――結論から言おう。
世界は、救われた。
より正確には、ルイズ・フランソワーズの命がけの挑戦によって、世界は救われた。
ただし、正義の勝利の裏側に邪悪の敗北があるように。
救われたものの裏側には、とある一つの犠牲があった。
それは、ゼロの極点――その所持者、カタストロフの中心としての麦野沈利。
その存在の、『死』である。
***
終章:失ったもの、失わなかったもの ZERO's_Familiar.
***
「ルーイーズー!」
「ぅなぁ!?」
朝。
隣人の喧しい声によって夢の世界から追い出されたルイズは、素っ頓狂な声と共に目を覚ました。
「うー……」
起き上がったルイズは、寝ぼけ眼を擦りながら顔を起こす。ぼんやりした視界が鮮明になっていくと、目の前に赤髪の女が見えてきた。
夢の中に後ろ足を残してきたようだったルイズの表情はそれを見てしなびた果物のようなしかめ面になる。
「……キュルケ。わたしは寝る前ちゃんと戸締まりしたつもりだったんだけど」
「アンロック」
あっさり言ったキュルケに、ルイズは思わず肩を落とした。
「あれ、何よしおらしい反応しちゃって」
「ねむいのよ……」
目をこすりながら、ルイズはベッドから降りて自分の眠りを妨げた不届き者に不機嫌そうな眼差しを向ける。ルイズとしてはわりと本気で遺憾の意を表明していたつもりだったのだが、キュルケはというと飄々とした笑みを崩さないまま、手に持った懐中時計をルイズに見せてきた。
「アンタ、そんな顔して恩人のことをねめつけていいの? あたしが起こしてなかったら完璧、遅刻よ?」
「え゛っ!?」
そこでようやく、ルイズの脳が完全に覚醒する。見れば、既に朝早いと表現できる時刻は過ぎていた。身支度の手間を考えると、もう幾ばくの猶予もないと言わざるを得ない。
そのことにルイズが気づいたのを見て取ると、キュルケはにんまりと笑みを浮かべてこう畳みかけた。
「ほらほら。ねぼすけさんを起こしてやった立役者様に何か言うことはない?」
「……ええい! 感謝してるわよ!」
吐き捨てるような感謝を宿敵に投げつけたルイズは、そのまま急いでネグリジェを脱ぎ捨てた。
世界を救った英雄とはとても思えない、格好のつかない朝だった。
***
「おや、ルイズ」
そんなギリギリの朝を終え、その日の授業をこなした後。
自室に戻る道すがら、ルイズの目の前に見知った青年が現れた。
ジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルド。ルイズからはジャンと呼ばれている、彼女の婚約者だった。ルイズは軽く目を見開いて、
「ジャン! どうしてここに?」
と言いながら、駆け足で彼の元まで駆け寄った。
ワルドはにっこりと自らの婚約者に笑みを浮かべ、こう返す。
「婚約者の元に会いに行くのは、当然のことだろう?」
「その婚約者を一〇年も放っておいた人間の口から出たとは思えない言葉ね」
「……その件、一生言われ続けるのかな?」
「一生言ってもらえることに感謝しなさいよ」
軽口を叩き合い、互いに笑い合っていた二人だが――ひとしきり笑った後、ワルドは真面目な表情に戻る。それを見て、ルイズも口を真一文字に結んで次の言葉を待った。
「……ここに来たのは、現状報告といったところだね。俺には、君にそれを伝える義務があるから」
実のところ──ルイズはあの戦いから今の今まで、ずっとワルドとは顔を合わせていなかった。それは心理的な問題ではなく、単純に軍人であるジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルドは先の戦争の功労者として、婚約者と顔を合わせることもできないほど多忙を極めていたことを意味する。
もっともそのおかげで、ルイズはこうして学園にて日常を再開することができたのだが。
──いや。
日常を再開することができた、というのは少し語弊のある表現だ。
たとえばあの戦いを境にフーケは──ミス・ロングビルは学園から姿を消してしまった。オスマンは残念がりながらもどこか彼女の事情に感づいていた様子をにじませており、今も代わりの秘書を雇うことなく一人で寂しげに髭をしごいている。
タバサも流石に元通りというわけにはいかず、ジョゼフを牢獄塔に幽閉した後は彼女だけガリアに残り、革命をきちんと収束させた。今や彼女は新政府の中核的存在である。おそらく国王にはタバサがなると思われ、その意味ではもう『キュルケの友人である謎の少女・タバサ』はもうどこにもいないという事実に、ルイズは少し寂しさを感じる。
「……伝える義務、ね」
──ルイズの日常は帰ってきた。
一度現実に起きたことは決してなかったことにはならない。ルイズがやっとの思いで帰ってきた日常も、きっと厳密な意味で『元の現実』にはなりえないだろう。
それでも、ルイズは守りたかった日常へと帰ってくることができた。
「ああ。いわば俺は──窓口のようなものだ。フッ、軍人をメッセンジャー扱いとは本当に贅沢だね。……ともあれ。一応、二つほど言伝を預かっているよ。
言いながら、ワルドは窓枠に肘をつき、外を眺め出す。まるで、遠い国に思いを馳せるような態度だった。
なんとなくそれを見ながら、ルイズもワルドに倣って外を眺める。
「一つはタバサ。彼女からのメッセージは簡潔だ。『すぐに遍在を覚えてまたそっちに行く。待ってて』だそうだよ」
「あはは、タバサらしいわね」
仮にもスクウェアの高等呪文なのだが、確かにタバサが言うとじきに覚えてしまいそうな気がする。というか新政府の色々で忙しいというのに、それでもなおトリステインに戻って来る気満々というのが凄い。まぁ、元々騎士の身分で外国に留学していて、異国の友人の手で宿願を果たした彼女にとっては、国境なんてそんなものなのかもしれないが。
「それともう一つ──」
もうじき、タバサが帰って来る。そのニュースはルイズにとって心が晴れるものではあった。
だが、そこからは一つピースが欠けてしまっている。
麦野沈利。
全てが順調に戻りつつあるルイズの日常から、ただ一つ零れ落ちてしまった存在。
「
遠い空に、ルイズが一人の少女の姿を幻視した、次の瞬間。
「
獰猛な笑みを口元にたたえているのが丸分かりな言葉が、ワルドとは違う方向からルイズの鼓膜に届いてきた。
それを認識した瞬間、ルイズは弾かれたように声の主の方を見る。そこにいたのは────
麦野沈利。
ガリアの地でルイズに敗北したはずの、この世界のカタストロフだった少女だ。
「……ったく。ほんとにシケたツラしやがって。確かに?
「し、シズリぃ……!」
相変わらずの憎まれ口に、ひどいことを言われているにも関わらずルイズの頬が綻ぶ。
というか、もしかしなくてもワルドの唐突な動きはルイズの注意を外部にそらしてサプライズの成功率を上げる為だったらしい。一挙手一投足に何かしらの意味がある男である。
「──っつーかさぁ」
そんなワルドやルイズの感傷など完全に無視して、麦野は目の前の少女に冷たい眼差しを向ける。そして、決定的な一言を吐き出した。
「『私』を殺したくせに燃え尽き症候群とか言い出したら、本物の消し炭にしてやるぞ」
***
──あの時、あの局面で。
漆黒の暗闇の中──それでも、麦野の拳からは
そう。極点を経由し、あらゆるものを望む場所へ飛ばす力──その力の象徴である光が、彼女の拳からは漏れ出ていた。
そして麦野沈利は、その状況を許容したまま、最後の激突へと臨んだ。
それは一つの世界を終わらせたカタストロフの因子ではなく、一人の少女が掴んだ一つの選択だった。
最後の最後まで麦野を『斬る』のではなく『受け止める』ことを選択したルイズは、剣の腹でその光に触れ──『幻想殺し』は、漏れ出た光を通じて〇次元の極点に接続し、麦野とつながっていた魔術の残滓を殺し尽した。
それはそれまで麦野沈利を縛っていた『彼女の役割』を破壊する行為で、これを以て『極悪非道、あらゆる善性を嘲笑い異世界を蹂躙する悪党』としての麦野沈利は殺された。
今『ここ』にいるのは何者でもないただの麦野沈利でしかない。
「後悔することになるぞ」
ほかの何者でもない一人の少女は、吹雪の中で凍えているかのように冷え切った声で、一言そう呟いた。
「……ガリアをはじめ、ハルキゲニアは私の影響でかなりの被害をもたらした。私には、その罪を背負う義務がある。分かっているのか。そんな私を見捨てないっていうことは、一緒に歩むってことは、お前も一緒に私の罪を背負うってことだ。…………お前も、私の罪過に呑まれるぞ」
「構わない」
そんな少女の心を温めるように、桃髪の幻想殺しは断言してみせた。
「強がって偉ぶって、そうやって世界のカタストロフを抱え込んで、勝手に一人で死んでいこうとしてる馬鹿を引っ張り上げる為なら────わたしは一生かけてでも、あんたの罪を背負ってやるわ」
世界を一度は滅ぼしかけた女に対し、ルイズはあまりにも真っ直ぐにそう言い切ってみせた。きっと幾千億と繰り返したとしても 彼女の答えが変わるわけではない。
それを悟った麦野は、ぽつりと呟いた。
シェフィールドを殺し、戦争を齎し、多くの人命を失わせた。
麦野沈利は元来、そのことを『悪』だと感じることのできる人間だ。
正史でもがんじがらめになったプライドから解放された彼女は自分の罪と向き合っていた。
もっとも、『この』彼女は浜面仕上によって変わったその精神性とは全く異なるが――
「本当に、お前は大馬鹿野郎よ。……
「あら。今更気づいたのかしら。あんたも意外と馬鹿なのね、シズリ」
そうして、一つの『幻想』が殺された。
***
「で、なんで帰ってこれたのよ」
そして、ルイズは本題を切り出した。
結局あの後、麦野は自分が引き起こした戦争の責任をとると言って持ち前の頭脳を生かし、今回の戦争の事後処理を手伝っていたのだが――当然ながら、戦争、国と国のぶつかり合いの事後処理となれば、途轍もない時間がかかる。
まして革命後のごたごたである。きちんとのちのちに禍根を残さない形にしようとするとなれば、すべてが終わるまで数年はかかるというのが当初の見通しだった。
ルイズが日常に戻ってきたにも拘わらずアンニュイな雰囲気だったのも、このためである。要するに、麦野との学校生活はほぼ実現し得なくなって──ルイズはそのことを残念がっていたわけだ。
だが、現実はどうだろうか。
そんなアンニュイな気持ちなど粒機波形高速砲で滅殺してやると言わんばかりに、目の前の麦野沈利は現実だ。多分
「──いやぁ、その件なんだけど、ちこーっと自分の頭脳をナメすぎてたみたいでね」
疑問を顔面いっぱいに広げていたルイズに答えて、麦野はチッチッと指を振る。
「そもそも、償いっつっても別に私は『出てくる書類仕事を片っ端から片付ける』とか『自分が破壊した箇所へお礼参りをする』なんて自分自身に依存したその場しのぎの非効率的なシステムを組んでいたわけじゃない」
麦野は自分の側頭部を人差し指でコンコンと叩き、
「私が目指したのは、『よりよい社会システムの構築』。つっても、貴族がどーとかって話に興味はねぇ。学園都市の社会学を応用したカネ回りの操り方……ってとこかね。細かいことは省略するが、要するに『私が将来的にいなくなっても問題なく回せるシステム』の構築をしてやったってわけだ」
「……ってことは、つまり……」
「ああ。一通り完成したら、別に私がその場にいなくてもよくなった」
だから帰国した、と麦野は何の臆面もなく言った。
普通の人間であればそれでも『償いは終わっていない』とその場に残りそうなものだが、そこは麦野沈利。こことは違う未来を辿った歴史でも、フレンダの姿を装って騙し討ちしにきた敵を一切の逡巡なく焼いたのが彼女の根本の精神性である。
とはいえ──。
「……それに、償いはガリアにいなくてもできるしな」
──かの歴史でフレンダの姿を焼き払った背景に理由があったのと同じように、彼女の言動にも理由はあるのだが。
「素晴らしい心意気だよ、ミス・ムギノ」
そんな麦野に、ワルドは壁に背を預けながら言う。
あの局面では邪悪そのものといった振る舞いを見せた麦野に上空五〇〇メートルまでふっとばされていたワルドだったが、彼の態度に麦野への憎悪は感じられなかった。
「ガリアの脅威は過ぎ去ったが――アレはこの世界にはびこる問題の一部でしかない。僕は今後もそれらを調べるつもりだが――同志が増えるのは有難いね」
「勘違いするなよ、私は正義の味方ごっこをするつもりはない」
「おや、奇遇だね。僕も自分が正義の味方だとは思っちゃいないさ」
悪態をつく麦野に、ワルドは肩を竦め、
「……だが、そこの小さなヒーローの味方ではありたいと思っている。そこは君ももう同じだと思うけどな?」
「…………っ」
「はは、ようやく君を言い負かせた気がするよ」
一瞬言葉に詰まった麦野を見て、ワルドは破顔一笑し、ふっとその場で消え去る。……遍在だったらしい。
「……婚約者との連絡役に遍在を寄越すとはな」
「ジャンはあとでオシオキね」
…………そして男がかっこつけたと思っても、女から見ればたいていはズレていたりするものである。
哀れなヒゲがあとでツンデレの餌食になる未来が確定したところで、麦野は真面目な表情に戻って、ルイズに語り掛ける。
「あのワルドの懸念は多少的を外しているが――だが、
「……どういう意味?」
「
それはもはや、カタストロフとの接続が断たれた麦野にとってはいずれ消え去る知識でしかない。
だがそれでも、麦野はルイズに警鐘を鳴らさずにはいられなかった。
確かに、世界を終わらせた一人のカタストロフとルイズ・フランソワーズの物語は幕を下ろした。
だが、ルイズを中心とした物語は、これからも続く。いやむしろ。彼女を取り巻く物語は、ここからどんどん加速していくことになる。カタストロフの影響が色濃く残るこの世界で、誰にも予測のできない未来が紡がれていくことだろう。
「……その時、お前の傍にいるのはガンダールヴの少年じゃない。世界を終わらせた、勝利を約束されたカタストロフでもない。──もはや何者でもなくなった、ただの麦野沈利でしかない」
そこに、ご都合主義なんてない。
彼女を
「運命の後押しを失った、ただの小娘でしかないんだよ」
確かに、麦野沈利は強い。
ハルケギニアに元来存在する技術は、彼女の
……だが、この世の争いは力比べだけで決まるわけではない。
世界の後押しを受けていたときの麦野がそうだったように、相手の弱点を見つけ出し、それを的確に突くことができれば、格上だって倒すことができる。かつての浜面仕上がそうであったように。
だからこそ、麦野は思うのだ。此処から先に『安心』はないと。
麦野はこの戦争であまりにも目立ちすぎた。相手が考えることのできる人間である以上、麦野への対策がなされるのは確定だ。つまりこれからの戦いは、『麦野に対して極端に有利な力を持った兵力』が差し向けられることになる。
そしてそんな兵力の前では、麦野沈利という一人の少女はあまりにも無力、
「……あんた、どの口でただの小娘とか言ってんのよ?」
──という感じのしおらしい話をしようとしていた麦野に対し、ルイズはじとーっとした目でむしろ呆れ返っていた。
「ビームを撃ったり、生身でメイジをボコボコにしたりできるヤツは、ただの小娘とは呼ばないわ。野蛮人とか、女傑とかって言うのよ」
「……テメェ、いま私はそんな話をしてるんじゃ」
「何より!」
反駁しようとした麦野を遮るように、ルイズは彼女に拳を突き付ける。
「……何より、滅びを決定づけられた最悪な運命の中で、あんたはそれでも足掻いてくれたじゃない。極点を消せば、わたしとの殴り合いに応じなければ、世界を終わらせることができたかもしれないのに」
あの時点の麦野沈利は、まだカタストロフとのつながりを殺されていなかった。それでも麦野は、最後の最後にルイズを光に触れさせる選択を選んだ。
──その最後の一歩を踏み出した『ヒーロー』のどこが、ただの小娘だというのか。
「それに」
そして最後にしめくくるように、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールは、自らの使い魔の胸に拳をぶつける。
「忘れたとは言わせないわよ、シズリ」
「……ああ。そういえばそうだったわね……クソったれなことに」
そのことに思い至って、麦野は思わず苦笑する。
──そこに思い至ってしまう程度には、彼女もこの桃髪の貴族に毒されてしまったらしい。
確かに、この先は何が待っているのか誰にも分からない。
さらなる脅威、強敵がこれから先も立ちふさがって来ることだろう。
だが、それがどうしたと、今の麦野は心の底から思う。
何故なら────
「あんたは。麦野沈利はこの私の――ゼロの使い魔なんだからね!」
長らくのおつきあいありがとうございました。
活動報告にあとがきを用意してありますので、ご興味のある方はどうぞ。