麦野はルイズの呼びかけには答えなかった。
代わりに。
眩い光が、世界を覆った。
***
「……おお、なんとしたことじゃ……」
学院長室――。
白髪の老人、オールド・オスマンは、呻くようにそう言った。
彼の傍らには、額が著しく後退している中年教師――ジャン・コルベールもいた。
彼らは壁に立てかけられた鏡――『遠見の鏡』で、決闘の一部始終を見ていた。
麦野の左手に刻まれたルーン。これが太古、始祖の使い魔の一つであった『
その上で、彼らは麦野の能力を見定めるべく、あえて秘宝である『眠りの鐘』は使用せずに動向を見守っていた。
結果は、彼らの想像以上だった。『ガンダールヴ』はあらゆる武器を使いこなすという言い伝えがあったが、麦野は武器すら使わず、全くの徒手空拳でラインメイジを倒し、そして五人がかりで襲ってきたメイジを瞬く間に二人倒してしまったのだ。
その後、勝ち誇った隙を突かれて倒したはずのメイジから不意打ちを受けた時は、その実力の程が全部見ることが出来ずに、ある種落胆した部分もあったオスマンだったが……その直後に起こった出来事に、自分の致命的な判断ミスを悟った。
滅びの輝き。
そうとしか表現できないものが、確かに彼女の手からは放たれていた。
***
第四章 そして電子の号砲は鳴る "MELT-DOWNER".
***
「…………間一髪」
ショーン・ド・ラヴィエが生還することができたのは――幸運なんかではなかった。
彼が生き残ることができたのは、確実に麦野の手心だった。麦野の放った絶滅の光条は、ショーンの身体ではなくその足元、ほんの一メートルばかりに着弾したのだ。粒機波形高速砲の直撃を受けた地面は当然ながらその抵抗力により爆発的に熱され、膨張し、爆発を発生させた。ショーン・ド・ラヴィエの身体はその爆発に乗ってノーバウンドで五メートルも上空に巻き上げられた。
きゃあ、と悲鳴をあげたのは一体誰だっただろうか。
観衆の中にいた青髪の少女が衝突の瞬間、咄嗟に『
「う、ぐ……」
しかし、ある意味でけがを負って気絶できなかったのは、この上ない不幸だったかもしれない。
「お、まだ息があるみたいだなァ?」
麦野の第一声は『それ』だった。
ルイズは、そのあまりに獰猛な声色にびくりとしてしまう。確かに、それまでの麦野の口調も粗暴だった。だが、これはそれとは異質だ。
先程までの麦野の声には、嘲りや蔑みがあった。口調は粗暴だったが、理性の光が宿っていた。いうなればそれらは『冷たい粗暴さ』だった。
だが、今の麦野にそれはない。怒り、憎しみ、本能からくる激情が、生身でメイジ五人を手玉に取るほどの麦野の理性の光を、さらに巨大な光で塗り潰していた。いうなればこちらは『熱い粗暴さ』だ。
その熱情が、灼熱の狂暴さが、全てのタガを破壊している。それが、今の麦野だった。
「まだまだ死なれちゃ困るんだよ。……テメェらには、こっちの受けた屈辱を兆倍にして返してやらなきゃならねェんだからなァああ!?」
次の瞬間、麦野は一〇メートル近く離れていたはずのショーンの真上に移動していた。
彼女の足元は、先程の輝く死が直撃した地面の様に赤くドロドロに溶けていた。
ルイズには知る由もないことだが――これは、
そして。
次の瞬間、麦野は。
一切の躊躇もなく、ショーンの股間に足を振り下ろした。
ぐちゃり、という湿った音が、いやにクリアに聞こえる。
思わずその場にいた貴族全員が顔を顰めた。半数以上が、目を逸らしてその光景を視界に収めまいとする。それほどに、その有様は痛々しかった。
「っがァァあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!?!?!?」
「良ィーい声だクソ豚ァ! もっと泣け! 喚け! この私に逆らったことを後悔しながらなァ!!」
のたうち回るショーンの腹を思い切り蹴り飛ばしてノーバウンドで数メートルも吹っ飛ばした麦野は、次に放心状態に陥っていた残りの三人の貴族に目を付けた。ショーン以外の五人の貴族のうち、二人は気絶させている。残った三人を気絶させれば、決闘は麦野の勝利だが……。
(足りねえ。そんなんじゃ全然足りねえよなァ。ヤツらはこの私に何をした? どんな屈辱を味あわせた? 最大級の恐怖と、苦痛と、絶望! ソイツを体感させて、学園都市の『第四位』に歯向かったこととこの世に生まれたことをこれ以上にないほど後悔させて、それでやっと等価だろうが!! 私を誰だと思っている? 麦野沈利だぞ? 学園都市の頂点に君臨する
麦野が、決闘を仕掛けてきた貴族たちを怒りに任せず
……この思考は、ある意味でトリステイン貴族に共通している。麦野は、格下の人間に(不意打ちとはいえ)不覚をとったという『失敗』を、『完膚なきまでに叩き潰す』という『別の功績』で埋めようとしているのだ。たとえば、シューティングゲームでノーコンティニュークリアができなかったから代わりにハイスコアを目指そうと無理なプレイを続けるような感覚。これもまた麦野の悪癖の一つだ。
「わ、悪かった……」
貴族のうちの一人が、ぽつりと呟いた。
その貴族は――いや、ほんの十代半ば程度の少年は、目に涙を浮かべて震えていた。自分達が軽率に踏んだ尾の持ち主が、いかに恐ろしい猛獣か、今更になって思い知ったのだ。
「ゆ、ゆ、許してくれ、もう、こんなことはしないと誓う。詫びなら何でもする! だ、だから、どうかもうこんなことはやめてくれ!」
命乞いだった。
典型的な『貴族』である彼にとって、それがどれほど屈辱的なことだったかは計り知れない。だが、彼もまた人間的に発展途上の『子供』であり――死の恐怖に抗えるほど、強い自尊心はなかった。
麦野は、その(彼女からすれば)脆弱な精神性を認め、それからにっこりとほほ笑んだ。それは、戦いが始まってから見せたことのない、穏やかな笑みだった。
そんな笑みを向けられたことに、少年は許されたと思い安堵して、
「
直後、本当に凍りついた。
麦野は即座に笑みを酷薄なものに塗り替え、指先を少年の脚に向け――放つ。
ギリギリまで範囲を引き絞った
少年が、絶望の悲鳴を上げる。
他の少年たちも、唯一命乞いした少年の末路を見て、自らの未来を見たような気がした。悲鳴や呻き声すら上がらない。そういった気力そのものが、真の絶望の前では奪われる。
麦野は、そんな哀れな挑戦者達を見て、初めて少し満足そうに笑った。
「分かるか。これで終わりなんかじゃねえぞ。此処までやってまだ
演説の終了と同時に、麦野の周囲に赤ん坊の頭ほどもある電子の篝火が生まれる。それらはふわふわと浮かび、次の得物を見定めていた。
「そんじゃまあ、そろそろ残りのお仲間にも『焼印』をつけてやろうか。二度とこの私に逆らえないように、精神的にも肉体的にも残る傷跡を、――」
麦野は、そこまで言って演説を止めた。
乱入者が現れたからだ。
「シズリ。それ以上やるのなら、わたしはあんたを止めるわ」
ルイズ・ド・ラ・ヴァリエール。
彼女は命乞いをしたとき、麦野が彼らを許すものと思っていた。貴族にとって、命乞いなど一生の恥だ。これが学院の外なら、下手をすれば家を追放されてもおかしくないほどに不名誉なものだ。下手をすれば一生を棒に振るほどの行為。そんなことまでやらせたのだから、当然ながら許すと、そう思っていたのだ。それでさえ、本来ならやりすぎというものだった。
だが、そうとすらならなかった。
そこで、ルイズはやっと気付いたのだ。
麦野は、彼らから『名誉』を奪おうとしているのではない。
『全て』だ。この茶髪の女性は、彼らから『全て』を奪い去ろうとしている。
そして、同時に思った。主人として、麦野の為にも、それだけは絶対に止めねばなるまい――と。
ルイズは、無謀にも麦野の目の前に立っていた。
電子の矛を今にも突き刺そうという麦野の、その眼前に、である。
ルイズもその恐ろしさは重々承知なのだろう。足は震えているし、顔は青い。ルイズに安全策なんてない。次の瞬間にでも、ルイズは麦野に殺されかねない。
麦野なら自分を殺さない――なんて甘えは、あるはずもない。麦野が自分に特別な感情を抱いてくれているなんて、そんなものはただの幻想だと知った。完膚なきまでに殺された。でも。それでも。
(此処で退いたら――!! わたしは二度と、シズリのことを使い魔だなんて呼べなくなる! これからもシズリと共に過ごしていきたいのなら、どんなに恐ろしくたって、此処でシズリに後ろを向けちゃいけないのよ!!)
諦めなければ、分かり合える。
そんな幻想までは、殺させやしない。
勝算があるわけじゃない。
まして自信なんてこれっぽっちもない。
でも、それでも引き下がることはできない。不合理に見えるかもしれない。馬鹿だと思われるかもしれない。でも、それよりも大事なことにすべてを賭けられるのが、『誇り』だと、ルイズは教えられた。
「……どけよ、『ご主人様』」
麦野はそんな人間が最も、最も嫌いだった。
一瞬にして、全ての怒りがルイズにシフトするくらいに。
「今さら何だ? この私を止めることすらできない程度の雑魚が。『光』の中でのうのうと生きてきた程度のガキが。学園都市の『闇』に君臨してきたこの私に意見するってのか?」
初めての、麦野から語られるルイズの姿だった。
「…………『ご主人様』じゃない」
ルイズは、ぽつりと言った。
顔を上げる。
怯えがある。恐怖がある。だが――彼女の目は、死んでいなかった。
「わたしの名前は、『ルイズ』よ。ちゃんと、呼びなさい!」
『ご主人様』と呼ぶ麦野に、一片たりとも敬意が込められていないことは、最初から分かっていた。それだけじゃない。麦野の『ご主人様』という言葉には、『お前など名前を呼ぶに値しない』という意図が含まれていることに、ルイズに対して真の意味で『無関心』だと言うことに、ルイズは何となく気付いていた。
「学園都市っていうのが、どこかわたしには分からない。シズリがどんな生活をしていたのか、わたしには分からない。シズリがさっき使った不思議な力も分からないし、好きなものだって分からない。わたし、あんたのこと何も分からないのよ。だから、今のわたしはあんたの言ってることに何も言い返せない。わたしは甘ったれかもしれない。理想の貴族には程遠いかもしれない。…………でも、あんたに相応しいご主人様になりたいって思ってる。あんたのことをもっと知りたいって、
「……テメェ!」
激情。皮肉にも、それが初めてルイズに向けられた感情だった。だが、ルイズは止まらない。顔を真っ赤にして、目には涙さえ浮かべ、それでもルイズは毅然と叫ぶ。
「だからあんたも――わたしに相応しい使い魔になりなさい!!」
それは、ただの子供の駄々捏ねだった。話していることは理想論どころか、論理すら成立していないただの要求。
しかも、麦野に従う理由なんて何一つない。此処で彼女の身体に風穴を開けて身の程を知らせることを躊躇する理由なんて、これっぽっちもないのだ。
だが、ルイズは言った。命の懸っているこの状況で、尚も臆さず『子供の我儘』を貫き通してみせた。
震えは、既に止んでいた。
暫し、沈黙が続く。そして。
ドス!! と。
麦野は、ルイズの腹に拳を叩き込んだ。
それを見て、全員の時間が動き出す。青髪の少女が人知れず杖を麦野の頭に向ける。
全員が、ルイズの説得が失敗に終わったのだ、と悟った。
麦野は嘲りの笑みを浮かべ、ルイズに問いかけた。
「これでも、テメェは私と分かり合えると思うか?」
ルイズは、暫く言葉を口に出来なかった。
横隔膜に叩き込まれた拳に、呼吸ができなくなり、蹲って呻くことも出来ない状態だったのだ。夕食の中身を吐き出さずに済んだのは、彼女の強靭な精神力の賜物でしかない。
そしてルイズは、今まさに幻想を殺された少女は、こう答えた。
「
腹を殴られて、息も絶え絶えなはずなのにルイズははっきりとそう言い切る。
彼女の幻想は、死んでなんかいなかった。この期に及んで、学園都市の『闇』の中に巣食ってきた外道を目の当たりにして、自分にも少年たちほどでないにしてもその牙を向けられて、それでもなおルイズは分かり合う道を選んだ。
その意味を考え、麦野はさらに恨めし気に表情を歪めた。
「――くっだらねェ。興が醒めたわ。テメェらへの刑の執行は、このクソがつくほどの甘ちゃんに免じて許してやる」
それ以上ルイズを試すようなことを、麦野はしなかった。結果が見えている。たとえ肋骨の骨を残らず折ろうが、目を潰そうが、腹に風穴を開けようが、多分ルイズは最後の瞬間まで諦めない。
「さっさと行くわよ、『ご主人様』」
麦野はルイズに言って、ヴェストリの広場から立ち去る。
残った多くの生徒達は、しばし呆然と彼女達のいたところを見つめていたが――やがて、現状を理解した。
『ゼロ』の呼び出した得体のしれない使い魔は、『ゼロ』の言葉に従って、矛を収めたのだと。
怪物に挑んだ少年たちは、『ゼロ』に命を救われたのだと。
多くの生徒にとってあの決闘は『ゼロ』の使い魔の恐怖を叩き込むだけになったが、それには僅かに例外もあった。
「何よあの子、少しは成長してるみたいじゃない」
「……危険」
「謝罪もかねてレディの危機に颯爽と駆けつけるつもりだったけど、アレじゃ流石になぁ……」
約一名除き、ルイズが動かなければ代わりに自分が止めに入るつもりだったのだが――どうやら、その必要はなかったらしい。それぞれが、ルイズとその使い魔に対する評価を修正する。夜の決闘は、様々な人々にとって一つのターニング・ポイントとなった。
***
――学院長室。
『遠見の鏡』を使って一部始終を見ていたオスマンとコルベールは、頭を悩ませていた。
……いや、教育者としては満更悪いことばかりでもない。ルイズが諦めない姿勢を見せてくれたことで、麦野も話が通じないばかりの人間ではないということが分かったし。
だが、それとは全く別次元の問題が、彼らにはあった。
「あの『煌めき』……」
オスマンは、まさしく呻くようにそう言った。
「わし、これまで数百年くらい魔法を見てきたけど、あんなの初めて見たよ」
「私もです、オールド・オスマン。あんなものは系統魔法にはありません。どう組み合わせたって……」
「エルフの先住魔法も見たことはあるが、彼らのそれはもうちょい穏やかだった気がするしのお……」
オスマンはそう言うが、問題はそこだった。
あんな強力な攻撃、系統魔法ではスクエアの火メイジであろうと難しい――というのは、魔法をたしなむものなら誰にでもわかる。だが、ではそれが先住魔法なら? ということになると、先住魔法と向き合った経験のある者しか分からない。
『仕事』で先住魔法を使う亜人と戦う機会も多いあの青髪の少女ならば違和感の片鱗くらいは感じてくれるだろうし、コルベールも同じように先住魔法を使う亜人と戦った経験があるのでおかしいとは思っている。だが、それ以外に関しては麦野の発動した光が先住魔法かどうかなんて分かろうはずもない。
「参ったのう、アレが先住魔法だと広まったら、必然的にミス・ムギノは亜人かエルフって話になるじゃろうし、前者ならともかくエルフってことになるとチト面倒臭いことになるじゃろうし……」
エルフというのは、はるか遠く、ハルケギニアの地の果て、サハラ砂漠地帯に住まう種族の事だ。
ハルケギニアの人々にとってエルフは怨敵であり、恐怖と憎しみの対象になっている。それがルイズの使い魔だという噂が出回ったら、ルイズ達の立場はかなり悪くなることだろう。
「我々の方で先手を打って、ミス・ムギノは亜人であるという噂を流すのはどうでしょう?」
コルベールがポンと手を打ってオスマンに提案する。
「おお、そいつはいいのう。亜人を使い魔にすること自体はあり得ないことではないんじゃしな。その線で行こう。種類は――まあ、適当でええじゃろ。魔法を使うし腕っぷしが超強いから、ハイ・オークとかで」
オスマンは、良い解決策を見つけることが出来たので既に緊張感をなくし鼻毛を抜きながらそんなことを言った。コルベールの方もそれに賛成したので、その場で話し合いは終了となる。
そんな話し合いを、書類仕事をしながら楚々と聞いていた緑髪の秘書ロングビルは思った。『妙齢の女性が自分をオーク鬼と言われて、何も思わないだろうか……』と。
果たして、そんな彼女の懸念は過たず当たり、噂を耳に入れた麦野が激昂する『魔法学院ハイ・オーク事件』が勃発したりしなかったりなのだが、それは別の話である。