ガールズ&パンツァー 鉄脚少女の戦車道   作:流水郎

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降り出した雨です!

 IV号戦車は単独で隘路を進行中、護衛は無し。

 報告を受けた以呂波は少し思案した。此の期に及んで自分のみ安全圏へ逃げ込もうとする西住みほではない。味方不利の中で指揮官が逃げ隠れしては士気が下がる一方だ。考えられるのはやはり、囮か。だが今更安直な囮作戦を仕掛けてくるとは思えない。

 

「西住さんは私が漸減作戦を続けるって、予想できると思う。自分が囮になろうとはしない」

「囮は澤さんたちの方?」

 

 地図を見つめる友人に、操縦席の結衣が問いかけた。彼女は隊長車乗員の中で、以呂波に次ぐ戦術的思考力を持っている。元々秀才肌であることに加え、操縦手は思考力を磨かねばならないポジションなのだ。

 以呂波の考えも同じだった。定石からすればフラッグ車たるIV号を囮とし、他車両が待ち伏せを行うだろう。しかし伏兵戦術を得意とする一弾流相手に、そのような定石は通じない。相手が戦力を伏せる位置を、以呂波はすぐに予測できるのだ。

 

 みほはそれを分かっているはず。そして千種学園の作戦が、大洗の戦力を削った上でフラッグ車を狙うことだと気付いているはずだ。

 東から報告のあった履帯跡を、蛍光ペンで地図に書き込む。あんこうチームの進路には高台があった。見晴らしが良く、射撃には丁度良いポジションである。

 

「私たちが澤さんたちに食いついたら、そこをゲルリッヒ砲で狙撃するつもりだね」

 

 7.5cm Pak 41は命中精度に難があったと、噂程度に聞いている。しかし五十鈴華はその砲を使い、千メートル以上先のズリーニィを撃破して見せた。競技用戦車は『終戦までに設計された車両』という規則はあるが、部品は現代の工作精度で作れるため、大抵は戦時中のオリジナルより信頼性が上がっている。砲弾も同じことで、弾道の安定しなかった装弾筒付徹甲弾(APDS)や、信管に欠陥のあったBT-42用の成形炸薬弾(HEAT)なども、欠点を改善した物を使うことができるのだ。

 

 精度の上がったゲルリッヒ砲に華の射撃技術が加われば、千種学園の全車両をアウトレンジから撃破できる。その強みを活かさない手はないだろう。

 それでもフラッグ車に護衛なしで行動するというのは、それだけ大洗側が切羽詰っている証拠だ。シュトゥルムティーガーの存在が欺瞞だったと分かり、用意してきた作戦が無駄になった以上、リスク覚悟の手段に出るのも理解できる。

 

「IV号を奇襲するかい?」

「いえ。あくまでも数を削ります」

 

 晴の問いに、以呂波は迷わず答えた。彼女はみほに比べれば好戦的な一面もあるが、決してサディストではないし、必要以上に相手をいたぶる戦術は好まない。それでも漸減作戦に拘るのには理由がある。千種学園は初期の頃より車両数は増え、火力も大きく増したが、高火力と回転砲塔を併せ持つのはタシュとトゥラーンの二両のみなのだ。

 無砲塔戦車と低火力車両でかの軍神を追い詰めるとなれば、なるべく邪魔の入らない状況を作り、確実に攻撃を命中させねばならない。もっと敵戦力を削り、少なくとも澤梓の駆るM3リーは叩いてから決戦を挑むべきだ。以呂波はそう考えていた。

 

 ならばまずは、敵戦力を誘い出す必要がある。義足のソケットを軽くさすり、以呂波は微笑を浮かべた。

 

「三木先輩、お願いがあります」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 高台へと進むあんこうチームは、ふとある物に気づいた。今まで自分たちが通ってきた道の彼方に、土煙が見えたのだ。キューポラから身を乗り出すみほは、双眼鏡でそれを確認した。風による物ではない。大きな土煙がゆっくりと移動してくる。

 

 千種学園の車両が追撃してきたに違いない。それも土煙のサイズからして、全車両でフラッグ車を狙っている……と、普通の指揮官なら思うだろう。

 みほは曇り空をちらりと見上げた上で、咽頭マイクに指を当てた。

 

「うさぎさんチーム。敵車両の土煙を確認できますか?」

《こちらうさぎチーム、見えています。千種の人たちにしては不用心だから、囮だと思います》

 

 副隊長の返答は、みほの考えと寸分違わぬものだった。後輩の成長にふと笑みを浮かべ、作戦を脳内でシミュレートする。フラッグ車で単独行動する以上、リスクを伴う作戦だ。しかし情報戦で完全に先手を取られ、三両の戦力を失った今、リスクを負うのはやむを得ない。

 みほは大洗に来てから、西住流の教義からすれば『邪道』と言える采配を振るってきた。姉のような王道の戦いなど、到底望めない状況だったからだ。だがこの『士魂杯』では敵もまた邪道であり、昨年度修羅場をくぐってきた大洗チームでさえ、一筋縄ではいかない相手ばかりだった。ことに一弾流の狡猾さは群を抜いている。今回以呂波は、試合前から有利な状況を作っておくという用意周到さを見せてきた。

 

 ならばその裏をかくしかない。空模様を心配しつつ、少女は号令を下した。

 

「それでは皆さん、打ち合わせ通りにやりましょう。健闘と幸運を祈ります!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……戦車でボロ布や木の束を引きずり、派手な土煙を上げることで大規模戦力に見せかける。アフリカ戦線などで使われた手口だ。以呂波は九五式装甲軌道車ソキにその役を担わせ、あんこうチームがいるであろう高台へ向かわせた。

 

 その土煙をちらりと見つつ、船橋は林の中を進む。トルディ軽戦車はスウェーデンのL-60軽戦車をライセンス生産した物で、路外機動性に優れた捩り棒(トーションバー)サスペンションと、接地圧を下げるため後部誘導輪を接地させた足回りを受け継いでいる。それによって軽快に走行する愛車の砲塔から、船橋は周囲を入念に見張っていた。

 大洗の戦車が土煙を見てあんこうチームの救援に向かえば、そこを後方から攻撃し、さらに戦力を漸減できる。そのためには敵の動向を掴むことが重要だった。

 

 ふと、船橋は木々の合間から排煙を見た。眼鏡をかけ直し、首から下げた双眼鏡を構える。じっと凝視すると、立ち上る埃の中に戦車のシルエットが見えた。頭でっかちな印象の、角ばった姿だ。大洗の残存車両はどれも外見が大きく異なり、判別は容易い。船橋の視力はあまり良くないが、眼鏡さえかけていれば十分に偵察をこなせた。平野ならもっと早く発見できただろうが、林の中故に比較的近距離での発見となった。

 エンジン音が響かないように、そして土煙を立てないように、ゆっくりと接近していく。アリクイのマークが視認できた。

 

「こちら船橋。前方に三式中戦車を確認。ソキの方に向かってる」

《こちら一ノ瀬。おそらく斥候ですね。八九式がいなくなったからでしょう》

 

 報告に対する返答は素早かった。迅速に判断し、歯切れの良い指示を与える。優秀な指揮官の条件だ。

 戦車をゆっくりと走らせ、林から出ないように追跡する。敵の砲塔から、車長ねこにゃーが顔を出しているのが見えたが、船橋に気づいている様子はない。

 その後ろに大洗の後続車両が確認できた。M3リー中戦車、III号突撃砲F型、後続にルノーB1bis重戦車。揃って三式中戦車に追従している。狙い通り、あんこうチームの救援に向かうようだ。

 

 船橋はすぐさま報告しようとした。以呂波の策が上手くいっていると信じて。

 しかしその認識が誤っていることを、彼女は身をもって知ることになった。

 

 大洗の戦車たちが、突如砲を向けてきたのだ。

 船橋ともあろう者が、反応が遅れてしまった。敵戦車のハッチからは車長が顔を出していたが、それまで誰もこちらを見ていなかったのだ。気づいていないはずだったのに、その砲口をトルディへと向けてくる。

 

「後退!」

 

 船橋が号令し、操縦手がギアを切り替え、クラッチを繋ぐ。その一連の動きは辛うじて間に合った。M3の副砲が火を噴くも、放たれた一撃はトルディの前を通過する。37mm砲とはいえ、トルディの装甲に直撃してはひとたまりもなかったであろう。

 だが向けられた砲口は一つではない。ルノーB1bisの砲口が黒点になったのを見て、咄嗟に次の手を打つ。

 

「停止ッ!」

 

 すぐさまブレーキが踏み込まれた。小さな一人乗り砲塔から放たれた徹甲弾が、今度はトルディの砲塔後部を掠める。船橋も反射的に砲塔内へ隠れた。カウンターウェイト部が少し凹んだが、辛うじて貫通判定は出ていない。

 回避成功。だがこの程度は大洗側の想定内だった。急停車から再発進しようとしたとき、III号突撃砲が信地旋回を終え、長い牙を向けていたのだ。

 

 刹那、砲声。

 

「……!」

 

 空気を切り裂く高初速弾が、トルディの左側部を叩いた。途端に凄まじい衝撃が走る。船橋は一瞬、天と地が分からなくなった。だが体が反射的に受け身を取り、カメラを守る。衝撃が収まると、正気を取り戻そうと頭を振った。

 重力を知覚できるようになり、自車が横転したことを察した。視界が霞み、顔に手をやると眼鏡がない。だがそれを探す前に乗員の、そしてカメラの安否を確認する。

 

「二人とも、大丈夫?」

「い、生きてます……」

「……委員長、眼鏡がなくなってますよ」

 

 操縦手は操縦席で、砲手は船橋の上に折り重なった姿勢で返事をした。開け放たれたハッチから顔を出すと、地面に自分の眼鏡が落ちているのが見えた。そして砲塔上の白旗も。

 

 

《千種学園・トルディ軽戦車、走行不能!》

 

 

 無情にアナウンスが流れたとき、ガサガサと木のざわめきが聞こえた。風のせいではない。近くの木の上に何かがいたのだ。上目遣いに見上げると、太い枝から幹へと降りてくる少女を確認できた。木の葉の中から健康的な脚が見え、続いて白いスカート、紺色のパンツァージャケットが露わになる。ロングヘアが見えるに至って、船橋は彼女が山郷あゆみだと気付いた。

 慣れた動作で木の幹を降り、地面に脚を付ける。ちらりとトルディの方を顧みて、大きな瞳で心配そうな視線を向ける。

 

「大丈夫ですか!?」

 

 あゆみの声を聞いたとき、船橋は理解した。自分たちはずっと前から、彼女に見られていたのだ。大洗のトリックに嵌ったのである。にも関わらず、本能的にカメラを構えていた。

 レンズを向けられたあゆみの方は、そんな船橋を見て「あ、大丈夫そう」と察した。元々うさぎさんチームのメンバーはノリが良い。可愛らしくピースサインをするあゆみの姿をファインダー越しに見つめ、船橋はシャッターを切った。

 

「……写真、後で送るから!」

「ありがとうございまーす!」

 

 快活に返事をし、あゆみは大急ぎで自車・M3へと駆けて行った。余計なことをしている彼女に、澤梓がやきもきしていたのだ。

 

 彼女を回収し、大洗の戦車は即座に離脱した。囮のソキとは別の方向へ。

 それまで待っていたかのように、曇り空から雨が降り出した。水滴で濡らされていく装甲板を尻目に、船橋は溜息をついた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やられたっ!」

 

 船橋の報告を聞き、以呂波は珍しく悔しげに叫んだ。木の上に見張りを立たせていたことから、ソキによる囮作戦は看破されていたと見て良い。みほは以呂波の用意周到さを知った上で、裏の裏をかいてきた。以呂波は大洗側に戦力が残っているうちに、フラッグ車を狙おうとはしない……みほには分かっていたのだ。IV号戦車を狙うと見せかけ、救援に向かう澤梓たちを叩くという以呂波の策も、もしかしたら最初から予想していたかもしれない。

 

 千種学園は偵察の重要さを理解している。だから梓たちの動きを探るため、必ずトルディを先行させてくる。よって乗員を一人林に残して見張りをさせ、逆に待ち伏せをした。ゲリラ戦へ移行するにあたり、偵察車輌から先に削る作戦に出たのだ。そして船橋の射弾回避能力を知るが故に、複数両での時間差攻撃を仕掛け、確実に仕留めた。

 

「一ノ瀬さん……」

 

 結衣は心配そうに、砲塔の車長席にいる以呂波を見上げた。だがそのとき、鉄脚の戦車長は笑みを浮かべていた。

 

「やっぱり凄いや、西住さん。軍神呼ばわりは迷惑かもだけど、凄い」

「……そうね」

 

 ドナウ高校との練習試合を思い出し、結衣も笑顔になった。味方の大半を失い、パニックになりかけた初陣の記憶。最近のことなのに、懐かしく思えてしまう。あのときも以呂波が笑っていたから、自分も冷静になれた。出会ったときは廃人同様だったのに、戦車に乗ると障害者であることを忘れるくらい頼もしくなる。そんな以呂波に尊敬と憧れ、そして僅かな嫉妬を感じながら、ここまで着いてきたのだ。

 

「で、その西住さんと渡り合ってる貴女は、次にどんな指示をくれるのかしら?」

 

 結衣の言葉に、以呂波はくすりと笑い、咽頭マイクに指を当てた。その両側では美佐子と澪が号令を待っている。

 

「各車へ。今の大洗の作戦は見事でしたが、リスクの大きい窮余の策でもありました。我々はあの大洗をそのくらい押している、勢いに乗っている、そう考えていいはずです!」

 

 士気を上げるため、プラス思考の言葉を選ぶ。姉のカリスマ性に憧れるうちに身についた気配りだ。

 

「トルディを失ったのは私の失策ですが、それで失速しては元も子もありません」

「以呂波ちゃん、ギャグのセンスだけは無いね」

 

 晴の辛辣な評価に若干ショックを受けながらも、以呂波は言葉を続けた。

 

「このまま敵を追撃します! 三木先輩はこちらへ合流し、東先輩はIV号の追跡を続けてください!」

《了解! 最後まで信じてついていくわ!》

《同じく!》

《大漁旗揚げるッスよ~》

《はーい》

《終点までお供しますね!》

 

 各車の車長から頼もしい言葉が返ってくる。次に以呂波は、学園のマスコットとも言える車両へと声をかけた。

 

「T-35も、遅れてもいいからついてきてください! 足が遅くても、止まらなければいいんです!」

《心得た! 付き合うぜ!》

 

 北森の声はどこか嬉しそうだった。隊長がT-35の存在を肯定してくれるのが、素直に嬉しいのだろう。現に以呂波は北森たち乗員の活躍もあって、自分でも驚くほどこの失敗兵器に愛着を持っていた。

 続いてレシーバーに聞こえたのは、撃破された船橋の声だった。

 

《一ノ瀬さん。私たちをここまで引っ張ってくれて、本当にありがとう。後はお願いね》

「先輩。こちらこそ、掛け替えのないチャンスを頂きました。ありがとうございます」

 

 快活に言ったその返事が、以呂波の嘘偽らざる本心だった。自分を戦車の道へ連れ戻してくれた船橋への感謝、そして逆境から打って出ようとする、千種学園への愛情。それらが自分を強くしてくれる……以呂波はそう思うようになっていた。彼女の期待に応えられる結果を出したい。

 生身の脚と義足、両方へ均等に体重を預け、以呂波がキューポラから顔を出す。ポニーテールが風に揺れ、艶やかな黒髪が雨に濡れた。そんな中で右手を前方へ掲げ、仲間たちに号令する。

 

「千種学園、戦車前進(パンツァー・フォー)!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……雨降りしぶく中、澤梓は車上で安堵していた。反攻作戦の第一は上手くいった。予定通り、相手の最も重要な偵察戦力を叩けた。トルディを時間差攻撃で撃破した際、発砲のタイミングは全て彼女が指示していた。先ほどは味方の犠牲で逃げ延びたが、今度は副隊長としての役目を果たせたと言って良い。

 だが安心してばかりもいられない。まだ数の差は埋まっていないのだ。このまま敵を削り返せるかが、勝敗を分けることになる。

 

「千種はすぐに追撃してくるかもしれません。急いで西住隊長と合流しましょう!」

 

 優花里から借りたツェルトバーンを着て雨を凌ぎ、小隊の指揮を執る。指揮下の車長は皆年上だが、堂々と統率することができている。敵将・以呂波は一年生の身で隊長を務めているし、みほも一年生のときに黒森峰の副隊長をしていた。自分にもきっとできると、己に言い聞かせて号令を下す。

 そんな梓を、先輩たちもまた信頼していた。撤退戦でツチヤ、磯部らが犠牲になったのは残念だが、彼女たちのおかげで梓が一皮剥けたように感じる。カエサルなどは「そろそろソウルネームを進呈すべきか」と能天気なことを思案していた。

 

 戦艦型学園艦の巨大な艦橋を右手に見つつ、隊列は小山を抜けていく。丁度、艦尾のアールパード女子校エリアから、艦首のトラップ女子校エリアへ至る境だ。もちろん通常の車両が通行できる道路もあるが、梓は敵に追いつかれたときに備え、遮蔽物の多い山道を選んだ。

 誰もいない学園艦に雨が降り、殊更不気味な雰囲気を醸し出す。そびえ立つ灰色のマストが何とも虚しく感じた。

 

「……なんか、学校から追い出されたときのことを思い出しちゃった」

「あ、私も」

 

 ふとぼやいた言葉に、大野あやが反応した。学校を引き払う際、小屋のウサギを連れて行こうと悪戦苦闘した思い出。解体所へ出航する学園艦を見送った記憶。様々なものが胸にこみ上げてくる。

 

「涼子ちゃんとか船橋さんたちって、去年までこの船にいたんだよね」

「……どんな風に暮らしてたんだろうね」

 

 千種学園を訪れたとき、そこの生徒たちは皆明るかった。笑顔と音楽で歓迎してくれた。だが母校を守れなかった悔しさこそが、千種を強くした原動力なのだろう。自分たちの学校を守り抜いた大洗は「憧れ」だとも言っていた。

 

 改めてシンパシーを感じながらも、小隊は行軍を続けた。やがて雨音とは違う水の音が聞こえてきた。

 川だ。用水路や水力発電を兼ね、艦上に再現された河川だが、廃校になってもまだ水は抜かれていないらしい。学園艦の解体には時間がかかるのだ。川は山の急斜面に挟まれており、梓たちの眼下に濁った水の流れが見えた。丁度道は狭まり、しばらく隘路での移動を強要される。雨のせいで川は増水し、激しい流れとなっている。小隊は左手側に谷と川を見やりながら、一列縦隊で進行した。

 

「佳利奈ちゃん、谷へ落ちないように気をつけて!」

「あい! ……でもクラッペにワイパーが欲しい!」

 

 少々贅沢なことを言いながら、阪口佳利奈は二本のレバーで戦車を操る。差動機が左右の履帯の回転速度を変え、車体を滑らかに操向する。梓が目視で道を確認し、佳利奈の肩を蹴って方向を指示した。

 一方先頭を行く三式中戦車チヌは、周囲を警戒しつつ進行していた。この車両は変速機にシンクロ機構がないため、ギアチェンジの際は操縦手がアクセルを吹かしたり緩めたりして、感覚でギアの回転数を合わせなくてはならない。操縦手・ももがーは昨年度、そのせいで大いに苦労してきた。だが今では戦車と呼吸を合わせて操縦する方式に、ゲームでは到底味わえない快感を覚えている。

 

 しかしこの時、彼女たちはミスを犯してしまった。雨のせいで操縦席クラッペからの視界が悪くなり、ももがーからは道の様子がよく分からない。いつの間にか道の際……斜面のすぐ側を走っていた。丁度そのとき、車長たるねこにゃーは追従する澤たちを気にかけ、後ろを見ていた。

 

「アリクイさん、危ないです! 右へ寄って!」

 

 梓の忠告は一瞬だけ遅かった。ももがーが舵を切ろうとした瞬間、三式中戦車の車体がぐらりと傾く。雨で地面が軟化し、戦車の重みに耐えかねて崩れ始めたのである。

 

《わ、わ、わ!》

 

 ねこにゃーの声が通信機のレシーバーに入った。その途端、三式はあらぬ方向へ進んでしまった。否、滑落したと言った方が正しいだろうか。

 谷の斜面を、増水した川に向かって。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「こちら河合。大洗に追いつきました」

 

 雨具姿で砲塔から顔を出し、河合美祐は報告する。八戸社による改良のおかげで、カヴェナンターは車内の暑さも耐え難いレベルではなくなっていた。それでも内部は蒸し風呂状態になっているため、体に当たる雨がむしろ心地よい。

 稜線から砲塔のみを出したハルダウンの体勢で、河合は自車を停止させていた。カヴェナンターの無茶なラジエーター配置は、車高を低くするための工夫だった。平たい形状のカヴェナンターなら敵に見つかりにくい。砲塔には偽装網もかけてある。

 

 双眼鏡をしっかりと構え、敵車両を観察する。相手は全車両が停止していた。それも谷沿いの一本道で。待ち伏せにしては不用心だが、何かあったのだろうか。

 M3リー中戦車、III号突撃砲、ルノーB1bis……隊列に三式中戦車の姿がない。どこかに隠れているのかと訝りながら、双眼鏡で周囲を探す。視界の中で幾つかポイントを定め、それを一箇所ずつ観察していく。以呂波から教わった索敵術だ。

 

「……あっ!?」

 

 双眼鏡のレンズを覗いたまま、河合は叫んだ。谷の斜面半ばに、三式中戦車が滑落しかけた状態で停車していた。雨で地盤が緩んでいたため落ちたのだろうだろう、推察する。川も増水しており、元々それなりの深さがあることを河合は思い出した。競技戦車のカーボンコーティングとて万能ではない。水に入れば浸水することも多い。そして谷の斜面は、三式が自力で登るには傾斜が急だった。

 

 つまりこのままだと、三式中戦車は……河合の心臓が跳ねた。

 だが次の瞬間、もう一つ驚くべき物を見た。停車したM3の周囲に、乗員たちが降車していたのだ。目をこらすと、車体後部の牽引用フックに何かをくくりつけていた。ワイヤーだ。

 

 そのもう片方の端は、澤梓がしっかりと握っていた。河合が双眼鏡でその動きを追うと、彼女は斜面の際に立った。地面が激しく抉れており、三式の滑落した跡と思われた。動きやすいようにツェルトバーンを脱ぎ捨て、斜面の下を見やる。見えているのは恐らく川の流れと、そこへ転落しかかっている味方の車両だ。

 

 やがて梓は意を決したかのように、斜面へと身を躍らせた。アリクイさんチームを救出するために。

 

 

 




お待たせいたしました。
そしてお読みいただきありがとうございます。

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