八月七日、後に『巳焼島事変』と名付けられた事件の三日後。北アメリカ大陸合衆国国防長官リアム・スペンサー、緊急来日。この出来事は日米両国で、非常に大きな驚きを持って報じられた。
第三次世界大戦を境にアメリカの大統領が外遊しなくなって以来、国務長官と国防長官の外遊がUSNAのトップ外交だ。しかもリアム・スペンサーは次期大統領候補最右翼の呼び声も高い大物政治家。そのスペンサー長官がこの時期に日本を、予告なしに訪れる。そこに大きな意味を見出さなかった者は、政界にも経済界にもマスコミ業界にもいなかった。達也のことがどうでもよくなったのは、当然の成り行きだろう。人々はスペンサー国防長官と首相の会談が終わりプレス発表が始まるのを、固唾を呑んで待ち構えていた。
同日、マスコミが去り平穏を取り戻したかに見えた巳焼島を、USNAの秘密特使が訪れた。そのことで大騒動――は、起こらなかった。
その日、伊豆諸島は生憎の雨だった。その雨雲を吹き飛ばすかのような、元気な、底抜けに陽気な声が部屋に響く。
「深雪、ただいま! 十日ぶり、で良いのかしら! ……って、あんまり驚いていないみたいね」
その声はすぐに少し不満そうな、「当てが外れた」とでも言いたげな口調に変わる。
「お帰りなさい、リーナ。思っていたよりも早かったわね。嬉しいわ」
今にも唇を尖らせそうな表情をしていたリーナは、深雪が最後に付け加えた一言に、照れ臭そうな笑みを浮かべた。
リーナは深雪に案内されて、東海岸の研究施設に案内された。マスコミの取材から解放された達也は、ここで『恒星炉』の心臓部、魔法式を複写・保存する人造レリックの量産に取り組んでいた。
「リーナ、お帰り」
顔を合わせるや否や先手を取られて、リーナはやや恥ずかし気に「ただいま」と応じた。そしてすぐに、憤慨した声を上げる。
「――ねぇ! 深雪も達也も何でそんな、当たり前みたいな態度なのよ!?」
「何のことだ?」
「何って『お帰り』よ! 少しは驚いたりしないわけ!? 私がそのままUSNAで捕まって戻ってこれないかもとか思わなかったの!?」
客観的に見れば、正しい指摘かもしれない。だがリーナが口にするには不適当な、自爆発言だった。
「あら、最初に『ただいま』と言ってくれたのは、リーナの方だったと思うのだけど」
「ウグッ……」
すかさず深雪から反撃を受けて、リーナは息を詰まらせる。
「俺も深雪も、リーナが必ず帰ってくると信じていたからな」
続いて達也が、一欠片の冗談も含まれていないと感じさせる口調で「必ず」「信じていた」と言い切った。
「は、恥ずかしい人たちね!」
リーナの暴言にも、深雪の笑顔と達也の平然とした表情は崩れない。
「……バカ」
顔を真っ赤にして俯いたリーナが再起動するまでには、五分の時間を要した。
「こ、コホン」
五分後、まだ少し赤味を残す顔で、リーナがわざとらしく咳払いする。達也は笑って良いものかどうか少し迷って、真面目な顔で次の言葉を待った。
「ホワイトハウスから、達也宛の親書を預かっているわ」
「ホワイトハウスからの親書!? 大統領から!?」
「日本政府ではなく俺宛に……?」
深雪が目を真ん丸にする隣で、達也は訝しげに眉を顰める。彼は封書の宛名が間違いなく自分になっているのを確かめ、リーナに尋ねた。
「リーナ、ここで開けても構わないか?」
「むしろそうして頂戴。私も内容を知らないから、教えてくれると嬉しい」
期待の眼差しを向けるリーナに頷いて、達也はペーパーナイフ代わりのクラフトナイフを手に取った。今や儀礼的な公式書簡くらいでしかお目に掛かれない封筒の中から、これも今では稀な厚手の便箋を取り出し、自分だけでなく深雪とリーナにも見えるように広げる。もっとも二人は、達也宛の手紙を横から覗き込むような無作法な真似はしなかった。
親書はわざわざ英語と日本語で、同じ内容が書かれていた。かなり長く細かい文章だったが、達也は英語文と日本語文の両方を最後まで一気に読み通して顔を上げた。
「簡単に言えば、和解の申し出だ」
達也のセリフは十分に予想できたものだったので、深雪もリーナも少しも驚きを見せず、むしろ納得顔で頷いた。
「太平洋地域の平和を維持する為、親密な協力関係を築きたいとも書かれている」
この言葉に対する反応は、深雪とリーナで二通りに分かれた。深雪が特別な感情を覚えていないことが明らかな、反応の薄い顔をしたのに対して、リーナは呆れ気味に苦笑いをしていた。曲がりなりにもUSNAの高級士官だった彼女は「太平洋地域の」と限定を付け加えた意図を、すぐに覚ったのだ。
これは要するに、「大西洋には手を出すな」という意味だ。達也もそれを理解していたが、素より大西洋地域のトラブルにまで首を突っ込むつもりは無かったので特に反発を覚えることもなかった。それよりも彼は、こちらの方が気になった
「リーナ」
達也がリーナを見て薄らと笑う。
「な、なに?」
不吉な予感に、リーナの顔が微かに引き攣った。その横では、深雪が達也の珍しい表情に見惚れていたが、そのことに誰も気付かなかった。
やっぱりリーナはポンコツだな……