混沌の使い魔   作:Freccia

31 / 50
第31話 Old soldiers never die, they just fade away

 

 アンリエッタ姫は笑わなくなった。

 

 物憂げな表情を浮かべ、物思いに耽ることが常。心労は疲労へ、姫百合と謳われる美貌においては陰となる。

 

 自分が愛しい王子を苦しめているということに、心がついていけていない。

 

 今とて、私がいることにようやく気づいたと、ゆるゆると顔をあげる。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……マザリーニ、そこにいたのね? 今日は、何をしなければいけないのかしら?」

 

 姫は、恨めしげに私を仰ぎ見る。

 

 私が持ってくる案件の多くは、アルビオンを切り取る、引いては、王子へ苦痛へ与えるもの。だから、姫様は私へ恨みの視線を向けるようになった。表情には出さぬように努めようとも、私とて、辛い。だが、それを見せてはならない。

 

「――印を」

 

 姫は、私が抱える紙の束へ目を向ける。そして、忌々し気に逸らす。

 

「分かりました。そこへ置いておいてください」

 

「できるだけ、早く目を通さなければなりませんぞ。それがトリステインの、ひいてはアルビオンの為なのですから」

 

「……分かって、います」

 

 それだけ言うと、私になど関心はないとばかりに背を向ける。

 

 ――姫は分かっていない。

 

 ただいたずらに引き伸ばしたとて、結果は同じ。であるならば、いっそ急ぐべきだというのに。貴族も国民も、いつまでも待ってはくれない。

 

「明日、また伺います」

 

 一礼し、扉を閉じる。そして、ため息が漏れる。

 

 

 

 

 

 

 

 ――姫様に、政治の才覚はない。

 

 そもそも録に政の教育を受けていない以上に、心が弱い。ほんの少しでも先王の心を継いでいれば、ほんの少しでも先王の政治を見ていてくればもう少し違ったものになったろう。いくら私が支えようにも、前に立つ心がなければ如何ともしがたい。

 

 今までのツケ、私が先頭に立つことはできない。私は、憎まれすぎている。

 

 姫様さえその気になってくれれば、いっそ、私を敵にまとめるという手だてもあるというのに。準備は進めてきたが、最後の一押しは姫でなくてはならない。私では駄目なのだ。

 

 打てる手は、少ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヴァリエール公爵はしかめ面で待っていた。

 

 私のことを嫌っているのだから、それは仕方ない。しかし、この国では数少ない良識派、先王への忠誠心も厚い模範的貴族。同時に、もっと野心があればこの国をまとめ上げ、良い方向へ向かったかもしれない人物。現王家以上に国を率いるに相応しいというのは、いっそ皮肉なものであるが。

 

 まあ、思惑はどうあれ、このタイミングで表舞台に出てきたのは彼なりに思うところがあるのだろう。私としても歓迎できる。アルビオンのことがまとまればすぐ帰るつもりだったのだろうが、現場を知ることで、それもできなくなったのかもしれない。半ば引退することで後進が出るのを期待していたのだろうが、結局、まとめることができるのは公爵以外にはいなかった。今回のことは、結局それを証明しただけでしかない。だから、私の相談にも、一蹴ではなかった。

 

 経緯はどうあれ、国の癌であったリッシュモンが変わり、やりやすくはなってはいるが、それだけだ。結局のところ、国そのものが病に蝕まれていた。歯車が本来の動きを始めただけで、それ以上ではない。この国には大局を見れる人間、つまりは公爵のような人物が必要なのだ。そして、公爵もようやく重い腰をあげようとしてる。それは、素直に喜ばしいことだ。

 

 私が表情を崩したのが気に食わなかったのか、公爵は私を睨みつける。

 

「……姫は?」

 

 私が言うのもおかしなものだが、無愛想なものだ。癖になってすらいるため息も、今ばかりは飲み込む。

 

「いつもの通り。やるべきことだと頭では分かっていても、手が進まない。わずかでも進むようになっただけでも、まだ良くなったのですが」

 

「そう、か」

 

 目を伏せ、公爵は考え込む。

 

「そろそろ、心は決まりましたか?」

 

 私の問いに、公爵は苛立たしげに舌打ちする。

 

「やむを得ん。一年、一年だ。それまでにやれるだけのことをやる。この機会を逃せば、次はない。ここを間違えれば、取り返しがつかん」

 

「感謝します。この国にはそれしかないのです」

 

「感謝など、いらん」

 

 じっと私を睨みつける厳めしい表情が、ふっと、自嘲するかのように緩む。

 

「……すまなかったな」

 

 公爵は苦悩するかのように顔を伏せる。

 

「何を?」

 

「お前のことは気に入らない。だが、お前一人でどうにかするなど、土台無理な話だったのだ。放り出したこと、すまなかったと思う」

 

 そう言って、公爵は頭を下げた。

 

 公爵は、貴族としての誇をもった数少ない人物。今は亡き王に対する忠誠心が厚く、だからこそ、自らの影響力が大きくなりすぎぬよう、あえて政界から身を引いた。それは、国を思うからこその選択の一つ。

 

「いえ、頭を上げて下さい。私も、意固地になっていたのです。今となっては過ぎたことですが、私も認めるべきだったのです。いくら身を削ろうとも、余所者が一人でできることなど、限られているのですから」

 

「……そう、か。だが、任せておけ。国内の貴族と、アルビオンのことは私が受けもとう」

 

 目には強い光。

 

 そして、公爵から差し出された手。私はそれを握り返す。そこらの軟弱な貴族連中とは違う、かつては戦場を駆け抜けた者の力強い手。

 

 頼もしい。

 

 公爵ならば一度口にしたことは必ずやり遂げるだろう。だからこそ、国において誰よりも必要な人物だと、王からの信もあれだけ厚いものだった。

 

「……それともう一つ」

 

 公爵が、こちらは少しばかり顔を歪める。

 

「姫は少しばかり、心労が大きくなりすぎたようだな。気休めにしかならぬかもしれんが、娘をつかせよう」

 

「娘というと、一緒に来られた?」

 

 頭に浮かぶのは、母親譲りの桃色の髪を持つ、妙齢の令嬢。

 

 こう考えるのは失礼だろうか。失礼ながら、両親二人に似ない、柔らかな女性。

 

 すでに子がいてもおかしくはない年齢ではあるが、生来の病弱さからあえて分家し、半ば隠居の身の上。病弱でさえなければ、引く手数多であったであろう。そも、アルビオンのことが一度は落ち着いた後、今回あえて出てきた理由の一つに、体調の良くなった娘を連れてくるということがあったとは聞いている。

 

「ああ。親の贔屓目を抜いても、人の心の動きに聡い娘だ。そして、一緒にいる者の心を安らがせる。思うに、姫には本心から話をできる人物が必要だ。だが、それができて、なおかつ信頼できる者はそうはおらんだろう」

 

 確かに必要性を常々感じていた。

 

「助かります。そればかりは私にはいかんともしがたい」

 

「それは、お前のような年寄りでは務まらんだろうな」

 

 ふっと、公爵が初めて笑った。そして、私もついつられる。

 

 これでようやく、肩の荷が降りる。私も、ようやくやるべきことへ取りかかれそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから、公爵が自ら前に立つことを宣言した。

 

 それまではあくまで一歩引いたものであった公爵の復帰は、劇的な変化をもたらした。常であれば公爵が力を持ちすぎることを懸念する者が出そうなものではあるが、それすらもなかった。

 

 そのようなことを望んでいないということは既に明らか。ならば、下手に競争となるより、誰もが認めるものが先頭に出る方が望ましい。以前であればリッシュモンが何かしら言ってきそうなものだが、それも過去のこと。

 

 何より、この好機を逃すべきではないということは誰もがわかっている。これがよそ者である私であれば心情から認められずとも、そうでなければ、これは乗るべきもの。

 

 そして、それはすぐに一つの方針へと変わる。トリステインとアルビオンとの共同軍の創設、ただし、実質的な指揮系統はトリステインがすべて持つというもの。

 

 つまり、アルビオンはトリステインの手の中に入るということだ。名義的にアルビオンは別の国、別の王を頂くとも、その実質はトリステインに併合するのと変わりない。

 

 先行して共同訓練も始まった。

 

 既にアルビオンで亜人退治で協力したという実績がある。その延長上で、報告のあった亜人被害に対して共同で当たる。これが上手く行けば、ガリアやゲルマニアに対して劣っていた戦力が、いっそガリアを上回る可能性もある。流石にそれにはガリアの邪魔が入るかもしれないが、今のところはそのようなこともない。

 

 それに、増加傾向であった亜人の被害に対する速やかな対処は、国民に明るい未来を抱かせるのに十分な効果をもたらした。トリステインの往時への復興、それは漠然とした期待から、確たるものへと変わった。

 

 その意味を十分に知るアルビオンの王と王子は渋るも、それは抵抗にもならなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――さすが、公爵ですな」

 

 忙しい合間をぬって、ようやく二人で時間を取れた。

 

「先頭に立つのが私からあなたに変わるだけでこれほどスムーズにいくとは、流石に思いませんでした」

 

 ここまで劇的であると、悔しいという思いは皆無で、いっそ清々しい。しかし、公爵は顔を曇らせる。

 

「本来は、アルビオンは尊重すべき国。あまり好ましいことではないのだがな」

 

「それは、私とて理解しています。積み上げてきた歴史の意味は十二分に理解しています。しかし、これは皆が望むこと。おそらく、アルビオンの国民とて、理解するでしょう」

 

「分かっている。だからこれは、ただの愚痴だ。それに、綺麗事をいつまでも言っていられぬからな」

 

「確かに。まさかあのようなことが本当に起こり得るとは夢にも思わなかった」

 

 私と公爵が思い描くのは、一つの、おそらく約束された未来。つまり、教皇とガリア王からもたらされた大隆起について。

 

 秘密裏に進めるために時間がかかったが、地下に、国を空に浮かび上がらせることも可能なほど膨大な量の風石が眠っていることの確証が取れた。

 

 大地の大部分が空へと浮かび上がる、そんな冗談にしても馬鹿げたものが起こり得る。もしそうなれば、食糧が確実に足りなくなる。食糧を輸入することでなんとか成り立っているアルビオンのような状況がそこここで発生する。それなのに、浮かび上がったのと同じだけ耕作に適した土地は減少する。

 

 いずれは適した食糧生産の方法が確立できるかもしれない。だが、それをもっとも望むアルビオンがこれまでできなかったのだ。輸入するという代替手段があったとはいえ、だ。

 

 何年も、下手をすれば何十年という単位で食糧が不足することになるだろう。どれだけの餓死者が出るのか想像もつかない。そして、奪い合いが起こることは間違いない。

 

「――だが、聖地には、それを防ぐための装置があるという」

 

 ポツリと公爵が言う。その表情は硬い。

 

「ええ、何とも都合が良いことに。ロマリアでそれなりの地位にいた私が欠片も知らず、現教皇とガリア王だけが知っていた。同じだけの歴史を持つトリステインにはそのような言い伝えはないというのに。もっとも、トリステインでは途絶えてしまったという可能性がないではありますが」

 

 口伝で伝えられていたというのなら、先王の急な崩御の際に失われたという可能性もあるだろう。だが、ことがことであれば、途絶えぬ為の工夫を何重にも行うものだ。

 

「今となっては分からぬことではあるがな。……しかし、そもそも、始祖の虚無とは何なのだろうな?」

 

 公爵がどこか投げやりに呟く。娘が虚無に目覚めるという、いわば当事者の一人である公爵が。

 

「その言い方は不敬とも取られ兼ねませんぞ?」

 

 むろん、本心ではない。

 

 そも、私自身司祭として長年疑問に思わなかったでもないのだ。

 

 虚無とは、そして、始祖とは何なのか?

 

 漠然とした言い伝えしか残らない虚無と同様、始祖についても全ては曖昧だ。姿を象ることすらも許さぬということを筆頭に、具体的な話は驚くほど何もない。

 

 それはブリミル教の司祭であろうが、王族であろうが変わらない。結局のところ、誰も知らぬ。まるで「意図的に」そうなるようにしたとしか思えない。公爵が言いたいのは、つまりはそういうことだ。

 

 公爵が言う。

 

「仕方あるまい。実の娘が虚無の担い手とのことだが、結局、肝心なことは何もわからない。曰く、世界を救うとのことだが、さてな……。むろん、あの使い魔であれば何とかしそうではあるがな」

 

 確かに、あの使い魔ならば世界を救うことも、逆に、世界を滅ぼすことも可能だろう。虚無とはつまり、そういうものなのかもしれない。であれば、いっそ埋もれてしまうべきものと考えるのも分からないではない。

 

「――何にしても、知らねばなりませんな」

 

 肝心なことを私達は知らない。そして、ロマリアは知っている、知っていなければならない。

 

「ああ」

 

 公爵が深く頷く。

 

「あとは、頼みます」

 

「すぐに出るのか?」

 

「準備が整い次第、すぐにでもロマリアへ。なに、伝手はあります。むろん、公爵がいなければ意味がなかったことですがな。これも、公爵のおかげです」

 

「分かった。あとは任せておけ」

 

 今度は私が公爵へ手を差し出し、公爵がそれを握り返す。

 

 きっと大丈夫だと、心で感じる。

 

 戦友に対する信頼とはこのようなものだろうか? 

 

 安心して死地に赴けるというのはこういうことだろうか?

 

 私は最後の仕事として、必ずやり遂げる。なに、ガタのきた体もそれぐらいはもつだろう。それこそ、この命と引き換えでも構わない。公爵がいるのなら、掛け金として安いものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜の帳がおり、ふと窓の外を覗けば、全てが黒く染まっている。

 

 城内に蝋燭を灯しても、光が届かない場所はそこここにある。時折見回りが恐々と巡るも、どうしてもおざなりにならざるを得ない。

 

 扉を開けて外を覗くと、今は誰もいない。蝋燭の影がゆらゆらと揺れるだけ。それだけ見て、扉を閉じる。

 

 

 

 

 

 こんな時間に、彼はふらりと城を訪れる。

 

 そうして彼は言う。

 

 ただ、顔を見にきたと。

 

 あるいは、まるで世間話をするように、どこそこで人が消えたと。

 

 私が、この国にとっても疎ましいと思っていた人物。

 

 いずれにせよ、彼は気まぐれにやってくる。

 

 だが、今夜ばかりは違う。

 

 私が彼を呼ぶというのは初めてだ。しかし、拍子抜けするほど、彼はあっさりと受け入れてくれた。

 

 自室で一人、彼を待つ。そろそろ時間だろうか。どうにも落ち着かない。

 

 

 

 

 

 

「――おや、待たせてしまいましたか?」

 

 涼やかな声。いつの間にやら、部屋には私以外にもう一人。

 

「いや、驚くほど正確ですよ」

 

 私の返事に、それは良かったと朗らかに笑う青年。年若く見えても、私がこれまで会った誰よりも底がしれない。

 

 ブリミル教とは違うが、どこか厳かなものを感じさせる貫頭衣を見にまとい、さらに腰には剣を吊るしている。私は、ウリエルという彼の名しかしらないが、彼は私のことをよく知っている。

 

「さて、あなたから呼ばれるというのは初めてですね。何でも、しばらく城を離れるとか」

 

「ええ、ロマリアと、それとガリアに赴こうと思いましてね」

 

「――ああ、なるほど。しばらくの間ならあなたがいなくとも国が回る環境にはなりましたからね」

 

 やはり彼は知っている。

 

「あなたのおかげでもあります」

 

 彼は曖昧に笑う。私は構わずに続ける。

 

「ロマリアが言う、大隆起。どうやら世迷言ではないようです。地下の発掘をして、確かなその可能性を見つけました。大量の風石、あれだけの量であれば、国がひっくり返るということも、なるほど、あり得ない話ではない」

 

「しかし、それを防ぐ装置とやらは信じがたい、そういうことですか?」

 

 話が早い。

 

「ええ、どうにも都合が良すぎます。それに、私もあの国にいた時にはそれなりの地位にいました。それなのに全くそんなことを聞いたことがない。聖地の事実については無知ではないつもりでしたが」

 

「確かにそうですね。この地に伝わる虚無とやらの言い伝えは、なるほど、なんとも便利なものでした。ですが、それにも限度があります。いくら脚色があるにしても、ね」

 

「私達には情報が必要です。ですから、私はあの国へ行くことを考えています。自分の目と耳で確かめたいのです。昔もった疑問、虚無とは何なのかを今一度調べねばなりません。どうやらこの時代に伝説の虚無が蘇るというのは間違いなさそうですから」

 

 ここまで言って、彼の様子を伺う。

 

 何と言うだろうか? ルイズ嬢のことがあるからだろう、彼も虚無には注意を払っているようだった。これは彼にとっても悪い話ではないはず。

 

「……ちょうど良い」

 

 ポツリと彼は言う。

 

「虚無とは何か、そろそろ本格的に調べなければと思っていたところです。しかし、言い伝えがどうにも偏っているようで、なかなか難しかった。あなたが直接行くというのは私達としても好ましい。すぐにでも立つのですか?」

 

「ええ、旅支度さえ済めばすぐにでも」

 

 彼はうなずく。

 

 そして初めて会った時に一度だけ見た、彼の背に広がる純白の羽。暗い中でも輝くそれは、恐ろしくも、やはり美しい。彼は無造作に、そこから一枚の羽を抜き取り、私へと差し出す。

 

「つい最近、同胞が北に向かったところ。場合によってはあなたのもとに向かわせましょう。これはそう、目印のようなものです。あるいは、魔除けぐらいにはなるかもしれませんね」

 

 最後だけいたずらっぽく笑う。

 

 そういった顔もできるのだと初めて知った。何にせよ、これでようやく下準備は済んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長旅になるからには、それなりの旅支度は必要だ。といっても、そう大げさなものではない。

 

 もともと私は領地を持っているというわけではない。管理の手間はもちろん、よそ者である私が持つことに反感を持つ人物は多かろうとは想像に難くなかった。だから、本当に必要最小限のものだけを準備すれば事足りる。都合の良いことに、それは、同行者も同じことだった。

 

 

 

 部屋がノックされる。彼の荷造りも終わったんだろう。

 

 部屋に入ってきたワルド子爵はいつもとそう変わらぬ装い。無駄に華美にならぬ、動きやすさを重視した親衛隊の隊服に、何時ものようにマントを羽織っている。これまでの功績で王女の親衛隊の総隊長としての立場を賜った彼ではあるが、無駄な権力闘争に染まることはない。それは、私としても好ましいものである。たとえ、内心はどうあれ。

 

 彼が聖地に並々ならぬ関心を抱いているのは、既に調べている。恐らく、聖地に執着し、ついには心を壊した母親のことを知るため。ああいや、もう一つ。事故とはいえ、自らが「手をかけてしまった」母親への罪滅ぼしでもあるのだろうか。

 

 彼女が死んだ今となっては、その執着が何に向けられていたのかは分からない。だが、彼はそれを知りたがっている。それは、今回の私の目的とも重なっている。子爵の目的は純粋で、だからこそ強い。危うくもあるが、目的を同じくする限りは信頼できる。だからこそ私は、今回の同行者に彼を選んだ。

 

 それに、ちょうど良い機会でもある。子爵が姫を支えるものたり得るが否かを知るには。

 

 その子爵が、彼のトレードマークでもある帽子を取り、口にする。

 

「私の準備は終わりましたが、卿も――そう時間はかからないようですね」

 

「公爵のおかげでね。それに、私はしがらみも少なくてね。心配するとすれば体力的なものだが、なに、心配はいらんよ。今となっては昔の話になるが、年の半分を旅で過ごしたこともある。司祭というのも存外体力が必要なものでね」

 

「確かに。本当に民のことを思うならそうあらねばなりませんからな」

 

「耳が痛い話ではあるな」

 

 思わず苦笑する。

 

 子爵の言葉には、引きこもって贅沢三昧の司祭に対して、幾分の皮肉が含まれている。が、それは誰もが持っているものだ。

 

 司祭であった私とて、何とかしたいという思いはあった。しかし、病巣はあまりに根深く、だからこそ一人の持つ時間では足りない。ただ、可能性もないではない。

 

「まあ、今の教皇はあの若さで上り詰めた。何かしらの変革はできるかもしれんな」

 

 むろん、教皇が真に考えていることは分からない。私はそれを含めて知らなければならない。

 

「さて、ようやく全ての準備が済んだ。本来の順番としては間違っているが、姫に説明せねばな」

 

 

 

 

 

 

 

 旅立つ日、姫の見送りはなかった。旅のことを告げても、ただそうかと呟くだけだった。

 

 期待はしていない。

 

 だが、やはり寂しくはある。好かれていないことは分かっているが、私は姫のことをどこか娘のように思う心があったということだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 枢機卿が目的を伏せて旅に出ると、いっそ戻ってこなければ良いと平気でのたまう者たちがいた。

 

 ワルド子爵と二人だけの旅。追放だと考えるものが出るのも仕方がない。半ば隠居していた私が復帰したタイミングであるからには。

 

 それに、私とてそれを咎められる立場にはない。であれば、やるべきはただ、この国をまとめ上げることだけ。

約束は果たさねばならん。

 

「――お父様」

 

 ふと、鈴の音のように柔らかなカトレアの声。思わず顔を上げると、困ったような、拗ねたような表情。

 

「お父様ったら、また眉間に皺を寄せていますよ? お茶を煎れてきましたから、少し休憩を取られてはいかがでしょう」

 

 自覚があるほどに頑固な性の儂だが、カトレアに言われると素直に従おうという気になる。その穏やかな声は心地良いからか、それとも、本心からの心配だと分かっているからか。あるいは両方か。

 

「そうだな。たまには甘い茶菓子も頼めるかね?」

 

「はい」

 

 本当に嬉しそうに、カトレアが表情をほころばせる。

 

 ああ、もう一つ、この笑顔が見たいからか。

 

 儂とカリーヌの娘でありながら、よくぞこのような娘に育ったものだと感心する。少しばかりはエレオノールとルイズにも、あわよくばカリーヌにも影響すれば良いと思ったことは、両手では足りない。

 

 カトレアは、手慣れた調子で茶を淹れる。

 

 手ならないで覚えたものだが、なかなかどうして、どうにいったものだ。それに、既に茶菓子も準備してあったようだ。こうした気配りは、素直に嬉しい。

 

 ううむ、これならすぐにでも良い相手が見つかりそうなものだが、生中な輩にはやれん。かといって、うかうかしているとあやつの毒牙にかかりかねん。それは絶対に避けねばならん。

 

「……お父様。また難しい顔をしていますよ?」

 

 いつの間にやら目の前に覗き込んできていたカトレア。

 

「ああ、すまんすまん。せっかく休憩するというのに、それでは意味がないな。おお、せっかくお前が手ずから淹れてくれた茶だ。冷めぬうちにいただかねばな」

 

「はい。お口に合えば良いのですが」

 

 言葉とは裏腹に、その表情には自信がうかがえる。これは楽しみだ。

 

「うむ、いただこう」

 

 カトレアが入れてくれた茶は、爽やかな香りと、風味。これはハーブティーか。たまには、悪くない。カトレアも満足気に自分の分に手を伸ばす。言葉を交わさずとも、そんな穏やかに時間は好ましい。

 

「お父様」

 

 ふと、向かい合わせに座ったカトレアが尋ねる。

 

「何だね?」

 

 カトレアは少しばかり困った表情。

 

「姫様のことなのですが……」

 

「お前にも本心は見せてくれんのかね?」

 

「ええ……」

 

 カトレアの表情が曇る。

 

 ここしばらくは一緒に過ごすことも多いが、どうだろうか。

 

 ルイズに対しても心の支えになったのだから、力になれるとは思う。とはいえ、人の心の機微には本当に敏感な娘だが、そうやすやすとはいかないかもしれない。一旦閉ざされた心はなかなかに頑強なものであれば。

 

「なに、焦ることはない。姫様にとってはお前がそばにいるだけでも支えになるだろう。だから、しばらく見守って欲しい。姫様がお前を必要とする時、お前が必要だと思うことをやって欲しい。それで十分だ。お前もいずれは分かるだろうが、愛する人を傷つけるというのは、自分の身を割かれるよりも辛いものだからな」

 

「ええ。姫様はそのことに心を痛めています。同時にそれも仕方が無い、そうせざるを得ないということも理解しています。そう思うこと自体が辛いようで、何も考えたくないと思っているようです」

 

「姫様は、そこまで語ってくれたのかね?」

 

 少しだけ期待する。そうであれば、悩みを口にできれば、心の荷も少しは軽くなる。

 

 しかし、カトレアは首を横に振る。

 

「いえ、そう私が感じただけです。まだ姫様の口から話してくれるようになるには時間がかかりそうです。それと……」

 

 カトレアが言いづらそうに、いっそう表情を曇らせる。

 

「何だね?」

 

「王子も、ウェールズ王子も深く悩んでおいでです。とても追い詰められているというか。あまり話したこともないので、はっきりとは言葉にできないのですが……」

 

「そう、だな。確かに、国のことを思えばそうだろう」

 

 その原因である儂が言えたことではないが、な。

 

 王子は、年若いといえども、王族としての確固とした自覚をしっかりと持っている。であれば、国を割かれようという今の状況は、それこそ身を割かれる思いであろう。

 

 儂とて、できることならそのようなことはしたくない。むろん、言っても詮無きことではあるが。時が時であれば、二人の婚姻も対等な、望ましいものであったろうに。好き合うもの同士での婚姻は、本当に得難いものであるからには。

 

「……本当に、詮無きことだな」

 

「いいえ」

 

 思わず漏れた独り言に、カトレアが言う。

 

「お父様がアルビオンのこと思うにも意味はあります。王子もそれは肌に感じているでしょうし。それに、そう思えるお父様だからこそ、アルビオンにとっても最悪の事態は避けられるでしょう。中にはアルビオンをどう食らうか、それしか考えていないような方もいらっしゃるようですし……」

 

 珍しく、本当に珍しくカトレアが嫌悪感を表に出している。カトレアは、良き娘に育ったようだ。

 

「そうか。お前にそう言ってもらえると、少しは心が軽くなる。本当に、お前が一緒にきてくれていて良かったよ」

 

 一人であれば、やはり辛かったこともしれない。カトレアには昔から隠し事ができない。素直に心のうちを吐露できるのは、何事にも変えがたい。

 

「こんな私でも、役に立てるのは嬉しいです」

 

 自分を卑下するような言葉。それはよくない。

 

「そんな言い方はするものではないよ。せっかく安心して外に出られるようになったんだ。お前は、お前がやりたいことを精一杯やればいいんだよ」

 

「ごめんなさい。――そうですよね。せっかく好きな時に外へ出られるようになったんだもの。ああ、いけない。健康な体をくれた姉さんと、そしてシキさんに感謝しないと」

 

 そう、朗らかに笑う。それでいい、せっかく自由になれたのだから。

 

「……ただ、感謝は必要だが、彼にはあまり近づくな」

 

 それだけが心配だ。親としてはどうしても心配だ。エレオノールはもういかんともし難いが、せめてカトレアは真っ当な恋愛をして欲しい。

 

「それはダメです」

 

 しかし、カトレアは言う。

 

「恩を受けたのは私なんですから、私自身がお礼をしないと。何ができるというわけじゃないですけれど、それは絶対に譲れません」

 

 カリーヌを思わせる、引き結んだ表情。だからこそ、悟る。

 

「……言っても、聞かんのだろうな」

 

 とたんに表情を綻ばせ、カトレアはからからと笑う。

 

「ええ、いくらお父様でも。道理に外れたことは聞けませんわ。あ、大丈夫です。会うとしても、お姉様かルイズと一緒で、ですから」

 

「確かに、道理はお前にある。まあ、儂が何を心配しているか分かっているのなら、これ以上は言うまいよ」

 

「わがままを言ってごめんなさい。でも、あの人には本当に感謝しているんです。あの人のおかげで私の世界は広がりました」

 

 眦をさげ、叱られた子供のように俯く。

 

 全く、そんな風に言われては何も言えんじゃないか。

 

「お前は、今までわがままを言ったことなんてなかったな。ああ、少しぐらいなら、そうだな、悪くない」

 

「………じゃあ」

 

 カトレアがおずおずと上目遣いにお願いをする。

 

「ん、何だね?」

 

 これは初めてペットが欲しいと言った時以来だろうか。懐かしい。思わず、頬が緩むのが分かる。

 

「早速、明日にでも学院に行っていいですか?」

 

「……ん? どこへ、何をしに行くと?」

 

「学院へ、シキさんに会いに」

 

 カトレアはピシリと言い切る。

 

「……なぜ?」

 

「さっき言った通り、お礼を言いに。この前、家にいらした時はあまり話せませんでしたし」

 

「いや、確かにそうなんだが……。確かに、必要だろうが……」

 

 不意に悟る。これは、曲げる気はないなと。さては、最初からそのつもりだったな。

 

「……分かった」

 

「ありがとうございます。じゃあ、早速準備しますね」

 

 ふわりと花開くように微笑む。

 

 この使い分け、分かってやっているのなら末恐ろしい。いつの間にそのような強かさを身につけたのやら。

 

「まあ、待て。せっかくなら儂も行こう。改めて話しておくべきこともあるからな。ただ、すぐにとはいかん。そうだな、次の虚無の曜日にしよう。授業が休みであれば、エレオノールもルイズも時間を取りやすいだろう」

 

 それまでの間にエレオノールに言い含めておいて、ついでに縁談の一つや二つを準備しておけば良い。なに、縁談があるとだけ言えれば良いのだ。そうと知っていれば粉をかけるということもあるまい。

 

 むろん、そう簡単には娘をやる気はないがな。なに、良くも悪くも――いや、何も言うまい。とかく噂になったエレオノールの話がある、それぐらいは相手とて分かっているだろう。生中な男では務まらんとな。

 

「分かりました。じゃあ、早速姫様に伝えておかないいけませんね」

 

 カトレアがパンと小気味良く手を叩き、立ち上がる。

 

「あ、ああ……。確かにやるべきことは早めに済ますに越したことはないな。ああ、確かにお前の言うとおりだ」

 

 本当に頼もしい娘。いっそ息子であればこのような心配も不用だというのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 メイドへ取次を依頼すると、姫様は王子と一緒とのことだった。遠慮するべきかとも迷ったが、姫様からは許可があった。

 

 不思議にも思っていると、カトレアが付け加えた。曰く、できるだけ二人でお茶をするようにしているが、どうにもギクシャクしたところがあるから、ちょうど良いのかもしれない、と。

 

 言われて、さもありなんと思う。友好を見せるために時間を共有することは欠かせないが、当人にとってもはいたたまれないだろうと。

 

 

 

 

 

 

 

 入ると、これは歓迎と取るべきだろうか。

 

 二人からの視線にはどこかすがるものがある。姫はもちろんのこと、王子もそうであった。アルビオンで王たらんと教育を受けて自覚を持とうとも、全てを分けて考えるというのには、さすがにまだ若い。ここは儂が口火を切るべきか。

 

「歓談のところ申し訳ありません。次の虚無の曜日に娘が城の外へ出ますので、それをお伝えに参りました」

 

「それは構いませんが、どちらへ?」 

 

 姫が首を傾げる。 

 

 確かに、常にとは言わずとも、ここしばらくは姫と共にいた。不満は抱かずとも、不思議には思うだろう。

 

「学院へ、件の使い魔の所へ向かいます。カトレアが個人的に助けられておりまして、そのお礼を直接言いたいとのことでして。今でこそ王宮へ来ることができましたが、生来それもできないほど体が弱かったのです。彼の持っていた神薬とやらはそれだけ素晴らしかったようでしてな」

 

「彼は、何でもできるんだね」

 

 ポツリと王子が言う。

 

 使い魔のことを口にした時、彼の反応は大きかった。そして、羨望やら何やらがないまぜになった響き。それはそうだろう。彼ほどの力があれば、できないことはない。

 

 王子は常に考えているはずだ。アルビオンを、自らの国の窮状をどうすれば救うことができるのか。常識で考えれば、既に詰んでいる。いくつもの代を重ねればあるいは芽が出ることもあるだろうが、逆に言えば、今代ではいかんともしがたい状況。

 

 だが、その例外が一つだけある。それがルイズの使い魔。

 

 彼が何かの気まぐれで手を貸すということがあれば、アルビオンの窮状を救い、それ以上のことすら可能だ。それが難しいというのは、当然理解しているだろうが。ともあれ、これは話題としてあまり好ましくなかったか。

 

「さて、あまりお邪魔をしても仕方がありませんな。次の虚無の日、儂も行きますが、あるいは泊まりなるかもしれません。一番上の娘も、一番下の娘も学院に居りますからな」

 

「そうですね。ルイズはカトレアさんのことが好きですからね。久々に会えれば喜ぶでしょう。どうか私のことはお気になさらず」

 

 姫様が微笑む。

 

 トリステインが誇る白百合は美しい。だが、その美しさは、あるいは折れそうな儚さと同居している。

 

 それからは会話というほどもなく、部屋をあとにした。 

 

 

 

 

 

 

 

「――お父様」

 

 後ろを歩くカトレアから呼びかけられる。声にはどこか悲しげな響き。

 

「何だね?」

 

「王子は思いつめています」

 

「そうだろうね」

 

 王族としての誇りを持っていれば、当然そうだろう。だが、カトレアは続ける。

 

「国の行く末を案じ、それでいて、姫様のことを大切に思っているから憎みきれずにいる」

 

「……あまり、人に聞かれる可能性のある場所で言うものではないよ」

 

 周りをうかがうと、幸い、廊下にひと気はない。あるいは、だからこそか。

 

「でも、王子は何かしら希望を持っているようです」

 

「お前の、勘かね?」

 

「はい」

 

 カトレアの言葉に淀みはない。

 

「なら、そうなんだろうね。ただ、そのことは私以外には言ってはいけないよ」

 

 アルビオンの王子にとっての希望は、トリステイン貴族にとっては邪魔でしかない。かろうじて利用価値があるからこそ、綱渡りの綱は切れずにいる。だが、切れずにいるだけだ。現王と王子をこの世から消すということはとても簡単なことなのだから。それだけは避けたい。貴族の誇りとして、それだけは譲れない。

 

 それに、もしそんなことがあれば、姫の心は壊れてしまうかもしれない。それだけは防がねばならない。

 

 儂等のような老いぼれならともかく、年若いものにはもっと自由に生きて欲しい。だが、それができないだろうことは儂自身が理解してしまっている。自分自身で信じられぬことなど、実現できるはずがないというのに。 

 

「……どうにも、ままならなんな」

 

 つい、諦めの言葉を口にしてしまう。それではいかんと分かっているというのに。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。