ボクはマスコットなんかじゃない   作:ちゃなな

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10 願い事、叶えてあげる

 細い裏路地。そこには表通りの街灯やネオンの光も入ってこない。だが、何も見えないというわけでもない。ビルとビルに挟まれた細い空から少しふくらんだ半月の光が降りてきているのだ。その光に照らされて、闇の中にいくつもの白い塊が浮かび上がっている。白い塊は、猫のような姿をしていた。風が路地を走り、耳毛や大きなしっぽをそよがせていく。

 キュゥべえは、インキュベーター同士の集まりに参加していた。記憶の共有はなされているが、それだけで地球での活動の全てが滞りなく進むわけではない。なので、このようなミーティングが一定期間ごとに設けられていた。

 

「ねえ、君が見つけた候補者だけど」

 

 いくつかの報告と方針の話し合いの最中、一匹のインキュベーターがキュゥべえに声をかけてくる。隣の地区のインキュベーターだった。話の内容を半ば予感しながらも、キュゥべえは小首をかしげる。

 

「何だい?」

「僕の担当している魔法少女が明日か明後日には魔女化する見込みなんだ。君はもう一人候補者を確保してるよね?」

 

 思った通りの話題に、キュゥべえは耳をピクリと震わせた。そうだね、と肯定する。

 

「譲ってくれないかい? 魔女化が予想外に順調に進んだから、候補者を探す暇がなかったんだ」

「……分かったよ。あそこは君の方が近いからね。交渉も回収もしやすいだろう」

「ありがとう」

 

 キュゥべえが了承すると、インキュベーターは当然のように頷いた。効率を考えればそうなるのは自明の理だったので、断られる可能性など考えていないのだ。候補者相手になら笑っているように見えるよう目を細める場面だろうが、インキュベーター同士でそんな無駄な事などしない。話が終わったインキュベーターは、キュゥべえに背を向けて去って行く。他の個体もそれぞれ話し合っているが、これ以上この場に留まってもキュゥべえが関係する話題は出てこないだろう。そう判断したキュゥべえも路地に背を向けた。

 表通りに出ると、街灯とネオン、そして車のヘッドライトの光がキュゥべえを照らす。それに気付く人間はいない。灯りは梢の家に近付くにつれて少なくなっていき、着いた頃にはまばらな街灯と月の光だけになっていた。辺りの家は既に寝静まっているようでほとんどの家の灯りは落ちている。梢の家は真っ暗だった。

 キュゥべえは地面を蹴ると一跳びで一階を覆う屋根に着地する。薄く開けたままにしておいた梢の部屋の窓から室内へと入った。閉められたカーテンの幕を潜ってベッド脇のコンポの置かれた棚に飛び乗り、部屋の主へと視線を向ける。梢は布団もかぶらぬまま、着衣もそのままにベッドに臥せっていた。動かない。眠っているようだ。うつぶせで、さらに両腕を顔の下に敷いていて表情は見えない。だけど出かけた時の様子から、その頬には濡れた痕があるのだろうとキュゥべえは予測した。梢は、泣いていたのだ。そして泣き疲れて眠ってしまったらしい。キュゥべえは、出かける前――伊万里一家の夕食の記憶を振り返った。

 

/*/

 

「離…婚……?」

 

 その話を切り出したのは、たった一人だけが浮足立った空気の重い夕食で、最初に食べ終わって箸を置いた梢の母親だった。食事時の挨拶以降、始めて彼女の口から出た言葉。それが離婚することになったから、という台詞だった。

 

「ええ。正式な離婚は慰謝料の金額が決まってからするから、ひとまずは別居…という事になるけれど」

 

 呆然と呟く梢に母親は頷きながらあっさりと言う。梢に視線を向けることもなかった。冷茶のボトルを手元に引き寄せて傾ける。茶色に色付いた液体が茶碗に溜まっていく。

 

「え? え?」

 

 困惑して言葉を詰まらせる梢。両親に視線を向けるも、冷茶に目線を落としたままの母親とも、目を逸らした父親ともそれが合う事はなかった。

 母親は茶を一口啜る。そして言葉だけは優しげに口を開いた。

 

「安心して。あなたの親権は私が取るし、別居中はこの人が出て行くから引っ越しや転校の手続きもまだ先の話だから」

「……てんこう……」

 

 離婚。別居、転校。

 別離を示す言葉の羅列に梢の顔から血の気が引く。ゆるゆると首を振って、弱々しい声音ながらも必死に訴える。

 

「そんなの、やだ…よ…… どうして」

 

 母親は促すように無言で父親を睨み付けるが、彼は答えない。面倒臭そうに、食品トレイの上に最後に残った唐揚げを箸で突いて転がしている。苛立ちを隠せていない表情で母親は溜息をついた。

 

「今日、会社に女が乗り込んできたのよ。この人の子供が出来たから別れろ、ってね!」

「いや、だって仕方ないだろう? 責任は取らなきゃ」

 

 この人、の所で思い切り指を付きつけられた父親は、鬱陶しそうに向けられた手を払う。母親は、払われた手をテーブルに叩き付けた。衝撃と音で梢はビクリと肩を竦め、置かれた箸は転がっていく。

 

「私は夫としての責任を果たして欲しかったんですけどね!」

「君は一人でも生きていけるだろうけど、彼女は俺がいなきゃダメなんだよ」

 

 うんざりしたように表情を歪ませ、父親は突いていた唐揚げを口に放り込むとそそくさとその場を後にする。キュゥべえの陣取った横のソファに置かれていた小さな鞄を手に持って。家の中の他の部屋ではなく、外へ。

 待って、という梢の小さな呟きのような叫びはキュゥべえにしか届かなかった。届いたからといって、何をするでもないけれど。

 

 これが、梢が嬉しそうに席に着いた一家揃っての夕食の顛末だった。

 

/*/

 

 意識を現在に戻したキュゥべえは、足元に視線を落とした。白い自身の前脚と、踏みしめている棚の天板が視界に入る。そこから降りて寝床として与えられたクッションの上で丸くなった。

 梢は追いつめられている。別に梢の両輪に働きかけたわけではなかったというのに、このタイミングで。

 集会が今日じゃなかったらな、とキュゥべえは思いながら目を閉じた。今日じゃなかったら、候補者の交渉権譲渡の話が来る前に交渉に入れた可能性は高かっただろう。

 結衣は、契約する。それが明日なのか明後日なのか、そしてどんな形でなのかはいくつかパターンがあるけれど。

 

 ――キュゥべえ。

 

 それは、耳が捉えた音ではなかった。閉じて暗くなった瞼の裏側に少女の姿が映る。チェス盤のような白黒の衣装をまとった見知った少女。キュゥべえは少女の名を呟く。音にはならなかった。

 

 ――おいで。ブラッシングしてあげる。

 

 優しげな声。彼女はしっぽを引っ張ったりしてちょっかいをかけてくる片割れとは違い、よくそうしてキュゥべえを呼んで、ブラシをかけていた。誘われるまま、少女に近付く。だけど、目の前に立つ少女は別の少女にすり替わっていた。キュゥべえは少女の名を呟く。今度は音になった。ユイ、と。

 名を呼ばれた結衣はニコリと微笑んでキュゥべえを抱き上げて座り、膝の上に乗せる。されるがままになっていたキュゥべえは、ひっくり返された格好のまま結衣を見上げた。逆さまの結衣は随分と機嫌が良さそうに見える。

 屋上での焼き直しのような光景。キュゥべえは、その時にした願い事の言及を今回はしなかった。腹毛を撫でる繊細な指先を感じながら目を閉じる。

 

 次に目を開けた時、世界は夜目が利かなくとも辺りが見える程度には明るくなっていた。雀の鳴く声が聞こえる。体に触れる感触は人の指ではなく、クッションの布地のもの。時計を見ると、昨日の梢の起床よりも三十分程早い時間だった。だが、梢のベッドは空になっている。もう起きているらしい。

 キュゥべえはクッションから身を起こして、先程自身が経験したことについて考えてみた。推測を一つ、声に出す。

 

「もしかして、今のが夢…ってやつなのかな」

 

 夢。現実の経験のように感じられる、睡眠中に見る幻覚。先程見たのがそうであるならば、キュゥべえにとって初めての事だった。

 インキュベーター同士で意識を共有し、自身の体験していない記憶などは把握できないほどあるが、ここまで支離滅裂なイメージも初めてだった。

 

「全く…… ワケが分からないよ」

 

 人間は、しょっちゅう夢を見るという。こんな支離滅裂な幻覚を何度も何度も見せられるから、人間は精神を患うのかもしれない。そこまで考えて、キュゥべえは首を振った。

 クッションから降りて、階下へと向かう。リビングのテーブルには飲み終えた後のコーヒーカップ。少しよれた新聞紙がその横に置かれている。

 梢の姿は見えなかった。だが、声は聞こえる。玄関の方からだった。そちらへ向かうと、ハイヒールを靴ベラを使って履く母親と、それに半泣きで縋りつく梢の姿があった。早く起きたのは、離婚を考え直してほしいと母親に訴える為だったのだろう。

 だが、梢の言葉は母親には届かなかった。縋りつく手を解いて、眉根を寄せた彼女は口を開く。

 

「ごめんね。もう、疲れたの」

 

 梢の目の前で、扉が無情にも閉められた。空虚な音が玄関に響く。

 ずるり、と梢は三和土に座り込んだ。黒いタイルの上に水滴が落ちる。

 

「やだ…… やだよ、お父さん……お母さん……」

 

 小刻みに震える梢の肩。流れる涙。それらが感情が大きく揺さぶられているサインだとキュゥべえは知っている。だから、キュゥべえは一言促すだけで良かった。

 ユイに願いを叶えて欲しいと言えばいい、と。

 しかし、キュゥべえはそれを言葉にすることが出来なかった。何故かは、分からない。

 結局言えないまま時間は流れ、ひとまず泣き止んだ梢が鼻を啜りながら立ち上がる。キュゥべえは数歩下がった。

 ふらつきながら、梢は洗面所へと歩いていく。備え付けの洗面台の前に立った梢は蛇口をこれでもかというほど捻り、出てきた大量の水で顔を洗った。あまりにも勢いが強くて辺りに水飛沫が舞う。乱暴に、しかし時間をかけて洗われた顔は冷やされ、水を止める頃には何とか体裁を取り繕うことのできる程度になっていた。多少目元が赤くなっているくらいだ。

 鏡でチェックして、ひとまず合格点を出したらしい。壁に固定されたタオルハンガーからタオルを引き抜いて顔や手の水分を拭う。そして、大きく息をついた。リビングに戻って時計を見上げる。いつも家を出る時間を既に数分オーバーしていた。手早く学校へ行く準備を済ませて家を飛び出す。キュゥべえもそれに続いた。

 家を出た頃にはいつもより大分遅くなっていたので通学路に人気はない。走らなくては始業時間にも間に合いそうになかったが、家を出てからの梢の歩みは重かった。とうとう、梢の足が止まる。後ろを歩いていたキュゥべえはそれにぶつかりそうになって立ち止まった。梢を見上げると、彼女は驚きの表情で前を見つめている。視線を追うと、公園のゲートに背中を預けた少女が目に入った。

 

「結衣……」

 

 梢が少女の名を口にする。噛みしめるような声音だった。結衣も梢に気付いて、短い距離を駆け寄ってくる。

 

「一旦学校に行ったんだけど、梢ちゃん来てなかったから心配になって……」

 

 その言葉の通り、結衣は通学鞄を持っていなかった。学校に置いてきたのだろう。梢の目の前に立った結衣は、少し目を見張り、そろりと梢の頬へ手を伸ばす。

 

「赤くなってる。――泣いたの?」

 

 触れるか触れないかの微妙な感触に、梢は顔を歪めた。通学鞄を放り出して結衣に抱き付く。結衣はたららを踏むも、何とか堪えて梢の背中に手を回した。玄関の時とは違い、声を上げて梢は泣く。

 

「お母さんとお父さん……離婚する、って……」

 

 握りしめられた、結衣の制服に深い皺が刻まれる。

 

「引っ越しも、転校もするって…… お父さんに新しい子供も出来たって…… いやだ、そんなの、嫌っ!!」

 

 結衣は、肩に埋められた梢の頭に顔を寄せた。背中を擦る手の優しさに梢の声が大きくなる。

 

「お父さん、お母さんに"君は一人でも生きられる、でもあっちは自分がいなきゃダメなんだ"って…… あたしは!? あたしだって一人じゃ生きられないよ! 一人じゃ嫌だ。お母さんとお父さん、二人揃ってなくちゃダメなのにっ!!」

 

 ガバリ、と勢いよく梢は結衣の肩から顔を上げた。だが、手は離さない。強く握りしめたまま、結衣の目を覗き込むようにして梢は言う。

 キュゥべえが唆そうとして、結局は言葉に出来なかったそれを。

 

「……結衣。お母さんとお父さんが離婚しないようにして」

「え?」

「キュゥべえにお願いして。願い事、まだ決まってないって言ってたでしょう? 助けたいって、言ってくれたでしょう!?」

 

 頬を濡らしながら、叫ぶように言う梢を結衣は見つめた。目尻を吊り上げて切羽詰まった様子の梢とは違い、随分と落ち着いた表情をしている。数分の沈黙の後、一度目を閉じた結衣は柔らかく目を細めて頷く。

 一つ梢の背中を撫でて体を離させると黙ったままだったキュゥべえに向き直った。キュゥべえの耳がふるりと震える。

 

「できる? キュゥべえ」

 

 キュゥべえは一つ頷いた。ハッと梢は顔を上げる。その拍子に涙が一粒零れた。視線の合った結衣は梢の頬を伝う雫を指で払い、柔らかく微笑む。

 

「梢ちゃん、泣かないで? 私が梢ちゃんの願い事、叶えてあげる。……ここじゃ人目に付くかもしれないよね。公園に入ろう?」

 

 結衣は梢の腕の裾を軽く引いてゲートの中へと誘う。向かった先は遊具と遊具の間。公園の入り口から見えない位置。そこでキュゥべえと結衣が向かい合った。キュゥべえは結衣を見上げる。彼女の瞳は決意を秘め、静かな光をたたえている。それでもキュゥべえは一つ訊ねた。

 

「本当に、いいんだね?」

「いいよ。梢ちゃんの両親の離婚しないようにすること。それを、叶えて」

 

 願いが、エントロピーを凌駕する。キュゥべえは結衣に耳毛を伸ばした。結衣の胸元から光があふれ、それが宝石の形を取る。深い森の中のような暗緑色。それがころりと結衣の手の中に転がり込んだ。

 

「契約は成立した。これで願いは叶ったよ」

 

 不思議そうに手の中の宝石に視線を注ぐ結衣に言う。結衣は頷いてソウルジェムを胸元に抱き寄せる。もう一度手を広げると宝石はそこに既になく、銀の指輪として結衣の指を飾っていた。

 

「梢ちゃん、今帰ってもまだおじさんとおばさん帰って来てないでしょ? とりあえず、今は学校に行こうよ。それで、今日は魔女探しはお休みして家に帰ろ」

 

 ソワソワと今すぐにでも踵を返して家に帰ってしまいそうな様子の梢に笑う。そして足元にいたキュゥべえを抱き上げて猫にするように喉を撫でた。目を閉じたキュゥべえのしっぽが揺れる。

 

「キュゥべえはうちにおいで。しばらく、親子水入らずにさせてあげてよ」

「……そうだね。ボクはユイのところに行くとするよ」

 

 キュゥべえがそう答えると、結衣は嬉しそうに笑った。


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