学園都市第十三学区に存在する小児用能力教材開発所付属の小学校。散り際の桜を望む教室の一つに木山春生は訪れていた。おそらく自身の生涯で足を踏み入れることなど二度とないだろうと考えていた場所にこうして立っている現実を春生は未だ受け入れられないでいる。
懐かしさ、のようなものはあった。冷たい廊下、チョークの粉が煙い黒板、ワックスが利いた板張りの床、ぎしぎしと鳴く椅子と机、手書きの大きな時間割表、少し落ち着きのないざわついた雰囲気。春生もほんの十年と少し前に見知ったものだ。
けれど、教壇から見下ろす教室の景色はどこか違っていて。
無数の目が春生を見上げている。AIM拡散力場制御実験の被験者である子供達が、その無邪気な瞳を春生に注いでいる。
「今日から君達の担任になる木山春生だ……えっと、よろしく」
途端に大合唱で返事が返ってくる。春生の小さな声など一瞬で掻き消えてしまった。
何を言えばいいのかなんて春生には分からない。そもそも教師の在り方なんてものすら知らないのだ。
何故自分はこんな所にいるんだろう。いやそもそも何故こんなことになってしまったんだろう。現実逃避に走りかける頭を引き戻して、春生は手元の出席簿を確認した。
成長データを取ろうにも、まず顔と名前が一致しなければ満足に記録もできやしない。春生は矯めつ眇めつ出席簿と子供達を見比べた。
「出席番号一番は、右列からか、えー……」
「はいはいはーい! 先生提案です!」
溌剌とした声がまたも春生のもたついた声を掻き消した。見れば一人の児童が挙手しながら立ち上がっているではないか。栗色のショートヘアを黄色のカチューシャで留めた少女だ。大きな瞳の輝きは窓から差し込む日光にさえ負けていない。
「君は……
「はい!
「あぁ自己紹介」
目から鱗が零れる心地だった。なるほどそれは良い方法だ。
早速と、春生が指図するその前に男子児童の一人が立ち上がっていた。
「んじゃはいはい! 最初はオレがやる!」
「えぇ~、私が最初に提案したんだから私が一番!」
「えっ、いや」
触発されて、というより競うように今度は窓際の女子児童が、さらに廊下側の男子が、皆続々と自己主張を始める。
「あたしもやりたい!」
「オレもオレも!」
「ちょっとー!! わぁたぁしぃが最初ぉ!」
「ちょっと待て、順番ずつ、一人ずつで」
春生が
「静かに。お、落ち着いて。頼むから静かに! …………あぁっ、誰か」
天を仰げどそこには白い天井があるだけで春生を助けてくれるものはない。
この喧騒は授業開始の本鈴が鳴るまで暫く続いた。
授業を始めてみると、存外子供達の聞き分けは良く、いやむしろとても素直であった。解らないものははっきりと解らないと言う。そして理解できるまで質問を繰り返す。勉強それ自体への興味関心も旺盛である。学ぶということに、ひどく真摯なのだ。貪欲と言い換えてもいい。
その意味で、こうして教鞭を執ることも存外に春生にとって有意義だったと言える。無論、赴任初日の印象で評価を下すのは早計だろう。油断はできない。朝礼の騒ぎのようなことを春生は極力勘弁願いたいのだ。
そしてあれよあれよと授業をこなし、気付けば昼食の時間であった。学校給食などそれこそ春生は十数年ぶりだ。
だが何より春生を驚かせたのは。
(昼食まで一緒に摂るのか……)
給食は児童と教師の分まで用意されているらしい。せめて食事の時間は安寧であって欲しいと願っていた春生にこれは愕然と来た。
「先生は私達と食べよ! ねっ、ほらほら」
「あ、ああ、わかったから……」
枝先他、数人の女子児童からの力強い要請でそのようなことになった。クラスの児童らそれぞれが五、六人の班を作って机を寄せる。春生もその一つに引っ張り込まれた。
妙な気分だった。食事は一人で手早く済ませるのが春生にとっての常であったから。
「ほら先生。手ぇ合わせて。合掌だよ」
「あ、はい。じゃあ……」
促されるまま手を合わせる。小学生に食事の作法を手解きされる様は一人の大人としてひどく情けないものがあるが、春生本人は気付いていなかった。
こんな些細な所作にさえ、春生は懐かしさを覚える。
「いただきます」
『いただきまーす!!』
また威勢の良い大合唱を聞きながら、春生は気を取り直して盆に乗った料理を見た。今日のメニューはコッペパンと野菜たっぷりのトマトスープ、付け合せのサラダ、ブルーベリーヨーグルト、パックの牛乳といった品々。ごく一般的な学校給食といえた。
先割れのスプーンを手に春生はまずスープを飲もうと匙を伸ばした――――伸ばそうとしたその時だ。
その少年が現れたのは。
教室前側の扉が勢い良く開く。それは思いの外大きな音を立てたものだから、教室中の視線が扉に注がれることとなった。
「オッス」
軽い。雰囲気も振る舞いもひどく軽い。それはいつかの夕暮れ時にされた彼独特の挨拶だった。
青い胴着姿、ぼさぼさの黒髪、少しだけ知性の薄い野卑な笑顔。先日とまるで変わらないままの少年がいた。
孫悟空が、そこにいた。
「ゴクウ!」
「ホントだ! ゴクウだー!」
「わぁーなんでなんで!!」
「よぉ、おめぇ達元気にしてたか?」
教室が歓声で包まれた。十数人の子供達の甲高い声音は凄まじい音量と音波を伴って春生の鼓膜を揺さぶった。
そうして子供達は一斉に席を立ち悟空へと群がっていく。
「どうしているの?」
「ゴクウもこの学校なの!?」
「よっしゃあ! 昼休みに遊ぼうぜ!」
「サッカーしよサッカー!」
「え~ドロケイがいい」
「また背中乗せて飛んでよ! 私今度は雲の上まで行きたい!」
一人が喋れば隣のもう一人も、さらに後ろの二人が、三人が、それはもう好き勝手に喋る喋る。そんな凄まじく騒々しい人垣が教室の一角を占拠してしまった。
そして人波に飲まれる当の少年は子供達の勢いに気圧されることもなく笑っている。
「ははは、すんげぇ元気みてぇだなぁ。わかったわかった。飯食ったら皆で遊ぼうぜ」
悟空のその言葉に子供達は今一度の歓声で以て答えた。今度は教室そのものが震える勢いだ。
子供達と少年との微笑ましい光景を春生はどこか遠い景色でも見るように眺めている。
「あ」
不意に、そんな呆然とする春生と悟空の視線が合う。今なお子供達に揉みくちゃにされながら、よくもこちらに気付けたものだ。途端に春生の胸の内は、先程からふつふつと湧いて出る疑問によって占拠された。
何故お前がここにいるのだとか、どうして当たり前のように子供達の輪の中に加わってしまっているのかとか、何より昨日のあの謎めいた振る舞いは一体どういう意味なのか。
尋ねたいこと、聞き出したいことは山のようにある。あるのだが、春生がそれら多くの諸々を吐き出しぶつけるより先に、少年は口を開いた。相も変らぬ、その自分勝手さで。明るい笑みで。
「よぉ春生。おめぇも元気そうだな」
「あ、あぁ」
春生には、それだけ呻くのが精一杯だった。
宣言通り、孫悟空は子供達と昼休みを遊び倒し、その後またどこかへ姿を消してしまった。行き先はようとして知れない。少なくとも校内に戻った様子はなかった。益々以て謎である。
悟空が去り、昼休みが終わっても子供達は悟空という話題で持ち切りで、あまり授業にも身が入らない様子だった。午前中の集中力は一体どこへやら。ただでさえ子供慣れしていない春生に集中力を欠いた児童を落ち着かせるのは至難の業だった。
春生の抱いた子供達への印象は、大幅に下方修正せざるを得ない。
(やっかいなことを……)
そして春生の孫悟空に対する人物評もまた大幅な暴落を記録したのは決して無理からぬことだろう。
四苦八苦と授業をこなしてようやく放課後を迎えた今、春生は小学校の廊下をつかつかと歩いていた。肩に乗る疲労感が歩みを重くする。緊張で掻いた汗がジャケットの下で蒸れて不快だった。
一階廊下の窓からは正面グラウンドが見え、そこには友人達と居残ってサッカーに興じる児童達の姿がある。昼間にも散々校庭を走り回っていたというのに、あの体力は一体どこに貯蔵されているのだろうか。子供とは本当に不可解な生物だ。
(初日からカリキュラムが遅れている。とにかく明日はテキストを進めて、復習と質問事項への回答は課題で補填するとして……小テストの内容も見直した方がいいか。安易に出題範囲を広げても理解できなければ意味はないし――――)
授業内容の見直し、指定テキストの反芻、要約、資料作成。教師という職業はこれ程までに煩雑なものなのか。
幼児といえども人間を相手にしているのだ。大脳の生理反応を測定するのとは訳が違う。
「……研究ができない……」
それが何より痛ましいことだった。
成長データを事細かに測定し収集し、実験に向けた最終調整を行う。重大ではあるが言ってしまえばその程度の作業だった筈なのに。
今自身の頭を悩ませているのは初等教育カリキュラムの進行状況と子供のご機嫌取りの方法論だ。
こんな筈じゃなかった、などとは言うまい。予想はできていた。土台自分には向かない仕事なのだ。
だがそれでも。
「……」
春生の脳裏に孫悟空の姿が過ぎる。この厄介な現状に一役買っている少年を思い出す。
「はあ……」
溜息が漏れる。それは自分に対する呆れだった。
満足な結果を出せなかったことを他人の、それも子供の所為にするなど。大人気ないというより、人として愚かな行為である。
気付けば正面玄関を通り過ぎ、校舎端から伸びる渡り廊下に出ていた。廊下は校舎の外に出ており、そのまま体育館の入り口に繋がっている。室内からでは聞き取りにくかった児童達の声もここからだとダイレクトに春生の耳へ届く。
(何にせよ、仕事はきっちりこなさないと……)
それが最低限、子供の前途を任された者の務めだろう。
子供達の歓声を聞きながら、春生は益体もない思考に蹴りを付けた。
「あぁー!!」
「?」
ふと、声のする方へ春生が目をやると、数人の子供がこちらに走って来るのが見えた。何事かと辺りを見回すが特にこれといったものは見付からない。とすると彼らの標的は。
「木山先生ぇー!」
「私か……」
そしてよくよく見てみれば、彼らは自分の担当児童だ。丸一日顔を合わせておいて覚えられないとは、春生は自分の記憶力に少々自信を失くした。
真っ先に近寄ってきたのは、あのカチューシャをした女子児童である。
「君達、まだ居残ってたのか」
「うん! 皆でサッカーやってたんだ」
「絆理ちゃん強いんだよー。男子にだって負けないんだから」
「つ、次は絶対負けねぇもん!」
髪を二つ結びにした女子の言い分に男子が食って掛かる。えらく悔しそうだ。絆理――枝先は女子のわりに随分と活発であるらしい。そういえば授業中も彼女は大騒ぎする男子に負けじと声を張って注意してくれた。
「その、授業の時はすまなかったな。枝先に負担を掛けてしまった……」
「えっ? ううん! そんなことないよ。あれは全部男子が悪いんだしー」
そう言って枝先は傍らにいる男子をジトっと睨んだ。睨まれた方はばつが悪そうに視線を逸らす。
「あ、それにね。先生の授業すっごく面白いもん!」
「え」
一転、満開の花のような笑顔を枝先は浮かべた。まるで本当に輝くような眩しさである。
「そうだよね。前の先生の授業はつまんなかったけど、木山先生のは私好き!」
「お、オレもオレも」
「あんたはずっと騒いでたじゃない!」
「アハハハ」
枝先に賛同して子供らは皆そんなことをのたまった。社交辞令なんて気の利いたことを小学生がするとも思えず、かといって嘘を吐かれているような様子もない。
ひどく真っ直ぐな瞳らが、春生を見上げて笑んでいる。それはどこかくすぐったくて、むず痒くて、胸の内をもやもやとさせた。
「だからね、私明日から学校がすっごい楽しみなんだ!」
枝先は笑った。子供らも笑った。心から純粋に。
それは今まで経験のない感覚で、なんとも言い様のない感情で。
頬の熱さを自覚しながら、春生の顔には薄く、けれど確かに笑みが浮かん――――
「あ! それにゴクウも!」
「――――は?」
ぴしり、出来上がりかけていた表情が氷結する。
そして固まる春生とは対照的に、子供達の表情は一層喜びで彩られた。
「そうそう! ゴクウが明日も来てくれるって言ってた!」
「オレは拳法教えてもらう約束した!」
何故か、胸を満たしていた暖かなものが一瞬にして吹き飛んでしまったような心地だった。代わりに顕現した感情はなんともいえない微妙なもので。
そうして脳裏に浮かぶのは、あの底抜けに明るく無邪気で傍若無人な笑顔の少年、孫悟空。
「呼んだか?」
「ひゃんっ!?」
背後から、それも耳のすぐ後ろから吹きかかった息と声に春生は奇声を上げた。驚いた拍子に身体は脊髄反射で飛び上がり前のめりに倒れ、けれど身体を支える為に踏み出した足は渡り廊下の段差を絶妙に踏み外した。
春生の身体が地面目掛けて倒れる。
しかし、地面へ到達するより速く、春生は急制動を掛けられた。襟首を何者かに掴まれたのだ。
「ぐぁっ」
「っとと、大丈夫か?」
襟で絞まった首に呻くと、程なく拘束が解かれる。振り返った先にいるだろう人物は既に分かっている。
「突然耳元で声を上げるんじゃないっ」
「わりぃわりぃ。そんなにびっくりするとは思わなくってよ」
振り返ればそこに、後ろ頭を掻いて気まずげに笑う孫悟空その人だ。そして何故か逆様である。
よくよく見れば天井の縁にぶら下がっているらしい。
「コラー!! ゴクウ危ないでしょ。木山先生がケガしたらどうすんの!」
枝先が春生の傍らからずずいと前へ出て言った。まるで弟を叱る姉のようだ。年齢はそう変わらないように見えるが。
「いやホントわるかったって。よっと」
叱られた方は拝み手に平謝りする、と同時に天井から離れた。当然重量比の関係上頭から落下するところを、悟空はなんと空中で一回転してきちんと足から着地した。名前通り本当に猿の化身ではないのかと疑いたくなる身のこなしである。
「ところで、おめぇ達こんなとこでなにしてんだ?」
「あ、そうだ。ゴクウも一緒にバレーボールやろうぜ!」
「あー!! 私もやりたい!」
「あたしもあたしも!」
「またゴクウのジャン拳スマッシュ見せてよ!」
(じゃんけんスマッシュって何だ……?)
子供達は一瞬にして悟空を取り囲んだ。彼らの熱狂具合も然ることながら、一体何をすればこれ程までに子供達の心を掴めるのやら。
(私には一生理解できないな)
「行こっ。下校時間来ちゃうよ」
枝先が悟空の手を握り、勢い込んで校庭へ引っ張ろうとする。他の子らも早く早くと浮き足立ちつつ悟空を待った。
そんな子供達に悟空は微笑んだ。
「ははっ、慌ててっと転んじまうぞ。心配しなくてもすぐ行くからよ」
「……?」
悟空は微笑んでいる。枝先や他の児童達と変わらない子供のような顔。昼間見たものと同じ。
だのに春生はその瞬間、年老いた老人を思い浮かべた。目の前にいる幼い少年とは真逆の、苔生した老木のような静けさ。曾孫を見る時の老爺の貌はきっとあのように優しげなのだろう。
何故、こんな――――
「お、そうだ。おめぇも来いよ、春生」
あまりにも何気なく、悟空は春生の手を取った。
それは子供らしい小さな、けれどひどく子供らしくないごつごつと硬い手。何度も何度も肉刺を潰し、傷付き節くれ立った巌のような手。
「あ、え、来いって……」
「春生も一緒に
「あー! そうだよそうだよ! さっすがゴクウ!」
「木山先生も一緒にやってくれるの!?」
「やったー!」
「えぇっ!? いや、私は」
何やら好くない流れができ始めている。そう理解していながら春生にはそれを止める手立てなどなかった。
枝先が悟空の手を、そして悟空は春生の手を引っ張る。握った感触通りの力強さ。そして子供達の喜ぶ顔は、それ以上のどうしようもなく拒み難い力を持つ。
「勘弁してくれ!」
春生の悲鳴が空しく校庭に響く。
それは子供達の歓声の中、儚く融けて消えてしまった。
それからも、悟空は足繁く学校に訪れ、昼休みと放課後の時間を子供達と共に過ごしている。
時には手土産と称して、木の実や山菜、色とりどりの果物を抱えて、あるいは猪や鹿、どのように生育したのか検討もつかないような巨大魚を引き摺ってくることもあった。絞め立ての獣を学校の裏庭で捌き始めた時など、春生はこの世の終わりを幻視した。そのまま午後の授業を繰り下げて全校挙げてのバーベキューパーティーが始まった際は、春生は考えるのを辞めた。
体育の授業にいつの間にやら紛れ込み、何故か狩猟採集のレクチャーやら格闘技(?)の訓練やら織り交ぜた講習会が開催される始末。校内に部外者を入れて云々、はひとまず脇に置くとしてもカリキュラムを丸ごと乗っ取らせてしまうのはどうなのだ校長。
いずれの出来事も春生にとっては非常識極まりない。超能力というフィクションが非常識でなくなったこの学園都市であってもなお。
だが。
「えー、絆理達は喜んでっけどなぁ?」
「いや、そういう問題では……」
いつもの恍けた調子で悟空は言った。
ああ、それでも、児童達の目はいつだって輝いていた。いつからか子供達の笑顔ばかりが記憶に残っていることに気付く。騒がしくて、忙しなくて、腹の立つことや頭の痛い思いも何度となくした筈なのに、しっかりと残った思い出は、存外にも……。
それは、当たり前のことだろうか。どこにでも存在するありふれた光景なのだろうか。
「……」
「? 春生? どうした」
突然立ち止まった春生に悟空が振り返る。
空の茜は徐々に紺と淡い紫でグラデーションされ、直に完全な夜となるだろう。歩道に並んだ街灯が点る。いつもの道だ。春生が現在寝起きしている職員用マンションまであとはここを真っ直ぐに行くだけ。
「これも、日課のようになってしまった」
「これ?」
「君と帰り道を歩くことだ」
悟空が春生の帰路に付いて歩くようになったのは、あの赴任初日から今日に至るまで。つまりは毎日だ。
初めこそ訝しんだ春生だったが、特に何か意図があるようでも無し、することといえばその日あった出来事を取り留めもなく語らうくらい。
そんなことをもう五ヶ月も続けていたのか。もしかしたら、春生もどこかでこのささやかな時間を楽しんでいたのかもしれない。
「少し癪だが」
「??」
この第十三学区立先進教育局付属小学校に春生が赴任して既に五ヶ月余りが経とうとしていた。あれから日の入りも随分と早くなったように思う。
いろいろな話を悟空と交わした。どれも身になるようなものはなかったのだけれど。
特に、春生の一番知りたい不可解な事柄が。
「いい加減、君が一体何者なのか教えてもらえないものかな」
「いっ……」
ギクリといかにも解り易く悟空は肩を震わせる。この少年、嘘を吐くのが下手なのだ。顔に出易いのは言わずもがな、トランプで子供らと遊んだ際も戦績は酷いものだった。ちなみに春生も何度となく勝った。
その嘘を吐けない少年が下手なりに誤魔化し続けている“孫悟空”という存在。
「なあ、君はどうして私に付き纏うんだ」
「う~ん、やっぱし迷惑か?」
「いや迷惑ということは……時々だが、その、私としてはもう少し穏やかな日々を所望するというか。君と一緒に過ごすことが決して嫌な訳ではなくてだな…………って、そういうことではなく!」
自分は長々と何を言い訳しているのだ。春生は一旦咳払いした。
「……隠さなきゃならないことなのか? どうしても」
「あー、そうだなぁ………………うん、やっぱあんまし言っちゃなんねぇらしい」
「それも例の“シェンロン”という奴の助言か」
口をついた言葉は、妙に皮肉げな色味を持って響いた。春生自身が驚いてしまうほど。
春生は内心で後悔しながら悟空の顔を窺った。
「ああ」
真っ直ぐな目が春生を見る。ひどく真摯で曇りない――嘘のない目。
「すまねぇ、春生」
「……いいさ」
そんな目で見られてしまっては春生にはもう何も言えない。
春生は再び歩き出す。それを見た悟空も、車道側にあるガードレールにひょいと跳び乗り、春生の左隣を器用に歩く。教え子がこんなことをしようものなら春生はすぐに引き降ろすが、何せ相手は悟空である。
一歩進む毎にその小ぶりな尻で尻尾が揺れる。濃茶色の体毛に覆われた、キツネザルやリスザルのように長い尾。人間には断じてある筈のない異形。
「正直教えてくれなくてもいいから、とりあえず手始めにその尻尾についていろいろと調べさせて欲しいんだが」
「うへぇ、また追いかけっこするんか」
そういえば以前そのようなことをした記憶がある。アクセサリーか何かだと思っていた尻尾が実は暦とした本物で、その上生体として完全に機能しているなどと、春生の驚愕は凄まじいものだった。その後、尻尾の操作と脳機能の関連についていろいろと研究させて欲しいと申し込んだのだが、悟空は頑として拒否し続けた。
挙句の果てが、あの奇妙な鬼ごっこだ。
「まあ、気が向いたらいつでも頼む」
「やーだよ」
その軽妙な応酬に、春生はくすりと笑みを零した。悟空はぷいっと不服そうに顔を背けている。
暫時の沈黙。道を蹴るヒールの音色とガードレールを渡る軽い靴音だけがその場に響いた。
「最初は、君も
「うん?」
何気なくそんなことを春生は口にした。
「チャイ? なんだそれ?」
「前に説明しただろう……枝先達のような子供達のことだ」
「あぁ、あれな」
辛うじて思い出せたようだ。むしろこの場合、この少年がそういった世情について覚えていたことを喜ぶべきだろう。
春生は苦笑して溜息を吐いた。
「まったく。いっそ体育以外の授業にも出たらどうだ、
「へへへ、わりぃわりぃ…………でも、そっか。あいつらも父ちゃん母ちゃんいねぇんだったなぁ」
「…………」
彼らに親はいない。皆何らかの事情で親に捨てられた孤児だ。
学園都市の児童、生徒、学生は入学と同時に都市内での居住を義務付けられる。本来は学生にとって最良の“学びの場”を提供するという目的で考案された制度であり、入学者には学業への集中を促す為に様々な生活支援が行われる。なるほど、人材育成という面でそれは確かに素晴らしい取り組みだろう。だが皮肉なことに、学園創立以来これ幸いと入学金だけ支払って体よく子供を置き捨てていく親が急増したそうだ。
彼ら、彼女らのような子供は一様に『
「ま! 関係ねぇけどな」
春生は悟空を見る。両手を後ろ頭に組んで、少年は危なげなくすいすいと細いガードレールを進んだ。
「あいつらは強ぇぞぉ。後ろなんて見ねぇでよ、いっつも笑ってんだ」
「……」
「すげぇよな。まだあーんなガキんちょなのによ。へへへ!」
「それは」
それは、違う。違うんだよ悟空。
悲しくない訳がないのだ。不安がない筈がないんだ。親の庇護を欲しがらない子供がどこにいる。捨てられてしまったという事実が彼らにとってどれほど重いものか。
それでも子供達は真っ直ぐに前を向いている。事実を知ってきちんと理解した上で、確固とした自分を持って今も彼らは生きている。
どうして。笑顔でいられる。悲嘆に暮れず、その涙を拭った瞳に曇りはない。
枝先が、あの子達の心が強いから? 違う。それだけではないのだ。
きっと、それは――――
「おめぇのお陰だな、春生」
「…………」
――――悟空、お前がいたから。
無邪気な笑顔で悟空は言った。それに春生はただ曖昧な笑みを浮かべて応えた。
「……ところで、今日はどうする。泊まっていくんだろう?」
「お、いいのか?」
「ああ、別に今更だ」
「春生んちのソファは柔こくてすぐ寝ちうかんなぁ」
「廃ビルで夜を明かすのに比べればそりゃあ快適だろうさ」
悟空はまたけらけらと笑った。「親がいない」、「家がない」、それが春生の知る数少ない孫悟空の個人情報だった。こんな子供がホームレス生活をしているという事実は断じて笑い事ではないのだが。
春生は今日何度目かの呆れた溜息を零した。
「あまり騒がしくしないでくれよ。片付けなきゃならない仕事がまだあるんだ」
「わかってるって」
東の夜空に半欠けの月が見える。商業区、繁華街からも遠いこの学区の夜はいつも穏やかだ。
「…………騒がしくしないなら、いつ来てもいいから……」
「お?」
少年から顔を背け、春生はずっと半月を見ていた。