大理石の胎児は加速世界で眠る   作:唐野葉子

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負篇

 

 突撃と号令がかけられたくせに、クリプト・コズミック・サーカスの第一手は遠距離型アバターの一斉射撃だった。

 戦法としてはそこまで奇抜なものではない、むしろ定石と言えるものだったが、イエロー・レディオの命令を念頭に置いて動いていれば一瞬の隙が生まれていたことだろう。

 

 想定の範囲内だ。

 

 ――いいか、レディオの言うことはいちいち真に受けるな。奴は仲間内で符号を作っておいて聞こえる内容とまったく別の行動を取るくらい、呼吸の気軽さでやる男だ。

 

 ハルユキはニコが張り巡らせた弾幕で一斉射撃を危うげなく相殺するのを尻目に駆け出していた。

 仮に撃ち漏らしがあったとしても、ニコの強化外装の装甲をそうそう遠距離火力で撃ち抜けるものではないし、万が一の事態が発生したとしても、ニコの傍には頼りになる相棒が控えている。

 もちろんハルユキが一瞬で戦術を組み立て、阿吽の呼吸で動き出したわけではない。この展開はすでに予想済みだったのだ。

 

 

 

「あくまで状況から逆算した推測だが、おそらくやつは災禍の鎧の出所を暫定的に掴んでいたのだと思う」

 

 あのとき、黒雪姫はそう言った。

 

「これはあくまで想像だ。きっとやつなら、証拠無用の推理は被害妄想と同義だと嘲笑う程度のものでしかない。それを念頭に置いて聞いてくれ。

 七年前、ストレージにドロップしたのは黄の王だったのだろう。搦め手といえばまずあいつだからな。……ライハがいつか『詐欺師と認識されている詐欺師は二流。真の悪人は周囲から誠実と思われている。まあ、そこが黄色の子供っぽくて可愛らしいところ』と笑っていたが、私がその境地にたどり着くにはもう暫くかかりそうだ」

 

 どこか痛みを感じさせるその言葉を皮切りに語られた黒雪姫の推理は、その場にいた全員の息を呑ませるのに十分な内容だった。

 

 結論から言えば、今回の災禍の鎧騒動は赤の王を釣り上げるための餌である。

 

 別に災禍の鎧である必要はなかったのだ。ただ、プロミネンス所属のバーストリンカーが黄のレギオンメンバーを全損させたという事実と、その断罪のためにニコが直接動くであろう犯人さえ用意できれば、それでよかった。

 

 今回はたまたまその条件に適合したのが災禍の鎧だったというだけの話。

 

 加速世界の七つの大罪の歴代『暴食』であり、黎明期に存在したという伝説的バーストリンカー『クロム・ディザスター』の名と共に脈々と受け継がれてきたあの災厄の鎧でさえ、策士の手にかかれば駒の一つに過ぎないのかとハルユキは眩暈がする思いだった。

 

 無論、すべては想像に過ぎない。何故鎧を入手してから動き出すまでに二年半ものブランクがあったのだとか、どうやってチェリー・ルークという二代目赤の王の急所をピンポイントで割り出したのかだとか、疑問点は尽きない。

 

「おそらく、黄の王はチェリー・ルークのリアルの居場所をトレースできるよう細工をしており、チェリー・ルークを待ち伏せするレインをさらに待ち伏せして集団で狩るつもりだろうな。

 貴様の性格的に個人で動きそうだし、現実的な問題としても災禍の鎧相手では、下手な手練れ程度では逆に足手まといになるだけだ。私たちが四代目討伐の時に、他の王に狩られるリスクを冒してまで配下を引き連れず、王のみで討伐隊を組んだ理由もそこにある」

 

 しかし、事態の全容がわからずとも、方向性がわかっていれば対策は立てられる。

 二人の王が選んだ選択は、撤退ではなく真っ向からの対決だった。

 罠があるのならば、かかった振りをして正面から食い破る。

 災禍の鎧を討伐することだけを第一目標とするのなら、ここで退くのも賢い選択だろう。しかし彼女たちは迷わなかった。

 舐められて引き下がるようなおとなしい性分なら、そもそも王になどなってはいないのだから。

 黒雪姫は黄の軍団が、個人もしくは少数精鋭で動いていると予測される赤の軍団を、大軍で取り囲み殲滅する作戦を立てているだろうと読んだ。

 その数、最大で五十と予想。

 バーストリンカーはその厳しい制限から例外なく子供だ。義務教育制度が行き届いている日本なら、九割九分九厘以上が学生だろう。

 ゆえに週末とはいえ平日に動員できる人数で、なおかつ対王を想定した戦いに連れていけるだけの練度を持つのは、七大レギオンの一つだろうがそこが限界と見たのだ。

 

「その程度の人数ならば、王が実力を発揮すればひっくり返せる。私は黄の王を必殺技が使えないように封じ込めておこう。

 その間に、小娘とキミたちで雑魚どもを片付けておいてくれ」

「小娘って言うな。……異論はそれだけだ」

 

 いちおう、参謀役を己に課しているタクムや、臆病なハルユキは慎重論を唱えはしたのだが、冷徹苛烈に微笑む黒雪姫や、怒りの熱を一滴たりとも漏らすことなく内に封じ込め青白く燃え盛るニコの前には儚すぎる抵抗だった。

 

 

 

 そして今に至る。

 黒雪姫の自信たっぷりな言動、心理的にも物理的にも押され気味に見える黄の王、そして明らかに打ち合わせ済みな機敏なハルユキたちの行動と重なり、クリプト・コズミック・サーカスの士気は目に見えて低迷していた。

 彼らは自分たちが狩る側だと思ってここまで来ていたのだ。確かに赤の王はかつてない強敵だろうし、犠牲が出る覚悟もしてきたが、それは手強い獲物という認識の延長線上でしかない。

 王同士の『戦争』や、あるいは自分が狩られる側に回ることなんて、彼らの想定の範囲外だった。

 仮にも黄の王が対王戦を想定して集めてきた精鋭部隊だ。一人一人のバーストリンカーが通常対戦でハルユキやタクムと戦ったとしたら、互角以上の戦いを戦いをしてみせたことだろう。ハルユキもタクムも、所詮は無制限中立フィールドへの進出が許される最低限のレベルしか持ち合わせていないのだから。

 しかし、集団対集団として見た時、士気の差は馬鹿にならない効果を生み出す。古来より戦における士気の重要さを説いたことわざなど、枚挙にいとまがない。

 

「がぁあああああああああ!」

 

 ニコが溜めこんでいた怒りと共に火砲を爆発させ、ミサイルを全弾放出する。次々と火球に飲み込まれポリゴン片となって砕け散る哀れなデュアルアバターたちの姿を見るに、戦局の明暗は明らかだ。

 まさに鮮血の暴風雨(ブラッディ・ストーム)の二つ名に相応しい威光。

 その傍では決して目立ちはしないが、重厚な蒼い騎士が真紅の姫の背中を守り、知力と武力の合わせ技でまた一人死地へと誘導する。彼の威圧感に耐えかねて思わず一歩右にずれた近接型デュアルアバターが、四門ある機銃の集中砲火を受け壊れた人形のように踊った。

 

 相棒の視界の広さとそつのなさに感心しながらも、ハルユキはただ一騎だけで黄の陣営の奥深くまで特攻する。

 脳裏に浮かぶのは、黒雪姫から託された自分の役割。

 

 ――いいかクロウ。キミはジャミング部隊を潰せ。

 

 黒雪姫はニコに問いかけた。お前が一番されて嫌なことは何か。黄の王は間違いなくそれをやってくるから、と。

 赤の王は心底嫌そうな顔をして答えた。間接攻撃、ジャミングをされることだ。わかってんのに聞くんじゃねえこのヤロウ、と。

 

 ――雑魚の五十匹や百匹、インビンシブルが十全に使えんならいくらでも薙ぎ払ってやんよ。だがな、逆に言えばあたしのスペックは遠距離射撃に特化され過ぎている。そこを潰されたらあんなもん、ただの的がでかいだけの鉄塊だろーな。

 

 ――聞いての通りだ、クロウ。二代目赤の王が遠距離火力に一極特化していることは加速世界では周知の事実。黄の王は必ずそこを突いてくる。

 火器を狂わせる間接攻撃なんていうピンポイントな能力、そうそう転がっているとは思えないが、やつなら強化外装を購入するなり何なりして最低三体は用意して、部隊の最奥に散らして配置するだろう。

 君はその機動力を生かして敵陣の奥深くまで突っ込み、隠されたジャミング部隊を破壊してくれ。

 

 そこまで凛とした表情で戦術を語っていたブラック・ロータスは、ふと表情を緩めて優しく微笑んだ。

 

 ――本当ならばすべてが終わった後に話そうと思っていたんだが、そんな余裕はなさそうだしな。

 今語っておくとしよう。キミたちを災禍の鎧討伐作戦に参加させた、その真意を。

 

 加速世界のシルバー・クロウはいまだ四十人が残る敵陣に無謀としか言いようのない突撃を仕掛ける。赤の王に決定的なダメージを与えることなく弾切れやオーバーヒートを起こした遠距離型アバターとスイッチする形で進み出た近距離型アバターが、ここは通すまじという威圧感を叩きつけてきた。

 状況に集中しながらも、ハルユキの意識は己の奥深く沈み込む。

 

 ――クロウ……いや、ハルユキ君。キミは恐れているんだ。負けることを。負けて失望されることを、嘲笑されることを、失うことを、奪われることをキミは恐れている。

 敗北とそれらが同意だと思い込み、敗北とそれらが分かちがたいものだと思い込んでいる。

 

 あの時そう言って語られたのは、それが災禍の鎧とどこで繋がっているのか、最初はさっぱりわからないものだった。

 しかし、伸び悩む対戦成績に鬱屈としたものを抱えていたハルユキは、そのものズバリを、よりによって黒雪姫本人の口から聞かされたことに驚き焦り混乱し、その時は気にする余裕などなかった。

 ただ、口には出さず感情的に反発した。

 それは思い込みでもなんでもありません。ただの事実です、と。

 黙って俯くハルユキに、黒雪姫はアバター越しでもはっきりわかる慈愛に満ちた苦笑を浮かべる。

 

 ――やはりな。いや、キミの経験を否定するつもりはないんだ。今までのキミの人生はそういうものだったのだろう。人は経験で学んだことを疑えない。だから経験で学んだことを、言葉で覆すのは至難の業だ。

 

 それでも困難であり不可能でないのは、人は信頼によりそれを覆すことができるからだ。

 

 そう言った黒雪姫の静かな声は、罅だらけのハルユキの心の奥底に今もなおゆっくりと染み渡り、潤いをもたらしてくれている。

 

 ――人は言葉を信じるのではない。言葉を発した人を信じるのだ。

 どうだ、ハルユキ君?

 私はキミが負けたくらいで、利用価値がなくなったとキミを見限るような薄情で頭が空っぽな女か?

 タクム君は失敗ばかりのキミに失望して見捨てようとしたか?

 チユリ君は間違うキミを嘲笑ったか?

 ライハは――いや、あいつのことはどうでもいいか。

 

 もちろんライハだってハルユキのことを見捨てようとはしなかった。むしろ、ハルユキの弱さをきっと誰よりも理解し、受け止めてくれている。彼女はハルユキの同類だから。

 

 ――別に今すぐに信じろとは言わんよ。キミが十三年積み上げた歳月は、そこまで薄くも軽くもない。あっていいはずがない。

 その上で聞くぞ。考える必要はない。感じるままに言葉にすればいい。

 加速世界の敗北は、キミから何かを奪うのか?

 

「僕は……バカだ……!」

 

 ビリビリと肌に感じる戦場の空気の中で、ハルユキは彼我の距離を急速に詰めながら吐き捨てる。

 誰もが教えてくれていたのだ。言葉ではなく、行動で。

 週末の領土戦争で、黒雪姫とタクムはハルユキが気づくまで辛抱強く待ち続けて、雁字搦めのハルユキをフォローし続けてくれた。

 ライハは一回の対戦の中で、雑念がどれほど心と身体を鈍らせるのか痛感させてくれた。

 

 ハルユキが気づくのはいつも何もかもが過ぎ去ってしまった後だ。

 脳裏に三か月前の、赤と白と黒でしか認識できない光景が一瞬フラッシュバックするが、すぐに頭を振って追い出した。あの時だって手遅れではなかった。今だってきっと間に合う。

 

 黒雪姫とライハ。対照的な二人だが、周囲に自分がどのように見られているかをよく理解しているという一点において、意外にも共通している。

 それは学校生活を送る上で有利な条件を得るためであったり、周囲をより効率的に引っ掻き回すための嗜好であったりと、理由は違う。それでもハルユキが尊敬し、目標とするこの二人の先輩は、思わぬところで似ていることが割とあるのだ。黒雪姫に言ったら確実に落ち込むだろうが。

 そしてもう一点、彼女たちはどのように評価されているのかは熟知していても、その評価に縛られないという点でもよく似ている。

 

 贅肉がついていた。リアルのぷよぷよした体の方ではなく、スピードと願いを体現しているはずのシルバー・クロウのシャープな装甲の上に。

 思い上がっていたのだ。加速世界唯一の純粋な飛行アビリティを体現したアバターともてはやされて、少しぐらい勝利が続いたから、勝利こそが自分の存在価値なのだと錯覚してしまった。

 

 これまでのハルユキの人生は勝利と共にあったのか?

 

 否、断じて否。

 彼の人生は常に敗北に彩られてきたではないか。

 傷つけられて貶められて地面に押し付けられて、這いつくばって生きてきたではないか。何故忘れることができたのだろう。

 

「うおおおおおおっ!」

 

 気合と共に翼を展開する。シルバー・クロウのポテンシャルをつぎ込んだ、かつて見上げた空への憧れを体現した十枚の金属フィン。

 そのままハルユキは大地を蹴り――胸部装甲を小石が掠めて火花を散らす超低空飛行で加速した。

 予想外の軌道に敵が動揺したのを感じる。

 今までのハルユキなら大空高く飛び上がり、急降下重攻撃(ダイブアタック)で相手のゲージを一気に削っていた。まるで遥か彼方からすべてを見下すエリートのように。そして身の程知らずの代償として、イカロスよろしく撃墜されていた。

 

 違うだろう? 誰かが脳裏で囁く。

 本来のハルユキの視界はこうだった。鼻に土埃を吸い込みそうな、油断すれば顔を踏み付けられる、誰かの足しか見えないこの世界で生きてきたのだ。

 ならばできないはずがない。

 

「いっけええええええ!」

 

 ドウッ、と翼の推進力で一気に距離を詰める。角速度の違いで遠くのものは遅く、近くのものは速く見えるため、もはや周囲の景色は正面を残してドロドロに溶けているようだ。しかし速く見えるのは相手にも同じこと。この距離をこの速度で詰めれば、遠距離型は狙いを定める暇もない。

 百戦錬磨の近距離型ならば、この速度であろうと一直線に詰めてくる相手にならカウンターが取れたであろう。もっとも、それはまともな精神状態であればの話。シルバー・クロウが翼を展開した瞬間に対空戦だと判断し、意識の間隙を突かれたその隙を――引きずり出したその弱みをハルユキは突いた。

 接触寸前で軌道を左に逸らし、茫然と立ち尽くす青系アバターの向う脛、いわゆる弁慶の泣き所にメタルカラーの金属製の拳を突き立てる。呆気ない音と共に足はへし折れ、一拍ひらいて背後で苦痛の悲鳴が聞こえた。

 勝つ必要はない。無制限中立フィールドでは痛覚が通常対戦フィールドの二倍に強化されており、部位欠損クラスの大ダメージを負って平然と動けるような子供はそうそういないのだから。

 スペックが発揮できないよう傷を負わせて、台無しにしてしまえばいい。勝利はニコやタクムといったエリートに任せてしまえばいいのだ。

 天地も定かでないほどドロドロに溶けた視界の中で、ハルユキは銀光を迸らせてひたすらに加速する。

 

 ――そ、それにだな。私は別に、バーチャル・スカッシュ・ゲームで高得点を叩きだしたキミだけに惚れたわけじゃないぞ。

 弱くて卑屈で情けなくて、後ろ向きで感じやすくてフラジャイルなキミも全部ひっくるめて、そういうところも余さず好きになったんだ。

 だから、いまさら一つ二つの失敗でびくびくオドオドする必要はない。それもキミのかけがえのない大切な個性なんだから、無理に隠そうとせずに胸を張って誇りに思え。

 私はキミが好きなんだ。

 

 脳裏で、指揮官や主君としてではなく女の子の顔をした黒雪姫の言葉が、瞬いて消えた。

 こんな自分でも、彼女は愛してくれるのだろうか。

 信じたい――信じたいっ。信じたい!

 いまだ真っ当に自分を信じてやることは出来そうもないが、尊敬するあの人が好きだと言ってくれる自分だけは信じてやらねばならないと思う。

 

 黄の軍団との衝突を予測していたため、ハルユキの必殺技ゲージは現時点で五割が残っている。池袋近郊までは極力アバターの足で移動して、そこから罠にかかったと見せかけるために飛行を開始したからだ。

 その必殺技ゲージにモノを言わせて翼を強く羽ばたかせる。基本はライハとの一戦で掴んだ感覚だ。大空を舞うのではなく、地上のすぐ上を泳ぐようにしてハルユキは銀の尾を宙に描く。まるでバーチャル・スカッシュ・ゲームで二足歩行を冒涜するがごとくの動きを見せるハイイロマダラガエルのように。

 慣れない軌道に何度もバランスを崩しかけ、一度は肩が地面にぶつかって体力ゲージが五パーセントも減った。ピカピカの銀装甲はたちまち擦過傷だらけになる。

 それでいいのだ。華麗な戦術や人の目を奪う技術など犬にでも喰わせてしまえ。みっともなくて情けなくて、それでも譲りたくないものが今はあるのだから。

 ふいに三半規管を直接振動させるようなノイズが響き、視界が変則軌道とは別の要因でブレる。

 ジャミングだ。

 敵の攻撃が近接メインに移行したので、当たり前といえば当たり前なタイミングである。もはや一刻の猶予もないとハルユキは意識を集中させた。

 この作戦のメインアタッカーは間違いなくニコだ。

 黒雪姫がイエロー・レディオを抑えている間に、その部下たちを一掃する。殲滅力は黒雪姫を含めてもおそらくニコがトップだろう。

 ハルユキがいくら頑張って一人二人戦闘不能にしたところで意味はない。スカーレット・レインならば十数体をまとめて薙ぎ払えるのだから。

 りぃいいいん、と時間が圧縮される澄んだ音が脳の奥で響き、ドロドロに溶けた視界の中で色までもが消えてゆく。

 過去も現在も未来も曖昧になっていく意識の中で、再び愛しい人の声が聞こえた。

 

 ――とはいえ、言葉だけで納得するもの難しかろう。だから古典的で典型的な手法ではあるが、キミに態度で示してやろうと思ってな。今回の一件を引き受けたのはそういう理由だ。

 迷ったときは、自信のないときは、私の背中を見ろ。キミへの信頼が溢れているはずだ。

 なぜなら今回の作戦は、全員がかけがえのない役目を担っているからだ。誰が欠けても、狩られるのは私たちの方になるだろう。

 キミに王二人の命、確かに預けるぞ。

 

 ――勝手にあたしの分までかけてんじゃねーよ。

 

 導かれるように溶けた視界が戦場の中心を向く。

 色彩を失った世界の中で、そこだけが燦然とフルカラーで黄色と黒が瞬いていた。

 今、ブラック・ロータスはイエロー・レディオに必殺技を使わせないことだけを目標に戦っている。レベル9同士のサドンデスルールが適応されるその戦いの中で、そのためにはダメージを甘受することも許容している。攻撃に特化した彼女のデュアルアバターは、決して打たれ強いとは言えないステータスなのに。

 何という精神力だろう。まさに挫けないエリートの鏡だ。

 

 本当に?

 

 否、ハルユキは知っている。黒雪姫の中に、普通の打たれ弱く臆病な女の子の一面が存在していることを。

 すべてを切断する美しく残酷な強さを持つブラック・ロータスが彼女の写し身なら、側面からの攻撃に弱く脆いところもまた彼女なのだ。

 何がそんな彼女を支えているのか。

 

 僕だ。

 

 と、はっきり断言できない自分が情けなくてたまらない。たぶん、僕だと思う。でも、タクやニコが大半で、僕なんて……と思う気持ちは消しきれない。

 でも、当面はそれでいいのだ。黒雪姫はこんな自分を好きと言ってくれたのだから。

 一歩ずつ、焦らずにゆっくりと、でも確実に、自分のことを好きになっていこう。

 それは不思議な決心だった。自己愛とは似ているようで違う、何かに向けて一直線に努力しているときに感じるものに似た、居心地の良い感触。

 加速世界で戦い続けていけばいつか、その場所にたどり着ける気がする。

 うまく言葉にできないが、とにかくそんな感じ。

 

 敵陣の中を縦横無尽にグニャグニャと泳いでいたハルユキの目に、ついにそれが止まった。

 鈴虫の羽のような強化外装を大きく展開し、いかにもな放射状のエフェクトを発信している黄系アバター。あれがジャミングで無くて何がジャミングだと言わんばかりの外見。

 一人目のジャミング部隊だ。

 しかし、部隊の要だけあって赤一人、青一人の屈強な護衛が付いている。特に赤系アバターの方はハルユキがこちらに狙いを定めたことに気づいたらしく、巨大なクロスボウを構えた。

 なるほど、あれなら電場妨害系のジャミングに左右されまいと、頭のどこかで納得する。

 集中しているくせにそんな雑念が湧き出すほど、妙に頭の中が静まりかえっていた。りぃいいん、という澄んだ音は鳴りやまず、むしろどんどん大きくなっていく。今やシルバー・クロウから溢れ出る銀光は宙に残像を残すまでに大きくなっていたのだが、本人はまるで気づかなかった。

 

 ただ、頭の中に必要なイメージが湧き出てくる。最近の対戦成績を低迷させていた遠距離火力相手だというのに、恐怖に回すような感情の余裕はまったくない。

 ……あれは、まだハルユキがいじめに遭っていた時期、しかしライハ相手に十分な受け応えができる程度には回復していた時のことだ。

 当時はカエル型アバターという姿しか知らなかったライハは笑ってこう言った。

 

 ――昔は冒険者として鳴らしたもんじゃが、膝に矢を受けてしまっての。

 

 何がどうしてそんな話題になったのかは思い出せない。ただ、ライハが自分のふらふらとした歩き方の理由について説明した言葉だったということは覚えている。

 もちろん、当時の自分はこうツッコんだ。どこの世界に膝に矢を受ける中学生がいるんです、と。

 ライハはとても残念そうな顔をした。

 

 ――ジェネレーションギャップかぁ。寂しいのう。では今風にいくか。

 昔は組織の一員として鳴らしたもんじゃが、膝に銃弾を受けてしまっての。

 

 ――ライハさんだと洒落にならないからやめてください。

 

 ――けろけろ。嘘じゃよ嘘。じょーだん。本気にしたか?

 

 ――だから洒落にならないんですって。

 

 ――ああでも、ハル坊や。万が一おぬしが生身で銃弾を避けねばならなくなった時のために、儂が弾避けのコツを教えておいてやろう。

 

 聞いたときはそんな機会があってたまるかと思ったものだった。

 だから記憶の奥隅にしまい込んだまま忘れさっていたのだが、もっと早く思い出していれば銃弾避けアプリで反吐をまき散らす必要はなかったかもしれない。

 ライハはハルユキが加速世界に行くことを、あの時すでに予想していたのだろうか。案外、現実世界のことを想定していそうな気もする。

 今は大切な時だからという理由で、それ以上深く考えるのはやめておいた。

 今回の相手はクロスボウだが、同じ要領でいける。

 猛スピードで飛び続けたが、頻繁に地面や攻撃に接触し、またダメージを与え続けてきたため、必殺技ゲージはまだ四割弱が残っている。それに任せて翼の推進力をさらに一段階上げ、目標へ変態軌道で近づくハルユキの脳裏に、ライハの甘い声が響いた。

 

 ――銃には構造的欠陥が二つある。

 

 一つ目は銃口から直線状にしか弾が出ないこと。加速世界ではホーミング機能がついていることも珍しくないが、ハルユキが苦手としているのは弾速の速い直射型だ。誘導型なら今までのハルユキの速度で対応できる。今回、目の前にいるクロスボウ使いも直射型だと、ハルユキの直感が囁いた。

 二つ目は、引き金を引かなければ弾が出ないこと。これにも加速世界現実世界を問わず、例外はいくらでもあるだろう。しかし、今回に限って言えばこれも当てはまっている。要は銃口から弾が飛び出す前に、人間側に予備動作が発生するのだ。

 

 ――弾速はニューロン発火速度を超えておる。つまり視覚で弾丸を捉え、その情報が脳で処理され「避けろ」と命令が体に伝達されておる間に、とっくの昔に銃弾は命中しとるわけじゃな。

 脳と神経を使っておる限り、それが人間に超えられん限界じゃ。弾丸を目視してから避けようと思えば、生物学的に人間やめるほかない。

 本当は撃たせんのが一番いいが、儂らが儂らである限りそれは無理じゃろう。

 じゃから強い銃とではなく、弱い人間と勝負しろ。それでも高確率で負けるじゃろうが、な。

 

 言い方はシニカル極まりないが、要するに銃弾とではなく、それを放つ人間と向き合えとライハは言っていたのだ。

 それを忘れ、ただ避けられない銃弾のみに気を取られていたハルユキは、何度も被弾する羽目になった。それが無駄とは言い切れない。銃弾避けアプリの影響で、ハルユキの反応速度は確かに向上したのだから。

 だから、その間違いも失敗も自分の一部として。言葉にすれば失敗を乗り越えてとか経験から学んでとか、ありふれたつまらないものになってしまうけど。

 ライハが言っていたような、鈍くて重い現実世界の肉体に縛られたうえで目視不可能な銃弾を避けるのに比べたら、戦闘を前提に生まれたデュアルアバターでギリギリ目視可能な速度の攻撃を避けるのなんて、とんだイージーモードだ。

 イージーモードすぎて頑張ればぎりぎり達成できるのではないかと思えてしまう安直かつ困難な手法に飛びついてしまったというのがいかにも自分らしいが、反省会は後にしよう。現実世界に戻ってからライハや黒雪姫に話して、笑いながらダメ出ししてもらおう。

 そのためにも、今は――

 

 ドクン、ドクン……。

 

 アバターに存在しないはずの心音が聞こえる。耳の奥で血流が轟々と音を立てて流れているのを感じる。ブレイン・バーストの加速ロジックが心音をベースクロックに見立てて増幅したものならば、今ここで聞こえているこれは何なのだろう。

 ドロドロに溶けた世界の中で、ハルユキはどこも見ないですべてを見ていた。彼我の距離はあと十メートル。ここまでは乱戦地帯だったので射線が通っていなかったのだ。

 残り八メートル。赤系アバターの全体像がくっきりと浮かび上がる。地面に付いた片膝。骨で固定した射撃体勢。ビリビリと脳髄を射抜く殺気。

 

 ――科学的に殺気と呼ばれているものは、目線とか筋肉の強張りとか重心移動とか呼吸とか怒声とか、そういうものを複合した『今から攻撃しますよ』と相手に伝わる情報を複合したもの、と言われておる。

 しかし、儂の知り合いの中には数キロ離れた場所からのスナイパーライフルの狙撃を殺気だけで躱すバカがおったんじゃよなぁ。視覚情報も聴覚情報もない状態で躱せるってことは、殺気のその定義は間違いでなかったとしても、それだけでもないということじゃろう?

 じゃから格闘漫画のようにこちらの殺気を感じて、五感に頼らない回避をされることが十分ありうると覚えておけ。あ、自分ができるようになるとは期待するなよ?

 

 脳裏でライハの言葉がはじけて消えた。何の話だったか前後関係を思い出す余裕はない。この世界では情報圧という目に見えない殺気のロジックがれっきとして存在するから、そんな格闘漫画のような回避が狙撃を天敵とする自分の目指す完成形かもしれないと、雑念が一つ湧き出て消えた。

 思考がバラバラにほどけて糸の塊のようになっている。横合いから突き出された剣を当然のように躱した。もとより一対一で集中できるなんて幻想は抱いてない。横合いから手を伸ばされて台無しにされるのは慣れているし、台無しにする方もこの三か月でよく見てきた。

 そんな思いもするするとほどけて消えた。残り五メートル。有田春幸では絶望的なまでに遠い、シルバークロウでは一秒もかからない距離。焦りで相手の全身がわずかに強張るのを、他人事のように眺めていた。

 ぶわり、と相手の身体から蒸気のようなものが立ち上がり、色のない世界にラベンダー色の弾道予測がはっきりと浮かび上がる。そのことを意識しないまま、ハルユキはただ流れのままにその予測ラインに巻き付くように螺旋状に飛行した。

 残り三メートル。ジッと焦げ臭い音を立てて右頬を太い矢が掠める。達成感はない。幸い麻痺(パラライズ)などの付与効果はなかったようだと冷静に判断を下す。あるいはメタルカラーチャートの貴金属寄りである『(シルバー)』が強い耐性を持つ(ポイズン)効果があったのだが、無効化されたのかもしれない。影響がないのなら考える必要のないことだ。

 残り一メートル。相手の顔が絶望に引き攣る。

 そしてゼロへ。ハルユキは左翼に渾身の力を込めると弾かれたように方向転換し、その勢いを乗せたまま黄系アバターの鈴虫の羽のような強化外装に回し蹴りを放った。翼の推進力で体勢を変え、四肢を使った微調整によるキックやパンチはバーストリンカーとなってから鍛え続けてきたスキルの一つだ。

 狙い通り、ピンと伸ばされた右足は鉈のように目標の右羽を根元から刈り取る。例の強化外装は一対の羽をこすり合わせて効果を発揮する原理だったらしく、たちまち効果エフェクトと耳朶を揺らすノイズの一部が消え去った。

 

 深い深い潜水から浮上するように、世界に音と色が戻ってくる。本当に潜っていたように、ぷはっと息が口から洩れた。

 

「って、うわっ!?」

 

 気が抜けたその瞬間を見計らって叩き込まれた斬撃をハルユキは慌てて避けた。見れば、護衛として付いていた青系アバターが、せめて仇は討たんと意気を漲らせて次の一撃を放とうとしている。

 一度ほどけてしまった集中を必死に結びなおそうとしながら、ハルユキは半ば直感に任せた回避運動に移るのであった。

 黒雪姫の読みが正しければ、最低でもジャミング部隊は残り二人。ここで撃墜されるわけにはいかない。

 

 ――加速世界の敗北は、キミから何かを奪うのか?

 

 奪う。ここで負ければ黒雪姫やニコとの大切な絆を、愛しい人が渇望し続けている未来を失うだろう。それだけは絶対に嫌だ。

 でも、現実世界と違い、理不尽に奪われることはなかった。

 この世界は冷徹で残酷だが、とても平等で律儀だ。

 敗北さえも悔しさや惨めさと共に、次は絶対に負けないという未来への意欲を与えてくれる。

 だってここは、何よりも刺激的なゲームなんだから。

 譲れないものがあるのは当たり前。負けられない戦いがあるのも当たり前。

 でも、それ以前に楽しもう。

 それこそがゲームだとハルユキは思うし、楽しめないゲームはゴミ箱に抛り捨てて然るべきだと、尊敬するもう一人の先輩も言っている。

 

 そういえば、とハルユキはゴリゴリとHPゲージを削られながらふと思い出した。

 

 今ごろ、ライハさんとスノウ……ちゃんは、何をしているんだろう?

 

 

 黄と黒の王の戦いは膠着していた。

 あえて言わずとも黒の王がそう望んで持ち込んだ結果である。攻撃力、防御力ともに他色に劣る黄系の純色が、誰がどう見ても近接特化の黒の王相手にバトン一本で奮闘しているのは見事の一言だったが、もともと間接攻撃特化色である黄色が他色に対抗しようと思えば必殺技を使用する必要があるのだ。

 悠長に技名発声や発動モーションを行う余裕がないこの間合いの高速戦闘は明らかに黄色の王に不利な戦場だった。それを打開しようとノックバック効果のある蹴りを入れてもうまくいなされたり、あるいは敢えて受けられたりして間合いが開かない。開かせない。

 この一戦にかかっているのは単なる勝敗の名誉ではない。彼らの加速世界そのものだ。

 レベル9に適応されるサドンデスルールの重みは、ある意味黒の王が一番熟知しているだろう。だというのにまるで動きに迷いもよどみもないブラック・ロータスに、イエロー・レディオは気圧されるものを感じた。それはたちまちくるくると回転するバトンに影響を与え、弾き損ねた剣戟が服の鈴飾りを一つ切り飛ばす。

 

「ぐっ……!」

 

 必殺技ゲージはとっくの昔に満タンだ。こんなことにならないように、事前にコツコツとオブジェクトを破壊して溜めておいたのだから。

 権謀術数でペースを握り、開幕ぶっぱで一気に畳みかける。レディオの抱えていた青写真は、脆くも儚く最初の一歩で崩れ去った。

 二年前ならば零化現象(ゼロフィル)さえ起こしていたであろうブラック・ロータスの、予想をはるかに超えた精神的成長によって。

 策は裏返り、明らかに精神的不利な立場に立たされたイエロー・レディオの動きは精彩を欠いている。並大抵のハイランカー相手ならそれでも互角以上の戦いができただろうが、今相手にしているのは加速世界に累計八人しか確認されていないレベル9の内、二人が手を組んだ連合だ。

 押し込められるのはある種当然の帰結と言えた。

 

「何故ですロータスッ、何が貴女をそこまで押し上げたのです!?」

 

 次々に死亡マーカーと化していく部下を背後にレディオは叫んだ。その声は必死なようでいて、どこか演じているような胡散臭さが消えていない。

 回転するバトンでは防ぎきれない斬撃に薄く装甲を削られ続けながら、悲劇の主人公のように黄の王は嘆く。

 

「それが二年前、貴女の望んだ高みだとでも言うのですか! 裏切り貶めた友の思いに囚われず、ただ次を目指してその手を血で染め続けることが、あの時目指した境地だというのですかっ!」

「勘違いするなレディオ。私は強くなんてないさ。強くあろうとはしていても、な」

 

 ブラック・ロータスは静かに返した。池のほとりにひっそりと咲いた黒蓮のように静謐に、ただ淡々と言葉を紡ぐ。

 

「確かに私は二年前のおこないを悔いている。決して許されない罪であると、もはや信仰していると言っても過言ではないだろう。

 そして私をそれに駆り立てた、私自身でも折ることのできない闘争心を恐れている」

 

 ブラック・ロータスのゴーグルの奥で、青紫色の瞳が自嘲するように瞬いた。

 

「実に愚かで嘆かわしい話だ。踏み付けるエリートが胸を張って笑わなければ、踏み付けられる者たちはどこで泣けばいいと言うのか。傲慢に奢り高ぶらなければ、彼らの劣等感はどこにぶつければいいと言うのか。

 だから私は胸を張るよ、レディオ。私の中の炎が私を焼き尽くし、流してきた数多の血の代償をこの身で支払う時が来るその時まで、私は私が虐げてきた全ての者にこれが正しいのだと押し付けよう」

「ぐうっ……! その覚悟が強さで無くてなんだというのですっ」

「弱さ、さ。これは私の弱さなんだ。偽って強がって貼り付けて、それでも誤魔化しきれずに引きずって、それでも諦めきれずに進み続ける。これは私の弱さなんだよ。

 言ってみれば、弱さが増えた代わりに、脆さが減った、という感じ……かな」

「わけのわからない戯言を……!」

「ふふ、戯言か。きっとあいつならこの程度、戯言以下の言葉遊びだと言ってへらへら笑うだろうな」

 

 至極当然のことだが、このやり取りの間にも剣戟は続いている。下手な実力者では目で追うどころか反応すら許さない、ブラック・ロータスの神速の斬撃がイエロー・レディオのクリティカル・ポイントを狙うこと延べ十六回。時間稼ぎが狙いであることはお互いに承知しているが、気を抜けばあっという間にどちらかのHPゲージはゼロになるだろう。

 パチッ、パチッと装甲の破片と細かなダメージエフェクトを散らしながら、レディオは苛立ったように甲高い声で吐き捨てた。

 

「また彼女の話ですかっ。いい加減してください。聞いていなかったのですか、彼女は貴女を裏切ったのですよ? この場に私たちがいることが何よりの証拠。

 忘れたとは言わせませんよ。三年前のあの日、親の首を刈り取った貴女へと向けられた憎悪に満ちた彼女の瞳をっ。その後の彼女が加速世界最低の犯罪者と言われるまでに至った、たった一週間の出来事も!

 何やら表面上は仲良くしていたようですが、実際は彼女が復讐の機会を虎視眈々と狙い続けていたという、何よりの証ではありませんかっ!」

「忘れやしないさ……忘れられるものか。私に限らず、あの場にいた者たちの中であのときの光景を忘れることができる者などいやしないだろう。

 あれは王の罪だ。正義は私たちにあり、実際に法に従い断罪もしたが、もし仮に正義の味方とやらがあの時いれば、むしろ彼女たちの方を助けただろうくらいには、な。

 しかし……ふふっ――」

 

 ブラック・ロータスは揺らがない。たとえ風が池の水面を揺らし、その睡蓮の葉をそよがせたとしても、その景色から静寂が消え去ることがないように。

 

「何が可笑しいのですか!?」

「無知とは罪ではないが、恐ろしいものだなぁレディオ。時として取り返しのつかない事態を招く……。

 お前は三つ、大きな勘違いをしている。

 一つ、あいつは復讐などという、人として真っ当な行動を取りはしない。二年間近くにいて、あいつの精神構造はいまだに理解不能だが、それでもそれくらいはわかる。

 二つ、あいつを策に取り入れて、一つでも計算通りに行くなどと言う幻想は早く捨て去ることだ。最悪を想定しろ。やつは常にその捻じれの位置にある最低を突っ走る。

 三つ、あいつの近くにいれば裏切られることなど日常茶飯事だ。裏切られて貶められて傷つけられて騙されて、それでもあいつは絶対に私を見捨てない」

 

 その言葉に合わせたように、ビル群が変じた高層建築物の間からヒュルヒュルと甲高い音を立てて一つの光球が空高く打ち上げられた。昼間ではあるが暗雲立ち込める魔都ステージの空は暗く、それなりにその光は目立つ。

 それでも音につられて目をやった者は少数派だ。何しろ現在進行形で五十人の軍勢対不動要塞(イモービル・フォートレス)の一大決戦中である。目を離せば一瞬後には頭が吹っ飛んでいてもおかしくない。

 しかし、次の変化でそうも言ってられなくなった。光球は実体が存在しないエフェクトらしく、雷に打たれることもなく雲を尽きぬけ、空の頂点に突き刺さってパァアアンと派手に弾ける。

 

 そして七色のヴェールが放射状に広がって全方位を包み込み、世界を黒く造り替えた。

 

 誰もが動きを止めた。現実世界ではありえない奇跡を目の当たりにして。

 それは、無制限中立フィールドで長時間過ごしたことのある者なら誰でも知っている現象だ。

 一瞬にして世界は青白い鋼鉄製の建造物が列挙する薄暗い魔都から、潮風でぼろぼろに風化したコンクリートの廃墟が立ち並ぶ夜景へと変貌を遂げた。

 別に現象そのものは別段物珍しいものでもない。時として感動を誘う光景ではあるが、所詮は変遷と呼ばれる加速世界のプログラムの一環である。

 それが、どう考えても人為的に引き起こされたものでなければ、だが。

 

「強制、変、遷……だと?」

 

 レベル9に至るまで数多の経験を積み上げた純色の七王の一角が、かろうじてそれだけを言い残し絶句する。

 これほどの隠し玉を持っていたとは、と黒雪姫も呆れた内心を隠しながら肩をすくめてみせた。

 

「どれほど最低な状況だろうと、あいつは当然のようにへらへら笑いながら手を差し伸べに来てくれるんだ。

 ……もっとも、その状況に至るまでの要因の半分以上があいつが原因だったりする、マッチポンプ極まりないものなのがどこまでもあいつの救われないところだが」

 

 最低限の緊張は保ちながら黒雪姫は構えを解くと、呼吸を整える。イエロー・レディオを始め、誰もが戦いを忘れて茫然と立ち尽くしていた。

 一見、目の前のレディオも隙だらけに思えるが、王はそこまで甘くない。少しでも攻撃の気配を感じれば、幾星霜も積み上げた経験が彼に迎撃させるだろう。

 時間稼ぎは終わった。

 その直感がある黒雪姫は、次の出番が来るまで冷静に回復に努めた。

 

 

 賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ。

 

 きっと、この言葉は間違ってはいないが、大胆に省略されている。これではまるで、愚者も一度の失敗で学習するみたいではないか。

 標語が短いのに越したことはないが、意味を勘違いした愚者たちが識者ぶって批判するのはいただけない。

 馬鹿が読んでも誤解しないように、懇切丁寧に説明するのなら、きっとこうなるだろう。

 

 賢者は歴史から一度で学び同じ失敗は犯さないが、愚者は度重なる己の失敗の経験から時折同じ失敗の確率がやや減少する程度に学び、なおかつ短期間で適度に忘却する。

 

 のど元過ぎれば熱さを忘れる。時間は二十四時間誰しも平等だが、その使い方は残酷なまでに不平等なのだ。

 賢者が一足飛びに駆け上がる場所を、愚者は何度も何度も行ったり来たりして、結局終わった時には始まりよりも後戻りしていることもしばしば。

 

 つまり、ハルユキはつい先ほど乗り越えたはずの障害の前でまた躓こうとしていた。

 

「くそっ!」

 

 口汚い悪態が思わず漏れる。ハルユキは一体目のジャミング部隊を撃破して以来、その護衛だった赤青一対のアバターを振り切れないでいた。いや、あるいは彼らの役割はそちらの方が本命だったのかもしれない。

 青系アバターは重厚な両手剣を武器としながら、予備動作の少ない機敏な動きと足技を多用する実戦的なスタイルで機動力に勝るはずのシルバー・クロウを翻弄する。

 赤系アバターは的確に位置取りを変えながら、ここぞとばかりに逆襲に出ようとしたシルバー・クロウの出鼻を挫くように、あるいは離脱しようとした先制を規すように太矢を打ち込む。彼のメインウェポンであるクロスボウは銃はおろか弓と比べても連射力に劣る代物だが、彼らは巧みな連携によってその隙を潰していた。

 突っ込めばいなされ、退こうとすれば手痛いでは済まない一撃を受けそうになる。翼という圧倒的アドバンテージを持つはずのシルバー・クロウが、逃げることすら叶わない。

 明らかにハルユキとは比べものにならない膨大な経験を積んだ、ハイランカーの動きだった。

 

 一度ほどけた集中の糸はなかなか結びなおせない。

 速く、速くという思いは願いではなく焦りを生み出し、さらにハルユキの動きは精彩を欠くという悪循環。

 黒雪姫がジャミング部隊は最低三体と読んだ通り、一体潰した今でもジャミングの不協和音は消えていない。

 焦りに急かされるままに逸らした視界の先では、スカーレット・レインの不動要塞(イモービル・フォートレス)にわらわらと蟻のように群がる近接型アバターたちの姿が見えた。遠距離火力を潰された今の彼女は、ただの頑丈でデカいだけの的でしかない。

 シアン・パイルも奮闘しているが、いかな彼といえども圧倒的数の不利は覆せない。まさに目を向けたその瞬間、相討ちの形で取り囲んでいた三人のデュアルアバターを巻き添えに爆発四散する光景が見えた。あとには四つの死亡マーカーが虚しく揺れるのみ。

 

 ――僕がやらなきゃいけないのに!

 

 今、ニコやパイルが感じているであろう苦痛は、本来ハルユキが背負うべきものだ。ハルユキが担うべき役割が果たせていないツケを、彼らは支払っているのだから。

 黒雪姫が自分を信頼して立ててくれた計画なのに、自分はこんな場所でたたらを踏んでいる。自分の肩に自分以外の命が懸かっている感覚は、彼に腹の底が冷えて捩じ切れるような重圧をもたらした。その自覚がしょせん自分は人助けに発奮できる騎士ではなく臆病な村人なのだと嘲笑い、ますます彼の動きから冴えを奪う。

 果てには、一刻もはやく目の前の敵を処理して、次の目標に向かわねばならないとハルユキは考えるまでになった。

 通常対戦フィールドならば、圧倒的格上二人を目の前にしてそんなことを考えられるはずがないのに。

 積み重なった要因は、当然の帰結として順当な結果を生み出す。

 

「ぐうっ!?」

 

 親友の壮絶な戦士に気を取られたハルユキの、その隙に滑り込むように太矢が飛来し、シルバー・クロウの右肩に突き立つ。

 シルバー・クロウは貫通に耐性を持つはずのメタルカラーだが、かつてシアン・パイルとの一戦で容易く左腕を杭の一撃で失ったように、飛行アビリティにポテンシャルをつぎ込んだ彼の防御力は高くない。さらに太矢は銀装甲の継ぎ目、ゲームマンガ小説リアルを問わず脆いことがお約束な関節部分を狙って撃ち込まれていた。

 仮想の肉を抉り、骨を削る冷たい灼熱がハルユキの身体を硬直させる。その隙を見逃してくれる相手ではなく、必殺技宣言と共に今までとは一線を画す渾身の一撃が青系アバターから放たれた。

 

「『メタル・スラッシュ』ッ!」

 

 ――避けろっ、これに当たったら……ヤバい!

 

 最大級の脳内警告も虚しく、ハルユキにできたことといえば翼を動かして身体を四十五度回転させる程度。その程度の悪あがきで誤魔化せるはずもなく、百戦錬磨の敵は綺麗に斬撃の軌道を修正し、ハルユキの身体を右肩から袈裟懸けに一刀両断した。

 メタルカラーの切断耐性などものともせず、必殺技特有の鮮やかな光が身体の中を通過していく。

 

 痛いというよりも、寒い。

 

 必殺技を出し終えた青系アバターは硬直姿勢に入ったが、ハルユキの目にはそれが剣士の残心のように思えた。それほど静謐で完成された構えだったのだ。

 ずるりと滑り落ちる視界に表示されたHPゲージが一気に赤く染まり、やせ細り、ついにはゼロになるのを、ハルユキは茫然と見つめていた。

 爆発四散し、白黒のモノトーンへと視界が染まる中で、ハルユキは初めて目の前の青系アバターの声を聞く。

 

「愚か」

 

 ただそれだけ。声変わり真っ盛りの少年の声質に対し、達観した老剣士のような声色が妙にアンバランスだ。

 しかしその一言でハルユキの視界は真っ白にスパークした。

 それは羞恥で、後悔で、気づきだった。

 自分はまた間違えたのだ。同じ失敗を繰り返したのだ。しかも昨日今日でなどという話ですらなく、つい数十分前に学んだはずのことを。

 ようやく相手の姿がまともに目に映る。青系アバターは暗い藍色をした、西洋の戦士を彷彿させるデザインの重量級だった。赤系アバターはさらに彩度の低い臙脂色で、こちらも西洋の弓兵を思わせる軽装だ。

 ただ乗り越えるべき障害とだけ認識して、相手のカラーやデザインすら見えていなかった。

 何様のつもりだ。

 少し上手くいったくらいで、性懲りもなく慢心してしまった。

 その傲慢を、彼らは見抜いていたのだろう。そして先輩バーストリンカーとして、一言伝えずにはいられなかったのだ。彼の声には見下された怒りはなく、ただハルユキの態度に対する苦々しい思いのみが込められていたから。

 この上なく失礼な態度を取ってしまった自分に、ハルユキは消えてしまいたくなる。これでよくもまあゲームが好きだと言えたものだ。ブレイン・バーストの核心である対戦を、こんなにも疎かにしておいて。

 対戦は言葉によらず相手に多くのものを伝える。さっきのハルユキからは、一体何が伝わったのだろう。何を伝えてしまったのだろう。ハルユキは自己嫌悪で泣きたくなった。

 

 ――ごめんなさい、先輩。ごめんなさい、ニコ。ごめん、タク……。

 

 幽霊状態となってしまった今では謝罪すら誰にも聞こえない。

 取り返しのつかない場面で、取り返しのつかない失敗を犯してしまった。負け難き局面を負けてしまった自分に、心の奥底がどろりと際限なく沈んでいくのを感じる。

 

「――『致死夜之悪夢(ナイトメア・オブ・ソロモン)』――」

 

 凛と静謐な声が聞こえた気がした。

 ともすれば空耳かと疑うほどのかすかな声だったのに、それは雪解け水のように冷たく清らかにハルユキの濁りを洗い流す。

 声に引かれるように上げた顔に、尾を引いて空へと昇っていく星が見えた。偶然にもハルユキの真正面で地上から空へと打ち上げられた星はあっという間に雲の奥に吸い込まれ、その最奥で世界に改編をもたらす七色のオーロラを振りまく。

 

 きれいだと、素直にそう思った。

 

 ハルユキは無制限中立フィールドに入ったのは初めてだ。変遷のことは知識としては知っていても、目の前で起こった奇跡の価値は理解できない。

 ただ、七色の光のもとで世界が生まれ変わるのを、澱み濁った曇天が晴れ渡った夜空へと変貌するのを、無知ゆえに無垢な幼子のように見上げていた。

 

 《夜戦》ステージ。

 

 特性は視界が悪い、足場も悪い、そして、クリティカルヒットの威力が跳ね上がる。

 別名、事故ステージ。ラッキーパンチによる一発逆転が頻出することから、レベル4を超えたあたりの中堅どころは嫌う者が多い。

 どんな地形にでも対応できるハイランカーは気にしないし、大物食いを狙うニュービーはむしろ好む傾向があるこのステージを、ハルユキは大多数の例に漏れず苦手意識を持っていた。打たれ弱いシルバー・クロウだと、一発の事故で勝負が決まってしまうことが多々あるのだ。

 しかし、今回はなぜかそんな苦手意識が湧いてこなかった。代わりに受け取ったのは一つのイメージ。

 

 夜の海。静かだが、綺麗だとはお世辞にも言えない。星影に照らし出された海面には廃油がてらてらと光り、あちこちから鋼鉄のオブジェクトが水面を突き破って起立している。

 それが何なのか、ハルユキにはまるでわからない。でも明らかに人工物であるそれらがひしゃげ、捻じ曲げられた状態で大半を海中に水没させているのだろうと窺わせるその姿は、胸の奥を掴まれるような切なさを感じさせた。

 その中心に、少女が一人立っている。足場らしい足場もないのに、ただそうあるのが自然とばかりに海面の上に立ち尽くす少女。顔は影になって見えないし、声を含め音声はさざなみ一つ聞こえやしないのに、不思議とハルユキは彼女が泣いている気がした。

 

 おいていかないで。わたしをひとりにしないで。

 

 泣いているその子の気持ちが痛いほど理解できて、どうしても放っておけなくて、ハルユキはどこにその勇気が置いてあったのだと自分でどこか呆れながらも手を伸ばす。

 振り払われるかもしれない、迷惑そうに顔をしかめられるかもしれない。

 この期に及んでマイナス思考は消えなかったが、それでも手を伸ばすことは躊躇わなかったし、伸ばしている最中も後悔は不思議となかった。

 

 カシャン、と金属装甲が軽く触れあって音を立て、ハルユキは加速世界に引き戻される。変遷の副次効果で、シルバー・クロウは六十分の待ち時間を無視して復活を遂げていた。

 

 さっきのは何だったのだろう。

 

 周囲がノイズを残して静まり返っていることもあり、ハルユキは働いていない頭で漠然と物思いに浸る。

 先程のイメージは夜戦ステージと同様に夜だったが、夜戦ステージは地面が海などという鬼畜仕様ではない。足場は悪いが、所詮は砂地に大小のコンクリート片や鉄骨が転がっている程度だ。

 地面に破壊不能属性が付いているのは、デュアルアバターの九割以上が地上戦を想定して構築されているためだ。小島などの限定された陸地を除きすべてが水没する大海ステージなど話には聞くが、そんなところではまともな対戦など望めやしないだろう。実際この三か月、ハルユキは大海ステージなど見たことがない。それほどレアで、それほどレアにされるほどまともな対戦が望めない劣悪な属性なのだ。

 海なんて、小学校のころに資料の3D映像で見た以来ではないだろうか。それ以前にも幼いころ、まだ両親が健在だったころに三人で行ったことがある気もするが、それはあまり思い出したくない。

 身近に東京湾が存在はしているが、近場にあれば逆に足が遠ざかるのが人の性というもで、何より緑や紫のレギオンの領土の最奥にあるので気軽に足を運べるはずもなかった。

 要するに、ハルユキの中に明確な海のイメージはないのだ。さらに言えば、まるで世界に一人っきりになってしまったような錯覚を起こすような、見渡す限り陸地の見えない夜の海など、資料映像でも見たことがない。

 まるで、誰かの記憶が直接頭の中に投影されたみたいだと、このご時世に非科学的なことすら考えてしまう。

 

「いくらでも失敗するがよい。どんなひどい間違いも全部なかったことにしてやるなどとカッコつけたことは言えんが、フォローくらいはしてやろう。儂は先輩で、おぬしは後輩なのじゃからな」

 

 潮風に紛れて聞こえてきた甘い声に、ハルユキは弾かれたように振り返った。

 白い装甲は闇夜に目立ちそうなものだが、灰色のまだら模様が迷彩となって境界線が曖昧に見えるほど周囲に溶け込んでいる。

 強烈な存在感を持つくせに、気配は希薄というちぐはぐさはデュアルアバターになっても健在で、いつの間にやら息のかかるような至近距離にいた彼女から飛び退くようにハルユキは距離を取った。

 

「らいっ……マーブルさん!?」

「よっ、ギン坊。いい夜じゃの」

 

 危うく本名を呼びかけた先輩は、単眼以外はのっぺらぼうのマスクのくせにへらへら笑っていると何故かわかるしぐさで両手を広げた。

 ギン坊ってなんだ。

 外部からの刺激が入ったことにより、ようやくハルユキの頭がまともに働き始める。

 最初に浮かんだのは焦りだった。変遷によって先ほどまで戦死していたクリプト・コズミック・サーカスの面々が全員復活してしまっている。生き返った中にはハルユキやタクムも含まれるが、差し引きで考えれば圧倒的にマイナスだ。

 不幸中の幸いというべきか、強化外装は一度破壊されてしまえばフィールドからリログインしなければ再生しない。そのため、ハルユキが破壊した一体目のジャミング部隊は相変わらず機能停止したままだが、裏を返せば破壊されたスカーレット・レインの強化外装(インビンシブル)も傷ついたままということで、やはりこちらも考えようによっては不幸(マイナス)かもしれなかった。

 

 援軍が来たのにも関わらず、マイナスの目白押し。状況がさらに悪くなっている気がする。

 

 どうしてこうなったと頭を抱えたい気持ちになりながらも、ライハさんなら仕方がないと納得、あるいは諦観する思いも少なからずある。

 闖入者によって我を取り戻したのはハルユキだけではないらしく、ハルユキを一度殺した藍色と臙脂色のコンビを始め、周囲のバーストリンカーたちは敵意を漲らせてじりじりと包囲網を築きつつあった。

 絶体絶命の大ピンチである。

 

「くっ……!」

 

 復活直後なので必殺技ゲージは空っぽだ。シルバー・クロウの本領である飛行アビリティを使用することはできない。だとしても、自棄になって特攻することだけはやめようと思った。絶対に希望を捨てないで、この場を打開してやると見苦しく足掻くのが、敵対している彼らへの敬意だと。

 悲壮な、しかしそれだけではない覚悟を固めるハルユキに対し、ライハは嬉しそうに微笑むと、そっと囁きかける。

 

「けろけろ。大ピンチじゃなギン坊や。つまり、儂らにとってのいつも通りじゃ。気負う必要はないぞ。案外何とかなるもんじゃからのう

 困ったときは唱えてみよう魔法の呪文。それでは皆様ご唱和ください。『It's All Fiction』」

 

 次の瞬間、藍色の西洋戦士アバターと臙脂色の弓兵アバターが相次いで爆発した。

 

「…………え?」

 

 自分をあれだけ苦しめた強敵の、あまりにも呆気ない最後にハルユキは茫然と息を漏らす。一瞬遅れてタンターン、と闇夜に二度続けて響く乾いた音。

 速度に置いて鍛え抜かれたハルユキの目は、ぎりぎりその瞬間を捉えていた。クレーターからはるか南東に離れたビル街の一つから飛来した閃光が、彼らの胸の中心部、最大のクリティカル・ポイントを的確に貫くのを。

 ワンショットキル――あれは実弾系直射弾の狙撃だ。何度も自分がその被害に遭ったハルユキは確信する。

 ハルユキを取り囲んでいた敵の対応は素早かった。すぐさま散開し、狙いが付けられないように高速機動に移行する。その中の数人は狙撃元へと走り出し、またハルユキを取り囲んでたメンバーではないが、カウンタースナイプを試みる遠距離型の一団もいた。

 クレーター内という遮蔽物が存在しない場所での狙撃兵がどれだけの脅威か理解した上での行動。いつでも殺せる存在になり下がったハルユキたちが、後回しにされるのは決して間違った判断ではない。

 

 彼らに落ち度はない。この場を演出したのが相手に裏目を引かせるのが得意な過負荷(ライハ)だった。ただそれだけの話である。

 

 彼らの対応を無駄な努力とあざ笑うかのように銃声は繰り返され、その数に等しい爆発と死亡マーカーを生産した。現実世界の狙撃は本来、被害を負傷にとどめ足手纏いの量産を目的にする場合が多いのだが、この狙撃手はFPSでヘッドショットを狙うゲーマー同様に一撃必殺を旨としているらしい。

 

 ――なんて威力と精度だ。

 

 ハルユキは声も出せずに感嘆する。夜戦ステージにはクリティカル上昇の補正があるとはいえ、それはクリティカル・ポイントに当てられなければ意味のない話だ。夜という環境ゆえに視界が悪いもの夜戦ステージの特徴で、ゆえに事故ステージと悪名高いのだから。

 あの遠距離からならクリティカル・ポイントはおろかデュアルアバターでさえ針の先ほどの大きさにしか見えないだろう。にも関わらず、あの狙撃手は一発たりとも外していない。

 FPSをたしなむハルユキの経験から言わせてもらえば、先天的なセンスと洞察力、そしてただひたすらにスコープを覗き込んできた経験が合わさった時のみ成せる神業だと思う。

 

「……ふう。まあ、けっこうギリギリだったのも事実じゃがの。さすがはイエローケーキ、いやらし(エロ)い配置の仕方をする。百からなる人海戦術で当たっても、五十三に含まれた五を確信を持って炙り出すまでに今の今までかかったわ」

 

 思わせぶりなライハのセリフにハルユキは思わず振り向いた。ライハは楽しげに歪に大きい頭をぐらぐら揺らしている。

 ピンと張りつめた空気の中で、ハルユキは同時に二つのことに気づいた。

 一つ目は、この暗闇の中に見える白と灰色のまだら模様は一つではないということ。ふらふらとしたあの特徴的な足取りで、幽鬼のように希薄な気配が彼方此方を彷徨っている。

 二つ目は、妙に静かすぎるということ。ノイズが、ジャミングが発動中であることを示す不協和音が止んでいる。

 

「ああ、考えればわかることじゃからあえて言ってはおらなんだが、儂の本体と幻影は感覚を共有しておる。戦闘能力(スペック)は消費する必殺技ゲージに依存するが、斥候として使えばこのように、狙撃手(スナイパー)観測手(スポッター)の真似事もできるというわけじゃ。

 まあ、いっぺんに百人分の感覚を受信するごちゃまぜに適応することができればの話じゃがな」

 

 楽しそうな口振りで種明かしをしてくれるライハに、ハルユキはジャミング部隊が全滅したことを悟った。

 こんなにも呆気なく。見せ場らしい見せ場もなく、退場してしまったというのか。

 それでいいはずなのに、こちらに有利な話なはずなのに、ハルユキはとてもやるせない思いがした。

 タァーン、と乾いた音が終焉の鐘のように響き渡り、消える。これで八発目。この遠距離でワンショットキルを成功させる威力と精度を持つ狙撃銃としては、ゲームバランス的に考えてもかなり弾数が多い。連射をしていたことも考慮に入れると、明らかに店売りで手に入るようなシロモノではないだろう。

 

No.134340(プルート)の装弾数は九発じゃ」

 

 ハルユキの推測を裏付けるようにライハが関与を自白した。

 

「……やっぱり、あれは、マーブルさんが」

「おっと、勘違い召されるな。通常対戦ではちゃんと、あやつが自力で稼いだポイントで購入した強化外装(豆鉄砲)を使わせておるよ。エネミー狩りの時も、巨獣級の装甲を撃ち抜ける最低限の威力の武装しか与えておらぬわ。

 ただのう、今回に限って言えば真っ当な対戦でも狩りでもなく、単なる魔物討伐じゃろ? 遠慮のいらん相手に対して、自分のできる限りの備えをしてやりたくなるのが親心というものでなぁ。

 まさかそれを、同じバーストリンカー相手に振るうことになるとは思いもよらなんだわ。いやあ、お互い運が悪かったのう」

 

 こちらは災禍の鎧に備えて、通常の対戦やレベリングではマナー違反になる過剰戦力を用意していただけ。本来の目的にそぐわない形で武力が行使されることになったのは、単純に運が悪かったからである。

 なんだか、とても聞き覚えのあるロジックだった。これが因果応報というものか。

 呆れるハルユキに、ライハは嬉々として言葉を続ける。以前から薄々と気づいてはいたが、彼女は知識をひけらかすのがとても好きらしい。解説キャラをやる彼女の顔は、とても輝いていた。

 

「ほれ、あれだけ殺せば必殺技ゲージが溜まる。次が中距離戦闘が始まるぞ?」

「えっ? まだ一発残ってるんじゃ……」

 

 数え間違えただろうかと内心首をひねるハルユキを、ライハはふふんと鼻で笑った。

 

「あほう。No.134340(プルート)は純粋な遠距離射撃武器じゃ。弾がなくなればただの鉄の棒であろうが。全弾撃ち尽くすのは二流の所業というものよ」

 

 実際にはシステム的な話をすれば、強化外装は一度解除してしまえば再使用までに冷却期間(クールタイム)が設けられる。残弾を一残した状態で収納しようが、いざという時に素早く武器を切り替えて一撃などという格好いいマネはできないだろう。

 戦術的に考えれば無駄で不合理な演出でしかない。しかし、そんなところが実に侘び寂や伊達と酔狂を愛するライハらしかった。

 それに、そのような戦闘に対する信仰はブレイン・バーストではフレーバー以上の効果を発揮するのではないかとハルユキには思える。『武器を常に殺せる状態に保っておく』というのはライハの、そしてその薫陶を受けたスノウの譲れない一線なのだろう。

 バーストリンカーになってからまだ三か月という新参者から抜け出せていないハルユキだが、その少ない経験の中でも出会ったハイランカーは皆、己の対戦に置ける信念のようなものを持っていた気がする。上まで行くには、そんな譲れない、譲りたくないものが必要不可欠なのではないだろうか。

 チリッと何か大切なものに掠めた気がして、ハルユキはアバターのヘルメットの下で眉をしかめる。しかし残念ながら、その思考を深く掘り下げる暇はなかった。

 

 キゥイイイイイイン……!

 

 ボロボロに風化したコンクリートジャングルの奥から、甲高いモーター音が聞こえる。聞き覚えがある。これはハルユキの自宅マンションが変貌した鉄塔から脱出するときに、背後の戦場から聞こえてきたものだ。

 逆に言えば、その時くらいしか聞いたことのない。AI制御された昨今のモータードライブ型ではまったく聞かない音である。しいて連想するならば、違法改造をしてAI制御を外し、モーターを過剰駆動させればこんな音が出るかもしれない。

 そう思う程度には、ハルユキはこの音の正体を漠然と悟っていた。彼にはアッシュ・ローラーという最大のライバルにしてヒントがあったから。

 

 すなわち、これは高速機動が可能な何らかの移動手段が奏でる駆動音である、と。

 

「さてさて、スノウ・ウィンドの衝撃デビュー戦じゃ。前々からちまちまと対戦経験は積んでおったが、これで一気に名が広がるじゃろうなあ」

 

 ワクワクと弾んだライハのセリフで、ハルユキはようやく雪風のアバターが『スノウ・ウィンド』という名だということを知る。

 ……もしかしなくとも(snow)(wind)だろうか。完全一致(パーフェクト・マッチ)の例はいくつか聞いたことがあるが、こういうタイプは初めて見た。あるいは雪風がニックネームの類なのか。

 いや、それにしては堂々と苗字っぽいものと合わせて名乗ってたよなぁと、どうでもいいことで悩むハルユキを置き去りにして、クレーターの北西から白い影が飛び出してきた。

 周囲の建物に音が反響し、出所を掴めていなかったハルユキは意表を突かれる。南東にあった狙撃スポットから大きく回り込む形で夜戦ステージの悪路を走ってきたのだとすればかなりの速度と走破性だ。

 滑るように、あるいは流れるように移動する白い影はダダダンッ、ダダンッと軽快なリズムで左手の巨大な二連装砲を連射し、無駄弾ひとつなくターゲットに当てた。連続で爆散する断末魔の光とゆらゆら海藻のように立ち上る死亡マーカー。

 この間合いでも同様に一撃必殺。さらに狙って当てているというよりは、弾の方が急所に吸い込まれていっているような光景は、もはや感嘆を通りこして現実感の無さを多分に含んだ呆れを覚える。

 同じ『射撃』で一括りにされる行為でも、要求される技術の分野がまるで違う。狙撃が集中と先読みと観察と計算の世界なら、これはドッヂボールとスケートを一度にやるようなものだ。

 一体何年彼女は加速世界で過ごしたのかと、ハルユキはこれらの技術がこの段階まで磨かれた年月を想像して寒気がした。

 近接型は彼女の機動力に付いていけず、遠距離型は攻撃が残らず逸れる。間接攻撃の類は真っ先に狩られているようで、それらしき必殺技が発動した気配はなかった。

 

 ――速い!

 

 白い影を虚空に引き、クレーターの中をゆらゆらと特徴的な動きで縦横無尽に蹂躙するスノウ・ウィンドを見て、ハルユキが抱いた第一印象がそれだった。

 かつて黒雪姫が『キミは誰よりも速い』とハルユキに言ってくれたその時から、速さはハルユキが信奉する最大の武器である。そのハルユキだからこそ、彼女の速さの本質を体で深く感じた。

 パッと目を引くのはその機動力を支える足に内蔵された移動装置だ。おそらく足の裏にローラーのような機関が備わっているのだろう。よく観察してみれば、彼女のほっそりとした足は先に向かうほどずんぐりと太く、同時に滑らかな曲線を描いて膨らんでる。そこに内部機関が収められているのだ。

 しかし、彼女の速さの根幹はそれではない。

 バイクであればエンジンとモーターがあり後輪しか回らず、機械系のギミックであれば必ずと言っていいほど動力と内部構造が存在するブレイン・バーストらしいデザインと言える。つまりいかにSFチックな機関であろうと、基本原則として彼女のローラーもリアリティが追及されているなのはずだ。

 そしてローラーの大きさや内部機関のサイズから想像するに、最大速度はそれほどでもない。きっと飛行中のシルバー・クロウは言うに及ばず、前時代的な構造で走るアッシュ・ローラーのバイクにも及ばないはずだ。目算を含めた概算だが、せいぜい最高で時速百キロ程度くらいではなかろうか。

 

 しかし、素早いのだ。

 

 人間の走行では不可能な予備動作の無い加速と減速、絶妙な体重移動、さらには相手の動きに合わせて微調整される機敏な機動が、体感速度を跳ね上げている。

 あの動きを実現させようと思えばスケートや一輪車など目ではない、かなりピーキーなハンドリングを要求されるはずだ。

 それを支える思考の速さ、いわゆる頭の回転が速いことが彼女の速度の根幹だとハルユキは思った。さらにはほとんど体一つでこの暗闇の中を疾走する、心の強さも間違いなく持っているだろう。

 まあ、それだけではないだろうが。頭の回転や心の強さだけで勝ち抜けるのなら苦労はしない。左手の二連装砲は赤の強い赤紫色で、右肩に備え付けられたミサイルポッドは淡い夕日色だ。白いアバターなのに強化外装だけ鮮やかな他色がつくというのは考えにくいから、あれらはきっとライハが渡した遺品なのだろう。

 基本的に強化外装は持ち主と同じカラーリングに染まるが、初期装備のような特定アバターと強い絆を持つものは時としてそのアバターの色を残すと聞いたことがある。相手を一撃死せしめる威力から考えても、まず間違いない。

 しかし一方で、武器が強ければそれで勝てるほどブレイン・バーストはぬるいゲームでも無いということを、飛行アビリティという加速世界有数のアドバンテージを持つハルユキは身に染みて理解している。

 

「これギン坊、あんまり見惚れていると流れ弾にやられるぞ。伏せんかい」

 

 匍匐前進の姿勢になったライハに促され、ハルユキも慌てて伏せる。普通遮蔽物のない場所でこんなことをすれば自殺行為以外の何物でもないのだが、今や戦場の中心は縦横無尽に駆け巡る白と、一歩も動かずに周囲を焼き払う紅のコントラストだ。

 ジャミング部隊がいなくなったことにより本領を発揮する赤の王の猛威と、それにまったく見劣りしないゲームを初めて一か月の新人の活躍に、ハルユキは自分がとても小さくなってしまったような気がした。

 この感覚は初めてではない。まるで世界から隔絶されてしまったような孤独、何一つとして成し遂げられる気がしない無力、そういったものが銀の装甲の下で渦巻いて、四肢が先から冷たくなって動けなくなる。

 きっとユキカゼは、まっすぐ一目散にあの場所まで到達したのだろう。無様に地面を這いずりまわって、それでも求められた基準に届かなかった自分と違って。

 天才。

 ちかちかと脳裏に極彩色でそのフォントが踊った。

 

「あやつほど鮮やかに心の傷が反映されたアバターも珍しいよ」

 

 まるで大切な宝物を自慢する子供のような弾んだ声に、ゆるゆるとハルユキは重たくなった頭を動かした。

 頭上を銃弾が飛び交う阿鼻叫喚の戦場でもライハの調子はまるで崩れない。琥珀色の単眼を炯々と輝かせながら、すっかり解説役が板についた聞き取りやすい口調で言葉を続ける。

 

「弱点を見抜く『弱点看破(ウィークポイント)』と自分の弱点を減らす『天使の羽衣(エンゼルローブ)』はあやつが引き当てる幸運と押し付ける不幸そのものじゃし、高い機動力を誇る『走行装置(ローラーダッシュ)』は自分の異常性(アブノーマル)を自覚するきっかけとなった事故のメタファーじゃ。

 ん、聞きたいか? どうしても聞きたいか?」

 

 どう考えても買ってもらったばかりのおもちゃを自慢するお子様そのものである。抵抗する余裕もなかったハルユキは勢いに押されるままにこっくり頷いた。

 アバター越しなのにライハの雰囲気がとても華やいだものとなったのがわかり、彼女がそんな顔をしてくれるのなら、心が痛くなるような自慢話を延々と聞くことになるのもそれはそれでアリかなと、ハルユキは疲れた頭で考えた。

 現実世界で今までやってきたような適当な態度ではここまで意気消沈することもなかっただろう。ベストを尽くせば悔いが残らないなんて絶対に嘘っぱちだとハルユキはどこかの誰かに文句を言いたくなる。

 何故君はベストを尽くさないのかと訳知り顔で言う識者たちは、何故君はベストを尽くしてもダメなんだろうねと呆れ顔で言われた経験がきっと無いのだ。

 本気を出していないから、明日から本気出すと自分を守る言い訳ができるのだ。

 本当に本気で、石に齧りついてでも達成するつもりで到達できなかった目標を、一足飛びにクリアしていく小さな後ろ姿にハルユキは何もかもがバカバカしい気になっていた。

 

「うむ、そこまで言うのなら仕方がない。まずはあやつのステ振りからいこうか」

 

 ライハは楽しそうに語り始める。アバターの性能(スペック)能力(スキル)など、本来は生命線に等しいのだが、彼女の中では弟子の基本的人権は存在していないらしい。あるいは、ハルユキ相手なら開示してしまっても問題ないと信頼しているのか。

 仮にそうだとしてもかなり非常識であることは間違いない。善良なゲーマーを自認するのであれば止めて然るべき暴挙であったが、ハルユキの精神力は尽きてマイナスに入りかけていた。

 

「儂が必殺技特化なら、スノウ・ウィンドはアビリティ特化型のデュアルアバターじゃ。ある意味、シルバー・クロウと同じじゃな。

 青の軍団(とこ)のフロスト・ホーンは知っとるか? あやつから近接属性や氷属性を抜いて軽量化し、その分のポテンシャルをアビリティに注いでピーキーなバランスに仕上げたものと考えれば一番わかりやすいかもしれん」

 

 言われるままにハルユキはフロスト・ホーンのことを思い浮かべる。何度か週末の領土戦争で戦ったことのある相手だ。領土戦争は必殺技ゲージのチャージが容易であり、重量級近接型の彼と飛行型の自分では一瞬の交差で終ることが多いので熟知しているとは言い難い関係だが、それでも知らないと言えば嘘になる程度には知っている。ハルユキとレベル的には大差ないが、ハルユキよりずっと経験豊かなバーストリンカーだ。

 つまり相性も勝率も考えずに戦いまくる超当たって砕けろ(ゴー・フォー・ブロークン)野郎というので有名だが、プレイヤーの性格はさておいて、ハルユキは自分が知っているフロスト・ホーンのステータス表を頭の中のフォルダから引っ張り出した。

 たしか彼は『フロステッド・サークル』というエリアに干渉する、代名詞のような必殺技を持っていた。強制変遷で夜戦ステージを創り出したスノウの技がその系統に属するものならば、あるいは白系というのはフィールドやエリアなど超広範囲に影響を及ぼす属性なのかもしれない。

 気力が尽きかけていてもなおブレイン・バーストというゲームに対する考察を忘れない自分に気づき、ハルユキはとても微妙な気分になった。ここで自嘲できればニヒルなキャラになれたかもしれないが、ハルユキにクール系は役者が足りない。

 そんなハルユキの複雑な内情をライハはあっさり無視する。気づかれなかったわけではないと、ハルユキは何とはなしに感じた。

 

「あやつは三つの初期習得アビリティが柱になっとる構成じゃ。わかりやすい『走行装置(ローラーダッシュ)』から説明するぞ?

 あれは限定発動型アビリティ。つまり必殺技ゲージの続く限りいつまでも走り続けることができる。厳密に測定したわけではないが、MAX百二十キロくらいじゃな。レベル2のボーナスで壁面走行と同じ系統の『悪路走破(ジェットサポート)』を選択したから、多少の悪路はものともせず、極端な話、水面の上だろうが走行可能じゃ。

 必殺技ゲージに依存するとはいえ、永続的な高速移動が可能になるあのアビリティは近接重量級アバターの天敵みたいなものじゃて。本来あやつは武器を一切持っておらなんだから、その辺りでバランスを取っておったんじゃろうな。見ての通り、平面の高速移動の真価が発揮されるのは遠距離火力とセットになったときじゃから」

 

 ライハの言葉に合わせるようにスノウは青の重量級アバターの腕をひょいと掻い潜ってターンを決めると、一か所に集中していた地点めがけて右肩のミサイルポッドを解放した。バカンと勢いよくカバーが開いて内部のハニカム構造の発射口が開き、獲物を見つけた蜂のようにミサイルが飛び出す。

 もともと面で制圧するというミサイルの性質上これはさすがに百発百中とはいかなかったが、火球に飲み込まれてはじけ飛ぶバーストリンカーたちの哀れさには一切変わりがなかった。

 

「うむうむ、今日もよいターンピックの冴え具合じゃ」

 

 満足そうに頷くライハはスノウ側に感情移入しているのだろうか。ハルユキは常に被害者側一択である。

 エリート側に立つライハというのも珍しい光景かもしれないと現実逃避してしまうほど、桁外れな威力の強化外装の数々だった。ほぼすべての攻撃が一撃必殺などと、格闘ゲームにあるまじきゲームバランスである。

 

「そんなギン坊の疑問および妬み僻みを解決するのが本日ご紹介するこちらのアビリティ、『弱点看破(ウィークポイント)』でございます」

 

 脈絡なく恭しくなったライハの口調と、今度は無視されなかった心の波紋にハルユキは身を強張らせる。黒雪姫がよく言うように不快とかそういうわけではないのだが、心の襞に容赦なく指を突っ込まれる感覚は突然やられるとキツイものがある。

 

「これも限定発動型アビリティ。効果はクリティカルの効果上昇、およびクリティカルを起こしやすくすること。

 より詳細に説明すれば、アバターやエネミー、ゲージ消費量を引き上げればオブジェクトまでクリティカル・ポイントが可視化できるようになる。直進しない速球(ムービング)程度に軌道修正もしてくれるらしいぞ。通常技に使用されておるシステムをより攻撃的に発展させたバリエーションといったところかのう」

「可視化……?」

「おう。当人曰く、点や線が光って見えるらしい。暗闇程度は余裕で透けて見えるほど鮮やかな光じゃとさ。ま、さすがに遮蔽を透過することはないから、霧などで覆われたら見通せないのじゃけどな」

 

 それで謎が一つ解けた。あの遠距離から夜戦ステージという視界最悪の状況下で、急所を狙った狙撃を見事成功させたのはそういうからくりだったのだ。無論、それでも一流の腕は必要だが。

 また、ただでさえ夜戦ステージというクリティカルの威力が跳ね上がる状況で、さらにアビリティでクリティカルの威力を上昇させているのならば、ぶっ壊れ性能のライハの遺品と相まって一撃必殺に届くこともあり得るかもしれない。

 

「あやつはクリティカルを前提とした構築なのじゃよ。攻撃力も防御力もさほどではないが、分身を前提としておる儂ほど低くはない。十分近接戦で殴りあえるだけの速度もある。

 ただし、欠点として燃費が凄まじく悪い。『走行装置(ローラーダッシュ)』と『弱点看破(ウィークポイント)』、個々ならば飛行アビリティよりも軽いが、二つ合わせればたちまち必殺技ゲージが枯渇してしまう。ゆえにあのように、縦横無尽に移動しながら視界に映る弱点に攻撃などというマネはできないのじゃ、普通はな」

 

 それを覆すのがあれらの強化外装ということだ。一撃必殺の威力はその与ダメボーナスを持って、燃費の悪いアビリティを回すために必要な歯車の一環なのだ。

 ハルユキが地面にへばりついて見ている中で、スノウは左手の二連装砲を打撃武器として使い赤系アバターの頭を叩きつぶした。さすがにその一撃で爆散するようなことはなかったものの、スタンした隙に胸の中央に銃口を当て、躊躇容赦なくゼロ距離射撃を敢行。

 薄々そんな気がしていたが、近接戦の動きも危うげがない。この三か月必死に近接格闘を磨いてきたハルユキとしては勝てないなどとは容易く言うつもりはないが、負けないと言い切れるほど実力差があるとも思えなかった。

 本当に彼女はどれだけの才能を持ち、それを磨くことにどれほどの時間をつぎ込んだのだろうか。

 

「言っておくが、すべてが儂の強化外装におんぶに抱っこなわけではないぞ?

 ちゃんとレベル3のボーナスで適応系の『戦場の華(ジ・エース)』を取得しとる」

「適応系?」

 

 知らない単語が出てきた。本当にこのゲームはいくら覚えても際限なく新しい情報が出てくる。だから『加速世界』と、現実世界と表裏一体を為すもう一つの世界として多くのバーストリンカーに認識されているのだろう。

 

「おろ、知らんのか。特定の属性が対戦ステージに指定されたときに、低コストで高いメリットを得ることのできる特有の必殺技やアビリティのことじゃよ。死に技能になりやすい反面、相手に使われたら嫌な系統トップスリーの一つじゃな。何しろ、知っているつもりで対処したら予想以上のスペックを発揮されたり、予想外のスキルを使われたりするんじゃから。これという対処法も存在せんし。

 『戦場の華(ジ・エース)』の場合は、夜戦ステージをはじめとした一部属性が戦場に指定された場合、全ステータスにボーナスと、限定発動型アビリティにゲージ消費軽減の付与効果が付く、常時発動型アビリティじゃ。

 あやつのリアルラックに期待した選択じゃったが、レベル4ボーナスで夜戦ステージに強制変遷する必殺技『致死夜之悪夢(ナイトメア・オブ・ソロモン)』が得られたのは望外の幸運じゃったわ。フルチャージからの全消費は痛いと言えば痛いが、効果のほどを考えれば妥当じゃからのう」

 

 つまりここは二重三重に罠を張り巡らされた、彼女たちの腹の中といっても過言ではない場所だったということだ。一見チートのように思えたが、その実薄皮を重ねるように着実に積み上げた努力の結果だったと知り、ハルユキは意識しないまでも徐々に精神が安定していった。

 

 この彼の貶められて傷つけられても歪まない優しさと誠実さは、黒雪姫を惹きつけた間違いなく彼の魅力の一つであるだるろう。

 

 そしてその努力の結果として五十名余りいたクリプト・コズミック・サーカスの面々は、紅無双白乱舞の結果もはや八名を数える惨状となっている。

 ここでハルユキは一つの矛盾に気づいた。

 

「……? あれ、必殺技ゲージを全消費するのなら、あの二連射はどうやって当てたんです?」

 

 一体にでも当てれば相手を即死させる高ダメージを叩きだすから、当然その分の与ダメージボーナスで必殺技ゲージはチャージされる。しかし、ハルユキたちを救った最初のあの二連撃は、時間的な感覚からいって悠長にオブジェクトを破壊してゲージを溜める暇があったとは思えない。

 答えは単純明快、かつ過負荷(マイナス)らしいものだった。

 

「そんなもん、自分で自分を切り刻んで与ダメ被ダメボーナスで一気に稼いだに決まっておろうが」

「…………」

 

 無制限中立フィールドの痛覚は通常対戦フィールドの二倍であり、現実の痛みに極めて近い。痛みを厭わないその行動に、エリートの代表格みたいに見えるユキカゼも、ちゃんとライハの弟子なのだと深くハルユキは納得した。

 

犬と狼の間(entre chien et loup)殺人蜂の巣(キラービー・ハニカム)、パージ。無銘(スティール・ブレイド)着装」

 

 感情の温度を感じさせない、透き通りすぎた冷たい声がクレーターに凛と響いた。赤紫色の連装砲と右肩のミサイルポッドが陽炎のように消え、代わりに透き通りそうな薄刃の刀子が握られる。もっともそれを確認できたのは一瞬で、白い残像を闇夜に引いて彼女は刃を一閃していた。

 士気の低下もあってまったく横切られたことに反応できなかった青系アバターの首が空っぽな音を立てて地に落ちる。遅れて肩から上が平らになった身体が爆散し、死亡マーカーを残した。

 

「……死神……」

 

 果たして誰がつぶやいたのか。むせ返りそうな生臭い潮風に乗って響いたその言葉は、まるで世界に受け皿が用意されていたかのようにピッタリ当てはまる。

 白い死神。

 それ以上に今の彼女を的確に形容する言葉はないだろう。

 

「むう、失礼な奴らじゃなあ。目標に向かって懸命に努力を積み重ねてきた女の子に向けて投げかける暴言ではないじゃろう。そう思わんかギン坊?」

「え、へ、あ……えーと……」

 

 むしろ全力でその言葉に同意していたハルユキはとたんにバツが悪くなる。考えてみれば、相手は自分よりはるか年下の少女なのだ。その可愛らしいリアルの姿も知っている。あまりにも圧倒され過ぎて綺麗に忘れかけていたが。

 

「友の最期を看取るために、一歩正しければ無限EKの修行を半月近くも続けたのじゃぞ。あんまりとは思わんか」

「……こっちから頼んだこととはいえ、そこは『一歩間違えば』くらいの度合いにしてほしかったです、ししょお。ここにいるのが何かの間違いとか、順当にいけば死んでいたとか、もう二度とやりたくありません」

「いやあ、スマンスマン。はじめは半殺しレベルに留めるつもりだったんじゃが、うっかり皆殺しレベルにしてもなぜか生きとるし、そのうち試したいことも出てきて、気がつけばああなっとった。今は反省しておるから許せや」

「これほど反省も後悔も見られない釈明も珍しいです……」

 

 先ほどまでの銃弾の雨から一転して、紅白共にクールタイムに移行したのか今では風の音が聞こえるほど静まり返ってくる。

 もやは心が折れ、自分から動き出すことのできない残党を前にライハと話すスノウを見て、ハルユキは頭をぶん殴られたような衝撃を受けた。

 どれほど異常だろうが、彼女は普通の女の子なのだ。

 目標に向けてまっすぐ努力することを知っている、その努力が報われるだけの才能と運を持った、ハルユキとは違うだけの、普通の女の子。

 そんな当たり前の事実を、ライハと会話して疲れた表情を浮かべる少女を見るまで忘れていた。自分と違うと嫉妬して、自分なんかとは違うんだと差別して、どうせ自分と違うからと区別して遠ざけた。

 

 ただ自分と違うだけで、彼女は自分と同じなのに。

 

 ハルユキが黒雪姫に憧れてこの道を歩き出したように、彼女は友達を助けたいという思いでここまでやってきたのだ。ハルユキが努力して諦めかけて諦めきれなかったように、彼女は努力して何があっても諦めなかった。

 何度自分は大切なことを見失うのだろう。こんなので本当にあの人の隣に並び立てるのだろうか。あるいはそのようなことを考えること自体が、身の程知らずな願望なのではないだろうか。自己嫌悪がぐるぐると頭をめぐる。

 

 ……ここまでハルユキがあっさり許容することができたのは、ライハが無茶苦茶な訓練をユキカゼに課す場面が安易に想像できたというのが大きいかもしれない。

 ライハは身内に甘いが、その甘やかし方が世間一般から大きくズレているのだ。厳しくされることを相手が望めば、それこそ歪んで壊れてもとに戻らなくなってしまうまで度を越した試練を嬉々として与えてくれるだろう。

 この辺りが優しくないと言える要因でもある。

 

「いくらでも間違えばええ。儂はそのすべてを受け入れるぞ、ギン坊や」

 

 ライハが優しく微笑む。ここで挫けて諦めてしまえば、本当に彼女はそんなハルユキを許容してくれるだろう。優しく慰めてくれて受け入れてくれて、きっとこの場からもそれから先のすべてからもその力を尽くして守ろうとしてくれる。守り切ってくれると言えないのが過負荷(マイナス)たる所以だが。

 それは相変わらず魅力的で抗いがたい誘惑だった。きっと黒雪姫は悲しむだろうが、もともと彼女とは生きている場所が違ったのだ。彼女の隣には自分よりずっとエリートなタクがいる。ここは任せて身を引いてしまっても、あるいはその方が彼女たちのためなのではないか。

 

「……いえ、ありがとうございます。でも、もうちょっとだけ頑張ってみようかと思うんです」

 

 でも、ライハの提案の先にあるのは骨まで腐らせる泥沼だ。努力する喜びを、自分はできるという達成感を知ってしまった今では、あの生温い居場所は戻ろうとは思えないところになっている。

 何より、自分はあの人の恋人だから。

 そのことに胸を張れるようなプライドはいつも持っていたいし、できることならそのプライドに見合った実力もいつかは身に着けたい。

 ライハと話したことで、ハルユキは自分の根源にあるものをはっきりと思い出していた。

 

「んー、相変わらずあと一歩のところで落ちんのう。こっちの水は甘依存(あまいぞん)? まあ、そういうところがギン坊の魅力か」

 

 喜ばしそうで、残念そうでもある笑みを浮かべたライハは戦場に目をやる。当たり前といえば当たり前だが、ハルユキたちがのん気に会話をしている間にも状況は変異しており、今や全滅までの時を刻むカウンターと化した残党たちはろくに統制も取れず、散漫的に火器の引き金を引く程度の抵抗しか成しえていなかった。

 残っているのはすべてが赤系アバターだ。

 

「スノウはアビリティありきの構築じゃからな。アビリティ封印(シール)系の間接攻撃は天敵以外の何物でもないし、実は青系も得意とは言い難い。

 突貫工事の弊害で、あやつの攻撃はすべてが最短距離で急所に叩き込まれる一撃となっておるのよ。経験豊かな近接型なら容易く動きを読んでカウンターを入れられるじゃろうな。

 ゆえに強力な遠距離火力が使えるうちに黄色、青の順番で潰させたんじゃ。強制変遷というビックリ箱の効果でペースを握っているうちに、主導権を確立させておきたかったしの」

 

 ライハが顔を近づけ、ひそひそと解説を再開する。銃声や砲声による騒音がなくなったので、こうでもしなければ会話の内容が周囲にダダ漏れになってしまうのだ。他人に聞かれたらまずい話程度の認識はしていたことに、ハルユキはほっと安堵する。

 

「スノウは今、守りたいものがあるんです。そのためなら切り捨てます、たとえそれが何であろうと。覚悟はずっと昔に決めました」

 

 ユキカゼの声が凛と戦場に響く。ハルユキよりも四つも年下の少女のものとは思えない、冷たくて切ない声色だった。

 返答は無言の銃声。しかしその凶弾は、少女の身体に届くことはない。明らかに直撃コースの閃光もいくつかあるのに、明らかに不自然な軌道を描いて弾が逸れるのだ。

 

「あれがあやつの三つ目にして最大のアビリティ、『天使の羽衣(エンゼルローブ)』じゃよ」

 

 その理由をライハがあっさりと種明かしをしてくれた。

 

「その正体は無色透明な風の衣。遠距離攻撃であやつを仕留めるのは諦めた方がええ。実弾系はまず外れるし、レーザー系も屈折して当たりそこないになるからのう。近接攻撃にさえ干渉して急所を外させる効果がある。しかもあれは常時発動型アビリティじゃから、燃料切れが存在せん」

 

 遠距離攻撃が天敵のハルユキからすれば何とも羨ましい、あるいは凄まじい能力だった。

 絶対値で言えば黒雪姫のターミネート・ソードに匹敵するかもしれない。あれが最強の矛なら、こちらは最強の盾か。加速世界最硬の盾は緑の王というのが常識だが、彼の王もこれに匹敵するような凄まじい能力を持ち合わせているのだろうか。

 だとすれば、ハルユキは加速世界の深さに改めて戦慄を禁じ得ない。

 このようなある種のん気に構えていられるのもハルユキが観客の立場で、さらに隣にライハがいて逐一丁寧に解説してくれているからで、向き合っている当事者たちからすればまさに死神に出会った気分だったことだろう。

 声にならない悲鳴や悪態を呑み込み、彼らは必死に銃口を死神に向ける。この期に及んで背中を向けなかったのはせめてものプライドか。

 当然、圧倒的に有利な相性にあるスノウ・ウィンドはひょいひょいと軽い仕草で全弾を危うげなく回避すると、甲高い駆動音を響かせて彼らに詰め寄った。

 左手の刀子と無手の右を巧みに扱うその近接格闘術は、ハルユキに軍隊仕込の殺人術を連想させた。本来華など欠片もない、武骨で地味で血生臭いはずのその動きは、華奢な白いアバターの効果かあたかも舞のような美しさをどこか漂わせる。

 八が零になるまで、そう長い時間はかからなかった。

 

「スノウ・ウィンドです。恨みに思うなら化けて出てください」

 

 凛と告げられたその言葉が、この争いの終焉を飾った。

 

 

 

「いやいや、まだ終わりじゃないぞ。古来より戦争の決着は頭がどうなったかじゃ。それにそもそも……」

 

 ライハのその言葉にハルユキはハッと我に返る。

 さまざまなことが立て続けに起こりすぎて忘れていた。黒雪姫は今どうなったのだろう。まさか打ち取られたとは思えないが、意識した瞬間に臓腑が引き絞られるような不安がハルユキを襲う。

 慌てて立ち上がりはしたものの、夜戦ステージの視界の悪さのせいで二人の王が戦っていた場所は見通せない。王同士の争いがどれほどの破壊力を周囲にまき散らすかもこの目で見たので、迂闊に近寄ることすらできない。

 懸命に目を凝らすハルユキの耳に、ピシ、ピシピシ……と乾いた音が聞こえた気がした。

 と思う間もなく天球に罅が入り、それが広がったかと思うと世界が砕け散る。

 

「十分じゃ。『致死夜之悪夢(ナイトメア・オブ・ソロモン)』の効果時間は十分で終わる。しかも入りは変遷と同じ効果が発生するが、終わりは必殺技の消滅という形になるので変遷に付随する復活効果は起こらない。しかし……」

 

 隣で身体を起こし、土を払いながら解説してくれるライハの声も耳に入らなかった。

 果たして、王二人は共に健在だった。

 しかし、その場にいたのは王だけではなかった。かといって、それは赤黒同盟や黄の軍団の一員でもなかった。

 夜陰に紛れて近づくのは、何もライハだけの特権ではなかったのだ。

 

「ウルルルルゥ……ヲォオオオオオン……!」

 

 あまりにも予想外の出来事に、頭の中が凍り付いてまるで動かない。

 明らかにハルユキと同年代の少年の声で放たれた、野獣のような異質な咆哮に身体までもが凍り付きそうだ。

 

 人形のように固まり、向かい合った二人の王の片方。

 黄色の王の背後に立ち尽くす黒銀の獣は、イエロー・レディオの背中に腕を突き入れたまま、己の存在を誇示するように遠吠えを上げた。

 彼の者の名はクロム・ディザスター。

 ハルユキたちの討伐目標である災禍の鎧、そのものである。

 

 前哨戦は終わり、本当の戦いが始まる。

 

 

 

「――やっぱりまた勝てぬの、か」

 

 かなりの歳月が過ぎた後で、ハルユキはあの時ライハがそうこぼしていたことをようやく思い出せたが、今は関係のない話だ。

 

 




破篇に続く。

やべえ、次で終わる気がしねぇ

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