悟空TRIP!   作:足洗

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四話 GTinとある科学の超電磁砲

 

 

 

 あの日あの時、木山春生の人生は決まったのだ。

 警告音(アラート)は止んでも、喘鳴は耳の奥に今もこびり付いて離れない。あの出来事が春生の全てを奪い去ってしまった。

 科学者としての矜持も尊厳も、ただの人として得られた幸福や優しさも、巨悪の前では儚くて脆弱で何の意味も為さないということを春生は嫌と言うほど思い知らされた。

 だからもう何も要らない。そう心を凍らせた。

 ただ一事、子供達の恢復をのみ目的と定めて。

 

 あの悪夢のような実験の後、病院へ搬送された子供達は誰一人目覚めることはなかった。唯一“死”という事実だけを免れて、彼らは永遠に近しい眠りの中に逝ってしまった。

 重度の負荷を掛けられた脳はその大部分の機能に不具合を起こし、子供達は脳が維持できない身体機能を外部から取り付けられた生命維持装置で取り留めている。意識不明となって数年、彼らはこれから先も目覚めることはないだろう。外科処置のしようもないのだ。そもそも脳のどこに、どのように手を施せば恢復が見込めるのかさえ見当が着かない。実験の最中に記録されたであろう子供達のデータは、全てかの老人がどこかへ持ち去ってしまった。

 春生は既に研究チームから除籍を言い渡されている。木原幻生の行方も、データの所在も、全ては闇の向こう側。探し出すことは不可能だった。

 だから春生は別の手段を模索した。

 手元にデータがないのなら、同様の実験を行いそのデータを代替すればいい。何も現実に実行する必要はない。かの実験を細部まで精密にシミュレートできさえすれば必要なデータは手に入る。そしてそんな大規模演算が可能なスーパーコンピュータがここには、正確にはその使用権限が学園都市には存在する。「樹形図の設計者(ツリーダイアグラム)」。超高性能並列演算処理器。

 データが揃えば、子供達の恢復手段を見付けられる。暗澹の中にいる春生にも僅かに、けれど確かな希望が見えていた。

 

 ――――23回目の使用申請。23回目の申請却下。

 

 春生は希望(ソレ)を捨てた。

 そして春生は、いつからか眠らなくなった。一日をデスクにしがみ付き、コンピュータを睨みキーを叩きあらゆる資料を読み漁った。入浴も食事もしない。食事量がゼロに近付くと排泄も必要なくなった。

 そんな生活を二週間。肉体が壊れない筈もなかった。

 病室のベッドで目覚めてすぐに点滴を引き抜いて出て行こうとする春生を、彼女の知己の医師は強く諌めた。

 その言葉が春生に届いたのか、はたまた春生の理性が入院という時間的ロスを嫌ったからか。春生は生活を改めた。それも比較的、という注釈の付く程度のものだったが。

 春生はやはり眠らなかった。睡眠時間さえ惜しんだことも理由の一つではあるがそれが全てではない。

 眠ると必ず夢を見る。春生の全てが失われたあの日の夢を。子供達の呻き、警告音、赤い画面、真っ赤な血、愉しげな、目、目、眼。

 眠るのが無性に怖かった。罪の記憶が何度も何度もリフレインされる。忘れるな。思い知れ。そう糾弾されているようだった。いつしか睡眠は春生にとって苦痛以外の何物でもなくなった。

 身体と精神を酷使し続け、一ヶ月が過ぎた。三ヶ月が経った。半年を跨ぎ、一年が過去になって、数年を使い潰した。

 そうして遂に、春生は一つの方法を見出す。使用許可の下りない演算装置の代わりが要る。AIM拡散力場、延いては人間の脳内活動を完全に再現してしまえるだけの超高度演算能力を有したものが。そんなものが果たして「樹形図の設計者」以外に存在し得るのだろうか。

 あるではないか。それも無数に。この学園都市(まち)はそれで溢れ返っている。

 

 ――能力者の脳。これ以上にない天然の演算装置。

 

 だが一つでは駄目だ。一般的な人間一人の脳が可能とする程度の演算量では、AIM拡散力場制御実験――暴走能力の法則解析用誘爆実験を完全に再現するなど到底できない。足りないのだ。処理速度も記憶容量も何もかもが。

 そう、一つでは足りない。

 だから増やす(・・・)。数を揃える必要がある。この街ならばそれはいとも容易いことだ。ここは能力者の為の街なのだから。

 能力者の脳――“演算装置”を集める手段もまた春生の手にはあった。脳を一つの演算機器として、それも複数個を並列運用する為に作り出した“機構”が、偶さか副次的な効用を生んだ。複数人の脳にある同一の脳波形パターンを組み入れ固定し、それらを並列させ一つのネットワークとする。このネットワークと一体化することで能力者の演算処理能力は大幅に向上する。さらに、同系統の能力者同士ならばその思考パターンが統一され、能力行使はより効率化されることになる。

 “演算機器”の完成度次第では低能力者(レベル1)強能力者(レベル3)、または大能力者(レベル4)相当の力を得られるだろう。

 あくまでも、一時的なものだ。能力の向上はネットワークに繋がっている間しか維持されない。能力者自身の強度が変わる訳ではないからだ。そして、ネットワークに接続し続ければ、いずれ――――。

 本来、ごく短期で脳に大量の電気的情報を入力する為には、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感全てに刺激を与える必要がある。春生はこれを、頒布、複製の容易さから聴覚に限定。人間の共感覚を応用することで自分自身の脳波を他の脳に同調させた。

 

 『幻想御手(レベルアッパー)

 

 欲しがる者はいくらでもいた。

 能力開発を主眼とするこの街には、能力強度偏重主義とでも呼ぶべき風潮が蔓延している。低レベルの者が高レベルの能力者に見下され、軽んじられ、時には不当に虐げられる。『幻想御手』は、彼らのその培われた劣等感に直撃した。

 春生は順調に“演算装置”を集めていった。常識に照らせばこんなのものは眉唾以外の何物でもない。そうと解っていても試さずにはいられないのだろう。そして事実、使用者の能力は向上する。

 最初期は脳の数量の関係上、強度変化は微々たるものだったが、効果は確実に現れる。噂が噂を呼び、音楽配信サイトで密かに作成した秘匿ページに掲載していた『幻想御手』も二週間で5,000ダウンロードを超えた。

 数が揃えば効果も飛躍的に上昇する。遠からずシミュレーションに耐え得るだけの演算機器が完成する。

 

 ようやくだ。

 ようやく、春生の願いは叶う。

 子供達の目覚め。彼らを現世に呼び戻せる。

 春生は歓喜した。子供達を眠りの暗黒から救い出せる。起き上がり、見て聞いて感じて、また人生を歩いていける。その当たり前がどんなにか尊く、幸いであるのかを春生はこの数年間で噛み締めた。他ならぬ子供達の生命によって。

 だから、きっとまた子供達の笑顔をこの目で見ることを夢見た。それだけを糧にして今日まで生きてきた。

 それが叶う。

 もうすぐ、もう後僅かで――――

 

 ――ほんとうに?

 

 喜びに耽溺しようとする春生の心を何かが引っ掻いた。最初、それは爪で擦る程度の弱い違和感でしかなく。

 

 ――本当に? 本気で、そう思っているのか。

 

 けれど徐々に強く、深く、鋭く、その違和感は胸の奥を刺していった。

 春生は、知っていた。この違和感の正体。心に突き刺さり、決して抜けない楔の意味。気付かないふりをしてきただけだ。だってそれは残酷なほど明快な事実だったから。

 子供達を救う。そのただ一つの目的の為だけに春生はあらゆる手段を模索し、そして実行した。

 

 ――他者にその、犠牲を強いていながら。

 

 迷いはなかった。躊躇もしなかった。

 けれどそれは思考の停止と何も変わらないのではないか。心をあえて鈍磨させて、事実を咀嚼することを拒んでいたのではないか。

 『幻想御手』

 これを使用すれば確かに一時的に能力は向上するだろう。しかし、本来の正常な脳波を他者の脳波によって上書きされ、その後もまた同調を強いられ続ければその人間の脳が一体どうなってしまうのか。木山春生がそれを承知していない筈がなかった。脳はその正常な活動を阻害され、知覚麻痺や幻痛を引き起こし、最後には完全な昏睡状態となる。

 

 枝先達と同じように。

 

 脳裏に走るビジョン。もはや見慣れた崩壊の光景。

 眼。老人の、愉悦に歪む目が子供達を見ている。もがき苦しむあの子らを。

 

“科学の発展にお荷物(チャイルドエラー)が貢献した”

 

 そう言って笑う。さも嬉しげに歯を剥いた。置き去りの子供達を学園都市(まち)の荷物と嘲笑う。代えの利く消耗品と同列だと。そのおぞましさを春生は忘れない。その嫌悪に今もなお吐き気を催す。

 けれど、けれど。

 自分は? 今の自分は、どうなのだ。

 低レベルの能力者達にとって幻想御手の存在は垂れ下がった()だ。周囲からの嘲りや失望や、時には同情にさえ、彼らは怒り、悲しみ、嫉妬し羨望し、絶望したことだろう。その泥の沼に藁を差し出された。個人の願望を叶える為に。その後さらに深く深く泥の底まで沈められるとも知らずに。

 ただ、春生の目的を達する道具として。

 利用され。

 裏切られ。

 ようやく手にした希望さえ砕かれようとしている。

 

“怖くなんてないよ。だってせんせいのこと――――”

 

 信じた希望を。

 握り潰した。

 あの老人。木原幻生と同じように。

 

 ――あぁあああぁぁあぁぁああああ゛あああああああああ

 

 

 

 

 

 春生は目を覚ました。日も沈みかけた逢魔ヶ刻。研究室の窓から群青の闇が差し込み始めている。椅子に腰掛けたままデスクで意識が飛んでいたらしい。

 喉が焼けるような痛みを発していた。掠れた息遣いで荒い呼吸を繰り返す。それでも、心臓は早鐘を打ち続けた。止まる兆しすらない。

 両手で頭を掻き毟った。頭髪がぶちぶちと抜ける音が頭蓋に伝う。けれど止められない。そうしなければ頭に過ぎったイメージを拭えない。そんな脅迫が春生の脳髄を満たしていた。

 消えない。消えない。

 

「私の、……罪が……」

 

 同じなのだ。自分の私的願望を叶える為に他者の、子供達の心を利用する。その前途を暗澹に堕とす。最低最悪の悪行だ。

 己は大罪人だった。どこかで、その認識から目を背けていた。子供達を取り戻したいという執念、渇望で理性を覆っていただけだ。

 

「こんな手で……!」

 

 掌を見る。栄養失調と睡眠不足で荒れた皮膚、傷だらけの醜い手を。

 穢れている。目に見えない事実でそれは穢れきって見えた。

 

「こんな手であの子達に、触れられないっ……」

 

 椅子から転げるように立ち上がり、研究室を出る。

 目的地などあろう筈もない。ただここ以外のどこかへ。

 春生は逃げ出した。

 当て所なく街を彷徨う。街灯が点る。自動車がライトを点す。ネオンが次々に点されていく。夜に近付くほど街は光で溢れていく。それは春生を照らし出す。どこへ逃げようと、どこに隠れようと、決して許さず追ってくる。

 人波を掻き分けるようにただ進む。走る体力などなく、覚束ない足を叱咤して歩く。幾度も人と肩をぶつけ、その都度怪訝な顔を向けられた。そんな視線さえ今の春生には己を責める針の筵だった。

 

「……」

 

 気付くと、人の姿が途絶えていた。

 暗い蒼色の闇で空が染まっている。周囲は浅く木々で囲われ、足の裏には芝生のくしゃりとした感触があった。

 緑地公園の真ん中で春生は一人佇んでいた。どこをどう歩いてここへ辿り着いたのか皆目分からない。記憶の欠落があった。肩が無意識に上下する。耳に血流の音がじくじくと響いた。呼吸も荒いまま、精神的な混乱より今は肉体的疲労によって。

 弱っていた身体を無理矢理動かしたツケだろう。ふらふらと二歩三歩足を前へやると肉体に残っていた力はそれで尽きてしまった。持ち主に愛想も尽きたと、身体はそのまま遊歩道に倒れ込む。受身さえ取らなかった。ひどく、無様だった。

 

「…………」

 

 身体は動かなくなっても、まだ頭には不必要に力が余っていた。思考は渦を巻き、過去の記憶を呼び覚ます。眠らなくとも悪夢を見ることはできるのだ。

 喪失の記憶。子供達の未来が奪われた日。

 しかし、蘇った過去の映像の中で子供達を見下ろしているのは木原幻生ではなかった。痛みに悶え、苦しみに血の涙を流す無残な姿を冷ややかに睥睨する一人の女。

 そこにいたのは木山春生(わたし)だった。

 

「っ、く……ぁ、……あぁ……」

 

 痛み以外の耐え難さで春生は呻く。自己嫌悪が全身を満たしてどうしようもない不快感を齎した。

 

「……すまない……」

 

 うわ言のように零れた言葉は誰に対するものなのか。

 幻想御手の被害者?

 未だ意識の戻らぬ教え子達?

 あるいはこんな、己の罪に圧し潰される自分が許せないから。

 

「すまないっ……!」

 

 誰にともなく、あるいは過去から現在まで犠牲となってしまった全てに。

 それは自らの分を超えている。謝って、贖罪に何年何十年費やそうとも春生一人の負いきれるものではない。不相応な罪の意識こそあらゆるものへの侮辱の筈だ。

 それでも春生の疲れきった喉は、舌は、壊れた蓄音機のように言葉を発し続けた。

 

「すま、ない」

 

 聞き届ける者さえ居ない。

 贖罪の言葉には赦しも罰も与えられはしない。

 それはきっと、無間の地獄と等しかった。救いなど、なかった。

 

「――――」

 

 いつしか喉も涸れ果てて、かすれた音を漏らすだけ。薄れる意識の狭間でもなお春生は相手すら定かならない謝罪を繰り返す。遂には心さえ暗闇に没しようとした。

 その寸前だった。ほんの一粒だけ。

 

“    ”

 

 春生は“何か”を願った。これもまた不確かで、言葉にもならない、消え入る前の感情の切れ端のようなものだった。

 それこそ、誰が聞き届けられる。言葉を交わして、瞳を合わせて、肌を重ねてもなお伝わり難い人の心の有様を。

 神ならぬ身の人間では決して。

 神ならぬ、人間には。

 

 ――――心配すんな。なんとかすっさ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 気付くと、ソファに横たわっていた。

 小鳥が窓の外で鳴いている。白んだ陽の光が目を焼いた。冷えた空気と澄んだ匂いが朝の訪れを春生に伝えている。

 

「どうして」

 

 そう呟いて記憶を反芻するが、思い出すことはできなかった。緑地公園で倒れ、意識を失った後自分は一体どうしたのか。不意に溜息が零れる。

 断続的な“自分”というものの欠落に、恐怖より先に呆れが立った。無用心甚だしいことは勿論、あれほど取り乱してしまったことが情けなかった。

 

「今更、事実に怯えてしまうなんて……覚悟していた筈だろう」

 

 またソファに倒れこみ、額に手の甲をぶつける。ここ数年頭に蟠って離れない重み(・・)がその程度で取れる訳もないのだが。

 己への叱咤などこれで十分だ。

 時間をそのような些事に浪費したくなかった。自分を憐れむ愚かさを春生は深く恥じた。

 

「もう迷うものか。もう、絶対に」

 

 自分自身に言い聞かせ、ふとした瞬間にでも心を侵そうとする冥い泥を振り払う。それが事実からの逃避であっても今は、今だけは立ち止まらぬ為に。

 

 鉛めいて重い頭脳、襤褸切れのように頼りない身体を引き摺って春生は最終調整の準備に取り掛かった。脳の並列、AIM拡散力場の集合、それらを真に演算機器として用いる為のオペレーション。

 時折、主の意向を無視して身体が停止してしまうこともしばしば。気絶することで春生は睡眠を摂取できた。能動的に眠ろうとしないのは、未だに心のどこかで眠りを忌避している自分がいたからだ。

 その日もやはり夢を見た。それは過去の情景に思えた。

 

 ――?

 

 崩壊と喪失のリフレインと、そう半ば諦めた心地でいた春生が見たのは、全く別のものだった。

 それはもっと前、春生がただの科学者“木山春生”であった頃。子供達がただの実験対象者だった頃。

 それは、平凡な思い出だった。掛け替えのない日常だった。

 

 ――っ

 

 懐かしさと喜びが湧き出すのと同様に、壮絶な後悔と深い悲しみが押し寄せてくる。あるいは今までで最も残酷な拷問だった。もう帰らない日々を見せ付けられる。失ったものの大切さを再確認させられる苦痛。

 けれど、どうしようとてなく春生の心は揺さぶられた。

 その日を境に、春生は眠るのを恐ろしいとは感じなくなった。目覚めてしまうことを悲しいと感じてしまう自分に、ただ呆れた。

 

 幾日か過ぎ、質の変わった夢も見慣れた頃。

 春生はその違和感に気付いた。

 

『オッス! 元気か? 春生』

 

 夢は記憶だ。過去見聞きした情景を覚えている限り脳が再構成して映し出す。だから決して見たことのないもの、経験したことのない出来事が再生されることはない。春生の夢は過去の出来事をその通りになぞるだけの、言ってしまえば反芻行為でしかなかった。

 だのに、その少年はそこ(・・)に居る。

 春生の記憶。子供達との思い出の中に、知らない筈の存在が当然のように加わって。そしてどうしてか夢の中の自分もまたそれを当然のことのように感じている。

 彼は滅茶苦茶だった。その行動も、言動も。いつ何時であっても少年は春生を困らせ、子供達を巻き込んで大なり小なり騒動を起こした。日常から穏やかさが消え、賑やかで騒がしく落ち着かないテンヤワンヤ。

 子供嫌いを公言する春生に彼の存在は疎ましくさえあった。きっと今の(・・)春生以上の心労を患っていたに違いない。

 

『そら! 行こうぜ春生! みんな待ってんぞ!』

『分かった。分かったから! もう少しゆっくり走ってっ、あぁもう――悟空!』

 

 どうしてか、自分は笑っている。困ったような、怒ったような、でも心から嬉しそうに。

 少年は毎度騒動の種だったが、同時に春生と子供達との架け橋だった。強引で、自分勝手で、いつだって無理矢理春生を子供達の輪の中へ放り込む。迷惑な話だ。

 迷惑なのに、いつしかそれを楽しいと感じている自分がいる。

 重症だ。

 

「本当に、な」

 

 孫悟空、彼の存在がきっと春生にとっての――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 斯くて、ネットワークの構築はなった。

 警備員(アンチスキル)からの捜査を警戒して幻想御手の流布は大々的には行わなかった。その為、必要な脳髄を収集するのにいささかの時間を要してしまったが。

 一万人。それだけあればシミュレーション実行に十分耐え得る。

 その矢先だった。風紀委員(ジャッジメント)の少女が春生を訪ねてきたのは。

 色とりどりの花を頭に飾っているのが特徴的だった。息を切らせてその少女は春生に縋る。

 

『佐天さんを――私の友達を助けてください!!』

 

 彼女の友人もまた幻想御手の被害者となったのだ。

 事の顛末を語る最中も、彼女の目は涙で溢れていた。滔々と止め処なく流れ続け、体中の水分が全てなくなってしまうんじゃないかと春生が要らない懸念をするほど。

 何よりも大切な人を彼女は失った。いや、今まさに奪われようとしている。

 その悲しみを春生は知っている。体を引き裂かれるほどの痛みを味わい尽くした筈だ。

 焦燥に執り憑かれた少女に白々しい慰めの言葉を投げかけて、心はそんな自分に冷め切っていく。

 彼女の姿を直視し続けるのが辛かった。

 

 その心の甘え(・・)が、油断を呼んだのか。いともあっさりと春生の計画は露見する。花飾りの少女が、春生が以前より収集していた共感覚性に関する資料を見つけ出してしまった。春生の予想していた以上に彼女らは優秀だったのだ。そも幻想御手の原理が共感覚性に基づいたものであることを彼女らは独力で解明し、その調査を木山春生に依頼してきた。核心に近いのは警備員よりもむしろ彼女らの方だ。

 止むを得ず彼女を拘束して車で逃避行を演じてはみたが、警備員も無能ではなかった。予想より遥かに早く彼らは木山春生の行く手を阻んだ。あるいはこれもまた風紀委員の少女達の手によるものか。

 退路は断たれ、有り余る状況証拠と物的証拠がここにある。木山春生はここで終わりだ。そう諦めることもできた。

 

 だが、赦される筈がなかった。

 そのような甘えを春生は自身に許さない。断じて。決して。

 だから今は、悪逆に、傲慢に、罪を重ねよう。

 

 一万人分の脳髄が作り出した巨大なネットワーク。それは高高性能演算器としての機能以外にある特殊な効果を春生に齎した。多種多様な能力者のAIM拡散力場が春生自身に束ねられ、脳開発を施されていないにも拘わらず春生は擬似的な能力者となった。一つの脳によって複数の能力を行使するのが多重能力者(デュアルスキル)であるなら、一つの能力を有した多数の脳によってその数だけ能力を行使するこれは謂わば多才能力(マルチスキル)

 どちらの稀少価値がより高いかは論ずるに値しないが、汎用性と破壊力という点においてこれらは同等の価値を持つ。

 脳への過負荷によって血で赤く染まった視界の中、無造作に奮った一つ二つの能力で、道を塞いでいた中隊規模の警備員を一瞬で一掃することができた。

 精神強制、流体制御、重力操作、熱量転換、瞬間移動etc.etc...能力者とはこんなにも便利なものなのか。

 晴天の下で無惨に倒されていく警備員と瓦解する高架道路を見下ろしながら、春生はありもしない万能感に顔を顰めた。対象を科学者一人と想定しておそらくは装備も不十分な警備員相手に自分は僅かでも優越感なんてものを抱いてはいないだろうか。自分がどうしようもない愚か者に思えてならなかった。

 彼らはただ自分達の任務に忠実であったに過ぎない。だと言うのに、待っていたのは木山春生という理不尽だった。

 間違っても軽いとは言い難い傷を負いながらそれでも立ち上がろうとする者もいる。ガードレールに突き刺さった装甲車から予備の自動小銃を取り出そうと四苦八苦する姿も見られた。まだ歳若い女性隊員もいる。

 もう一当て、それで片が着くだろう。懸命な努力も巨悪の理不尽の前には無力なのだ。どうしようもなく、無力なのだ。

 

 ――あるいは、彼のような……

 

 救い主が現れたなら。

 それこそありもしない妄言だ。妄想だ。ありえない。そんなものはいない。存在しない。

 

 ――でも、もし現れてくれたら。もしそれが、存在するなら。

 

 彼は木山春生(じぶん)を、裁いてくれるだろうか。

 

 無意味な希望。仄かな期待。

 そんな妄想が呼んだのでもあるまいに、救い手(ヒーロー)は確かにここに現れた。しかしそれは、どちらかと言えばヒロインとしての配役が相応しかろう少女だったが。

 超能力者(レベル5)超電磁砲(レールガン)御坂美琴。

 友人の危機に、彼女は颯爽と現れた。何の躊躇も迷いもなく、大犯罪者木山春生に挑みかかってきた。

 なんと勇敢なことだろう。そしてそれが蛮勇にならぬだけの力が彼女にはあった。

 けれど、いかに絶大な能力を有していようと所詮は十代半ばの少女。分不相応に絶大な能力を手にした今の春生には及ばない。驕りでもなく、冷徹に春生はそう分析する。応用によって電撃を無効化できる能力はいくらでも存在した。

 少なからぬ失望が胸に去来する。彼女の戦闘能力の不足を差して、といった意味合いは割合弱い。もっと手前勝手な話だ。

 春生が今この場で相対したかったのは、もっと別の誰かだった。ただ、それだけ。それだけの理由で、春生は落胆している。

 思い上がりも甚だしい。慢心ここに極まった。

 

 その報いはすぐさま春生に降りかかった。

 不意打ちに行使した量子変速(グラビトン)の爆発をあろうことか御坂美琴は耐え切ったのだ。磁力操作による金属の防壁によって。

 身体ごと少女に捕まり、電磁誘導による障壁も接触状態では意味を為さない。零距離の電気ショック。意識を手放すには十二分の激痛と感電。ただの科学者である春生が耐えられる筈もなかった。

 そして。

 

 そして?

 

 これで、終わりだ。

 春生の歩んできた道はここで終わりだ。

 こうして過去を眺め見る逃避も現在(いま)という現実は許さない。

 木山春生の費やしてきた数年間、削り続けた身体も心も全ては現在に追い付かれ飲み下されて、無意味になった。

 現実を見ようか。目を背け、逃げ続けてきた現在を。木山春生のこの様を。

 

 相も変らぬ晴天だった。雲ひとつない澄み渡った空。白日の下で春生はよろよろと立ち上がる。周囲は惨状だった。高架道路は一部が崩落し、その下で瓦礫と鉄材が針の山のように積もっている。

 第十学区に住宅や民間向け施設は存在しない。唯一墓地が敷設された学区であり、その他に少年院と原子力関連の研究所があるのみだ。高架道路沿いに広がる茫漠とした更地もその原子力実験炉の敷地範囲である。

 襤褸布のような白衣を纏った春生の対面で同じくぼろぼろの少女が立っている。御坂美琴はひどく戸惑った目で春生を見た。何を言おうか、何を思おうか(・・・・)迷っている、そんな表情。

 春生はそんな少女の様子を見て取って、また薄く笑った。酷い笑みだという自覚はあった。

 

「いつから、だったろうな。夢と現実の境を見失った」

「え?」

 

 不意に漏らした呟きに少女は虚を突かれたようだった。それほどに脈絡がないからだ。

 痛み。最初は針のようだった。

 

「悪夢に(うな)されなくなり、けれど今度はありえない幸福を見せ付けられた。いや、ありえたかもしれない未来を。それはどうしようもない苦痛だった。真綿で優しく首を絞められるような。でも、それでも、暖かかった……」

 

 聞き手を認めて喋っている訳ではなかった。ただ勝手に口が動くのだ。悪戯を咎められた子供が、必死に言い訳を並べ立てるように。言い訳。

 これは、死に物狂いの言い訳だった。

 痛みは徐々に増大する。鋭く、剣のように強く。

 

「騒々しかったし、頭を悩ませたこともたくさんある。腹を立てて、結局うんざりして。でも子供達は楽しそうで。それがなんだか嬉しくて、嬉しいと感じる自分が不思議で。それが少し癪なのに、悪くなかった。そんな私を彼は……悟空は……」

 

 風が吹き抜けた。それは瓦礫に山積した砂と埃を払い、春生達を余計に薄汚く彩った。自分には似合いだなどと、愚昧な感想を頭の隅に思う。そのような思考をする余裕があるというより思考停止した頭の余剰が不必要に稼動したのだ。

 痛みは増大する。止め処なく、雷のように激しく。春生の頭蓋の内で、柔らな脳を掻き回す。

 

「幸せ、だったんだろう。自分で理解する以上に。夢としてあれを客観的に見た時気付いたよ。私はこんなにも幸せだったんだ――簡単にそれは壊れてしまったが」

「っ……全部、子供達の為にあんたは」

「そうだね」

 

 悲痛な顔だった。己の願望実現の為に他者を、彼女自身の友人さえもその犠牲にされていながら、御坂美琴は木山春生を哀れんでいた。怒り憎むべき相手に対して、何故彼女はこんなにも……。

 春生にはそれが少し可笑しい。そして、その在り方は眩しかった。

 その眩さは決して手の届かないものなのだと、この“痛み”が知っている(・・・・・)

 痛みが暴れている。狭苦しい脳は耐え難い。頭蓋の圧迫感も不愉快だ、と。

 

「しかしそれも、全て無駄になった」

 

 痛い、痛い、痛い。充満する。痛みが頭蓋を抉じ開けようと、満ち満ちていく。

 つ、と頬を熱いものが流れ落ちた。今更流す涙などないと思っていたのに。無責任に、他人の憐憫を誘っているようで不快だった。自己の善良さを身体が必死に訴えているかのようで滑稽だった。

 しかし、目の前の少女の顔は蒼白に染まっていく。不可解な反応。

 不意に指先で頬に触れる。比較的白い春生の手は血の赤色がよく映えた。

 春生の左目は、滔々と血の涙を流し続けた。

 

「そうか」

 

 大脳から遊離し、硬膜を浸透し、頭蓋骨を貫通し。

 滲み出る。

 

「ギッ――――」

 

 それはあたかも水のように、火口から流れ出る溶岩のように。

 粘性と流性の入り混じった液体に近しい固体。形ある流動体。春生の頭から、明らかにその容積に見合わない物量で“それ”は滲み出ていく。

 絶えず流動し、常に脈動し鼓動を刻む。分裂を繰り返しながら形成されていく勾玉のような姿。背を丸め、小さな拳を握り縮こまる。血の通わぬ半透明の皮膚の下に臓器はなく、唯一赤茶けた肉塊が中心で浮いていた。断じて尋常な生物ではない。生命活動を行う為に必要とするあらゆるものがそれには欠けている。本来生きていてはならない形と構造。

 けれど、その姿形は見た者に生命(いのち)を思い出させた。どれほど拒もうと、否定しようとも、その事実から逃れることはできない。

 

 

 御坂美琴はその姿を知っている。きっと教科書やネットなんてものじゃなくて、産まれるその時、既に美琴はその生命の形を知っていた。

 

「――胎児?」

 

 少女の声にそれは応えた。

 全長二メートルはあろう巨体に見合う巨大な頭部で二つの眼球が剥き上がる。通常白の結膜は全面が赤く、瞳孔は光沢を失った黄色。

 得体の知れない怖気に美琴の体は戦慄する。

 その目が最初に捉えたのは御坂美琴だった。その産声を最初に聞いたのもまた御坂美琴だった。

 

『ギィィイギャァアアアアァアアアアアアアァァアアアアアア』

 

 

 

 

 己の内から出でたものの正体を春生は理解していた。理屈ではなく、それらは常に“痛み”としてその存在を春生に訴え続けてきたのだから。

 辛い。

 悲しい。

 苦しい。

 羨ましい。

 妬ましい。

 ――――憎い。

 憎い。憎い。憎い。

 ずっとそれは春生の頭の底で叫んでいた。

 春生によって束ねられた一万人分のAIM拡散力場が放つ総意。他者への劣等感、反骨心、羨望、嫉妬、自己嫌悪と自己愛、そして憎悪。

 彼らは憎悪する。あらゆるものを。己を見下す者、己に無関心な者、それらを内包する社会さえ。明確な矛先を失い、憎悪はただ肥大だけを繰り返す。それがとうとう形さえ持って外界へと顕現したのだ。

 

『ァア、ァアアアァアアアアアアアッッ』

 

 胎児の産声は怨嗟の叫びに変わる。ぎょろりと一度その巨眼で周囲を睨め付けると、それは背部から伸びた無数の触腕で瓦礫を薙ぎ払った。

 コンクリートの山が四散する。

 雨霰と降り注ぐ塵芥を春生はただぼんやりと眺めていた。一粒が春生の頭部と同じほどの大きさの瓦礫が直近で撥ねても、春生は身動ぎ一つしない。できなかった。

 感情の抑制を失い、脳がAIM拡散力場の制御を剥奪された負荷は想像を絶する激痛として春生を襲った。痛みによる衝撃だけでも人は死ねる。春生は確かに致死量の痛みを体感した。

 しかし春生は今なお生きている。この身体が動かないのは何も傷の深浅が理由ではない。

 ただ、心が折れてしまっただけだ。

 

「……終わった、な」

 

 終わった。そう確信する。AIM拡散力場はもはや春生の手を離れた。演算はおろか制御さえ不可能となった。

 内から湧き出る無際限の怨嗟のままに周囲を破壊する化物。春生が積み上げてきた全てが作り出し、結果出来上がったものがそれだ。

 全て、終わったのだ。

 

「終わった……」

 

 何もかも。

 子供達の目覚め、子供達の未来、犠牲者達の希望。

 木山春生の願い。

 

 ゆっくりと、倒れ伏す春生の頭上で胎児が触腕を動かす。像のようにゆったりとそれは歩き出そうとしている。果たしてそれに体重という概念があるのかどうか検証のしようもない。しかし、それは確かに実体を以て周囲を破壊しているのだから、その長大な腕に下敷きにされた結果どうなるのか、考えるまでもなく明白だった。

 圧死とは、なんと惨めな死に様で。なんと己に相応しいのだろう。

 不思議な安堵で春生は包まれた。それはどこまでも後ろ向きで冥い泥のような感情だったけれど。

 けれど、

 

「……すまない……」

 

 また謝罪を繰り返す。聞く者も定かならない戯言だ。

 これは罪を赦されたい訳じゃない。子供達に対する言葉でさえ、ない。

 

 きっと、あの喪失の日から木山春生は――――死を許されたかったのだ。

 

 死に逃避することを許して欲しかったのだ。

 冥い泥は温く、生暖かで、浸ったが最後二度と這い出ることはできない。これが死という名の呪いであるのだと春生は今ようやく理解した。

 ああ、そして、自分が殊の外この世に絶望していたということも、今。

 

「すまなか、った……」

 

 脳裏に過ぎり、また満ちるのはいつだって子供達の顔、子供達の声。木山春生の全て、木山春生にとって今なお価値ある唯一のもの。

 思い出という楔。

 その楔が春生の罪を作り上げた。春生に罪を決意させた。

 未練は無数にある。後悔も数え上げれば切りがない。ただ、生きたいという執着だけは一欠片さえ残らなかった。

 

「先生…………疲れちゃったよ」

 

 溜息を吐くようにそんな弱音を零し、春生は目を閉じる。世界から、自分の罪から、生きるということから。

 巨大な肉塊の腕が今、ゆっくりと春生の頭を踏み潰す。

 緩慢な最期。柔らかな絶望。

 その顔に微笑さえ湛えて――――

 

 

 

 

 

 

『ギェッ――』

 

 頭上を覆っていた影が突然消える。

 吹き荒ぶ強烈な風が春生の終わりを払い去ってしまう。

 赤子は呻き声さえ残せず、その巨体を吹き飛ばされていった。大地を削りながらバウンドするゴム鞠のようにその姿は軽々しい。

 

「なん、だ……」

 

 変わらぬ空が春生を見下ろしている。雲ひとつない青空。突き貫けるような無窮の広がり。何事もなかったかのようにそれは。

 いや、違う。

 何一つ存在しないかに見えた空の蒼に、一つだけそれはあった。そこに居た。

 

「……ぁ」

 

 日の光を背にして空中から影を落とす人型。その姿を、春生は知っている。

 

「あ、ぁ」

 

 乱雑に伸びた髪は野卑というか野蛮で、どうやればそんな髪型になるのか春生には理解できなかった。

 いつ何時会っても同じ青い胴着と黄色の下穿き、そして黒いカンフーシューズを身に付けているものだから、見かねた春生がよく自宅で洗ってやったものだ。

 しゅるりと茶色の尻尾が視界の隅で揺れる。未だに正体が分からない。教えてくれない秘密の一つ。

 子供にしてはやけに体つきがしっかりしていて、その逞しさに春生の方がドギマギとさせられた。子供の癖にと、本人に伝わらない悪態を吐いた。

 けれどそこにはもう子供の彼の姿はなくて。

 ――知っている。自身を見下ろすその“男”を。少年の姿かたちは既になくても、きっと今以上に外見がどれほど変わろうとも、春生は絶対に彼を見違えることはない。

 

「……な、ぜ」

 

 ゆっくりと空から降りてくるその男を春生は食い入るように見詰めた。自身のこの目を信じられなかった。次にその実在を信じられなかった。そこに居る。彼がここに存在している。

 在り得ない。在り得ないはずだったのに。

 

「きみは……だって」

「春生」

 

 自分の名前を呼ぶその声は、少し精悍さの増した、けれど変わらぬ彼の声で。記憶のままの声で。望んで願って止まなかった声。求めて焦がれて、諦めてしまったはずの――。

 その場に屈んで男は春生の身体を抱き起こす。

 既に影は晴れて、春生は男の顔を間近に見ていた。

 

「君は、君なのか……?」

「ああ、オラはオラだぞ。春生」

 

 千々と破けた心で春生はまったく不明瞭な問いを口走る。それでも彼はしっかりと応えた。春生の欲した答えをくれた。

 

「だって、君は、いないはずだ。存在しない……私の作り出した、都合のいい妄想で……!」

「? なに言ってんだおめぇ?」

 

 それでも、春生には信じられない。この世でもっとも疑わしい自分自身が見て聞いて感じる今が。

 

「そうだ。これも、きっと夢だ。夢の続きに違いない……私はまた現実から目を背けて、甘い夢に逃げ込んでいるんだっ。だって私は、私はっ――」

「うりゃ」

「わひゃひっ!?」

 

 次の瞬間、春生は口からこれ以上ない不明瞭な声を上げた。

 左頬を抓らている。いや捻り上げられている。痛い。尋常でなく痛い。ただでさえ硬い男の指で遠慮もなしに、彼としてはかなり加減しているつもりなのかもしれないが、力一杯抓られる痛みはなかなかのものだ。先ほど味わった頭痛とは別種の激痛に春生は為す術もなかった。

 

「いひゃい! いひゃいおごふう!!」

「お、目ぇ覚めてきたか?」

「さめた!! さめはから!」

 

 春生が決死でそう叫ぶと彼はようやく指を放した。ペチンッ、と伸ばしたゴムが元に戻るような感触が頬に響く。やや赤く腫れた頬を擦って、春生は涙の浮かんだ目で男を睨んだ。

 

「痛いじゃないかっ、悟空!」

「な? 夢なんかじゃねぇだろ」

 

 こちらの抗議などお構いなし。人を食ったように孫悟空は笑った。いつもと何も変わらない瓢然としたあの笑顔。

 見間違いようもない。疑うこともできやしない。こんな笑い方をする人間がこの世に二人といるものか。

 

「…………」

「うん? なんだ、まぁだ疑ってんのか? へへへ、もっかい抓らねぇと目ぇ覚めねぇみてぇだな」

「本当に、悟空なのか」

 

 また同じ問いを繰り返す。愚かしいことだった。眼前に明白な現実があるというのに。けれど春生は聞かねばならない。聞かずには居れなかった。

 縋るように、泣きじゃくる前の子供のように、春生は悟空を見た。

 悟空も春生を見た。笑みが消え、真っ直ぐな視線が春生を射抜く。力強い瞳が春生の不安を見抜く。

 春生の震える手が悟空の頬に触れた。暖かい。確かな熱と感触。これ以上ない実在の証明。

 

「助けに来たぞ、春生。もう大丈夫だ」

「ぁ、あぁっ……!」

 

 心の底から震えるように安堵が春生を包み込む。

 その言葉を、声を、この眼差しを、この暖かさを。孫悟空という存在を木山春生は待っていた。待ち望み続けていたのだ。夢とも現とも分からない不確かなものを、愚かにも、心から。

 視界が歪み、目蓋の裏を熱いものが満たす。それは血を洗い流すように滔々と流れ出てくる。それはどこまでも止め処ない。

 

「悟空……悟空、悟空」

「ああ」

「ごくうっ」

 

 枯れた喉は名前を呼び続けた。そうしなければまた、彼が消えてしまうような気がして。

 無意識に手は胴着の裾を握り締めてる。これでは丸きり子供同然だった。

 

「はは、そんな訳ねぇだろぉ。やっぱ春生は心配性だな」

「う、うるさい! だいたい君はいつだって――――」

 

 春生がそう文句を付けようとした。悟空の背後、春生の視線の先で、巨大な影が頭をもたげる。

 血の通わぬ胎児。おそらくは悟空の拳によって肉体の中心を深々と陥没させられながら、

 

『ギィィィイ』

 

 怨念宿した眼光が二人を睨み付けている。

 

「は~、思ったよりずっとタフだなぁおめぇ」

「っ! バカ逃げろ!」

 

 悟空は背後の化物に振り返った。その動作があまりにも自然で、春生には殊更ゆっくりと感じられた。今まさに迫る暴威に対してなんたる悠長であろうか。

 正対し両足を肩幅に広げ、悟空は眼前の巨体を見上げた。

 

「よぉし、そんじゃいっちょ――――」

「そこ二人! 退いてなさい!!」

 

 悟空が、あるいは胎児が動き出すよりも前に、空間を紫電が走った。

 それは過たず茶褐色の巨体に突き刺さり、貫き、纏い付く。落雷にも匹敵する凄まじい電力の抵抗加熱は肉の塊である胎児を容赦なく焼き上げた。

 電撃が止み、襤褸布のような赤子の身体が地面に転がる。

 

「おお! すげぇな」

「すげぇな、じゃないわよ!」

 

 悟空の感嘆に苛立った声で応えたのは泣く子も黙る電撃使い(エレクトロマスター)御坂美琴その人であった。

 ずんずんとした足取りで悟空に近寄ると、美琴は眉間に皺を寄せてその鼻面を指差した。

 

「いきなり出てきたかと思えば暢気にイチャついてんじゃないわよ! あれがどれだけ危険かなんて見りゃわかんでしょ!?」

「いやぁサンキューな。助かったぞ」

「サン……あんたバカなの?」

「? 出会い頭に失礼なやつだな」

「当然だ。君の今の対応は自殺行為にしか見えなかったよ……」

「??」

 

 春生と美琴、二者二様に呆れた溜息を吐かれて悟空は首を傾げる。

 

「……もういいわよ。それより、いろいろ聞きたいことも言いたいこともたくさんあるしね。木山……先生」

「……」

 

 じっと美琴は春生を見据えた。いっそ皮肉であったなら心は納得できたろう。けれど美琴が今更春生を先生と呼ぶのは、きっと春生の真実を垣間見たからだ。知ったからこそ彼女はそれと向き合おうとしている。

 その心の強さが春生は羨ましかった。

 

「ああ、分かった。私には犯した罪の分だけ責任がある」

「……うん」

 

 その言葉がどれほど不遜なものなのか理解できない春生ではない。それでも御坂美琴という少女は春生の言葉に頷き、静かに受け入れてくれた。

 

「それじゃあさっさと戻りましょ。初春さんを起こして、あと警備員に事情説明して。あぁでもそれだと木山先生も連れて行かれるわよね……こっちの話が終わるまで待っててくれないか――――」

「なに言ってんだ。まだ終わっちゃいねぇぞ?」

 

 影が差す。この場の三人をすっぽりと覆い隠して余りあるほどにそれは巨大な影。

 春生は違和感を覚えた。春生だけでなく悟空も美琴もすぐにその違和感に気付いた。

 

「……ねぇ。なんか、こいつ」

「再生、いや、明らかに増殖している……!」

 

 胎児の巨体は明らかに肥大していた。二メートルを超えなかった二頭身の体躯。それが現在、二倍ほどに膨れ上がっている。

 黒く焼かれた肉皮が泡立ち腫瘍のように盛り上がると、そこには火傷の痕跡さえ微塵と残りはしなかった。そして傷付いていた部分は隆起したまま(・・・・・・)元に戻る様子がない。

 

「さっき電気浴びせたのが不味かったんか?」

「ちょっ、私の所為だっての!?」

「おそらく外的負荷(ダメージ)の深度に応じて再生、超回復するんだろう。身体の中心の穴がどうやら今のところ一番の深手らしいが……あれは確か」

「あんたがこさえたもんでしょうが!」

「あ、そっか。いやぁわりぃわりぃ!」

 

 ドリルで貫かれたかのような大穴から次々と肉腫(・・)が溢れ出てくる。それらは穴を塞ぐだけに留まらず、胎児の身体を外部から包み肥大させ、内部から膨張し拡張させた。

 そうして見る間に、高架道路を凌ぐほどの超巨体へと成長していった。

 

「おぉ」

「ちょっと、これは」

「一体どんな力で殴ればああなるんだ!」

 

 美琴はやや後退り、春生のもっともな叫びが空に木霊する。

 その声に気付いたという訳でもあるまい。赤子の原型さえ留めぬ怪物がぎょろりと三人を、いや孫悟空を睨み付ける。その憎悪の矛先を突き付ける。

 夥しい触手が一斉に伸び、三人へと雪崩れかかった。

 

「二人ともオラに掴まれ!」

「え」

「ちょ――」

 

 二人の返事などそもそも聞きはしなかったろう。悟空は美琴を小脇に、春生を抱き上げ一気に――飛んだ。跳躍した勢いをそのままに、それ以上の速度で。空高く舞い上がった。

 その瞬間、三人が立っていた空間は地面ごと消し飛んだ。

 

「っ!!」

「瞬間移動か、物質転換か。どちらにせよあれの効果範囲に入れば細切れだ……」

「どういうことよ!? あいつ、能力を!」

「AIM拡散力場の制御は今あの怪物に全て奪われている。必然、一万人分の多才能力(マルチスキル)もまた……」

 

 遥か地上へ遠ざかる怪物を春生は見やる。無分別、無差別に破壊を撒き散らす暴威の権化。あのようなものを自分は造り出してしまったのか。その現実を、見せ付けられる。

 

「そんな化物いったいどうしろって……あっ、初春(ういはる)さん!」

 

 美琴が声を上げる。悟空の小脇でわさわさと身動ぎしながら彼女は高架道路上で停車するランボルギーニ・ガヤルドを見た。青い車体からセーラー服の少女が出てくる。

 気絶していた初春飾利(かざり)が目を覚ましたようだ。あれだけ大騒ぎされれば眠り続けることの方が難しいだろうが。

 化物の触手は周囲に存在するあらゆるものを薙ぎ払っている。それは傍らを走る高架道路も同じこと。今の彼奴の巨体からすれば高架など積木を崩すより脆いものだろう。

 

「っ!! 逃げてう――」

 

 ――ぴしゅん

 三度春生は風切りの音色を聞く。そしてその瞬間、周囲の景色は一変していた。

 眼前に青い車体とそれに寄り掛かるセーラー服姿の少女。

 悟空は小脇に抱えていた美琴を今度は肩に担ぐと、空いた腕にその少女を抱え込んだ。少女に抵抗する暇などなく、というより彼女はそもそもこちらをきちんと認識しているかどうかも怪しかったろう。

 ――ぴしゅん

 

「ふぇ?」

「――い春さん!! え?」

 

 次に現れた場所は同じく高架道路の上であったが、春生のガヤルドからはやや離れている。そして今、青い車体は道路ごと粉砕された。凄まじい衝撃が地面を伝い、倒壊の余波が暴風となって降り注ぐ。

 その時、多くの視線に囲まれていることに春生は気が付いた。

 黒いアサルトスーツと防弾服に身を包んだ一団である。誰あろう春生の手によって、今は傷つき大半が立ち上がることもままならない警備員達だ。その只中に春生らは降ろされた。

 

「ちょっ、え。移動した?」

「わ、私どうして? って御坂さん!? それに木山先生も!?」

 

 ぐらぐらと道路が揺れている。手近にあった建造物を破壊したことで満足したのか、化物は踵を返して盛大に地面を震わせながら荒野を這いずって行く。そしてその巨体は期せずして最悪の方向へ進行しつつあった。

 

「不味い、原子力研究所か……!」

「ゲンシ、なんだ?」

「非常に強い毒性のある物質を研究して――つまり、あそこを壊されたらこの街は人が住めなくなる。多くの人が死んでしまうんだ!」

 

 悟空の為に噛み砕いた事実は春生に否が応にもその自覚を齎した。

 

「……私のっ」

 

 自分の所為で、この街全てが危険に晒されている。一万もの希望を踏み躙って、今は230万人の無辜の命を奪わんとしている。

 ぐい、と頭を強く抑え付けられた。

 

「うわ」

「なら、なんとかしねぇとな。オラがちょっくら行ってくっぞ」

 

 ぐしゃぐしゃと髪を掻き乱して、そんな軽い調子で言うと悟空は歩き出す。肩をぐるぐると回す様はまるで運動前にストレッチでもしているようで、男が見据える先に待ち受ける存在の危険さを微塵も感じられない。

 ただ、春生の不安ばかりが焦げ付いて。

 

「悟空!? ダメだ! お前のパワーでもあれは増殖し続ける!」

「要は再生できねぇように跡形もなく吹っ飛ばしちまえばいいんだろ? そういうのの相手は慣れてっからよ」

「あの大質量の総体を残らず消滅させられるエネルギーが必要なんだぞ!? そんなものは個人の手に余る! せめて増殖能力を取り除いて――」

「時間がねぇ。その前にあの建物ぶっ壊されちまうぞ」

 

 春生の焦燥を置いて、悟空は歩みを止めない。

 それはもはや懇願に近かった。散々他者に己の勝手を強いておきながら、春生はただただ失うことを恐れた。

 

「お前がっ、お前まで失ってしまったら私は……!」

「心配すんな」

 

 震える春生の声にようやく男は振り返る。あっけらかんと不敵な笑み。それはいつだって春生を困らせる孫悟空の笑顔。

 そうしてあっさりと背を向ける。いつものように。いつかの月夜のように。

 親指を立て、春生にサムズアップして見せると悟空はアスファルトを蹴った。

 

「よぉし、今度こそいっちょ――」

「待ちなさいよ!!」

「うぉっ!?」

 

 宙に浮いた悟空の脚目掛けて人影が跳び付いた。あまりの素早さに春生は声を掛けるタイミングすらなかった。

 常盤台中学の制服姿、御坂美琴が悟空にしがみ付いている。

 

「おわっとと、おめぇ無茶すんなぁ~。オラ今からあいつと闘ぇに行くんだぞ? ここで待っとけって」

「待っとけはこっちのセリフよ! いきなり出てきといてあんた一人で全部解決しようったってそうは行かないわ! これはもう私の問題でもあるんだから!!」

「うーん、しょうがねぇなぁ……しっかり掴まっとけよー!」

 

 悟空はそう一声上げると、その場を一気に飛び去って行った。まるで航空機の噴流のような激しい風が巻き起こり後塵が舞う。

 見る間に小さく遠ざかる青い背中。春生はしばしじっとそれを目で追い続けた。

 

「……」

「木山先生……?」

「木山春生!」

 

 自分を呼ぶ声に振り返る。不安げに揺れる花飾りと、その向こうから脚を引き摺ってこちらに近付いてくる女性警備員二人の姿を認める。

 

「ど、どういうことですか。どうして御坂さんが?」

「あの怪物はなんだ!? あれもお前の仕業なのか! 糞っ、よりによって原子力実験炉に……!!」

「……今応援が向かってるけど、でも到着まで時間がないの! 早くここから避難して。貴女もよ!」

 

 眼鏡を掛けた方の警備員は春生を見てそう言った。

 時間がない。そんなことは痛みを伴うほどに理解している。しかし。

 

「君、さっき渡したワクチンソフトはまだ持っているか!?」

「え、あ、は、はい! あります」

「お願いだ! 協力してくれ!」

 

 春生はその場に跪きそのまま頭を下げた。勢い余って額が地面にぶつかったがその痛みさえ感じる余裕はなかった。

 ひどく戸惑う気配を頭上から感じる。

 どの口が、と蔑まれて当然の行為を自分は行っている。

 

「それを再生して幻想御手使用者に聴かせてくれ。そうすれば彼らの脳はネットワークから解放される。あの怪物も、消滅には至らなくとも大幅に弱体化させられる筈だ……だから!」

「木山先生……」

「えぇい、信用以前の話じゃん!! そもそも今そんな時間もないって言って――――」

 

 長髪の警備員が怒鳴り散らそうとした、その刹那だった。

 世界が震えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 御坂美琴は考えていた。この、今自分が引っ掴んでいる男のことを。

 初対面という気はあまりしない。何故なら美琴は先ほどまで木山春生の記憶を疑似体験していた。その記憶の中で、この男――いや、この男によく似た孫悟空という少年はあまりにも明確で、一際強く印象付けられた。他ならぬ木山春生自身が彼を特別なものとして扱っている。

 木山は彼を妄想の産物だと言った。自身が現実から逃げる為に作り出した都合のいい幻だと。

 けれど厳然として、この男はここにいる。木山の前に姿を現し、あまつさえ美琴はその手で触れてその存在を確かめてさえいる。

 記憶の中の彼は、その小さな身体に見合わない大きな存在で、木山春生を絶望から救い出して見せた。

 では今ここに現れた彼がやろうとしていることも同じなのだろう。木山の中に美琴が見たありえない二つの記憶。この男が存在しなかった木山の過去、その絶望、苦悩、執念、その末に行き着いた現在の彼女を、同じように。

 しかしあの時とは状況が違う。前回が人間を相手取るアクションラブロマンス(?)映画だったのに対して今度のこれは怪獣映画。人間一人が息巻いてどうこうなる話でもない。巨大化して銀発色な巨人にでも変身できるか、あるいはもっと特別な力でもない限り。

 超能力者(レベル5)なんて持て囃されてる自分でさえ、ちょっと、少し、まあまあ、思ってたよりは……梃子摺る相手なのだから。

 

「なによ、それ」

 

 ゴム鞠が飛んでいく。地面を撥ねて、削って、砂を撒き散らしながら。撥ねる度に地面が揺れる。上に下に、空気を衝撃が伝う。当然だった。今やあの怪物は十階建てのビル並に大きく膨れ上がっている。そんな大きさの肉の塊が跳ね回れば小規模な地震くらい起きるだろう。

 そんなデカ物を転がす力が美琴には理解できなかった。

 美琴には、この男が理解できなかった。

 

「ずぇりゃぁぁああああ!!」

「きゃあっ!!」

 

 凄まじい気迫で男が吼える。同時に飛行速度をそのまま拳に乗せて目の前の怪物の身体に叩き込んだ。

 辺りに衝撃が飛ぶ。円形に広がった衝撃波が怪物の身体を抉り、余った分を周囲に拡散させる。音が遅れてくる(・・・・・)ってどういうこと。つまりこいつは音速かそれ以上の速度で飛んでることに。

 

「ちょ、たんま、本気で待って……」

「なんだなんだ。もうへばったんか。付いて来るって言ったのはおめぇじゃねぇか」

「戦闘機ばりの速さで飛べるとは思ってなかったのよ! てか普通思うか!!」

 

 男の背中から首に腕を掛けている状態ではあるが、美琴はもはや自身の筋力だけでは男に掴まり続けることができなくなっている。自分自身と男の背中双方を異なる磁極に磁化、吸着させてようやく吹き飛ばされるのを免れていた。

 控えめな胸とかいろいろ密着しているが、美琴にそれを気にする余裕はなかった。男の方はそもそもそんなもの気に留めてすらいなかったが。

 遥か遠くで地面を掘削しながら停止した異形の化物はその頭をよろよろともたげてこちらを睨んだ。肉を殺がれ、潰されようともその敵意が一片と失われることはない。

 

『ギィィィィイァアアアア……!!』

「へへ、あいつの方はまだまだやる気満々みてぇだぞ」

「笑ってる場合じゃないでしょ。今の攻撃でまたでかくなってるじゃない……」

 

 肉が膨れ、盛り上がり、溢れ出し、生えていく。増えて、育って、液体のようだったそれが固まり、肉体として怪物の体表に癒着していく。

 体積も質量もただただ増大していく。まるで限界など有りはしないと言わんばかりに。いずれこの学区すら飲み込んでしまうのではないか。

 そんな馬鹿なこと、と美琴は内心で否定するが、同時にそれがまったくありえないことではないとも考えてしまう。悪寒が背筋を伝い、身体が小さく震えた。

 こう密着していては男に気付かれない筈もない。男は首を回らせて美琴を見た。

 

「な、なによ。別に恐がってる訳じゃないんだからねっ」

「ああ、そうだな。オラもあんなタフな奴相手にすんのは久しぶりだ。へへっ、武者震いしてくっぞ」

「……」

 

 軽快にそう言うと、男は前に向き直った。

 一瞬、ぽかんとその後ろ頭を見る。するとどうしてか、自然と美琴は笑みを浮かべていた。

 

「……ったく。馴れ馴れしいのよ、あんた」

「えぇ~、おめぇに言われたかねぇぞー」

「なんですって?」

「お、来たぞ!」

『ギァァァアアアアア!!』

 

 雄叫びを上げて巨体が起き上がる。増殖した体積に比例して、体から伸びる触手もまたその数を増していた。数え切れない肉の腕が揺らめいたかと思うと、それらは瞬く間に束ねられ、二本の腕のように変化していた。

 肉体変化と物理的な質量を利した太く長大な豪腕。それらが大砲の砲身の如く美琴らに向けられる。

 距離にして100メートルはあるだろう。いかに長い腕といえどここまでは届かない。

 そのように美琴は判断した。

 次の瞬間、腕が伸びた。

 

「なぁっ!?」

 

 矛先は言わずもがな、無防備に宙を漂うこの二人だ。高速で走行する電車を真正面から待つ心地とはこんなものだろうかと美琴は愚昧なことを思った。

 しかしどうしたことか。先ほどまでジェット機も斯くやの速度で自由自在と空を飛び回っていた男が今度は静止したまま動かない。まるで迫る触腕を待ち受けるかのように、その筋肉質の両腕を構えている。

 

「ちょ、なんで動かない――――」

 

 ああ、受け止めるつもりなんだ。美琴はそう覚った。理解などできなかったが。

 

「ふっ!」

「ギャァアアアーー!?!?」

 

 予想通り、男は巨大な触腕をしかと受け止めた。間近で見ればその巨大さは筆舌に難い。

 大騒ぎする美琴、そして奔る凄まじい衝撃に反して男の身体は微動だにしない。

 男は掴み取った肉の腕を一気に引き寄せた。綱に引き摺られる子供のように怪物は盛大に砂煙を上げて地面を滑る。

 

「でぇりゃ!!」

「キャア!! いやァーー!!」

 

 威勢よく声を発したと同時に、眼前にまで引き寄せられた巨体を男は蹴り上げたのだ。すると、怪物は重力を無視されたかのように空高く打ち上げられた。

 自分の目と感覚を疑いたくなる光景だった。美琴はただただ絶叫した。

 ぴしゅん、と聞き覚えのある風切り音を聞く。今まで見ていた景色は一変し、視界はほぼ全てが青色に染まる。空の高みにいるのだと美琴が気付いたのは、眼下に迫る巨大な肉塊を目にしたからだ。

 

(! やっぱり、こいつも複数の能力を――)

「っっ!!」

 

 男が力を溜めたのだということを美琴は肌から感じ取った。それが、想像を絶する強さであることも。

 

「だらぁあああ!!」

 

 拳と手を握り合わせ、まるでハンマーを振り下ろすかのように男は怪物の頭部を打ち付けた。一瞬、怪物の頭部から尻までがぺしゃんこに潰れたように見えた。上昇し続ける運動エネルギーと上から叩き付けた男の打撃が衝突したのだろう。

 非現実的な光景に、発したかけた言葉を美琴は忘れた。

 見る見る小さくなる肉の塊。一体どれほどの高度に自分達は浮いているのか。地表へ墜落した巨体が凄まじい衝撃波を発散させている様がここからはよく見える。地球上にまた新たなクレーターが生まれる瞬間をこの目で見ることができた自分は幸運なのだろうか、と美琴は悩んだ。

 

「……というか、あんた、下に初春さんと木山先生達がいるってこと忘れてないわよね?」

「あ――――大丈夫だ! ちゃんと当たんねぇように気ぃつかったぞ、うん」

「『あ』って言った!! 今『あ』って言ったこいつ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

「キャアーーー!?!?!?」

「伏せろー!! 全員、そ、装甲車の影へ! 這ってでもいいから来い!!」

 

 大地が揺れ、それと共に高架道路もまた盛大に揺れた。

 荒地の砂塵が容赦なく嵐のように降り注ぐ。視界はほぼゼロに近い茶褐色に染まる。

 隕石の墜落だ。春生にはこの理不尽な暴威に覚えがあった。

 

「なんですかこれぇーー!!?」

「悟空……!」

 

 初春という少女が春生の胸の下で叫ぶ。衝撃が大気を走った瞬間、春生は反射的に彼女を庇っていた。記憶の中の経験が悲しいかな大いに活きたらしい。

 そして期せずして春生は少女の疑問に応えていた。

 程なく砂嵐は過ぎ去って、不可視だった周囲も僅かに晴れる。

 

「くそっ、なんなんだあいつは!?」

 

 長い黒髪を振り乱して警備員の一人が叫んだ。身体に降り積もっていた砂がざらざらと落ちる。当然の抗議だった。

 彼女はすぐさま春生に詰め寄った。未だに重い身体を起こして下敷きにしていた少女を立たせる。少女は警備員のその剣幕にそっと後ずさった。

 

「木山春生! あいつはお前の仲間なのか! というか一体どうなってるこの状況は!? あの怪物も、あの化物(・・)のことも洗いざらい説明してもらうじゃん!」

「せ、先輩落ち着いて。傷に障りますよぉ……」

「これが落ち着いていられるか!!」

「ひぅ!? しゅみません!」

 

 何故か怒声の矛先にされ、眼鏡の警備員の女性は萎縮した。混迷した現状を前にしてかなり余裕がないのだろう。

 無理もない。ただの科学者の女一人を確保しに出動してみれば、女は有り得ない複数の能力を行使し警備員の一団を一掃。そうして態勢を立て直そうとした矢先に今度は正体不明の怪獣が出現し、直近の原子力実験炉へ迫らんとしている。

 

(……いや、そういうことではないのだろうな)

 

 確かに列挙してみれば今までの出来事だけで満腹もいいところだ。けれど、現状をもっとも掻き乱しているのは。

 衝撃波が走る。大気を、大地を。遅れて虚空を打った音が腹の奥底にまで響く。重く、厚く。

 それらは蔓延した砂煙を吹き飛ばした。遮るものが取り払われ、良好な視界の向こうに広がる光景を誰もが目にする。

 

 ――――ギィィィイイイイイァァァァアアアアアアア!!

 ――――はぁぁぁああああああああ!!!

 

 人の身の丈など小枝のように潰してしまうだろう。巨大な触腕を怪物は振り回す。遠く離れたここにまでその凄まじい風圧を感じられた。目の当たりにすれば分かる。正常(まとも)な人間があれの前に生身を晒してはならない。怖気を以てその事実が分かる。

 あるいは、超能力者ならば。レベル5の強力無比な能力を以てすればあの怪物と渡り合うことができるだろう。御坂美琴の存在は微かな可能性だった。

 だが、彼は。

 孫悟空は。

 拳だ。脚だ。あの男は今その五体で、あの巨大なモノと闘っている。

 

「……能力者、なのか」

「あ、当たり前ですよ! 現にあの人、空飛んでるじゃないですか! きっと何かの能力を応用して……」

 

 触腕が振り下ろされる。それを悟空は正面から受け止めた。避ける素振りさえ見せなかった。

 お返しとばかりに触腕を払い、悟空は怪物の懐へ潜り込む。

 先ほどまでと同じように衝撃波が虚空を打った。怪物の巨体がまた宙を舞った。

 

「っ、あんなふざけたパワーの能力者なら“書庫(バンク)”にデータがある筈じゃん」

「検索を掛けても無駄だよ」

 

 端末を取り出そうとした警備員を春生は制止した。それは“過去”の自分が既に行ったことである。学園都市内で一度でも能力開発を受けた者は書庫と呼ばれるデータベースにその能力や個人情報が必ず保管される。

 

「だが、学園都市のあらゆるデータベース上に孫悟空という人間の記録はなかった。彼は……少なくとも外部(・・)の人間だ」

「それって、“原石”ってことですか……?」

「天然の異能者、という表現は当たっているのかもしれないな」

 

 春生は自身の言葉に苦笑した。悟空の力は超常のものだ。それこそ超能力と呼ぶに相応しい。けれど、それは学園都市で呼び習わされる“能力”とは似て非なるものだ。

 

「えぇいっ、つまり何が言いたいんだ?」

 

 業を煮やした様子で警備員の女が声を上げる。別に意図してもったいぶった言い回しをしている訳ではない。春生自身、確信など持っていないのだ。

 ただ、何となく。今目の前に広がる非常識な光景を見て、納得せざるを得ない結論がこれ(・・)しかなかった。

 

「どうやらあいつは、ただ単に強いだけらしい」

「――――」

「へ?」

「えぇぇえええ!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぎゃあぎゃあと騒いでいる間に美琴達は地表に降り立っていた。途中から数えることを止めた幾つ目かのクレーター。外縁から覗き込んだ地の底は砂塵が濛々と舞い上がってとても見通すことがない。どうやら相当に深く穿孔しているようだ。

 悟空の背中から美琴は降りた。地に足を付けて立っていられる安堵を噛み締めながら、傍らの男を見やった。

 瞬間移動、高速かつ精密な飛行、馬鹿げた怪力、一見して判断できるだけでも桁違いの強度(レベル)の能力を行使している。加えて、どうもこの男、怪物の動きをまるで先読みしているかのような節がある。

 その癖、ここまで派手に能力を使用していながら当人には消耗した様子など微塵もない。汗一つ、呼吸一寸乱さずにこの男はあの怪物を相手に闘い続けて見せた。

 

「……あんたホントにいったいなんなのよ。今度こそ本物の多重能力者(デュアルスキル)だなんて言わないでよね」

「? よくわかんねぇけど、オラそのジュワなんとかなんて名前じゃねぇぞ。オラ孫悟空だ」

「いや、名前じゃなくて…………もういいわ。あんたと話してると何故かこっちの常識が馬鹿らしくなってくるし」

「?」

「ハァ…………それで? 悟空だっけ……すごい名前ね……結局あの怪物はあんた一人で倒しちゃったし、そろそろ話を聞かせもらうわよ。木山先生のことも、あとあんたの正体とか目的も――――」

「いや、まだだ」

 

 美琴は悟空を見上げた。肩幅に脚を広げて真っ直ぐな姿勢で悟空は立っている。男の纏う空気はひどく静寂だった。

 美琴は気付く。先ほどから悟空の目は眼下のクレーターの中心だけを見据えていた。

 

「そんな……あれだけの攻撃を受けて!?」

「だから言ったろ、こいつはタフだってよ」

 

 大量の風がクレーター内部から吹き上がる。ただ身動ぎしただけで周囲の地形をも変えてしまうほどの質量。砂塵の向こうで起き上がる巨大な影は先刻までの比ではない。一体どれほどの超再生と増殖を繰り返したのか。

 空を覆い隠す茶褐色の肉腫。夥しい触手がうねり、数え切れない眼球が体表面に開いていく。

 

「さぁて、そろそろ本気出してくか。おめぇもよ」

『キシィィェェェエアアアアアアア!!』

 

 まるで男の言葉に呼応するように怪物は気勢を荒げて吼えた。美琴が最初に感じていた苦悶や懊悩に満ちた奇声とは明らかに違う。確かな意志を備えた咆哮。

 

「!?」

 

 いつしか周囲の景色が歪んでいる。日差しを曲げ、溶かす、自然現象にあるまじき熱量。陽炎の中心、その発生源は悟空だった。

 微かな震えを美琴は感じた。錯覚かと思われたそれは、しかし時を追う毎に大きく、激しい震動に変わっていく。大地が揺れ動いている。このタイミングでこの揺れがただの地震だなどと思い込めるほど美琴は楽観的な感性を持ち合わせてはいなかった。

 塵が、小石が、瓦礫が空に、重力に逆らい上っていく。立ち昇る熱気がそうさせるのか、それともそれ以外の“力”がこんな現象を引き起こしているのか。

 

(これが、こいつの本気だっていうの……!?)

 

 高まっていく。何かが。

 美琴の中でそんな予感めいた感覚が走った。そしてそれは、きっと途方もないものだ。

 

「離れてろ」

「……」

 

 男の言葉にはこれまでとは違う有無を言わさぬ響きがあった。だから美琴も逆らわず、小走りにその場を離れた。

 言いたいことは山のようにある。けれど、それは事が終わった後でも遅くはない。

 

(あれ、私、なんで)

 

 美琴は内心で首を傾げる。

 男が敗北するなどと微塵も考えていない自分に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 背後で遠ざかっていく足音を聞いて、悟空は眼前のそれと向き直った。

 正対する姿勢はそれまでと変わらない。意志をただ一点に集中する。今日この日、自分と闘ってくれる対戦相手へ。

 

『ァァァアアアアアアア……』

 

 ぎょろり、ぎょろり、大量の眼球が動き、虹彩が開閉を繰り返す。それら夥しい視線の針もまたただ一点に殺到した。倒すべき敵、孫悟空へ。

 ――敵

 何故、そのような認識が築かれたのか。

 一万もの異なる脳の集合体。統合された意識達。しかし決して融合する筈のない心。

 それらは性別も年齢も性向も、夢も、願望も違う。到底交わることのできない色とりどりの感情が無理矢理に縛り上げられたことで為ったものだ。幻想という見えざる手で造られた粗悪で巨大な脳髄の模倣品でしかなかった筈だ。

 だのに今、かの怪物の思いはたった一つ。一万の願いは今、ただの一つに集約された。

 

 ――嫌だ、嫌だ嫌だ

 ――羨ましい妬ましい……悔しい

 ――見返してやる。オレを、ワタシを、ボクを見下した奴らを

 ――倒す、目の前のあいつを

 ――強い奴、自分達にはない“チカラ”を持ってる

 ――許せない。許さない

 

 茶褐色の肉の体は今なお増大を続けている。肉体に及んだ負荷を帳消しに、刻まれた傷の数だけ、それ以上の力を欲した。想いは、際限なく高まっていった。

 そして彼ら、彼女らの望みはただ一つ。

 

 ――負けたくない

「ああ、オラもだ。だからよぉ……」

 

 大地が鳴動する。その規模は周囲を、学区を超え、街そのものを覆うほどに拡大していく。

 

「はぁぁぁあああ……!」

 

 立ち昇る熱波に色が宿る。悟空の身体を炎のように燃え上がる熱。“気”と呼ばれる力、この世界においては誰も知らない生命原初のエネルギー。

 髪が逆立ち、黒の色素が失われ、代わりにそれは黄金に染まる。

 咆哮が空を満たした。黄金色の爆轟(ばくごう)が、世界を満たした。

 

『!?』

「――――だぁぁぁああああああああああああ!!!」

 

 

 

 

 黄金に染まる世界。震える大気の先に、眩い光が生まれた。

 

「なに!?」

「な、なんの光!?」

「ひゃぁあーー!? 今度は何ですかぁ!?」

 

 それは燃え盛る炎のような、あるいは不滅の太陽か。

 春生はその光を知っている。春生は確かにその熱を過去の少年に、悟空の中に見出していたのだ。

 

「悟空、それが、お前の……!」

 

 

 

 

 それは商業施設(ひしめ)くとある学区、とあるレストランにも届いた。

 

「……やっとこさ収まったか」

「地震大きかったですね。超揺れました」

「あん? ねぇ、フレンダの奴どこ行った?」

「地震が起きた瞬間に超逃げました。一人で。非常口から」

 

 震えが収まると共にレストランも喧騒を取り戻す。

 客足もそこそこに絶えない賑やかな店内のテーブルの一画、三人の少女が腰を落ち着けている。

 その内の一人、ずっとテーブルに突っ伏していた少女が不意に起き上がった。

 

「おー、おはよ滝壺(たきつぼ)……どうしたの? また変な電波受信でもしたか」

「…………ううん、これ“力場”じゃない。違うのに……」

「え?」

「でも、すごく強い……強い、力」

 

 

 

 

 そこは学園都市のほぼ中心地、多くの学び舎、多くの学生で溢れたとある学区、とある窓のないビルの内部。

 特殊装甲の外壁を越え、蜂の巣状の内壁のさらに内側、光も差さぬ気密された暗闇の底。

 茫漠とした空間を夥しい量のチューブが這い回り、ただ一点へと繋がっている。すなわちこの空間の中心、弱アルカリ性培養液の満たされた巨大なアクリル培養槽に。

 それら全てが液中を逆さに浮かぶたった一人を生かす為のものだなどと誰が思う。

 

『――――』

 

 銀色の長い髪を漂わせ、グリーンの患者衣に身を包んだ男とも女とも付かぬ人型。

 その人物の周囲には大量の矩形の光る板が浮かんでいる。それら出力されたホログラムウインドウには一様に同じ映像が流されていた。

 しかし、映像とは名ばかりに、画面はその全てが光に染まって何一つ満足に像を結びはしない。

 黄金の光。

 輝きに塗り潰されたかに見えた映像の中、その向こうに佇む男の影をこの人物は確かに捉えていた。

 

『――――ソン、ゴクウ……!』

 

 

 

 

 

 翡翠の瞳で対手を射抜く。

 一瞬、怪物の巨体が後退した。地面を抉り地形を変えながら、その巨大なるものは明らかに恐怖したのだ。その男の、孫悟空の変わり様に。

 右脚を退げ、前方に肩を向けて半身に立つ。

 

「負けたくねぇって思うんなら、諦めてる暇なんてねぇぞ」

 

 前へ突き出した両腕を今度は腰溜めに構える。

 

「落ちこぼれだって必死に努力すりゃ――――」

 

 黄金の炎が火勢を強めた。限界など知らぬと、際限などありはしないと大空を焦がす。

 

「エリートを超えることがあるかもな!」

『ギッ』

 

 その言葉が“彼ら”、“彼女ら”に届いたのかは分からない。果たして外界を認識しているのかさえ確かめようもないのだ。

 だが、その瞬間、怪物の眼球は開かれた。視線という視線が一斉に悟空を刺す。諦めでもない。嫉妬でもない。憎悪でもない光を宿した目で、悟空だけを。

 数百の触手が収束する。怪物は巨大な拳を編み上げる。重厚にして強力。難解な理屈を排した純粋無比のパワーを以て孫悟空を倒すために。

 

『アアアァアアアァアアアアア!!!!』

「かぁ、めぇ」

 

 雪崩れ迫る強大な存在を前に、悟空はその場を動かない。次の刹那にも悟空の身体は大地に圧し潰されるだろう。

 ただ合わせた両の掌の中にチカラを込める。己の全身全霊を、己が培ってきたあらゆるものを。

 

「はぁ……めぇ……!!」

 

 目の前の奴らに見せてやる為に。

 青い、蒼い閃光。球形に高まり続ける圧倒的熱量。暴れ狂う純粋なチカラを限界まで凝縮。その極点が今――――

 

「波ぁぁぁああああああああああああああ!!!!」

 

 光が放たれた。

 全長100メートルを凌ぐ巨体を呑み込んでなお余りある広大(・・)な光の波。

 音が失われた。色はただ一色に塗り潰された。

 熱く、その光は容赦なく怪物を焼いた。しかし肉体は燃えるより先に崩壊を始める。常軌を逸したパワーで放たれたエネルギー波には再生も増殖もまったく意味を為さない。

 原子レベルにまで分解され、跡形残らず消え去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつしか夕暮れだった。冴え冴えとしていた空の青が徐々に茜で染まっていく。地平に近付く太陽は、その橙に変わり始めた光で荒地を照らす。

 すっかりと穴だらけの地面の上を長く伸びた影が這う。それらはまるで伸びた分だけ身体を重くするかのようだ。今日一日の出来事は、それだけの疲労を関わった者全員に齎したということだろう。

 そんな大小様々の人影の中から一人、駆け出す者がある。

 

「あ、ちょっと勝手に!」

「構わん。好きにさせとくじゃん……今だけはな」

 

 重い身体、棒のように頼りない脚を叱咤して荒野を走る。普段に輪を掛けて酷い速度だ。もしかしたら歩いた方が早いのかもしれない。けれど、春生は足を止めることができなかった。

 

 ――あんたさぁ、あんな大技あるのになんで初めから使わないのよ

 ――思いっきり殴りあった方がスッキリすんだろ? げんにあいつらもほとんど素手だったしよ

 ――そういえば……でもだからって正面から受け止めなくてい……あ

 

 横合いから差し込む眩い西日。その向こうから彼は歩いてくる。男の傍らを歩いていた少女はこちらに気付くとその場で足を止めた。

 構わず春生は走る。考えるだけの余裕も今はない。

 きっと10メートルにも満たないこの距離が、こんなにも長く感じる。

 

「よっ、春生」

 

 ようやく辿り着いた春生を悟空は出迎えた。金色だった髪も元の黒に戻り、いつも通りに暢気で、とても軽い調子で。

 変わらない。背丈はこんなにも変わったのに、悟空は春生の記憶の中のままここにいる。

 

「……」

「ははっ、相変わらずすげぇクマだなぁ。またちょっと痩せたんじゃねぇか?」

「っ……」

 

 そう言って悟空は春生の目元に触れる。擦ったからといって隈が取れる訳がない。けれど払い除けようとは思わなかった。

 その無骨な手の感触を覚えている。だのにその暖かさを忘れていた。

 

「頑張ったな」

「そう、かな。結局、今も私は誰一人救えていない。それどころか今までもずっと、誰かを傷付けてばかりだ……」

 

 自分が重ねた罪を思う。踏み躙った少年少女達の希望を思う。眠り続ける子供達を想う。

 失って、失わせるばかりで。

 

「なら、もうひとふん張りすっか」

「え?」

「今度はオラも手伝うぞ。おめぇが無茶しねぇようにな。それにこっちのガキ共とはまだ遊んでやってねぇかんな。はえぇとこ起こしてやろうぜ」

「ぁ……ふ、ふん、簡単に言ってくれる……」

 

 喉がひくついて声が上擦った。それを誤魔化す為の皮肉を投げる。この男に皮肉など通じないと知っている癖に。

 案の定、悟空は気にも留めなかった。春生の髪を乱暴に撫でて、変わらぬ調子でのたまうのだ。

 

「なんとかすっさ」

「……」

 

 春生は何も言えなかった。

 ただ、込み上げてくるものを必死に堪える。

 己に流して良い涙などないと言いながら、幾度となく破ってしまったその決意。今だけは守りたかった。守らなければならなかった。

 

「泣いてんのか、春生」

「泣かないよ……子供達が目覚める日まで、私は絶対……泣かない」

 

 自分が、こんなにも嬉しくて、こんなにも救われていい筈がないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「えっとえっと、その、二人はこ、恋人同士さんってことで、いいんでしょうか」

「えぇ? いや、恋人ではなかったはずだけど……てかあいつ何歳よ。いくらなんでも外見変わりすぎでしょ……」

「御坂さん! もしかして木山先生とあの男の人の関係ご存知なんですか!?」

「うぇ!? い、いやー、私も断片的に見た程度のことしか……」

「わ、私も気になる! なんか夕暮れをバックにすごいイイ雰囲気だし、あれはただ事じゃないわ。そう例えば、女科学者と研究対象者だった男との間にいつからか芽生えた道ならぬ恋……とか!」

「キャー! すごいすごい! まるで映画みたいですね!」

「そう、これから二人はその愛を貫く為に逃避行に出るの。たくさんの障害を乗り越えて、いつか学園の外で自由と幸せを掴むのよ!」

「わわわ、ドラマチックです! スペクタクルですよぉ御坂さん!」

「アハハハ……」

 

 眼鏡の女性警備員と花飾りの少女が大いに盛り上がっている。

 その背後に長髪の女性警備員がゆらりと近付いた。

 

鉄装(てっそう)ぅぅぅぅいつまでくっちゃべってる気じゃんー? 暇そうで羨ましいなぁ? こちとら怪我人だってのに怪我人の手当てだの搬送だの大忙しじゃんよぉ。あ?」

「うひぃぃい!? よ、黄泉川(よみかわ)先生これはですね事前の聴取と言いますか現場証言の確保と言いますか」

「さっさと護送車用意してこい!!!」

「はいぃぃ今すぐぅぅぅ!!」

 

 一喝された鉄装は飛び上がる。そのまま彼女は護送車まで途中に幾度か躓きつつ走っていった。

 応援の警備員部隊が到着したのは事態が終息してすぐの頃だった。今は多くの人員が周辺の現場保存と原子力研究施設の復旧にてんてこ舞いである。

 木山春生を拘束する為に用意されたのはごく少人数。黄泉川と呼ばれた女性警備員と他三名の部下だけだった。

 

「無論、護送車には常に監視用の車両が付いて回る。そっちの男に至っては学園への無許可侵入と無茶苦茶な戦闘行為による公有地の破壊等々、余裕で現行犯逮捕可能じゃん……久しぶりじゃんよ、お前みたいな問題児……」

「いやぁ、勝手に入っちゃなんねぇとは思わなくてよ。変な都だなここ」

「ったく、このお上りめ……ま、今更逃げる気もないじゃん?」

「ああ、そうだな……」

 

 黄泉川の言葉を受けて、春生は傍らに佇む男を見上げた。

 

「なんだ? 腹減ったんか春生?」

「いや減ってないよ」

 

 きょとんとしてこちらを見返す悟空がなんだか可笑しい。暢気を振り撒く男の存在はこの場にひどくそぐわなかった。

 程なく、新しい護送車が到着した。

 

「お」

「? どうしたんだ」

 

 警備員の誘導に従って後部扉から護送車へ乗り込もうとした矢先。

 悟空はその場に立ち止まった。早く乗り込むように促す隊員の声も聞いているのかいないのか。

 空を眺める悟空の顔に笑みが浮かぶ。

 

「おーいおめぇら!」

「え?」

「はい?」

「眠ってた奴ら、目ぇ覚ましたぞ! よかったな!」

 

 御坂美琴と花飾りの少女にそんなことを言った。一瞬、意味を判じかねる二人だったが、すぐに思い至ったようだ。

 幻想御手の被害者達。意識不明となっていた人々が目を覚まし始めたのだと。

 何故、この場に居ながら悟空にそんなことが分かるのか、それはこの際置いておく。

 ワクチンソフトが正常に作用したのだ。ネットワークに囚われていた一万のAIM拡散力場は解放され、彼ら彼女らは自分だけの現実(パーソナルリアリティ)を取り戻す。その事実だけを、春生は噛み締めた。

 まあ結局、ソフトを使用したのは悟空が仮称AIMバーストを吹き飛ばした後なのだが。

 言うだけ言うと、悟空はさっさと護送車に入っていった。

 

「あっ、ちょっと待ちなさい! あんた達にはまだいろいろ聞きたいことが!」

「じゃあなビリビリ~」

「あー、なんだ、その、すまない」

「すまないじゃなくて……ていうか、私をビリビリって呼ぶなぁー!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「つまり、君はパラレルワールドを渡ってきた、と」

「おう、向こう(・・・)の春生はそう言ってたぞ」

 

 護送車の明り取りから夕日が差し込む。座席に並んで腰掛けた春生と悟空をそれは照らし出した。

 放課後の教室を思い出す。一日の終わり、子供達の声、疲労感と充実感の同居した不思議な心地。帰り道の隣にはいつも、悟空がいた。

 

「……君が介入したことで過去は改変され、まったく別の世界線へと分岐したんだな。私が実験を行わず、君が子供達を助ける未来へ……どちらが本来の未来であったのかは確かめようもないが」

「オラの仲間にも過去を変える為に未来から来た奴がいるけんど、そいつん時も結局未来は変わらなかったかんなぁ。思ってた通り、今回もそうなっちまった」

「さらりととんでもないな、君は」

 

 後部スペースには悟空と春生だけだった。警備員の隊員は皆扉を挟んで前方に待機している。本来ならありえない配慮だ。あの黄泉川という警備員にはつくづく頭が上がらない。

 

「君はどうやって“こちら”に来たんだ? 多世界解釈においても本来は他の世界の観測すら不可能な筈だ」

「気合だ」

「…………は?」

「だから気合だ。気合で穴開けて来たぞ」

「君に聞いた私が馬鹿だった」

「えー、オラ嘘なんか吐いてねぇぞ?」

「それが分かるから余計悪いんだ」

「?」

 

 溜息が零れる。一科学者として己は今とんでもなく無体な会話をしている。そして春生のそんな苦悩など悟空には理解できないだろう。

 

「なら、実質私達は初対面ということか……いや待て、では何故私には君の記憶があるんだ。そもそもこの記憶は君の介入した“過去の私”のものだろう」

「一回会ってんだろ。ほれ、おめぇが公園の真ん中でぶっ倒れてた時」

「あの時は……意識が無かったんだから会ったとは言えないだろうに。部屋に運んでくれたのは君だったのか」

「ははは、まあな。最初家の場所分かんなくてよ、おめぇの記憶を見たのはそん時だな」

「な」

 

 また、さらりとぶっ飛んだことをこの男はのたまった。

 

神龍(シェンロン)が言うには、オラを中継して過去と未来のおめぇ達に繋がりができた、らしいぞ。オラの心を読んだり伝えたりする力も関係あるみてぇだけんど、よく分かんねぇや!」

「……」

「? どうした、春生?」

「なんでもない。いや、ある。けど……」

 

 橙色に染まった悟空を見る。言いたいことは山と積もっているし、今までの会話だけで頭痛が再発しそうだ。怒りを通り越して呆れも過ぎて、溜息さえ出ない。

 

「私は疲れた……少し寝る」

「おう、そっか」

 

 むすっとした顔を作ったところでこの男が何かを察する訳もなし。悔しいので、男の肩を枕代わりに使うことにする。

 また癪なことに、頭を預ける感触は悪くなかった。

 

「また一から、理論を……組み立て直し……子供達が、待ってる……」

「ん?」

 

 車の微かな揺れ、身体に充満する疲労、傍らにある――君の暖かさ。眠気がすぐに春生を包んだ。目蓋ももう随分と重い。

 ちくりと罪悪感が胸を刺す。こんなにも穏やかでいていいのだろうか。

 こんなにも、幸福でいいのだろうか。

 後ろめたさと、それを覆い隠してしまう安寧に春生はそっと身を任せた。今は、どうか許して欲しい。

 

「絆理達ならすぐ起こせっぞ?」

「…………………………………………え?」

 

 跳ねるように身を起こし、隣に座る悟空を見る。突拍子もない発言なんて今日一日だけで両手に余る。だから一瞬聞き流してしまおうとした。だがそれは断じて決して無視できないことで。

 目の前の彼は、それはそれはいつも通りの暢気な顔。時には自分を混乱させ、時にはやきもきさせられて、気付けばずっと待ち望んでいたその笑顔。

 

「その為に、おめぇがオラを呼んだんだぞ」

 

 そう、いつだって君はその笑顔で私の心を掻き乱す――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

“彼ら彼女らのエピローグ”

 

 

 

 それは光の中で。

 消滅していく。苦痛など感じる暇もなかった。

 ただ、目も開けていらないくらい眩しい光の向こう側で、その人は笑っていた。子供みたいに無邪気で、父親みたいに優しい顔。

 

 ――またな!

 

 最後にそんな声を聞いて、『私達』の意識は眠るように消えてなくなった。

 

 あぁ……なんだかすごく、安心した。

 

 

 

 

 

 

 

 





お久しぶりですすみません。まあ間が空きましたすみません。
リアルに忙しい日々に辟易しつつ趣味は満喫したいのにできないディレンマ。
仕事しながらでもきちんと毎日更新されてる方、マジで尊敬します。

こんな鈍亀更新ですが、それでも読んでくださって本当にありがとうございます。

次はどこの世界へ放り込もう!?
妄想だけは捗る今日この頃です。

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