夜になっても、合宿の課題は続いていた。内容は一時間以内に宿泊客用の食事五十人前を作るというもの。あからさまに手際を問う課題である。
その課題を聞いて、小此木はジャンの事を心配せざるを得ない。なにせジャンの両腕は万全ではないからだ。
昼の課題でも一見余裕そうに課題料理を作ってはいたが、それがやせ我慢なのを小此木は察していた。
「山ザルに……小此木クンと北条クン、キミたちはその前にこっちだ」
開始直前、ジャンたち三人は蟇目に呼び止められた。
「本来なら夕食はこの課題を終えた者から順次自炊して取るんだが、秋山はそのザマだからな。特別に食事をとらせてやるよ」
「それでは私と小此木君は? それにやっぱり秋山を特別扱いしていたじゃないですか」
蟇目の発言に、北条は食い下がる。もとより秋山を贔屓していたきらいのあった蟇目への不信感もその要因であろうか。
「小此木クンは秋山の友達だからついでなんだが、キミに関してはその誤解を解くためさ」
「誤解?」
「俺は秋山を贔屓していない。ぶっちゃければむしろ秋山を追い詰めるためにこの合宿に参加させたも同然だ。本来ならコイツは合宿免除だったんだからな」
「え?」
「ないだよそれは、初耳だぜ?」
「そりゃあ俺が握りつぶしていたからな。元々オマエは先日の中華料理人選手権準優勝とその怪我の合わせ技一本で免除される予定だったんだが、特別講師として呼ばれた俺の気が済まんから、強引に参加するようにしてもらったのさ」
蟇目の話を聞いて、北条は改めてジャンの両腕を見る。今まで単なる包帯程度としか認識していなかったのだが、よくよく見ればギプスで固く固められていた。この状態で料理など、自分には当然無理である。
これだけの大怪我をしてそれでも平然と鍋を振るっていたことに感心せざるを得ない。
「これはせめてもの俺のワビだ。とっておきの薬膳を用意したから、始める前にさっさと食ってくれ。もちろん二人の分もあるから遠慮はいらんぞ」
蟇目が両の手をパンパンと叩くと、ホテルのウェイターが現れ、会議机の上に料理を並べた。そして料理以外に包帯と生の牛肉が机の上に並ぶ。
「箸をつける前にまずは治療だ」
そういうと、蟇目はジャンの左腕を掴み、ハサミで包帯を切り裂いて添え木となっているギプスを引きはがす。包帯の下から真っ赤に腫れ上がった腕が露出する。無理に鍋を振り回したのだから当然である。
「キミたち知っているか? 牛肉は熱さましの効果があるんだぜ」
蟇目はジャンの左腕に赤身肉を張り付けると、包帯でぐるぐる巻きにしたのちにギプスを当て直して固める。小此木は蟇目の豆知識など半信半疑ではあったが、ジャンの顔から脂汗が引き始めたのを確認した。もはや信じざるを得ない。
「これでよし、後は用意した料理を食べろ」
新しい包帯でギプスを固める終え、ついでに背中のツボをグリグリと押して、蟇目の手当ては終了した。
「驚いたぜ。アンタ、料理人を止めて接骨院を開いたらどうだ?」
「ふざけろ! 中華の料理人たるもの、これくらい出来てやっと一人前だ」
ジャンと蟇目の軽口は口汚いもののどこか和気藹々に小此木は感じていた。
北条も二人の様子から、自分が依怙贔屓と罵ったことが間違いだったと気付く。これは二人にとっては対等な勝負なのだ。『男に負けない女』を目指す以上、ここは避けては通れない、避ければ男に屈したことになる。北条はそう感じていた。
「秋山、さっきの食戟の話なんだが、あれはまた今度にしよう。それだけの怪我をしたアンタに勝ったところで、逆に私が恥ずかしい」
「カーカカカ! そんなこと、別に俺が勝つんだから気にすることは無かったんだぜ? まあ怪我人にボロ負けなんて恥をかく前に素直に謝ったんだ。許してやるよ」
「か、勘違いするなよ! あたしがお前を許したんだ」
「まあまあ、どっちでもいいじゃないか。試験の前にこれを食べて気合を入れようじゃないか」
小此木は二人を窘める。
蟇目はついでとは言ったものの、小此木が持つムードメーカーとしての才覚に着目してこの場に連れてきていた。料理人としての将来性というよりは、場を円満に流すための潤滑剤としてだが。
「カカカー!」
蟇目が用意した薬膳を完食すると、時をわせたようにジャンの体に異変が起こった。
ジャンは体内から熱いものがこみあげていることを感じる。それは、同じ料理を食べた小此木、北条の両名も同じであった。こみあげる熱いものに、三人は悶絶する。
「タレ目野郎……何を食わせやがった?」
「心配するな、毒じゃない。お前の体を速攻で治すための料理だ。ヒントはスッポン、これでピンと来ないようじゃ、まだまだだな」
「スッポン?」
スッポンは滋養強壮に効果の高い食材である。確かに蟇目が用意した薬膳のスープがスッポンスープだったことをジャンは思い出す。
「そうか……スッポンの滋養強壮作用が効きすぎているのか」
「ご名答だ。ただでさえ高い薬効をもつスッポンだ、それを増幅すれば骨折の一つや二つ、屁でもないぞ」
「へし折った当人がよくもまあヌケヌケと」
ジャンと小此木はしばらくして体の自由を取り戻したが、北条は依然として悶絶いていた。健常な状態で食べたため血の巡りが良くなりすぎていた小此木は、自分の股間を見てハッと蟇目の意図に気が付いた。
「そろそろ動けるだろう。お前達、課題に戻れ」
「その前に!」
小此木は何処からともなく取り出したスタンガンを蟇目に押し付けた。電気刺激により痺れた蟇目は体の自由を奪われる。
「テメー、何をした?」
「ダメですよ、北条さんを襲おうだなんて」
「いやあ……何を言っているのかな?」
蟇目はシラを切るが、内心ギクリと思っていた。ジャンと小此木には滋養強壮の為の薬膳を食べさせたのだが、北条の皿のみ性欲増進のみに特化したメニューになっていたのだ。その薬効は、もはや世界一の媚薬といってもいいくらいのものになっていた。
小此木はまるで時代劇で気絶した人の鳩尾をついて気付をするかのように、スタンガンを弱い出力で押し当てた。そのショックにより薬膳の媚薬効果から解放された北条は正気を取り戻す。
「あれ? あたし……」
「薬膳が効きすぎて寝ちゃっていたんだよ。さあ、課題に戻ろう」
北条美代子はこの瞬間、初めての感情を感じていた。実際は僅かながら残っていた薬膳の催淫効果による疑似吊り橋効果なのだが、その気持ちはまさしく恋だった。
だが色恋にこれまで興味を示さなかっただけの事はある。悶々とした気持ちに感情を支配されるものの、彼女はそれが恋心とは気づいていない。
――――
三人を会議室から送り出した蟇目は、床に大の字になって転がっていた。まさか小此木に一杯食わされるとは、当人も予想していなかった。
そんな蟇目をみて『キシシ』という笑い声が上がる。
「なんだ、俺を笑いに来たのか? 五行」
「五行膳で身も心も支配できただろうに、あんな小僧に一杯喰わされたアンタの姿には笑わざるを得ない。キシャシャシャ」
「まあいいさ、冷静に考えれば催眠姦は犯罪だ。効きすぎて落ちてしまった時点で失敗だ」
「キシシ、まさか最後になって犯罪だなんて」
この『キシシ』という笑い声の男は、薬膳において裏食医の通り名を持つ達人であり名を『伍行塊』、五行道士とも呼ばれる存在である。
五行はジャンの治療のために、遠月のコネを利用して一週間限りの条件で招いていた客人である。
後にジャンとお台場で大立ち回りをする人物であるが、この時点ではそのような未来など当然知らない。ましてやホテルミラージュ総料理長の座を五行に取られる未来など、この時点の蟇目には知る由もなかった。
一方そのころ、調理場に戻った三人は、瞬く間に五十人前の料理を作り終えていた。本調子を取り戻したジャンだけではなく、小此木たちにも薬膳の効能はしっかりと作用していた。
普段の三割増しの能力を発揮した小此木のクリア時間は四十五分、実のところ薬膳によるパワーアップが無ければ課題クリアが怪しいものになっていたのだが、それは当人に知りえることではなかった。
ふれあい合宿一日目は、こうして幕を閉じた。
蟇目サンごめんなさい