「…………忌々しいな」
そこは。
暗闇だった。
一面、見渡す限りの闇。黒一色の世界。どういうわけか、縦横無尽に平面が広がっていることだけは認識できるが、それ以外の情報は皆無。そんな純粋な黒の世界に、彼女は佇んでいた。
「まったく、忌々しい」
麦野沈利。
この世のすべてを文字通り掌の中に収めた少女は、世界そのものを圧搾しておいて、なお不満げな表情を浮かべることができていた。
否。
それは違う。むしろ、世界そのものを圧搾できなかったからこそ、少女は不満げな表情を浮かべていた。
「…………、」
彼女と相対しているのもまた、一人の少女。
ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール。
厳密に言えば、彼女は世界の圧搾を止めることはできなかった。
その手にある
今回も、そうだった。
世界全体を圧搾するような事象の改変と、その無効化。
この両方が同時に、しかも断続的に行われた結果――――世界のシステムが歪んだのだ。
つまり、この状況。世界は
「シュレディンガーの猫。ったく、この私の能力の原理を考えたら、これほどの皮肉はないわね」
麦野はそう言って、せせら笑いながら肩を竦める。
この時点で、世界には二つの未来が残されている。一つは麦野が勝利することで、世界が滅びるという未来。もう一つは麦野が敗北することで、世界が存続するという未来。
とはいえ、この状況は麦野にとっては忌々しいことこの上なかった。
幻想殺し。この存在によって、自分の完全なる世界崩壊に水を差されたのだから、当然のことだ。イレギュラーの中心点、カタストロフの象徴としての麦野沈利は、自らが与えられた役割を邪魔されることは、忸怩たる思いだった。
「ま、こうなった時点で私の勝ちは決まったも同然だがな」
しかし、それでも麦野は愉快そうに笑う。
何故なら、事ここに至って、ルイズの掲げた幼稚な理想は完全に行き詰ってしまったのだから。
「こうなれば、お前にとれる選択肢は一つ。どうにかして私を殺し、そして能力者の死を以て事象改変の終了していない能力現象を中断させ、世界を救うこと。でもなければ、お前は私の『自殺』に巻き込まれて世界ごとお陀仏だ!」
究極の選択だった。
第三の選択、そんなものは存在しない。
そもそも、麦野沈利が世界を滅ぼすのは、彼女の自由意思がどうこうという問題ではない。彼女は、歪められた歴史の特異点なのだ。ゆえに、彼女が存在している限り、彼女が属している歴史は同じように歪められる。即ち、世界の滅び、という結末を迎えざるを得ない。
それを回避するための方法は、麦野沈利を殺す以外に存在していないのだ。
「…………まだよ」
ぽつりと、ルイズは呟いた。
余裕など全く存在しない表情だったが、それでもルイズは、まだ呟くことができた。
「まだ! まだ何も終わっちゃいないわ! わたしは、諦めない」
「そうかよ」
それでも、麦野は眉ひとつ動かさなかった。
敗北を認めない愚かな敗残者に、決定的な結果を突き付けるように、一言。
「なら死ね」
麦野が腕を振った瞬間、黒の世界に輝きが生まれ、
そして、光の雨が降り注いだ。
***
第二六章 少女位相、原点上 ZERO_V.S._ZERO.
***
「………………ッッ!!」
『ダメだ娘っ子! 防御に回るんじゃねぇ!!』
咄嗟にデルフリンガーを構えようとしたルイズは、デルフリンガー自身の叱責を受けて、反射的に転がるように移動する。それだけでも、達人の技能を有したデルフリンガーのサポートを受けて左腕は勝手に動き、光の雨を逸らしてくれる――が、そこで気づく。
「異能のチカラなのに……打ち消しきれて、ない……?」
ルイズも、デルフリンガーのふれこみくらいは聞いている。そもそも彼は〇次元に到達する前の麦野と戦い、その能力を無効化していたはずだ。にも拘らず、今回は達人の技能を使って逸らすのが精いっぱいとは、どういうことだろうか。
「ッハハハ、まさか私が使ってるのがただの
戦慄するルイズを見て、麦野は楽しそうに笑い声をあげた。
「バカが。そもそも『〇次元の極点』を掴んだ――
勝ち誇っているのだろう。
あるいは自分の話を聞かせたいのか、いったん光の雨を止めた麦野は、両手を広げて話し続ける。
「分かるか。コイツはただの応用だ。全体論の超能力って言ってなァ……全宇宙のあらゆるものを動かせる私は、この世のすべてを操れるのと同じ。つまり、マクロな世界を歪めることでミクロな世界に異常を及ぼすこともできるってわけだ」
「…………、」
ルイズに、その言葉の意味は分からない。
だが、それでもいいとばかりに麦野は続ける。
「なら後は簡単。私の脳内っていうミクロな世界の動きを参考にして、マクロな世界を歪めてやる。そうすりゃ、
――ただし、と麦野は嘯き、
「〇次元を得る前の私と同じにするなよ。今の私は、神のチカラを手に入れた。全体論の超能力ってのは、そもそも本来一人によって齎されるモンじゃねぇ。そいつを〇次元の極点によって無理やり一人のチカラでやってんだ。当然、そんなチンケな剣ごときに受け止められるようなチカラの質はしてねぇんだっつの。…………分かったら」
腕を、振り下ろす。
「とっとと散りやがれェ!!」
「いやよ!!」
同時に、降り注いでいく光の中を縫うように、ルイズは走って麦野に近づいていく。ドジュジュジュジュジュオアアア!! と、何もないはずの領域が蒸発するような地獄の音が響き渡る中、それでもルイズは前に進んでいく、が――。
「きゃあ!?」
麦野が後ろに飛び退くと同時にそこから生み出された巨大な光の奔流をモロに浴びて、デルフリンガーでかろうじて防ぐものの、一気に一〇メートル近く押し流されてしまった。
なんとか態勢を立て直して前を見直すも、そこには相変わらず腕を組んで余裕綽々といった様子の麦野の姿しかない。
それが、ルイズと麦野の力の差だった。
たかが幻想殺し。異能を殺す程度のチカラしか持たない身。
かたや全次崩し。人の身で神のごときチカラを手にした身。
力の差は歴然だった。いや、むしろ、ここまでで勝負になっているのが奇跡とすら思えるレベルだった。
(………………いや、待って?)
そこで、ルイズの思考が、何かに引っかかった。
奇跡。
(……おかしい。この局面でその言葉が出てくるということ自体が、おかしい)
ルイズの脳内で、思考がすさまじい勢いで駆け巡っていく。
(だってそうでしょう。もともと、この世界は
しかし、麦野はそれ以上考える時間を与えてはくれない。
再び、豪雨のように光の柱が降り注いでいく。ルイズは辛うじて転がりその豪雨を躱し、躱しきれなかった攻撃をあえて受け止めることで、反動で吹っ飛ぶ。
もはや、魔法を使う余裕は存在しなかった。
そんなことに余力を使おうものなら、即座に消し飛ばされていただろう。
「ッハッハッハァ! どうしたルイズ! こんなモンなら、同じようにデルフリンガーを振るってたあのデコっぱちの
そう嘲り、麦野が腕を振り下ろす。
その瞬間、特大の光の柱が、まるで神の振るう怒りの鉄槌のように、ルイズを押し潰した。
「――訂正しなさい」
…………かに見えた。
「わたしは、あんたのご主人様。ゼロのルイズなんだから!!」
ルイズはあの一瞬で、デルフリンガーの補助を受けて剣を正確に構えていた。
幻想殺しの特性、打ち消しきれない異能を受けると、そのエネルギーを運動エネルギーとして受け止めてしまうという、弱点。
これを剣で受け止めることにより、意図的に方向を定めて『弾かれる』ことに成功したのだ。
そしてその方向は――――、
「…………くっ!?」
他でもない、麦野沈利の佇んでいるその場所だった。
ガシイッ! と、回避は不可能と判断した麦野が、剣の柄による殴打を両腕で防ぎ、そして瞬時に飛び退く。
その表情には、喜色が浮かんでいた。
「なるほどなぁ」
今まさに攻撃を加えられたにもかかわらず、麦野は逆に、手ごたえのある障害にぶつかれたことに喜びすら覚えていた。
「私は確かに特異点だ。だが……この場にはもう一つの特異点がある。そうだよなぁ、ルイズ。テメェは、この世界の正しい基準点。この世界の中心には、テメェがいるからな。テメェだけは、私っていう特異点を取り巻く異常な法則の影響を受けない。だから、第一回戦で死んだ幻想殺し程度しか持ってなくても戦える」
つまり、麦野にとっては最初で最後の『自分と対等な可能性を持つ相手』というわけだ。
今までの人員は、多少苦労させられることはあっても、彼女の敗北という未来を選び取ることはできなかった。しかしルイズは違う。この圧倒的不利な状況にあっても、フィフティフィフティの現実を麦野に齎してくれるかもしれないのだ。
「…………ただ」
と、そこで、麦野は喜色で潤った声色をがらりと変え、まるで背筋が凍りつくかのような酷薄なつぶやきを漏らした。
「……今、なんで刃を使わなかった」
「…………、」
「あそこで柄じゃなくて剣を振るっていれば、私を切り裂けたかもしれないだろ。なんで、わざわざ手を抜いた?」
麦野にとって、そこは一番の重要項目だった。
せっかく自分に敗北を齎せるかもしれない相手が本気を出さなければ、殺したときに箔がつかない。それでは、『全力で戦っていなかったから負けたのだ』という言い訳を相手に与えてしまうことになる。
「決まってるじゃない」
ルイズは真っ直ぐに麦野を見つめたまま、当たり前のことを言うように答える。
「あんたを、救おうとしているからよ」
きっぱりと。
まだ確定していないとはいえ、確実に世界を滅ぼした女を前に、ルイズは少しも臆面なく断言してみせる。
「…………はぁ?」
「あんたを、世界を滅ぼす大災厄なんかにはさせない。ここできっちりあんたを倒して、それで連れ帰る。そして、元の世界でまた一緒に過ごすのよ」
「…………………………………………………………………………お花畑頭もここまで来るといっそ尊敬できてくるな」
麦野は呆れたように呟き、
「だから、どうやって? 確かにテメェは私に対抗できる。殺す資格くらいはあるだろう。だが! 私はカタストロフを背負っている! 私が存在する限り、歪んだ歴史は再現される! 世界を救うためには私が死ぬしかないんだよ! これは単純な二択だ! 世界を救って私を殺すか! 私を救って世界を殺すか!」
「そんなことない」
残酷な現実を突きつける麦野に、ルイズはそれでも即答した。
麦野の口元が、初めてひくついた。
「……、…………ハハ、面白くねえな。全く面白くねぇぞ、それ」
そして麦野は、怒りに目を剥いて叫ぶ。
「大体!! テメェは私に勝つことはできない! 私は神の領域に足を踏み入れた! たかが幻想殺しを持った程度で粋がってんじゃねぇぞ!!」
「果たしてそうかしら」
「…………あ?」
麦野の言葉が、止まった。
ルイズは人差し指を立てて、こう言う。
「あんたのその能力……完璧なように見えて、実はそうじゃないわ。……一つ、世界を圧搾してみせたくせに、デルフリンガーやそれを持った私自身は圧搾できていない点」
「…………、」
「つまり、あんたは幻想殺しや、それを持った者を動かすことができない。だから私だけは、わざわざ手間のかかる全体論の超能力とやらを使って始末せざるを得なかった」
さらに立てた人差し指を麦野に突き付ける。
「そして次に――あんた自身は、移動させられない。だからこそあんたは私の攻撃に対して飛び退いたり、ガードしたりする必要があった。多分、あんた自身を基準にしてものを移動させたりしているんでしょうね」
「ハッ、それがどうし、」
「ライト!!」
言いかけた麦野の言葉を遮るように、ルイズは詠唱を行う。
まるで早打ちのように引き抜かれた杖から灯された光によって、麦野の視覚は一時的につぶされる。
「なっ!? こいつ魔法を……!」
「あんたはわたしに能力を使えない。だからこうすれば、目視で照準を定めてる
片手で両目を抑えた麦野に、剣を構えたルイズが肉薄する。
デルフリンガーの技量のサポートを受けたルイズは、ただの少女とは思えない身のこなしで以て、鮮やかに麦野に近づいていた。
そして――
ゴッ、と。
剣の鞘が、麦野の顔面にめり込んだ。
「ごばッ…………がァァあああああああッ!?」
突進の運動エネルギーを一点に集中させた殴打に、麦野はそのまま後方へ数メートルも吹っ飛ばされる。
しかし、それだけで終わる麦野ではない。
転がったまま、まるで猛獣のように四つ足で地面に踏ん張った麦野は、そのまま顔を上げた。
鼻からは血が流れ、振り乱された髪は先ほどまでの優雅さなど微塵も残していない有様だったが、それでも麦野は闘志を捨てていなかった。
「………………だからどうした」
手負いの猛獣は、それでも牙を剥いた。
「だからどうしたってんだ!! 資格があるからなんだ! 見ろ、この実力差! 分かるか、テメェみてぇな蟻んこが粋がったところで、その努力の一兆倍の隔絶がここにはあるんだよ!!」
麦野が叫ぶたび、光の鉄槌が無造作に黒の世界を抉る。
「大体、私がいる限り世界は救われない! 歪んだ世界の特異点を背負った私に!! これ以外の道なんかねぇんだよ!!」
「――あるわよ」
そこで初めて、ルイズは麦野に刃を向けた。
「…………自害しろ、ってか?」
「ある意味では、そうかもね」
ルイズは厳しい表情を浮かべながら、そう言った。
「確かに、アンタの背負っている特異点は、幻想殺しでもどうにもできないところにある。普通のやり方じゃあ、殺すことはできないわ」
「……、」
「でも、それなら普通のやり方を使わなければいいだけの話よ。…………たとえば、あんたの手にある『〇次元の極点』とかね」
そう言って、ルイズは麦野の手にある光を杖で指し示す。
「この世のあらゆる場所に繋がる光。……そんなすごいものなら、
「………………は? おい、待て、お前、何を言って、」
「根本的な問題よ」
ルイズの瞳は、敵意に燃えていた。
しかしそれは、麦野に対して向けられたものではない。
「敵は、あんたじゃない。……あんたを歴史の特異点にした、何者か。その悪意の残滓。それさえ切り捨てれば、あんたを切り捨てなくてもよくなる。あんたを逃れることのできない滅びの運命から救い上げられる」
麦野は言った。
この状況は、彼女が迎えるはずだった世界の運命を焼き直ししているだけだと。
…………ならば、結局のところ。
このカタストロフの形成に、彼女の自由意思などないではないか。元の世界でそうなる運命だったから、結果的に麦野がその通りに動かされているだけ。それが、この状況のすべてだ。ならば、その元凶さえ切り捨てることができれば。
世界とつながっている〇次元の極点と、幻想殺し。この二つを使えば、それができる。
「…………馬鹿な、この光は異能のチカラだ。そいつが触れた瞬間に消えるぞ」
「ええ、でしょうね。でも、その光はあらゆる場所に繋がっている。つまり、触れた瞬間に繋がった先にも触れたことになる。幻想殺しは触れた瞬間にすべての異能を殺す……らしいわ。なら、問題ないでしょう」
「……………………、」
麦野の言葉が、止まる。
「だから、協力しなさい! あんたが協力すれば、わたしが全てを終わらせてみせる。どこの誰とも知れない馬鹿野郎の、くだらない幻想――その残滓を、終わらせてみせるから!」
協力しろ、と。
ここまで自分を裏切り、そして傷つけてきた少女に対し、ルイズは手を差し伸べた。
それに対し、麦野は。
「…………くだらねぇ」
あくまで嘲るように、その言葉を切り捨てた。
「くだらねぇ! くだらねぇなぁルイズ・フランソワーズ! 今更言葉で止まると思ったか!? この麦野沈利が!! そんなお涙頂戴の陳腐な説得なんかで、止まるとでも思ったのかよぉ!!」
嘲笑う醜い笑みを浮かべた女は、拳を握った。煌々とした光を封じるように。そして、
交渉は終了した。
結局のところ、これが彼女の生き方の全てだった。それは、ルイズも重々承知していた。
だから、ルイズも観念して、剣を握りしめた。
「分かったわ、シズリ。ならわたしも――――あんたの幻想を、終わりにしてあげる」