全面改訂しました。
第1話
クローバー・クルセイドの育ての親のシスターは言った。
『情けが深い人ほど、時々どうしようもない状況にはまって精神的に参ってしまったり、極端な行動を取ることがあるから、そんな知り合いができたら気づいてあげるのよ。』
なるほど、養母自身の経験から来たらしいその言葉に重みがあって、正しかった。
今、クローバーの目の前、無機質な回廊をぐいぐいと前へ進むその人は確かに精神的に参ってしまい、あらゆる意味では危険な状態だ。
名はフォール・ディー。
ミスカトニック大学・化学部院生、クローバーの十才年上の先輩で、ミスカトニック調査隊の一員。
中肉中背の、まっすぐな鼻筋ときりりと意志の強い眉を持つ青年である。髪は赤茶色、目は灰、容姿は…イケメンの部類だが、普段なら取り立て強い印象を他者に与えるような顔ではない。
だがそんなフォール先輩も、今はいろんな意味で目は離せない。今すぐ警察と「黄色い救急車」を呼ばなければならない人種に変わり果ててしまったからだ。
――その目には爛々とした、まっすぐな狂気。
――その口元には殉教者ごとき無我無欲で気高い微笑み。
――その手には大型の自動拳銃。
加えて大声で:
「いいか!クローバー。よく聞くんだ。今はもう僕たちしかいないんだ!だから僕たちであのクソッタレな怪異と戦わなければならない!だが武器は要る、普通な拳銃ではだめだ、マシンガンだってあいつの皮膚を貫けない。おまえの魔術もだめだ、もっと強力なものを要る!」
などと、独り言を撒き散らしながら、目につくドアをひとつ一つ検分していく最中だった。
開けるドアなら、ためらいもせずに踏み込み、部屋の中の物をひっくり返してはあるかもしれない武器を探す。一通り家探しすると乱れた現場をそのままにして、次の部屋のドアノブへ手を伸ばす。開けないドアなら拳銃で錠前を壊してまで中に入ろうとする。
まさしく傍若無人だ。
「先輩っ!だめです!罠かもしれないじゃないんですか!!」
そんなフォールの無軌道ぶりに対して、クローバーは必死な声をあげて警告を発した、何回も。だがそんな悲痛な叫びも、今のフォールの耳には届かない。
フォールの行為は非常に危険だ。どんなトラップを発動させても、どんなモノを目覚めさせてもおかしくはない。ドアが開放する度、クローバーは心臓が口から飛び出すほどの緊張感を強いられた。
本当は取りすがってもいったんフォールを押さえこんで冷静さを取り戻させたかった。しかし十四歳の中学女子と二十四歳の院生の男性じゃ体格も体力も違いすぎた、加えて今のフォールはなんとかに刃物ならぬ、なんとかに大型拳銃だ。
「・・・「第四の結印はエルダーサイン、不浄と脅威を遠ざけるものなり」・・・!」
クローバーのできることといえば、フォールの後ろについて、開けっ放しのドアを締め直す上に、ドアにエルダーサインを刻み、祝言を捧げて封印を施すことだった。
これで万が一、検分済みの部屋の不浄な角度から犬に似た何かが召還されたり、冒涜的な生物実験の果て産まれた奇形かつ凶暴なクリーチャーが急に目覚めたりしたとしても、少なくともそのドア一枚はその怪異の足止めになってくれるはずだ。ただ、この建物はどういう訳か床も壁も急に消失できる仕様になっているから、クローバーの行動は本当は気休めにすぎないが。
クローバーもフォールも、ミスカトニック大学の所属の探索者で、さらにクローバーは見習いながら魔術師でもある。
しかし、この場所において二人は無力だ。
イブン・ガズイ入りの銃弾を物ともしない皮膚を持ち、かつ成人男性を一瞬でペチャンコにできる巨体を誇る怪異の幼生が上の階で我が物顔に徘徊しているし、すべての壁と床は悪意に満ちた人工AIによって制御されている。まるで巨大な化け物の腹の中だ。
それもそのはず。
かつてはここは、その名を聞けば泣く子も黙る所か引き攣りを起こす、凶悪犯罪魔術結社ブラックロッジ」が所有する生物研究施設だったのだ。
ブラックロッジの滅亡時に散逸した財産目録とともにここも闇に葬られ、そのまま歴史の闇に埋没されたはずだったこの場所だが、しかし最近になって判明されたとある驚愕な情報から、この研究所は再び注目されることになった。
時は20世紀。
アーカム・シティ、いや世界は大嵐の前の喧噪に翻弄されていた。
十数年前、アーカム・シティを一時的に混乱の渦に貶めた魔術結社ブラックロッジは外なる神の召喚を敢行するも、水際で阻止されて滅亡した。召還されたヨグ=ソトースも地球から退けられた。
だがしかし、邪神を退けた人類の希望「デモンベイン」は搭乗者ごと、ブラックロッジの大導師「マスターテリオン」を追ってヨグ=ソトースの門へ飛び込んだまま、ついぞ帰還しなかった。
あれから、二十年ほど、時が過ぎ去っていた。
今は、その日滅んだ悪の代わりに、混沌が全世界に蔓延していた。
一時でもクトゥルフが復活し、ヨグ=ソトースまで召喚された影響によるものなのか、ブラックロッジ滅亡からしばらくして、各地で邪神眷属や異世界的な怪生物が姿を現すようになった。
加えてルルイエの浮上による感染で、正常の人類の中からも「邪神の庶子」と呼ばれる遺伝子突然変異者や、邪気に頭をやられた邪神崇拝者が続出した。それに呼応するかのように、怪しげな新宗教は盛んで流行り、今日もどこかの暗がりで異界的な恐怖が徘徊し、邪神に魂を捧げた狂信者は生け贄を求めては悪さを企む。
今日明日にでも世界は滅亡してしまうのかもしれない、という絶望と恐怖は確かに邪神浮上を経験した人類の共通認識になっていた。その中であえて身の安全と安心を求めて強大な悪に魂を売り渡すのも、一つの選択かもしれない。
しかし、末世的な空気に反発する人々もまた大勢に居る。
クローバーとフォールが所属するミスカトニック大学は、その中の一つにして、その最先端だ。今回のブラックロッジが保有していたこの施設への調査も、ミスカトニック大の学校関係者とスポンサーの覇道財団によるものであった。
別件で身柄を覇道に押さえられた黒魔術師はかつてブラックロッジの関係者で、その家宅捜査からあるとてつもない情報が手に入ってしまった。
すでに正気とはほど遠い状態のあの黒魔術師の誇大妄想ならいいが、万が一本当だったら一大事だ。
すぐさま、ミスカトニック大と民間の有志からの70名の探索者による調査隊が組織された。名高き賢者シュリュズベリィは今回たまに別件で不在(地球にすらいないとか)だったが、ミスカトニック大陰秘学部はほぼ総出し、別の学部からも多くの若者が参加した。
すでに廃棄され久しいが、かのブラックロッジの所有物であっただけで、調査隊は最大警戒をもって、事前調査を重ね情報を多く把握した上、かなり慎重な姿勢で調査を進めていた。
しかし、運命(ダイス)を振るうのは、今回も邪神らしかった。
調査隊は研究所セキュリティシステムを予め破壊した上、いざという時撤退が容易と思われる、入口も通路も広い物資搬入用ゲートからの侵入を試みた。しかし、「慎重にことを進めば安全に調査できる」、そう思うこと自体が間違いだった。研究所の建設者は悪魔のごとく狡猾さもって、その心理利用してある罠を張ったのだ。
調査隊は先遣として、ひとまず25名を送り込むことにした。
その判断は正しかったであり、間違いでもあった。
第一調査中隊の25名がゲートに入ると、なんの前兆もなく、破壊したはずのセキュリティの代わりに、もう一つのセキュリティシステムが起動した。
セキュリティシステムは2重あった。
最初に容易に破壊されたものは、本当のセキュリティシステムを起動させるダミーだった。
起動された本物のセキュリティは、すぐさまシャッターと通路のパージをもって研究所内部を迷宮化し、調査部隊を分断した。
先行進入した25名は、そのまま中へ取り残されてしまった。
中にはクローバーとフォールの小隊も居た。クローバーはまだ14歳だが、魔術師として素養を認められ、今回の調査に参加した。クローバーのような魔術師は今も数が少なく、ミスカトニック大の参加者の大半は短期訓練を受けただけの一般学部学生だった。
混乱の中、クローバーがいた調査小隊は不幸なことに、通路を足下でパージされて落下した。小隊メンバーはクローバーを含めて6名居たが、落下した時打ち所が悪かった建築学科の先輩は、医学部の先輩の懸命の処置も空しく、再び目を覚めることはなかった。
悲しみにうちしかれながら本隊と合流すべく、残りの仲間たちで脱出を試みたが、さらなる悲劇が小隊を襲った。壁を破って、芋虫にも似た怪異が巨体を至近距離に現れ、小隊を襲ったのだ。
「・・・っ、ドールの幼体ですっ!逃げてくださいっ!!!」
この中で、見習いながら魔術師であるクローバーだけが怪異への知識があり、すぐさまその芋虫は異星で猛威を振るう怪異の仔だと気づいたので、警告の声を発した。
だがしかし遅かった。
巨体に似合わぬ俊敏さで芋虫は突進し、瞬く間に医学部の先輩を押しつぶした。
それを見た小隊の隊長であり、秘密図書館の守備出身のロブ・キーンさんはマシンガンを乱射しながら
「フォール・ディー!嬢ちゃんを連れて逃げろっ!」
と、怒号した。これがフォールとクローバーが聞いたキーンの最後の声となった。
フォールはその長身を生かしてクローバーを小脇に抱えこむと、わき目もふらずに逃げ出した。その後ろに、キーンの絶叫と、ぐちゃり、という音が聞こえてきた。
逃げ回る中、段階を踏み外したフォールとクローバーは下の階へ転がり落ちた。
そして意識を取り戻した時から、フォールの様子はおかしくなっていた。
この調査行動の前に、宇宙的な恐怖から精神を守るため、調査隊のメンバーはみんな特別支給された精神安定剤は事前に口にした。だが、宇宙的な恐怖の狂気よりも無力感と罪悪感がフォールの心をすりつぶしたらしかった。
クローバーは覇道から通信端末を支給されていた。しかしその端末も通路パージ以来沈黙してしまって今だに回復の兆候もない。字祷子波を使用して、電波妨害をものともしない最新型すら、この場所ではこの有様だ。
外界への連絡手段はない、怪異は徘徊し、研究所内部は迷宮だ。頼りの仲間たちはほぼ全滅して、唯一の同行者は発狂している。
「……でも、絶対、最後まで諦めない。」
クローバーは覚悟した。
今ははぐれているが、今この場所には血のつながらない兄もいっしょに来ている。きっと兄もどこかで戦っているはずだ。だから自分も生き残る、生き残らせるために最後まで足掻くのだ。
――悲壮な覚悟もって過去の悪意と戦うものは、クローバーひとりではない。
――覇道財団所有、地下基地司令室。
「状況は?」
司令の椅子に座るその女性は、憔悴した表情を努めて隠しながら女王の威厳をもって下問した。
年は三十代前半、元々若く見える東洋の血のなす技か、成熟した女性の円熟した隙のない雰囲気を持ちながらもどこかに少女めいた可憐さを秘めている。
だが今は顔色が悪い。
ーー覇道瑠璃。
祖父より継承した財団を守り、アーカム・シティを長年邪悪の手から防衛してきた覇道の女王である。
その背後には、覇道の忠臣ウィーンフィールドが控えている。瑠璃の夫のでもあるが今はプライベートではない。
「・・・セキュリティの作動によって分断された調査本隊ですが、25名中、17名は自力で脱出またはチームメイトによって救出され合流できました、残り8名の消息は・・・依然不明です。」
メイド姿をしたオペレータの一人が報告した。別のメイドオペレーターは情報を補充する。
「調査隊の責任者フェラン博士は脱出に成功、情報処理担当者がセキュリティシステムの掌握を成功した次第、再突入とのことです。」
「・・・・・・そうですか、字祷子通信はまだ復旧されていませんか?」
「はい、おそらく施設のセキュリティによる魔術妨害と思われます、そちらはミスカトニック大博物館のテトロウ学芸員が再突入に同行し、中で原因特定、解除を試みる手はずです。」
「・・・テトロウ氏が居れば百人力です。」
瑠璃はうなずいた。
博物館の守護者ルーカス・テトロウといえば秘密図書館の番人アーミティッジ博士と並ぶ、ミスカトニック大のもうひとり一人秘密の番人だ。またの名は沈黙のマギウス、二つ名から察するに、魔術師である。
「…これだけセキュリティが厳重でしたら、やはりあの情報はビンゴということでしょうね。」
瑠璃は振り向くもせずウィーンフィールドに話かけた。
「はい、通常セキュリティシステムをダミーに、魔術的な存在によるとおぼしき二重セキュリティ。そこまでして、この研究所が守っているものーーおそらくあの情報の通りかと。」
オペレーターたちに聞かれても障りがないように、すべて心得たウィンフィールドは主語抜きで主にして妻の言葉に答えた。
憂いの帯びた瑠璃の眼差しは、調査隊の情報をリアルタイムで映し出す中央モニターへ注がれる。しかし心はここにあらず。
(ーーやはり情報通りに、あの研究所に居るのですか。ブラックロッジの一部の幹部が秘密裏に産みだし、その直後に封印したというーーかの大なる獣、大導師マスターテリオンのクローンが。)
マスターテリオンのクローンの捜索、これが今回の調査の真の目的だ。
強大な力と絶大なカリスマでブラックロッジを支配していた魔人、マスターテリオン。
外なる神ヨグ=ソトースの落とし子。異母兄弟たちにかのウェイトリィ兄弟がおり、あの兄弟の異形ぶりから想像もできない絶世な美青年の外見をしていながら、あの兄弟が足元にも及ばない神性と魔力を持つ世界の怨敵。
あの存在の遺伝子複製体(クローン)が居る、という情報を記入された書類が狂人の魔術師の住宅の床下から発見された時、瑠璃は血の気を引く思いをした。
クローンも本人と同様に強大で邪悪とは限らないが、クローンと言えるぐらいなら、少なくとも遺伝子上、あの最悪の存在と同じた。
つまり邪神の因子をその身に受け継いでいる、ということだ。
だから瑠璃は急遽、ミスカトニック大と連絡して共同調査隊を組織し、クローンの行方を探した。
だがしかし、今の瑠璃は思えて仕方がない。
「・・・・・・ウィーンフィールド、私は今度間違ったのでしょうか」
ウィーンフィールドにしか聞こえない小声で、瑠璃はつい弱音を吐いてしまった。
「多くの貴重な若き人材を喪失させるかもしれない上、もしかしたら私、自分の手でパンドラの箱を・・・」
今思えば、この行動自体は焦りすぎた故の失敗かもしれない。
十数年も無事封印され眠らせていたクローンが、この行動によって起こされたらどうなるか・・・
「ーーマダム、そうだとしても、今は。」
ウィーンフィールドは柔らかく瑠璃を窘めた。瑠璃ははっとする。戦闘中司令が弱音を吐いてはならないことだ。
「・・・ごめんなさい、そうですわね。今はは私たちができる最善を尽くして、そして突入組の皆さんを信じましょう。」
その時、オペレーターが声を張り上げて新しい情報を報告した。
「ーー追加情報っ!ジョージ君のゴリアテ・ゼロワン、電送の準備整えましたっ!」
ジョージ・クルセイド、ウィーンフィールドの弟子にして万能自走魔導機関を駆る若き戦士。今回の行動中に義妹クローバーを中に取り残された彼は、自分の持ちうる最大の切り札の使用を要請した。
「分かりましたっ!すぐ発進させてくださいーーひとまず、そのパワーを活かして救助隊の進路確保をさせてください。」
初手には痛手をもらったが、こうして着々と反撃の準備も整えていた。人々はそれぞれ自分の使命を全うべく持ち場で戦っているのだ。
(ーーどうか、こんな私たちの道を照らしてください。大十字さんっ)
瑠璃は胸の中で、今はいない魔を断つ剣にそっと祈りを捧げた。
「クソったれっーーしっつこいなっ!なんで邪魔すんだよ!俺はかわいい妹に悪い虫が付いてしまう前に迎えに行ってやらなきゃいけないだってのに!!」
ゴリアテの無限軌道を巧みに操り、敵の攻撃を交わしながら、ジョージは吐き捨てた。
ようやく突破口ができたというから、切り札を召還して突入したら、妹よりも怪異の方が先に出迎えてきやがった。
怪異は総じてそうだが、こいつもまた見た目が大変よろしくない。
腕は六本もある上、うち4本は二本の肘から分裂した形になっているという異世界的な造形。さらに口は縦で、顔より口の方が大きく、その口のせいで、チュッリープの花房のような頭は中央から縦に裂いている。
夢幻境にいる巨大な食人種の怪異、カグである。
カグは身長がゴリアテよりも頭1個高く、やたらと頑丈でなかなか沈めない、しかも人間とほぼ同じ動きできるので、非常にやりにくい。
ゴリアテとカグは、あれこれして小一時間対峙していた、まるで千日戦争だ。
「ええーっ!これでもくらいな!>
《ATTACK CARD!POWER FIST!!》
魔力を帯びた鉄拳を左右交互に雨あられとガクに浴びせる。
だが大半は4本腕によって防がれてしまった、肘から途中分裂のくせに、その器用さは意味不明だ。
こうなったら隙を作って突入するほうがまた簡単かも知れないが、こんなものを入り口近くに残していくのも非常に気が引ける。
ジョージは外部音声をオンにした。
《フェランさん!ごめん!一緒に突入するのは無理だ、俺はこいつを押さえておくから、先行してください!万が一変なのが出たら無理に進まずに連絡して!》
そういうと、ジョージは器用に無限軌道使いこなしたフェイントをかまして、自分とカグの位置を入れ替えさせ、ゴリアテをカグと、フェランが率いる救出部隊の開いたに割り込ませた。
ゴリアテによる牽制と、万が一にもカグの興味が調査部隊に行かないための処置だ。
冷静に突入のチャンスを伺っていたフェランはジョージの言葉を聞くと、手を振って合図をし、そのまま救助部隊を率いて突入し始めた。
味方のゴリアテが配慮してくれているとは言え、頭上で鉄の巨人と巨大な怪異がボックシングバトルをしている状況の中で、よく突入する気になってくれたものだ、さすがあのシュリュズベリィ博士の愛弟子でこの道20年のベテランだけある。
ゴリアテは、カグを牽制するためにさらに拳を振るった。
一方、ジョージの妹は、危機的な状況に瀕していた。
武器はない、さらに言うと、仲間もいない。
そんな彼女の目の前はぴくんぴくんと蠢く黒いタールの塊。明らかに宇宙的な悪意を持つソレは今、旧き印といくつかの目隠し魔術の応用より、クローバーの姿を見えなくされているが、魔術が切れた瞬間にでも襲いかかってくるだろう
クローバーはタールの塊から目を逸らさずに、ゆっくりと、階段を降り始めた。降りれば降りるほど脱出から遠ざかるのは自明の理だが、上へ行く手段はエレベータしかなかった。狭いエレベータの中で怪異と乗り合わせるのはさすがにまずいのだ。
事の起こりは、やはりフォールの無軌道な探索ぶりだった。いずれ起こりうることがあの時に起きた、それだけだった。
とある部屋の強引に侵入した時だった。その部屋にはトラップが仕掛けてあった。本棚を漁った時、一枚の紙が本の間に挟まれてあり、本を取り出した時に床へ舞い降りた。
――その紙に複雑かつ冒涜的な図案が書かれていることに気づいたクローバーは、第六感が動いて、強引にフォールを部屋から連れ出した。
その直後に、紙は光り、一体の怪異が召喚されてしまった。
紙に書かれたのは「ナコトの五角形」と呼ばれる文様だった。時間と空間に関するその魔術紋様、召喚陣の代わりにされたようだ。
それに気づいて警戒できたのは、ひとえクローバーはどういう訳か、ナコト写本系の魔術と相性がよかったからだ。ネクロノミコン系、セエラノ断章系の魔術師が多いミスカトニックには本当に珍しい才能だった。
あれからは、大騒ぎの逃走劇だった。
怪異に気づいたフォールは勇敢にも拳銃もって怪異に挑戦したが、不定形な怪異は打ち込まれた銃弾を物ともしないところか、イブン・ガズイ入りの銃弾を美味しそうにモグモグし始める始末だったから、仕方なく二人は急いで撤退した。
しかし銃弾では物足りなかったらしく、怪異はせっかくネギしょってやってきた獲物をしつこく追い始めた。足は遅いものの、その怪異は分子の構造を変えて壁抜きしたりと、どこからも現れることができた。
最終的にフォールの機転で天井の消火剤噴射装置を誤作動させて一時足止めできたが、エレベータの間にたどり着いた時まだ追いつかれてしまった。
「クローバー、ぼくはこいつの足止めをする、お前だけでもエレベータ乗って上に行け!」
とフォールはエレベータの呼び出すポタン押してクローバーに言ったが、どう見てもそれは無理があった。だからクローバーはエレベーターが降りて来た隙に、渾身のタクルでフォールをエレベーターの中へ突き飛ばし、一枚の魔道書のページを放り込んでからエレベータからまた飛び降りた。
そのページに書かれたのはクローバーが練習用に組み上げた魔術で、大量の布団を呼び出すだけの無害な魔術だが、半ダース分の布団に押しつぶされてフォールは身動きできなくなり、そのままエレベータに上の階へ運ばれて行った。運がよければ、無事に救助部隊と合流できるであろう。
残ったクローバーは、怪異を引き付くべく、命懸けな鬼ごっこを再開して、今に至った。
まどろみの中で、「彼」は親と一緒に居た。
いずれの時空にも属しない星間宇宙で「彼」は父と母と一緒に漂っていた。
あの時彼は、まだ人の形はなく、父の血と、母の知に寄生しながら存在している小さな小さな情報生命体、人と邪神と書の仔。禁断な書物の幼生だった。
懐かしいその夢は、突如と途切れて、喧騒で「彼」を覚ました。
自意識が回復した途端、夢の記憶は彼の脳内から消し去った。
今の彼は、ただある存在のクローンで、禁断の知識を身に収めた生きた書だ。存在しない時空での出来事は、やはり存在しなかったにされた。
彼を呼び覚ましたのは、直接的な身体の危険だった。
「彼の身体」を封印した魔術師は正しく魔術師らしい狂人で、奪われるぐらいなら消し去ってしまえという思考の持ち主らしく、研究施設のセキュリティが破れた途端、事前仕込まれた錬金プログラムが作動し、彼を包んだ人工羊水を超強酸へと変えようとした。
だが、その企みは成功しなかった。
彼の肉体は外宇宙の邪神の血を引く大導師と同質なものであり、そして彼の魂魄は情報生命体であった。
強酸ぐらいで彼の身体をすぐ溶かすことはできない、それところか数秒間なら火傷すらしない。その間に彼は自身の情報を研究所のシステムに潜ませて暗殺用錬金プログラムを消去して当面の危機を回避した。
だが、自身の封印は相当強固らしく、システム掌握ぐらいで封印を解くことはできなった。
どうしたものかな?
彼は内心小首をかしげながら、研究所の内部の情報をそれとなく見ていた。
ブラックロッジはとうの昔壊滅して、この研究所はかなり長い間無人だった。
しかし、最近となってから、どういう訳か、人間勢力はこの研究所の存在に気づき、多くの人間が侵入してきた。
しかし「彼」を封印したこの研究所のセキュリティシステムは狂気じみたものがあり、ダミーなセキュリティで侵入者に罠を羽目、多くの怪異を内部に召喚して侵入者を撃退しようとする最中だった。
それらすべて、「彼」を守るためではない。
「彼」を奪われないがためだ。
ゆえに、現状は彼にとっても危険なのは変わらない、研究所は彼を殺せないと分かれば、また別の手段をとってくるはずだ。
どうしたものかな、と彼は思案した。ブラックロッジにはなんの思い入れもない、今は生き延びることが先決だった。
その黒髪の少女を見かけたのは、監視カメラの情報を漁っている最中だった。
最初にその少女をマークしたのは、とある部屋でナコトの五角形が発動されたと感知したからだ。怪異を召喚し、侵入者を排除するトラップだった。
その場に二人の侵入者が居たが、中にひとり相当勘が鋭かったらしく、怪異が召喚される前にすでに部屋から退去して全力疾走し始めた。
次にその少女に気づいたのは、エレベータの間だった。その少女もナコト五角形を応用した魔法を使用したので、彼はすぐエレベータの映像を自分の視覚に流し込んだ。
すると、なぜか大量の布団に埋もれてもがく男性の姿が映り、彼は目を白黒とさせた。
そうしているうちに、地下3階――彼が眠る層のカメラが初めて、その少女の姿を捉えることができた。
顔までわからないが、とても若く、細い身体をしている。黒い髪を頭の後ろに一つ束ねて、動きやすい服装をまとっている、活発そうな娘だった。
黒い髪は彼の琴線に触れた。平凡そうなのに怪異相手に必死に足掻く所も気に入った。止めに、なんとナコト写本系の魔術が使えるじゃないか。ナコト系の魔術が使えることは、彼とも相性がいいはずだ。なにせ彼は原典(はは)直系の写本(こ)なのだから。
――その娘がほしい。
と彼はすぐに思った。
あとかき:
フォール先輩は一気に不定な狂気・迷走に陥ってしまいました。
ドール幼体+友人の惨たらしい死に様のダブルコンボで。
きっとインテリらしくアイデアが高くて初期SAN値低かったんだろう、先輩ぇ…