インフィニット・ストラトス Homunculus《完結》 作:ひわたり
百花は家を前にして立ち止まっていた。家に入るまで一歩の距離しかいらない。
しかし、この足が動かない。
「何してんだ、サッサと帰れよ」
ずっと先導してきた白。今は逆に百花の後ろに立っている。
「こ、心の準備が……」
「は?何を今更言ってるんだ。いつも通り仮面被っていけよ」
「だだだだって、こんな遅い時間に帰る事なんて今までなかったし!怒られるかも!しかも私結構汚れてない!?しかもコレ制服だし!」
「小心者だな。良いから帰れよ。そしたら俺が帰れるんだよ。早くラウラの顔見たいんだよ。ヒカリと一緒に料理作って待ってくれてんだよ」
「ごめんなさい!私に時間割いちゃってごめんなさい!でも自分に素直ですね、白さん!」
「これ以上ゴネるなら、無断でISを起動させたことを言うぞ。ああ、あと俺の異常性を誰かに話したら、貴様の存在を消す」
「マジ怖ええええ!!やっぱりこの人冷たい!!」
結局、百花が一歩踏み出すまで、また時間を用した。
白は言葉で急かすものの、百花に手助けする事はなかった。この一歩は自分で歩まなければいけないことは、白も百花も分かっていた。
「…………っ」
深く息を吸い、長く息を吐く。
しっかりと前を向く。
意を決して、百花は一歩踏み出した。
「百花」
白の声が背に届く。
「決して手放すな」
どれだけ倒れそうになっても、剣を、自分を手放さなかった百花。
何度も折って砕いて、捨て続けた枝。自分を殺し続けた白。
「お前は俺の何倍も強いよ」
百花は白の言葉を受け取り、振り向く事なく家のドアを開けた。
自らの手で、彼女は家へと帰ってきた。
「……ただいま」
開けたすぐそこに、零がいた。
零がそこにいるとは思っていなかったので、思わずビクリと体が跳ねる。
「に、にーちゃ……」
百花が何か言う前に、百花の両頬を零が引っ張った。地味な痛さに百花が悲鳴を上げる。
「痛い痛い!にーちゃ痛い!」
「心配させやがって、バカ妹が!泥だらけだし、何してたんだ!」
「馬鹿って言う方が馬鹿って言うけど、そこの所どう思う?」
「話を逸らそうとするな!」
むにーっと頰が限界まで伸びる。
「うおおお!痛いってば!馬鹿!鈍感!すけこまし!女の敵!」
「それは父さんだろ?」
「それもそうか」
零の唐突で冷静な意見に、百花も肯定する。心の中では、にーちゃもだけどなと呟いていた。
2人して溜息を吐いた後、零が百花の頰から手を離した。百花は零に頭を下げる。
「心配かけてごめん」
「おう、許す」
零はニッと笑みを浮かべた。
零はそれだけで良かった。百花が無事で、そして何か吹っ切れた様子なら、心配いらないと思った。
玄関の向こうに白がいたのは見えていた。きっと、白さんが助けてくれたのだろうと、心の中で感謝をする。
そして、兄らしく、笑顔で妹を迎えた。
「おかえり」
「ただいま」
百花は靴を脱いで家へ上がる。
零は許してくれたが、果たして親はどうか。一人で行ってこいと、零は二階へと上がってしまった。心臓がバクバクと高く鳴る。恐る恐る台所へ行くと、洗い場に立つ箒の後ろ姿が見えた。
「た、ただいま……」
恐々と言うと、箒は背を向けたまま言った。
「おかえり」
百花の返事を待たず、続けて言う。
「先に手洗いうがいをして、お風呂に入りなさい」
「はい……」
百花は大人しく箒の意見に従った。表情が見えないのを怖いと思ったのは初めてだった。怒っているのかいないのか、その判断ができない事が逆に恐怖である。
着てる物を籠に突っ込み、逃げるように風呂へ入った。
体と髪を洗う間は出来る限り無心でいようと心掛ける。途中、人の気配が洗面所に感じた。恐らく、洗濯と着替えを持ってきてくれたのだろう。
時間稼ぎの為に出来るだけ長く湯船に浸かろうとしたが、余計な思考が溢れ出てくるので、早めに出てしまった。
「…………」
やはり着替えを出してくれていたようで、パジャマが畳んで置いてあった。体を拭いて、着替えを身に付ける。
見ると、制服は洗濯機の中で回っていた。制服を洗って良いのか、そして明日まで乾くのかと首を傾げるが、今はその心配をしている場合ではない。
いよいよ母親との対面が始まる。
「……行きたくねー」
これなら、まだ白に立ち向かっていく方が容易く思えた。一瞬白に相対する光景を想像して、やっぱりこっちの方が楽だろうと、逆に覚悟が決まった。
もう一度白と戦えと言われたら全力で逃げ出す自信がある。
台所へ入った百花は、背を向けている箒に近付いた。
「か、かーちゃ……あの……」
百花が言う前に、箒が台詞を被せた。
「ご飯、食べちゃいなさい」
箒しか見ていなかった所為で気付かなかったが、机の上にご飯が並べられていた。ご飯と味噌汁、肉じゃがにお浸し。家族が好む日本食が食卓にあった。
食事を認識した瞬間、鼻がご飯の匂いを嗅ぎ取る。お腹を刺激する香りは、自分が空腹だったことを教えてくれた。
視覚し、嗅覚で感じ、空腹を自覚すれば、食欲の欲求が脳を支配する。
百花はおずおずと席に着くと、手を合わせた。
「いただきます……」
ご飯を箸で掴み、一口頬張る。
味噌汁を飲み、肉じゃがを齧る。
「…………」
温かった。
作ってからかなり時間が経っている筈なのに、料理が全て温かい。風呂に入っている間に温め直してくれたのだと分かった。
美味しいと、素直にそう思えた。
母親の手料理は温かく、優しい味だった。
「…………」
持っていたご飯の上に水滴が落ちる。
目から涙が零れ落ちているのを、自分が泣いているの事に気付いた。
「…………っ」
泣いているのに気付いてしまえば、普通に喋る事が出来なくなる。止めようもなく涙が溢れ出てきた。情けない程に顔がクシャクシャになり、溢れる涙が目と鼻から流れ落ちていく。
「ん」
箒からタオルが差し出され、それで顔を覆う。水分が吸い取られても、次々と溢れ出てきた。
「……かーちゃ」
震える声で伝える。
どうしても震えを抑える事はできなかったが、それでも、自分の声で伝えた。
「ごめんなさい……」
「うん」
箒の優しい声が耳に響く。
顔を覆っている百花には、箒の慈愛の微笑みは見えていない。
「……ただいま」
「おかえり」
それでも、頭から伝わる母親の手の感触は、何よりも大切で温かかった。
「…………」
白は両手をポケットに入れたまま立っていた。中の様子は分からないが、恐らくは大丈夫だろう。そう判断して、帰ろうとした。
「白さん」
庭の方から呼び掛けられる。顔を向けると、一夏がそこにいた。
「何だ?」
「百花のこと、ありがとうございました」
一夏が深々と頭を下げる。白は頭を下げ続ける一夏に、いつもの口調で言った。
「ああ、一先ずこれで解決だな」
何でもない事のように白は頷き、対して、一夏は悔しげに唇を噛み締めた。
「俺には、何も出来ませんでした」
百花が抱えていた物にも気付かなかった。今も尚、百花の闇がなんであったのか知る事ができずにいる。
「……親失格です」
「人の関係は様々だ。だからこそ、家族では解決出来ない問題がある」
所詮、自分でないのは他人だ。
「親だから、という事こそ自惚れだろう。人が人である限り、完全に分かり合える事はない」
人が人と関わり合う限り、そこには問題が発生する。
家族だから、家族であるが故に生じる問題も存在する。近しいからこそ言えない。関係こそが足を引っ張り、動けなくする事があるのだ。
今回の事は、仮に一夏達が百花の問題を知ろうとも、解決にはならなかっただろう。
「お前らでは解決出来なかった。それだけの話だ」
俺が動く必要があったかも分からないがなと、付け足す。
白が一夏達から百花が帰っていないと相談を受けた時、大方の想像がついていた。前に百花に会った時、白は何となく彼女の人間性を見抜いている。限界が近付いたのだろうと察するのも容易かった。その為、白は敢えて一夏と箒に動くなと伝えたのだ。
『親らしく、家で待ってて迎えてやれ』
白が頼んだのはそれだけだった。
「余計な世話とやらを働いただけだ」
もしかしたら束が何とかしたかもしれない。ISを渡したのは彼女なりの意味があるのだろう。
「でも、白さんのおかげで助かりました」
「俺なりのやり方で少し教えてやっただけだ。過信はするなよ」
彼女の抱える全てが解消されたとも思わない。それでも、次に何かあれば家族にそのまま言うだろう。相談でも、愚痴でも、怒りでも、感情を表してくれるだろう。そのぐらいには、百花も成長した筈だ。
「……何があったか、聞いても良いですか?」
一夏は質問をする。聞くだけ聞いてみるが、予想はついていた。
白は薄っすらと笑って、一言だけ伝えた。
「何も無かった」
答えは黙秘。
問題を暴露し、解決したのは白と百花の間だけの話だ。そして、家族には言えなかったからこそ、それを教えるとするなら、それは百花自身の口から語られるべきなのだ。
故に、白はこれ以上は語らない。
そして、もうこの件で手助けはしない。
「じゃあな、一夏」
白は今度こそ去って行った。
一夏は白の背中が見えなくなるまで見送り、自分の家族の元へと戻っていった。
「ただいま」
「おかえり」
「おかえりなさい」
白が家へ帰ると、ラウラとヒカリが玄関まで出迎えに来た。
「遅かったな。大丈夫だったか?」
ラウラは百花がいなくなったことは知っているが、詳細は知らない。白も敢えて詳しく語ろうとはしなかった。
「ああ、後は向こうの問題だからな」
「そうか」
同じく、ラウラも深く知ろうとはしなかった。その辺りの呼吸合わせは昔から変わらない。
白はリビングへ行き、台所に料理があるのに気付く。
「食べてないのか?」
量の多さを見て、ラウラもヒカリも食べていないのかと聞いた。
「うむ、白を待ってたからな」
「だから、私は腹ペコなのですよ」
ヒカリがペシペシとお腹を叩いて空腹アピールをした。幼い行動に何となく和んだ。
「食べていれば良かったのに」
「一緒に食べたいじゃないですか」
ヒカリは当たり前のように言った。時間が遅くても皆で食べるのは、ヒカリにとって常識のようなものだった。ラウラもそうだと同調する。
「温め直すから先に風呂でも入ってくれ」
ラウラの言葉に白が頷く。そこで、ヒカリが何かを思いついたのか、ポンと手を叩いた。
「お背中流しますよ」
「何だ、お前も入ってなかったのか?」
ヒカリの提案にズレた返答をする白。
「ええ。お父さんがいつ帰ってくるか分かりませんでしたから。でも、中学生くらいから一緒に入れなくなるようですから、入るのも今の内かと」
本当は思春期だったり羞恥だったりで、親と一緒に入らなくなるからなのだが、ヒカリは単純に中学生になると入れないと勘違いしていた。多分、体が大きくなるから入れないんだろうなと思っていたりする。
どこまでも天然な家族である。
「え!それなら私が入る!ヒカリが温めてくれ!」
白より先にラウラが反応した。
「お母さんとお父さんが一緒に入ると長いじゃないですか」
「良いじゃないか」
「普段は構いませんけど、今日は遅いですし、譲ってください」
「くっ、良いだろう」
割と本気で悔しそうなラウラだった。そんなラウラに、白は頭を撫でて言う。
「明日は一緒に入ってやるから」
「約束だぞ」
どこか抜けていて、騒がしくなくても明るくて、そして温かい。
ラウラが笑い、ヒカリが笑顔を浮かべ、白が微笑む。
どこにでもある平凡な家庭のように、夜遅くまで家の明かりは点いていた。