反応がない事に苛立った夕歌は、折り畳みタイプのCADをハンドバッグから取り出し、側面のボタンを押してテンキーボードを開いた。折り畳みタイプのCADは今年になってから製品化された物で、テンキーがついている手元部分が本体、展開された蓋の部分が照準補助用のアンテナになっている。
これは二年前にデュッセルドルフで発表された汎用型CAD+補助システムを実用化した物でFLTの新作だが、作ったのは達也の所属する第三課ではなく、本社の開発チームだった。達也はノウハウを提供しただけで、正直なところまだ普通の汎用型と性能面で差別化するまでには至っておらず、一部の初期採用者が面白がって手を出している段階なのだが、夕歌は意外と好事家なようだった。
しかし使っているCADの性能に関係なく、発動された魔法は洒落になっていなかった。
精神干渉系魔法「マンドレイク」
恐怖を惹起し心理的にダメージをもたらす想子波を術者の前方百五十度に放つ魔法。マンドレイクが造りだすのは恐怖を与えるイメージではなく、恐怖そのもの。意識の抑圧を緩め感情を暴走させるのではなく、恐怖という情動を発生させる魔法。
夕歌が「マンドレイク」を使うのと同時に、その正面で別の魔法が発動された。
音波減衰魔法「サイレントヴェール」
サイレントヴェールでマンドレイクを完全に防御することは出来ない。だが効力を弱めることは可能だ。サイレントヴェールで弱体化したマンドレイクならば、精神干渉系魔法への適性がない魔法師でも自身の想子場を情報強化することで防御出来る。
ただこの方法で防御する為には、あらかじめマンドレイクを使うことが分かっていなければならない。夕歌の素性と得意魔法を知っていて、サイレントヴェールを得意とする魔法師など、彼女には一人しか心当たりがなかった。
「……この魔法、琴鳴さんね! 正体は割れているのよ。出て来なさい! 勝成さんも、女の背中に隠れてないで出て来たらどう!?」
夕歌が挑発した直後、彼女のすぐ前の路面で陽炎が生じた。熱線が照射された路面を濡らす水分が蒸発しただけでなく、舗装材が熱せられて熱い空気の層が局所的に形成された所為だ。
「フォノンメーザーか」
突然の事で驚く深雪と水波を落ち着かせる為、達也はわざとその魔法の正体を言葉にして呟いた。
「私は隠れてなどいない。散らばった障碍物を抜けるのに時間が掛かっただけだ」
その直後、良く通る低音の声が前方から聞こえ、夕歌は陽炎に向けていた目を上げた。達也より頭一つ以上高い百八十八センチの長身。身体つきは痩せて見えるが、その分大男にありがちな鈍重さは感じられなかった。ボクシングの重量級の世界ランカーと紹介されても違和感のない身体つき。その正体は、防衛省入省一年目の職員にして、四葉の分家である新発田家長男、四葉家次期当主候補の一人、新発田勝成だ。
「隠れてないんだったら、何故すぐに答えなかったのよ」
「もっと普通に話せる距離まで近づいてから答えるつもりだった。答える前に撃ってきたのは君だ。相変わらず好戦的だな、夕歌さんは」
「へぇ……物陰に隠れて雪崩を起こすなんて不意打ちを仕掛けてきた勝成さんが、そんなこと言うの」
「君たちの車が巻き込まれないようにコースを設定していた。あの雪崩に攻撃の意思は無かった」
「そうだぜ! その後のフォノンメーザーも当てないようにしてやったんだ! いきなりマジで仕掛けてきたアンタとは違う!」
今まで勝成に制止されていた青年が、堪えきれないとばかり口を挿む。どうやらさっきのフォノンメーザーを撃ったのはこの青年であるようだった。
「奏太さん、引っ込んでいてくださらない?」
「何をっ!?」
「私は今、勝成さんとお話ししているの。津久葉家の娘が、新発田家の跡取りと話しているのよ。使用人の出る幕じゃないわ」
「このっ」
「奏太、止めなさい」
奏太青年を制止したのは、勝成を挟んで反対側に立っていた女性、琴鳴だった。
「姉さん」
「あたしたちが勝成さんの使用人であるのは厳然とした事実よ。夕歌さんの言っている事は一つも間違っていない」
「でもよ」
「勝成さんに恥をかかせないで」
その一言で、奏太は引き下がった。
「へぇ……勝成さんは部下に慕われているのね。慕われているのは琴鳴さんに、だけじゃなかったのね」
「ああ、お陰様でな。私にはもったいない部下だと思う。私はいつも、彼女たちに相応しい主でありたいと考えているよ。四葉の流儀に従うなら、もっとドライであるべきだと思うんだけどね。その点は、夕歌さん、君を見習うべきかもしれないな」
夕歌の挑発に奏太が顔色を変え、勝成の返答に今度は夕歌が顔色を変えた。
「俺もガーディアンですが、口を挿ませてもらいますよ」
「構わない。ガーディアンとはいえ、君はご当主様の近しい血縁だからな。我々とそれほど立場は変わらないと私は思っているよ、達也君」
「ありがとうございます。すぐに済みますので」
「ほう? 何かな」
「簡単なお願いです。ここを通していただけませんか」
達也の要求は、本人の言う通り単刀直入なものだった。
「なるほど、達也君らしい率直さだ」
「恐縮です」
「しかしそれは出来ない。私の方からも言わせていただこう。このまま来た道を戻ってくれ。そうすれば余計な争いをせずに済む」
達也が無言で頷く。だがそれは勝成の要求に従う事を示すものではなく、納得を示すジェスチャーだった。
「つまり、ここを通る為には争いが不可避と言う事ですね」
勝成が唇を引き締めた。その左右で、琴鳴と奏太も緊張の色を浮かべている。
「その通りだ」
勝成が事態を決定づける一言を告げた。――いや、告げたつもりだった。
「では提案です」
しかし達也のセリフには、まだ続きがあったのだった。
ただし四葉内では何の意味もなさない……