大理石の胎児は加速世界で眠る   作:唐野葉子

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異篇

 

 外したか。

 

 仕留めたのは三人の内一人だけ。目的を考えればもっとも無意味で、心理的にはもっとも収穫が大きい、灰色に薄汚れた白い光の柱をニコは凍てついた眼差しで見つめていた。

 本体が死ねば分身も消える仕様だったらしく、射程範囲外にいた分身も残らず消えていることに少し安心する。

 

「え……ニコ、ちゃん……?」

 

 茫然とこちらを見るユキカゼの目から、すっと目を逸らす。

 案外律義でこちらの世界では絶対に本名を呼ばない師に従い、自分の一人称さえアバター名にしていた彼女が、うっかりリアルのニックネームを口にしてしまうほどショックを受けていることに、わかっていたはずなのに自分も傷ついた。

 

 視線が流れた先は同じく茫然とこちらを見ているシルバー・クロウとシアン・パイル。当然のごとく、彼らは文句を言ってくる。クロウは信じられない、信じたくないという内心が透けて見える取り乱した態度で。パイルは理知的に、しかく確固とした怒りの威圧感を持って。

 この世界なら歯牙にもかけない態度を取ることが出来る。しかし、この加速が終了したら自分はどうなってしまうのだろう。必殺技をコールするときから抱いていた恐怖がより鮮明になり、震えそうになる自分の弱さを押し固め、いつもの強がりで蓋をした。

 

 大丈夫。ちゃんと声は震えていない。

 

 怖くて怖くてやりたくなかったが、この状態では断罪の一撃(ジャッジメント・ブロー)は使えない。たっぷり威圧してやった効果か、ネガ・ネビュラスの面々はニコが強化外装をパージした後にも襲いかかってくることはなかった。黒の王が明らかに健在というのも大きいだろう。

 近づいてみると黒の王は四肢こそ粉々に砕け散っていたが、それ以外は驚くほど損傷が少なかった。まるで己に向かって撃たれた砲撃を、辛うじてその刃で切り払ったように。

 強いイマジネーションの証である過剰光(オーバーレイ)こそ発生していたが、通常必殺技であるニコの砲撃に心意で対処した痕跡はなかったのにも関わらず、だ。

 化け物め。

 口に出さずに悪態をつく。そんなニコの内心を見透かしたように知った口を利く黒の王だったが、その声に怒りはまるで含まれていなかった。

 とっとと消えろと吐き捨てて踵を返す。これ以上直視していられなかった。ゴーグルの奥の青紫の静かな輝きも、それに照らし出される自分の心も。

 

 寒い。恒温動物とは材質からして異なるはずのデュエルアバターが寒くてたまらない。

 

 あれほど熱に溢れていた加速世界が、今はこんなにも凍てついて感じる。

 神輿として担ぎ出された感はあるが、自らも望んで立った立場のはずだった。純色の赤ではなく真紅だったとしても、先代に見劣りしない王になるのだと、全力で命を燃やして突っ走ってきたつもりだった。

 すべてがひっくり返ったのは、チェリー・ルークが五代目クロム・ディザスターとして目の前に姿を現したとき。今まで積み上げてきたありとあらゆるものが、台無しにされてごちゃまぜになった気がした。

 

 何のために頑張ってきたのだろう?

 

 決まっている。この世界が好きだったから。リアルのしがらみから解放されて、強くたくましくあれる自分が、そんな自分とにぎやかに冒険してくれる仲間たちが、その場所を提供してくれるスリルに溢れたこの世界が大好きだった。

 だからこの手で守れるのなら、やってやろうじゃないかと気炎を吐いた。

 

 だけど、大切な幼馴染は守れなかった。むしろ犠牲になったとさえ言える。その覚悟をして、この場に立っていたのだろうか?

 

 そんなはずない。そんなもの予想すらしていなかった。突然職員から聞かされた彼の引っ越しの話に混乱し、レギオンマスターの務めで疲れた体に鞭打って呼び出した通常対戦の焦土ステージで、変わり果てた彼の姿を見るまでは。

 三年前に差し伸べられた手の幻影は、くろがねの大剣に容赦なく切り裂かれた。

 

『あたしは、あいつを粛清しなくちゃならねえ……』

 

 あの時から何度も自分に言い聞かせている言葉だ。そのたびに吐き気を催す恐怖が臓腑を貫く。そんなことが自分にはできるのかと幾たびも自問自答し、そのたびにやると変わらぬ答えが出た。

 加速世界の歪んだ条約に違反したからという理由で、自分は己の『親』を討つのだ。それができるのが王なのだ。

 いまさらやめたと後戻りするには、どちらにも積み上げたものが多すぎた。

 

 瞼の裏に、あのときの何もかもが終わってしまった焦土世界が焼き付いて離れない。

 

 わかっている。あの時に感じた。今も嫌というほど見せられた。自分を赤面して汗をびっしり浮かべながら誘ってくれたあの少年は、鎧に喰われて消えてなくなってしまったのだと。

 救わなければならない。そんなこと、誰に言われずとも一度刃を交えた自分が一番理解している。

 でも、世界は魔王を倒せば光に包まれて何もかも元通りになるような、単純で優しいものではないのだ。それはゲームであるこの世界も同じ。

 お姫様がキスをしたところで、呪いにかけられた兵士(ルーク)はいつまでたっても化け物のまま。救うということは、この手で終らせるということだ。そんな当たり前のこと、とっくに理解していたはずなのに。

 

 『勝ったな』

 

 あの声を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。

 黒の王が怖かった。伝説に歌われる反逆者。先代赤の王レッド・ライダーの首を狩った大罪人。復活したネガ・ネビュラスが六大レギオンに攻め入るとき、真っ先に狙われるのが赤の軍団(プロミネンス)だと思っていた。実際にこの目で見た実力は、勝ち目がないと心の奥底で挫けてしまうほどのものだった。

 マーブル・ゴーレムが怖かった。明らかな弱者で敗者でありながら、斜め下からあらゆるものを台無しすることに長けた嫌われ者。黒の王が最大の罪人なら、彼女は最低の罪人であると、敵対するという形ですら関係を疎まれる特権階級(アンタッチャブル)。実際に己の心の襞をまさぐられ、黄の王さえ手玉に取った現場を目撃した今では嫌うことさえしたくないと切実に思う。

 シアン・パイルが怖かった。男性の暴力性を象徴するかのような分厚い威圧感に溢れた体。この世界ではそのような男どもも鎧袖一触できるが、現実世界の彼も鋭く逞しく引き締まった体つきをしている少年だ。それに、剣道をたしなんでいる。理知的に人を傷つける方法を技術として身に着けている。きっと彼は、理性を持って暴力を振るうことが出来る。そして現実世界でそうなったとき、自分は勝てない。

 黒の王とマーブル・ゴーレムの二人掛かりで狩られそうになっているチェリー・ルークという現実を前にして、彼が殺されてしまうという未来が確定しようとしている現状を前にして、塞き止められていたすべてがその一言で一気に噴出した。まるでダムが決壊したように、押し殺していたはずのすべての弱さが引きずり出された。

 必殺技をコールしながら引き金を引くとき、そのときニコの前にいたのはもはや黒の王や、災禍の鎧や、加速世界最低の犯罪者ではなかった。今までニコを傷つけてきた恐怖の対象のすべてだった。理不尽で残酷な世界の冷たさを打ち砕かんと火砲に精神を集中させがら、その一方で剥離した自我の一部がそんなことをしても無駄だと醒めた眼差しで客観面していたのは、鍛え上げられた王の冷静さの表れだったのだろうか。

 

 それなら、そんなものいらなかった。

 

 悲劇の主人公のように、すべてが終わるまで頭の上から爪先まですべて狂ってしまいたかった。

 己の必殺技で南池袋からグリーン大通りへと抜ける新たな道のようになってしまった砲撃跡を通りながら、ゆっくりとクロム・ディザスターへと近づく。

 いくら加速世界にその名を知られる災禍だったとしても、純色の七王との戦闘の最中に横から撃ちこまれて対応できるようなポテンシャルは無かったらしい。その全身鎧は大きくひび割れ、獣のように地を這っている。特に左半身の破損がひどく、左腕は肩から先が無い。自動修復の赤い光が傷口を塞ごうとしているが、それ以上に流れ出す体液のような黒い靄が多かった。

 これが加速世界の頂点に立つ王と、所詮は強化外装に頼り切りのクロム・ディザスターの差異であり、王に満たなかった者の限界かと、バーストリンカーの自分が淡泊に判断を下す。

 

「ウ……ユ、ルル……」

 

 その状態になっても、まだクロム・ディザスターはニコの足音に反応して逃げ出そうと這いずっていた。最後まで諦めないその姿勢を、とても見苦しく思う。

 さしてストライドの長くないこのアバターでも余裕で追いつき、蹴り転がす。あのくろがねの剣は先の砲撃でどこかに吹き飛んだらしく、無手のクロム・ディザスターはごろりと力なく仰向けになった。

 胸の装甲を踏み付けて固定し、初期装備であるハンドガン(ピースメーカー)を抜き取り、構える。断罪の一撃(ジャッジメント・ブロー)はゼロ距離射撃だ。かつんと乾いた音を立てて相手の兜に押し付けた瞬間、ヘルメット内部に湛えられた闇の一部が薄れ、金色の双眸が静かにこちらを見た。

 

「…………」

「……チェリー……」

 

 引き金は、引けなかった。

 

 期待してしまったのだ。もしかしたら、と。

 正気に戻ってくれたのではないか。このまま鎧の狂気だけを取り除けるのではないか。昔のように、二人で面白おかしく刺激的な加速世界で肩を並べて戦えるのではないか。いや、今はユキちゃんもいる。今度はあの時のように三人で笑って……。

 愚かなことだ。きっと今までの四代も、どこかの誰かが同じように願い、裏切られてきたはずなのに。

 当然、五代目でも奇跡は起きなかった。

 

「ユラアッ!」

 

 爆発したように上半身を回転させ、猛禽類のような鋭く逞しい黒銀の右腕が振りぬかれる。左半身を盾にして右半身の殺傷力を保ったのだと、我が身を切り裂かれながら気づいた。

 青黒い曇天を背景に空高く舞う紅い拳銃。それと一緒に、最後の気力も消え去ってしまったようだ。

 胸から鼓動を刻む炎が消え、代わりに水銀のような冷たい重さが仮想の血管を満たし、全身を縛る。四肢が末端から感覚がなくなり動かせず、それでもいいさと何もかも投げやりな気分になった。

 零化現象(ゼロ・フィル)

 王とあろうものが無様なものだ。もしもイエロー・レディオがこの場に健在ならば耳障りな哄笑をここぞとばかりに響かせたことだろう。

 だらりと四肢を投げ出し、力任せに首を吊り上げられる。フード状の兜の上下にずらりと生えそろった牙が輝き、てらてらと滴り落ちる液体が紅の装甲を濡らした。

 デュエルアバターに呼吸は必要ない。水中だろうが宇宙空間だろうがお構いなしに戦うことが出来る。だから首を絞められたところで圧迫ダメージが発生することはあっても、窒息はしない。なのに、何故こんなに苦しいのだろう。

 

 喰われる。

 

 ニコが死ねば、もはやこの場で健在なのはミドルレベルが三人のみ。それぞれ違った見どころはあれど、現時点では到底災禍の鎧には及ばない。ニコを喰らって回復したクロム・ディザスターに狩られて喰われて終わるだろう。

 そして、それが繰り返される。

 この場はマーブル・ゴーレムの謀略によって餌場と化した。狂気に犯された災禍の鎧だが、バーストリンカーを狩ることにおいては冷徹に行動する。彼は復活の一時間をこの場で待ち続け、復活する傍から各個撃破することだろう。全員でまとめてかかっても勝てなかったのに、一対一で勝てる見込みは限りなく薄い。

 全損する者が幾人も出てくるだろう。いや、用心深い黄色は何か対策を施しているだろうか。あるいは変遷の効果で一斉に復活して四方に逃げ散れば数名を犠牲に逃げきれるだろうが、この期に及んで天に身を任せる気にはなれない。

 脳内で淡々と展開される最悪のシナリオ。投げ出してしまったニコにはすべてがどうでもいい。――なのにそんな自分が情けなくもある。

 

 こんなことなら、黄の王に殺されておけばよかったのだ。

 

 クリプト・コズミック・サーカスの精鋭たちに至近距離まで迫られて、装甲を力任せに剥がされたとき、ここで死ねば言い訳がつくと、加速を失う焼き焦げるような恐怖に混ざり一抹の安堵を抱いてしまったことは事実なのだから。

 

 呪われた兵士が変じた獣にお姫様が喰われそうになっても、王子様が絶妙なタイミングで助けに来てくれるような生温いご都合主義にみちた優しい世界なんかじゃない。

 頬に臭気に満ちた吐息を感じながら、そう強く実感する。

 何度でも言おう。奇跡なんて起きない。

 

 だから、それは奇跡でもなんでもない。

 

「うおおおおおおっ!」

 

 眩いばかりの閃光を引き、銀の鴉が飛び込んできたのは偶然でも何でもない。この世界を愛して守ろうと、努力した結果が報われるのは、ご都合主義とも奇跡とも言わないのだから。

 ピンと伸ばされた穂先のような跳び蹴りが闇を湛えたフード内部、獣の咥内に突き刺さる。

 一瞬の硬直。

 まるでその威力を世界が認識するのに時間がかかったように、僅かな溜めを置いてクロム・ディザスターは激しく吹き飛ばされた。派手な爆発音がして罅だらけだった全身鎧のうち、頭部の装甲がついに砕け散る。

 

 何やってんだか。

 地面に投げ出され、すぐ目の前に膝をついて着地した銀ぴかアバターを見ながら、驚きよりも疑問よりも先に、呆れがニコの中に湧き出た。

 逃げればよかったのだ。ネガ・ネビュラスのメンバーは全員生存しているのだから。

 四肢の砕けた黒の王は自力では動けないだろうが、デュエルアバターの身体能力なら抱えて移動するのはあまりにも容易。無様にニコが食い散らかされている間に、逃げてしまえばよかったのに。

 たしかに同盟は組んでいたが、先に裏切ったのはこちらの方。常識的に考えても感情的に考えても、彼我の戦力差を考慮に入れたゲーマー的思考としても馬鹿げた行動としか言いようがない。

 黒の王は何教えてやがんだと、見当違いな苛立ちさえ抱いてしまう。

 

 よわっちいのに無茶してんじゃねえよ。

 ほら見ろ、震えてんじゃねえか。武者震いとかじゃなくてマジでビビってんだろ? 逃げたところで褒められこそすれ、誰もお前を咎めやしねえよ。

 

 声には出さすともそんなことを考えるニコの耳に、ひどく懐かしく感じる声が響いた。

 

「……ぼくは……悪くない……」

 

 かつてその大きな背中でニコを守りながら、傷つく自分に構わずニコを心配してくれた声だった。いつかきっと、と目指しながら、いつの間にか背中で聞くことが多くなった声だった。

 こんなにも小さかっただろうか? こんなにも卑屈で、弱々しい声の持ち主だっただろうか。

 記憶と感情の齟齬に、色のない世界がますます寒くなる。

 

「……だって、ぼくは、ただ強くなりたいだけなんだから……こんな歪んだ世界じゃ、こうでもしないと彼女に置いて行かれてしまう……ぼくは、その隣に立ちたいだけなんだ……彼女の見る先を、一緒に見たいだけなんだ……」

 

 黒銀の兜が破壊され露わになったのは明るいピンク色の色彩を持つ、シンプルなデザインの素顔。しかし首から下は相変わらず暴虐を押し込めた筋骨隆々の黒銀騎士というグロテスクな姿で、少年は小さな声をぽつりぽつりと漏らす。

 薄々想像はしていたが、はっきりと言葉となった彼の想いはニコを打ちのめした。

 

「……君なら、わかってくれるよね? ……だって、君はぼくと同じなんだから……」

 

 災禍の鎧に飲み込まれた桜の城兵(チェリー・ルーク)の目には、そんな己が追い求めたはずの姫の様子すら映っていないようだった。彼がまっすぐ見つめるのはただ一人。

 己に蹴りを入れた銀の鴉(シルバー・クロウ)のみ。加速世界の対戦は、時として言葉以上に感情を相手に伝える。僅かに残ったチェリー・ルークの人間性は、おそらくシルバー・クロウのそれによって呼び戻させられたのだろう。

 たしかに彼らはよく似ている。どちらが親で、どちらが子であるかという違いはあるが、互いに手の届かないところに憧れ、そこにたどり着こうと見苦しく足掻いた奴らだ。

 

「ふっ……ざけるなぁっ!」

 

 ――そんなニコの色を失った思考で淡々とはじき出された観察結果は、他ならぬシルバー・クロウ本人によって激しく否定された。

 銀光が地を駆ける。なるほど大したスピードだが、所詮は必殺技ゲージが枯渇し、飛行型アバターの本領を発揮できていないミドルレベルの一撃。しかしその右腕は、クロムシルバーの胸部装甲に深々と突き刺さった。

 動きが鈍くなっている。かろうじて頭を上げて漠然と維持する視界の中で、淡々とそんなことを考える。

 

「たしかに先輩は逃げてもいいと言った! 逃げることは悪いことじゃないって。でも、それは何もかも放り投げて引き籠れって意味じゃない。自分がいずれ挑戦できるだけの力がつくその時まで、焦らずに自分を守り続けろってことだ!

 あれはいつか必ずできるようになるという自分への信頼と、絶対にやり遂げるという決意の表れなんだ!」

 

 その勢いのままシルバー・クロウは腕を引き戻す反動で左ひざを腹部に打ち込み、さらにその反動を利用して蹴りの軌道を変更、脹脛に左足を打ち下ろした。クロム・ディザスターの体勢が大きく崩れる。

 ニコの目から見ればまだまだ荒だらけの格闘技術。やれ、体幹の移動が甘い。あのコンマ一秒の隙でハイランカー以上なら反撃に移れる。やれ、あの攻撃は漠然と腹に打つよりピンポイントで右わき腹に打った方が効果的で、スムーズに次に繋げることが出来た。

 不動要塞(イモービル・フォートレス)と言われた遠隔特化のニコから見てもこうなのだ。近接戦に熟達した者たちの目にはとても見れたものではなかっただろう。

 なのに、そのラッシュには否定しようのない熱があった。瞬きすら惜しむ輝きが感じられた。

 

「ライハさんはなあっ、いっつも笑っているんだ! へらへらとした軽薄な笑みっていうやつもいるけど、あの人がどんな人生を送ってきたのか全然わかっちゃいやしない。弱くでダメな自分のことが嫌いで、世界も理不尽で残酷で、そんなマイナスばかりの世界の中で、いつも笑っているんだぞ!」

 

 銀の光が迸るたびに金属同士が衝突する耳障りな音が辺りに響き、赤いダメージエフェクトと黒銀の装甲の破片が飛び散る。

 目の前で振るわれる仮借なき暴力と、感情のままに迸る怒声。普段のニコなら一瞬内心で覚悟を決めてから向き合わなければならないそれらが、乾いた砂地にしみ込むように心の中に入ってくる。

 きっと、彼は信じているからだ。

 ダメで、弱々しくて、間違ってばかりで、自分に自信がなくて、卑屈で、そんなマイナス要素ばかりすらすらと並べ立てることのできる彼が、純粋に信じている。自分の言葉を。自分の言葉の中に息づいている彼女たちを。

 だからこんなにも、体に力を入れることなく受け入れることができるのだ。

 

「ニコだって、ニコだってなあ、普通の女の子なんだ! たしかに純色の七王の一人だよ。加速世界ではそれこそオレなんて小指の先で弾かれるような強いエリート様さ。だけどなあ、それと弱い女の子だってことは矛盾しないんだよ! たった小学生一人で中学生の集団の中に飛び込んで、怯えを隠して目的を遂行できるだけの強さを持った、ただそれだけの弱い女の子なんだよ! だからライハさんの前ではあんなことになったんだ」

 

 正直、それに触れないでくれると助かる。現実世界ではほんの数分前の出来事だが、体感的にはもはや黒歴史と化しているのだから。

 それに、死亡しているとはいえ周囲にはまだクリプト・コズミック・サーカスの面々がいるのだから、そんなリアルに繋がる発言を大声でするのはマナー違反だろう。

 でもそんな無粋なこと、今はどうでもいい気がした。

 

「でもっ、彼女は……彼女たちは……その弱さを、自分から逃げる理由にしたことなんて、一度もなかったんだぞ!」

 

 しゃらんと涼やかな音を立てて銀の鴉の背中から十枚の金属フィンが伸ばされる。この加速世界で唯一確認された完全飛行型アビリティ。初めてシルバー・クロウのリアルを見た時にはどうしてこんなやつがと、正直思った。

 デブでチビであることの劣等感が翼を授けるような安易な理由なら、今まで空に憧れた幾多のバーストリンカーが積み上げてきた七千年の歴史の中で、もっと飛行アビリティが確認されてもいいだろうにと。

 でも、今なら少しだけ理解できる気がする。

 七千年間誰も到達できなかった特別に、彼が至れた理由。

 

「だからっ……ぼくはっ……お前はっ…………!」

 

 そこで語彙が尽きてしまったのか、それ以上の言葉が彼の口から出ることはなかった。もともと、饒舌な性質ではないのだろう。

 しかし、この世界には言葉よりももっと多くのものを相手に伝える手段がある。シルバー・クロウの身体が宙を舞った。大空高く飛び上がるのではない。翼を姿勢制御と空中での一瞬の推進力発生装置として使い、三次元的なラッシュをかけたのだ。

 

「はあああああああああっ!」

 

 いつ以来だろう。デュエルアバターを『綺麗だ』と感じるのは。

 銀光が乱舞する。危なっかしく未熟な機動で、精いっぱいに思いを主張する熱の塊。

 じんわりと、ニコの奥にも柔らかな温もりが生まれた。それはゆっくりと全身に広がり、指先の強張りを解く。

 彼は弱い。それこそ一目でわかるほど。『スカーレット・レイン』なら十人まとめて相手しようと負ける気がしない。

 彼だってそれは理解している。そんな自分が嫌で、今にも潰れてしまいそうで、それでも空を見上げることをやめなかったのだ。

 

 そうか。だからコイツだけ、初めて見た時から怖くなかったのか。

 

 強くなりたいと願った二人の少年。一人は壁を見上げてもう無理だと諦め、一人は馬鹿みたいに壁の隙間から空を見上げ続けた。きっとそれは強さとか正しさとかそういうものではなく、自分の意志ではどうにもならないもっと何か他の――

 

 ギャリィンッ!

 

 ひときわ高く金属音が鳴り響き、ニコは状況を思い出す。

 明らかに精彩を欠くクロム・ディザスターの反撃の合間を縫い、繰り出された強烈な右回し蹴りの踵が鳩尾に深々と突き刺さったのだ。装甲の破片をまき散らしながら再度吹き飛び、二転、三転と交通事故に遭ったかように地面を転がる黒銀の騎士は、もう誰の目にも限界のように思えた。

 シルバー・クロウはずしゃりと四つん這いになって地面に着地する。激しく魂を燃やした反動の疲労感が全身から滲み出していた。肩で呼吸をしているのは生身の時の名残だろう。息絶え絶えになりながらも、それでも彼は歩みをやめず地面に落ちていた小さなハンドガンを拾い上げる。

 

「……ニコ、もう終わらせよう。楽しくないゲームなんて、続ける意味無いよ。自分じゃもうやめられないっていうのなら、誰かが取り上げてやらないとダメだ」

「……チッ、雑魚が生意気な口叩いてんじゃねーよ。……んなこと、とっくの昔にわかってたんだ」

 

 我ながら可愛げのない口を叩きながらニコは差し出されたハンドガンの銃把を強く掴んだ。

 そう、とっくの昔に理解していたのだ。でも、最後の最後で認めてしまうのが怖かった。今でも怖いのは変わらない。けど、逃げることはしない。

 こんなよわっちいやつがこんなに頑張って、自分のことをここまで信じて戦ったのに、ここで応えずして何が王か。そんなのカッコ悪いではないか。

 

 ボロボロのクロム・ディザスターは、まるで何かを掴もうとするように片方だけ残った手を空に掲げた。あの艶のある黒銀の騎士鎧はもはや見る影もなく、深い罅と流血のような黒い靄が全身を覆っている。自己再生のストックも品切れのようで、電池切れ寸前の電球のようなかすかな赤い光が点滅するのみだった。

 

「チェリー……」

 

 何を言おうとしたのかは自分でも定かではない、ただ応えてほしいという願いは確かに込められた言葉だった。ピクリとそれに反応するようにクロム・ディザスターの全身が震え――その姿が掻き消えた。

 否、目が追い付かない速度で空へと飛び出したのだ。

 

「なっ、飛行アビリティ!?」

「違うっ、長距離ジャンプ――」

「装着、No.134340(プルート)!」

 

 驚きの声に凛としたボイスコールが被さる。見れば、空から一直線に降り注ぐ光がスノウの手の中で束ねられ、巨大な銃器の形を取ろうとしていた。その召喚エフェクトの間さえ惜しいと輪郭が曖昧な光の束を振り回すようにして狙撃体勢に移り、はっきりとメタリックグレーの銃身が露わになった瞬間に引き金を引く。

 鼓膜を劈く暴力の咆哮。しかし、銃口から飛び出した弾丸はクロムシルバーの背面装甲をごっそり掌一枚分削り取るに留まった。

 

「外した……っ!」

 

 唇をかむスノウたちを置き去りにしてクロム・ディザスターは北東のビルのむき出しになった鉄骨に取り付く。一瞬だけ振り返り、彼女たちを睥睨したのはどのような意図か。慌ててハンドガンの狙いを定めようとするが、自分の一撃では殺しかねないという迷いが銃口を揺らす。

 それが完全に手遅れにした。すぐさま彼は野生動物めいた動きで両足を使って身体を固定し、さらに北東の空へ一本しかない腕を伸ばすと、飛行としか思えない動きで遠ざかっていった。

 

「い、いったい……」

「チェリー・ルークの『ワイヤー・フック』は不動オブジェクトに引っかけることによって移動手段として使えるんです。でも今は片腕しかない以上、方向転換の際には一瞬の停滞を余儀なくされる。知っていたはずなのに……!」

 

 自責の念に肩と声を震わせるスノウだが、真に責められるべきはニコだろう。

 たしかにスノウは冷静さを欠いていた。武器収納のクールタイムが終わってもリロードが行われていないところを見ると、それがあのバランスブレイカーに思えたスナイパーライフルの脆弱性なのだろう。その最後の一発を、不本意な状況で外してしまった後悔は如何ばかりか。

 しかし、彼女はまだまだ新米(ニュービー)なのだ。予想外の状況に頭に血が上るのは当然と言っていい。

 

 知っていたのはニコも同様。親であり、一度戦って辛酸を舐めさせられたワイヤー・フックの効果は熟知していた。それをネガ・ネビュラスの面々に話さなかった、話せなかった弱さがここに来て最悪の形で裏目に出てしまった。

 

 ここに来て打つ手を致命的に間違えた。敗着の一手と言っても過言ではないかもしれない。

 あの速度に追いつくのは普通のアバターには無理だ。高速機動アビリティを持つスノウも、最大速度では及ばないだろう。スノウの最大速度が時速百二十キロだとすれば、ワイヤー・フックによる長距離ジャンプは時速二百を優に超える。足場となる不動オブジェクトが必要となるが、それ以外の障害物を無視して最短距離を進めるというのも大きい。

 そう、このような状況の時のためにシルバー・クロウを用意していたのだ。時速四百キロで空中を自由自在に動ける彼ならば、今からでもクロム・ディザスターに追いつける。

 

 必殺技ゲージさえあれば、だが。

 

 復活直後であり、戦闘によって蓄積された分も三次元機動のコンボに消費してしまった今のシルバー・クロウの必殺技ゲージは枯渇している。悠長にオブジェクト破壊でボーナスを溜めてる間に、クロム・ディザスターはサンシャインシティの離脱ポイントからログアウトしてしまうだろう。

 そうなれば、もう二度とこのような好機は訪れない。チェリーは自分の居場所が割り出されたロジックを悟って対策を立てるだろう。狂気に犯された今でも殺戮のためのロジックが健在なことは確認済みだ。そして、また新たな犠牲者が出る。それはプロミネンスの将来に大きな禍根を残す、下手すれば致命傷にすら成りかねない。

 完全に優先順位を間違えた。それに比べたらまた一時間後に再戦するくらいなんだというのだ。

 

 詰んだのか。ここまで来て、終わってしまうのか。

 

 落ち込みかけた気力を気合と意地で立て直す。下を向いている暇はない。自分は王なのだから、最後まで誇り高く見苦しく足掻かなければならない。それがプロミネンスのトップに立っている者の務めで義務で権利だ。

 ニコの中から真紅の炎が噴き上がる。その熱に押し上げられたように下を向きかけていた二人も顔を上げた。

 スノウは覚悟と決意を漲らせ、せめて追いつけなくともと刀子を逆手に握り、クロウはその光景に天啓を受ける。

 

「スノウッ、オレを斬ってくれ!」

 

 一瞬呆気にとられ、次いでドン引きしかけたが、王としての務めを曲がりなりにも果たしてきた優秀な脳みそはちゃんとその裏で特殊性癖以外の動機を導き出してくれた。

 一方のスノウの方はニコよりもずっと綺麗な心をしているようで、邪推することなくすぐにその意図を察していた。こんな何気ないところで自分の薄汚れ加減を思い知らされて軽くへこむ。

 復活直後ゆえに潤沢な体力ゲージを、わざと被ダメすることによって必殺技ゲージに変換する荒業。確かにゲームとして考えるのならありふれた手だが、痛みが現実世界と大差ないこの世界では正気の沙汰とは言い難い。

 

「痛いですよ?」

「覚悟の上だ! 時間が無い、はやくっ」

 

 わずかな間考えたスノウだったが、結局それ以外に代案が見つからなかったのだろう。わかりましたと感情を凍らせた声でつぶやき、アイレンズの色が淡いグリーンから鮮やかなブルーに変化する。

 かりん、と軽い音がした。しかし一拍遅れてシルバー・クロウの右わき腹から噴き出したダメージエフェクトは頸動脈を掻き切ったような有り様で、そのダメージ量が膨大なものであることを示す。

 

「グう……!」

 

 身体を丸めて痛みに耐えた後、クロウはすべての重圧を跳ね除けるように大きく仰け反った。じゃきん、と十枚の羽根が剣のように凛々しく伸ばされる。

 

「よしっ、時間稼ぎは任せろ!」

「おいっ、一人じゃ無理だ」

「そう思うなら一刻もはやく駆けつけてくれよな。できれば喰われる前に頼むっ!」

 

 そう言い残し、銀の鴉は飛び去った。風圧に反射的に顔を庇いながら、ニコはビル群の隙間へと消えてゆく光を見送る。

 現実世界ではビビりでうじうじしていたのに、あんなに熱血なところがあったとは。あんなもの見せられては、こんな状況にも血管に火が入ってしまうではないか。まあ、そうでもなければ再び凍えて動けなくなっていた可能性もあるので、純粋にありがたいことにしておく。

 そんな風にある種のんびり考える余裕があるほど、ニコはどこか自分が舞台の中心から外れてしまったことを感じていた。変な話だ。親子の関係であり、王と配下の関係であり、組織を守るためにその組織を愛するようになった切っ掛けをこの手で打ち取らねばならないという矛盾にして、ありふれた悲劇の真っ最中。明らかに主人公は自分たちであるはずなのに、今の自分はまるで観客であるようで。

 

「……いきましょう、ニ、じゃなくてレインちゃん」

 

 そっと腕を引かれ、ニコは我に返った。アイレンズの輝きが緑に戻ったスノウが、おずおずとこちらを見ている。

 

「クロウさんを追いかけないと。レインちゃんを抱えても、スノウが走った方が速いと思います」

「あ、ああ……」

 

 座りが悪いというか、居心地が悪いというか。

 いくら大切な幼馴染とはいえ、いやだからこそと言うべきか。彼女の前では現実世界の、それもまだ王でなかったころの弱い自分にキャラクターを引き戻されてしまうところがある。

 しかしここは加速世界であり、今の自分は二代目赤の王として動いている。キャラクターを稼働させる回路が王と子供の狭間で揺らされ続け、言葉遣いもキャラ設定もまるで安定しない。

 

 それに、この自分よりもずっと素直で可愛い友人に対して、思うところがないと言えば嘘になる。

 

 ゲームを初めてひと月で、荒削りとはいえ五十人以上の格上を屠るだけの実力を身に着けた成長性。加速世界最低の犯罪者の子であり弟子であるという肩書。何より、二人の大切な幼馴染であり友人であった少年を、傍にいながら守れなかった、逆に追い詰めてしまったという後ろめたさ。

 くよくよと迷ったり考えたりしたりしている暇がないほど立て続けに問題が迫りくるこの状況は、もしかしたらありがたいのかもしれなかった。

 促されるままに首に両腕を回し、肩と膝の裏に手を回されて軽々と持ち上げられる。

 

「なんか手慣れてないか?」

「ししょおを嫌というほど運びましたから」

「そうか」

「はい……」

 

 居心地の悪い沈黙を誤魔化すように、スノウのローラーは甲高い音を立てて走り出した。クレーターを出る直前、海藻のようにそこかしこで光の柱がたなびく視界の端に黒の王を抱き起すシアン・パイルの姿が映る。彼らも後を追うのだろう。

 空を行く彼らには及ばないが、地表からわずか百三十センチ弱の視界で感じる速度はかなりのものがある。

 迷いもなく流れる景色の中で障害物をひょいひょいと躱すスノウの動きは、本当に彼女が誰かを運んで動く行為に熟練していることを感じさせた。

 腕の中から幼馴染であり、親友であった少女のアバターの顔を見上げる。F型アバターによく見られる、硬質パーツのマスクに一対のアイレンズがついたスタンダードなタイプだ。表情は読みにくい。

 彼女はここに至るまでに、何を捨ててきたのだろう。自分の経験と照らし合わせたその想像を大切な幼馴染に向ける行為はひどく居心地の悪いものであり、ニコは走行の邪魔にならない程度に身じろぎした。

 そこでふと、自分が謝っていないことに気づく。そうと自覚した後に謝罪するのは小学校の授業で倫理道徳に対し真顔で語る並に精神的にくるものがあったが、移動中は最低限の警戒以外にやることが無い。忙しいという言い訳は使えず、逃げるという手も舌の根が乾かぬうちにというやつだ。

 

「……えーと……ごめんね」

「へ?」

「いや、ユキちゃんのお師匠、撃っちゃってさ……悪かった」

 

 歯切れ悪く謝罪する。謝って済むようなものではないと自分で言っていて思うが、あっさりとスノウは――雪風は「いいですよ、そんなことは」と受け入れた。

 

「ししょおは生きている限り何を仕出かすかわからない人ですから。むしろここまで状況が収束してしまえば、台無しにされる前に死んでもらった方が無難です。ニコちゃんはグッジョブでした」

「あ、そう……」

 

 昔から小動物めいた可愛らしさと、どんな相手にも敬語を使う礼儀正しさと臆病さ、そしてアンバランスに老人のように達観した部分を持っている少女だったが、久しぶりにじっくり話す幼馴染は淡泊がだいぶ割増されているように思えた。

 それにしても死んだ方が無難などというのは、納得できなくもない評価ではあるのだが、酷いというか何というか……。

 

「なんかぞんざいな扱いだな……」

「体感時間では七年以上いっしょにいますからね。遠慮もなくなりますよ」

 

 思わず漏れてしまった声に対する返答は、さらっと吐かれた割に深刻なセリフだった。

 最長でも現実世界の一か月で、加速世界七年間。別に学校を休まずとも、無制限中立フィールドに立ち入る資格があればリアルを圧迫せずに達成可能な割合ではある。平日に三時間、休日に六時間ずつダイブすれば十分だ。

 しかし、人格が不可逆なまでに変質してしまう一線――帰還不能地点(ポイント・オブ・ノーリターン)を超えるのにも十分な時間だ。それどころか、無制限中立フィールドというもう一つの世界に囚われて現実に帰還できなくなる危険性さえ存在するハイペースである。

 それを踏まえて考えれば驚くほど変わっていない幼馴染に、一抹の恐怖と多大な納得を覚えた。

 まあ、ユキちゃんならおかしくないだろうと。

 

 上月由仁子が陽炎雪風と知り合ったのは二年半前、ニコがブレイン・バーストのインストールに成功して半年後のまだピヨピヨ言っていた時のことだ。

 

 ニコの通っている学校の正式名称は『遺棄児童総合育成学校』。遺棄児童と頭に入っているが、いくら遺棄児童の増加が加速して社会現象化しているとはいえそれだけで採算は取れないらしく、ニコやチェリーのような親の顔を知らない子どもばかりでなく、何らかの理由で孤児となった子供も幾人か存在している。

 

 ユキカゼもその一人だった。

 

 新一年生になったばかりの幼い少女。よほど両親のしつけが行き届いていたらしく当時から礼儀正しい子供で、親を喪った哀しみでやつれてもなお素直で可愛らしく、周囲に溶け込むのは時間の問題かと思われた。

 しかし彼女は異常だった。性格ではなく、その性質が。

 運が良いなどという言葉では片付けきれない、あからさまな確率の偏りが彼女の周囲では発生する。すごろくでサイコロを振れば常に六の目が飛び出し、でなければ今度はそれ以上に有利な効果があるマスに止まる。ゲームのコントローラを握れば乱数調整でもしたのかと疑いたくなるほど主人公の攻撃はクリティカル続きとなり、敵の攻撃は外れたり当たりそこないになる。

 当初は驚き、興奮し、楽しんでいた子供たちも、すぐに距離を取り始めた。ユキカゼが幸運を引き当てるということは、自分たちがそれ以外を割り当てられるということだと思い知らされたために。

 中にはいじめといった排斥の動きも無いわけではなかったが、それはすぐに消えた。()()()()、いじめを主導していた子供たちに次々と不幸が襲いかかり、ユキカゼは解放された。

 

 幸運と幸福は必ずしも同義ではないのだと、横で見ていた当時のニコは初めて知った。

 

 傍目にも明らかな彼女の幸運を利用しようとする大人も当然存在した。馬券を適当にユキカゼに選ばせて大儲けした職員など、最もわかりやすい例だろう。

 しかし、ユキカゼはおとなしく善良な少女であっても、彼女に宿る幸運はどこまでも冷酷で即物的で容赦がなかった。

 欲望に溺れ、一線を越えた者は情け容赦なく不幸に断罪される。そして金の卵を産むガチョウの腹を捌かずにいられる賢明な人間は驚くほど少数派だ。

 五人目の職員が一身上の都合で職場を退職するにあたり、やっと彼らは彼女の異常性(アブノーマル)が自分たちの手に負える存在ではないということに気づいた。

 

 誰もが羨む幸運に憑かれた少女であり、誰もが蔑む幸運に疲れた少女、ユキカゼ。

 

 税金で運営されている施設である以上、法的に問題の無い保護者が彼女を引き取りたいと申し出れば、社会的には無力で未熟な未成年である彼女に断る術はない。どこからか彼女の噂を聞きつけた『遠い親戚』が彼女を引き取るまでにかかった時間はわずか一年足らず。

 それまでにニコは彼女が多くの人間を終わらせてきたのをその目で見たし、引き取られたその先でも同じことを繰り返して転々としているらしいということを、職員同士の噂話を盗み聞きしたことで知った。

 だから実は()()マーブル・ゴーレムの弟子になったと聞いた時も、驚き取り乱しこそすれ、信じられないとは一度も思わなかったのだ。その存在だけで他人の人生を破綻させるその存在の有り方(キャラクター)は、ある意味同じだと思ったから。

 そんな疫病神、死神と陰口を叩かれながら表面上は腫れ物に触るように、あるいは表面張力でプルプル震えるニトログリセリンいっぱいのビールジョッキを運ぶような慎重さで施設内で扱われていた彼女に声をかけたのは、ニコの方だったからのように憶えている。

 当時はブレイン・バーストのおかげで人並みの社交性も何とか身に付きはじめ、そろそろ同性の友達も現実で欲しいと考えての行動だと自分で思っていたが、今ならわかる。

 そんなありふれた理由なら、わざわざ孤立していたユキカゼを選ぶ必要が無い。

 

 ニコは、ユキカゼ相手なら優位に立てると計算していたのだ。

 

 素直でおとなしく優しい性格。小動物めいた可愛らしさに溢れる容姿。貧弱な人間社会の中では生きにくいほど強大な幸運を差し引いても高水準でまとまった各種ステータス。現実世界では何一つとして勝てる要素が無い彼女に対して、自分より下だと格付けすることによって悦に浸っていたのだ。

 優れ過ぎたがゆえに欠点として発露した異常性が、彼女自身の意志や行動ではどうしようもないからこそ、自らの優位性は揺らがないと安心して手を伸ばせた。

 そんな薄汚く汚れた自分の手を取る彼女の顔は、処女雪のような穢れない喜びに輝いていたというのに。過去から追いかけてきた自己嫌悪がいまさらなだらかな胸を締め付ける。

 

 チェリーは一生懸命に、とても年上の男の子らしく自分のことを力がつくまで守ってくれたが、その力をつける手助けをしてくれたのは主に年下のユキカゼとの交流だったように思う。小娘扱いされ、自分でも未熟を否定しきれず、それでもなお曲がりなりにも二代目の王を小学生の身の上で担ってこれたのは彼女から学んだことが大きい。

 人の話を聞くときは否定せず、ちゃんと相手の目を見ること。嘘をつかず、誠実であること。自分の間違いは潔く認め、速やかに正すこと。それは一方的に譲り続けるのとは違い、調子に乗って相手が一線を踏み越えてきたら笑顔で手痛いでは済まない制裁を与えること。

 それは別に難しいことではない、小賢しい者たちが聞けば当たり前だと笑うようなことだが、その当たり前がニコには必要だったのだ。その当たり前のことを当たり前に実行できる者が強いのだと、頭ではなく心で覚えた。

 

「それよりも、ニコちゃんがそこまで追い詰められていたのに、相談されなかったことがつらいですし、声をかけることが出来なかった自分が情けないです」

「ごめん……」

 

 今もこんな風に、友達が落ち込んでいたら当たり前のように気遣う。

 

「はい。雪風もごめんなさいです。みんな悪かったし、たぶんみんな悪くなかった。きっとそういうことですよね」

 

 正直な話、頭の悪い道徳の教科書の一説みたいなやり取りは少し以上に気恥ずかしかったが、仲直りや謝罪にはこのような羞恥心で胸をかきむしりたくなるようなやり取りが安定して効果的だと、今までの経験で知っている。

 大切なのは羞恥のあまり誤魔化したりせずに、誠実に受け止めることだ。それも彼女が教えてくれた。

 

「……じつは雪風、それよりも前から、ずっとニコちゃんに謝らなきゃいけないことがあるんです」

「え?」

 

 ふと、ユキカゼはそんなことを言い出した。

 今は絶賛クロム・ディザスター追跡中だ。長話をしている余裕も猶予もない。それを理由に打ち切ってしまおうかとも考えたが、そんなことユキカゼ自身も十分承知しているだろう。だからその考えは、『逃げ』だ。

 未熟者の鴉が今も頑張っているにもかかわらず、王の自分がここで逃げるわけにはいかない。ニコは黙って先を促した。

 

「知ってたんです。ニコちゃんが雪風を下に見ていることも。そのことにずっと苦しんでいたことも」

「……っ」

 

 見抜かれていた。自分の浅ましさを。羞恥心でかっと頭の芯が白くなる。

 この親友の前では強化外装(インビンシブル)を構築した根源である『外の世界に向けて武装した自分』を使いたくないし、使えない。よって抱きかかえられたまま逃げることもできず、無様に腹と喉を晒し続けることになった。

 もしかしてあの笑顔の奥で屈辱に歯を食いしばっていたのだろうか。それとも得意げになっている自分を裏で嘲笑していたのだろうか。反射的に湧いてくるネガティブな考えは続く言葉で即座に潰された。

 

「でも、怖かった。ニコちゃんが友達を見下して平気でいられるほど強くも弱くもないってこと、知っていたのに。独りに戻るのが怖くて、ニコちゃんが離れていっちゃうのが怖くて、見て見ぬふりをしたんです」

 

 高速で滑走中のため、ユキカゼの視線は常に前を見ている。しかし、運転の片手間になおざりに話しているわけではないことは痛いほど感じられた。硬いデュアルアバターの装甲越しに、ひんやりとした心地よい温もりが伝わってきたから。

 理屈抜きにこの子は本当にあたしのことが好きなんだなって実感できて、ついあのころのようにひねくれた言葉で甘えてしまう。年下に甘えるだなんて情けない気もするが、それ以上に甘えられる相手がいることが嬉しい。

 

「ふーん。じゃあ今こうやって告白できるようになったのは、別にあたしがいなくなっても大丈夫になったとか、代わりにマーブルの奴ができたとか、そういうこと?」

「まさか。マンガやゲームじゃあるまいし、代用可能(オルタナティブ)なんてありえませんよ。ニコちゃんもひいくんも、かけがえのない、大切なお友達です。

 覚悟を決めたんです。ただ手を差し伸べられるのを待つだけじゃなくて、自分から手を取りに行く覚悟を。もしもニコちゃんがこれで離れていこうとしても、今度は雪風から友達になりに行くだけです」

「あはは。そりゃあ一歩間違えたらストーカーだな」

「否定はしませんよ。まあ捕まらない程度に上手くやりますね」

 

 ユキカゼは謝罪するべきこととして挙げたが、ニコは今まで見て見ぬ振りをしてくれたのは正解だったと思う。たとえそれが正しいことなんかじゃなくても、もしも二年前のいつかにユキカゼから指摘されていれば、きっとニコは逃げたと思うから。

 そうなれば今このように、二人で笑い合いながら話すことなんてできなかっただろう。

 

「それに、ししょおが言ってました。友達という言葉は、こいつには絶対負けないと見下せる部分と、こいつには絶対勝てないと妬む部分、その二つが存在する対等な関係の上で初めて成り立つ概念なんだって。一方的に勝ったり負けたりしているうちは、ただつるんでいるだけの仲良しにしかなれないんだって」

「それは……なんつーか、いかにも()()()言葉だな」

「ふふっ、雪風もそう思います。聞いた相手にわざわざ反論を誘発させるようなシニカルな言葉選びですけど、間違いとも言い切れないかなって。だから、今なら言えます。ニコちゃんは気に病む必要はないんですよ。だって、『友達』なんですから」

「……ありがとう」

 

 ようやく、歯車がかみ合った気がした。ずっと掛け違えていた隙間から聞こえていた耳障りな空転の駆動音が消える。自分でも気づいていなかったわだかまりがゆっくり解けて、もしかするとこの瞬間にユキカゼとニコは本当の親友になれたのかもしれないとさえ思う。

 

 こんな気分は初めてだ。もう何も怖くない。だって、自分の隣にはようやく巡り会えた本当の友達がいるのだから。

 

 ユキカゼはこの周囲の地図が完全に頭に入っているらしく、大通りではなくその小回りの利く機動力を生かして青ざめた鋼鉄製の建築物の合間を縫って最短距離を滑走している。だからサンシャインシティ方面で大爆発と共に黒と橙の入り混じった火柱が青黒い曇天を焼き焦がすまで、空の戦いがどのようになっているのか知る術はまったく無かった。

 視界の悪いこの景色からでも理解できる決着の印に、ユキカゼとニコは無言で意見を交わしあう。結論はすぐに出た。口を開くまでもなく急に視界が開け、答え合わせの時間となる。

 予想通り、そこで蹲っていたのは――健在だったのは銀の鴉の方だった。サンシャインシティの大階段があったと思しき場所には新たなクレーターが生まれ、周囲は爆弾が爆発したようにタイルや石や金属の破片が散乱している。クレーターの中心には、左足以外の四肢も、黒銀の騎士鎧も喪失し、チェリーピンクの装甲を焼き焦がした小柄なM型アバターが力なく転がっていた。

 勝者であるシルバー・クロウも無傷ではない。左足はひどい衝撃を受けたように銀装甲が無残なまでにひび割れているし、肩甲骨の間からは細いワイヤーの切れ端がまるでコードか何かのようにぶらさがっている。

 彼がどのように戦い、どのように勝利したのか、ニコはその傷つき具合から手に取るようにわかった。

 きっと彼は空中での高いアドバンテージを生かして背中にワイヤー・フックをわざと打ちこませ、主導権を握ってそのまま諸共墜落したのだ。左足が激しく損壊しているところを見ると、あの足を軸に蹴り落としたのか。

 無茶をする。その無茶をしなければならない状況だったとはいえ、災禍の鎧が爆散して落下ダメージを相殺しなければ二人とも確実に死んでいただろう。

 ちりりと脳内でノイズが走った気がしたが、違和感では思考に影響を与えることはできても行動の撤回は難しい。加速世界を統治する純色の七王の一人として、赤の軍団プロミネンスを守る二代目赤の王として、そしてチェリー・ルークの子として果たすべき大任を目前にしたニコは、そのノイズを放棄することしかできなかった。

 クレーターの縁で動く力も残っていないシルバー・クロウの肩に手を置き、労いの言葉をかける。実際彼はよくやってくれた。ご丁寧にもワイヤーを切り取った後で両腕も破壊してくれたので、これでもうチェリー・ルークの精神状態がどうあれ逃げ出すことは不可能だろう。

 気を使ってくれたらしく、もう一人の幼馴染はシルバー・クロウの隣に留まりこちらを見守っている。ただ断罪されるその前に、友人の気持ちを受け止めてあげたいという理由だけで七年もの歳月をつぎ込んだ親友の行動は、ニコの背中に最後の一押しを与えた。

 

 親子の最期のやり取りを、ここであえて詳細に記載するなどといった無粋なマネはすまい。

 

 ただ、断罪の一撃でリボンのように解けて空へと消えてゆくコードの羅列を見ながら、明日からもちゃんとバーストリンカーをすることはできそうだと、そう少女は思った。

 ざり、と後ろから二人分の足音が近づいてくる。一つは金属ゆえに硬質で、もう一つは足の裏にローラーがある影響か響きが特徴的。右後ろに留まり、何も言わない気配に対して、ついに心の奥底に押し込めていた想いが溢れ出してしまった。

 

「もし、二年半前にチェリーの子になったのがあたしじゃなくてユキちゃんだったらさ、こんなことには、ならなかったのかなぁ……?」

 

 声が震える。視界もぼやける。

 この二人の前では言ってはならないことで、だからこそ抑えきれずに口から出てしまった『If(もしも)』だった。

 意味のない仮定だ。そんなこと、言われなくとも理解している。それでも考えずにはいられないのだ。

 もしもチェリー・ルークが子を作るのを半年後に遅らせていれば。そうすれば可愛げのない孤立した自分なんかではなく、十二分に魅力的なのに異常な幸運で台無しにされているユキカゼを選んだのではないか。ユキカゼがこの世界に適性があることは立証済みだ。自分でなくて、彼女なら――

 

「『ここにいるのが自分以外の誰かであれば、もっと良い、正しい世界になったのではないか?』」

 

 あまりにもこんがらがった今の気持ちを的確に紡ぎあげた言葉に、思考が中断を余儀なくされる。

 凛と静謐に言葉を吐いた幼馴染は、シルバー・クロウとニコの視線を受けながら背筋を伸ばして続きを述べた。

 

「加速世界で過ごした七年の月日の中で、一度だけししょおが話してくれたんです。自分のアバターの鋳型となった、心の傷の話を」

 

 ニコも、シルバー・クロウも口をはさむことが出来ずにただ言葉を待つ。正直、ニコはなぜユキカゼがこのような話を突然始めたのか理解できない。クロウもきっと同様だろう。きっと黙って続きを待ちわびる理由も違う。

 でも、きっとおんなじだ。直感的にそう思った。

 

「『確信に等しい自身への絶望と、それでも捨てきれない願い』。ししょおはそう一言でまとめていました。ニコちゃんなら知っていますよね? 自爆攻撃を持つアバターが、どのような心の傷を持っていると言われているのか」

 

 ニコは無言で頷く。ブレイン・バーストが当時小学校一年生だった子供百人にオンラインで配布されてから、あと三か月もすれば八年が経過する。ゲームを初めて三年のニコはプレイヤー年数で言えばよくて中堅の域だが、王になるまでに、そしてなってから積み上げた経験と知識は古参に劣らない自負がある。

 メタルカラーの心傷殻理論に限らず、デュエルアバターのデザインがどのような理論で構築されているのかというのは多くのバーストリンカーたちの興味の対象だった。攻略サイトも取扱い説明書もないこのゲームで絶対の答え合わせはできるはずもないが、一千倍に加速されたこの世界で脈々と積み重ねられた研究は、まず確実なのではないかと言える数々の仮説を生み出した。

 扱う技から源となった心の傷を類推するのもその一つだ。煮えたぎるような怒りを源として構築されたデュエルアバターならクロム・ディザスターを頂点とする破壊の力を持って生まれる。怨念が源なら呪い系統の間接攻撃を。

 そして、自爆から類推される心の傷は――

 

「絶望……」

 

 ニコの声にクロウがびくりと反応したが、口は開かなかった。

 自分を傷つけて相手を倒す自爆技は、自分に対する深い絶望が源となっていると言われている。

 マーブル・ゴーレムが自爆技を使うのは目の当たりにしたはずなのに、そんなこと考えたこともなかった。

 

「そう。マーブル・ゴーレムを構築した三つの柱のうち、一つは自身への絶望です。人間の一回の射精に含まれる精子は平均して一億から四億と言われていますが、そのうちの一つでもズレていれば自分が生まれてくることはなかった。

 なのに間違えて最も劣った自分が生まれてきてしまった。

 マーブル・ゴーレムが持つ分身能力は自分が生まれてきたせいでここに生まれてくることが出来なかった、ずっと自分(ライハ)よりも優れていて正しい自分(だれか)なんですよ。だから胎児(ゴーレム)なんです。

 二つ目の柱がそれ。この世界の、自分以外のすべてが自分よりも優れているという確信」

 

 バーストリンカーを続けていれば、いつか自分の心の傷と向き合う時が来る。

 でも、こんなにも悲しく、逃れ難い傷を聞いたのは初めてだった。

 何があればそこまで自分に絶望することができるのだろう。この目で見たマイナスの情報圧を思い出す。王である以上、負の心意を扱う――負の心意に飲まれた者を一度ならず討伐した経験があるが、彼らだってどこかに甘さがあった。卑下の中に混ざった自己保全があった。心意でぶつかり合えば理解できる余地があった。

 きっと彼女にはそれが無い。容赦も欺瞞も未練も過剰も否定もなく、等身大に己を無価値、いやマイナスの価値と認めている。強がるという形でさえ強さを持たない、弱さを極めた彼女は誰よりも自分に優しくない。

 ブレイン・バーストは冷酷に残酷に無関心に平等に、そして偽らずに人の心を反映する。マーブル・ゴーレムという加速世界の彼女の写し身は、きっとその証明だ。

 もしもそのような絶対的な心の傷が心意として具現化されたら、どのようなものになるのか。王としての戦慄とゲーマーとしての興味、そして一人の人間としての純粋な痛みが疼いた。

 それでも彼女はへらへら笑って、当然のように生きている。

 そう。構成する三つの柱のうち、最後の一つがまだ残っている。祈るような気持ちでニコはそれを待った。きっと自分もそれを知れば、また立ち上がって――

 

「そして三つめ。分身を取り込んで自分を強化する技は、たとえ自分が最低だったとしても、その上で自分を中心にして無数の可能性を踏み潰してでも先に進む願いの表れだって、言ってました。それっぽく自慢げに言っておきながら、これだけは自分でもよく把握しきれていないみたいでしたけどね。

 でも『幸せになりたかったし、幸せにしたかった』と言っていた言葉に嘘はないと思います」

 

 思っていた以上にあっさりと公開された三つめの柱は、まるで探せばどこにでも転がってあるようなありふれた言葉と思想で構成されていて、ニコは足を踏み違えたような気になった。

 前の二つはとても納得できた。自分が見聞きしたことと合致している。それが、そんなもので相殺されるというのか?

 未来に希望を抱くだとか、誰かを幸せにしたいとかだなんて、そんな政府が指定した絵本の主人公みたいな標語で?

 

「……そうか、だからライハさんは」

 

 しかし隣でぽろぽろと不透過のヘルメットの目の部分から涙を流すシルバー・クロウを見て、理解した。理解できないことを理解した。

 きっとこれは、マイナスである彼女が己の傷口をかき混ぜてようやく掴み取った答えなのだ。ならば同じ経験をしていない、自分ではちっともそう思わないが他人からはエリート街道まっしぐらと言われる自分にはそこらにありふれたガラクタ同然に見えて当然だ。

 ただの言葉なんて、鼓膜の上を横滑りするだけの音でしかないのだから。きっとこれを理解できるのは、理解できてしまうのは、己の内側に共通の経験を、統一規格の回路を持ち合わせた同類のみ。

 

 ――理解できてしまうのは、きっと幸せなことではない。

 

 黒の王の言葉の意味が改めて理解できた気がした。あいつもその結論に至るまで、似たような経路をたどったのだろうか?

 

「ししょおは『白に憧れたけど結局薄汚れたモドキにしかなれなかった』って笑っていました。自分が薄汚れたモドキだってことを嫌味でも何でもなく受け入れて、へらへら笑っていました。

 言葉にすればダメな自分を肯定するとかそこらへんの、ありふれたつまらないものになるんでしょうけど……」

 

 ならば黒の王は知っているのだろうか。シルバー・クロウは涙を流して共感できる程度にアレと似通っているということを。わかって求めて隣に置いているのだろうか。

 自分は受け入れられるのだろうか。大切な幼馴染が語れる程度にアレと近しい存在であるということを。

 

「それを聞いた時、雪風は思ったんです。今もおんなじことを思っています。

 たとえ四億通りの平行世界があって、ここにいるあなたが四億のうち最も最低な可能性だったとしても、雪風が異常(ユキカゼ)である限り、限りあるIfの中で今が間違いなく最も幸運ですよ?」

 

 受け入れられる。雪が融けるようなあたたかい笑みを見て、ニコは確信した。理解はできなくとも、理解できないものとして受けいれよう。きっとそれは、理解の放棄と似ているようでまったく違うことだから。

 それにしても、親友の笑顔を見上げるのがまぶしい。まるで後光が差しているようだ、と思ったら本当に七色の光を背負っていた。

 りぃーん、りぃーんと涼やかな音が世界を胎動させる。変遷だ。必殺技による歪なものではない、加速世界の法則の一つとして起こる奇跡にして日常。地平線からオーロラに包まれて、見る見るうちに草木萌えるファンタジーめいた美しい世界に生まれ変わってゆくフィールドは心打つものがあった。

 

「ほう、運がいいな。霊樹ステージの変遷に立ち会えるなんてめったにないぞ。普段のも美しいと言えなくもないが、殺伐としている感は拭いきれないからな」

 

 背後からの声にシルバー・クロウが飛び上がっても、気配を察知して腹の底に力を入れていたニコは今度こそ無様を晒さずに済んだ。

 振り向けば予想通りの人物で、こちらは予想外に七割が砕け散りながらも残った剣で仁王立ちする黒の王。ホバー移動とはいえ破砕面を地面と接触させるのは相当痛むはずだが、この意地っ張りめと共感を覚える。あるいは、気になる異性の前で別の男に抱きかかえられた姿をさらしたくないという乙女な理由によるものか。

 どちらであろうと今は構わない。先手必勝とばかりにニコは黒の王の前まで駆け寄ると、パンと音を立てて両手を胸の前で合わせ、頭を下げた。

 

「あたしが悪かった。スマン!」

「……ン。嫌味の一つでも言ってやろうかと思っていたが、そんな真正面から突っ込まれたら私が大人げないみたいじゃないか」

 

 やはり何だかんだ言って黒の王はいい奴だった。今までは王としての器の違いを思い知らされるようで僅かな焦燥を感じていたが、今だけはありがたい。

 

「どうします、ニコちゃん。今なら黒の王、狩れると思いますけど?」

 

 空気が凍った。緊張感などというまともな凍り方ではない。理解の範疇外に放り出された、極めて本能的な硬直だ。

 それほどまでにユキカゼの声は気負いなく、天気の話をするようにさりげなく、オムレツを作るときに卵を割るように容赦がなかった。

 今日だけで何度目になるかわからない『逃げちゃダメだ』コールを心の中で連打しながら親友の顔を見る。期待はとても薄かったが、案の定スノウ・ウィンドのマスクに冗談の要素はひとかけらたりとも入っていなかった。

 

「なっ、何を言っているんだ君は!? 君はライハさんの弟子なんだろう? ネガ・ネビュラスとモノクローム・シアターは同盟を結んでいるんだぞ!」

 

 この期に及んでは的外れ感も甚だしい、しかし実際は理論的には的を得ている指摘を代表してシルバー・クロウがやってくれる。本人にそういうつもりはないだろうが。

 

「たしかにスノウはししょおの弟子ですけど、どこのレギオンに入るかはこの一件が終わってから決めろという約束ですから。ししょおのことは尊敬していますけど、盲従するわけじゃありませんし」

 

 スノウはあっさり答えた。たしかにそれなら、フリーのバーストリンカーがリアルの親友の手助けをするということになり、同盟的には何の問題もない。あくまでスノウ限定で、ならだが。

 マーブル・ゴーレムのその約束に裏を感じてしまうのは穿ちすぎだろうか?

 

「……それでも、プロミネンスとネガ・ネビュラスが不戦協定を結んでいることには変わらないよ。たとえ口約束だとしても、ね。それにきみたちが小学生で、リアルに戻ればぼくらがすぐ隣にいるという状況もどう言葉をこねくり回そうが変わらない事実だ」

 

 この場で唯一無傷であるシアン・パイルが静かな口調でそう言った。臨戦態勢には入っていないものの、その分厚い身体から立ち上る威圧感は刻々と増しつつある。ハイランカーたちのそれを比べればドーベルマンと柴犬くらいの差があるとはいえ、ニコの腹筋に力を入れさせるのには十分だった。

 しかし、スノウは揺らがない。

 

「帰るまでが遠足です。無制限中立フィールドから離脱するまでが災禍の鎧討伐作戦です。不戦協定は討伐作戦の報酬でしょう? 作戦が終了していない以上、発動はまだ先の話ですよ。現状はただの、共通の敵がいたから矛を交えなかっただけの関係です。まあ、たしかに畜生にも劣る最低なおこないだということには同意しますけど……」

 

 にっこり。

 擬態語をつけるとすればそれが適切な笑顔をスノウはマスクいっぱいに浮かべた。

 

「もう最低は、スノウにとっても雪風にとっても避けるべきものではなくなっていますから」

 

 七年も共に過ごしたのだ。何の影響もないだなんて、ユキちゃんなら大丈夫だなんて盲信するのは、サンタさんを信じるお子様のようなメルヘンチックな甘えだった。

 ニコは認めざるを得なかった。

 雪風の心には罅が入っている。それがそのまま亀裂となって砕け散るか、塞がるかはこれから次第だが、確実にアレの影響を受けている。

 

「いや、不要だ。あたしはネガ・ネビュラスとはこれからも友好を結んでいこうと思っている」

 

 きっぱりと体の芯に力を入れて否定する。

 

「すまないロータス。彼女の友人として全面的に謝罪する。先の行動も含めて、何らかの償いが必要だというのならプロミネンスの運営に差し障りが無い範囲で受け入れよう」

「……いや、それには及ばないさ。子供のたわごとを真に受けるほど余裕が無いわけじゃないからな」

 

 金額が無記入の小切手を渡したに等しいのに、あっさり突き返される。やはり黒の王はお人よしすぎるほどに無欲だ。それとも、何よりも優先する衝動があるから他に回すキャパシティが不足しているのか。

 なんにせよ、その無欲に胡坐を欠けばいつか痛い目を見るだろうが、今は甘んじてその恩恵を受けるとしよう。子ども扱いされているのは気に食わないが、自分が未熟だということは今回の一件で身に染みて痛感したことなのだから。

 

「よかったぁ。ここで本当にニコちゃんが話に乗ってきたらどうしようかと思っていました」

 

 空気を凍らせた張本人でありながら、まるで他人事のような顔をしてスノウが起伏に乏しい胸を押さえて安堵している。明らかに師の悪影響である、相手の神経を逆なでする言動だった。

 

「えっ、冗談だったの?」

 

 そういうのに鈍そうなシルバー・クロウは素で答えていたが。そのおかげで険悪になりかけた空気が換気されたのは彼のファインプレイだろう。当人はまったく無自覚だろうけども。

 

「いえ、ニコちゃんが本気で望めばここで始めるつもりでしたよ? でも、今のニコちゃんでは満身創痍の黒の王ならともかく、他の六王には誰一人として勝てませんから。目先の欲に囚われず、ちゃんと戦況把握ができるニコちゃんでよかったです」

 

 昔から臆病な気質で誰に対しても優しかったくせに、楽観や希望的観測に基づいた行動に対してだけは別人のようにシビアだったなーとニコは懐かしく思った。ふんわり考えないと傷が深刻なことになりそうだった。

 年下の親友に酷評されたニコに対して同情的な視線が集まる。この場において悪役を上げるとすれば間違いなくユキカゼであり、その師匠であるライハだった。だからこそ、あれだけの暴挙を行ったニコに対する批判が薄くなる。

 

「あー……本当にライハの弟子なんだな、キミは」

「えへへ。褒め言葉として受け取っておきますね。ネガ・ネビュラスの方々とも仲良くなりたいと思っていたんですよ。本当ですよ?」

 

 呆れたような黒の王の視線にさらされてもユキカゼは揺らがない。天使のような笑顔の裏に歪んで狂った気配を匂わせつつ、くるっとステップする。

 

「ほら、早く離脱しましょう。変遷もこのステージも綺麗ですけど、変遷直後はエネミーがリポップしちゃってますから」

「いや、その前に大切なことがある。各員、自分のストレージを確認するんだ」

 

 思わず流れに乗りかけた周囲の空気を、黒の王が凛と断ち切る。まさか忘れかけていた災禍の鎧のもう一つの呪いに自分で唖然としながら、おとなしくニコはインスト画面を開いた。

 その場にいる全員が確認し、全員がストレージに災禍の鎧の名がないことを宣言した。

 一瞬の沈黙。

 クロウは今度こそ消えたのだと言い、ニコも同意だった。災禍の鎧が砕け散った光は自分たちも確認している。

 あの時に、もしかするとこのままチェリーを助けられるのではないかという未練が脳裏をよぎったことは否定しないが、システム的にはたとえ強化外装は破壊されたところで所有者がリログインすれば何事もなかったかのように復活してしまう。助けられないさだめだったのだ。

 それはともかく、あれだけの暴虐を目の前にしてこっそり隠して使おうなどという馬鹿者はここにはいないだろう。レディオじゃあるまいし。

 

「経験から学ばない者は愚か者以下です。前回はそれで失敗したんでしょう?」

 

 しかし、ユキカゼはその考えに真っ向から異論を唱えた。

 

「七王の討伐作戦の時とは違い、今回の討伐作戦は全員がリアル割れしています。数珠繋ぎ(ディジー・チェーン)すればお互いに可視化できるんですから、確認するべきです」

 

 子供特有の甘さや幻想を捨て去ったシビアな考え方。ある意味相手を信頼していないとも取れる発言だが、感情の温もりを欠いた手続きを踏んでこそ確立されるものもある。

 

「全員が全員の証人。悪くない話でしょう?」

 

 空気は極めて微妙なものとなったが、筋は通っている。

 

「では、お先に失礼しますね。ついさっき物騒な発言をした相手に背中に立たれるのは嫌でしょうから」

 

 言う必要のないことをわざわざ口にしてポータルの青い光の中へと歩みゆく親友の背中を見ながら決意する。

 今度は絶対に間違えない、と。

 心情的には魔王に囚われたお姫様を救出する新米兵士に等しい熱意に燃えるニコは、背後でびくりと硬直し、不安そうに周囲を見渡すシルバー・クロウのしぐさに気づかなかった。

 胸の中に燃え盛る熱を自覚しながら自分もポータルの中に足を踏み入れ、青い光に視界を侵食されながら、最後の最後でとんでもない忘れ物をしていたことに気づく。

 

 ――あ、マーブル・ゴーレムおいてきちまった。

 

 

 七色のオーロラが通り過ぎた後、色彩を取り戻した視界をぐるりと一捻りしてライハは首を回した。周囲には同様に復活を遂げた総勢五十四名のクリプト・コズミック・サーカスの方々。先ほどまで殺し殺されしていた関係からまともに考えれば、詰みに近い危機的状況である。

 まあ、そんなまともな感性を彼女が持ち合わせているはずもなく、うーんとその歪な身体を精いっぱい伸ばして仮想の肺に酸素を取り入れる。まるでおとぎ話に登場する妖精の国のように神秘的な生命力にあふれた木々が生い茂るこのフィールドの空気は、きっと汚染された現代の地球のものとは比べ物にならない。

 水中だろうが真空地帯だろうが問題なく動けるデュアルアバターの身体でどこまで効果があるのかは不明だが。

 そんなリラックスしていることを全身でアピールするライハの背後に、一つのひょろりと背の高い影が立った。

 

「災禍の鎧は討伐されたと思いますか?」

「まず、間違いないじゃろうな。この期に及んで逃がすような軟弱なキャラじゃないじゃろう、やつらは? それにスノウの『偏愛賽子(サイコロイヤル)』はストーリーに大きく影響を及ぼし、影響を受けるから逃がしておればこんな感動的なステージにはなっておらんよ」

「なるほど」

 

 しゃららん、と金属の円環がこすれ合う涼やかな音が風に乗って響く。魔都ステージの時は青黒い地表をさらけ出した闘技場のごとく殺風景なクレーターだったこの場所は、いまや柔らかそうな丈の低い草に覆われた窪地と化していた。あちこちに色とりどりの花が咲き乱れており、寝転んだらとても気持ちよさそうだ。

 

「でもまあ、少し意外でしたよ。ここだけの話、あなたから声がかかったとき、災禍の鎧の味方について王三人が一夜にして全滅という可能性も考慮に入れていましたから。あのような弱さに溺れた少年は、けっこう大好物でしょう?」

「けろけろ。球磨川さんなら『弱いものの味方』じゃからそのように動いたかもしれんが、儂は『か弱いものの味方』じゃからのう。か弱いとは即ち、可愛くて弱いが省略されたもの。たしかにあやつは弱かったかもしれんが、可愛さは儂から見れば食指が動くほどではなかったのよ」

「この場にはいたいけな小中学生が大勢いるんですよ。大声で当たり前のように嘘をつかないでください。国語のテストで赤点取ったらどうするんです」

「そんなの儂の管轄外じゃな」

 

 まあ実のところ、ライハは弱い者を愛するが、より厳密にいえば弱さを自覚しながら足掻き続ける者にたまらない魅力を感じるのだ。弱さから逃避してしまったチェリー・ルークはその意味では踏み潰しても痛痒を感じない程度の相手でしかなかった。

 また、同時に弱さから逃げ出したくても投げ出すこともできずじたばたもがき続けるハルユキはとても可愛らしい存在とも言える。

 

「か弱いものが大好きだからといって、愛したいものをか弱くしてしまうのは何か歪んで間違っていると思いますけどねぇ。ロータスがああなったのはあなたが原因でしょう? どうしてくれるんです、危うく少しときめいてしまうところだったじゃありませんか」

「けろんっ、ごく一般的な愛が人を強くするというのならば、儂らのような存在(マイナス)の愛情が相手をますますよわっちく、ダメダメにしてしまうのは当然の節理じゃろう。だからおぬしも少し弱くなっているかもしれんぞ」

「あれ、いま私遠まわしに告白されました?」

「なんじゃ、直接的に言ってやろうか? おぬしのこと、結構好きじゃよ? 具体的にはロータスの三割くらい」

 

 ちなみに黒雪姫に向けられている好感度を好き(プラス)百とすれば嫌い(マイナス)が百二十であり、ハルユキは好き(プラス)八十に嫌い(マイナス)二十となる。これで相殺されてマイナス二十やプラス六十にならないのはライハが過負荷(マイナス)たる所以だろう。

 道化師はがっくりと肩を落とすと、一瞬後には何も無かったかのようにすらりと姿勢を正してまじめくさった声を出した。

 

「それで、どうでしたか?」

「うーん、今回は坊主(ハズレ)じゃったみたいじゃのう。視線はときおり感じたんじゃが、釣り針に食いつくまではいかんかったよ」

「フムフム、あなたでさえ発見までは至らなかったということは、例の恥ずかしがりやさんですかねぇ。『ブラック・バイス』でしたっけ? ロータスと色かぶり(おそろい)を自称する、バーストリンカーにその名を知る者がいないハイランカー。うふふ、ロータスが知ったらどんな顔をするやら」

「すっごく嫌な顔をするじゃろうな。うん、目に浮かぶ」

 

 けろけろうふふ、と邪悪な笑みを浮かばせる二人はしかし、背中合わせでお互いのことを決して見ようとはしなかった。まるで互いに独り言を呟いているだけだと、どこかの誰かに主張するように。あるいはお約束を頑なに守る芸人のように。

 そんな自分たちのトップの様子を、クリプト・コズミック・サーカスの面々は当然のような顔をして見守っている。そこには主演俳優とその他観客という、明確な境界線が存在していた。

 

「ま、今回は残念じゃったな。白幕からお姫様たちを守る正義の味方(ヒーロー)の役目は当面おあずけのようじゃ」

「アハッ、かませ犬を厭うようなら道化師やれませんよ。だいたい、『実はいい人』な策士が裏でみんなのために暗躍するだなんて、噛まれ過ぎて味が無くなったガムも同然じゃないですか。ああさむいさむい。道化師(ダークヒーロー)が主役を張れるような反社会的で不謹慎な時代は半世紀近く前に終わったんですよ」

「けろけろ、然り。かき集めてきた五十三名は赤と黒の王を狩るためのもの。間違いないわい。

 まあ、もしかすると赤と黒の王に逃げられた後、運悪く災禍の鎧と戦う羽目になったり、さらに悪いことが続いて災禍の鎧を生み出した白幕との激突だなんて演目もありえたかもしれんが、所詮は実現しなかった可能性。祭りの後でああだこうだ言っても詮無き事よの」

 

 伊達と酔狂とキャラ作りのためなら命を張れる傾奇者たち。常人には理解不可能な思考回路から発せられる言葉の羅列は、だからこそ理解してくれる相手の前で楽しげに弾む。

 

「まあ、私が正義だということは否定しませんがね。何しろ加速世界を分割統治する純色の六王の一人ですから」

「ああそうじゃのう。かつての仲間が裏切りの果てに変じた魔王(ブラック・ロータス)の、世界征服(ゲームクリア)という野望を阻止するために、日々悪の組織(ネガ・ネビュラス)と戦う正義の味方じゃったよな」

「いえいえ、正義の味方ではなくただのしがない正義です。そこのところ、お間違え無く」

「そうか、それは失礼した」

 

 会話している当人たちはとても楽しそうなのだが、見ている方は言いようのない緊張感に満ち満ちている。戦意や敵意とは程遠いものであることは確かだが、ピリピリと張りつめた沈黙は謎の重圧(プレッシャー)を醸し出していた。もっとも、そんなものに影響される二人ではないのだが。

 

「ああ、そうだ。正義ついでに一つ、ロータスに伝言を頼まれてくれませんかねぇ。『もしもアナタが小娘の友足らんとするのであれば、偉大すぎる先代の影を何とかしてやりなさい』って。それくらい、自分で仕出かしたことのアフターケアの範疇でしょう。どうも二代目は純色(エリート)よりもこちら寄りの節がありますから」

「おう、任せろ。憶えていれば必ず伝える。なあに、記憶力には定評があるんじゃ」

「マイナス方面に、でしょう?」

「とーぜん」

 

 お互いに、この言葉がまっとうに宛先まで届かないことは承知している。だからこそ彼もおせっかいを焼く真似ができたのだから。

 

「まあ、私たちはこのへんにて。小娘が魔王を引き連れて復讐しに来る前に退散いたしますかね」

「儂の弟子が思考誘導しとるから大丈夫じゃと思うぞ?」

「ああ、あの白い死神ですか。驚きましたよ、あのようなエリートはあなたがもっとも嫌う人類だと認識しいていたのですが」

「まあな。窮鳥懐に入れば猟師も殺さずというやつじゃよ。あるいはあやつの『偏愛賽子(サイコロイヤル)』に儂もあてられとるだけなのかもしれんがな。一点豪華主義の異常(アブノーマル)には珍しく万能型(オールラウンダー)なあやつじゃから、今頃は狂った演技で小娘どもを飲み込んでおるころじゃろう」

 

 まあ、心が罅割れかけていることも本当だが、とライハは自分の愛弟子のことを脳裏に描く。

 ユキカゼの異常(アブノーマル)、『偏愛賽子(サイコロイヤル)』は一言で説明すれば『当たりくじを引き当てるスキル』だ。裏を返せば『ハズレくじを押し付けるスキル』でもある。そのキャラクターの絶対値は主観かつ体感で言えば『創帝(クリエイト)』都城王土にも匹敵し、必然出会った当初はスキル制御の欠片すら見受けられなかった。

 

 自分たちは相性がとても良かった。

 

 彼女の方からしてみればいくらハズレくじを押し付けようと、それをごく当然のように受け入れる過負荷(マイナス)であり、自分からしてみればいくら最低に巻き込もうと億に一つの幸運を当然のように掴み取って生き残ってくれる異常(アブノーマル)である。

 何一つなく気兼ねなく壊す心配なしに付き合える相手は貴重で大切で愛おしい。

 七年の歳月で心に罅が入ったのではない。七年も共に過ごしながら罅一つで済んだのだ。

 今はまだスキルの切り替え(オンオフ)どころか強弱(ハイロウ)のうち(ロウ)しかできないユキカゼだが、そこまでいけばあとは早い。この調子でいけば現実世界でひと月以内には箱庭学園式スキル制御術――健全フラスコ計画プロトタイプ其ノ負ノ七、通称『過負荷(マイナス)にもできるスキル制御』を一通り習得できるだろうし、そうなればもう罅が入ることもないだろう。

 すでに入ってしまった罅を埋めるのはライハには無理だが、きっとエリートである二代目赤の王が勝手にやってくれる。それが適材適所というものだ。

 

「生まれる世界が違えばきっと主人公にもなれたであろう逸材を育てるのは意外なほど楽しいぞ? 何で生徒会役員どもがあれほど嬉々として次世代育成プログラムを組んだのか、あやつのおかげで少し理解できた気がする」

「うふふ、相変わらずあなたが肝心なことを言うと半分も理解できない。でも、羨まし限りですよ……あなたに頼りにされている彼女が、ね」

 

 観客のテンションは最高潮に達した。

 

 ――おお、言ったー! 実はヘタレな団長が逝ったぞー!

 ――なるか、まさかのマーブルルートなるか? 俺たちの行動がついに実を結ぶのか!?

 ――まだだ、まだ決まらんよ! 姐さんたちの方がずっと一緒にいる時間は長いんだ。

 

 声は出さず、動きにすら出さずに沸き立つという器用な真似を決めるクリプト・コズミック・サーカスの面々たち。死地になるかもしれない戦場まで付いてきただけあって、どいつもこいつも自らの王に似てお祭りに命を懸けられる馬鹿揃いなのだ。

 

 ここで脈絡なく挟まれる余談だが。

 四転王(フォー・オブ・ア・カインド)は全員F型アバターであったりする。

 レッド・ライダーをリア充と呼んだ男、イエロー・レディオ。

 隣の芝は青く見える。閑話休題。

 

「おぬしも頼りにしておるよ? 毎朝儂を起こしてくれる目覚ましの次くらいに」

「ならばいっそ、ウチに来てみませんかねぇ? 師弟ともども歓迎いたしますよ。どうにもあの天然入り魔王は、自分がどれだけ恵まれた環境にいるのか理解できていない節が見受けられますし。MOTTAINAI」

 

 ――攻めるっ、ガンガン攻めるよ今日の団長! いったい彼の身に何があったというんだ? 何かいいことでもあったのか? 三割とはいえ好きと言われたのが効いてるのか!?

 ――輝いてる、サイッコーに輝いてるぜ今のアンタ。付いてきて、よかった……!

 

「うーん、やめとくわ。儂、あんたとこの四転王(フォー・オブ・ア・カインド)と仲悪いし」

 

 ――そしてあっさり振られたー!? まさかこの場に居らずして阻害系間接攻撃を発揮するとは、姐さん、恐ろしいひとだ……。

 ――宴会だ! 至急宴会の用意を手配するんだ。今夜は飲み明かそうぜ!

 

「ん、まあ、でも、そうじゃ――そうですね……」

 

 声に出さずに騒ぎ立てていた彼らが、ピタリと静まり返る。空気の変化を敏感に察知したのだ。いや、ドロドロと粘液のように染め上げるこれは、どれだけ鈍くとも心ある存在ならば否応なしに気づかされるだろう。理解させられるだろう。

 神秘的な力に溢れる精霊樹の森を歪めて捻じ曲げて失敗して間違えて負け倒すような、圧倒的な存在感に見合うだけの気配が溢れかえる。

 

「もしもいつか、()()()が困ったことになったら……助けに来てくれますか? 都合のいい正義の味方みたいに」

 

 この期に及んで彼女は振り向きもせず、道化師も向き合おうとはしなかった。

 ただ、静かに洗練された動きで細長い身体を折り畳み、誰もいない方向に恭しく一礼する。

 

「あなたが望むのでしたら、舞台がどこであろうと、どんな役だろうと演じて喜劇にして見せましょう。か弱い女子供を笑顔にするのが、サーカスのお仕事ですからねぇ」

 

 観客のテンションが天元突破した。

 

「決めたぁああああ! 団長が決めたあっ!」

「やべーよ、これやべーよ。もう馬鹿みたいに言葉が出てこねーくらいマジやべーよ」

「え、マジ? 大穴キタコレ? もう交通安全のお守りにできないの?」

「こらそこっ、外野うるさいですよっ!」

 

 堪え切れずに狂喜乱舞する一堂に主役が苦言を呈すが、そんなものでは彼らは収まらない。

 

「せやかて団長。いい加減どこかのルートに決めてくれへんと持越し(キャリーオーバー)がえらい額になってきてもんのや」

「人を賭けの対象にしない!」

 

 やいのやいのと騒ぐ彼らを背後に、ライハはくすりと笑みを零すと、仮面を被るように気配を抑えた。つぎに口を開いた時は、いつも通りキャラ作りのロリババア(本人談)口調である。

 

「けろけろ。愛されとるのう、イエローケーキ君や」

「いやはや。お恥ずかしい限りで……。ああもうっ、池袋駅のリーブポイントまで撤収です。解散しなさいっ!」

 

 ぶんっ、と大仰に道化師が手を振ると、とたんに彼を含め黄のレギオンの全員が影のように薄れて視認しづらくなった。何らかのスキルだったようで通常では考えられない速度で散開しながらも、さざ波のように笑い声が緑に包まれた窪地に響き草木を揺らす。

 最後に、どこからともなく道化師の声が聞こえた。

 

「うふふ、赤と黒の小娘どもにお伝えください。次の機会があれば、本気で演目(プログラム)に組み込んで遊びますから、とね。

 それでは御機嫌よう。くくく、ふふふ、あーはっはっはっはっはっ!」

「おう。また明日とかな」

 

 木霊する笑い声の残響に、わかっとるなぁと満足げに頷きを一つ。

 一人残されたマーブル・ゴーレムは余韻を楽しむようにしばらく空を見上げていたが、やがてふらふらと平衡感覚を喪失したような足取りで移動を始める。

 が、すぐにその足を止め、左腕を上に持ち上げてしげしげと見つめた。

 

「んー?」

 

 その単眼が見つめるのは、上腕部。クロム・ディザスターとの戦闘時にワイヤー・フックを打ちこまれ、隙を作るために自ら引きちぎった部分だ。

 

「……ふむ」

 

 しばらくそうしていた彼女だが、勝手に一人で納得したらしく、今度は足を止めずにふらふらと特徴的な足取りで歩き出す。

 後には、風に揺れる木々だけが残っていた。

 

 




欠篇に続く。

次回で二巻の内容は終わる予定です。
予定です。(大切なことなので二回ry


◆執筆のために原作を読み返すまで忘れていた原作設定◆

・『同じ相手とは一日一回』の通常対戦の制限は外すことができる
 厳密には対戦を仕掛ける方は無理ですが、対戦を仕掛けられる方は任意で外すことができるようです。
 初出はおそらく原作四巻のハルユキが能美に出した提案『ローカルネットに接続して云々』という箇所でしょうね。初代クロム・ディザスターの最期の記憶から、別にローカルネットなどの特殊な状況でなくとも一括で受け付けの制限を解除できることが暗示されています。
 また、十巻で明記されていますが直結対戦には一日一回の制限がもとから存在していないようです。

・対戦にドロー申請はあっても降参は存在しない
 これも十巻、全損寸前となったハルユキにタクムが救済措置を取ろうとした際に明記されています。

 これ以外にも十一巻で心傷殻理論の説明が出た時に、『メタルカラーはその象徴的な強化外装を持たない』という記述があったのですが、コバルト&マンガンのブレード姉妹という例外がいたので触れるのはやめておきました。
 彼女たちが己の魂と言った強化外装が、実は象徴的なものではないのか。初期装備といったのが嘘偽り、あるいは別の意味の暗喩だったのか。それとも単なるただの例外なのか。
 想像するのは楽しいですけどね。

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