孫悟空の目覚めはいつも唐突だ。
朧げな夢を見る時もあれば何一つ感じない時もある。眠っているという自覚はあるのにやたらに意識がはっきりとしていて様々な場所をまるで時間も空間も関わりなく漂っていると感じることもある。
いずれにせよ、その時の悟空には何もできない。為す術がない。
だから悟空はいつも気長に待つことにしている。
肉体が覚醒するその時を。真実朧な肉体がこの世の
西日の眩しさは閉じた目蓋の上からであっても強く、
茜色に染まる空がまず目に入る。仰向けに寝転んだ背中はひどく硬い感触を覚えた。
コンクリートの上で悟空は大の字になって横たわっていたようだ。
「ふぁあ~……ん、今度はちょっと、早かったなぁ……」
欠伸を噛み殺すこともせずむくりと起き上がりそのようなことを呟いて伸びをする。ふと、悟空は四方が手摺りで囲まれていることに気付く。後ろには扉があり、どうやらここはどこかの建物の屋上らしい。
暫し黙って、悟空は何かに耳を傾けている。この場には悟空という少年がただ佇んでいるだけにしか見えない。少なくとも傍目には見ることの叶わない“何か”がここに存在するのだ。
「ははっ十年か。やっぱなぁ。そんな感じしてたぞ」
小走りに近寄った手摺りへひょいと飛び乗る。所狭しと居並ぶ大小様々なビル群、途絶えること無い自動車の排気音と夥しい人々の喧騒、夕焼けに輝く大都市を悟空は一望した。
「へぇー、学園都市っつうのかここ。西の都みてぇで賑やかなとこだなぁ!」
人が足を踏み入れたこともない山奥や森深くの、所謂未開の地で生活することが多かった悟空にすれば、ごみごみとした都会はそれだけで物珍しい。都会で過ごした経験が無い訳でもあるまいに、悟空の田舎もん根性はいつまでも変わらなかった。上機嫌な悟空に合わせて、尻から伸びた茶色の尻尾も嬉々として揺れている。
「……不思議な気だ。それも街中いっぱいあんぞ。なぁ神龍、ここは――うん?」
広大な土地を占める膨大な街並みを楽しげに眺めていた悟空の目が、ふとある一か所に止まった。
そこは人工の建築物で覆われたこの場所には珍しく、森林の緑が生い茂っていた。学園都市内にいくつか設けられた緑地公園の一つである。植えられた草花にせよ樹木にせよ、人の手で選別され剪定されたものであるのだからそれもまた一つの人工物と言えるのだが。
しかし悟空の目を引いたのはそういった街の緑ではなく。
「人か? なんかふらついてん――あ」
頓狂な声を上げて暫く、悟空はその様子を見守った。さしたる時間ではなかったが、あまり芳しい結果ではなかったようで、悟空はえいこらもたれかかっていた手摺によじ登る。
危なげなく手摺に立ち、周囲のビル群を一瞥した。適当な目測を決め、何程の躊躇もなく手摺を蹴った。
その小さな身体が空中に躍り出る。悟空のいた屋上から地表まで優に50m。空中遊歩。地表の道路で自動車や人が続々と行き交っている。目標としたビルは通りを挟んだ向かい側だ。
「いよっと」
そんな軽々しい掛け声で、悟空は向かいのビル屋上のフェンスに飛び乗った。
要領を得たとばかり、そのままピョンピョンと飛蝗の如くビルとビルの間を跳び回り、ものの数秒で悟空は目的地に到着していた。
くしゃりと草を踏む感触。毛足の揃った人工芝だった。悟空はそのまま芝生のコートを囲む遊歩道へ出る。
目的の人物はすぐそにいた。
あの屋上で見付けた時同様――地面に力なく倒れ伏している。白いひらひらとした服、白衣も同じ。間違いはない。
小走りに近寄り、悟空はその人物の肩に手を掛けた。
「おーい、大丈夫か? しっかりしろ」
肩を揺すっても反応はない。呼吸は乱れておらず、こうして直接触れて気を検めてみても特に大きな異常は感じられなかった。
悟空は首を捻る。身体に変調を来しているのなら何かしら気の乱れがあってもよい筈なのだが。
悟空は掴んだ肩をぐいと引っ張り、うつ伏せの身体を仰向けに寝かせ直した。
髪がはらりと頬を流れる。あまり手入れをしていないらしく肩まである髪は全体的にくしゃくしゃだ。寄れた開襟シャツ、タイトスカートにも皺が目立つ。無論、悟空がそのような細々した服装の問題点を気に留めることはない。というより気付かない。
悟空が気になった点は一つ。
「おー、ははは、ものすげぇ隈だなぁ」
閉じられた目の周りをくっきりとした深い隈が覆っていた。
なるほど、この女がこんな道端で倒れていたのは凄まじく眠かった所為だ。悟空は一人納得した。大事でないことに安心する心持と道端で寝こける女への呆れも少々。
とはいえ地面に寝かせたままというのも可哀そうだ。少し行けばその辺りにベンチでもあるだろう。悟空は白衣の女をひょいと抱え上げる。
「軽いな」
何とはなしにそんなことを呟く。
「さてっと……うん?」
「…………」
さあ歩き出そうと一歩踏み出した次の瞬間に悟空は歩みを止めていた。
そして、悟空に抱えられながらなお起きる様子のない女の顔を見る。ぐっすりと眠っている、悟空には最初そのように見えた。けれど今、女の顔を間近に見直して気付く。ひどく倦み疲れ、その上に痛みを堪えるかのように歪んでいく女の表情。
女のか細いその囁き声が悟空の足を止めたのだ。
「…………まない…………」
「…………」
いつの間にか日は沈み切り、辺りを濃紺の夜が満ち始めた。周囲には相変わらず人の気配がなく、ここだけが外界から閉ざされたかのように静かだ。
その時になってようやく悟空は歩き出した。暗闇の向こうに街灯の照らすベンチがある。
暗闇の中で淡く光る女の涙。どうして泣く。ひどく悲しそうに。何がそんなにも辛いという。
悟空には解らない。心の機微に疎いだとか思慮に欠けるだとかそんな意味合いではなく、悟空にはその女を理解してやることができない。少なくとも今はまだ。
「心配すんな」
悟空は呟いた。女は未だ浅い眠りの中、とても悲しい夢を見ているのだろう。
今はまだ理解できない。けれど、もう心配はいらない。きっとその涙こそが――――
「なんとかすっさ」
悟空をここに呼んだのだから。