トリスタニア診療院繁盛記   作:FTR

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外伝「その0.9」

 夕刻の診療院。

 リビングのテーブルの前に陣取った私の前にあるのは、安物のチェス盤。盤上に並んだ駒を見ながら、私はただ駒の展開を考えていた。

 ああ行く、こう来る。こっちならどうで、あっちならどうか。

 手数にして30手先まで読んで展開を見失い、私は宙を仰いだ。

 こう見えて、私は将棋が指せる。前世で私がいた医局では将棋は人気があり、しばしば晩御飯を賭けての対戦相手に駆り出されたものだった。医局長をはじめとした同僚に何人か強いのがいたのだが、駒の動かし方を教えてもらった程度の段階からそいつらの相手をさせられた記憶がある。私も生来負けることがあまり好きではないだけに、飛車角桂香落としたそいつらにあっさり負けたすぐ後に将棋の指南書をネットでポチった。ついでに「月下の棋士」だの「ハチワンダイバー」だのも全巻大人買いした。以来、矢倉だ穴熊だと必死に定石を覚えたものだ。ちなみに同じような流れで碁や麻雀も覚えざるを得なくなり、入門書と一緒に「ヒカルの碁」と「哭きの竜」も全巻ポチった記憶もある。

 この手の物は、努力すればある程度のところまではその努力に見合った実力が付いて来る。将棋で言えば、アマチュア四段くらいまでは努力で何とかなるんじゃないかと思われる。そこから先はセンスがものを言うプロの世界だと私は思う。奨励会で天才比べをやって生き残った連中となると、私の基準ではもはや人外だ。A級ともなれば、その棋力は完全に妖怪と言っていいだろう。

 閑話休題。

 そんな私だが、修業した結果はまずまずなものと自負している。ネットでどこの誰とも知らない愛好家と対戦将棋をやっても勝率はまずまずのものだったし、医局の中でも後追いでありながら局内ランキングではトップを争うくらいにはなった。おかげでしばしば美味しい晩御飯にありついたものだった。

 だが、それがチェスとなると勝手が違う。

 チェスと将棋、この二つは似ているようで別のものだ。

 駒が違う。

 マスの数が違う。

 この辺はまだいいのだが、何より困るのが張り駒ができないことだ。

 相手を調略して味方に引き込むのが将棋、容赦なく首を刎ねるのがチェスだという説もあるが、最悪の場合、引き分けもあるのがチェスだ。予備戦力の投入ができる将棋に慣れた身としては、正直、すごくやりづらい。前世では日本最強の将棋指しと日本最強のチェスプレイヤーは同一人物だったが、よくそこまで思考を切り替えられるものだと感心したくらいだ。

 

 

 

 

「ただいま戻りました」

 

 天井を見ながらを我ながら不気味な唸り声をあげていると、玄関から聞きなれた声が聞こえた。

 スリッパ履きのくせに足音が全くしないのはあいつの特徴だ。達人と言うのはそういうものなのだろうか。それでもさすがにドアは開く音はするので、開いたドアに合わせて振り返ると、私の使い魔がそこにいた。

 仕事着姿のディルムッド。白いシャツに黒ベスト。若草色のタイが実によく映えている。アームバンドがワンアクセント。たとえ魚屋の格好をしてもこいつはそれなりに着こなしてしまうと思うが、ピシッとした格好をすると一際男が上がって実によろしい。私が言うのもなんだが、こいつは本当にカッコいい。ハリウッドあたりに放り込めば、巨万の富を築けることだろう。

 

「おかえり、早かったね」

 

「はい。今日は納品先から直帰するよう言われまして」

 

「それはお疲れ様。マチルダは?」

 

「店長は工房から直接香辛料屋に弔問されるとのことです。そのまま送る会に流れると」

 

「おや、御隠居の事、もう耳に入っているのかい?」

 

 さすがは商人だね、耳が早い。

 

「ええ。大往生であったと。香辛料屋の隠居殿には工房もだいぶ贔屓にしていただいていたのですが……」

 

「穏やかに眠ったよ。いい顔をしていた」

 

 私の言葉に、使い魔が卓上のチェス盤に目を向けた。

 

「隠居殿との、最後の対局ですか?」

 

 頷いて、私は盤に視線を戻した。

 

「ここで中断したままだったんだよ。せっかく私が優勢だったのに。結局勝ち逃げされちゃったよ」

 

 

 

 今日、私は一人、友人を失った。

 午前中のことだ。

 

 医者と言う商売をやっていると、どうしても人の死に目に立ち合わねばならないことがある。

 もちろん、医者であるからには死にそうな患者は治療をするが、中にはどうしようもない患者も確実に存在する。

 数日前から、私は下町の一軒の家に日参していた。香辛料を取り扱う商人の家だ。その家の御隠居の往診をするのがここ最近のルーチンワークになっていた。

 

「お邪魔するよ」

 

 挨拶してテファと一緒に屋内に入ると、当代の若旦那とその奥さんが出迎えた。表情は暗い。

 

「具合はどうだね?」

 

 私の問いに、若旦那は暗い表情で首を振った。

 

「そうかい……」

 

 私は一つため息をついた。

 話もそこそこに、寝室のドアをノックする。

 

 

 

「よう、先生じゃねえか」

 

 部屋に入ると、床の中から御隠居のしゃがれた声が聞こえた。

 私がこの街に流れて来て最初に仲良くなったじい様で、酒とチェスをこよなく愛する気のいい御仁だ。

 

「あんまりにも胸が平たいから、近所のガキが飛び込んできたのかと思ったぜ。毎日すまねえな」

 

 ……このじい様、事あるごとに私の胸板をからかってくるから困る。もっとも、多くの人は私の胸を見た後で視線を逸らしてため息を吐くだけに、ここまで正面から言われると逆に腹も立たないから不思議だ。

 だが、口調こそ下町の住人らしくいささか乱暴だが、今、その声に往年の張りはない。骸骨のように頬肉が落ち、顔色も悪い。

 その顔に張り付いた、黒い影。

 死相と言うのは、いつ見ても嫌なものだ。

 

「うるさいね。大樹の苗木を低いと笑う愚を犯すんじゃないと何度も言ってるだろ。ちょいとごめんよ」

 

 内心を見せずに枕元に行き、布団をはいで診察を始める。

 お年寄りが床に臥すと、筋肉の衰えは驚くほど速い。廃用症候群は誰にでもあるものだが、高齢者は特にその傾向が顕著だ。若かりし頃には20キロもある香辛料の袋を4つも担いでのしのし歩いていたと聞く御隠居の体もその例に漏れず、寝間着をめくれば見えてくるのは骨と皮ばかりだ。

 打診の後、聴診器を当てる。その傍ら、テファが検温を済ませてくれた。

 

「どうでえ?」

 

「……可もなく不可もなく。現状維持だね。ちゃんと飯は食べてるかい?」

 

「腹いっぱい食ってるよ」

 

「それは結構」

 

 御隠居が言っていることは嘘だ。食事をほとんど食べていないことは、家の人にも聞いてある。衰弱した体は、もう水くらいしか受け付けないだろう。多くの臓器が弱っているだけに、当然、消化器も機能の低下が著しい。

 残念だが、これは病気でも何でもない。

 今、御隠居の体は、静かにその限界を迎えようとしている。

 つまり、老衰だ。

 

「それで、俺の寿命の見立てはどうでえ? そろそろじゃねえのか?」

 

 しゃがれた声で、答えづらいことを御隠居が訊いてくる。

 私と御隠居とは、医者と患者ではあるが、それとは別に飲み友達だった。つまり『点』ではなく『線』の関係。週末になると、夜の酒場でしばしば私とチェスを指し合った仲だ。

 とにかく口が悪いじい様ではあるが、そのくせ妙に緻密な棋風で、実際飲み代をかけての対局は私の方が負けてばかりだった。

 

「何とも言えないね」

 

「嘘はよせよ。顔に書いてあるぜ。時間の問題だってよ」

 

「らしくないこと言うんじゃないよ」

 

「いいんだよ。昨夜、あいつの夢を見てよ、迎えに来たんじゃねえかと思ってんだよ。お節介だから、あいつも」

 

 御隠居は笑うが、正直、私は笑えなかった。

 あいつというは、御隠居のおかみさんのことだと察しはつく。気風のいい人だったが、昨年鬼籍に入っている。

 私は基本的に現実主義者だが、こういうことは珍しいことではない。不思議なことに、患者が亡くなる前に連れ合いの夢を見たりすることは割と多いのだ。患者の脳の中でどのような動きがあるのかは知らないが、それで己の死期を悟る患者が結構いることは確かだ。

 市場で店を切り盛りしていた御隠居とそのおかみさん。毎日夫婦漫才のようなやり取りをしながら商売をしていたこの二人は、トリスタニアでもちょっと有名なおしどり夫婦だった。

 チェスが好きな御隠居は、しばしばおかみさんの目を盗んで街の連中と昼間からチェスを指していたのだが、そのことでよくおかみさんに怒られていたっけ。往診途中に通りがかったカフェで、さぼりの現場を押さえられておかみさんの前で低頭していた御隠居を見たこともあった。そのくせ、この御隠居はあまり遅くまでは飲んだりはせず、酒場でもう一局付き合えと迫る私に『そろそろ帰らねえと、あいつに嫌われちまうからよ』と言って笑って帰っていったものだった。『怒られる』ではなく『嫌われる』と言うあたりが惚気にしか聞こえず、残った飲み友達連中は口笛吹いて囃し立てたものだった。

 そんなおかみさんが昨年亡くなってから、御隠居は一気に老け込んでしまった。まるで光を失った植物のように日々体から覇気が無くなっていき、床についたのは先月の事だった。

 連れ合いを亡くすというのは、やはり人生でも最大級の悲しい出来事なのだろう。

 

「そうはいかないよ。このままじゃ、あんたの勝ち逃げじゃないか。次はアルビオンの30年物を一杯賭ける約束だったよね」

 

「女房に先立たれた男なんざ哀れなもんだからよ、早いとこ女房追っかけていくのが似合いってもんさ。それはそうと、先生よ。一つ頼みがあるんだが」

 

「何だね?」

 

 私が応えると、御隠居は視線を部屋にある戸棚に向けた。

 

「あの棚、開けてくれ」

 

 言われた棚をテファに開けてもらうと、そこには一本のワインがしまってあった。銘柄はアルビオン。よりによって30年物だ。値段も相当張るだろう。

 

「そいつを一口飲ませてくれや。残りは先生が片付けてくれりゃいい」

 

 私は一瞬返答に困った。

 

「元気になった時の快気祝い用に取っておきなよ。それに、御馳走になるならあんたに勝った時じゃないと筋が通らないじゃないか。頑張っておくれよ」

 

 そんな私の言葉に、御隠居は静かに返す。

 

「ありがとうよ。こんなジジイでも惜しいと思ってくれてよ。ありがたくて泣けてくるぜ」

 

「馬鹿言ってんじゃないよ。友達に死んで欲しいと思う奴がいるわけないだろう」

 

「ダチか?」

 

「違うのかい?」

 

「……うんにゃ、違えねえ」

 

 そう言って御隠居は笑い、そして深く息を吐いた。

 その音に、テファが一瞬身を強張らせた。テファが感じたものと同じ波動を、私も感じ取っていた。

 吐息の気配に、穏やかな崩壊が見えたのだ。

 それは、波が砂の城をさらうような、静かな幕引きの訪れだった。

 

「……すまねえ。もう、眠いや」

 

 御隠居の言葉を受けて脈を取り、私は時が来た事を悟った。

 冷徹な現実に揺れる気持ちを、プロ意識で抑え込む。

 

「テファ、家の人たちを」

 

「判りました」

 

 程なく、息子さん夫婦の他、兄弟3人とその連れ合い、加えて孫が10人。それらが静かに御隠居の部屋に集まった。

 一人ひとりと会話を交わし、御隠居からの言葉を受け取る。

 最後のお孫さんと話が終わると、御隠居は私を枕元に呼んだ。

 

「もういいのかい?」

 

「ああ、もう、充分だ」

 

「それじゃ、お待ちかねのやつだよ」

 

 私は用意しておいたワイングラスを手に取った。

 満たされているのは、時が醸した極上の名酒だ。

 テファに手伝ってもらい、ご隠居の体を起こしてグラスを口に運ぶ。

 一口。

 それが御隠居の限界だった。

 酒豪で知られ、幾度も私を潰してくれた御隠居のその姿に、胸が詰まった。

 それでも、御隠居の顔には歓喜が浮かぶ。

 

「美味えなあ」

 

 もう一口勧めようとする私に微かに首を振り、そのまま再び体を横たえた。額に手を当てると、やけに冷たい。人が命数を使い果たす時は、いつもこんな感じだ。

 

「おかみさんに、よろしく伝えておくれ」

 

 私の言葉に、家の人たちの鼻声が泣き声に変わった。

 今にも落ちそうな意識の中で、御隠居がうわ言のように言う。

 

「ああ……おめえたち……」

 

 御隠居は家人たちに視線を向けて微笑んだ。

 

「ありがとうよ。楽しかったぜ」

 

 最後に大きく息を吐き、御隠居は静かに眠った。

 御隠居の心臓が、穏やかその役目を終えたのは、それから30分後のことだった。

 

 

 

 その後、テファがご遺体を清めている間に書類をまとめて家人に渡し、役所に届けるよう伝えた。葬儀については、寺院に行けば手続きをしてくれることも加えて言っておいた。

 ワインは栓をして蝋封を施し、彼の棺に入れるよう息子さんたちに頼んだ。故人の言葉だからと差し出されはしたが、これについてはあの世で御隠居に勝った時の楽しみにすると言って遠慮させてもらった。

 明日には、街外れの墓地の真新しい墓標の下で眠るであろう御隠居。

 過程の違いこそあれ、それが人が人である限りは誰にも平等に訪れる、人生という旅路の終着点だ。

 

 

 人生は不可逆だ。誰であっても、人という存在は死と言う結末に向かう片道切符の旅路を歩み続ける運命にある。

 その終着点から先は、神や宗教の領域だ。あるいは、行きつく先は天国も地獄もない全くの無なのかも知れない。ホーキングあたりは死後の世界はないと言っていたが、しかし、実際には死後と言うものが存在することを私は知っている。

 

 それが、転生。

 

 その不思議な現象について、私は思う。

 転生とは何だろうか。

 単純に生まれ変わるということを転生と言うが、今ここにいる私が何者なのか、たまに判らなくなることがある。

 私は私ではあるが、その人格が前世のそれと同一なのかどうかは確たる自信はない。今生での誕生の際、産声を上げた瞬間から自我があったわけではない。一番古い記憶をたどれば、それは3歳くらいのものだ。普通の人と同じように、私もまた自分が誰かは判らなかった時期を経て、徐々に人格というものが出来上がって来ている。前世と今生というものを意識するようになったのは、物心ついてからだ。

 そんな前世の記憶も、随意に思い出せるわけではない。すぐに思い出せるものもあれば、ある日突然フラッシュバックのように思い浮かぶこともある。その記憶は、虫食いだらけだ。それだけに、前世から持ち越した人格が私という人格になったのか、はたまた前世の誰かの記憶を受け継いでいるだけなのかはっきりとは判らない。あるいは、別世界の誰かの記憶と私の意識が混線しているという可能性もないわけではないだろう。

 考えれば考えるほど、今の私の存在はよく解らなくなる。

 そして、よく解らないだけに、不安も募る。

 それは、私は『死ねる』のだろうかという不安だ。

 意図せぬ転生。一度あったそれが、二度ないという保証はない。そして、今なお、ここに私がいることの原因を私は理解できていないのだ。

 成長しない体でも、いつの日か老いはこの身を訪れると思うが、その果てに生涯を閉じる時が来た時、私は静かに眠れるのだろうか。

 もしかしたら、死んだ後、またどこかで別の人生を歩むことになるのではないだろうか。

 それが、三度くらいまでならば何とかなる気がする。四度や五度でも、もしかしたら乗り切れるかも知れない。

 だが、これが数十の単位で繰り返されたとしたらどうなるだろうか。

 百の単位ならどうだ。

 その時、私は私でいられるだろうか。

 正直、怖い。

 死は誰にとっても恐怖ではあるが、死ねないという事もまた恐ろしいことだと私は思うのだ。

 

 ふと思い、私は傍らの使い魔に問うた。

 

「ディルムッド」

 

「は」

 

「変なこと訊くけど、死ぬことと永遠に生きること、どっちが辛いことだろうね?」

 

 人が限られた生という枠組みを踏み越える手段は、転生だけではない。その生の涯てに、世界と契約することもまた、人としての生の領域を超える手段だということを私は知っている。

 今ここにいるこの男もまた、私と同様に一度は死んだ人間なのだ。

 ケルト神話で、主君の復讐を受けてその命脈を絶たれた英雄は、死後に英霊の座に上り詰めた。存在の格が上位にシフトするという点で転生とは異なる現象だが、無に還るという結末とは違う結末に至ったことには変わらない。そんな彼の意見を聞いてみたかった。

 

「そうですね」

 

 宙を仰ぎ、英霊は目を閉じて考え込んだ。

 

「どちらも辛く、どちらも幸いなことだと思います」

 

「幸い?」

 

「はい」

 

「死ぬことも?」

 

 ディルムッドは頷いた。

 

「この世の中は、すべてが流転していきます。いつまでも変わらぬものはありません。人や国はもちろん、山河でさえも。その変化の中に、いつまでも取り残されていくというのは辛いことだと思います。ならばこそ、穏やかに家族に囲まれて、次の世代に未来を引き次いでその生涯を終えられることは、人として幸せなことではないでしょうか」

 

「いつまでも生きることの幸いと言うのは?」

 

 その問いに、ディルムッドは笑みを浮かべる。

 

「誰かに出会えるかも知れぬ、と言うことに勝る幸いはありますまい」

 

 目から、鱗が落ちた。

 彼のその言葉に、私は素直に感心した。

 声音に、仕えるべき主を求めて世界を渡った騎士としての含蓄があった。

 なるほど。うまいことを言う。

 日常の中、たまに忘れかけることがある。

 ディルムッドの言うとおり、今、私の周りにいてくれる人たちとは、この世界に生まれたからこそ出会えたのだ。

 生まれてこの方、いいことばかりではなかった。だが、そうであっても今の私は不幸せではない。誰かに出会える。そのことが何を置いても喜ばしいことだと思うことができる。

 そのことを理解し、私は宙を仰いだ。

 あの日、皆と出会った。

 必然と偶然の積み重ねの中で、トリスタニアに居を構えて今日に至っている。

 そのどれも、この世に生まれなければ得られなかったことばかりだ。

 転生というものを考えた際、その収支は、その人生において死ぬ時に初めて明らかになることだろう。

 でも、今生に限っての話ならば、もし今すぐに私が死んだとしても、寂しくあってもきっと後悔はしないだろう。

 それだけのものを、私は皆からもらった。

 それは、かけがえのない日常と言う記憶。

 そしてもし、次の人生があったとしても、皆にもらった幸せな記憶があるのなら、私は笑っていられるように思う。

 例え、生まれ変わった先が今生に倍する地獄であったとしても、この街で暮らした日々の記憶があれば、それはきっと私の中の灯になってくれると今ならば思えるのだ。

 

「なるほど。それは素敵な考え方だね」

 

 私は素直に感想を述べた。

 

「私見に過ぎませんが」

 

「いや。いい答えだと思うよ。すまないね、変なことを訊いて」

 

 その時、キッチンからテファがリビングに入って来た。

 

「姉さん、そろそろ行った方がいいんじゃないかな」

 

「そうだね。ぼちぼち出掛けようか」

 

 呟いて、私は立ち上がった。

 

「今夜は大騒ぎになりそうですね」

 

「あの御隠居だ、派手に送ってやらなくちゃね」

 

 忠臣の言葉に、私は頷いた。

 今夜だけは自分の来世の心配より、長旅を終えた友人を送ることを考えよう。

 弔問の後、有志は『魅惑の妖精』亭に集まることになっている。御隠居も人望のある人だっただけに、恐らく街の主だった面々が集い、その宴は弔いの常識とはかけ離れた盛り上がりを見せることだろう。御隠居なら、絶対そのほうが喜ぶであろうことは誰でも知っているからだ。

 

 

 駒を並べたチェス盤を一瞥し、私はリビングを後にした。

 

 

 

 

 

 そんな一日。


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