牛山たちと別れ(数人の女性研究員はもの凄く名残惜しそうだったが)達也と深雪は玄関ホールまで続く廊下を進んでいく。そしてあと一画と言う所で会いたく無い人物と鉢合わせした。
「これはこれは深雪お嬢様、ご無沙汰しております」
親子三人が沈黙の中、四人目がまず口を開いた。達也も深雪もその人物とは旧知の仲だが、決して親しい訳では無い。
「ご無沙汰してます、青木さん。ですが此処に居るのは私だけではありません。そしてお父様もこの間はお電話をありがとうございます。ですが偶には実の息子にお声掛けしてもバチは当たらないと思いますが?」
可憐な声とは裏腹に、深雪の言葉には棘が何本も生えていた。話しかけてきた相手、青木は四葉家執事であり、その隣に立っているのは達也と深雪の『生物学上』の父親の司波龍郎だ。深雪はこの二人を毛嫌いしている。
「お言葉ですがお嬢様、私は四葉家執事として、四葉家の財産管理の一旦を任されている者です。一介のボディーガードに礼儀を示せと仰られましても。家内にも秩序と言うものがございますので」
「私の兄で、当主様の甥ですよ?」
深雪の兄であると言う事実より、真夜の甥と言う方が青木に与えるダメージは大きいのだが、どうしても自分の兄である事を先に言ってしまう深雪。彼女の中では甥である事を先に言うのだけは決して許されないのだろう。
「恐れながら、深雪お嬢様は四葉家次期当主になられるのを家中の皆が望まれているお方。そこの護衛役とは立場が違われるのですよ」
「おや青木さん。口を挟んで失礼かと思いますが、随分と穏やかならぬ事を仰る」
黙って聞いていた達也だったが、深雪の我慢が限界に近い事を察し、またこれ以上深雪を傷つけられるのを黙って見ているのは限界だと感じ始めたので、ついに閉ざしていた口を開いた。
「別に構わんよ。たかがボディーガードとは言え、君が深夜様のご子息である事には間違いない。多少礼儀と言うものを勘違いしていても仕方なかろう」
これほど傲岸な態度にも関わらず、達也の表情はいたって何時も通りだ。彼の中には相手に怒りを覚える感情は残されていないから……
「先ほど青木さんは深雪が次期当主になる事を四葉家の使用人全員が望んでるように仰った用に聞こえましたが、それは他の候補者の皆様にあまりにも不穏当ではありませんか? 叔母上は後継者の指名をまだしてませんが。それとも叔母上から候補者の内定でもお聞きになられましたか? それなら深雪にも色々と準備させなければいけませんので、丁度良いですしお聞かせ願いますか?」
いかにも敏腕弁護士風の身なりをしている壮年の紳士が、十六歳の少年が繰り出した指摘に言葉を詰まらせた。
「……真夜様はまだ何も仰られていない」
青木が苦虫を噛み潰した表情で何とか答えると、達也はワザとらしく―実際にワザとなのだが―眼を丸くして見せた。
「これは驚いた! 四葉家内序列四位の執事が、次期当主候補に家督相続について自分だけの思い込みに過ぎない憶測を吹き込んだのですか? さて、秩序を乱しているのはいったい何方なのやら」
芝居がかった仕草でため息を吐くと、青木が真っ赤になった顔で睨みつけてきた。もはや青木に筋道の立った反論は出来ないだろうと思い、勝ち逃げをしようとした達也だったが、どうもそれも上手く行きそうになかった。
「……憶測などではない。同じ家中に仕えている者なら、何となく思いは伝わってくるのだ。心を同じくする者同士、思いは通じる。心を持たぬ似非魔法師如きには分からないだろうがな!」
青木は――彼は、深雪の前で言ってはならない事を言った。青木の発言を聞いてすぐに、辺りから何かが軋むような音が聞こえてくる。急激に下がった気温を元に戻そうと空調が最大で起動しているにも関わらず、気温低下は抑えられない。
だが、軋むような音と共に気温の低下は収まった。達也が左手が指差すと壁に張り付いていた霜や、深雪の周りに渦巻いていた冷気が消えた。
蒼白になった妹を片手で抱き寄せ、斬りつけるような視線を青木に向けた。
「その『心を持たぬ似非魔法師』を作ったのは、俺の母親にして現四葉家当主の姉・司波深夜、旧姓四葉深夜ですが。禁忌の系統外魔法『精神構造干渉』を使い意識領域内で最も強い想念を生み出す『強い情動を司る部分』を
自分の為に、自分の代わりに涙を流してくれる妹を強く抱きしめながら、達也は一切の容赦の無い視線を青木に浴びせ、言葉の刃で斬り付けた。
「達也、止めなさい」
何も言えなくなっている青木の代わりに達也を制したのは、今まで口を閉ざしていた龍郎だった。
「あまりお母さんを悪く言うものじゃないぞ」
しかし放たれたのは全く見当違いの言葉だった。恐らくは保身の為に出たセリフだろう。いくら重役とは言え、この会社は四葉家が正体を隠し出資してくれた金で設立したものであり、今も四葉に支配権を握られているのだ。龍郎が卑屈になる気持ちが分からなくも無い達也は、思わず苦笑いをこぼしそうになった。
「お前が母さんを恨む気持ちも分からなくは無いが……」
「それは誤解だ親父。俺は母さんを恨んではいない」
「そ、そうか……」
それだけ言って達也は龍郎と青木の横を無言で通り過ぎる。これ以上この場に居ればきっと深雪は青木と龍郎を殺すだろう、そう感じ取っていたからだ。
先に言ったように、達也は母親である深夜を恨んではいない……いや、恨む事が出来ない。彼には強い感情を抱く事が出来ないのだ。怒ったり恨んだりする事は出来るが、本気で恨んだりする事は出来ないし、本気で怒る事も出来ないのだ。
彼に残された感情は、深雪に対する兄妹愛と、ほんの少しだけ残された恋愛感情だけなのだから……
IFで書いたように、四葉内には達也信者も結構居るんですが、青木はそれを知りません。