

 

 そして、連合の前面のそのさらに前方には今、白馬に跨がる武人が二騎。

 

 

 

 

「桃香様」「桃香お姉ちゃん」

「愛紗ちゃん、鈴々ちゃん。どうしたの?」

「それが、陣の前方をご覧下さい」

「前? あれは……白蓮ちゃんの言ってた凄い白馬?」

「趙雲と張遼なのだ!」

「彼女らの様子が、おかしいのです」

「おかしい? それって――」

 

 

「その、なんと言いますか……奴ら、尋常な様子ではありません」

「星……? 江陵は一体何を……」

「ちょっと春蘭、どういう意味よ? 華琳様の前なんだからはっきりしなさいよ!」

「しっ仕方ないだろう! 私にもよくわからんのだ!」

「待て桂花。私も姉者の意見に賛成だ。あの者たちは、今から一騎駆けでもせんばかりの気迫に満ちている。尋常なことではない」

「なら一騎駆けする気なのかもしれないでしょ!? それを早く言いなさい!」

「落ち着きなさい、桂花! アレは――」

 

 

「――違うわね」

「えっ? 姉様?」

「あれは一騎駆けを狙ってなんかいない。もっと、とんでもない獲物がいる」

「確かに雪蓮様の仰る通り、馬上にあって前を見ているようには見えません」

「……前に出られるかしら?」

「江陵軍が完全に前をふさいでしまっていますよぉー」

「この状況で、江陵の狙い通りの何かが起きると言うの?」

 

 

「星さん、お願いします」

「あとはお任せしますよ、星ちゃん」

 

 

 両軍が向かい合った平地のやや南に流れる川、洛水を高速で下って来た小舟から高速で飛び出した4つの影が、身を低くして両軍の間を駆け抜ける。

 そのいかにも怪しい影は、しかし今、誰からも注目されていなかった。

 なぜなら――

 

 

「え? なにこれ?」「これは――」「空に……」

 

『雲?』

 

 

「おーおー。ホンマに来よったわ。ま、背中は任せときー」

 

 誰もが目を向けなかった4つの影を追うように、誰の目にも明らかに、不自然な速さで南西から雲が広がっていく。雷鳴を伴う暗雲だ。

 分厚い黒雲は、両軍を覆うように広がってなお成長を続け、両軍のど真ん中に向かって噛みつくように落ちてくる。

 

 その鼻先が大地につく寸前、大柄な白馬に跨がった将が割り込んだ。

 

「お前の相手は私だ」

 

 軽い言葉に反するように、地をえぐり取らんばかりの激烈の気合いと共に赤い槍が振るわれ、今にも地面に触れんとしていた黒雲が大きく払われる。

 

 そこに見えたのは

 

『竜ッ!?』

「――オオオオオオオオオオオオッ!!」

 

 

 竜がその巨大な顎を大きく開き、風を伴う程の咆哮を放つ。

 落雷を思わせる轟音が、遠く戦場を囲む数十万の兵の全身を叩く。

 その風と轟音を間近で受けた白馬の将は、しかし、全く動じていなかった。

 

「なるほど、良い馬だ」

 

 趙雲は再び大きく息を吸い込む竜に向かって白馬を走らせ槍を振るう。

 軽く振るっているように見えて、馬の勢い、体重の全て、そして体内で練り続けた気を載せた槍が、竜の巨大な顔の側面をえぐる。

 

「グオオオオオオアアアアアアアッ!」

 

 たまらず身を引いた竜に追いすがりながら、白馬がうるさそうに首を振る。

 

「おお、すまんな。すぐに片付けるっ!」

 

 軽口を叩きながら、趙雲は決して竜から目を離さない。

 竜が大きく口を開くと同時に、白馬は弾かれたように横へとそれる。直後、大地を揺るがす咆哮が元居た場所をすり抜けた。

 

(いやはや、これほど高ぶることがあろうとは思ってもみなかった)

 

 趙雲は波打つ胴から逃れ、風を切る爪を弾く。にやける頬を隠す様に腕を上げ、すれ違い様に胴体を浅く斬りつけていく。

 

(私も存外、気楽な質だったらしい)

 

「ゴォオオオァァァァァァァアアッ!」

 

 その巨体で小さなノミをすり潰そうとするかのように、竜が地面の上を這い回る。

 地面がえぐれ、人の拳ほどもある石が飛び交う。大きなものはたたき落とすが、小さく素早い石は趙雲の腕を持ってしても止められず、趙雲自身を、そして馬を打つ。

 暴れようとする馬を両足で挟み込み、竜から離れるようにと脇腹を蹴って馬に合図を送る。向きを変え走り出した馬の背を踏んで宙に飛び出す。

 

(格別に楽しいっ、強烈に面白いっ! しかし、それだけではない!)

 

 竜の腹を突き、その勢いで身を駆け上がり、背を飛び越えて尾を思い切り叩く。

 

「オオオオッ!」

「ははは! 芸がないな!」

 

 再び地面を這い回るように身をねじった竜の懐へと更に踏み込み、腹を持ち上げるように切り上げる。竜はたまらず胴体を浮かせて空中へと逃げた。竜の胴に付着した泥と草が雨のように降り注ぐ。

 

(この感情は、何なのだ?)

 

 趙雲の姿を見つけて勢いよく近づいてくる馬に跨がり竜を追う。ほんの数秒で未だ地面近くに残った胴に取り付き、二度三度と斬りつけ、突き上げる。

 

「オオオオオオアアアアアアアッ!」

 

 怒りを顕わにした巨大な竜の顎が迫る。

 地面を削りながら迫るそれを見てなお、趙雲は薄く笑ったまま数歩馬を進めて、鞭で打つように槍の腹でその鼻先を思い切りはじき飛ばした。その手から伸びた槍が、赤く細い軌跡を描く。

 

「ギュオオオオオ!?」

 

 人の腕ほどの太さで鞭のようにしなる髭が趙雲を掠める。肌に触れてもいないのに、焼けるような熱を感じ、趙雲は顔をしかめた。

 

(信頼、信用、安心……違う。これは、もっと熱い(・・))

 

 竜は大きく身をひねって頭を大きく持ち上げ、続いて勢いよく地面を叩いた。長い胴も連動するように波打ち、轟音と地震と凄まじい土煙を周囲にまき散らす。

 趙雲に向かう土煙の雪崩は突如南から(・・・)吹き付けた風によって押し戻される。

 

(興奮? 熱情? 違う、そんな移ろいやすいものではない!)

 

 遠くで連合と董卓軍の馬たちが暴れているのが趙雲の目の端に映った。混乱する兵馬は既に隊列を乱し、しかし、連合と董卓軍の前面は揺らがない。

 多くが混乱する中、趙雲の乗った白馬は彼女の意のままに竜を追って駆け回る。

 

(これは、信仰……?)

 

 趙雲はそんな馬の首を一撫でし、この大事にあって意外と余計な事を考え続ける自身の思考に向き合った。

 

(ああ、そうか――! これは、忠義(・・))

 

 途端、趙雲は吹き出した。

 

「ぷっ――ははははははははっ! あっはははははははははは!!」

 

 そんな場合ではないと理解しているにも関わらず、趙雲は笑い声を止められない。涙が浮かぶほどに笑い、浮かんだ涙を邪魔だと思う感情すらわき上がる。それなのに、笑いが止まらない。

 

「あはははは!」

 

 槍を振るう速度が上がる。趙雲自身が生涯最高だと感じていたこれまでを超えて、なおいっそう気が充溢していく。竜の牙を弾くように振り回す、目を潰す勢いで突き出す。

 

「グルォオオオオッ!」

 

 意外だ――こんなことを思う自分が意外でならない。趙雲はそう考えながらも、同時に納得の感情も抱いていた。

 自分が二君を抱くほどに移り気な人間だとは微塵も思っていなかったが、主君としての器にはまだ(・・)上がある(・・・・)かも知れないと考えていた。

 まさか最上であったとは――あの時の自分の慧眼と直感を自画自賛したい気分だ。

 

(これ以上の主君は望まない。望めない(・・・・))

 

 またがっていた白馬はいつの間にか息が荒れ、赤い汗を吹き出し、疲れ果ててふらついていた。ここまで頑張った馬の腹を蹴って逃がし、趙雲は槍一本で竜に飛びかかる。

 

(空海様は、想像の遥か上だった。私の想像の遥か上を示されてしまった)

 

 夢見ていたのだ。

 万の賊に立ち向かうとか、岩をも割る豪腕の武人との一騎打ちであるとか、無辜の民を背負って戦うとか、それほどに大それたこと(・・・・・・)を夢想していた。

 そして同時に、そんな夢物語はありえない、と諦めてもいた。

 

(曹操も、袁紹も、公孫賛も、劉表だって『これ』には敵わぬ!)

 

 誰がこれほどの舞台を用意してくれようか。

 竜の周りに落ちる雷を槍で弾き(・・・・)接近する。

 万を越える黄巾に立ち向かった。華雄や馬超との一騎打ちも果たした。50万もの兵を止めるため、無辜の人々を救うため『昇り竜』と成る(・・)機会まで得た。

 

 ――なんという愉悦か!

 

 手に持つ槍の重みが心地よく、それを振るう速度が更に増す。

 肩に掛かる重みが心地よく、踏み込む足がはっきりと地を捉える感覚を得る。

 背を押す期待が、身を空へ誘っているかのようだ。

 

(喜んで命を遂行する、という言葉を心底理解していなかった!)

 

「オオオオオオオオオオオッ!」

 

 趙雲は竜の放つ暴力的な咆哮を正面から突き破ってその鼻先に肉薄する。

 空海の言葉が、命令が、命令を実行した結果が、その結果の先にある世界が、楽しみで仕方ない。心の底から空海を支えたいと願い、共にありたいと祈った。

 ああ、これが忠義か。そう思った瞬間、趙雲の脳裏に大命を言い渡された記憶が蘇る。

 

 ――子龍に大役を申し付ける。

 

 趙雲の頭の中で、もう一度、空海の言葉が繰り返され。

 全身に満ちる歓喜は今、引き絞られた弓のように前へと放たれる瞬間を待つ。

 

 ――竜を討て。

 

「御意ッ」

 

 言葉と共に竜の顔を駆け上がった趙雲の全身全霊を込めた一撃が赤い閃光となって竜の額に深々と突き刺さる。

 額から起きた衝撃が、その全身を大きく一度だけ波打たせ、竜は地面へと墜落した。

 巨大な身体から空気が漏れるように静かな断末魔が漏れる。

 

「オオオオオォォォォ…ォ……」

 

(――未だ信じられぬ者はおりましょうが、主は言を違えませんでしたな)

 

 趙雲は、戦いの最中に突風を吹かせた南にそっと目を向ける。

 

「ハァッ ハァッ ハァッ ハァ」

 

 全力を使い切ったせいで、それ以上顔を上げる気力すら沸かない。だが、身体を動かす気にはならないくせに心の中からは熱い気持ちがあふれ出しそうで、その熱を冷まそうとわざと大きく呼吸をする。

 

(私も、言い渡された大命を果たしましたぞ、主!)

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「……うん。悪役を作ろうかな」

 

 空海は報告会に集まった一同の顔を見回し、趙雲に目を留める。

 

「んー。昇り竜、か」

「は? 何でしょう、主」

「子龍。お前、竜を見た事はあるか?」

 

 空海の質問の意図がわからず、問いかけられた趙雲以外の者も眉をひそめる。

 

「……謎かけですかな?」

「そのまま言葉通りに、竜を見た事があるかどうかが知りたいだけ」

「ありませぬが……」

 

 空海は小さく、難しいかなー、と漏らしながらも趙雲を見て目を細める。

 

「よし、子龍に大役を申し付ける」

「はっ。何なりと」

「連合に参加し、洛陽前で董卓軍と対峙」

 

 妙に半端な状況を口にする、と、列席した誰もが疑問を抱き、その疑問は次の言葉で空の彼方に飛んでいった。

 

 

「――両軍の前に竜が現れるから、派手に暴れてそれを討っちゃえ」

 

『は?』

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 夜を思わせるほどに分厚く重なっていた雲が、晴れていく。

 その隙間から一筋の光が伸び、竜の頭上で息を吐く趙雲を照らし出す。

 

「子龍、何を呆けてるんだ」

「――ッ!? あ、主っ」

 

 竜を囲む人の壁の前、いつの間にか間近に立った空海に声をかけられ、趙雲はようやく周囲の視線が自分に向かっていることに気がついた。

 

「ほら、名乗らなければ終わらないぞ」

 

 からかいを含んだ空海の声を受けて、趙雲は苦労して立ち上がり、やはり苦労して竜の額から槍を抜き放ち、それを天に掲げる。

 胸の内に渦巻いた熱い何かを解き放つように、静まりかえった戦場に声を響かせる。

 

「我が名は趙子龍! 常山の昇り竜にして――荊州江陵が主、空海元帥の槍であるッ!」

 

 趙雲の宣言と共に分厚い暗雲が割れ、世界が彩りを取り戻していく。雲間から漏れた日光がまっすぐ趙雲の上に降り注ぎ、鱗に覆われた竜の胴が黒曜石の輝きを放つ。

 その光景に何万という人間が涙を流して膝を付き、数十万の人々がただただ呆けて空を見上げ、一体のチビが太陽に向かって小さく感謝の言葉を告げた。

 

 

「結局、空海元帥の槍って付け加えおった……けど、しゃーない。今回は譲ったるわ」

「星ちゃん……それに、空海様……」

 

 

 趙雲は疲労で震える全身を支えきれずに竜の頭上で膝を付く。またしてもいつの間にか隣に立っていた空海が身体を支え、そのまま横抱きに持ち上げた。

 

 いわゆるお姫様抱っこの形で。

 

「あ、主っ!?」

「折角だから感想を述べさせて貰おう」

「えっ? は……!? いえっ、何の、感想、ですかっ!」

「やっぱりお前は竜というより蝶々だな」

「ふぇ」

 

 趙雲が呆けている間に空海は彼女を抱えたまま軽々と地面に駆け下り、江陵の兵が作り出した花道を軽快に通り抜ける。

 いつの間にか周囲に揃っていた護衛と共に、全身真っ赤になって目を回すほど狼狽した趙雲と、真っ青な羽織の空海が、遠く()の洛水に連なる船に向かって進む。

 空海たちの後を追い、5万を超える江陵軍が流れるように陣を組んで人の壁を構築していく。槍こそ立てていないが、その盾は油断無く両軍へと向いていた。

 

 ――子龍は、コンボとダメージでゲージを貯めると強くなるタイプだったんだな。

 

 空海のつぶやきは誰にも理解されなかった。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 44日前。

 

 劉表に反董卓連合への参加を要請され、江陵幹部を集めて開かれた会議。

 遅れて呼び出された管理者4人が会議に現れ、空海の前で膝を付く。

 

「貂蝉か卑弥呼が『前に』悪竜と戦ったって、江陵を広げた頃に言ってただろ」

「ぬぅ。よく覚えておられましたのぉ。流石はご主人様じゃ」

「あ・た・り♪ アタシたちと、ダーリンの3人で戦ったのよぉん」

 

 卑弥呼と貂蝉を交えて再開された会話は、皆を驚かせるものだった。

 詳しい場所を尋ねる空海に、貂蝉は悲しそうな表情で答える。

 

「ごめんなさぁい。益州永昌郡のどこかから向かったのは確かなんだけどぉん……」

「南蛮か、はたまた交州のいずこかか。儂らにもわからんのじゃ」

「ふーむ。前にこの辺に棲んでたヤツは居なくなっちゃったしなぁ」

 

 完全に『竜が実在する』ことを前提に繰り広げられる会話に、他の者は口を挟むことが出来ない。それを語る者が江陵の武の筆頭たちであるのだからなおさらだ。

 

「公瑾。ここから永昌郡と、永昌郡から洛陽までの移動には、どれくらい掛かる?」

「え、は、そうですね……。永昌郡の不韋までならば徒歩で40日、馬を使えば30日は掛かりますまい。不韋から洛陽までならば長江を下る船が使えますので、江陵を通ったとして10日、北回りで漢中を経由して25日ほどかと思われます」

 

 周瑜は混乱しながらも、かなり正確な数字を返す。江陵からの移動時間の情報というのは軍事的な価値が非常に高いため、漢全土のものが頭に入っているのだ。

 

「ふむふむ。貂蝉、卑弥呼。于吉を使って探索したとして、現地で悪竜を見つけ出すのに何日かかる?」

「前は20日ほど掛かったんじゃが……于吉がおれば5日もあれば何とかなるじゃろう」

「期待通りだな」

 

 空海は頷いて一同を見回し、表情を改めて管理者に向き直る。

 

「貂蝉、卑弥呼、于吉、左慈は5日以内に出立し、今日から50日後くらいに洛陽の東に展開している董卓軍と連合軍のど真ん中に竜をおびき出せ」

『御意』

「この、偃師(えんし)の地にしよっか。悪役が沈むのにふさわしい名前だし」

 

 偃師とは「戦いを止める」という意味の名を持つ県だ。洛陽の東60里(30㎞弱)ほどの距離にあって、決戦を求めるのならばこの近辺になるだろう土地と言える。

 地図を見れば、連合の進路上にあって洛陽に向かう最後の大集落を有する地でもある。

 

「同じ時期に同じ場所に引っ張り出すだけだが、今回は両軍を操る必要がある。連合には士元が参加して今から50日後を目処に偃師付近に展開させろ。補佐に仲徳が付け」

「ぎょ、御意です」「……了解ですー」

「文句を出させなければ好きにやっていい」

 

 鳳統が慌てたように頷き、程立は空海をマジマジと見つめながら同意する。

 

「子龍はさっき言った通り、連合に便乗して洛陽に向かい、両軍40万に迫るだろう兵の前で竜を討て」

「しょ――承知」

「思い切り暴れていいぞ。そいつが全部悪かったってことにするから、お前が勝てば後は上手くやってやる」

 

 趙雲は未だに理解が追いつかないのか、なんとか言葉を返しただけといった様子だ。

 空海は彼女に不敵に笑いかけ、そのまま視線を張遼に移す。見つめられた張遼は背筋を伸ばして頬をうっすらと赤く染める。

 

「文遠は子龍に付いて……士元たちの護衛と、竜討伐までの露払いと、子龍の鍛錬に付き合ってあげてね」

「露払いって……。最悪、両軍を敵に回すっちぅことで合っとります?」

「出来るだけ、一騎打ち程度までに納めて貰えるよう、士元と調整しておくように」

「――にひひっ、なんやウチ好みの話になってきたやないの」

 

 張遼は空海の言葉を一切疑わず、ただ戦いを喜んでいるようだ。お気楽そうなその様子に、軍師たちの一部からはため息が漏れた。

 

「連合へは劉景升の兵数をやや下回る兵を出しておこうか」

 

 空海はそう言って軍師たちを見回すが、誰一人として理解が追いつかないのか、言葉を詰まらせて空海や周りを見るばかりだ。

 この場での相談は諦めて、空海は続ける。

 

「公瑾は董卓側を偃師まで引っ張り出せ。これも今から50日後を目処にしろ。馬家には孔明から当たらせてもいい」

「わかりましたが、何というか……。いえ、わかりました」

 

 周瑜はどこか頭痛を耐えるように、しかし、最後には何かを決意したように首肯する。

 

「孔明は今言った馬家関係と、50日とちょっと江陵をまとめるのと、全土へ向けて竜が全部悪いって話を流す準備だ」

「はわっ!? はいです!」

 

 ついに話しかけられてしまった、と慌てたのは孔明だ。出来れば3日くらい暇を貰って考えをまとめたかった。

 

「公覆は公瑾について護衛と交渉の手伝いをよろしく。孟起がいるから悪いようにはされないと思うが、最悪、洛陽を制圧して貰う」

「お、お任せを」

 

 やや顔を引きつらせながらも黄蓋が返事を返す。なまじ物を知っているだけに、空海のとんでもない言動をどう捉えて良いのかわからなかった。

 

「漢升はここに残って不測の事態に備えること。場合によっては、後から出撃する」

「わかりましたわ」

 

 黄忠は、一番わかりやすく実行しやすい命令を受けてしっかり頷く。他の者たちに比べれば簡単かもしれないが、空海の命令を受けた以上は最善を尽くすつもりでいた。

 

「徳操は使える者を使って孔明を手伝ってあげて。期間は最大で3ヶ月ってところだね」

「了承」

 

 司馬徽は間もなく水鏡学院を卒業する者まで含めて、使えそうな十数人を頭に浮かべて割り振れる仕事を考える。ここ数年の人材が豊作であったこともあり、期間を限定して現状を維持するくらいならば問題を感じない。

 さらに、情報戦になれば出版物の出番だ。数ヶ月以内に出版される予定の本を頭の中で書き出して、どのようにこちらの意図した情報を絡めていくか検討し始めた。

 

「それじゃ、決着までの筋書きを考えようか」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「――だから、だいたい全部悪竜の仕業ってことにした」

「……最近宮中で囁かれてる妙な話の出所はあんただったの」

 

 江陵から元帥代理として周瑜が現れて馬家を使った脅しに近い形で協力を強要され。

 連合軍と決戦かと腹を決めたら何故か突然現れた巨大な竜に戦場が引っかき回され。

 江陵の武将が竜を倒したかと思ったら勅令を携えた使者が現れ洛陽に強制送還され。

 洛陽に江陵の旗が立っていることに心底驚いていたら皇帝の御前へ引っ張り出され。

 全く身に覚えのないお褒めの言葉を授かったところで唐突に職に留まるかを問われ。

 唖然としている間に謁見の間から連れ出されて宮内の元帥の部屋に引っ張り込まれ。

 そこで受ける説明は賈駆の頭痛と混乱が一回りして落ち着くくらい意味不明だった。

 

 噂の出所は江陵だったのだ。おまけに本物の竜を50万に近い人間が目撃してしまっている。今さら竜がいなかったなどとは言えないし、ならばあの竜は何だったのかと考えた時、人々はわかりやすい噂を信じようとするだろう。

 

「宮中だけじゃないぞ。そろそろ、全土で商人たちが事件を口にし、記事の書かれた本を売り歩き始める」

 

 江陵の出版物を読むのは一定の教養がある人々が中心だ。彼らは、10年前に比すれば確実に増加している層であり、上下を付けるならば間違いなく上の層になる。

 そして、大陸で最も優秀とされる江陵商人たち。優秀な商人というのは、必要な場所に必要なものを必要な値段で運べる者を指す。そもそも江陵の商人以外はあまり信頼されていない社会だ。それだけに江陵商人への信用は際立っていた。

 情報の運び手である両者の口から漏れる眉唾物の噂話。しかしそれは、やがて竜を目撃したという事実と結びついて、人々にとっての真実となる。

 

「連合は実益が欲しい、お前たちは名実を捨てるに捨てられない。ならばどちらにも都合の良い言い訳が必要になる。だから竜の仕業にして『董卓たちの活躍で悪竜を封じ込めて連合の力で退治する』ことにした」

「ボク達はそれを捨てたかったんだけど……陛下のアレ(・・)はどうやったの?」

 

 これまで頑なに董卓を側に留めようとしていた皇帝が突然、進退を問うてきたのだ。

 皇帝の様子から、もしかしたら脅されているのではないかと危惧したのだが、最初から名実を問題と捉えて行動しておきながら、為してもいない成果を董卓らに押しつけた上で皇帝を脅すというのは考えづらい。

 

「アレはただ側近のしていた噂話が聞こえただけだろう。活躍しすぎて蕭何(しょうか)張良(ちょうりょう)韓信(かんしん)のようになるんじゃないか、と」

「は? 蕭何って……高祖の? えッ!?」

 

 かつて漢を打ち立てた『高祖』劉邦には蕭何、張良、韓信という3人の、とても有名な部下が居た。

 彼らは劉邦の立身出世を支え、共に歩み。最後には決別して、劉邦に殺されている。

 仁の蕭何(しょうか)、知の張良(ちょうりょう)、武の韓信(かんしん)

 教養高い人物なら――宮中で地位を持つ者や連合のまとめ役のような者たちならば――誰でも知っているような話である。それを董卓とその部下に例えているのだ。

 

「先人の轍を踏むわけにはいかないだろう? 高祖劉邦の教訓に従って官を辞するとでも言えばいい。江陵で引き取られて飼い殺しにされる、と付け加えてもいいかもな」

「――そんな手が」

 

 高祖劉邦の例を出されては、劉邦の子孫にして皇家である劉家はもちろん、朝廷で官を任じる側の人間は強く言い出せない。

 この昔話を引っ張り出して来たのは程立である。彼女は江陵で育った他の軍師たちに比べ、漢の臣民たちの心情をよく理解していた。

 当初、失態によって職を辞する機会を与えることを考えていた空海の計画だが、これによって追撃を逃れる言い訳を手にしている。

 

「賈文和はウチの軍師補佐として無償奉仕。董仲穎は天気の記録係で月給1万銭くらいでどうかな? もちろん江陵に来なくても良いけど……その場合は守ってやるようなこともないから誰に狙われても知らないからね」

 

 軽く突きつけられた言葉が最後通牒であることが、賈駆には理解できた。そして、この話を蹴ることで生まれる絶大な不利益も。

 話を受ける利益を考えたところで賈駆の脳裏に浮かんだのは、大好きな親友の月ではなく、出奔した張遼のことだった。長安の送別会でも楽しそうに笑って、反董卓連合として対峙した後も、その笑顔に陰りは見えなかった。

 そう考えたとき、ストンと、賈駆自身が意外に思う程あっけなく結論が出てしまった。

 勢いのまま口を開き、最後に残った疑問を口にする。

 

「竜のこととか、周瑜が洛陽に突然現れた方法とか、洛陽に立ってた旗は何だったのかとか、騒動の処分とか、色々……いろいろ聞きたいことはあるんだけどっ」

「うん」

「これだけのことが出来て、何で連合につかなかったの?」

「俺は馬家も劉表も滅ぼしたくなかったし、いま乱世に突入するのは望ましくなかったからね。漢だってこれだけ延命してやったんだから恩は十分に返せたと思うでしょ?」

 

 賈駆はこの瞬間、自らの才知を呪った。目の前で笑う小柄な男が、大陸6000万人の命運を握っていたことに気付いてしまったのだ。

 息を飲み、絶句する。

 

 目まぐるしく変わる状況に追われ続けていたせいで目先の事態への対処にかかり切りになって後回しにしていたこと。勝てば良かったために目を背けていた大陸のこれから。

 

 つまり、江陵は。空海は。治世における絶大な貢献者として来たる乱世での大義名分を得ておきながら、乱世に向けて最大級の味方である馬家と劉表をどちらも残し、将来の敵となる諸侯に鞭を与え、さらに餌と枷を与える権利まで手にしている、と。

 勝利と言っていい。勝者と言っていい。横合いから現れ、関係の無いだろう戦闘を一つ収めてみせるだけで全てを手に入れた奇術は、賈駆をして鮮やかと言う他なかった。

 竜を呼び出したことだけではない。朝廷の現状、諸侯の事情、自身の地位や大陸の民の心理まで利用して落着を作り上げたこと。さらに、これだけ状況を動かしておきながら、強制を受けたのはこの騒動で唯一戦う前から(・・・・・)負けが決まっていた董卓陣営の出兵だけだ。

 六韜に『上戦はともに戦うなし』とある。孫子にも似たような言葉が綴られていたはずだ。すなわち、戦わずして勝つ、と。本来これほどの奇術を指す言葉ではないはずだが、他に説明も出来ない。それほどのことを(・・・・・・・・)やってのけている。

 

「……あんたがとんでもない男だってことは理解したわ」

 

 ようやく呼吸を再開し、震える声で賈駆が告げる。

 勝っても負けても望まぬ結果を招いてしまう董卓陣営にとって、江陵から強制を受けることはむしろ最後に縋った希望でもあった。その感情まで利用されたような気はするが、結果として『何もかも元通り(最善)』に次ぐ第二の希望が叶う見込みが立った。

 

「うーん。何かそれ、褒められてるようにも、けなされてるようにも聞こえる」

「褒めてんのよ。自分から跪きたくなった男は初めてだわ」

 

 第二の希望。すなわち『勝ち残る者の中でも強大な諸侯の庇護下に入る』こと。自分から跪きたくなるような者が相手なら申し分ない。それが、賈駆の警戒をすり抜けて洛陽に旗を立て、宮中の噂話すら操る者ならば何を言わんや、だ。

 いささか子供っぽい部分は気になるものの、宮中での視線を思えば、そういう欲を表に出さない者に身を預けるのもまた望むべくもない好結果だと思える。

 

 一方、空海は、跪きたくなったと聞いて「ついに俺にも威厳が身に付いたか!」などと考えて一人で感動していた。

 空海に言わせれば「昔の偉い人はみんな字が上手くて貫禄があって『是非もなし』とか言ってるから格好良い」のだ。意識の上では自分もそれに仲間入りしつつある。

 

「確認するけど。あんたに従えば、味方してくれるのよね?」

「応ともー」

 

 ついお昼時のノリで返事をしてしまったが、今の軽い返事を無かったことにして「是非もなし」か「ならばよし」って返しておくべきだったと空海は反省した。

 用法はよくわからないので状況に合っているかは賭けである。

 

「なら、ボク達はあんたに従う」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

「話は進んでいるか、劉景升?」

 

 諸侯を集めた会議に遅れて登場し、挨拶もなく出入り口に立ったのは空海だ。

 

「おお、空海! よく来たな!」

『空海元帥!?』

「お待ちしておりました、空海様」

 

 劉表が立ち上がって歓迎を示し、江陵幹部も深く頭を下げて出迎える。諸侯も慌てて座席から立ち、膝をついた。

 

「そろそろお腹でしゃべれるように訓練しないか、劉景升? いちいち見上げるのが面倒でたまらない」

「下駄でも履けば良かろう。そなたこそ頭の上に目でもつけたらどうだ」

「実は頭頂部からお前の顔が見えてるとか言っても信じられんだろ」

「それもそうだな」

 

 親子にも見えるほどに背格好に差がある二人だが、乱暴に小突き合う姿は長年の友情を思わせた。

 劉表が空海に背を向け席に戻る。空海は劉表の席の対角にある下座に立派な椅子を持ち込み、最も上座にある劉表よりも偉そうな態度で肘掛けに腕を置き頬杖をついた。

 空海が下座の席に着いた上、空海の側近が立ったままで居るため諸侯が席に着くべきか迷っているが、彼女らをまるで視界に納めていないかのように、空海は劉表のみに視線を向けてニヤリと笑みを浮かべる。

 

「まずはおめでとう、劉景升。今回の功でお前は大将軍へ指名される」

 

 劉表は空海の偉ぶった態度を無視して頷く。十五年来の付き合いで慣れきっており、下手に反応すればここぞとばかりに話が脱線していくこともわかりきっていたためだ。

 一方で諸侯はそれを見て驚いた。いっそ空海の方が立場が上であるかのようにすら見えたからだ。少なくともこの瞬間にはもう、劉表が空海の上に立っているという構図を信じる諸侯は居なくなっていた。

 一人を除いて。

 

「なんじゃこやつは! ちっこいくせに偉そうにしおって」

「シーッ! お嬢さまっ、今は本当にダメですって!」

「ん?」

 

 劉表から数えて三列目に座った小柄な少女が空海の態度に声を上げる。長い金の髪をクルクルとねじり、黄金色の服装に身を包んだ子供。

 空海は自分よりも小柄なその少女に心当たりがあった。

 

「んー。袁公路かな」

「そうじゃ! 袁家の当主たる妾を差し置いてなんでお主が偉そうにしておるんじゃ!」

「そりゃお前……。凄い秘密を知っているからなぁ、俺」

 

 答えの途中でニヤリと笑った空海は、声をやや潜めて袁術に話しかける。

 

「ほ? すごい秘密…じゃと…?」

「そうだぞ。あーでもお前が俺を気に入らないというなら劉景升と俺だけの秘密にしちゃおうかなー」

「え? あっ、待つんじゃ! その秘密とやら、妾にも話して良いぞ」

「うーん。どうしようかなー」

「妾が話して良いと言っておるんじゃ! 素直に話せば良い!」

「そうはいかない。これほどの秘密を知ってしまうと、最悪、侍中府の秘密機関に……」

「な、何じゃその秘密機関というのはっ」

「司隸の悪事を秘密裏に処理するため公式には存在しない五人目の侍中が……おっとこれ以上は言えない」

 

 侍中とは皇帝の側近を務める4人の超高級官僚である。宦官が私生活や謁見の場から皇帝に影響を与えるとすれば、侍中は献上する政策方面で皇帝に影響を及ぼす官位だ。

 

「そのような組織があったとは……!」

「ないない。そんな組織に繋がる秘密なんて知らない」

「知っておるではないか! さっさと言わぬか!」

「えー。でも劉景升と俺だけの秘密だしなー」

 

 袁術が何度か答えを促すも、からかいを交えて空海は答えない。口では敵わないと感じた袁術は、不本意ながら上目遣いでお願いすることにした。

 

「くぅぅ……妾も……妾にも教えてたも?」

 

 袁術の頭からは既に偉そうにしていた空海を責める気持ちは抜け落ちている。むしろ、この男が知っているらしい凄い秘密をどうやって聞き出すかの方が大事だった。

 

「うーん。まぁそこまで言うなら仕方ないなー。実は……」

「実は?」

 

 そしてその解答は、袁術にとって衝撃を伴う内容だったのだ。

 

「甘い菓子が焼き上がったらしいんだが、会議中だから厨房の者たちで食べてしまおうと相談しているのを見てしまってな」

「なんじゃと!?」

 

 蜂蜜を抱えたまま生きて死ぬと疑わない年頃であるところの袁術にとって、甘い菓子というのは黄金と等価である。

 そんな菓子が出来たてで『山ほど』『食べ放題』になっているのを、卑しい厨房の者たちが独占してしまおうと企んでいるなどと聞いては、いてもたってもいられない。

 

「今すぐ部屋に戻って言いつければ手に入るかも知れないけど、会議が長引きそうだから難しいかもしれないなぁ」

「こ、こうしてはおれん! 七乃、すぐに部屋に戻るのじゃ! ついてまいれ!」

 

 袁術はすぐ側でニコニコ笑ってやり取りを見ていた張勲に声をかける。

 

「あれ? でもお嬢さま、ここで袁紹さんにぎゃふんと言わせるってー。うーん、けど後から思い出してうろたえるお嬢さまも捨てがたいなー」

 

 張勲は袁術が自分の手で悩んだりうろたえたり喜んだりするのを見ているのが好きなのであって、人の思惑に乗ってそれを為すのはやや不本意だった。

 

「何をしておるんじゃ、早く来んか!」

「安心しろ。悪いようにはしない」

「あ、それじゃあ、お言葉に甘えちゃいますねー」

 

 だが不本意だと言っても「押して開けると思っていた扉が引いて開けるものだった時に足を引くのが面倒」という程度の不本意だったので、張勲は妥協して席を立った。

 二人の背を見送ってから、劉表が口を開く。

 

「あのような口約束をして良かったのか?」

「俺に任せきりにしておいて人ごとか? まあ、悪いようにしなければいいだけだ」

 

 肩をすくめた空海を見て何人かが小さく笑った。その中には、この場に取り残されたせいでぶっちぎり最下位の発言力となってしまった孫策の姿もあったが、結果的には直感を信じてこの場に留まった孫策の行動は正解になる。その道のりは険しかったが。

 

「大将軍だけではなく太尉なんかも空席になる。配分は任せるからさっさと決めろよ」

「やはりそれで遅れたのか。ということは、今こそが程立の言った『時期』で、あの竜もそなたの仕業ということか?」

「『時期』はその通りだ。竜は……さて、お前には詳しく聞かせてやってもいいが、他に聞かせるような話でもない」

 

 空海は劉表から視線を動かさず、その場に居る諸侯を言葉だけで指す。

 

「ではいずれ聞かせて貰うことにしよう」

「ああ。だが他に聞かせるための話は用意した。この本を読んでみろ。三日以内に全土に出回る最新刊だ」

 

 空海は本を開き、軍師に持たせて劉表の下へと運ばせる。

 

「空海散歩か? ふむ……。……高祖…だと…?」

 

 読み進めていくうちに眉間にしわを寄せていった劉表だが、読み終える頃には猜疑の声を上げる。高祖劉邦の話を知らなかったわけではない。単に董卓に対して抱いて居た印象と空海の持ち出した話の方向が一致しなかっただけだ。

 

「董卓たちには今回の件で絶大な功があった。高い位にさらに功が積み重なる。よって、高祖の臣の教訓に従い、官職を辞して野に下ることになった」

「潔く受けるのか?」

「既に認めている。江陵で飾りの官を与えて飼い殺しにし、それを公表しよう。あとから現れる誰かは全て偽物だ」

 

 董卓の影響を全て江陵の内側に閉じ込める案だ。江陵が野心を出さなければ最も安全な選択だとも言える。もっとも、これだけの名声をただ閉じ込めて腐らせるような江陵ではないということも劉表にはわかっていた。

 

「……なるほど。だが、それはいささか江陵が取りすぎではないか?」

「お前が先に相談していれば、もっとやりようはあったと思うんだがな。……『仁』の将はどうでもいいから俺が預かるとして、当人の希望もあるから『知』の将を貰おう」

 

 仁の将、つまり人徳によって立つ者を打算で利用することは難しい。その人物を中心に勢力が出来てしまうからだ。よって、劉表にとって『仁』は勢力外に放り出さねば価値がなく、手元で利用するならば『知』と『武』にそれを見いだすしかない。

 

「賈駆と言ったか」

「そうだ。あれは大人しく飼われる気質ではない。腹を食い破られても良いなら、お前のところに渡しても良いが」

 

 そう言いつつも空海は劉表がその選択をしないだろうと確信していた。本人がおおむね江陵の指針通りに動いて出世してきたこともあるが、頭脳面で失敗らしい失敗をしていないこと、つまり現在の陣営に不満がないことも大きな理由だ。

 

「いや、やめておこう。武はこちらが取って良いのだろう?」

 

 劉表が予想通りの返事を返す。空海は頷いて、思い出したかのように付け加えた。

 

「ああ、当人との交渉はそちらでやってくれ。官位を捨てるまでは認めさせたが、董卓と賈駆以外はどこへ行くのかも決めていないはずだ」

「最初からその二人()取るつもりだったのか」

「この二人()取るつもりだった。賈駆と交渉した結果そうなっただけで、ここでの話次第では譲るつもりだったし、こちらで引き受ける者を増やすことも考えていたよ」

 

 事実だろうと劉表は思う。この空海という男は交渉ごとでは滅多な嘘は吐かないし、非常に大ざっぱで大げさで大らかなためか、譲るときには譲られる方が返し方を悩むほどに大きく譲歩するのだ。

 その上、譲歩したことはしっかりと覚えているものだから、しっかり返しておかなくてはその後にとんでもないしっぺ返しを受けることすらあり得る。

 実際、征南将軍就任から車騎将軍就任の頃までに引き出した絶大な譲歩のせいで、その前後の5年近くを空海の元帥府開設へ向けた働きかけに費やすことになっている。結果的には車騎将軍就任への近道となり、運も絡んで宗正卿への就任に至ったが。

 

「それと今回、先の二つ以外にも司空、衛将軍、前将軍、中領軍、中郎将、司隸校尉あたりの官職は空くのが決まった。ついでに、九卿からも『体調不良』を訴える者が何人か出ている。後任については、賈駆へ伝えれば董卓から奏上される」

「そなたは何を取った?」

「俺からは何も伝えてはいないが、馬孟起に中郎将あたりをやってくれ。あとは、程度は任せるが、連合に参加した諸侯にはそれらしい報償をやった方が都合が良いだろうな」

 

 劉表を立てる提案に、当人にも笑顔が浮かぶ。

 

「よろしい。そうしよう」

「じゃ、俺は帰る。酒は置いていくから好きにしろ。飲み過ぎるなよ、劉大将軍」

「うむ。さらばだ、飲まない空海元帥」

 

 空海が立ち上がって去ろうとしたところに、声が掛かった。

 

「お待ち下さいな」

「ん?」

 

 空海は足を止め声をかけた少女に振り返り、そこで改めて外野に気がついたかのように周りを見回して、もう一度声をかけた少女を見た。

 

「お前は袁本初か。何の用かな?」

「江陵の皆さんにお礼を言いたいんですの」

 

 袁紹の言葉に空海がきょとんとした表情を見せ、首をかしげた。

 

「礼? ……何があったんだ、士元?」

「実は――」

 

 鳳統が空海の耳に口を寄せ、顛末を簡単に伝える。空海はしばらく耳を傾けていたが、やがて微笑んで頷く。

 

「――なるほど、わかった。礼は受け取ろう。だいぶ苦労したようだね? 寒い中、遠く冀州まで戻るお前の兵をねぎらうため、こちらが持ち込んだ物資から薪を贈ろう」

 

 空海は改めて優しげな笑顔を浮かべて袁紹を見つめる。在庫を笑顔で押しつけることで高く買わせようという魂胆に気付いたのは、江陵の面々と曹操陣営だけだった。

 

「冀州まで、お前たちを温めてくれると良いが」

 

 言葉と共に笑顔を向けられた袁紹は、その中身を理解するとポンと顔を赤くした。

 

「おや?」

「――……ハッ!? か、感謝しますわ!」

「よい。こういう大事(おおごと)はほどほどにしろよ」

 

 袁紹と空海の会話が終わるのを待っていたかのように、さらにもう一人の少女が慌てたように立ち上がった。

 

「待って下さい!」

「ん? ――今度はわからないな。誰だ?」

「えっと、平原相の劉玄徳です」

 

 気の弱そうな桃色髪が名乗った劉備という名に、空海は一瞬だけ言葉に詰まる。

 

「――ああ、関羽と張飛を連れて広宗に来ていたヤツか」

「あのっ、洛陽の人たちはどうなったんですか?」

「うん? ……んん?? 俺の勘違いでなければ、相当アレだな」

 

 現在の平原は王国、つまり王の置かれた郡なのだ。そしてその王家は洛陽にあり、王家から平原国の運営を任された人材が代官に指名するのが平原相という職である。

 そして、劉備の物言いはまるで――まるで洛陽の現状を知らないかのようであった。

 

「曹孟徳、お前の理解している範囲でいいから、こいつの言っていることを俺に説明してくれないか。それと、答えられるならこいつの質問にお前から答えを返してやれ」

 

 事前の情報では、劉備や曹操は、連合に参加を決めた強大な諸侯に挟まれているという地理的な要因が参加を決定づけたのだと思われていた。積極的に参加する理由の有無はともかく、不参加に伴う不利益が絶大であると。

 洛陽の状況を知らない諸侯など、辺境の幽州や益州にしかいないと考えていたし、何より、平原は袁紹の本拠である渤海のお隣なのだ。袁紹が事情を知っていて、劉備は知らないなどとは思ってもいなかった。

 一応、ほぼ同じ条件で参加したのだろうと見込んでいた曹操にも尋ねる。

 

「檄文にあった通り、洛陽の民が苦しんでいるのを看過できず連合に参加したのだと思います。――劉備、アレは方便よ。洛陽の民が特別に苦しんでいるということはない」

「えええっ! そうだったんですか!?」

「連合はあの竜を倒して洛陽と陛下をお救いする為に集まり、董卓と共に竜を倒すことに成功した。多大な寄与のあった董卓は、高祖の三臣の例に倣い自ら職を辞して江陵に身を寄せることになるわ。……間違いはありましょうか、元帥?」

 

 曹操は劉備へと向けていた説明を、途中から空海への挑戦的な態度へと変える。

 これから知らせるはずであった策を読まれていること、あるいは知られていることに、空海は小さく驚き、同時に軍師たちが言っていた『あること』も思い出す。

 

「面白い話だな。お前はそう考えているのか?」

「江陵がそう考えるのなら」

「なるほどねぇ。なかなか面白いことになったと思わないか、公瑾?」

 

 空海は隣に控えた周瑜に笑いかける。

 

「……ええ。確かに面白いですな」

 

 周瑜は、自身の視線が厳しくなっていることを確信していた。曹操は事前の予想通りの目的に向けて、事前の予想を超えた手段で動いている。

 話し合っておいた手段そのままでは足りないが、それをどう伝えたものかと空海を横目に見て――周瑜は思わず小さく笑みを浮かべた。

 

「是非もなし、と。それで兵を集めたわけだな」

「――ッ」

 

 空海の言葉に曹操が息を飲む。軍事権を持たないまま兵を集めていた自分たちの危うい立場を江陵を利用して覆そうとした曹操だったが、その思惑は一瞬で露見した。

 まさか竜によって手柄を横取りされて決着がつくとは夢にも思わなかったため、決着がついた現状からより良い手柄をねだるしか手がなかったのだ。

 打開のために江陵を利用しようとした判断は間違っていなかっただろう。だが、曹操は空海をどこかでまだ侮っていたと悔やむ。『天下を利する者』が『大謀』を悟らせないことなど六韜の時代から明らかな事ではないか、と。

 空海は、それを『諸侯の前で明らかにした上で黙らせる』つもりなのだ。そうなれば、この件を蒸し返されることはまず無くなる。そしてその『黙らせる相手』こそ、今や帝に次ぐ権力者となった劉表だ。

 

 曹操は一瞬、劉表の方に視線をやりそうになり、その臆病(・・)を意思の力でねじ伏せる。曹操は、江陵が立てた劉表ではなく、江陵を選んだ(・・・・・・)のだ。

 そうして決意を込め視線を返せば――いつの間にか空海は、曹操が寒気を覚えるような笑顔を浮かべていて。

 

「ふふふ。ならばよし! 劉景升、俺は曹孟徳を州牧に推す。それと、本人か部下に典軍校尉もやってくれ。現職の体調も思しくない。明日には職を辞するはずだ」

 

 それは曹操が思い描いた最高の報償を上回るものであり――同時に空海(商人)借り(商品)を高値で買ってしまったことを意味していた。

 声をかけられた劉表は、珍しく強い野心を感じさせる行動を取った空海に対して冷めた表情を浮かべ、やや苛立たしげに言い放つ。

 

「なるほど。空海、そなたは曹操が好みだと申すのだな」

「ちょ、折角格好良く決めたのに何を言い出すんだ、お前」

「そなたの好きな知的で意志の強い女だろう」

 

 男の子同士の話をバラされた空海はやや恥ずかしそうに曹操へと視線を向け、微妙な表情を浮かべている曹操を見て、やはり恥ずかしそうに視線を逸らす。

 

「……好みで言えば確かに好みだが、俺がそんな理由で提案したと言いたいのか?」

「ふん。似合わん態度で私に向けた言を簡単に覆した罰だ。そなたが曹操を助け、曹操がそなたの好みの女だったと宮中に広めてやろう。嘘はつかぬよ」

 

 劉表にとっては政治的敵対に至る手前の、嫌がらせで済ませる温情に近い罰ではある。

 それは、空海が好みの女に地位を与えていると伝わるだろう。やがて好みの女に地位を与えて手籠めにしていると尾ひれがつくかもしれない。いずれにしても、ろくな話にはならないことは誰の頭でも予想出来た。

 

 だが、空海は何かを閃いたように目を細め、次いで楽しげに劉表へ笑いかけた。こんなこともあろうかと備えてあったネタが役に立つときが訪れたために。

 

「――上等だ、劉景升。お前が娘の字を考えていた時、取り乱して色々やらかしちゃったこと……大陸中の人間に広めてやろうか!」

「なっ! 何故そなたがそれを!?」

「口止めをするなら部下だけではなく嫁さんや女中にも徹底すべきだったな! 娘たちがあのことを知ったらどう思うだろうなぁ……あーあ、 可 哀 想 に 」

 

 あまりに趣味の悪い脅し。大きく胸を反らしながら悪役笑いしている空海を見て、話を知っている江陵幹部は苦笑いするしかない。

 

「おぉ……お、おおおお、おのれ空海っ! この人でなしがぁ!」

「ククク。人の噂を操ることで俺を敵に回す愚を心底まで思い知るがいい。幽州は遼東の乳飲み子でも知っているくらいに徹底して広めてやるから覚悟しろよ」

 

 劉表は言葉に詰まる。

 アレは本気の目だと。笑っている間に許しを請わなくては本当にバラされて羅馬にまで伝わるくらいに話を広められるだろうと。威厳のある父の像は風前の灯火だと。

 もはや曹操などという小者にこだわっている場合ではない。最悪、(自ら進んで)死ぬことになるかもしれない。それどころか娘たちまでもが白い目で見られるなどということになったら、墓の中でもう一度死ねる。すまない娘たち……父は、負けを認める!

 

「……待つのだ、空海っ! 今のは、ほんの……そう、戯れだろう? 広い心で許すのが男と言うもの」

「戯れ? 戯れねぇ。あー、そう言えば馬寿成は未だに征西将軍の地位にあるなぁー」

 

 空海は棒読みで告げる。いずれ馬騰には引退を促すつもりだったが、名誉職に退かせるには良い機会と考えて、ここでねじ込むことにした。

 空海は以前にも馬騰を太子太博に推挙しているが、現在は次期皇帝(太子)がいないため太子の教育係である太子太博の職自体が消滅している。

 

「……い、今は太子太博など置けんぞ」

 

 劉表の声が裏返った。

 

「太博の席が空いている」

 

 太博は帝の教育係にあたる名誉職で、一連の騒動のきっかけとなった袁隗が就いていたものだ。その袁隗も、連合の発足前に馬超の手で亡き者にされた。今その席に着く者はいない。

 

「しかし太博ともなると、だな?」

 

 要職の人事に触れたことで劉表に政治家としての意識が戻ってくる。太博ほどの高官をタダ同然で渡すのは美味しくないのではないかと。

 

「おいおい……自分で言ったんだろう。お前も男なら広い心を見せてみろよ」

「それは広い心とは言わんのではないか、なぁ?」

 

 空海は納得したように一つ頷き、大げさに声を上げた。

 

「おおっ、そうだ! 老子の妄言を使うなど」

「私に万事任せろオオオオオオオッ!!!」

「お前がそう答えると知っていたッ!!」

 

 タダより高いものは無いという。ならば一番高く売りつけるのが政治家としても当然の判断であると劉表は自らの思考を賞賛した。全く問題ない。そもそも十分に利を得ている現状から欲を出す必要などないし空海の我が侭の一つや二つ認めてもいいはずだ。何も問題はない。

 

 二人のやり取りを黙って聞いていた何人かの諸侯は二重三重の意味で口元を引きつらせていた。中身はともかく、実質的な地位は皇帝に次ぐ二者なのだ。下手に反応して睨まれたりしたら一族丸ごと歴史から消えて無くなる。

 目を向ければ空海に好みと言われた曹操は未だに微妙な表情をしているし、それを見る袁紹の目はどこか厳しく半ば睨むようになっている。最も肝の据わっている孫策は会話をしっかり聞いてしまい、顔面に力を入れすぎたせいで変顔を晒していた。

 概ね平和である。

 

 後に口止め料としてその場に居合わせた人間には官位などが配られた。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 2ヶ月後。春の日差しに包まれた江陵にて。

 

「……あっ! クーカイサマカッコイー!」

「ゆ、月!? 何でそんな甲高い声を上げてるの!?」

「え? 街で空海様を見かけるたびにこう言えばお小遣いをくれるって言うから――」

 

 董卓が賈駆から与えられる小遣いでは、新鮮な馬を購入するためには3ヶ月もの貯蓄が必要だ。馬肉で妥協すれば毎週2回くらいは食べられるが、董卓にもこだわりはある。

 

「やめて! お願いだからやめて! お小遣いが足りないならボクがあげるから!」

 

 給金が与えられているのは名目上では董卓だ。しかし、給金の良い閑職を充てられただけの董卓に対し、賈駆は実質的には軍師として名ばかりの無償奉仕を行っている。

 賈駆の仕事に対する本来の給料が自分に支払われていることを理解している董卓は、何の躊躇もなく給金の全額を賈駆に預けている。

 以前から賈駆によるお小遣い制を取っていたのもその判断を助けた。

 

「へうっ!? えっと、でも詠ちゃんに頼ってばかりじゃ駄目かなって……」

 

 だから董卓は仕事を探すことにした。そして相談を持ちかけた周泰から割の良いバイトを紹介して貰ったのが昨日のこと。歩合制の仕事だが、天気の記録係と兼業することもでき、運と実力が上手く合わされば1ヶ月に2千銭近く稼げる。

 新鮮で活きの良い馬の購入が1ヶ月も早まる計算である。これなら賈駆も喜んでくれるだろうと確信し、早速見かけた空海に向かって初仕事を成し遂げたのだ。

 

 理解が追いついた賈駆が董卓の両肩を掴んで激しく揺さぶる。今この瞬間、賈駆以上に江陵へ来たことを後悔している人間はいないだろう。

 

「月、お願いだからボクを頼って! あと仕事を探すときは絶対に一人で悩まずにボクに相談して! お願いだから!」

「へ、へぅ~」

 

 賈駆の苦労は絶えないようだった。

 





(竜) < ぜったいにゆるさんぞ にんげんども じゅわじゅわと あぶりやきに してく

『ファンタジー反董卓連合』

 主演 趙子龍
 助演 鳳統 程立 張遼 劉表 曹操
 脇役 董卓 賈駆 袁紹 郭嘉 荀彧 孫策 劉備 周瑜 空海 その他

 演出 太陽神
 監督・脚本 空海


「キャークーカイサマステキー!」
「良い感じです! 出来れば人混みの中から声を上げるようにしてください」
「わかりました、明命先生! 女性の多いところに紛れ込めば良いんですね!」

 解説、雑記は活動報告にて。
 次回は閑話。本編は書けていませんのでしばらく間が開きます。ご理解下さいませ。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。