入学式が終わると、解放されたジャン、ソーマ、小此木の三人は、トイレに立ち寄っていた。幸い檀上側にいたためか、他の生徒とは鉢合わせせず、トイレは空いていた。
「一時はどうなるかと思ったけど、穏便に済んで良かったよ」
「そうビビることはなかったぜ、キズマユゲくらい軽くひねりつぶしてやったさ」
安堵の言葉を漏らす小此木とは違い、ジャンは依然としてやる気を見せていた。やはり先ほどの仙左衛門との邂逅は、大きな刺激となっていた。
「そのキズマユゲっていうのは、まさかオレのことを言っているんですかね」
ソーマはキズマユゲという呼ばれ方に怒りをあらわにする。小此木は二人を宥めようと、話題を振る。
「ほらほら、こんなところで喧嘩してないで。この学校は始業日だってのにもう授業があるんだよ」
「おっと、そうだったな。こんなところで遊んでいる場合じゃなかったぜ」
「今日は調理実習しかないんだし、決着は実習でつけようぜ」
「望むところだ」
三人は身支度を整え、今日の授業があるフランス料理実習室へと向かった。
遠月学園では一般教養の授業に関しては単位制を採用しているのだが、調理実習については班ごとの必修科目となっている。
この日は入学式なのだが、気の引き締めも兼ねて実習授業が割り当てられていた。
「おい、あいつらって―――」
「間違いない、さっき大口叩いていた編入生どもだよ」
実習室についた三人は注目の的になっていた。入学式での宣言は今日の出来事というだけあり、大半の生徒の関心はジャン達のことで持ちきりだったのだ。
しばらくして、担当教員が教室に現れる。
「おはよう、若き見習いたちよ」
やってきたのはフランス人教師のローラン・シャペル。彼は中等部ではちょっとした有名人であり、初日からシャペルの授業ということに気落ちする生徒も少なくなかった。
「厨房に立った瞬間から美味なるものを作る責任は始まる。それには経験も立場も関係ない。私の授業でAを獲れない料理はすべてEとみなす、覚えておくがいい」
遠月学園の調理実習ではABCDEの五段階評価を採用している。このうち高等部では、中等部から累積したE査定評価が一定数を超えると退学勧告となるシステムになっている。
シャペルは授業の評価は合格者にはA、不合格者にはEと二極化した評価をつけており、それゆえ中等部では鬼教官として有名になっていた。
「では、二人一組になりなさい」
今回の授業は二人一組での採点のため、シャペルは二人組を作るように生徒に促す。
「運が悪すぎだよ……」
「キミ、いったいどうしたの?」
小此木は、隣にいた少女に話しかける。少女は不安からか物怖じしていた。
「あなたはたしか……編入生の一人の」
「小此木タカオって言うんだ、よろしく」
少女の名は田所恵。恵は小此木に簡単な自己紹介をし、シャペルについて語る。
「編入生ならシャペル先生のことは知らないよね」
「確かにそうだけど、あの先生って評判良く無いの?」
「ローラン・シャペル先生は遠月でも評価が厳しいことで有名でね。ついたあだ名が『笑わない料理人』っていうの」
この名をつけたのも中等部の生徒たちである。シャペルが仏頂面なのもあるが、その評価の厳しさからついた名でもある。
「先生も言っていたでしょこの授業はAかEのどちらかしか点を出さないって。私はあと一つでもEを獲っちゃったら退学だから……」
「そういわれてもなあ……キミだって高等部に入れたんだから、落ち着いてやればできるって」
恵は高等部への進学こそかなってはいたが、実習の評価は不調であった。学園側としては地力を認めているからこそ高等部へも進学を認めているのだが、実際のところ成績の上ではまごうことなく落第生だった。極度のあがり症の恵に対して学園が下した課題が、このがけっぷちの状態であり、これを乗り切れないのならこれ以上の我慢はないという最後通告でもあった。
順調に高評価を取り続ければ一学期のうちには安定領域まで挽回は可能なのだが、自分に自信を持てない恵にとってはそのような楽天的考えを持つにはいたれなかった。
しばらくしてジャンとソーマ、小此木と恵がそれぞれペアを組むことになっていた。他の生徒は恵ごとジャンたち三人を不合格にさせる気のため、四人だけが残るように結託していた。
「ふむ、班は決まったようだな。本日のメニューは
シャペルの出した課題料理はブルゴーニュ風牛肉煮込みだった。初めてみた料理に興味津々の小此木の様子を見て、恵は不安を募らせる。
「もしかして小此木くん、この料理を作ったことないの?」
「いやあまったく。でも大丈夫、煮込み料理ならポカしなきゃ問題ないって」
(小此木くんはよくても私はAを獲れなきゃダメなんだって)恵の頭の中はすでにパニック状態になっていた。
「とりあえずボクはお肉のほうを見てくるから、田所さんは野菜の下ごしらえをお願い」
「(そうだね……やるしかないよね)」
能天気すぎる小此木の態度に、混乱が一回りした恵はとうとう腹を決める。
「お肉のほうも下ごしらえは私がやるから、小此木くんはお肉を選んだらレシピのほうをメモしてきて。ついでに調味料とハーブも」
「リョーカイ」
小此木のいい加減ぶりに吹っ切れた恵は、普段の実習の時と違って強気だった。小此木のほうも普段の癖なのか、下っ端作業のほうが、順調に手が回る。
一方そのころジャンとソーマは―――
「オメーはあの料理、作ったことあるのか?」
「イヤねーけど……ようするに牛筋煮込みみたいなもんだろ? 何とかなるって。とりあえずレシピ見てくるわ」
ソーマが白板のレシピをメモしに行っている間、ジャンは先ほどの勝負について考えていた。ソーマとペアを組むことになったことから勝負しようにもやりようがなくなっていたからだ。
ほかの生徒たちの思惑もあり、適当にパートナーを見つけて蚊帳の外にして勝負をしようにも、その相手も見つからなかった。そのうえ、評価の上でもAかEしか出さないと公言するシャペルが審査をするのでは面白みにかけていた。
少し考えた結果、ジャンは真面目に授業を受けることにした。ジャンとて祖父から中華のイロハを叩き込まれてはいるが、フレンチは門外漢である。畑違いの料理について学ぶことも立派な修行の一環なのだ。
「(レシピの記述はこれと言って変わったところもないが……手順を読むだけで調理手順が目に浮かぶ、良心的な文章だぜ。これは普通に『美味しい料理』のレシピだ)」
ジャンはシャペルのレシピから料理の完成図を頭の中で組み立てる。一方のソーマは、依然としてジャンに食い掛かる。
「それで……勝負は何で決着をつける?」
「勝負はとりあえずヤメだ、ヤメ!」
ジャンはやれやれと思いながら、ソーマに勝負は取りやめると伝える。普段なら売り言葉に買い言葉で勝負を挑むことから喧嘩犬と揶揄されるジャンだが、根っこの部分では素直な好青年である。
そのためシャペルのレシピには敬意をはらっていた。勝負料理を作るためにレシピを無視しようなどという気のないジャンは、ソーマの挑戦を鼻であしらう。
「逃げんのかよ」
「誰が逃げるかよ。オメーはさっさと鍋の準備をしろ、口を動かす暇があったら手を動かせよキズマユゲ」
「お、なにぃ?」
ジャンはソーマの態度などお構いなしに野菜の下拵えを始める。ジャンは態度で『真面目に授業を受けられない猿とは戦う前に勝敗は決している』と語る。瞬く間に皮を剥かれて山盛りになった野菜の山を前にソーマは押し止った。
もしこの光景を小此木が見ていたら、普段とは真逆なジャンの行動に困惑していたであろう。
「厨房に立った瞬間から美味なるものを作る責任は始まる。それには経験も立場も関係ない」
ソーマはふと先ほどのシャペルの言葉を思い出して呟く。
「よし! やるか」
ソーマも自分の頬を叩いて喝を入れると、ジャンの手伝いに取り掛かる。そのころ、ほかの生徒たちは内々に打ち合わせて隙を見てジャン達の鍋に塩をぶちまける予定だったのだが、二人はそのような隙を与えることはなかった。
その隙を与えなかったのは小此木・田所ペアも同様である。
二時間後、生徒たちは料理を完成させ、シャペルのもとに集まっていた。シャペルは淡々と生徒たちが作る料理に評価をくだす。笑わない料理人といわれることもあり、その顔には笑顔は一つもない。
「Aだ! 次の組!」
「どうぞ」
ついに小此木・恵ペアの審査の順番が回ってきた。
「(ついに編入生の料理が来たか。それにこの香り……さては)」
小此木が出したブッフ・ブルギニョンは微かに甘いにおいを立てていた。その匂いに気が付いたシャペルはわずかにニヤリと笑う。
「やはりな、当てたフォークが弾むようだ。キミたちは肉の下ごしらえに蜂蜜を使ったね?」
「セーカイです」
小此木は自信満々に答えた。
「蜂蜜のタンパク質分解酵素が肉を柔らかくし、程よい弾力を与えているよ。さて味のほうは―――
小此木・恵ペアの料理を食べたシャペルの顔には笑顔が浮かんでいた。笑わない料理人が笑う姿に、ほかの生徒たちは驚く。
「流石は編入試験に合格しただけにことはある、Aだ!」
「え……A!」
シャペルの合格宣言に、ここまで維持してきた恵の緊張がとける。恵は気が緩み床にへたり込んでしまった。小此木は蜂蜜のアイデア以外は全部田所さんがやったんだけどなあと心の中でつぶやいたあと、恵に手を差し伸べる。
「あ、あの……ありがとう。小此木くんのおかげだよ」
「なに言っているの? 大事なところは全部田所さんがやってくれたんだから、ボクのほうこそ助かっちゃったよ」
小此木に引き起こされた恵は彼に感謝の言葉を並べたが、一方で小此木もほとんどが恵の仕事で合格したこともあり謙遜する。その様子を脇で見ていたジャンも、小此木の合格を心の中で喜んでいた。
小此木・恵ペアの審査の次は、ジャン・ソーマペアの審査だった。シャペルは小此木が見せた蜂蜜のアレンジから、なにか隠し玉が飛んでくるのではないかと身構える。
だがそれは杞憂だった。
「これは」
「見ての通り、ローラン・シャペル特製のブッフ・ブルギニョンだ」
ジャンの言う通り、二人が提出した料理は紛れもなくブッフ・ブルギニョンである。周囲の生徒は何の変哲もないごく普通のブッフ・ブルギニョンにしか思っていないが、シャペルにはジャン達の意図が伝わっていた。
「この肉の柔らかさ、ソースの塩加減からとろみに至るまで……これは紛れもなく私のレシピだ。キミたちはどうやってこれを?」
シャペルにはその料理が白板に書いたレシピを完璧に再現したものであることには食べてすぐ気が付いた。だがレシピ通りといわれても腑に落ちない部分もある。シャペルはそれを訊ねる。
「どうやってといわれても……オレ達はレシピの通りに作っただけですよ」
「だが調味料などの記載にはあいまいな表現も―――」
「それくらい、アンタの気持ちになって考えれば解ったぜ」
「内心ドキドキしてたし、完全コピーはムリだと思ってたけど……ここまでドンピシャとは驚いてます」
「なんと!」
得てして腕の立つ料理人は己の舌と目分量で味を調える事がある。直接享受したわけではない二人がシャペル自身の味の癖まで再現したことに、シャペルは甚だ関心した。
「キミたちもAだ。だがあえて聞かせてもらうが、レシピ通りに作ることに不安や抵抗はなかったのか?」
シャペルが書いたレシピは素直なほどに基本に忠実なレシピである。生徒たちには合格のためにあれやこれやと手を加えようとするものも少なくはない。事実、小此木も蜂蜜のアレンジを加えていた。
「二人ともフレンチは不慣れというのもあったが……一番の理由はシャペル先生、アンタだよ」
「ワタシ?」
「シャペル先生のレシピはまるで舞台脚本のように親切丁寧でしたので、この通りに作れば外さないと思いましたよ」
教材をほめる生徒と出会ったのはシャペルにとっても久方ぶりのことだった。教師冥利につきる言葉に、シャペルは感激の涙をうっすらと目に浮かべる。シャペルは口をふくのに合わせて、目元の涙をぬぐうが、少しふいた程度ではぬぐいきれなかった。
シャペルは生徒たちから笑わない料理人の二つ名で呼ばれる仏頂面の鬼教師という目で見られているが、AかEかという採点方法にはもう一つ顔があった。実のところAは調理の基礎さえできていれば間違いなく取れるラインで採点しており、逆に言えばEを獲る場合は生徒の料理に致命的な欠点があるという意味である。
未熟な中等部の生徒からは鬼のように見られているが、そのため厳しい試練を乗り越えた一握りの生徒しかいない高等部2年生以降からは仏のような存在だったのだ。
「ウチのミスターあたりにも見習ってほしいほどだぜ。もっともアイツ程度の腕じゃこれだけのレシピは書けねーだろうけどな。アンタ、いい先生だぜ」
AかEという極端な採点方法とそれなりの頻度で集団退学者を出していることもあるシャペルに対し、進学直後のこの時期にはそのような印象をもつ生徒は少ない。
周囲の生徒は驚き、教室がざわめいていた。