芦ノ湖のふもとに陣取る遠月リゾートホテル、その一角に学園に所属する総勢千人を超える生徒が集まっていた。
これから開始される五泊六日の合宿研修に参加するためである。
この合宿は『ふれあい研修』と名乗ってこそいるが生徒の半数強をふるい落すために行われる新学年の足切として名高い合宿なのだ。
ジャンと小此木がそのことを知ったのも、当然のごとく移動中のバスの中である。
「この合宿でヘマしたら退学だってさ。僕不安になってきたよ」
「どうせ過半数は俺達より下なんだ。もっと自信を持てよ」
「そうはいっても、ジャンだってその腕じゃ……」
小此木の不安は、自身の実力よりもジャンの両腕にあった。右手の指と左腕を骨折し、ギプスで固定されていたからだ。
この怪我は先日、五番町飯店に訪れた『蟇目檀』によってつけられた傷である。痛みこそだいぶ落ち着いてはいたのだが、見た目には依然として痛々しい。
「まったく、秋山は運がねえな。こんな時に大怪我だなんて」
「ケッ! この程度の怪我なんざちょうどいいハンデだぜ」
「おはよう諸君、ステージに注目だ―――」
ジャンたちが雑談をしているのを脇に、大広間の壇上にシャペルが昇っていた。生徒たちはシャペルの声に反応し、ステージに視線を集める。
まずは合宿の概要、要するにいくつかの課題に対して不合格となった者は退学となるという知れ渡った話を事務的に説明である。
そして、その審査員についての説明に移った。
「―――審査に関してだが、ゲスト審査員を招いている。多忙の中で集まってもらった遠月学園の卒業生たちだ」
シャペルの言葉に、多くの生徒が耳を疑った。遠月学園は卒業到達率一桁の関門として名高いからだ。
必然的にほぼ全員が十席委員会のメンバーあるいはそれに相当する実力者であり、十席そのものを天上人と認識する生徒たちにとっては神ともいえる。遠月リゾート総料理長『堂島銀』を筆頭とした卒業生たちは業界雑誌でも数多く特集を組まれる、いわば日本料理界のトップスターだからだ。
ちなみに先日の第一回中華料理人選手権の活躍により(主に悪評が多いが)中華料理界隈での有名人となった秋山醤の名が彼らとともに並ぶのは翌月の話である。
壇上に上がった卒業生たちの一人である『四宮小次郎』はおもむろにマイクを受け取り、ジャンを指さした。
「そこのギプスをはめた小僧―――退学だ」
突然の事に多くの生徒が虚を突かれ唖然とする。だが言われた当人はうろたえることもなければ落ち着いていた。
「体調管理は料理人の基本、大一番でそんな状態だなんてハナから失格だ。さっさと帰っていいぜ」
「それは後ろの奴に言えよ、メガネクン」
「キサマ、俺に口答えしようっていうのか?」
ジャンの反論に、四宮は眉間にしわを寄せる。そしてジャンの言う『後ろの奴』に目線を向けた。
「おいおい、山ザルじゃなくて俺にガンを飛ばすんじゃないよ四宮クン」
「蟇目先輩……」
四宮の後ろにいた人物は、ジャンに怪我を負わせた張本人だった。
今回の合宿について、ジャンは怪我と第一回中華料理人選手権の功績により免除となることが内々に決まっていたのだが、それを撤回して予定通り参加することに決めた人物こそこの蟇目である。
四宮の言い分も一応の理があるものの、この場の立場では蟇目はさらに一段上なのだ。
「アイツの怪我は俺が黙認したんだ。四宮クンの判断でどうこう言うのはヤメにしてくれないかな」
「先輩がそういうのでしたら」
四宮もしぶしぶ引き下がる。一学年上の先輩としてこの場では蟇目についてよく知る方であるため、その気性の荒さも理解しているからだ。
もし癇癪を起されて自分も大怪我を追わせられたらたまったものではない。そのやり取りがひと段落を迎えたのに合わせて、堂島が説明を始めた。
「合宿の間、君らのことは自分の店の従業員と同様に扱わせてもらう。今みたいに個人の裁量でキミたちの生殺与奪は思いのままだ。意味が解るか? 俺たちの満足する仕事ができないということは即ち
堂島は親指で自分の首を切るジェスチャーを取る。その動きに多くの生徒は震え上がった。
こうして最初の課題に移るため、総勢20のグループに分かれての移動が開始される。ジャンと小此木はソーマたち極星寮のメンバーとは別のグループに振り分けられたため、その場でソーマと別れた。
――――
ジャンと小此木のグループを担当する卒業生は蟇目だった。当然、この班分けは蟇目の手引きによる意図的な編成である。
「オマエたちに俺からの課題を言い渡す。中華の伝統を踏まえた青椒肉絲を作れ、『読んで字のごとく』な」
「青椒肉絲?」
「あの、中華の家庭料理か」
蟇目の発言に生徒たちは騒めく。青椒肉絲は肉とピーマンを細切りにして炒めた読んで字のごとくシンプルな料理である。
シンプル故に難しいという判断に至る生徒は少なく、合格間違いなしという安堵からくる騒めきが周囲を包んでいた。
「この間、散々僕を引っ叩いたから、そのリベンジの機会ってことでいいのかな?」
「さあな、案外後になってあの味が忘れられなくなったのかも知れないぜ」
ジャンたち三人の間では青椒肉絲はちょっとした思い出の料理である。元々ジャンが蟇目に暴行を受けた原因となった料理こそが小此木が作った青椒肉絲だからだ。ジャンに作り方を教わり、それをもとに作った小此木の青椒肉絲を食した蟇目が激昂したことがその理由である。
左腕をまともに使えないジャンの代わりとして小此木が二人前の具材を切り分ける。
切り口を正確にするために時間をかける小此木をあざ笑うかのように、三人の生徒が手際よく調理してものの数分で料理を完成させていた。
牛肉、ピーマン、タケノコと見た目にはポピュラーな青椒肉絲が三皿、蟇目の前に提出される。
「できました!」
「―――テメエら、課題の意味を解っているのか?」
男子生徒は自信満々に青椒肉絲を提出したが、蟇目は箸をつけるよりも早くドスの効いた声を発する。
「俺は『読んで字のごとく』と言っただろう?」
「ああ」
蟇目はそのまま三皿の中身をゴミ袋に詰める。彼らの料理は食べるまでもなく失格という意味なのは、誰の目にも明らかだった。
十分も経たずに三人も不合格と言うこともあり、蟇目は多少は合格者を出さなければ体裁が悪いとばかりに生徒たちに助け舟を出す。
「オマエたち、俺は寛大だから一度だけヒントをやろう。いいか、『読んで字のごとく』作るんだ。作れない奴は出来栄えがどうこう言う前にクビだ」
「あいつら……中研の恥だわ。言葉の意味も理解しないで」
その様子を冷めた目線で見つめる一人の少女がいた。
横浜中華街出身の北条美代子は中華料理研究部、略して『中研』において期待の一年生エースと呼ばれる生徒だった。
当然、彼女の得意分野は中華である。先の不合格となった生徒たち三人はみな部の仲間ではあるのだが、合格できなかったことを恥と見下していた。その態度はジャンのセンサーをひきつけた。
「そういうテメーは解っているのかよ?」
「当然、というより中華のイロハを知っていたら間違い様がないわよ」
「そりゃあそうだな」
二人は互いの名を名乗ることは無いが、課題に対しての認識は共通していた。
「小此木、準備はいいか?」
「バッチリだよ」
小此木は時間こそかけたが、具材の切り分けを丁寧に仕上げ終えていた。店を基準にした場合なら手際が悪すぎるとはいえ、この場では問題になることではない。
ジャンは小此木に指示を出しながら
そのうち醤油味はジャンのレシピをもとに小此木が自分用として作ったもの、オイスターソースはジャン用のものであった。
ジャンは右手にお玉を縛り付けると、具材の油通しを行う。油をくぐって八割方熱の通ったピーマンと細切り豚肉を取り出すと、炒め物用に準備しておいた鍋にそれらを投入する。
ギプスで固めているとはいえ、左腕はまだつながりかけである。常人ならまだ鍋を持ち上げることなど到底できないであろうが、ジャンは精神力で痛みを凌駕し、鍋を振るう。そしてオイスターソースで味付けをして、青椒肉絲を完成させた。
ジャンの完成と時を同じくして、小此木と北条の料理も完成し、三人はそろって料理を蟇目のもとに提出した。
ジャンたちが完成させるまでのべ十人の生徒が試食に挑んだが、依然合格者は出ていなかった。
「俺たちの審査も頼むぜ」
「お願いします」
ふてぶてしい態度のジャン、恐る恐る腫物のように恐れる小此木、単に高名な先輩として敬語で接する美代子と三人の態度は異なっていた。
蟇目の前には三種の青椒肉絲が並ぶ。
「どれ、まずは見た目は合格だな。まあこの程度すらできないほかの奴らがカスなだけだが」
「同感ですね。字が読めれば間違える方がおかしいです」
「え? どういう事? 僕はジャンから伝統を踏まえ場合のパターンと教わってたからこうしただけだけど」
三人のうち、実のところ小此木だけ蟇目の意図を組み切れていなかった。見かねたジャンが解説に回る。
「いいか小此木、青椒肉絲の青椒はピーマンで肉は豚肉を指すんだ。そして絲は細切り、つまりピーマンと豚肉の細切り炒めってわけだ。この間教えた青椒牛肉絲でも入れていた筍は別になくてもいい、今回の題目を厳守するんだったらむしろ邪魔なんだ。何処にも筍だなんてないからな」
「なるほど。じゃあ肉が豚肉なのはなんで?」
「昔の中国で手に入る肉と言えば豚、羊、鳥だからな。そこから豚肉を『肉』と呼んで、鳥や羊は肉とつけずにそのまま呼んだってわけだ」
「ま、中華では常識だな」
ジャンの解説は中華の基礎的な知識ではあるが、あくまで古典の話ではある。遠月中等部の授業でも中華で肉は豚肉の意味という程度の知識は教えられるが、踏み込んだ話までは教えられないからだ。
そのためその場の多くの生徒がその話に感心するのだが、美代子はその様子に苛立ちを見せていた。見かねた蟇目が下心交じりに美代子に声をかける。
「どうしたんだ? お嬢さん。そんなカリカリして」
「他が専門ならいざ知らず、仮にも歴史ある中研の部員がこんな初歩のミスをしたということに腹が立っただけです」
「中研? じゃあ俺の後輩って訳か」
「そういうことです。それに私は北条です、お嬢さんはやめてください」
北条は蟇目の色目にはまるで取りつく島を見せなかった。蟇目はやれやれと一呼吸置いた後、試食に移る。
「それじゃあ北条クンから―――合格だ、岩塩で味付けとは珍しいな、実に美味だ」
蟇目の様子に、北条はどうだと言わんばかりに胸を張る。実際にちょっと胸を突き出していたのを蟇目は見逃さず、ニヤリと笑みを浮かべた。
「次は小此木クンを」
蟇目は小此木の料理を箸でつまんだのだが、一瞬食べることを躊躇する。前回食べた時の悪い印象がフラッシュバックしたからだ。実際のところ以前の青椒牛肉絲も蟇目がいうほど不味い訳ではなかったのだが、一度ついた悪いイメージというものは厄介なのだ。
蟇目は金のため、仕事だからと自分に言い聞かせ料理を口に運んだ。
「んぐ……ごくん―――意外と美味いじゃないか、合格だ」
「やったあ」
合格の声に小此木は思わず飛び上がった。隣の美代子が子供の粗相を恥じる親のように雰囲気のせいか赤面していたが、それに一人だけ気が付いた蟇目はなめまわすように見つめる。
しばらくして美代子が正気に戻る寸前を見極めて視姦を中断した蟇目は、ジャンの料理について判断を下した。
「最後は秋山か。まあこれは食べるまでもないだろう、合格だ」
「ちょっと待ってください」
蟇目は食べることなく合格を言い渡した。だが美代子はそれに異を唱える。
「食べもしないで合格と言うのはどういうことですか? 最初の説明会のひと悶着もそうですけれど、アナタは彼を贔屓しているんですか?」
「いや、そういうわけでは」
「では納得のいく説明をしてください」
美代子は蟇目に食い掛かる。それは食べるまでもなく不合格になった中研の仲間への義理立てなどでは決してない。中華料理人として同じ高校一年生を相手に食べなければ合格を出せない料理と食べるまでもなく合格の料理と言うのは雲泥の差に思えたからだ。
美代子にとって蟇目の態度は、彼女がジャンより格下に見られてという意味に他ならない。
「俺は秋山の料理は以前食べたことがあるし、彼が手ほどきをした小此木クンの料理は充分合格ラインだ。彼が小此木クン以上なのは知っている故に合格と判断させてもらった」
というのは半分は本当だが、もう一つ理由がある。だがもう一つの理由は似た者同士だからやりかねないという懸念に過ぎないため、そちらは口にはしない。
蟇目の説明は主観が強いためか、北条はまだ納得しない。そうなると気に食わないのは口論のダシにされたジャンの方である。
「おいキサマ、俺の料理に文句があるのか?」
「文句は無いわ。ただ私の方が上なのに扱いが悪いと抗議しているだけよ」
「ほほう」
北条の言葉に、ジャンの戦闘意欲に火がついた。
「おもしれえ、だったら俺とオマエで勝負しようじゃないか」
「望むところよ。当然、わかっているわよね」
「「食戟だ!」」
いつの間にか二人の間に勝負の合意が取られていた。生徒たちは試験の事を忘れて冷やかしに没頭し始めるが、そうなると困るのは特別講師の蟇目である。合宿の目的である選定を行うためにはこの二人の好き勝手は止めなければいけないからだ。
「キサマら、喧嘩なら他所でやれ。それとも何か? その腕、へし折ってやろうか」
普段の蟇目なら有無を言わさずもう折っていたであろうが、片方は自分好みの女子なのと仕事上の立場もあるためそこまでの暴力は振るえない。仕方なしに言葉で脅そうとするが、もう二人にはそんな言葉は届かなかった。
しばらく小首を傾げたのち、蟇目は何食わぬ顔で二人を『無視すること』に決めた。
「それじゃあ、出来た奴から早く持って来い。あんまり遅いと時間切れで退学かミンチにするぞ」
「ひい!」
「―――うわあ、なかなか図太いですね」
「都合の悪いことは忘れよと言うだろう? 小此木クン」
「ですね」
こうしてジャンと北条がメンチを切り合うのを横に蟇目は課題の審査に移っていた。先ほどのジャンの説明通りとなるように生徒たちは次々と作りなおした青椒肉絲を蟇目に提出する。
最初はビシバシ不合格者を作ろうかと考えていた蟇目だったのだが、次第に胃袋の限界があることにも気を配ってほとんどは味は見ずに、見た目と匂いだけで審査していた。
こうして蟇目の課題により、ジャンと同じグループ50人のうち、不合格者は10人という結果になった。
結局は最初の10人以外は合格と、以降の審査はだいぶ緩いものになっていた。
時系列的には原作蟇目登場の一週間後ぐらいに合宿という想定です(秋山式参鶏湯はまだ)