インフィニット・ストラトス Homunculus《完結》 作:ひわたり
恋と愛
零の家には大きな道場がある。
母親の旧姓である篠ノ之の名が刻まれた道場は門下生が多い。この道場は2代目らしく、元は神社にあったのだが、あまりにも古くなったので取り壊したそうだ。
結婚した際に道場を継いだ母親、織斑箒が建てたのだ。今は大分薄らいだとは言え、女尊男卑の世の中である。女性が継ぐのも珍しくはない。
道場と家は離れているが、門下生とは顔見知りである。流石に早朝から門下生はいないが、今は竹刀の音が道場から響いて聞こえた。
朝食を作っている零の母親、箒が腰に手を当てて言った。
「やれやれ、止めろと言ったのにまだやってるのか。零、悪いが呼んできてくれないか?」
「分かった」
零は先に洗面所へ赴き、引き出しから適当なタオルを取る。縁側を歩きながら道場へと足を向けた。
大きな木の引戸を開ける。広い道場の中、畳の匂いと独特の篭った匂いが鼻を突く。日が入り、明るく照らされる中、中心で一人の少女が竹刀を振っていた。
「おい、百花」
その少女に零が声を掛けた。
「おう、にーちゃ」
防具を外して、快活な笑顔と八重歯を覗かせて、百花が近付いて来た。
織斑百花。
呼び方は、ももか。彼女の友人からはモモとも、ヒャッカとも呼ばれたりする。百花はまだ中学二年生だが、篠ノ之道場の跡取りでもある。
「ほら、にーちゃ。女子中学生の匂いだぜ。嗅いでみ」
ほれほれと脱ぎ立ての面を零に向けて降り回す百花。
「止めろ臭いわ!」
女の子の匂いより、汗臭さと防具独特の染み付いた臭さが異臭として放たれている。
「うえっへっへっへっ。お主も好きよのう。ほれ、ほれ」
「いや、そんな特殊な性癖持ってねえよ!普通に臭い!扇ぐな扇ぐな!」
ニシシと笑う百花は、とても楽しそうに八重歯を輝かせた。零はやれやれと肩を竦め、タオルを手渡す。
「アホなことしてないで、着替えろよ。朝飯出来てるぞ」
「あいよー、あんがと。愛してるぜい!」
ちょっと男勝りな口調で百花はサムズアップした。
「はいはい」
「つれないなー。まあ、にーちゃが愛してんのはヒカリさん出しねぇ、この鈍感色男め」
「うっせえ。あと、俺は別に鈍感じゃねえよ」
……おい、何だその、なに言ってんのこいつ頭おかしいんじゃねぇのって顔は。
「……にーちゃ、あたしは、いつでもにーちゃの味方だぜ」
「何で妹に憐れみの目で見られてんの俺」
瞳を潤ませた百花が零の肩を叩き、タオルでそっと涙を拭いた。
……いや、汗拭けよ。
「馬鹿やってないで早くしろよ。シャワー浴びる時間もなくなるぞ」
「ほーい」
百花がシャワーを浴びて制服に着替える頃には朝食が並べ終えられており、零と百花で朝食を食べ始める。一夏は既に学園へ出ており、箒もその際に一緒に食べた。
純和風なご飯を胃に収めて、百花は肩甲骨まで伸びた髪を細い三つ編みで結び、零に話しかけた。
「昨日のデートはどうだったよ?」
「デートじゃない。和菓子を食べに行っただけだ。……ヒカリはそう思ってるだろ」
「色々憐れだぜぇ……」
溜息を吐く零を、百花は生暖かい目で見つめた。洗い物をしていた箒は百花に振り返って言う。
「百花、何度も言うが、その乱暴な口調はどうにかならんのか?」
「毎度言うけど、かーちゃもラウラさんも、千冬さんも男勝りな口調だぞ?」
洗い物をするフリをして目を反らす箒。確かに、周りの女性にそういう人物が多いのは事実である。箒は少し悩んだ末、ヒカリの名を口に出した。
「うーん。あ、ほら、ヒカリを真似すれば良いんだ」
「あー、確かにヒカリさん丁寧だもんね。真似出来る気はしないけど」
零はヒカリのことを思いながら、百花に言う。
「ヒカリは内と外の切り替えが上手いんだよ。内だと少しだらしない部分もあるんだ。ま、本当に少しなんだけどな」
「それって、両親を様呼びからさん呼びに変えたり、服装がゆったりしてるとかでしょ?だらしないの領域には入んないんじゃね?」
「アレで本人はダラけてると思ってるんだぞ」
「ほへー、やっぱり性格だねぇ」
じゃあさ、と百花は提案した。
「にーちゃは白さんの真似すれば良いよ」
「何で」
「格好良いじゃん、あのクールな感じとか、それに反して家族を愛してる暖かさとか。偶に見せる静かな微笑みなんか、もう……素敵」
キャッと頰を染めて、わざとらしく両手で顔を隠した。
「お前も白さん好きなのかよ」
……いかん、妹が道を踏み外そうとしている。そんなこと言ったら、ヒカリは踏み外す所か、落ちた先で突っ走ってる状態だけど。
「でも、ヒカリさん白さんのこと好きだし、真似て損はないんじゃね?」
「…………た、確かに」
ちょっと真剣に悩み始める零に、百花はあっけらかんと断言した。
「ま、無理だろうし、やらない方が良いだろうけどねー」
「ええ、何でだ」
白に憧れている部分もあるが故に、妹の台詞は割とショックを受ける。
「小さい頃なら兎も角、この歳で誰かの真似しても、それは演技でしかないからさ。だったら、自分を偽るより自身の魅力を伝える方が良い。判断するのは自分じゃなくて相手だし」
百花の言葉に、零は目を瞬かせた。まさか、あの妹がこんなことを言うとは思わなかったし、それに感心してしまう日が来るとは夢にも思わなかった。
「お前、凄いな」
「でしょ?白さんの受け売りだけどね」
頭を掻きながら、にへーと笑う百花。発せられたのは他人の言葉だったという事に、零は思わず脱力してしまった。
「……ま、この後の言葉に『だからお前とは一緒になれない。だから、いつかお前が愛して、愛される人が現れる』って続くんだけどね」
「百花!?お前、白さんと何があった!」
「……何も。何も、無かったよ」
「何も無かったの意味が意味深すぎるぞ!」
……え、まさか男勝りな口調なのって、ラウラさんの真似じゃないよね?白さんの気を引きたかったとか言わないでよ?違うよね?お願いだからお兄ちゃんと目を合わせなさい。
妹の衝撃発言に動揺を隠せない。
箒もあわわわわとガタガタ震えている。動揺し過ぎである。
「ま、冗談は兎も角として」
パッと顔を上げた百花はいつも通りだった。
「冗談?本当に冗談?」
「終わったネタをしつこく突っつくのは良くないぜぇ。安心しろよ」
百花は零の肩を叩いて、潤んだ瞳を見せた。
「あたしが愛してんのは、にーちゃだけだぜ……」
「どうして一々道を踏み外そうとするのかね君は」
「む、娘が……奥さんがいる人を好きになるか、近親相姦になろうとしている……!ああ、一夏、私はどうすれば……!」
青褪める箒に、百花はニコリと笑った。
「かーちゃも愛してるぜ」
「ひぃっ!私も狙われていたのか!」
「母さん少し落ち着こうか」
部屋の隅っこで震える箒を、零は呆れ顔で宥めた。箒は涙目になりながら百花に問い掛ける。
「ま、まさか一夏……お父さんのことも?」
百花は一瞬で冷めた顔に戻り、首を左右に振った。
「いや、とーちゃは別に」
素の声に、なんとも言えない気持ちになった。
「お前なかなかに酷いな」
「えー?女の敵を好きにはなれんなぁ」
辛辣な百花の言葉に、零も箒も何も言えない。
零は零でその通りだと思ったし、箒は箒で一夏の女性の対応を散々愚痴っている時もあるので、反論のしようがなかった。私の所為かな、と薄っすら思ってたりする。
「にーちゃは、ああなっちゃ駄目だぜ」
「なる気はないけれど」
「どうかなぁ、にーちゃだしなぁ……」
「一夏の息子だしなぁ……」
……あれ?俺、信用なくね?
「へっくしゅん!」
「織斑先生、風邪ですか?」
「いや、違うと思うんですけどね。何だろう」
「噂でもされてるんじゃないですか?織斑先生って、か……格好良いですし……」
「そうですか?ありがとうございます」
「…………」
「どうしました?」
「い、いえ!何でもありません!」
既婚者である一夏が新しいフラグを立てている頃、零はヒカリを迎えて学校へ行っていた。
「……ってことが、今朝あったんだ」
「一夏さんが憐れですね」
前と同じ、ヒカリを自転車に乗せての登校。
零は今朝の出来事をヒカリに話した所、彼女は呆れたように溜息を吐いた。
「まあ、それに関して私が零くんに言いたいのは一言ですね」
零の背中に冷たい声がのしかかる。
「人の振り見て我が身を直せ」
「え、どういう意味?」
「相手の事を見て自分の振る舞いを直せってことですよ、馬鹿ですか?」
ペシペシと柔らかいチョップが零の頭にぶつけられる。
「いや、そういう意味じゃなくてさ。……俺、父さんみたいに思われてるの?」
「さあ、どうだと思いますか、鈍感くん」
チョップから平手に変わり、ペシペシという感触が頭から伝わってくる。全然痛くは無いが、心がやけに痛い。
「しかし、百花さんとは一度話さなければいけないようですね……」
「闘気出さないで」
気の所為か、よく分からないオーラでヒカリの髪がうねっているように見えた。気の所為だと思いたい。
「百花は百花で、将来道場を継ぐ実力を持ってるし、かなり強いぞ。まあ、だからといってじゃないけど、争い事は勘弁してくれ」
零が男性操縦者となった時点で、零の将来はほぼ決まったようなものだった。無理にならなくても良いとは箒と一夏の意見であったが、零は自分なりに悩み抜いてIS選手を目指す道を取ったのだ。
ほぼ同時に、百花も道場を継ぐと言い出した。幼い頃から続けており、才能も実力もあった百花なら問題は無かったが、箒は特別道場を継がせる気は無かった。
気を遣って継がなくても良いと言う箒に、百花も自分で選んだ道だと言った。彼女の思いを汲み取った箒はそれを承諾。ならば容赦はしないと、厳しい稽古を続けている。
「……零くんも百花さんも、しっかりと将来を考えていて偉いですね」
「俺の家は特殊な所も多かったからな。それに、ヒカリだってIS学園に進んで、整備課に入るんだから、ちゃんと将来を考えてるじゃないか」
「……私は、違いますよ」
少しだけ沈んだ声。零は振り返ってヒカリの顔を見た。ヒカリは空を見上げていた。いや、空ではない。そこにはない、何かを見ていた。
「私は今この時、思ったままに生きているだけです」
「……そうなのか?」
そうとしか聞けない。ヒカリの中を測れない零は、そう聞くしかなかった。
「はい。……ああ、でも正確ではありませんね」
ヒカリは視線を下ろし、零の瞳を見た。
「ただ一つを追い掛けてるだけです」
ヒカリの口が動く。
「貴方の……」
吹き抜ける風が零に届く前に、言葉を攫っていった。
「……今、何て言ったんだ?」
「さあ、何でしょうね」
わざと聞こえない声量で言ったヒカリは、小さく微笑んで首を傾げてみせた。
「…………」
その笑顔があまりにも綺麗で。
あまりにも儚くて。
遠過ぎて。
この距離は何だろうか。
大人と子供のような感覚ではない。
ただ、俺には何かが圧倒的に不足していて。
見えるのに、まるで届かない場所にいるようで。
ふと、思い出す。ヒカリの負っていた大きな傷を。ヒカリが死んでいたかもしれなかった、あの傷。
故に思い至った。
この距離は、人の重さの差だ。
死を体験した彼女は、その深さを持ち合わせていた。
「零くん」
……どうか、私を。
ヒカリの言葉。
その願いに、零は、返事をする事ができなかった。