中庭まで追いかけてから、紗耶香は女子生徒に声を掛けた――
「待ちなさい!」
――と言うよりは叫んだ。
逃げていた女子生徒も足の速さでは敵わないと観念したのか、芝生の中頃辺りで足を止め紗耶香に顔を向けた。
「なんですか?」
「貴女、一年生ね」
「……そうです。先輩は二年の壬生先輩ですよね」
「二年E組の壬生紗耶香。貴女と同じ二科生よ」
「一年G組平河千秋です」
千秋が名乗ると、桐原が「平河?」とつぶやいたのが紗耶香にも聞こえた。紗耶香もその苗字には聞き覚えがあったのだ。
「それで、いったいなんですか? いきなり追いかけてきて」
「平河さん、貴女が持ってるデバイス、無線式のパスワードブレーカーでしょ」
紗耶香に指摘されて千秋は顔を青ざめ慌ててデバイスを隠した。
「隠しても分かるわ。私も同じものを使った事があるから」
紗耶香の言葉に千秋は目を大きく見開いた。
パスワードブレーカーはパスワードを盗み出すマルチウェアをハード化したもので、名称に反してパスワード認証に限らず様々な認証システムを自動的に無効化し情報ファイルを盗み出す機械だ。その用途は犯罪目的以外にありえない。
「……そうよ。私もスパイの手先になった事がある」
紗耶香はつらそうに顔を歪め、それでも千秋から視線を逸らさずに言葉を続けた。
「だから忠告するわ。今すぐ手を切りなさい。付き合ってる時間が長ければ長いほど、後で苦しむ事になる」
「……私がどれだけ苦しんだって、先輩には関係無い事です」
千秋は紗耶香から顔を背けぶっきら棒な口調で言い放った。取り付く島の無い拒絶。だがそんな事で紗耶香を怯ませる事は出来なかった。
「放っておけるわけ無いでしょ! 半年が過ぎた今でも私は時々身体の震えが止まらなくなるわ。自分でも気付かない内に唇を噛み切ってた事も、爪を掌に食い込ませたことだってある。貴女がどんな連中と付き合ってるのかは知らないけどこれだけは断言出来る。相手は貴女のことなんてこれっぽっちも考えてないわ。ただ利用して使い捨てるだけよ」
「そんな事分かってます! マフィアやテロリストが利用する相手の事なんて考えてないのなんて当然じゃないですか。先輩はそんな事も分からずに手を組んでいたんですか? 失礼とは思いますけど、先輩は随分と子供だったんですね」
「そうかもね。くだらない理想にそそのかされて良いように使われていた。確かに私は子供だったんでしょうね。でも司波君がその事を教えてくれた。心地よい理想に耳を傾けるよりも、厳しい現実に立ち向かうほうがよっぽど大切だって分からせてくれた。それに全員が私を否定してる訳でも無いって分かったしね」
「司波君が……」
千秋に一瞬の迷いが生まれたのを見て、紗耶香は説得出来るかもしれないと思った。だが次の瞬間には千秋からは完全なる拒絶の態度が見て取れたのだった。
「桐原君」
「ああ」
紗耶香の意図を桐原はすぐに理解した。あいにく二人共得物を持って来てないが不安は感じなかった。この一年生には武術、格闘術の心得が無い。その程度の事を見て取れる眼力は二人共備えている。二人ががりなら取り押さえる事は容易なはずだ。客観的に見てもこの紗耶香と桐原の判断に誤りは無い……千秋が武器を持っていなかったのなら。
千秋を利用してるのは、マフィアやテロリストよりもずっと性質の悪い相手だった。紗耶香と桐原が同時に足を踏み出した瞬間、それに同調するようにして千秋が小さなカプセルを投げようとした。
「止めておけ」
「ッ!」
千秋が投げる動作に入ったのと同時のタイミングで、背後から声をかけられた。
「司波君……」
「この間から俺の周りをウロウロとしてたのは知っていたが、何が目的だ?」
まったく気配は感じなかったのに、何時の間にか達也は自分の背後に居た。その事実に千秋の頭は混乱していった。
「何で! 何時の間に!」
「壬生先輩が説得してる内に背後には回らせてもらった。それで大人しくなるなら出てくるつもりは無かったんだがな。だがそれを使えば元の生活には戻れなくなるぞ」
「かまわない! 私は何かが欲しくてこんな事してるんじゃないし、全てを失ってでもやり遂げたいの!」
千秋の意識が完全に達也に向いた瞬間に、レオが背後からタックルを決めた。その衝撃は武術の心得が無い千秋には強すぎたようで、倒れた拍子に意識を失ってしまった。
「やり過ぎたか?」
「そうね。さっさと退いたら? 見方によったら女子生徒を強姦しようとしてるように見えるわよ」
「バッ! テメェがしろって言ったんだろうが!」
「………」
話しの途中で邪魔をされた形になった達也は、冷めた目をレオとエリカに向けた。その視線に耐えられずに、エリカとレオは言い争うのも忘れてただただ見詰め合っていた。
「とりあえず千代田委員長に報告しておいてくれ。俺は実験に戻る」
「わ、分かったわ……頑張ってね達也君」
無言のプレッシャーから解放され、エリカとレオはその場に崩れ落ちた。
「大丈夫かよ?」
「桐原先輩だって感じたでしょ? 達也君のプレッシャー……」
「ああ。怒らせたらヤバイのは妹だけじゃねぇな」
生徒会長選挙の時、深雪がサイオンを吹き荒らした光景を思い出し、桐原は震え上がった。
「兎に角千代田さんに報告しに行かなきゃね。司波君からも頼まれたし」
「そうだな。おい千葉、西城、お前たちも来い」
「分かってますって。でももう少し時間ください……」
「足に力が入らねぇんです……」
エリカとレオの情けない声を聞いて、桐原は苦笑いを浮かべた。
「まぁしょうがねぇよな。司波兄のあのプレッシャーは武道の心得があるやつほど竦むだろうしよ」
「確かにね。私もビックリしたもん」
「三十野……そういえばお前何処に行ってたんだ?」
「ちょっと部活の子に呼ばれてね。戻ってきたら桐原君たち居ないし、見つけたと思ったら司波君のプレッシャーが放たれてるしで今まで大人しくしてたのよ」
「部活? 今日は休みだろ?」
「部活の用事じゃ無いわよ。まぁ桐原君には関係無い事だから気にしなくて良いわよ」
巴の意味ありげな嫌味に、桐原は首を捻った。だがいくら考えても分からないので早々に諦めてエリカとレオに視線を向けた。
「おい、もう大丈夫か?」
「そうね……大丈夫みたい」
「俺も大丈夫です」
「じゃあさっさと報告に行こうぜ。何時までも此処に寝転がしとく訳にもいかないだろうしよ」
「私が保健室に運んでおくから、桐原君たちは千代田さんに報告してきて」
「頼んだぜ」
巴に千秋の事を任せて、桐原たち四人は花音を探しに行った。巴は気絶している千秋を抱きかかえて保健室まで向かうのだった。
達也の祈りも虚しくエリカと花音が衝突してしまう……