後編はのちにチェックを終えてから投稿します
前篇
◆
死んだらそこで終わり。
それは考えるまでもない大前提。天国とか地獄とかを語るのは生きている者のみに許された特権。死者に口なし。
そう思っていたのに、ごくあっさりと二度目の人生は始まっていた。
テンションが下がる。エンディングに感動した単発ゲームに人気のあまり続編が出てきてしまった感じ。
しかし考えてみよう。
輪廻転生という概念がある。生まれ変わりと同一視されすぎて本来の宗教的な概念とはかけ離れた意味内容が定着しつつある言葉だが、もとより言葉とはそのような性質なのでそれについての文句はない。
取り上げるのはその中の一つ、悟りを開いて解脱するまで輪廻の輪の中でぐるぐる廻るという考え方だ。要するに異世界転生。対象の世界は六道と呼ばれ、中には地獄道も含まれる。
地獄は生前の罪を裁かれる場所。つまり、そこに至る前の世界の記憶と人格は継承されていると考えるのが当然であり自然であり常識的。
自分が地獄逝きだということも、この世が地獄だということも極めて納得できる。そういう裁定ならば文句はない。すべて受け入れよう。
もっとも、地獄だからといって素直に服役するようならばそもそも
◆
人間はいつ死ぬのだろう。
ふと黒雪姫はそんなことを考えた。まるでそこいらにいる多感な中学生のようだと、自嘲が軽く口元を歪ませる。まあ黒雪姫は実際に私立梅郷中学校の二年生なのだが、中身は普通とは言い難い。
一般的には『スノー・ブラック』や『黒雪姫』といった異名を持つ美貌の副生徒会長として。そしてもう一つ、リアルではごく限られた一部の人間しか知らない裏がある。
ブレイン・バースト。正式名称《Brain Burst 2039》の加速世界で人格が変質するほどの時を過ごした超高位のバーストリンカー。かつて加速世界を分割統治した『純色の七王』の一角である黒の王ブラック・ロータス。それが彼女のもう一つの顔だ。
しかし二年前のあの日、彼女は友を裏切り、仲間を失い、逃亡者となった。それ以来ブラック・ロータスとしての彼女は完全に活動を停止している。
自分のどこかがゆっくり冷えて、固まっていくのを感じる。
信頼を裏切っても、責任を放棄しても、友の血にこの手を染めても辿り着きたい境地があった。しかし現状は事実上の追放に等しい。この手は血で赤く染まったが、恋い焦がれた場所はむしろ遠ざかっていく。
もしかすると、二年前のあの日に自分は死んでしまったのかもしれない。
生徒会の仲間たちと学校のために仕事をするのが楽しくないわけではない。そうでなければ誰が副会長などという面倒な役職に好き好んで就くものだろうか。
しかし違うのだ。友人と話しているときに、業務を片付けているときに、教師と打ち合わせをしている最中に、ふとした拍子に自分の目的地はここではないと、心のどこかが悲鳴を上げる。否、その部分は常に悲鳴を上げ続けているのだ。それはとても柔らかく重要な場所だったはずなのに、年月の澱はそれをゆっくり溶かして沈めつつある。
耳をふさぐのが上手くなってきたのか、それとも悲鳴そのものがもはや上げられなくなったのか。最近の黒雪姫の心はひどく凪いでいた。
二学期も中盤に差し掛かり、シアン・パイルなるバーストリンカーに原理不明の手段で、学内ローカルネットを通じて対戦を仕掛けられリアル割れしたときも、焦る以上にどこか冷めた目で状況を俯瞰していたことを覚えている。
六王の襲撃が明日にもあるかも知れないのに、ポイント全損の恐怖に追い立てられながら自分を追う大柄なデュエルアバターを無感動に観察している自分がどこかにいた。
思えばそもそも、観戦用アバターに学内ローカルネットの『黒揚羽蝶』を指定していたというのがおかしな話だ。自分が学校の所用でよその学校を訪れることがあるように、見知らぬバーストリンカーがどのような手段で梅郷のローカルネットに接続してくるか知れたものではない。
であるにも関わらず、決して無いとは言い切れない、防ごうと思えば安易に防ぐことのできたリアル割れの可能性を無視し続けた自分の内面を、黒雪姫は気づかない振りをしてやり過ごしていた。
直視するわけにはいかなかった。
レッド・ライダーの血にこの手を染めた自分がブレイン・バーストに飽きつつある、などという事実を。
血液が止まった部位がゆっくりと壊死するように、加速を奪い取られた心からゆっくりと熱が冷めつつあるのを認めたくはなかった。
今も問題は解決していない。対戦を仕掛けられるたびに逃亡し、頭は対策を練り続けるものの、この逆境に心は全く震えていないのだ。
周囲のざわめきに意識を引きもどされた黒雪姫は、今が昼休みで、自分は
興奮や興味や憧れではなく、嫌なものを見たとでも言いたげなマイナス感情に彩られたもの。しかしそれは当人に向けられることはなく、悪口をいうという方向ですら関わり合いになりたくないとばかりに言葉未満の雑音として生徒たちの口から洩れていた。
反応で誰が来たかをだいたい悟った黒雪姫は片眉をわずかに上げる。おそらくは自分の来客だろうということも同時に予想できたが、理由がわからない。
気まぐれだというのならまだいい。理解を放棄すればいいだけの話だ。しかしそこに理由があるのなら、たいていろくなことにならないことを黒雪姫は経験で知っていた。
やがて人垣がぽっかり割れ、中心を予想通りのアバターが進み出た。
「よう黒雪姫。ごきげんいかがかの?」
それは白を地に、まだらに灰色で染まった巨大なカエルだった。カラーリング以外はデフォルトのもので、デフォルメされて二足歩行型となっているものの、生臭ささえ感じられそうなリアルな造形は健在で、ブタと並んで不人気なアバターの一つだ。
そのくせ声は脳髄を振るわせる甘く甲高い少女特融のもので、見る者の第一印象を容易く不気味や気持ち悪いといったマイナス感情に固定させる。
いつか『地上に憧れてエラを捨てて出てきたはいいけれど、体温調整もろくにできず炎天下の下に一日もいれば容易く干乾しになって死んでしまう、陸上生物のなりそこないだからけっこう気に入っている』と言っていたのを思い出す。
全国の両生類愛好家に土下座して謝るべきだと黒雪姫はけっこう真面目に思う。
「やあライハ。たったいま一つ悪くなったところだ。お前の話す内容次第ではもう一段界悪くなるかもしれないな」
黒雪姫は涼しい顔をして言い放った。とっとと内容を話して消えろと言葉にガラスの棘を散りばめる。そんなものが効く相手ではないが、こちらの感情というものだ。
「げーろげろげろげろ。たしかに機嫌が悪そうじゃな。おぬしの嫌そうな顔が見れて儂はちょっぴりいい気分じゃ」
「喧嘩を売りに来たのなら買う気はないぞ」
奇妙な笑い声をわかりやすく演じる相手を見ていると、凪いでいた心がささくれ立つ。認めがたいが、こんな相手でも自分のかけがえのない存在なのかもしれないと、黒雪姫はふと思った。認めがたいが。
「ん、なぁに。おぬしはともかく、無辜の民をいたずらにわずらわせはせんよ」
そう言いながらカエルはぐるりと周囲を見渡した。声には出さずとも非難囂々の視線を向けていた観客はいっせいに目をそらす。まるで目を合わせば噛みつかれるとでも思っているようだ。カエルは心地よさ気に喉を鳴らした。
そして次の瞬間、すいっと生徒会役員の合間をぬって容易く黒雪姫のパーソナルスペースに侵入する。お互いの鼻息が相手の前髪を揺らしそうな急接近に周囲が声にならない悲鳴を上げた。
何度経験してもなかなか対応できない動きに思わず黒雪姫も体をこわばらせる。
「明日の昼休み、カエルの巣穴にいってみろ。面白いものが見られるぞ」
そっと、耳元でささやかれる。ぱっくり裂けた口が至近距離でもごもご動くのが生理的嫌悪をかき乱したが、意地で表情筋は動かさなかった。
それだけ言い終えるとあっさりカエルは身を引き、じゃあのと手を振ってさっさと帰ってゆく。ふらりふらりと安定性のない足取りで遠ざかっていく後姿を見送りながら、望んでいた展開のはずなのに怖気が止まらなかった。
わっと周囲に駆け寄り気遣いの言葉をかける生徒会役員に社交的に対応しつつ、黒雪姫は背筋を伝う汗を自覚する。
「……あいつが面白いもの、だと?」
いまだかつてない嫌な予感に壮絶な吐き気すら覚えた。
翌日の昼休み、黒雪姫は人目を避けながら指定された場所に足を運んでいた。
ライハに言われるままに行動するのは癪だし、不安もある。しかしそれ以上にあれが『面白い』と言ったものを放置する脅威を見過ごすことはできなかった。副生徒会長としても、バーストリンカーのはしくれとしても、何より人間としても。
近づくにつれ、ぽごん、ぽごんと気の抜けるような電子音が聞こえる。
カエルの巣穴などとおどろおどろしい呼び方をされているが、その正体は学内ローカルネットのレクリエーションルームに設置された健全なスポーツゲームの一つ《バーチャル・スカッシュ・ゲーム》のゲームコーナーだ。
レクリエーション
しかし、それでも誰一人として寄り付かない孤独な場所になった最大の原因はライハが
近づくにつれ、黒雪姫は違和感を覚えた。
最初はてっきりライハがプレイしているのだと思った。このゲームは高レベルになると人間の反応速度の限界に挑戦するかのような鬼畜難易度になり、ボールは空中に描かれるリボンを通り越し瞬く残光と化す。
バーストリンカーとしての反応速度を養うには最適だとライハは笑っていた。まあ間違っているとは言い難いし、黒雪姫も一年生のころは何度か利用させてもらったが、二年に入ってからは生徒会の業務が忙しかったこともあり、めっきり足が遠ざかっている。
同様に追放を受けた身でありながらあちらは刃を研ぎ続け、自分は錆びつかせるままにしている。そんな思いが黒雪姫の心を沈ませかけたが、それ以上に今は気になることがあった。
秒間に何度打ち返したことを示す効果音が聞こえた? 五回、いや六回?
ライハには才能がない。最後にプレイを見たのが半年以上前だということを差し引いても、加速世界ではそれ以上の付き合いがあるのだ。彼女の能力と成長速度は予測できる。ブレイン・バーストをインストールできたことが不思議なくらい遅い彼女が、これほどの神業を発揮できるとは考えにくかった。
――ドクン。
心臓がひとつ瞬く。
加速を使っているのか。否、彼女も自分もバーストポイントの補給がままならない身だ。お互い潤沢なプールがあるとはいえ、こんなことで無駄遣いすることは考えにくい。そんな定石を容易く無視してくれるのがライハという人間なのだが、なぜかこの時点で黒雪姫はプレイヤーがライハでないことを確信していた。
ならば誰が?
カエルの巣穴のうわさは全学年に広まっている。二学期も中盤に差し掛かった今訪れるのは、ほよど交友関係の断絶したコミュ障か、勇気と無謀をはき違えた物好きくらいだろう。
効果音から察する速度はもはや黒雪姫でさえついていける限界を容易く超えている。加速も持たずにたどり着ける境地とは思えない。もしかするとこの先にいるのは仇敵シアン・パイルなのかもしれない。ライハならやりかねないと頭の隅の冷静な部分が肯定する。
――ドクン、ドクン、ドクン!
しかし、もし違ったら?
心臓はうるさいほどに高鳴っている。思考速度をつかさどるベースクロックが加速している。
自分の血潮を意識するのはいつ以来だろうか。かつては毎日のように感じていた。血潮を燃やし、魂を加速させて強敵との戦いに明け暮れていた。
冷たくよどんでいたどこかが、動き出す。
期待と不安、ではとても言い尽くせない情動にかられながら、黒雪姫は必死に猛る自分を押さえつけ、そっと物陰から部屋の中を覗き込んだ。
「…………ああ、
そして見た。すべてを置き去りにする速度で誰よりも早く加速する、ピンクのブタを。
忘れ去っていたはずの熱は全身を駆け巡り、いつしか両目から滴となって零れ落ちていた。
自分はきっと、このためにここに来たのだ。
黒雪姫は初めて自分が梅郷中学校に在学していることを感謝した。
「げーろげろげろげろ。黒雪姫の涙はきれいじゃの。儂はこれが見たくて今まで努力を積み重ねてきたのやもしれん」
ああ、こういうやつだった。
背後からかけられた声に身をすくませながらも、黒雪姫はどこか納得する。
感動も喜びも嬉しさも悲しみも怒りも憎しみも、すべて斜め下から手を伸ばしてひっくり返して台無しにしてしまうような奴なのだ、こいつは。
「……ライハ、お前なあ」
「けろ。黒雪姫、場所を変えよう。ここじゃなんじゃろ?」
いつから背後にいたのか。ハイイロマダラガエルのアバターはしたり顔でそう告げる。
悔しいがその通りだった。今はまだ『あの方』と接触する時ではない。きちんと準備を積み重ね、然るべき態度で臨みたい。
内心はともかく意見の一致を見た二人は階段をさらに上がり、最上階から
一部の生徒にしか知られていないが、この木の枝の一本一本にはちゃんと当たり判定が存在しており、二人は細い木の幹に軽やかに着地する。現実世界なら折れていたであろう細い枝は、破壊属性がないためしなるだけで二人の体重をしっかり支えてくれた。
木の葉が覆いとなって、この場所は周囲の視線にさらされることがない。下にはカエルの巣穴があるので、会話を盗み聞きされる心配もない。学内ローカルネットにはこのように、密会に適したスペースがいくつか存在していた。意図的に用意されたものなのかはわからないが、そのすべてが標高十数メートルの高さからハイジャンプしなければならないなど、高度なリンカースキルがなければ到達できない場所にある。
身を落ち着けた二人は改めて顔を見合わせた。黒雪姫の前に、否応なしに相手に悪感情を抱かせる笑みを浮かべる両生類の顔がある。
「おい、ライハ。あれが……」
「おう、おぬしに見せたかった『面白いもの』じゃ。なかなかのものであったろ?」
黒雪姫は思い出す。きらきらとした想いはカエルの泥だらけの手でべっとりと汚されてしまったが、輝きは色褪せない。
問題は、それを持ってきたのが目の前のハイイロマダラガエルだということだ。
「何が目的だ?」
「おーう。その猜疑に満ちた眼差し。悲しくて泣いちゃいそう。儂らは仲良しじゃろ?」
「ああ、少なくとも友達ではないな」
「けーろけろ。まさにその通りじゃな」
カエルの横に割れた瞳孔がすっと細められる。
「飽いたのじゃよ。純色の七王の中でもっとも高潔であり純潔であり熱血であった黒の王を、三年間かけて錆びつかせて腐らせて溶かしてしまう遊びにな。今の儂は加速世界全体の崩壊と混乱と戦乱を求める……」
そこまで言ったところでカエルの口がぱっくり開き、場を支配しつつあった重苦しい空気が霧散した。
「なんての。儂に黒幕なんて柄じゃないわい。仲良しが困っているようだったから、助けになりそうな駒を見つけたので紹介してみただけじゃ」
「その仲良しが協力を要請したとき、即答で断ったお前の言葉じゃなけりゃ信じられたかもな」
カエルのへらへらとした軽い笑みに、黒雪姫も冷徹な微笑で返す。
目の前の彼女が協力してくれていれば、シアン・パイルの騒動は早期解決を見ていただろう。
「おいおい仲良し、忘れるな。儂はおぬしの臣下ではない。ゆえに奉仕する義務はない。甘やかしてほしいのならもっと媚を売れ」
カエルの笑みが深まり、黒の王として数々の修羅場をくぐりぬけてきたはずの黒雪姫の背筋に霜が降りる。それでも忘れつつあった王としてのプライドが、少女の虚勢を守った。今の自分はバーストリンカー、ブラック・ロータスであると黒雪姫は強く自覚する。
「ふむ。ならばこれは何だというんだ?」
「こちらの都合で好き勝手に甘やかすのは別腹じゃ。ほれ、おぬしの知りたいであろう情報をメールで送るぞ。口頭で説明するのは面倒臭い」
ポーンという着信音とともに仮想デスクトップに黄色い手紙マークが点滅する。肉食獣を目の前にしたときのように、隙を見せぬよう警戒しながら、黒雪姫はかすかに震える指でメールアイコンをクリックした。
とある男子生徒の個人情報が表示される。どのような手段で手に入れたかなんて関係ないし興味もない。黒雪姫は食い入るようにして読んだ。
有田春雪。杉並第三
ちなみに現在の家庭環境は父親が浮気で離婚、親権を持つ母親も仕事と男遊びで家を開けがちにしており、親子の関係になれば容易く心を許すであろうと考察が備考に記載されていた。
つらつらと流れる文章に黒雪姫にとって重要でない情報など一つもなかったが、今注目すべき項目は見逃さない。
「小学校のころからいじめの被害に遭うこと多数。今も一学期初日から荒谷一年生を主犯格とした三人組に日常的に暴行、恐喝の被害を受けている、か……」
ふつふつと腹の底で煮えたぎるものがある。黒雪姫の見出した傅くべき未来の王は、身の程知らずの獣どもによって虐げられているのだ。
「荒谷は明日より一週間、有田春雪に焼きそばパンとクリームメロンパンをパシらせる」
ライハのセリフに一瞬頭が沸騰しかけた。しかし、ぐっと飲み込みその意味を理解する。否、順番としては聞いた瞬間に理解できたので、後から来た感情の爆発をなんとか抑えることができたというのが正しい。
荒谷と有田春雪の昼休みの行動を一週間固定すると彼女は告げているのだ。策略を仕掛けるにはこれ以上ない環境。できるのかとは聞かない。彼女相手に無意味な話だ。
あとは黒雪姫次第だ。二年間ただ燻っている場所だった、生徒会役員副会長という社会的身分を役立てる絶好の機会。
「じゃあの。せいぜい楽しみ楽しませることじゃ」
「ふん。礼は言わんぞ」
仕込みは済んだとばかりにライハはそれだけ告げると、あっさり足の下から小枝を外した。物理演算に従って巨大なカエルが地面へと落下していく。
黒雪姫は目もくれず加速を使わない限界速度で頭をフル回転させていた。悔しいがどれほど策を練る時間があっても、実行に移すための準備段階に一日は要する。未来の王の解放は最短で明後日となるだろう。
アバター越しでも誤魔化せない、星空を封じ込めたような漆黒の双眸が生命力の輝きを放つ。ただ静かに死にゆく少女はもはやどこにもいない。彼女の脳裏にはピンクのブタが残像を残す速度でめまぐるしく乱舞していた。
少女が自らを変えた最大の要因に気づくのは、もうしばらく先の話。
◆
どうしてこうなっちゃったんだろう?
倉島千百合は歯を食いしばる。しかし溢れ出す涙と嗚咽は本人の意思に関係なく男子トイレのタイルに零れ落ちた。
膝をつき、幼馴染に叩き落されたサンドイッチを拾い集める。露出した膝が冷たいタイルに当たり、みじめさを増長させる。
いつからこうなっちゃったんだろう?
今回の直接的な原因は荒谷たちのいじめだ。しかし、二年前のあの日から、あるいはそのずっと昔から自分たちの関係はどこか掛け違えていた気がする。
もともとチユリは手を引かれるよりも、誰かの面倒を見てあげるのが好きなタイプだった。そのことに特に理由はない。そういう生き物に生まれついたというだけの話だ。
ふとっちょで汗っかきの幼馴染の手を引いて、すらりと背が高くて頭のいい幼馴染の背中を追いかけて、ただ三人で一緒に笑っていられたらそれだけで幸せだったのに、それ以上を求めたことはなかったのに。
いつしか三人のうち二人は恋人になり、残る一人は劣等感で自分を雁字搦めにしてしまっている。それを見ていることしかできないのは、縛られているのが彼だけではないと薄々気づいているからだろうか。
「現実に憑かれた顔をしておるな。嫌な夢でも見たかの?」
「ひゃう!?」
文字通りチユリは飛び上がった。
ここが男子トイレの入り口だという現状をようやく思いだす。誰かに見られたらまずいでは済まされない。とっさに涙をぬぐい、振り返って言い訳を考えようとして――凍り付いた。
「ひっ……!」
「どうした。
活発で言いたいことをはきはき口に出すチユリは敵も多いが、同じ学校に通う幼馴染とは比べものにならないくらい社交的だ。当然、交友関係は広く、学校の様々なうわさは耳にしている。
その中の一つ。先輩が絶対にかかわるなと、口に出すのも嫌そうに教えてくれた人物のこと。
曰く、一年生の時に入学式からわずか一か月で、自分以外のクラスの人間を担任教師含め全員登校拒否にした凶人。二年に上がってからは極力無視するという対策で被害は最小限に抑えられているが、今もなお時折被害者が出る生きた災厄。
白地にまだら模様に灰色に染まった髪は腰の上まで伸び、手入れをしていないようにあちこちがボサボサとはねている。
派手な髪の色に対し、制服は不良にありがちな崩した着こなしなどが一切ない。きっちり結ばれたリボンは、二年生であることを示す青。
身長は小柄なチユリと同じくらいだが、ひどい猫背のためひざまずいたチユリと視線の高さがそう変わらない。
色素の薄い瞳は光の加減か、琥珀色に発光しているように見えた。
間違いない。教えられた外見特徴と完全に一致する。
黒雪姫を代表とする生徒会役員たちを
チユリは気が強く、人の言い分を鵜呑みにすることはまずない。ライハのうわさも、問題のある素行に尾ひれがついたものなのだろうとどこかで高をくくっていた。
百聞は一見に如かずとはこのことだと、チユリは泣きそうになりながら思う。うわさなんて可愛いものだった。うわさより先に、言葉より先に、体がライハを拒絶する。怖気が全身を走り、勝手に涙がこぼれそうになる。
それに、最悪なことにチユリにはライハを怖がる理由があった。まさについさっきカエルの巣穴に無断で侵入したのだ。一学期の半ばから学内ローカルネットで姿をまったく見かけなくなった幼馴染が、まさかあんなところに隠れているとは思いもしていなかった。
慌てて男子トイレに侵入してまで叩き出し、一緒に昼食を取りながら説明しようと考えていた矢先のトラブルだったが、目の前の明らかに一目で異常者と分かる少女がそんな事情を斟酌してくれるだなんて欠片も思えない。
正直な話、気がついたらプライベートスペースまで踏み込まれ、至近距離で目を合わせて会話した一連の流れでチユリの心は折れそうだった。これで実際に折れなかったのは彼女が気丈だったことの証明であるが、そんなことは今のチユリに何の慰めにもならない。
なんでこんなことに!
先ほどまでとは似ているようで全く違う思いをチユリは悲鳴のように上げる。これほど存在感のある相手にパーソナルスペースに踏み込まれるまで気づかなかった数分前の自分に当たり散らした。
そしてふと気づいた。彼女は存在感はあっても気配がない。幻覚や夢のように、目をそらせばまったく気づけなくなりそうなほど。
いっそ目をそらして知らん振りしてしまおうか。普段の彼女ならこんなこと考えもしなかっただろうが、幼馴染との衝突と問題児との遭遇のダブルコンボを喰らったチユリの精神は逃避的思考を始めており、見なかったことにしよう計画を半ば真剣に吟味していた。
「のう、それ、捨てるのか?」
「……え?」
「それを捨てるのか、と尋ねておるのじゃ」
チユリがパニックに陥っている間に、ライハの興味はほかに移っていた。自分でしたいくつかの質問の返答も待たず、チユリの足元にこぼれたサンドイッチと、その残りが入ったチユリの手にあるバスケットに目を向けている。
ライハの視線から逃れた、と意識した瞬間にチユリの全身からぶわっと冷や汗が出た。まるで短距離走を全力疾走したときのようだが、汗をぬぐう暇はない。質問に答えなければ、ライハの目はまたチユリに向くかもしれない。
「は、はい。捨てます! ……落ちたものは食べられませんし、食べる相手もいなくなっちゃいました、から」
いらないことまで言った自分に、少し余裕を取り戻した心がちくりと痛んだ。
しかし忘れてはならない。目の前にいるのは学校中から忌み嫌われる希代の問題児だということを。
「そうか。ならば儂が拾っても問題ないの」
「え?」
やはり今回もライハは返答を求めていなかった。おもむろにサンドイッチを拾い上げると、大きく口を開け、トイレのタイルの上に落ちていたそれをむさぼった。
ぐちゅり、と音が鳴る。咀嚼音が人気の無いトイレに響き渡る。具材はポテトサラダだったらしく、はみ出たそれを舌でなぶり、こぼれたそれを無造作に拾い集め、挙句の果てに指まで行儀悪くぺろぺろ舐める。
チユリは必死に口を押えて目をそらした。あまりに気持ち悪い光景と音と消毒液の臭いが混ざりあって、吐き気をこらえるのに必死だった。光景は目をそらせば何とかなる。臭いも口で意識すれば対応できる。でも音だけはどうしようもない。片手は口元を覆い、もう片手はいまだにバスケットを抱えているのだから。
震えて耐えるチユリの前で咀嚼音だけがしばらく響き、ふと視界に小さな手が差し伸べられる。落ちていた分は食べ終えたらしい。
「残りもくれ。食べる相手がいなくなったのであろう?」
求められるままにチユリはバスケットを差し出した。心情としては祟り神に生贄を捧げる農民に近い。どうか差し上げますから、自分たちと関わり合いにならないでくださいと本気で願った。
またもやぐちゅぐちゅと音が響くだけの時間が過ぎる。それがどれほどの時間だったのか、チユリにはわからない。体感的には一時間のようにも半日のようにも感じたが、残りの昼休みは三十分しか残っていなかったはずなので実際はだいぶ短いだろう。
いつしか音は止み、視界に再び小さな手と、それに握られたバスケットが映った。
「ごちそうさま。ありがとう。美味かったぞ」
思いもかけない言葉にチユリは思わずそちらを向いていた。にこにこと笑うライハの顔を見て、今さら彼女の顔立ちが整っていることに気づく。有名な黒雪姫には一歩以上及ばないが、方向性は同じ。相手に美しいと感じさせる造形だ。可愛らしいに分類されることが多いチユリとしては少し羨ましい。
「なんじゃ。儂が礼も挨拶も言わぬような礼儀知らずかと思うたか?」
「え、いや、その……」
まさか面と向かって『同じ人間とは思えなかった』だなんて言えない。さすがに思ったことを面と向かって口にすることが多いチユリにもそれはできなかった。
「よい。学校でどんなうわさが流れているのか、友達のおらん儂でも想像することはできる。まあ、儂は恥知らずじゃが礼儀知らずではないという、ただそれだけの話じゃ」
理屈でいえば雨の日に猫を拾う不良の原理に近いのだろう。グロテスクな言動から一転、普通に笑顔で礼を言われたチユリからはライハに対する恐怖が急速に薄れていた。
呆然と見上げるチユリを前に、やはり反応を一顧だにせずライハは感想を嬉しそうにのたまう。
「あんなに温かい食事は久しぶりじゃ。サンドイッチという単純な料理であるからこそ、作り手の思いが如実に表れる。あの料理を食べる予定であった者は、そなたに愛されておるのだな」
ぽろりと一滴、チユリの目から涙が零れ落ちた。
認めてくれた。
その感情をなんと表現すればいいのかわからない。
向けられる当人が意地になって拒絶するその想いを、顔は笑っていても目が笑っていないことをどこかで察している恋人の前では言い出せないその想いを、彼女は的確に掬い取って肯定してくれた。そのことに対する涙だった。
本来ならば心の奥にしまい込んで厳重に守られてるはずの想いが、度重なるショックに耐えかねて防壁が崩れ落ち、露出する。そのタイミングで的確に投げ込まれた一言だった。もしも狙ってやっているのならば、まさに外道と言えるだろう。
「あ、あのっ……!」
なんと言えばいいのかわからない。だが何か言わなければいけないという使命感にかられチユリは口を開いた。だがそれが言葉として形になる前に、問題児はあっさり舞台の幕を引く。
結末を有耶無耶にするのは彼女のような存在のお家芸だから。
「これ、泣くでない。このような場所で泣いておると、あらぬ誤解を受けるぞ。エロ同人的展開というか……」
「へ……うひゃ!?」
再びチユリは自分が男子トイレにへたり込んでいるという現状を思い出す。先ほどの一連の流れで腰が抜けてしまったのか、まるで足腰が立たなかったので何とか這うようにして、ようやく男子トイレの外に出た。消毒液の臭いが混ざらない空気がこんなにおいしいなんて初めて知った瞬間だった。
トイレから這いずり出るチユリの横で、ライハは悠々とトイレを出る。
「捨てられる食べ物の命がもったいないから、残飯をたかったまでじゃ。意地汚い乞食と蔑まれる覚えはあっても、感謝される謂れはない。それでも、命を無駄にしてまで落ちたものを拾い食いしないのが人間の尊厳というのなら、儂は尊厳などいらぬと思う」
セリフの前半と後半で話題が飛んでいる。相手の反応をまるで期待していないことがまるわかりなライハの態度だったが、残念ながらチユリにはそれを指摘する余裕がない。ただ、言葉だけが耳を通して頭の中に流れ込んでいた。
すいっと再び自然な動作で吐息がかかる距離まで侵入してきたライハにチユリは反応できず、ただひぐっと息をのむ。ガラス玉のように見開かれた瞳が綺麗だと、ひどく場違いな感想が頭の片隅にこぼれた。
「いつでも来るがいい。二十四時間三百六十五日、儂は誰からの挑戦も受け付ける。歓迎するぞ、儂なりにな」
それは奇妙な感覚だった。今までのライハのセリフも、一般的な感覚に即していえばどこかチユリを逸れた独白に近い空気がある。しかしそれでもチユリに向けられていた。
なのにその一言だけはまっすぐチユリを見ながら、まるで窓越しに誰かと話しているかのようにチユリを通り越していて。
「え?」
「いやなに、こちらの話じゃ。おぬしが気にするのは明らかになった後でいい。ではの」
言いたいことだけ言い尽くして、説明すらせず、学校有数の問題児は去っていった。その足取りはふらふらと酔っぱらいのように、あるいは重度の鬱病患者のように平衡感覚を喪失したもので、見ている方が不安になってくる。
そんな背中を、チユリはただ見送ることしかできなかった。
歩く災厄。たしかにいい得て妙だと思う。
まるで台風が通り過ぎた後のようで、まったく力の入らない足にチユリは手を置く。その顔に疲れはあっても恐怖はない。
何が何だかわからない。でも、なぜだろう。何かが変わっていくような予感があった。あるいはようやく認められたのかもしれない。変わらないものなどない。意味もなく理由もなく、ただすべてが流転するのだということを。
思考が混乱していることを自覚し、チユリはため息をつく。
今確実なことは二つ。
一つはサンドイッチのことで幼馴染に文句の一つでも言うつもりだったが、ごっそり削られた体力からそれは当分先のことになりそうだということ。彼女への恐怖は消えたが、苦手意識は健在で、むしろはっきり形を帯びた気がする。
そしてもう一つは、視界に表示される時計から、次の授業への遅刻は確実だということ。この萎えた足腰で、五分以内に教室にたどり着く勝算は、運動神経に自信のあるチユリとはいえさすがになかった。
◆
どこから間違えたのだろうか。
促されるままに救急車に同伴し、奇跡的に傷のない黒雪姫の白い顔を見ながらハルユキはそう考えずにはいられなかった。
脳髄が痺れて思考がまともに働かない。ハルユキはこれからの未来ではなく、これまでの過去の修正点を見直すことによって現状を打破しようとしていた。あるいはそれは自己防衛本能の一つだったのかもしれない。この期に及んでも自分が大切かと、どこかの誰かが脳裏で嗤う。よく見なくともそのシルエットは自分自身のものだった。
黒雪姫に声をかけられてからの四日間、ハルユキは間違えてばかりだった。その結果、黒雪姫は荒谷に車で撥ねられ意識不明の重体となっている。これがハルユキがサルベージした過去の液晶端末世代のギャルゲーの類なら、このままヒロインは死んでバッドエンドだ。そんなことを一瞬でも考えた自分のたるんだ頬を全力で殴り飛ばしてやりたくなった。
そもそも、黒雪姫が自分に声をかけたことそのものが間違いだったとしか思えない。
それだけは考えてはならないことだった。命を懸けたあの人の思いを汚す行いだった。しかし、ハルユキはどこまでいってもハルユキなのだ。意識は否応なく初めてバーチャル・スカッシュ・ゲームのコーナーに案内されたあの日まで遡ってゆく。
「おぬし死にそうな顔しておるぞ。あるいは殺しそうな顔、かの」
いまだかつてない初対面の第一声に、ハルユキは思考から体からすべてが停止した。
入学初日に荒谷にターゲットに指定されて以来、ハルユキに安寧の場所はない。みじめな自分から逃れるために第二校舎の男子トイレから
いつも通り目立たないように、ピンクのブタのアバターを可能な限り縮めて、一か所にとどまらないことだけを考えて学内ローカルネットのメルヘンチックな森の中を彷徨い歩いていた時のことだった。
いつからこのカエルは目の前にいたんだ? っていうか、なんでカエル?
そんなことを働かない頭で考えたのは、投げかけられた言葉があまりにもクリティカルだったかもしれない。
一学期ももう半ばに差し掛かろうとしている。ハルユキはもう限界だった。なけなしのプライドが登校拒否になることを許さない。無駄に豊かな想像力の中では二人の幼馴染が投げかける憐憫の視線が、部屋に引きこもった未来のハルユキの心をすり潰す。
しかしこのままではハルユキは死ぬしかない。ならば、どちらかが死ぬ以外の道がないというのなら……。
その考えが引きこもり以上に危険で周囲に迷惑を考える思想だと理解していても、あの脅威に立ち向かえるなら一興だとやせ細り、ボロボロに傷ついた心が囁く。あたかもそれはロウソクが消える前の一瞬に、ひときわ強く輝くように。
最近は暇さえあればネットで頑丈なロープや、振り回すのに最適な大きさと重さの工具リスト、ついでに学生の小遣いと権限内で作成可能な催涙弾の作成方法を検索するのが習慣となっていた。
荒谷は深く考えもせずに、いつも通りのいじめの一環でハルユキが作成した黒騎士のアバターを奪ったのだろう。
しかし、あれはハルユキの最後の牙城だったのだ。あれを作成している間だけは嫌なことを忘れることができた。あれを作成していたからこそ最後のプライドを保つことができた。
わかっている。一学期の約半分の時間をかけて作製した大作完成の嬉しさのあまり、周囲に見せびらかした自分が馬鹿だったのだ。これだけのアバターを組むことができるのなら、実力を認められて
しかし、だからどうした。
人間は弱点を突かれると畏縮するか逆上するかの二パターンに別れる。今までのハルユキは畏縮していた。まだ譲っても生きることができたから。
しかし意図せず最後の領域が侵された今、ハルユキはいまだかつてなく静かに逆上していた。
一瞬の硬直から解かれたハルユキは反射的に逃げ出そうとした。現実世界ならもれなく足がもつれて転倒しただろうが、ここはしがらみから解放された電子世界。それなりの敏捷性を持ってピンクのブタは踵を返す。
しかし回り込まれてしまった。
速いというのではない。速度ならハルユキの方が断然上だ。ただ、ハルユキが逃げるということを、ハルユキの弱さの発露を見通して事前に取り込むように動いた。そんな奇妙な感覚がした。
「まあ待て。話せばわかるなどという戯言はほざかぬが、逃げる前に儂の目を見てみろ」
半ばパニックに陥っていたハルユキは、促されるままに声に従ってしまう。両生類の面長な顔がアップになった。生臭さを幻覚する。
よく見てみればデフォルトにあったアバターの一つだ。小柄なブタアバターよりは頭一つ分高いが、よくある人間等身大アバターよりはやや小さい。ただ現実にありえないサイズのカエルというインパクトで異様に巨大に見えるだけだ。
白地をベースにまだら色に染まったデザインというのは見た覚えがないから、そこは自分でカラーリングしたのだろう。
どうせなら純粋なアルビノにすればまだ神秘的な印象も湧いてきたかもしれないのに、これではただ灰色に薄汚れているだけだとハルユキのデザイナーセンスが酷評を下す。
デフォルメされていてもリアル志向が強い、瞳孔が横に割れた双眸が真正面からハルユキを覗き込む。カエルの顔面構造のせいでどこか逸れているような視線にさらされながら、ハルユキはなぜかデジャヴを感じた。
この目はどこかで見た覚えがある。濁りすぎて逆に透き通ったような、曇りすぎて逆に晴れ渡ったような、温度のない硝子のような目。これそのものではない、これよりもっと小規模で、深みもまるで足りないが、ベクトルとしては同一のものを。
そう、たとえば朝起きて歯を磨いている最中に、学校のトイレで用を済ませ手を洗っている最中に、ついさっき
「儂らは同類じゃ」
すとん。その言葉はあっさりハルユキの中に落ちて見事な着地を決めた。同時に体の力も抜けた。逃げる必要がないと、意識より先に心が判断を下したのだ。
「ここは人目が多い。少し場所を変えよう」
「え……なんだ、これ?」
言葉につられ周囲を見渡したハルユキは驚愕する。
なぜか、その言葉は嘘だった。
つまり決して人通りの少ないスペースではないのに、いつの間にか周囲にはハルユキとカエル以外のアバターが消えているのだ。まるで別の世界に迷い込んでしまったようだと、ハルユキの中で蓄えたそういう類の物語の知識が妄想と相まって暴走を始める。
「けろけろ。先導するのが時計ウサギではなくハイイロマダラガエルで悪かったの」
「い、いえっ!?」
思考を読んだような言葉に、そんなことはありませんとハルユキはもごもごと動かない口の代わりにぶんぶんと扇風機のように首を横に振った。
ふらふらと安定感のない足取りで先導するカエルと、その後ろをトコトコついていくブタ。客観的に見ればファンシーな周囲の森のデザインも相まって、可愛らしい光景だったかもしれない。
道中、二人の間に会話はなかったが、ハルユキはいつものように何か話さなければという焦りにとらわれることはなかった。
つまらない奴だと思われているだろう。気持ち悪いと見下されているだろう。迷惑をかけるのが恥ずかしい。デブで汗っかきな自分が情けない。普段なら次々と心の底から湧いて出る劣等感がまったくない。
許されている気がした。
何が、とは具体的に上げられない。ダメな自分かもしれないし、後ろを付いて歩いていることかもしれない。あるいはまったく見当はずれで、彼女はただ今日の夕食の献立を考えているような気もする。
声からして中身が女性ということは予想できたが、外見が外見だけに異性に緊張してギクシャクなどは難しかった。
ただ一つ言えるのは、彼女の近くが安心できる空間だったからこそハルユキはのこのこと名前も知らぬ他人についていけたということだ。
状況に流されているというのも多分に含んでいたが。
カエルとハルユキはレクリエーションルームが設置された大樹の一本を登っていく。ゲームフロアの入り口を一つ通り過ぎるたびに人の声で構成された雑音がアバターの耳朶を揺らした。
ハルユキはほっと溜息をつく。自分たちだけが世界から隔絶されたわけではなかったのだと知って。普段は聞こえるだけで心が苛まれるくせに、聞こえなければ聞こえないで不安になるとは不便な話だ。
しかしその歓声も階段を上がるごとに少なくなっていき、カエルが足を止めたころには全くなくなっていた。まったく人の気配のしないゲームコーナーは、まるで動物の巣穴のような異質な空気を漂わせながらぽっかり口を開けている。
「バーチャル・スカッシュ・ゲーム?」
ハルユキは視界に表示される、ゲームの内容と思しきタイトルを読み上げた。ここが目的地なのだろうかと目で問うハルユキに、カエルはしっかり頷いてみせる。首の構造がどうなっているのかが気になった。
「うむ、いかにも。ここは儂の
公共の場所に何言ってんだか、とあきれる余裕が出てくるのはもうしばらく先の話。
それがハルユキが荒谷たちから解放されるまでの学校生活の中で一番の逃避先であり、新たな最後の砦となる場所との、最初の邂逅だった。
(思えばライハさんが最初の恩人なんだよな……)
ハルユキを救い出してくれた黒雪姫は間違いなく最大の恩人だが、ライハがいなければ黒雪姫に助けられる前に新聞に少年Aとして載っていただろう。それが被害者としてなのか、加害者としてなのかはわからないが。
ライハ。本名は知らないカエルのアバターの持ち主。そもそも、自己紹介してお互いの呼び名を知ったのさえ三回目の邂逅のときだった。彼女が礼儀知らずというより、お互いに名前を知り、それを呼ぶ余裕をハルユキが取り戻すまでをじっくり待っていてくれたような気がするのは恩人としてのプラス補正が入りすぎだろうか。
彼女との付き合いは緩く生温く適当で、それゆえに安心できた。ライハはハルユキについて一切何も聞かなかったし、ハルユキも自分がいじめられていることなんてまったく話さなかった。
ただ偶然任せに空間を共有して、ライハさん、ハル坊とお互いにハンドルネームで呼び合い、時折気まぐれにライハが情報をハルユキに与える。図書室という新たな
使う機会のなさそうなラウンジの情報はともかく、同じ隠れ場所をいつまでも使い続けていれば荒谷に嗅ぎつけられる危険性が高まるので図書室の情報はありがたかったのを覚えている。結局ラウンジの不文律も自分に関わる日が来るとは当時は思ってもみなかったが。
ハルユキの新たな砦となったゲームコーナーで、二人はタイミングが合えばお互いに観客とプレイヤーとなりハイスコア更新に挑戦した。
特に目標があったわけではなく、ほかにやることもなかったので。
声援のひとつもなくただ見つめられながら、ぽごんぽごんと球を打ち返す空間は奇妙な静けさと居心地の良さに満ちていた気がする。
バーチャル・スカッシュ・ゲームの腕は並よりは上のライハだったが、それはあくまで経験値の成せる業であり、レベル100を超えた場所で残像しか残さない球を打ち返すハルユキのゲームセンスにはひと月であっさり追い抜かされていた。彼女には才能がない。
ただ、一部ゲームのTASリプレイ動画を見ているような、生物として変態的な彼女の動作は参考になった。人間としての当然の動作と、アバター動作の最適解は必ずしも同一ではない。その思考を手に入れてから、ハルユキの到達限界はさらに10レベル上昇した。
彼女は正しくハルユキの同類だった。きっと思考回路の一部に同一規格のパーツが使用されている。同じ空間にいると、時折彼女が自分と同じことを感じ、同じ考えをしているのが直感的に察することができることがあったし、それはきっとライハの方からも同様だろう。
虐げられている者が何よりも恐れるのは、暴君の采配ではない。
自分より少し上の仲間の同情。それが最後に残った、自分を支えているプライドを粉微塵に破壊するのだ。
ライハは超然としたカエルだったが、その雰囲気はどこまでいっても敗者のそれであり、
もしも彼女に助けを求めれば、ライハは黒雪姫よりももっと先に荒谷からハルユキを救い出してくれたかもしれない。ハルユキは黒雪姫が致命傷を負わないためのIfとして、そんなことを考える。
ハルユキは
顔も本名も学年も知らない相手。そもそもまともに考えれば、たかが一生徒がその気になったところでいじめが解決できるのならば、学校からいじめという存在はとっくの昔に根絶されていることだろう。
そう理解したうえでなおハルユキにそう感じさせる何かを、ライハは持ち合わせていた。
しかしハルユキは助けを求めなかったし、彼女から切り出すこともなかった。
何かを成し遂げるには覚悟がいる。ゆっくりと何かが溶けていくようなライハの隣でハルユキはそんなものを抱くことはなかったし、ライハもまったく期待していなかったように思う。
黒雪姫が世界で一番ハルユキに期待している人間だとすれば、ライハは世界で一番ハルユキに期待していない人間だった、と言える。
ライハはハルユキが荒谷に立ち向かえるだなんて、髪の毛一本ほども信じていなかった。
送られてきた恫喝メールを証拠として集めて然るべき場所に提出する。ソーシャルカメラと多くの人の目のある場所で荒谷を挑発し、大げさに殴られて被害を水増して演出する。
やろうと思えばハルユキはハルユキの持ち物でいつでもいくらでも戦うことができた。ハルユキもライハもそれを知っていた。その上でやる前から諦めて動こうとしなかった。
誰からも期待されずに、自分でも期待しない生活はとても楽だ。救われるわけじゃない。傷が減るわけじゃない。将来的に展望が良くなる可能性なんて全くない。何より楽ではあっても全然楽しくなくて、自分がどんどん嫌いになっていく。
黒雪姫の期待を受けた時ハルユキは苦しくて逃げてしまいたかったが、心の奥底ではどこかワクワクしていた。
アッシュ・ローラーとの一戦は楽勝からは程遠かったが、体の奥底から湧き出る熱が抑えきれずにピョンピョン飛び跳ねたくなるほど楽しかった。
黒雪姫の期待に応えるため全力を尽くしてひいひい言う自分を見るたびに、心底情けなくなるのと同時に自分のことをちょっぴり好きになれた気がする。
それでもハルユキはライハに感謝する。
きっとライハと初対面の時に黒雪姫のような期待をかけられていれば、まず間違いなく自分は潰れていたという確信があるから。
きっと人間関係で一番重要なのはお互いの人格や年齢や性別や社会的身分などではなく、ただいつ会ったかというタイミングなのだ。
破綻寸前でライハに会えたから、ハルユキはその腐るようなぬるさの中で休むことができた。
ゆとりのある状態で黒雪姫に声をかけられたから、ハルユキは期待に応えようと努力することができた。
ただそれだけの話。正しいとか間違っているとか、そんなつまらない基準は存在しない、本当にただそれだけのことなのだ。