伊豆には達也が滞在している別荘の他に、四葉家の所有物件がもう一つある。別荘で静養する深夜を、煩わせない範囲で見守る為の物だった。小さな一軒家だ。
深夜は四葉の中でも唯一の特殊な魔法資質の持ち主だった。魔法の過剰行使により魔法師として十分に働けなくなっても、その特殊な因子を狙って誘拐を企む不届き物が予想された。この小屋は、それを防ぐための物だった。
実際に深夜の誘拐を目的とした襲撃が三回あってその全てを撃退したので、小屋を建てたのは取り越し苦労ではなかった。しかし深夜が死んだ後は、別荘と共にこの小屋も時々手入れをするだけで基本的に放置されていた。別荘は先日から達也が滞在しているが、小屋の方にも久々に使用の機会が訪れていた。
「お嬢様。家具、器具備品とも、問題無く調っております」
「ご苦労様」
鷹揚に頷いたのは四葉家分家の一つ、津久葉家長女、津久葉夕歌だ。
「荷物を置いたら、すぐに取り掛かりましょう」
情報戦を仕掛けてきたエドワード、レイモンド、二人のクラークへの対応を相談する為に達也が真夜と昼食を共にした日の夕暮れ。彼女がこの小屋を訪れたのは、無論、遊びが目的ではない。四葉家当主に命じられた任務を果たす為だ。
津久葉家が真夜に命じられた仕事は、達也が滞在する別荘からマスコミを遠ざける「人払いの結界」の構築。この手の術式は古式魔法の得意分野で、本来現代魔法向きではない。しかし津久葉家は四葉一族の中でも特に精神干渉系魔法を得意としている。威力を下げる代わりに持続時間を引き延ばした条件発動型の魔法で、古式の術者に劣らぬ結界を張り巡らせることが出来る。
監視小屋に到着したのが夕暮れ時だった為、結界敷設が完了する頃にはすっかり暗くなっていた。魔法を使えても夜目が利くわけではない。暗視は、魔法とはまた別の技能なので、夕歌が人影に気付かなかったのは仕方がない事だと言える。
「お嬢様、あちらに不審者がいます」
「えっ、何処? ……あぁ、あれ。達也さんがいる別荘を覗いているみたいね」
その不審人物は闇に紛れる濃紺のシャツとズボンを身に着けて、首から双眼鏡をぶら下げていた。立っている場所から見ても、夕歌の言う通り達也の動向を探りに来たのだと分かる。
ところで夕歌の部下が何故今になってその男に気付いたのかというと、結界が完成した影響だった。夕歌が指揮して構築した結界は、達也が滞在している別荘を認識出来ないよう思考に干渉するものだ。周公瑾や陳祥山が使っていた鬼門遁甲と原理的には同じ。眼は正しく認識しているが、意識はそれを見えていないと考えてしまう。
では、結界が完成する直前まで別荘を見張っていた者にはどう影響するのか。突如、別荘が消えてしまったように感じる事になる。気配を隠す事が疎かになってしまっても、無理は無いだろう。逆に言うのなら、この不審者は動揺さえしなければ、夕歌たちから自分の存在を隠し通すだけの技量を持っているという事になる。
「捕らえなさい。殺しては駄目よ。大きな怪我もさせないで」
「了解しました」
夕歌の側にいた魔法師が、護衛役の一人を残して闇の中に散った。
「どうせ達也さんは気づいているんでしょうけど……」
夕歌は達也がいる別荘の方へ目を向けた。窓から漏れてくる灯りが、別荘を闇の中に浮かび上がらせていた。達也が覗かれている事に気付いていなかったはずもない。実害は無いと判断したから放置したのだろう。あるいは、捕まえても後の処理が煩わしいと考えたからか。
その男が潜んでいる場所は別荘の敷地内だ。この辺りは広く四葉家の――正確には四葉家が密かに支配している不動産会社の――私有地になっている。だが特に柵のような物は設置していない。不法侵入を口実に拘束しても、気付かなかったと開き直られれば逆にやりすぎを咎められるだろう。
「……面倒な事は私たちに押し付けるつもりなのでしょうね」
不審者だけでなく、自分たちの存在にも達也は気づいているはずだ。小者の処理に自分の手を汚す必要は無いとでも考えているのだろう。
「仕方ないとはいえ、少しは顔を見せてくれたっていいじゃないの」
せっかく誰に遠慮することも無く達也と会えるようになったばかりだというのに、再び気軽に会う事が出来なくなってしまった遠い親戚の顔を思い浮かべ、夕歌はため息を吐く。
「もう親戚じゃなくて婚約者なんだから、少しくらい私の事を労ってくれたっていいでしょうに……」
元々夕歌は達也の事を軽んじる事はせずに、達也の力を認めていた数少ない四葉縁者だ。だが誓約の一端を担っていたために、おいそれと達也と触れ合う事が出来なかった。それが解除されたのが昨年の大晦日、そこからは達也と気軽に会っても咎められることは無くなった。無論、あまり良い顔はされなかったが。
それがまた余計な事の所為で達也と離れて過ごす事になってしまった為、夕歌は愚痴を吐きまくっていたのだ。
「ん、メール?」
そんな夕歌の携帯にメールが届いたのは、果たしてその愚痴が聞こえたからだろうか。
『お疲れさまです』
そんな愛想の欠片もない一文が送られてきて、夕歌は思わず顔を綻ばせたのだった。
しっかりとケアする達也さん、さすがっす