ボツにした温泉編の序幕を晒していきます。
続きは多分無いです。続くにしても本編終わった後だと思います。
春も半ばにさしかかり、そろそろ桜が散るか散らないか、といった頃。連休、ということで高町家で温泉旅行の計画が提案されたのはその何ヶ月も前。
それに、まずは姉妹共々親しい付き合いの月村家が乗り、アリサ・バニングスも父親から許可を取り付けて参加する。そして、今や半分高町家の居候となっている織斑千冬、そしてその弟も勿論一緒になって、これで合計12人の大所帯になってしまった。
高町家の自家用車と月村家の車、合計二台。六人ずつ入った車内の片方では、男一人に女四人のハーレムが展開されていた。
「かわいいー!」
「にゃはは、ぷにぷにだぁ」
男の両隣に座るのは、金髪を長く整えた、外国仕立てのお嬢様と、茶髪にツインテールで笑顔が似合う元気な女の子。
「あんまり触ってやるな、むずがるだろう」
「そうだよ、慣れない車の中なんだから」
後ろの席から顔を出しているのは、長い黒髪を後ろのポニーテールで纏めた凛々しい少女と、おっとりとしながら周りを気遣う可憐な乙女。
四人の中央に座り、自らでは何もせぬまま、四人の美少女の寵愛を受ける。
そんな世界の男性の殆どが羨む待遇を受けている男こそ――織斑一夏。
今年、満1歳になる赤ん坊であった。
「ね、ね、私の名前呼んで、アリサよ、アリサ!」
「アリサちゃんだけずるい! 私も! ね、一夏君、私はすずかだよ」
「ええい、二人ともそんなに一気に喋るな! 混乱してしまうだろうが」
勿論、まだ性別の区別もつかないほど未成熟な赤子に全員惚れ込んだわけではなく、子供からすれば珍しい赤ちゃんという生き物に、只の興味本位で迫っていただけだ。
一夏自身も別に、目の前で微笑む存在が女性であるとか、しかも飛びきりの美女だとか、挙句の果てには全員年若い少女であるとか、そういう思考は全くない。
ただ与えられる言葉、刺激に対して反応し、時折舌っ足らずの言葉を返すだけだった。まだ物心がついていないのだ。後々このとてつもなく男の夢に近い状況を思い返すのは不可能だろう。
それは本人にとって大損になるのか、あるいは後年こんがらがった彼の女性事情を更に混沌とさせない幸運になるのか。それはまだ、誰にも分からない。
「それにしても、千冬ちゃん」
「なんだ、なのは」
千冬がとりあえず過剰に迫るアリサとすずかを押し退けた後、不意に浴びせかけられたなのはの質問は、いかにも一家の末娘らしいものだった。
「千冬ちゃんももうすっかりうちの子みたいなものだし……そしたら一夏君って、千冬ちゃんだけじゃなくて、私の弟くんにもなるのかな?」
「ん……そう、なるな」
少し迷っていたが、肯定的な千冬の答え。
なのはは手を叩いて喜ぶ。高町家の雰囲気は暖かいのだが、なんだかんだ言って、なのはにも末っ子なりの悩みや憧れというものがあるのだ。例えば、出来の悪い弟に、しょうがないなあ、なんて言いながら、姉として世話を焼くとか。
「ふふ、いっくん、なんて呼んじゃったりして。私はなのはお姉ちゃん……お姉ちゃん! いい響きだよね」
にへー、とぼんやりしながらそういう妄想に浸る所は何ともまったりしていて、昨日の夜も張り詰めた顔でジュエルシードを探していたとは思えない。
千冬としては、この旅行が緊張の連続であるジュエルシード探しの息抜きになればいいと思っていた。だから、ああやっていつもの様に笑ってくれるのはありがたいことなのだが。
どうも姉として、血の繋がっている弟を取られるのは。何というか、悩ましい所だった。
「ちょおっとぉ、なによなのはだけ! ずるいわ!」
「そうそうなのはちゃん、私達だって弟、欲しいんだから」
下らないことで悩んでいるうちに、アリサやすずかまで弟争奪戦に加わり始めた。
そういえばアリサは一人っ子だし、すずかはなのはと同じく年上の兄弟しかいない。ひょっとすると、もしかして、これは、姉としての立場の危機なのだろうか?
そう考えると、千冬の手は無意識に、ベビーシートの上できゃっきゃとはしゃいでいる一夏を庇うような動きを見せた。
「あ、ちょっと千冬邪魔しない! あんただけ弟持ちなんてずるいんだから!」
「私に文句を言うな! 言うなら不公平なこうのとりにでも言うんだな!」
「あのー、それを言うならキャベツ畑なんじゃないかな、千冬ちゃん?」
批判の矛先が両親に向かないというのは、なんと純真であることか。この場に居ないウサミミ発明家がいたら死ぬほど笑っていただろう。
そして、赤ちゃんの出来る本当の理由を、自慢気に喋っていたかもしれない。
なのはの両親の目の前で。
この場に束がいないことは、この四人だけでなく、運転に集中している高町夫婦の精神衛生にも幸いであった。
「どっちにしてもー、いっくんは私の弟なんだよ! 千冬ちゃんはともかく、アリサちゃんとすずかちゃんのじゃないんですっ!」
それぞれ勝手なことを言いながら、にわかに盛り上がる後部座席。言い合いは段々ヒートアップしていって、終いにはじゃれあいのように互いを押し合ったりし始めた。
「……おい、あれ、止めた方がいいんじゃ」
「いいのよあなた。暫く好きにさせておきましょう?」
運転中の態度としては些か問題のある行動なので、運転手の士郎が苦言を呈したが、助手席の桃子は敢えてそれを止めなかった。友達同士のちょっとしたスキンシップであることが分かっていたし、そんな事をしなくても、いずれ止まるだろうと思っていたから。
そして、一分も立たない内にその推測は当たる。争う女の子達に挟まれ、わやくちゃにされた一夏が不快さを感じ勢い良く泣きだしたのだ。
「あ、い、一夏!?」
「いっくん!?」
途端に、四人が四人ともやばいと感じて一斉に互いから手を引き、どうにかして一夏を慰めようとする。しかし、一度ぐずった赤ん坊というのは、母親以外の手によっては中々止まらないものだ。
「やぁん、泣き止んでよ一夏くん、ね、おねがい?」
「ほーらよしよーし……さっぱりダメみたい」
アリサもすずかも、泣き始めた赤ん坊を止める術など知っていない。それぞれに思いつきであやしはじめたが、一夏の目にも入っていないようだ。
慌てて、なのはは一夏の本来の姉を呼んだ。
「ち、千冬ちゃんっ」
「ええい、三人共不甲斐ない! こ、ここはだな、私がとっておきの方法を見せてやる!」
見栄を張った千冬の顔も切羽詰まっていて、しかも何処か恥ずかしそうに頬を紅潮させている。これは今まで、一番の親友であるなのはにも秘密にしていたのだ。それほどまでに深刻な技を、この状況で解き放つ。その後がどうなるか非常に危険だが。
一夏のためだ。やるしかない!
「とっておき!? 一体どんな技なの?」
すずかが問いかけると、千冬はふとこの秘技を編み出すのに掛けた日数を思い出し、感慨深そうに語り始めた。
「これはだな、まだ私が一夏と二人きりだった頃。どうしても泣き止まないので何回も試して、漸く閃いた必殺技でな……」
「どうでもいいから、早くしなさいよ!」
「千冬ちゃん、お願い!」
「む、そうだな。よし……」
アリサとなのはの二人に急かされた千冬は、まるで剣道場で敵手に向き合うかのような面持ちで精神を統一させる。その雰囲気に押されて、周りの三人がごくり、と唾を吐くのと同時に、ゆっくり息を吸い。
そして。
「あっかんべぇのべろべろばぁぁ!」
思いっきり舌を出し、レロレロと左右に動かす。下の瞼を思っきり引き下げて、目の中の赤い部分が丸見えになっている。顔の表情自体もなんだか道化のように笑っていて、いつもの鉄面皮でクールな織斑千冬は何処へやら。まるでピエロのようだった。
とっておき、と自称しただけあって、一夏からの受けは上々。泣き腫らした瞳をぱちくりさせて、パンパン手を叩きながら、途端にまたきゃっきゃ、とはしゃぎ始めていた。幼稚な赤ん坊に対しては、まさしく必殺技と言えよう。
問題は、それ以外の観衆にとってもある意味必殺技だったことだ。
「ッ……」
「ぁぁ……」
アリサは車窓の外を見つめ、すずかは申し訳無さそうに俯いた。普段は自分にも他人にも厳しく、冷たいくらいに厳格な千冬が、あの顔をする。旅行の最初の最初で、文字通り一生忘れられない思い出が出来てしまいそうだ。
おかしいとか笑いたいとか、そんな感情はとっくに通り越し、同情や哀れみすら感じる――しかし、唇の端は引きつっている――そんな顔で、二人は淡々とコメントした。
「お、弟持つのって、案外大変なのね。いやー、凄いわ千冬。改めてリスペクトする。うん、ほんとに。超スーパーすごいリスペクトよ」
「その、千冬ちゃん……ごめんね、私、やっぱり弟持つにはちょっと力不足かも」
「く、うぅぅ……」
その反応は、千冬にとって鋭く大きな、言葉の刃だった。どういうことなのか、その表情は、その瞳は。正直、予測はできていた。できていたが。こうして中途半端に返されると、まともに大笑いされるより遥かに苦しい。
これでも弟をあやすために一生懸命考え、三人の前で清水の舞台から飛び降りる心持ちで、全力全開で実行に移したのだ。結果的には大成功だが、後味がこれでは、恥ずかしいのと無様なので、ここから消えてなくなりたくなる。
ドアがロックされていなければ即座に開けて飛び出しただろう。この場にもし真剣があれば――
「あの、千冬ちゃん?」
なのはの一声が、千冬を現実へと引き戻した。そうだ、なのはだ。なのはなら分かってくれる。優しいなのはなら、私が払った犠牲を分かってくれて、無言で慰めたりもしてくれるはずだ。
しかし、白い救いの天使は、千冬に対して、黒い混じりけ一つ無い笑顔でのたまった。
「凄い! 凄いよ! いっくんあっという間に泣き止んじゃった! ね、私にも教えて?」
がふぅっ。
無形の刃に腹部を貫かれ、千冬はゆっくりと脱力して横になった。すずかの膝元に頭が乗っかってしまうが、全てを察した彼女は何も言うこと無く只膝を枕として預ける。
ああ、その発言に邪気はない。全くない。なのはなりに気遣い、落ち込んだ千冬を励ますための健気な一言だったんだろう。この状況、もし束でも同じようなことを言うだろうが、あっちは友達を絶望に陥れるための悪意と皮肉がたっぷり入っているはずだ。
そうではない。そうではないのだ。そうではないのだが。
「……いっそ、ころせぇ……」
「ち、千冬ちゃん!? な、なのは、もしかして酷いこと言っちゃった!?」
「なのはちゃんもういい、もういいからっ……私のお膝でどうにかするからっ」
「なのは。ブシのナサケよ、ほっといてあげなさい……」
妹代わりの前でも、弟の前でも涙は流せない。だから千冬は、車が温泉に付くまで空虚な瞳で座席とすずかの膝に横たわっていた。
そんな愉快な狂乱の中、一夏は我関せずと指を咥えてのんびりしているのだから、赤ん坊というのは幸せものである。
以上。
何も意識して書いてないのにある意味ハーレム状態な一夏さんマジ一夏さん。
箒ちゃんは乱入してくる束を止めに来た篠ノ之柳韻(パパ)と一緒に登場する予定ですがそこまで進みませんでした。