1話 海港都市ルーアン①
七耀歴千二百二年。某日。
潮風が街中を躍り、鳥たちが気紛れに飛び交っている。そこに生きる人々は穏やかな顔をして、平和な日常を楽しんでいる。遊ぶ子供たち、買い物袋を持つ婦人たち、生業に励む男たち。
ゼムリア大陸西部。エレボニア帝国とカルバード共和国、二つの大国の間にある、自然豊かで千年以上の歴史を持つ誇りある小国リベール。
ここは、リベールの五大都市の一つ。海港都市ルーアン。
百日戦役から十年の歳月を経て、この街は平和な風景を取り戻している。
そんななか、一人の少年が支える籠手を冠する建物へ入っていく。
「ジャンさーん、依頼だ依頼!」
「はいはい、分かったよ」
少し面倒くさそうに返事をしたのは、建物内のカウンターの奥に腰掛け忙しく書類と格闘している赤い髪の青年だ。
青年ーージャンは気だるそうな感情を眼鏡の奥の瞳に宿しながら、少年に悪態をつく。
「ジャンさん、やっぱり忙しそうだね」
「だからと言ってカイト、君に依頼は回さないよ」
「……ちぇ」
カイトと呼ばれた少年は、まるで見本のような舌打ちを放った。
そうだ、こいつができることはこのルーアン支部の掃除ぐらいだと、ジャンは思う。けれど悲しいことに、今彼が必要としているのは身の回りを整える雑用係りではないのだ。
「それに君は何だって、雑用だけじゃなくて。わ、ざ、わ、ざ、簡単な依頼でも持ち込んでくるんだ」
「えー、支える籠手の受け付けがそんなこと言っていいんですかー?」
カイトはおどけた調子だが、それと比例するようにジャンの口は達者になっていく。
「平和が一番。こんなときぐらい、悪口を吐きたくもなるさ」
「ま、確かにそうですね」
「だから君は大人しくしていろ……!」
少し迫力を込めた台詞にもカイトは動じない。何だかんだでこの二人、歳が違っても仲のいい者同士なのだ。
肌色の少し太めのズボン、簡素な黒地の下着の上にフード付きの白いシャツを羽織ったこの少年の名は、カイト・レグメント。ルーアン市出身。中性的な顔立ちで大きな金の瞳を持ち、男性としては長めの茶髪を後ろ髪に纏めている。
彼を見た人の第一印象は、優しそう、大人しそう。これに尽きるだろう。けれどジャンを始めとした彼をよく知る者は、少なくとも表面的な部位においてそんな評価は下さない。
その理由の一端は、既にこの会話に見え隠れしている。
「特に遊撃士になりたいならね。規則を守ることも大切なことだよ。調子にのり過ぎないこと」
「……はい」
遊撃士。この広大なゼムリア大陸において、その名を知らないという人は小数だろう。支える籠手の紋章を掲げ、地域の平和と民間人の保護を第一とする民間組織。それが、
彼らは街道の魔獣退治から物資の運搬など様々な依頼をこなす。高位の遊撃士は、国際的事件の対処や紛争の調停など外交力も求められるという。
そして現在、この遊撃士協会リベール王国ルーアン支部は、近日開かれるとある催しによる毎年の依頼量の増加と人手不足、そしてカイトの暴走により、いつにも増して忙しくなっているのだ。
「まあリベールを飛んでクロスベル自治州なんかになると、こんなのが毎日続く殺人的忙しさって耳にしたけどさ」
こうした世間話の合間にも、筆を持つ手が止まることはない。そんなジャンを見て、カイトは少し彼に同情した。
それなら、自分をこき使えばいい。先程と同じ問答を唱えようとしたカイトだが、それはジャンのうって変わった発言によって邪魔される。
「ま、もうすぐ有望な若手がボースから来るからね」
「え、それ初耳」
ボースとは、リベールの北部に位置する商業都市のことだ。つい最近まで都市間を繋ぐ飛行船が一隻失踪していて、その調査のために多くの遊撃士が滞在していたらしい。
現在ルーアンにいる遊撃士は三人。忙しさ故に、その事実はジャンにとって吉報だ。
「それも二人だ。カイトよりもずぅーっと役に立つよ!」
……最後の一言は余計だった。
「わかった。なら仕事が増えても問題ないね。依頼を探してくるよ」
この調子に乗った受付を制裁してやる。今のカイトはそれだけが全てだった。
「ち、ちょっと待った、ストップ! 君にも良いところはたくさんあるよ!」
また仕事を増やされたらたまらない。目の前の少年は仕事ができないくせに、依頼の受付だけは口八丁手八丁で勝手に請け負ったことにしてしまうのだ。彼はともかく、彼に依頼を出した人々は純粋に遊撃士の助けを求めている。支える籠手の一員として、それを無下にすることはジャンにはできなかった。
だったらそれをさせないためには、カイトを止める他に方法はない。
当のカイトは外に出るための扉を開けたまま、振り向きもせずに聞いてくる。
「例えば?」
「そりゃあ支部の掃除とか……僕の暇潰しの相手とか?」
「やっぱり依頼を探してくる」
「ストーーップ!!」
どうやら後々涙を飲むことになるのは、ジャンの方だったようだ。
ーーーー
屋外に出ると、たちまち潮風が顔を撫でていく。髪を揺らして、ついでに魚を食べたくなってしまうこの匂い。自分にとって、いや恐らくルーアンに住む全ての人々にとって、この風はとても心地いい。
「……よし」
カイトはまず、身支度を整える。空はまだ太陽が眩しく輝いている。昼前なので、まだまだカイトの一日は長い。
と、そこへ。
「カイト、あんまり私たちを困らせないでおくれよ」
落ち着いた、それでいて力強い女性の声がカイトに投げ掛けられる。
「カルナさん」
振り向くとそこには、濃い青の髪を後ろ髪に纏め戦闘用の服装を身に纏った女性が、困ったよという顔をして立っていた。今のカイトからは見えないが、背には愛用の導力銃が装備されている。
ルーアンを中心に活動している姉御肌な女遊撃士、カルナだ。
「魔獣退治の依頼は終わったんですか?」
「ああ、こうして無事に帰ってこれたよ」
「あーあ、オレだって戦えるから、まだ本職じゃなくても呼んでくれてもいいのに」
不満げなカイトだが、カルナはそう怒らずに優しく諭していく。
「まだ私たちが守るべき市民さ。それに紺碧の塔にいた魔獣は
それを言われたら、カイトは何も返せない。目の前に佇むのは、経験を積んだ遊撃士なのだ。
「だから、あんたはまだ今のままでいいさ」
「はぁーい」
それじゃ、とカルナは依頼達成の報告のため扉を開けようとする。だが、それは第三者の介入によって遮られた。
「カルナさん、ちょうど良かった!」
呼ばれた本人とそこにいたカイトは、ほぼ同時に後ろを向く。二人が立っている扉の前までやって来たのは、手に大きな荷物を抱えた初老の男性。
ーーこれは依頼だ。
遊撃士としての勘と、遊撃士の仕事に首を突っ込んできた者の勘。両者の頭の中で再生されたのは同じ言葉だが、胸中に抱いた感情は正反対だった。
「おや、どうしたんだい? 見たとこ、物資の運搬ってとこかい」
「そうなんだよ。これをマーシア孤児院まで届けてほしいんだ」
瞬間、カイトの瞳が絵に描いたように煌めいた。
「だったらおじさん! それはオレに任せてよ!」
「……カイト」
カルナは先程よりも若干棘のある口調でカイトの名を口にした。だが少年は、全くといっていいほど動じていない。
なぜなら、カイトにはこの依頼ーー願いを受けていい大義名分があるのだ。
「大丈夫だよカルナさん。オレの家はどこだっけ?」
「そりゃあ、マーシア孤児院さ」
「そう。だからこれは依頼じゃない。目の前に届け先の住人がいるんだから、これでいいんだよ。それに、この方がカルナさんやジャンさんの負担も減るでしょ?」
一応理にかなっているため、カルナも反論はできない。仕事が減る、依頼者は
男性も、特に何を言うまでもなく佇んでいる。
「……分かったよ。ちゃんと届けるんだよ?」
「あいあいさー!」
「そういうことだ、その荷物はこいつに渡してやってくれ」
「あいよ。タダになるってんなら、こっちも願ったり叶ったりだよ」
頼むよ、という声を最後に男性はもと来た道を帰っていく。
カルナも伝えるべきことを伝えたのか、男性と同じ言葉をかけて建物の中に入ってしまった。
「さーて」
滅多にない機会だ。これを無駄にしない手はない。
「行きますか!」
足早に、街道へと向かうのだった。
ーーーー
マーシア孤児院は、ルーアン市とマノリア村を結ぶ街道にある。
優しさと包容力を持った女性のテレサ院長と故人である彼女の夫が建てたもので、現在は五人の子供が身を寄せている。
わんぱくなクラム、しっかり者のマリィ、独特の空気を持つポーリィ、おっとりとしたダニエル。彼らは皆十歳を越えておらず、総じて元気な少年少女たちだ。
そしてカイトこそが、マーシア孤児院に暮らす最後の一人にして唯一年長の少年なのだ。
そして過去にはもう一人、テレサ夫妻の元で暮らしていた少女がいた。
「さーて、ちゃっちゃと届けるぞお」
カイトが走る街道は随所に浜辺に降りることができる造りになっており、そこにはちらほらと魔獣の姿を確認することもできる。けれど幸運なことに、彼に興味を示す魔獣はいなかった。
「よし、ついた」
木造の家と周囲の畑が織り成す空気はとても心地いい。そして彼の鼻をくすぐる香ばしい匂いから察するに、ちょうど昼時のようだ。
「ただいまー!」
元気に、何度も繰り返した言葉を重ねる。すぐに現れたのは、子供たちの元気な歓迎だ。
「あ、カイトお兄ちゃん!」
「ほえー? カイトちゃんがいるー」
「お帰りなさい、お兄ちゃん」
「よ、いい子にしてたか?」
ダニエル、ポーリィ、マリィはいっせいにカイトの元へ飛んできた。ちょうど昼食の準備を始めた頃合いなのか、長机の上にはスプーンやフォークが並べられている。
「あらあら、お帰りなさいカイト」
「ただいま、先生」
次いで台所から布巾を持った女性が顔を出す。昼食の支度を整えていたテレサ院長は、優しく微笑んだ。
「先生、お使いに来たよ。はいこれ」
「あら、先週ルーアンで頼んだ魚だわ。あなたが届けてくれたの」
「うん、おじさんが依頼を遊撃士に出そうとしてたしね。都合がいいしジャンさんたちも忙しいから、オレが運んだんだ」
実際のところ、カイトは自分が仕事をこなしたいだけで、後の理由は全て彼にとってたいした意味を持たないのだが。
「今、昼を食べるの?」
「ええ、そうよ」
「お兄ちゃんも食べていってよ!」
ダニエルがそう言って急かしてくる。現在カイトは毎日孤児院で暮らしているわけではない。二日に一回は孤児院を開けるようになっており、必然的に彼らと食事を共にする回数も減ってきている。
「今日はクローゼも来ますからね。久々に皆で食べましょう」
そうテレサ院長が口にした矢先、孤児院の扉が開けられる。
そこにいた人物を見て、カイトは自分の心臓が一瞬だけ、とくんと跳ねたのを感じた。
「こんにちは、先生、みんな。……カイトも」
明るい青紫色の髪に赤い石の髪止めをさした少女だ。髪と同じ色の瞳と整った顔をしていて、清楚で可憐な印象を人に与える。同じルーアン市にあるリベール唯一の高等学校、ジェニス王立学園の制服をその身に纏っていて、着る者と着られる衣服がお互いの良さを引き出していた。
彼女の澄んだ声を聞いて、カイトはゆっくりと返事をする。
「……久しぶり、クローゼ姉さん」
カイトの声を聞いて、少女ーークローゼは優しく微笑んだ。