インフィニット・ストラトス Homunculus《完結》 作:ひわたり
助けてと願った。
暗闇の中で1人助けてと願った。
手を伸ばす。
届かないと思った手は、誰かが握ってくれた。
優しく大きく力強い手。
その手を私は昔から知っていた。
温かいその手を、握り締めた。
意識が浮上する。
ここは何処だろうと、ぼんやりする頭で考える。何があったのか曖昧だ。ただ、非常に暗く、重い何かにのしかかられたことだけ覚えている。
そして、光と温かい手の感触。
碌に思考が定まらないヒカリの耳に声が聞こえた。何処か遠くの様に聞こえるそれは、焦りと悲痛に満ちていた。
「バイタルが安定しません!」
「また出血してきたぞ!」
「道具がまたイカれたか!本当に悉く効かないな!」
「すぐ変えろ!これ以上の出血は本気で危ないぞ!」
「分かってます!」
「兎に角、血液だけを拾い集めて循環させて!普通の血液は排除される!」
「傷はどうですか!?」
「既に肉体の修復が始まっている!手を出せば邪魔にしかならない!」
「本当に異常だな……!細胞は全部生きてるぞ!」
「心肺が微弱です!」
「心臓だけは決して止めるな!電気ショックなんて効く体じゃないぞ!」
「無茶苦茶言いますね!」
「コイツが無茶苦茶だからな!」
薄暗い視界の向こうで、大人達が誰かを囲んでいる。透明の壁の向こう、機械の台に乗せられた人を見た。
「おと、さ…ん……」
掠れる声で呼ぶ。
そこに横たわる、父親を見た。
血を失い、白い肌を蒼白にした白がそこにいた。
「…………あ、あ」
…………ああ、全て、思い出した。
今日の出来事が写真を見るかの様に、断続的に思い出される。
クッキーを作って。それを届けて。御守りを買って。土砂崩れに巻き込まれて。
そして、お父さんに助けられた。
「お父さん……!」
ヒカリは手を伸ばす。
弱り切って震える手は届かない。
届かない。
「ヒカリ」
そっと、その手を誰かが握ってくれた。
「……お母さん」
振り向いた先にラウラがいた。ヒカリのすぐ側にいたラウラ。ヒカリの視界の中で、赤と金の瞳を潤ませながら、安心させる様に優しく微笑んでいた。
「お父さんなら、大丈夫だ」
それはヒカリを安心させる為の方便か。それとも本気でそう思っているのか。
或いは、自分に言い聞かせているのか。
「……まだです、お母さん」
ヒカリはラウラの顔を真っ直ぐ見る。弱った身体と表情。それでも、その眼だけは力強く輝いていた。
「お父さんには、あの人には、まだ足りないんです」
何が、とはラウラは聞き返さなかった。
そうかと頷いて、小さな体でヒカリを抱き上げる。
透明の壁の境目まで歩み寄り、白に少しだけ近付いた。目を瞑る彼は、まるで寝ている様に綺麗だった。
「お父さん」
ヒカリは白に呼び掛けた。
ヒカリは思い出す。
白に助けられた瞬間を。自らの肉体を使い、自分を生かそうとする父親を。白はヒカリを生かす為に死んでも良いと言った。その言葉通り、白は自らを犠牲にしてヒカリを生かし、そして死に掛けている。
「お父さん」
かつてラウラは言った。
これでは足りないと。
白に対する愛は、これでは足りないのだと。
白が生きるには、これでは足りないのだ。
「死なないでください」
白には死ねない理由がある。
それはラウラの為だ。死ねばラウラが悲しみに生きて行く。死ねば、ラウラが後を追ってくる。だから死ねない。ラウラを愛し、愛されるが故に死ねない。
白に自己愛は存在しない。そして、ずっと何もなく生きてきた。白はラウラの愛のみで生きていた。空っぽの体には、ラウラしかいなかった。
だが、ヒカリが生まれ、ラウラは一人ではなくなった。彼女を支えられる存在が出来た。
それ故に、白の生死のバランスは非常に曖昧になっていた。
元より生死を気にしない質だ。自分の命を天秤に掛けると、それは非常に軽いものとなる。家族の命を助ける為に身を投げ出すのは、きっと多くの人も選択することだ。白にはその方法も、選択もあった。
問題なのは、白が自分を助けないこと。
「お父さん」
ラウラだけの愛では、白本人の命の天秤を重くすることは出来なくなっていた。
「大好きです」
だから、その天秤を重くする為に。
白が生きる為に。
その生を縛り付ける鎖のように、枷を与える。
「愛しています」
この想いも決して偽りではないのだから。
本物だからこそ、意味がある。
「だから、生きてください」
この愛を受け取って、生きて。
「お父さん……」
目から涙が零れ落ちる。
生きている感謝より、死んでしまう可能性の嘆きより、ただ生きて欲しいと願う心を。
「…………」
そして、その想いは
「……ああ」
白に、届いた。
暗闇の中にいた。
過去に何度も味わった光景。
この世界に落ちる時も、深海で眠った時も、同じ感覚を経験してきた。
この闇に沈めば死ぬのだろう。呑まれてしまえば、全て終わるのだろう。
俺はそれでも構わなかった。
俺だけなら、それで良かった。
でも、俺の体を光の糸が掴もうと伸びている。
髪の毛のように細く、頼りなく儚い糸。
それは俺が生きる理由には不十分で。
死ぬ理由にはならなくて。
そして、死ねない理由には、相応しかった。
「……死ねない」
……俺は生きるから。
だから、そんな泣きそうな顔をするな。
「……っ」
ヒカリの想いは、その愛は。
白の生死の天秤を、少しだけ傾けた。
「白さん!?」
白が身体を起こす。
周りにいた青年、マドカ、クロエが驚きに目を見開いた。それに構わず、白は自ら呼吸器を取る。
「……クロエ」
白が目を開き、怪我のない手を突き出した。
「大量の手術糸と、大量の針を用意しろ」
「……はいっ」
考える時間はない。白に言われた通り、トレーにありったけの糸と針の山を作った。
白は徐に糸を針に通すと、傷のある箇所へ全力で刺し込んだ。神化人間の肉体を無理矢理貫いた針は出た先で粉々に砕けた。白は次の針を掴み、同じ動作を繰り返す。
傷口は広い。
肉を縫い付けるのでは無く、糸で無理矢理蓋をしているのだ。隙間無く糸を縫い付け、何度も何度も重ねていく。血を溢れださない程に厳重に、隙間無く。針だった鉄屑が大量に落ちていった。
「……傷口の脆い組織を狙って、針を通しているのか」
「そこを狙わなければ、俺の力でも肉体に針は通せない。先に砕ける」
青年の分析に、白は冷静に答えた。死に掛けとは思えない発言に少しだけ脱力する。
そして、僅か数分で脇腹の傷と腕の傷は糸で埋まった。
溢れ出ていた血も完全に止まっている。
「白くん、内臓の方はどうする」
青年の問い掛けに、白は淡々と答えた。
「放っておけ。手術も出来まい。それに、どうせこの傷を含め、一週間を経たずとも回復する」
「……分かったよ」
緊急手術は、前代未聞の患者本人の手で終わりを告げた。
「これを一週間て、本気ですか?」
クロエは顔を引き攣らせた。マドカは呆れながらも白に言う。
「血液の補充は必要だぞ」
「ああ、そうだな。まさか俺が食事を必要とする時が来るとは思わなかったな」
「……そもそも、お前が本当に食事から血を作ってるかも怪しいんだが」
「まあ、食えば多分作られるだろう。だけど……」
透明の壁の向こう。
泣きそうな、嬉しそうな、涙でぐしゃぐしゃになったヒカリに手を挙げた。
「俺はラウラの飯しか食わんぞ」
笑う白は、確かに生きていた。
一夏と千冬は白が通った後の後始末に奔走していた。土砂の不自然さもそうだが、大量の血痕が残っている。束が指示を出し、それに従って行動していた。
「あたしも手伝う」
百花の進言を断る人間はいなかった。百花はISは束から借りたとだけ伝え、一夏も千冬も深くまで突っ込まなかった。
作業の途中でヒカリも白も無事だとの報告が入り、一同は安心した。一夏はあからさまに力を抜かし、千冬は小さく息を吐く。百花は、黙ったまま俯くだけだった。
後処理を終えた後、百花は束の元を訪れた。
いつも通り椅子に座ってパソコンに向かい合ってる彼女に近付く。
「束さん」
「んー?」
白とヒカリが死に掛けたというのに、束はいつも通りだった。或いはポーズなのだろうか。どちらにせよ、平然としていることに変わりはない。
「これを、お返しします」
百花はISを差し出した。
「いらないのかい?」
束は横目で百花を見る。
「空を飛ぶのは、楽しくなかった?」
……その質問はズルい。
質問に答えるだけなら、答えは決まっている。
「楽しかったです。……とても」
そう、とても。とても楽しかった。
でも、それだけでは駄目なのだ。
「でも、これは力です」
人を圧倒する力を持ち、人を救える力を持つ。
しかし、そのどちらも百花には出来なかった。
覚悟も、想いも、心も、何もかも足りない。
何もかも不足している。
「私は今、コレに縋るわけにはいきません」
今これに頼ってしまったら永遠に届かない。
あの背中に届く事は出来ない。
「ああ、君も彼に感化されちゃったのか」
やれやれと束は肩を竦めた。あっさりとISを受け取ると、指でくるくると回しながら言う。
「言っておくけど、モモちゃんは彼に追いつけないよ?」
それが当然であるように、束は無慈悲に断言した。
マドカが青年を追い掛けているように、クロエが束を追い掛けているように、白に追いつこうと足掻く者もいる。
だがそれは、そこには絶対的な差が存在する。
才能然り。肉体然り。頭脳然り。
努力など焼け石に水。
生まれついて得た物を覆す術などない。
「そうでしょうね」
百花自身、そんなこと分かり切っている。心の底から分かっている。そんなことは、遥か昔から悟っていた。
「それでも?」
「はい」
それで諦めてしまえば、本当に何もかも失ってしまうから。
「分かったよ」
束は回すのを止め、手でISを握った。
「でも、私はこれから何度でも問うよ」
その心がいつの日か定まるまで。
束は静かな笑みを浮かべて、百花の背中を見守った。
白は眠っていた。
体力は温存しておくべきだと言われた為だ。その意見に反論があるわけもなく、地下施設のベッドで眠っていた。ヒカリも同じ部屋のベッドで寝ている。
夜中、白は目を覚ました。
どんな仕組みかは知らないが、部屋には窓があり、月明かりが届いている。地下とは思えぬ空間の中、隣のベッドからヒカリの静かな寝息が聴こえてくる。
「…………」
そして、怪我を負った手から、暖かな温もりを感じた。
上半身を起こす。
視界の中にラウラが入ってきた。
ベッドの隣に椅子で腰掛けて、体を白の方へうつ伏せに倒している。長い髪が少しだけバラけて、白いベッドに銀色の絨毯を広げていた。
ラウラの手は白の手を握り、離さない。
「……ラウラ」
白が彼女の名を呼ぶ。
反応はない。
「ラウラ」
囁くような優しい声色に、ラウラは顔だけ少し動かした。金色の瞳だけが覗いて、白を見つめる。
「……怒っているのか?」
愚問かとも思える問いに、しかし、ラウラは首を振って答えた。
「なら…………」
白は昔の感情を思い出す。
IS学園に来た日。
似たような月明かりの日に、ラウラと向かいあった。
……あの時、俺は。
「怖かったのか?」
失うことの恐怖。
大切な人を失ってしまう、その壊れそうな心。
「…………」
ラウラは顔を横に向けた。
ラウラの顔が見える。髪が少しだけ顔に掛かっているが、それを気にする様子もない。ただジッと、静かに白を見ていた。
綺麗な瞳に、白はまるで責められているような気持ちになり、事実責められているのかもしれなかった。
いつまでそうしていたのだろうか。
長い時間が経った気もするし、数分だけの気もする。
白とラウラは、ずっとお互いに見つめ合っていた。
「……白」
ラウラの小さな口が言葉を紡ぐ。
「……きっと、お前は正しい事をしたんだ」
「…………」
「白のお陰でヒカリは生きていた。白も、生き残れた。結果論だったとしても、どちらも死なずに済んだんだ」
ヒカリも生きていて。
白も生きていて。
死に掛けた2人が生きている。
それ以上はなくて。
だから、きっと、これは幸せな事で。
だから、ラウラは笑おうとして。
「……でも」
「ラウラ」
「でもさ、白」
ラウラは身を起こす。
その声は震えていた。
「やっぱり、私は駄目だよ……」
水滴がラウラの頰に筋を作り、ポタリと重なった手に落ちる。
「白が居ないと、嫌だ……」
無理矢理笑おうとして、失敗して。
「嫌だよ」
静かに涙を流して。
「白……」
ラウラは、笑顔でいられなかった。
「私を置いて行かないで……」
白はラウラを抱き締めた。
声を上げず、泣き続けるラウラを力強く抱き締める。服に染み込む彼女の涙は何よりも冷たかった。
「ごめん……」
……ああ、きっと、俺は間違った事をしたんだ。
だから、誰かが危険な目にあっても、自分の命を賭ける真似はしないと誓う。
「ごめん」
それでも、白は白でしかなくて。
「ごめんな、ラウラ」
だから白は、ラウラが危険な目に合えば、きっと同じ事をする。
また、ラウラを悲しませるかもしれない。怖がらせるかもしれない。壊してしまうかもしれない。
その事に白は耐えられない。
「ごめん……」
それ以上に、ラウラを失うのは耐えられないから。
それはラウラも同じだから。
「白……」
だから、どうしようもなくて。
「愛してる」
それでも
「俺も、愛してる」
この手だけは離さないと、お互いに誓っていた。
ヒカリは2人に背を向けたまま、静かに涙を流していた。
悲しいわけでもなく。
痛いわけでもなく。
ただ、涙を流した。
そして、思ったのだ。
きっと、今この心にあるのが愛なのだと。