薄暗かった山の向こうに光が見えはじめ漸く山の終わりが見え始めた頃、ルーリーノの疲労に歪んでいた顔が一瞬安堵を見せる。
何とか山を越えることができたのだと、これから休める場所を探さなければいけないが森を抜けた後もう少しだけなら頑張れる。
ルーリーノは自分にそう言い聞かせていたが、山の出口に差し掛かったところで「待ってください」とニルを静止させる。
ニルとしては早くルーリーノを休ませたかったのか、その気持ちが先走りやや先行していたのだが、引きとめられ怪訝な顔をしてルーリーノに問う。
「どうしたんだ、ルリノ?」
「恐らく……今の魔法を、解かなくてはならない事態に……陥ります」
疲労のためすべてを話している余裕がルーリーノにはなく、それだけしか言葉にできない。
ルーリーノが感じたのはたくさんの羽音。その音から考えられる敵をルーリーノは一種類しか知らない。
街道であったルーリーノが倒れる原因となった鳥。もしも、そうであるなら今使っている風の壁ごときではどうにもできないだろう、と言うのがルーリーノの考え。
最悪の状態、空一面を鳥の亜獣が覆い尽くしているのを想像しながらルーリーノは風の壁を解いて、新しい魔法を放つまで時間が足りるか計算をする。
「なあ、ルリノ」
ルーリーノが息も絶え絶え言った言葉によって、やや焦っていた気持ちを静めることができたニルもルーリーノとほぼ同じ考えに至り、ルーリーノに声をかけた。
それから、ルーリーノがそのことに気がつきニルに意識を向けたところで、彼女が何かを言い出すより早く、ニルは続ける。
「今、魔法を解いたら俺に指示ができるだけの余裕はあるか?」
呼ばれて返事をしようとしていた、ルーリーノは急にそう言われて一瞬考えてしまったが、ニルが状況を察してくれたのだと理解して、こくんと頷く。
ニルはそれを見てさらに続ける。
「それじゃあ、タイミングは任せる。俺は指示を受けたらすぐに行動するから」
それに対してルーリーノはもう一度頷くと、目を閉じて周囲の気配を探る。ルーリーノが張っている壁、その周辺までに生き物がいないことを確認して、ルーリーノは一度魔法を解く。
「始めに言っておきます。今からやろうとしている魔法はニルの身も危険にさらす可能性があります。それほど強力な魔法です」
ルーリーノが神妙な面持ちで話す。「それで、俺はどうしたらいい?」とニルはせかすが、ルーリーノは「その前にもう一つだけきいてください」と真面目な顔をする。
「この魔法を使ったあと、もしかするといつかみたいに私は倒れてしまうかも知れません。その時には、山に入る前に言っていた魔法が杖の二番目の呪文で使えますから、よろしくお願いします」
「わかった」
と、ニルが短く返すと「では、」とルーリーノがニルに指示を出す。
「数秒……できれば十秒ほど敵の注意を惹きつけてください」
ルーリーノは言葉にしながら、それが如何に危険なことであるのかを理解していた。いかにニルであっても、その数により敵の攻撃を避けるだけで精いっぱいだろうし、もしも全方位から同時に攻撃されるような事態になったのであればその全てを避けるのはほぼ不可能に近いだろう。
それに……とルーリーノは考える。ニルが上手く相手の攻撃を避け続けることができても、敵との距離によっては、ルーリーノは自分の魔法でニルに大ダメージを与えてしまう。しかし、そのことをニルに伝えてもニルはやめようとは言わなかった。
「十秒でいいんだな?」
ニルが確認するようにそう尋ねてきたのがきっかけで、ルーリーノが我に帰る。すぐさま「はい」とルーリーノが返したのを確認すると、ニルは「じゃ」と短く言ってルーリーノに背を向けた。
ニルが山を出た瞬間にまず見えたのは猛スピードで向かってくる黒い影。思わず「わっ」と驚きながら身を伏せて避け、よく周りを見る。
今までニル達が歩いて来たところとは違う、岩肌が露出した場所。
前方にそんな岩や砂ばかりの上り坂があり、それは首が疲れるほど見上げても頂上が見えない。植物はほとんどなく、後方とのギャップにニルは少し驚く。
岩はもともと白っぽかったのだろうか、太陽が傾き世界を赤く染めているためオレンジがかって見える。
できれば洞穴のようなところを探したかったニルであるが、空を見上げそんな余裕がないことを確信し、ため息をついた。
ニルの目に映るのは空を黒く染め上げるほどの鳥の群れ。よく見ると、街道でニル達を襲ったものも十数羽混じっている。
その他多種多様の鳥型の亜獣が居る。目が三つあるものや、その翼が地面を抉るほどに硬いもの。翼の生えた鼠みたいなのや、全身が燃えていてむしろ炎が鳥の形を成しているとしか思えないものすらいる。
数にしたら五十羽はくだらない。随分と大変なことを安請け合いしてしまったものだとニルは笑いながらもう一度溜息をつく。
ニルの目的は敵の気を引くこと。先ほどのニルのように姿を見せた瞬間襲ってこられたら恐らく今のルーリーノには避ける手段はないだろう。
ニルは攻撃されるのを覚悟で相手からよく見える位置へと駆け出す。
すると不意に明るく赤かった世界が薄暗くなる。ニルが見上げると、先ほどまではなかったまっ黒な雲が空を覆っていた。ニルは、それがルーリーノ魔法だとすぐに気がついたが、それと同時に、全ての亜鳥たちが自分に向かって襲いかかってくるのが見えた。
ニルは薄らと笑うと小さな声で何かを呟いた。
ニルが姿を消した直後ルーリーノは呪文を唱え始める。
ルーリーノがニルを心配していないと言えばウソとなる。もしかしなくとも死んでしまう可能性だってあるのだから。ただ、その時は少し遅れるだけで自分も同じ道を行くので罪悪感などは薄い。
それに、とルーリーノはいつかニルと絡ませた小指を見る。本来形式だけで何の効果もないはずのユビキリ。でも、今はそれがルーリーノを安心させた。
ルーリーノが呪文を唱え終わるのに一秒ほどだろうか。その頃には徐々に雲が空を覆い黒く染まっていく。雲が空を覆うまでに三秒。そこから準備が整うまでにさらに三秒。
その短いようで長い時間をルーリーノは心を落ち着けて待つ。今、山から出て、敵の戦力を分断するのは得策ではない。敵が一か所に居るのが望ましい。
準備が整い敵を黙視し最後の呪文を唱える。それがルーリーノが為さなければいけないことであり、それを行うだけなら一秒かからないだろう。
準備が整いルーリーノが木の間から飛び出す。後は、敵を確認して呪文を唱えるだけ。
その時にできるだけ一か所に敵が集まってくれていたら良い。ルーリーノはそう思っていた。そして、ルーリーノが望んだとおりに敵は一か所に集まっていた。
「あ……」
ルーリーノが喉の奥からそれだけ洩らすと、がくんと膝を折る。
ルーリーノの目に映ったのは数えきれないほどの鳥に似た亜獣が何かを集団で襲っているところ。
鳥の数があまりにも多いので何を襲っているのかは見えないが、確認するまでもない。
ルーリーノの顔に絶望が張り付く。見開いた目の端からは涙が流れ口からは「あ……あ……」と言葉にもならない声を出す。
頭の片隅では今魔法を発動させれば自分だけは助かるかもしれないと考えてもいた。
それでも、ルーリーノは身体を動かすことができなかった。まともな声を出すことができない。
そんな動けないルーリーノを亜鳥の一羽が見つけ、ニルを襲うのを止めルーリーノの方へと飛び立とうとしていた。しかし、その一羽の足を大群の中から伸びた腕が捕らえる。
「おい、ルリノ。早く落とせ」
それと同時に吼える様な声がルーリーノに届く。ルーリーノはハッとして考えるよりも先に口を開く。
「ファリ・フルーモ」
半ば震えた声でルーリーノがそう言うと、目を開けていられないほどの光が走り、直後轟音が鳴り響く。
魔法で作られた雷。それはニルもろとも亜鳥を貫いた。しかし、すぐに何事もなかったかのように辺りを静寂が包む。
ルーリーノは杖で身体を支え、何とか立っている状態で雷を落とした辺りを見る。
砂煙で見難いが多くの鳥は黒く焦げ、ちゃんと形を保っているものも飛ぶことができないのか地面でぴくりぴくりと死んでいないことを示しているのがやっとだった。
砂煙が晴れてきたところでルーリーノは未だ立ち続けている影を見ることができた。
「まさかとは思ったけど、本当に雷落とすとはな」
その影の主は感心したような声を出してルーリーノの方に近づいてくる。
ルーリーノは目に溜まった涙を振り払うと、歩いてくる人物に悪態をついた。
「なんで生きているんですか」
「まあ、ユウシャだからな」
ニルの姿がはっきりと見え安心したところで、ルーリーノの全身から力が抜けバランスを崩す。それをニルが支える。
「お疲れ」
「疲れました」
ニルとルーリーノが短くそう言葉を交わしあった直後、二人の耳にジャリと砂どうしがぶつかる音が入った。
「だから、止めとけって言ったのに」
少し呆れた、低めの女性の声。思わずニルが声のした方を向くと、この場に似つかわしくない裸足に赤いワンピースを着ただけの女性が黒焦げになっている鳥たちのあたりでしゃがみ込んでいた。
年齢はニルと同じか少し上と言ったところ。背負っている太陽にも負けないほどの赤い髪と赤い目をしていて、しかし見た目には全く脅威に感じられなかったニルは僅かに警戒を解く。
それとは逆にルーリーノは目を見開き、警戒を強める。それと同時にニルの足手まといならないように残った力を使い杖と自分の力だけで立つ。
「ようやく来たね。ユウシャ様」
赤い女性は立ち上がりニルの方を見るとそう口にする。ニルは状況が分からず呆けた顔をしてしまう。
「どうして、こんなところに亜人が居るんですか」
呆けているニルの隣でルーリーノが叫び、それを聞いてニルが驚いた顔をする。
女性は「話には順番ってものが……」と愚痴を言いながらルーリーノを見る。
「と、言うか君はそんなことを聞いてる余裕があるの? 魔力が切れかかっているのか目が紫になってるよ?」
女性がそう言ったので、ニルが反射的にルーリーノの方を見ると確かに青かった目がやや紫がかってきていて、ルーリーノは「見ないでください」と目を隠した。
「まあいいか」
女性がそんなやり取りを見ながら退屈そうにそう言うと、話を始める。
「確かに僕の目は赤いけれど、君たちが言うところの亜人じゃないよ。ついでに言うと人でもなく、動物でも亜獣でもない」
「でも」と女性は言って右腕を軽く振る。すると炎の翼がその腕を覆う。ルーリーノは今一度驚き「まさか、魔法」と声を上げるが、女性はそれを無視して話を続けた。
「元々動物だったことを考えると、人よりも動物や亜獣の方が近いかもしれないね」
言ったあとに女性は腕を戻す。
「それで結局おまえは何者なんだ?」
痺れを切らして、ニルが問う。女性はコロコロと楽しそうに笑い真っ直ぐにニルを見る。
「僕は言うなればユウシャの使いだよ。言っただろう? 『ようやく来たね』って。僕は君を待っていたのさ『今世の』ユウシャ様」
「ようやくって、私達を街道で見つけてからではなかったんですか?」
ルーリーノが驚きの声を上げる。ニルはルーリーノが言った言葉の意味が分からず思わず「それってどういうことだ」と尋ね返す。しかし、ルーリーノが返す前に女性が首を振る。
「確かに街道であの子が君たちを見つけてから少し時間はかかったみたいだけど、そんなのはものの数じゃない。何せ僕は千年近く君を待っていたんだからね」
「千ね……」
女性が軽く言った言葉にニルが絶句する。
「そう、僕は千年ほど前君たちの言うユウシャがマオウを倒した後でユウシャによって作られた存在。だから、僕が使うのは君たちの言う魔法ではなくユウシャの力だよ」
「だから、魔力を使わずに炎を出せたんだよ、お譲ちゃん」と女性が言う。それから、女性はニル達の反応を待たずに続ける。
「さて、お喋りはここまでにしよう。僕に与えられた役目はユウシャが残した遺跡を守ること。そのために後にやってくるユウシャの相手をすること」
その言葉を最後に女性が炎に包まれる。ニルは訳が分からないままに刀を構え、ルーリーノは何か打開策がないかを考える。
しかし、中から炎の翼を持つ怪鳥が現れたと思うと、すさまじい熱風がルーリーノを襲った。
『君は邪魔だから退場していてくれないかい』
そんな声が聞こえる頃には、ルーリーノの喉は熱風により焼け、壁に全身が打ちつけられ口から血を吐いてその意識を失ってし