或る咎人の憂鬱   作:小栗チカ

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【前回までのあらすじ】
第七情報位階権限取得考試を受けた咎人は、ウィルオードライブの破損と剥離による『幻痛(ファントムペイン)』とその後遺症で、ボランティアができなくなりました。
さらに、ウィルオードライブを装着できなくなった事で焦った咎人は、無茶をして装着しようとした結果、目を背けていた己自身と向き合う事になってしまいました。

◆ 原作の設定に基本忠実ですが、捏造要素はしっかり含まれています。
◆ オリジナルの男主人公です。暴言を吐きます。
◆ NPCのキャラが崩壊しています。
◆ アンチ・ヘイトの意図はありませんが、保険としてつけております。
◆ その他、不備がありましたらごめんなさい。


咎人、どん底で夢を語る

「おい! しっかりしろ!!」

 

鋭く厳しい男の声で目が覚めた。

俺を覗き込む男の顔は、俺にとっての戦闘の指導教官だった。

 

「セルジオ……」

 

何故セルジオがここに?

懸命に脳みそに意識を向けて、状況を確認しようとする。

セルジオは大きく息を吐き出した。

 

「やれやれ、無茶しおってからに。アクセサリに看護プログラムがついていなかったら、また病院に逆戻りするところだったんだぞ」

 

セルジオの隣で、アクセサリが表情なくこちらを見ている。

 

「簡易ヘルススキャン実行。脳波の乱れはあるものの誤差範囲内。バイタルも安定値に戻りました」

 

途端、警告音と共に、赤黒い通知書が俺の目の前に現れる。

 

「療養の拒否、並びに監視者の警告を斥けて貢献への意志を放擲し、[幸福のために服従する権利]を毀損したため、刑期を加算します」

 

もはや何も言う事もできず、黙って捺印する。

改めて周囲を見渡すと、あの訓練場の控え室だった。

そして、セルジオの足元に置いてあるウィルオードライブを見て、全ての事情を察する。

 

「そうか。ウィルオードライブを無理してつけた瞬間に後遺症が出たんだな」

「どうやら、記憶も飛んでいないようだな」

 

呆れたような、しかし安堵した表情でこちらを見るセルジオ。

俺を気遣い、心配してくれている事は一目瞭然だった。

上半身を起こすと、頭を下げる。

 

「すんません。せっかく時間をいただいたのに、しでかしちゃって」

「全くだ。このバカめ」

「私の看護技術と彼の適切な処置により、貴方の意識の回復は速やかに行われました。時間にして十分も経過しておりません」

 

アクセサリはいつもどおりの無表情で小首をかしげる。

 

「人類に向けて順調に進化を続けていたのに、ここに来て益体もないネクローシスな手段に出るとは。貴方が真核生物どころかミトコンドリア以下の存在だったという事実に、適切な言葉が思いつきません」

 

意味はわからないが、こき下ろされている事はニュアンスでわかる。

ぐうの音も出ずうな垂れると、セルジオは肩を叩いた。

 

「焦る気持ちはわかるが、無茶はするな」

「はい」

「立てるか」

 

何とか立とうとしたが、体がふらつき、セルジオに支えられる。

 

「とりあえず、ここから出るぞ。そこの、片付けをしてくれるか」

「了解しました。それでは外でお待ち下さい」

 

セルジオの肩を借り、俺はセルガーデンを出た。

片付けを済ませたアクセサリと共に、ロウストリートの中央、壁際まで来ると壁に背を向け腰をおろす。

セルジオもその隣に腰をおろした。

 

「さて、話してもらおうか」

「え?」

「見えたんだろう? 青い世界が」

 

何故、セルジオがそれを知っているんだ?

ウィルオードライブを装着しようとして、後遺症が出たときに見えた青い世界。

思わず見たセルジオの表情は、いつもの指導教官の顔ではなかった。

全てを見通しているかのような、あまりにも静かで穏やかな表情だった。

 

「……ああ、見えた」

 

その表情に促されるように、俺は震える声で言葉を紡いだ。

 

「見えたよ、青い世界が」

 

口に出したら壊れてしまう。

記憶をなくしてから積み重ねてきた何もかもが、木っ端微塵になってしまう。

だがそれでも、伝えなければならなかった。

 

「俺は、戦うのが、ロストするのが怖かったんだ。あの取得考試で一人で多数を相手にして、自分がいかに無力で弱くて臆病で、どれだけ皆に支えられていたのかがわかった。いや、頭ではわかっていたけど初めて理解できたんだ」

 

思わず両手で顔を覆う。

セルジオもアクセサリも黙っている。

だから俺は構わず喋り続ける。

 

「俺は皆の背中を守っていると自負していたけどそうじゃない。俺もまた守られていたんだ。当たり前の事なのに、わかっていた事なのに、すっかりそれを自分の力だと勝手に思い込んで、自惚れて、一人でも同じように戦えるとバカな勘違いして。何だよこれ、酷ぇよ。最悪すぎるだろ」

 

思い返してみれば、俺の得意な戦い方っていうのは一人ではできない戦い方だった。

自分の継戦力を保ちながら、友軍を守り、時に倒れる友軍を叩き起こしながら、効率よく、最大限の力を引きだせるようお膳立てをする。

そして、損失を出来る限り減らし、いち早く戦いを終わらせるようにする。

皆がいるからできた戦い方だった。

 

そしてそれは、戦いが怖いから、ロストするのが怖いから、さっさと終わらせたいというヘタレな咎人の隠れ蓑だった。

さらに言うなら、効率よくボランティアをこなして刑期をドンドン減らし、こんな生死と隣り合わせの戦場から、さっさとおさらばしたいという小心な咎人の願望でもあった。

 

「衛生兵、介護兵、つまらない戦い方って野次られて、悔しくてムカついていたくせに実際はこの有様だよ! 本当に恥ずかしいわ。惨め過ぎる。傲慢で自惚れていた上に、臆病でヘタレってどんだけ救いがないんだよ。今すぐ消えて無くなりたいわ!」

「どうやら、ただ転んだだけじゃないようだな」

 

叫ぶ俺に、セルジオは静かに言う。

 

「ウィルオードライブを引っぺがされた人間が、どうしてそれを忌避するようになるのか。幻痛と後遺症への恐怖もそうだが、その根にあるのは、戦いと戦いに伴うロストへの恐怖だ。ウィルオードライブは兵装。それを身につけるという事は、戦いに赴くということだからな」

 

セルジオは腕を伸ばすと、俺の頭に手を置いた。

 

「そこまで分かれば転んだ甲斐があったというものだ。己の弱さや恐怖に気付かずに戦場に出て破滅する咎人を、儂は何人も見てきた。戦いが恐ろしいのは貴様だけじゃない。少なくとも、幻痛や後遺症を経験した咎人は皆同じだ。だから、そんな顔はするな」

「さーせん」

 

そう言って俺の頭を軽く叩くと手を離す。

 

「昔話をしてやろう。ある咎人の話だ」

 

咎人がいた。

その咎人は仲間と共にボランティアを続けながら、情報位階権限を上げ、順調に刑期を減らしていく日々を送っていた。

 

しかしある日、複数のアブダクターと敵兵を、同時に相手をしなくてはならなくなった。

敵の猛攻に回復も補給も追いつかず、一人また一人と仲間はロストし、劣勢となった。

自分の力を信じきっていた咎人は戦い続けたが、敵アブダクターの攻撃で、ウィルオードライブが破損、剥離し、幻痛によって戦闘を行う事が出来なくなったのだ。

 

いつもは咎人を助けるアクセサリも、機能停止状態。

絶体絶命の咎人を助けたのは、咎人が慕う先輩だった。

自身の身を省みず、咎人を護送車まで運び、護送車が安全圏に行くまで戦線を守りきったのだ。

 

そうして一命を取り留めた咎人を待っていたのは、幻痛の後遺症と、友軍全滅の知らせだった。

咎人は再起と復讐を誓い、治療とトレーニングに励んだが、戦闘訓練に入った段階で、ウィルオードライブが装着できなくなっていた。

幻痛と、先の戦いによるロストと戦いへの恐怖、咎人が慕っていた先輩と仲間達のロストが、咎人の心を大きく苛んでいたからだった。

 

戦わなくてはいけないことはわかっている。そうしなくては前進できない事もわかっている。だが動けない。

咎人は焦り、苛立ち、嘆き、絶望し、周囲の助けの手を振り払って精神的に引きこもってしまった。

 

そんな咎人の前に現れたのは、咎人を守った先輩の家族だった。

その家族は言う。

我が子が命を賭して貴方を守ろうとしたのは、貴方にこんな未来をもたらすためではありません。もし、我が子の行為で貴方が苦しみ、前へ進めないのならば、どうか我が子の事は忘れてください、と。

 

咎人と同じか、それ以上に嘆く先輩の家族にこんな事を言わせて、咎人はようやく動き出す事が出来た。

戦う事は恐ろしい。傷つきたくないし、ロストもしたくない。

だが、同じくらいに自分の大切な人たちにこんな思いはさせたくはない。

その思いを支えにして、咎人は少しずつゆっくりと立ち直っていき、そして今も、戦い続けている。

 

話し終え、水を飲むセルジオ。

俺は口を開いた。

 

「これって、セルジオの事なのか?」

「ある咎人の話だ」

 

でも、セルジオの事なんだろうな。普段のセルジオの戦いを見ればわかる。

そうか、セルジオもまた経験者だったのか。

セルジオはゆっくりと立ち上がった。

 

「今日はここまでだ。エルフリーデにも言っておくが、しばらくは貴様の自由に過すといい。だがこれだけは言っておく」

 

いつもの厳しい指導教官の顔をしたセルジオが、俺を見下ろした。

 

「焦るな。そして見誤るな。そして貴様と貴様の戦いを今一度見つめ直せ。今までは才能と勢いと力押しとで何とかなったが、これからはそうはいかん。よく考えておけ」

 

歩き出そうとするセルジオに、立ち上がろうとして、よろけて、慌てて壁に手を付いて体を支える。

頭を下げて礼を言うと、セルジオは片手を上げただけで、振り返りもせずに行ってしまった。

 

大きく溜め息をつく。

何も解決したわけではなかった。

だがそれでも、心を締め上げていた何かはさっきよりは緩んでいた。

俺だけではなかった。俺一人だけではなかった。

当たり前のささやかな事実が、俺をどうにか支えている。

 

「考えるか」

 

呟き、行くあてもないが、とりあえず歩き出した。

歩き回りながら考え続けたが、結局考えはまとまらなかった。

そして夜、一通りの事を済ませた後も考え続ける。

 

口に出す事のない心からの願いはあるのに、今は戦うことへの恐怖が、それを上回っていた。

戦いたくない。傷つきたくない。ロストしたくない。

だが戦わなければ、願いをかなえるどころか前にすら進めない。

何も成さないままロストするのは嫌だ。

だが、戦いたくない。

考えれば考えるほど、ドツボにはまっていくのを感じた。

どうしたら、恐怖に立ち向かう事が出来るのだろうか。

あまりにも情けない自分に嘆息した時だった。

 

「恐怖を抱く事は、人類にとっては当たり前の事です」

 

思わず顔を上げると、アクセサリがこちらを見ていた。

 

「遥か昔、人は何も知らないがゆえに、自分を守る術を持たないがゆえに、周囲のあらゆるものが恐怖の対象でした。しかし、何かを成したいと願うのなら、その恐怖と戦わなくてはなりませんでした」

 

コイツは、突然何を言い出しているんだ。

追加されたプログラムによって、普通のアクセサリとは思考が変化してきているとは言え、この発言は、あまりにもそれとはかけ離れたものだった。

 

「無知であるがために、爪も牙も持たないがために恐怖する。人はその恐怖の対象を観察し、それに対抗するために体を鍛え、知恵を絞り、道具を作り上げました。対抗手段を得る事で、人は恐怖に立ち向かう勇気を得る事ができたのです」

「お前は、何を言っているんだ」

「貴方の第七情報位階権限、取得考試の戦闘のログを確認しました」

 

アクセサリは俺の疑問に答えず、

 

「無様なものでした。人とは思えない戦闘内容は悪しき例として、後進指導のサンプルになるかもしれませんが、それだけです」

 

バッサリ切り捨てた。

 

「ユウ、この取得考試の敗因は何だと思いますか」

 

アクセサリは俺の返答を待たずに言葉を紡ぐ。

 

「準備を怠ったためです」

「準備を、怠った」

「当時の兵装を確認しましたが杜撰の一言でした。あの兵装と貴方の技量では、かの戦いを切り抜けられるはずもありません」

 

声もイントネーションも変わっていないというのに、中身が劇的に変わっている。

これは、何だ。

これはあのポンコツなのか。

 

「お前は誰だ」

「私は協働汎用監視者、アクセサリ。咎人の、パノプティコンでの幸福希求と貢献活動を監視するために生み出されたモノ。咎人のパートナーとしての役割を担うモノです」

 

思わず尋ねる俺を、ポンコツは無機質かつ冷徹な目で見ている。

 

「モノである私は人の恐怖はわかりません。人にそういう感情があることは認識可能ですが、理解は不可能です。ですから、貴方の恐怖を払底することは当然不可能です。ですが、モノを使いこなすことのできない人類未満の生物に、戦いに恐怖する未熟な咎人に、パートナーとして貢献活動の助言をする事は可能です」

 

ポンコツのくせに、いや、ポンコツだからこそ愚直に言い切るのだ。

 

「目的を果たしたい。しかし力がない。貴方のような人のためにモノは存在する。利用できるモノはどんなモノでも、効率よく、最大限に利用すべきなのです。それは、超古代から灰燼の終末を経て、再び今日の繁栄に至るまでに人類がとってきた、最古にして最新の、そして最も得意とする方法ではありませんでしたか」

 

そう言って、ポンコツは突然黙った。

声をかけても反応をしない。

まさか、壊れたとか?

さっきまでは会話は、壊れる前の最後の煌きだったとか?

そう思った時、ポンコツは再び口を開いた。

 

「消灯時間です。正しい人類への進化のために、休息はしっかり取りましょう」

 

あ、いつもの調子に戻った。

壁面モニターの時計を見れば、確かに消灯時間になっている。

このポンコツアクセサリに何が起こったのかはわからない。

だが、先ほどの会話で一つの灯明を得た事は確かだった。

 

「眠れそうにないから薬をくれ」

「了解しました」

 

薬の力を借りてでも今日は寝るのだ。

そして、明日に備える。

薬の力もあってか、この日はスムーズに眠る事ができた。

 

翌日から、ボランティア復帰に向けての準備を行う事にした。

ウィルオードライブへの忌避も消えていないが、まずはできるところから進めようと思ったのだ。

ウィルオードライブが破損して兵装データが消えたので、バックアップから登録しなおして調整し、武器プラントで強化と改良を繰り返した。

相変わらずのランダム仕様で、心も体も磨耗し禿げ上がりそうだったが、辛抱強く改良を行い、並行してアイテムとブースターの生産も行う。

 

セルジオの時間が空いている時に、ウィルオードライブの装着も何回か試みたが、装着完了寸前にあの瞬間を思い出し、未だに身につける事が出来ない。

それでも諦めずにいられるのは、落胆するたびにセルジオが励まし、発破をかけてくれているからだった。

同じ境遇を辿ってきた存在が共感し、かけてくれる言葉の重みは全然違う。

 

そして、そのセルジオが言っていた事を、ゴミを拾いながら考え続けた。

今までは周囲も己も顧みる事なく、無我夢中で突っ走ってきた。

願いだけを見て走り続けてきたが、蹴躓いて本当の自分に気付いてしまった以上、それはもう通用しない。

仲間に聞こうとも思ったが、それは最後の手段にすることにした。

仲間に弱い姿を見せたくないと意固地になっている事は自覚しているが、それでももうしばらくは一人でちゃんと考えたかったのも事実だ。

どうしたら、戦う恐怖に打ち勝つ事ができるのだろう。

どうしたら、怯む事なく戦場へ赴く事ができるのだろう。

焦りと、苛立ちと、自己嫌悪に苛まれ、全てを投げ出したくなる時、決まって皆が言っていた事を思い出す。

焦るなと。

その言葉にしがみつき、俺は今日も歩き続ける。

 

 

朝から降り続いた雨もこの時間には止み、澄んだ夜気が迫るモザイク街。

奥まった古い雑居ビルにある食堂『コールマイン』は、モザイク街に住む連中の間では、安くて腹にたまるメシを食うならここが一番と言われている店だそうだ。

店内はビル同様に古い。さすがに食堂だけあって清潔ではあるが、本当に古い。

壁にはメニューが書かれた短冊が隙間なく張られ、その間に黒髪に清楚なワンピースを着た妙齢の美女が嫣然と微笑むポスターが貼られている。

その反対側の壁も同様で、短冊と短冊の間に乳と尻と足の形が抜群によろしい水着姿の金髪の美女が、愛らしくウィンクしているポスターが貼られていた。

どちらも種類は違うが、合成酒のポスターのらしい。

 

店内はそこそこに広いが、席は満席。熱気と活気と混沌が店内を似渦巻いている。

カウンターの向こうでは、男の調理人数名が掛け声をかけつつ忙しそうに立ち回り、フロア内も数名のおばちゃんが配膳の手伝いをしたり、料理を出したり、食器を下げたりとやはり忙しない。

全ての席は、モザイク街に住む労働者が陣取っていた。市民どころか咎人すらいない。

肉と遺伝子改良した炭水化物ばかりのメシを黙々と貪り食う奴もいれば、仕事上がりなのだろう合成酒を飲んで談笑している連中もいる。

市民連中が見たらひっくり返りそうな光景だが、俺には不思議と馴染み深い、そして落ち着く空間ではあった。

 

しかし、何故こんな事になったのか。

六人掛けのテーブル席に座る俺の周辺には、モザイク街の建築作業員五人が取り囲み、思い思いに店員に注文をしている。

ポンコツは当然俺に付いて来ていたが、通路に立ちっぱなしは邪魔だと言われ店の端っこに追いやられていた。

目を惹く容姿だが、デフォルトのアクセサリの姿だ。それがわかると皆見向きもしなくなる。

 

「兄ちゃんは酒は飲めるのか?」

 

作業員の中でも『親方』と言われている男が尋ねてきた。

ウーヴェやセルジオと同年代だと思われるが、雰囲気が全然違う。

あの二人は戦士だが、こちらは職人。壊す側と作る側との違いだろうか。

親方の台詞に、俺は首を振った。

 

「いや、療養中で酒は飲めねーんだ」

 

そもそも俺は酒を嗜まないわけだが。

すると、親方の隣にいる男が合皮のケースから煙草を差し出した。

 

「煙草は?」

「吸わない」

 

すると全員が意外そうに俺を見る。

 

「見かけによらず随分と健康的なんだな」

「凡人咎人なんで、体だけは万全の態勢にしておいてるんだ」

「じゃあ、女は?」

 

俺の隣に座る男が、下卑た笑みを浮かべて尋ねてくる。

俺は笑い、

 

「それは嗜むよ。非モテの俺には楽しみの一つだし」

 

このPTのモザイク街には、いわゆる風俗産業が軒を連ねる一角がある。

恐らくは、モザイク街を根城にしている組織が裏で糸を引いているんだろうが、モザイク街の住人はもちろん、再教育の影響を受けずにいる咎人にとっては極めて大切な場所だ。

咎人の場合、情報位階権限によって受ける事のできるサービスは違ってくるし、お相手のグレードも変わってくるが。

すると、先ほどの男は呆れた表情を浮かべた。

 

「だったらあんな所で辛気臭いツラして座り込んでないで、綺麗で優しいお姉ちゃん達に一発抜いてもらえば良いだろうに」

「今はアレがいるんでな」

 

俺が視線を向けた先には、ポンコツが棒立ち状態でこちらを見ている。

現状のポンコツに、記憶改竄シーケンスは使えない。

ちゃんと俺に治療に専念をして欲しいと望むユリアンが、一時的に使えなくしたためだ。

気持ちはありがたいし正しい事だとは思うが、やはり不便だな。

小さく溜め息をつくと、周囲の連中が心からの労わりと同情をこめて俺を見、そしてメニューを押し付けてきた。

 

「食え! とにかく食え! 温かいもんを食えば何とかなる!」

「肉食え、肉!」

「配給食ばっか食ってるから、そんなツラになるんだよ」

「いや、ツラは関係ねーだろ」

「おばちゃーん、煮込み追加で。このしけたチンピラ兄ちゃんに精の付くもの食わせてやって!」

「後、温かい豆茶も。この見掛け倒しの兄ちゃん、酒飲めねえってよ」

 

酷い言われようだが、この作業員たちとは初対面です。

今日もあれこれ考えながらモザイク街を歩いていたが、考えるのも疲れ果て、ついでに雨が降ってきたので、自分がよく行く廃ビルのフロアで一休みをしていた。

そこは、古代の冷却塔を模したようなPTの威容と、それを取巻くモザイクのような町並みを一望できる俺のお気に入りの場所で、気分を切り替えたい時や、一人になりたい時に立ち寄っている場所だった。

ただ、ビル全体が崩落しかけているので、モザイク街の住人ですらも立ち入る事はない。

そんなビルのフロアで、雨に煙る景色をぼんやり眺めていたら、ビルの点検に来ていた作業員たちが慌てて駆けつけてきたのだ。

どうやら、俺を自殺志願者だと勘違いをしたらしい。

 

必死で引きとめようとする男達に、俺は何とか誤解を解こうと試みたが、結局これまでのいきさつを話すハメとなったのだ。

もちろん、説明の面倒くさそうな部分は適当にぼかしたが。

そして謝罪をしてその場を去ろうとしたが、放っておけないからと連中の仕事が終わるまで待たされ、そしてこの店に連れて来られて今に至る。

 

料理がテーブル一面に並べられた。

恐ろしい量だ。おまけに肉肉しい。ここまで肉と炭水化物のばかりの料理は初めて見た。

この五人で食いきれるのか? ていうか、この料理の代金は誰が出すんだ?

俺の心配をよそに、親方とやらが合成酒のジョッキを掲げる。

 

「よーし、今日も一日お疲れちゃんだ! 一、二の三、カンパーイ」

「カンパーイ」

 

杯を掲げる作業員たちに、俺も運ばれてきた豆茶とやらを、慌てて掲げる。

美味そうに合成酒をあおる男達。

こういうの見ると酒を飲みたくなるんだが、生憎下戸である。正直羨ましい。

 

「ほれ、兄ちゃん食えよ」

「じゃあ、いただきます」

 

親方の隣にいる男に促され、俺は目の前の丼に目を向ける。

丼の中には、薄切りにした肉と、スライスした半透明の物体。野菜っぽいがなんだろう。さらにその下に、汁を吸った白い粒状の炭水化物(コメと言うらしい)が埋まっていた。

全体的に茶色っぽく、見ただけなら食欲もそそられなかったろうが、湯気と共に立ち上る香りに、口の中に唾がたまってくるのを感じた。

塩辛いだけでなく甘さと香ばしさと、それ以外の複雑な風味は経験にないものだ。

記憶を失ってから、香りだけでここまで食欲を刺激する食い物は、ガソリンで食える『から揚げ(肉)』くらいだろうか。

 

腹が鳴った。

考えてみれば、意識を取り戻してから美味くも不味くもない配給食しか食っていない。

我慢できずに無作法承知で、肉と謎の半透明と炭水化物をスプーンで口の中にかき込んだ。

……お。

おおおおおあああ!!

 

「美味えええっ!」

 

思わず口に出た。

味が濃い肉と薄味のコメ。それを仲立ちするような半透明の存在。これらが一緒になることで丁度よい絶妙な味になるのか。

今までの食の固定概念が一撃で粉砕されるような衝撃の味であり経験だ。

口も、胸も、腹も、温かさと滋味が染み渡り、体が歓喜の声を上げて、もっともっとと督促をする。

夢中でかきこみながら、思わず涙腺が熱くなった。

この瞬間、俺を取巻くあらゆる負の要素が頭の中から消え失せる。

代わりに満たすものは、原始的で単純な喜びと、紛れもない幸福だった。

 

「たんと食えよ。まだまだあるからな」

 

親方が笑ってそう言いつつ、唐揚げを口に放る。

他の連中も俺を見て笑っていた。

俺は咀嚼しながら頷き、次々と料理に手を出した。

唐揚げはガソリンでもたまに食っていたが、辛味のあるさっぱりとしたたれのせいでいくらでも食えそうだし、赤茶色の液体に浸された肉の塊は、コクと酸味と華やかな香りを纏いながら口の中であっけなく崩れ、瞬く間に喉元を過ぎていく。

他にも様々な料理があったが、とにかく食えるだけ食いまくった。

そして、一時間が過ぎた頃、

 

「兄ちゃん、よう食ったなー」

「少しは遠慮しろよ」

「さーせん、つい……」

 

テーブルに突っ伏し胃をさする。胃が重い。完全に食いすぎた。

 

「冗談だって。少しは落ち着いたか?」

「おかげさんで」

 

隣の男に、漸うと答える。

体中の血液が内臓に行っているようで、頭がまともに働かない。

だが、性行為で得られる満足感とは違った満足感を得ていた。

そんな俺を見ながら、親方が酒をチビチビしつつ、この店の事を語ってくれた。

 

この店の料理が安いのは、店の主人の兄貴が肉の卸をやっているらしく、安く大量に仕入れる事ができるためらしい。

しかし資源不足のはずである。

これだけの肉を出せるのは、それなりの理由があるはずなのだが。

しかし親方の答えは明快だった。

 

「食用の人工蛋白質ってやつだ。再利用した化学物質と薬剤で作られた安価なシロモノだよ。クオリティはピンキリ。それを調味料で味付けして美味く仕上げているのが、この店の特徴だ」

 

親方の話では肉にも色々あって、特に培養食肉と呼ばれる遺伝子レベルから人の手が入った肉は、古代の肉の味を忠実に再現している上に、恐ろしく高いが美味いらしい。

ガソリンの『唐揚げ(肉)』も人工蛋白質のような気がするけど、どうなんだろう。

それよりも、気になっている事を尋ねる事にした。

 

「あのさ、この支払いって割り勘っすよね。恩赦ポイントって使えんの?」

 

すると、親方は鼻で笑った。

 

「奢ってやるよ、心配すんな」

「え」

「しょぼくれたガキに払ってもらおうたー思っちゃいねーよ」

「お前、ホント見掛け倒しな」

「根が生真面目っつーか、素直っつーか。身体形成できんだろ? ツラ変えたら?」

 

……容赦ねーな。

でも事実だから仕方ねーよなハハハハハ。

地味に凹みつつ、さほどダメージがないのは、言っている本人達に悪気がないのと、腹一杯で頭がさほど働いていないせいだろう。

 

親方を筆頭とした作業員達の話は、いろいろな意味でのカルチャーショックが凄まじい。

記憶がないとはいえ、自分の世間の知らなさに愕然とする。

せっかくだからと作業員連中に、モザイク街のあれこれを雑談がてら教えてもらい、さらに時間が経過して、俺の話題に移った。

 

「兄ちゃんの事情はさっき聞いたけどよ、もうやる事ぁ一つしかねーんだよな」

 

親方はあれから相当に酒を飲んでいるが、酔っている様子が全くない。

他の連中は、さすがに顔を赤くしていたり、テーブルに突っ伏して寝ている奴もいる。

 

「体調も整えた。戦う準備も済ませた。後は覚悟を決めるだけだ」

「それが難しいんだけどなー」

 

俺の隣に座る男が、顔を真っ赤にしてフラフラになりながら話に入ってくる。

 

「わかるぜー。俺、天罰の時の事故で高所恐怖症の気があってな、高いビル上る時は未だにガクブルしてんだけどよー、でも上らねーと仕事できねーしー、金も稼げねーしー、でもやっぱりおっかねぇしーで、マジ悩んだよ」

 

天罰。

空中に浮かぶ強大な都市国家『天獄』による襲撃の事。

地上に生きる存在にとっては災厄としか言いようがない現象だが、法に守られないモザイク街の住人にとってはそれが顕著である。

それに遭遇し、生き残った男の話を黙って聞き続けた。

 

「だけど俺ぁ、夢があるんだ。その夢を叶えるためには働くしかない。だから、逃げるっていう選択肢は捨てる事にした」

「夢」

「おーよ!」

 

男は大きく頷き、胸を張る。

未来を語る事はPT法で禁止されている。

だが、ここはモザイク街だ。法で守られない代わりに、全ての自由が存在する。

男の顔は真っ赤で、体は危なっかしげに揺れているが、でもその表情は今まで見た事がないくらい精気に満ち溢れたものだった。

 

「俺は結婚して、親方のような家族を持ちてーんだ。俺、家族ってーのを知らんから本当に憧れてんだよ。立派に一人立ちして、嫁さんもらって、子供育ててさ。面倒くせー事も、全部うっちゃりたい事もいっぱいあるだろうけど、明るく賑やかな家族を持ちてーんだ。その為には働いて稼がなきゃお話にならねーだろ? 俺はその夢、絶対叶えたいから腹を括る事にしたんだよ」

 

…………。

他人の未来の話を、夢の話を聞くことになろうとは。

過去も今もこれからも、仲間と決して話す事のない未来の話。

だが将来を、未来を語る人間の、恥ずかしくも活き活きとした姿はどうだ。

柄にもなく軽く感動した。

だが、俺に煙草を奨めた男は呆れ果てたような表情で男を見る。

 

「そんな事を大声で言う奴がいるか、恥ずかしいヤツめ」

「るせーわ! んなことより、未だに取り繕おうとする、この兄ちゃんを何とかしてやれよ! 後もう一押しなんだよ!」

「あーわかった。わかったから」

 

酔っ払い特有の声のでかさで、寝ていた同僚は慌てて飛び起き、店内の客の視線が一気に俺達に集中する。

ああ、これはまた相当にキツイ状況だ。

だが、俺達にお構いなく、男のテンションはフルスロットルで頂点を極めようとしている。

 

「ぉぉおおお! 結婚してえええええ!」

「お客さん、うるさいよ!」

「さーせん、マジさーせん!」

「おら、外に出ようぜ。頭冷やそうぜ」

「大丈夫、大丈夫だって! 俺はいつでもクールだぜ!」

「酔っ払いは皆そう言うんだよ」

 

悪い酒だなあ。こういう時は、自分が下戸で良かったと心から思う。

親方を除いた他の同僚が、男を宥めすかしながら店から退場。

親方は溜め息をついた。

 

「まあ、あれは相当に恥ずかしくも迷惑な例ではあるが」

 

前置きし、親方は金属製の煙草ケースをポケットから取り出して煙草に火をつける。

 

「兄ちゃんは何か将来とか考えてんのか? やっぱ、刑期ゼロにして自由になりてえって思ってんのか?」

「もちろん思ってるよ」

「じゃあ、なんで自由になりてえんだ?」

「それは」

 

自由になりたい。

願いはそれだけ。

それだけのはずだった。

今は願いがもう一つだけ増えている。

だが、言葉に出すとえらく陳腐で軽く思える上に、ついでに言えば恥ずかしい。

言いよどむ俺に、親方は紫煙を吐き出す。

 

「思っているだけじゃダメなんだよ。特に兄ちゃんみたいな人間は、ちょっと転んだ程度でそれがブレちまう。実際そうなんだろ?」

 

図星である。

 

「人間、自分が思っているほど思いに対して客観視も覚悟もできちゃいねえ。だからこそ言葉にして形にして人に伝える事で、自分の気持ちを固める必要があるんだよ」

 

そう言って、親方は酒をあおった。

俺は神妙な気持ちで、自分の心の奥底を見つめる。

これは、俺にとっては芯になる大黒柱だった。

今は酷く揺らぎ、倒壊しかかっているが、辛うじて立ち続けているそれ。

それを晒す事は、臆病で小心な俺にはひどく勇気のいるものだ。

だが、それでも──。

 

「自由になりたい。願いはそれだけだったよ。でも今はもう一つ増えた。こちらの方が優先度は高い」

 

セルジオの時と同じように、震える声でそれを言葉にする。

だが、あの時とは違っていた。

木っ端微塵に砕け散るのではく、強いだけで酷く揺らいでいたモノが急激に形作られる。

 

「自由になりたい。その為に変わりたい」

「何を?」

「俺自身を」

 

刑期をゼロにしたところで、本当の意味での自由は得られない。

それは、頭の出来が残念な俺でもわかる。

そして、この世界の状態がおかしいということもわかる。

でも世界は変わるまい。少なくとも、個人の力だけでは決して変わるまい。

ならば、俺が変わるしかないのだ。

理不尽と停滞と絶望に彩られた世界そのものに押し潰されないためにも、今よりも強く、賢く、速く、しなやかに、もっともっと図太くなりたい。

叶えたい夢があるのだ。

その夢を叶えるために俺は自由になりたいし、その為に俺自身が変わる必要がある。

そこまで話すと、親方は煙草をくゆらせて笑った。

 

「兄ちゃんの夢って何だ?」

「やっぱ言わなきゃダメっすか」

「ダメっす」

 

うーわー。恥ずかしすぎるだろ。

 

「男だったら夢の七つや八つ、現実的なものから荒唐無稽なものまで選り取り見取り持ってても恥ずかしくねーだろ。つーか、恥ずかしがるほどご高尚なたまか」

 

この調子じゃ言わなきゃダメなんだろうな。

幸い、親方一人である。この人だけだったら、まあいいか。

頭をかきつつ口を開いた。

 

「本当にたいした事じゃないけど……外に出たいんだよ」

「外?」

「ああ、モザイク街の外。俺は過去の記憶が一切ないから、この世界の事を何も知らない。だからモザイク街の外がどんな世界なのか、この世界がどんな風になっているのか、自分の目で見てみたいんだよ」

 

ボランティアで行く砂漠の、さらにその向こうがどうなっているのか。

茫漠とした死の世界が広がり、絶望と停滞だけしか残されていないのか。

それとも、何かしらの希望がその中に紛れているのか。

他のPTはどうなっているのか。場所によってモザイク街の在り様は違うのか。どんな人たちが住んでいるのか。

実際にこの目で見て、確かめたいのだ。

その道すがら、超古代の遺構が残っていたら、すごく嬉しいんだけどな。

そこまで話すと親方は笑い、煙草を灰皿にもみ消した。

 

「またガキっぽい夢だな」

「だから言いたくなかったんだよ」

「だが、良い夢じゃねえか」

「……あざす。でも」

「そうだな。今のままじゃ、本当に夢のままで終わりだな。じゃあ兄ちゃん、どうするよ?」

 

尋ねているが、これは確認だ。

答えは既に出ているのだから。

恐ろしく遠回りになったが、だからこそこの答えを自分で出す事ができる。

俺は大きく溜め息をつき、そして笑った。

 

「本当に怖いし、しんどいし、ロストしたくないけど、戦うしかねーんだよな」

 

自由も夢も、ここに逃げ込んでしまえばすぐにでも叶うだろう。

しかし、逃げ込んだところで俺も世界も変わらない。そして弱いままの俺は、遠からず世界に押し潰されてしまうに違いない。

そうならないためには変わるしかなく、変わるためには戦うしかない。戦い続けるしかない。

今も逃げ出そうとしている自分がいる事も確かだが、それも含めて、静かな気持ちで受け入れていた。

 

「まあ、しかしあれっスね」

「ん?」

「恥ずかしいな。つーか、臭せぇなあ」

「ガキが何スカそうとしてんだか、万年早えよ。おばちゃん、勘定だ」

 

お言葉に甘えて勘定を親方にまかせ、俺たちは外に出た。

初めてこの近辺に来た奴を一人で歩かせるのは危険だからと、親方が途中まで送ってくれる事になった。

もちろん、アクセサリもその後をついてくる。

ゆっくり階段を登りながら、親方に声をかけた。

 

「他の人たちは大丈夫なんスか?」

「いつもの事だ、気にすんな」

 

あれがいつもの事なのか。モザイク街の住人、半端ねえな。

 

「しかし兄ちゃん、記憶喪失って話だが、記憶を取り戻したいとは思わねえのか?」

 

親方の台詞は、俺が記憶をなくしたと知ると大概の奴は聞いてくる。

だから俺は肩をすくめた。

 

「俺はどうも記憶の定着が悪いらしくて、何度も記憶なくしているらしいんだよ。過去の手がかりになるものも一切持っていないし、身一つのせいか、執着もあまりなくてな」

「だが、PTにもここにも、お前の事を知っている連中ぐらいいるんじゃねえのか」

「このPTで遭遇した事はないな」

 

俺の過去を一番よく知っているウーヴェの話では、どうも俺は一つの場所に留まっているのが非常に苦手だったらしく、仲間とつるむ事もなく、同盟を組んでいるPTへ助っ人として出かける事が多かったそうだ。

今回は何故か一つの場所にとどまり続けているようだが、それまでは何度記憶をなくしても、同じような行動を取っていたという。

昔の俺も、自由になりたいとあがいて無茶をしていたのだろうか。

してたんだろうなー。そうでなかったら、こんなに記憶をなくす事はないと思うんだよ。

バカは死んでも治らないとは言うが、多分本当の事だ。

 

「そうか」

 

親方は神妙な表情で、ひげの生えた顎を撫でた。

俺の話ばかりしているが、この人はどんな人生を送ってきたのだろう。

聞いてみたいと思ったが、そんな時間はなさそうだった。

眼前に現れた比較的広い踊り場に続く階段の向こうに、見慣れた風景が見えていたからだ。

 

「ここまで来れば後は帰れるな」

「ああ」

 

俺は頷き、親方に向かって俺なりに丁寧に頭を下げた。

 

「メシ、美味かったです。本当にありがとうございました」

「いいってよ。また死にそうな面してビルに上ってくるなよ」

 

俺は笑って頷き、そして数歩歩き出したところで、

 

「兄ちゃん」

 

親方が何かを放った。慌ててキャッチすると、金属製の煙草ケースだった。

 

「くれてやる。持ってけ」

「いや、煙草吸わねーし」

「兄ちゃんの事だ。どうせまたヘタれるだろうから、そしたらそいつ見て今日の事思い出せ」

 

材質は恐らく真鍮だろう。

どれだけの時間が経ったのか、表面は傷だらけだが黄金に近い輝きは消え失せていない。

一面には円錐形の塔らしき建物が、そしてもう一面には背景に星が散りばめられたリング状の建物?が彫金されている。

何をモチーフにしているんだろう、これ。

気持ちは本当に嬉しいが親方にとっても大事なものに違いなく、だったら貰うわけにはいかない。

 

「……じゃあ、しばらく借ります。市民になったら返しに行くんで」

「いつになるやらな。期待はしねえよ」

 

その言葉のとおり全く期待していないのは明白だった。

次に外敵の侵攻があった時、俺も親方たちも、生きている保証などどこにもないのだ。

 

「じゃあな。雄々しく生きろよ」

「ありがとうございました。他の人たちにもよろしく伝えて下さい」

 

親方は笑って答え、喧騒渦巻くモザイク街の奥へと戻っていった。

その姿が見えなくなるまで見送り、残ったのは俺と少し距離を置いて見上げるポンコツだけになった。

煙草ケースをジャケットの内ポケットへとしまう。

 

「おい」

 

無表情で佇んでいるアクセサリに声をかける。

 

「今何時だ」

「二十一時七分十三秒です」

 

じゃあ、今日はもう無理だな。

 

「明日、訓練場ってどっか空いているか」

「確認をします。……確認完了。現在、八箇所の訓練場にて空きがあります」

「一番早い時間は」

「朝十時に第一階層の訓練場が一つ空いています。リザーブしますか」

「頼む。それと、ウィルオードライブも用意しておいてくれ」

「了解しました」

 

恐怖も迷いも未だ胸の中に燻っているが、俺は目の前の階段を登り始める。

俺のあるべき日常へたどり着くのに、そう時間はかからなかった。

 




ここまでお読みいただきましてありがとうございます!
第七情報位階権限取得考試のお話は次でラストです。
もう少し、この見掛け倒しな咎人のお話に付き合っていただけましたら幸いです。

それではまた。

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