神薙の軌跡   作:檜山アキラ

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 気付いたときには、私は真っ白な霧の中にいた。
 クラスメイトが作った夕食に舌鼓を打った後、自室で予復習を済ませて、シャワーを浴びて……それからすぐにベッドに潜り込んで、眠りに就いたはずだった。
 なのに、どうしてこんな所にいるのか、さっぱり分からなかった。
 暫くの間、果てなく続く霧の中を漂ってみると、ほんの少しだけ、霧が薄らいだように感じられた。
 真っ白に染まっていた視界に色が宿る。霧の白とは少し違う白。それを基調とした光景の中に、薄紫や碧といった色合いが混ざり、見る者に落ち着きを感じさせてくれた。
 ……どこかの部屋、かしら?
 徐々に鮮明になっていく視界が室内の様子を捉えていく。
 清潔感が保たれた寝具や調度品など、そのどれもが一級品であると感じられる。
豪奢、とまではいかないが、それでも並々ならぬ気品を感じ、どこかの貴族の館の一室なのではないかと考えられた。
 けど私は、ここを知らない。
 そこでようやくこれは夢なんだと思い至った。
 きっと雑誌か何かで見た写真の光景が深層意識に残っていて、こうして夢に現れたんじゃないかと思う。
 そんなことを考えていると、突如、視界が明滅し始めた。
 何なのこれ!?
 突然のことに訳も分からず、抗う術もなく、私は明滅が収まるのを待ち続けていた。
 それは一瞬だったのか、あるいは長時間にも及んだのかは判断が付かなかったけど、明滅が収まった頃には明確な変化が訪れていた。
 場所は先程と同じ部屋だと思う。
しかしさっきとは明らかに異なるものがあった。目の前に1人の男が現れていたのだ。
 その男を見上げる形で、私はベッドに腰掛けていた。
 彼には見覚えがあった。
 今の彼より幼く、少年らしさが残っていたが、間違いない。
 レイル・クラウザー。
 トールズ士官学院1年Ⅶ組。先月末の入学式で出会ったクラスメイト。
 その彼がこちらを沈痛な面持ちで見ている。純度の高い金耀石を思わせる瞳に、今は翳りを帯びている。
 何故?
 疑問を浮かべてみても、答えはどこにもなかった。
 今がどういった状況なのかを把握するため、周りを窺おうとしたけど、視界は正面に立つレイルを見上げたまま動いてはくれなかった。
 夢だから仕方のないこと、かしら?
 などと諦めていると、徐々に視界がぼやけていく。
 これは霧じゃなくて……涙?
 気付いたときには胸の奥が苦しくなってくる。
『――ねぇ、どうしてお父さんが――属なん――なっちゃた――』
 何故自分が涙を浮かべているのか疑問に思っていると、自分が意図せず喋っているかの様な感覚に襲われた。
 耳に届く途切れ途切れの声は自分のものではない。それでいて自分の声帯が震えているという奇妙な感覚に襲われながらも、私はあることに気付いた。
 この声、もしかして……エミナ?
 耳に覚えのある声よりも幾段か低く感じられたけど、間違いない、と思う。
 そしてその声は、何かに対して憤りや悲しみ、その他にも様々な感情がごちゃ混ぜになったかのようなものに感じられた。
『諦め――ようやく会え――まだお前の――親父さんが――属だと――わけじゃない』
 すると今度は目の前のレイルが口を開く。
 彼の声も所々がよく聞き取れず、何を言っているのかは分からなかったけど、その表情や声音から相手を慮っていることは理解出来た。
 そして、その相手は……エミナ。
 ……これは、もしかして、エミナの記憶?
 何故そんなものを見ているのか、分からない。
 分からないだらけの状況に、ますます頭が混乱してくる。
すると急に、目線が高くなり、レイルの顔が至近に迫る。
ち、近い!
異性の顔が間近に迫ったことで一瞬ドキッとしたが、それも束の間、私は身を焦がすような怒り――いや、憎しみと呼んでいい感情が湧き上がってくるのを感じた。
『――私に、お父さんを殺せって言うの!!?』
 説明出来ない感情。そしてエミナが発した言葉の衝撃に翻弄される中、私は目の前の彼の表情をしっかりと捉えていた。
 その表情に浮かび上がった感情は、恐らく、悲しみと――怒り。
『――ならお前は、このまま何が本当なのかも見極めないままでいるつもりなのか?』



副委員長の悩み

<4月17日 近郊都市トリスタ>

 

「ん~~、風が気持ち良いわねぇ」

 目の前のサラが肌を撫でる風を受けて、全身を伸ばして気持ち良さそうな声を漏らした。

 放課後。

 エミナとレイルは彼女に呼び出され、誰もいない屋上へと連れて来られた。

「それでサラ姐、話ってのは?」

「呼び方」

「……サラ教官、お話とは?」

 呼び方が私的なものになっていたことを指摘され、エミナは渋々呼び方と、ついでに口調を改めた。

「まあ、察しは付いているとは思うけど――特別実習についてよ」

 そう言ってサラがエミナとレイルにそれぞれ封筒を差し出してきた。

 それを受け取り、サラの視線に促され中身を検める。

 中に入っていたのはどちらも同じもののようで、来週より実施される特別実習についての内容だった。

 実習が行われる場所や班構成、注意事項などが纏められた用紙にさっと目を通していく。

「予定通り、特別実習は2班に分かれて行わせて貰うわ。そしてあんた達は」

「それぞれの班に分かれて、か」

 レイルの確認にサラは静かに頷いた。

 ――ようやく始まるのね。

 エミナ達がトールズにやってきた目的を果たすための一歩がようやく動き出すことになる。

「あんた達なら大丈夫でしょうけど……よろしく頼んだわよ?」

「ああ、任せてくれ」

「大船に乗ったつもりでいてよね」

 かつて、幾度となく似たようなやり取りを交わしていたのを思い出し、エミナは思わず笑みを溢していた。

 どうやらレイルとサラも同様に笑みを浮かべている。その光景がエミナには嬉しくてたまらなかった。

「それじゃ、仕事が残ってるから先に行くわね」

 そう言ってサラは足早に屋上を後にした。

「……ようやく、だな」

「そうね」

 2人で柵に寄り掛かり、手元の資料へと再度視線を落とす。

 エミナが振り分けられたのはB班。指定された実習地はパルム市。

 そこはサザーラント州南部に位置する紡績業で栄えた町で、現在、最もリベール王国との国境に近いとされている場所である。

「あそこかぁ」

 以前にも訪れたことのある町であったため、エミナはかつての町の様子を思い浮かべる。

 だが、昔と今とでは彼の町に対する印象が異なっていた。

 あの村を知ってしまった今では……

「レイルはケルディックかぁ……女将さん達、元気にしてるかな」

 気持ちが暗くなっていきそうになったので、エミナは慌てて思考を別のものへと移した。

 レイルが振り分けられたA班の実習地は東部クロイツェン州の大穀倉地帯の中心に位置する交易都市である。大陸横断鉄道の中継駅もあり、毎週開かれる大市では国内外を問わず様々な品が取引される。長閑な情景の中にある活気溢れる大市は、帝国時報などでもよく取り上げられる程の人気を博している。

 そこでお世話になった宿酒場の女将達を思い浮かべ、気持ちを切り替える。

「最後に会ったのが、もう2年近く前になるのか」

 レイルが言って、笑みを溢す。

 それはきっと、この2年の回顧によるものだ。

 エミナもそれに同調し、帝国を離れてからの日々を思い返した。

 ――色々あったなぁ……

 掛け替えのない出会いもあれば、心が張り裂けそうになる別れも経験した。

 楽しいことも辛いことも沢山あったが、共通していることが1つ。

 ――いつも、傍にいてくれたよね。

 隣にいる彼へと視線を向ける。

 そよ風を受け気持ちよさそうに目を細め、眼下の町並みを眺めるレイルがその視線に気付き、優しい声音で問い掛けてくる。

「どうかしたのか?」

「……うんん。何でもない」

 満面の笑みを返すと、レイルはそうかと静かに微笑を浮かべるだけだった。

 静寂。

 けど、それは嫌な雰囲気ではない。

 言葉を交わさずとも安らぎを感じられる、この雰囲気がエミナのお気に入りでもある。

 それはレイルも同じだとエミナは確信している。

 レイルが浮かべる穏やかな表情がその証である。

「平和、だな」

「ねー」

 時折発せられる言葉は他愛もなく、そして手短に。

 緩やかで穏やかな時間が2人を包み込む。

 たまに、春風に運ばれてクラブ活動に励む学院生の声や町の賑わいが微かに届いてくるが、それが余計にこの屋上を2人だけの世界にしているように錯覚する。

「ねぇ、レイル?」

 ふと、エミナは隣に立つ彼へと呼び掛ける。

「どうした?」

 レイルがこちらへ振り向く。

 そのタイミングを見計らい、エミナは彼との距離をゼロにする。

 少しの間だけ背伸びして、触れるだけの口付けを交わす。

「えへへっ」

 ステップを踏んで距離を開ける。そして、きょとんとしたレイルに向けて悪戯っぽい笑みを浮かべてみせる。

「……珍しいな。こんな場所でエミナからしてくるなんて」

 確かにレイルの言う通り、人目に付きそうな場所でエミナがこの手の行為を実行するのは滅多にないことであった。

 しかし、この2人だけの時間がエミナにはとても愛おしく感じられ、感極まった末、衝動に駆られてしまったのである。

「たまには良いかなって……さてと、そろそろ夕飯の買い出しをして帰らないとね」

「なら一緒に行くか。どうせなら、放課後デートと洒落込むとしようぜ」

「……たまにはそういうのも良いわね。その代わり、ちゃんとリードしてよね?」

 大半が見知った人の中でデートというのは、エミナにとってかなり難易度の高いものだったが、いつまでも恥ずかしがっているわけにもいかず、少しの逡巡の後、エミナはレイルからの誘いを承諾した。

 楽しげに会話を交わしながら、屋上を後にしようとした時、エミナの聴覚に聞きなれた声が微かにだが届いてきた。

 レイルの様子を窺うと、彼にも聞こえていたらしく、2人で顔を見合わせてから、声がした方へと近付いていく。

 本校舎と学生会館の間。そこを上から窺い見ると、予想通り、リューネとリィンがいた。すると2人に近寄ってくる深緑色の制服を纏った男子が現れた。

 男子生徒が2人に声を掛けたようで、2人が男子生徒へと振り向いた。

 詳しい会話内容までは聞き取れないが、様子からして別段変わった様子という感じではなかった。

 一瞬、変な生徒に絡まれているのではと不安が過ぎっていたが、特に問題がなさそうで安堵の息を漏らした。

 ――それにしても……

「あの子が私達以外の誰かと2人で行動するなんてね」

 正直、意外だった。

 入学してから今まで、リューネはエミナとレイル、そしてフィーにべったりといった感じだった。

 それ故に、自分達以外の誰かと2人で、というのは見たことがなかったからだ。

「……俺達が過保護になり過ぎていたのかもな」

 レイルがそっと呟く。

 それを受けて、エミナはリューネと出会ってからのことを思い出してみた。

 ――あぁ、確かに。

 言われてみれば、自分達のリューネに対する行動は過保護以外の何ものでもなかった。

 それゆえに、自分達にべったりなリューネになってしまったと考えられる。

「だったら、これは良い傾向なのかもね」

「けど、お姉ちゃんとしては複雑?」

「……お兄ちゃんとしてはどうなのよ?」

「……多分、一緒だ」

 レイルが肩を竦めて苦笑する。

 2人揃って、妹離れは当分先のようであった。

 

 

「そういえば、聞きそびれてたんだけど……旧校舎の件、どうだったの?」

「あぁ。教会の情報通りだった」

 エミナの前を行くレイルが階段の半ばで立ち止まり、こちらを仰ぎ見るように振り返った。

 その表情は真剣なもので、あの情報に間違いがなかったのだと如実に語っていた。

「けど、あのダンジョン区画にはそれらしいのはなかった、よね?」

「そこが引っ掛かってんだよな。それに、感じられた力が微弱過ぎたのもあるし……あの旧校舎、まだまだ謎が隠されていると見て間違いないだろうな」

「そっか……」

 探し物の手掛かりを見つけ、1歩近付いたと思えばまた壁が立ち塞がる。

「ここのを含めれば、所在不明は残り5本、か」

「そうだな。早いこと見つけてしまわないとな……それに」

「現地にいる調査員……まだ接触出来てないもんね」

「あぁ、その人からも情報を得られたら良いんだけど、ケビン曰く何らかの重要任務の最中らしいからな」

「向こうがタイミングを見て接触を図ってくるまで、独自で調査するしかないわけね……」

 だな、とレイルが肩を竦めて、歩みを再開させる。

 それを追うようにエミナは続き、彼の横へと並ぶ。

 エミナの姿を横目で確認したレイルが、ふと――この話題はこれで終わりと言いように――話題を変えてきた。

「ところで……良かったのか?」

「? 良かったのかって、何が?」

 レイルの問い掛けが何を指しているか分からず、エミナは首を傾げたまま立ち止まった。

 するとレイルはエミナの数段先で振り返り、何の躊躇いもなく、エミナにとっての爆弾を投げつけてきた。

「キスしたときだけど、校門辺りでこっちを見てた生徒がいたん――」

 レイルが言い終わる前。

 落下速度も加えた渾身の右ストレートが彼の左頬を捉えた。

 

 

 翌日。

 暖かな日差しの中、キルシェのオープンテラスでマキアスは全ての怒りを眉間に集約させたかのように皴を寄せていた。

 初の自由行動日である本日。マキアスは丸1日を自習に使おうと計画していた。朝一から学院の図書館に籠もり、勉学に精を出そうと決めていたのである。

 しかし、図書館に辿り着いたとき、あろうことか先客がいたのである。

 ただの先客ならば、その相手も勉強熱心なのだと思うぐらいだっただろうが、その先客というのが彼にとっての天敵とも呼べる存在だった。

 ユーシス・アルバレア。

 マキアスより少し前に寮を出て行くのを見掛けてはいたが、まさか自分と同じ場所に向かっていたとは露にも思わなかったのである。

 入り口で立ち止まっているマキアスに気付いたのか、ユーシスが手元から視線を上げて、マキアスを一瞥。

「……フン」

 静かに、しかし確かに聞こえてきた。

 ――は、鼻で笑った!?

 ユーシスはその後、何もなかったのかのように手元の本へと意識を戻していた。

マキアスから見て、ユーシスの態度はひどく鬱陶しそうなものに感じられ、それが彼の心を荒立たせる。

一言文句を言ってやろうと肩を怒らせるが、直後に司書のキャロルの咳払いが聞こえてきて、自分が今居る場所を思い出した。

――以前も注意を受けてしまっていたな。

 数日前にも図書館でユーシスと鉢合わせしたときには、口論ともつかない言い合いになってしまい、キャロルからお叱りを受けていたのである。

「くっ……」

 予定を変更するのは非常に癪ではあったが、ユーシスがこの場から動こうとする気配がないので、マキアスは手早く目当ての参考書等の貸し出し手続きを済ませ、図書館を後にしたのだった。

 そして他に自習出来そうな場所を探して辿り着いたのがキルシェである。

 マスターのフレッドが淹れた特製の焙煎コーヒーを口にし、一先ずは先程までの怒りを静めることにした。

 その間は、メインストリートを行きかう人々の様子を眺めていた。

 自由行動日ということもあって、町はいつも以上の賑わいを見せている。

 ――普段なら学院生は授業を受けている時間だもんな。

 商店街でショッピングに興じる者もいれば、友人達との語らいに華を咲かせている者もいる。その中に見知った顔を見つけた。

 リィンとリューネだ。

 2人は何か荷物を抱えて、町中を行き来している様子だった。

 徐々に抱えていた荷物の量が減っているところを見ると、届け物をしているのだと推測出来た。

 ――そう言えば、今日は生徒会の手伝いをすると言っていたな。

 詳しい経緯は知らないが、ご苦労なことだとマキアスは感心した。

「……………………」

 各々が好き好きに今日という日を満喫している。

 それを傍らで眺めているマキアスの心中に、ふと暗い気持ちが過ぎった。

 ――こんな日に1人で自習しているなんて、僕はもしかして……

 思考が最後に行き着く前に頭を振って、暗い考えを振り払う。

「勉学こそ学生の本分だもんな」

 自分に言い聞かせるかの様にマキアスは呟いた。

「さて、そろそろ始めるとするか」

 旨いコーヒーを飲んだことで、怒りは既に静まっていた。

 マキアスは借りてきた参考書を開き、本日のノルマを消化していく。

 途中、お昼時になったので、昼食にピザとコーヒーのお代わりを注文し、休憩を挟んだ。そして、更に2時間程が経過した頃、本日予定していた分の自習が終了したのであった。

「随分と捗ったな。まだ時間は十分あるし、このまま続けるか」

 入学試験を主席で通過したエマに負けていられない、という対抗心もあり、彼の勉学に対する意欲は衰えることがなかった。

「熱心なのは良いけど、たまには息抜きも必要じゃない?」

 次のページを捲ろうとしたところで、背後から声が掛かる。

 背もたれ越しに声の主を確認すると、紙袋を小脇に抱え朱の髪を揺らす女子生徒がいた。

「エミナ君か」

「やっほ。同席しても良いかしら?」

 屈託のない笑顔でそう尋ねてくるエミナに、マキアスは一瞬口ごもったが、彼女に席を勧めた。

 

 

「しかし、本当に良いのかい?」

 店内で紅茶を注文し、それを受け取ってオープンテラスに戻ってきたエミナを出迎えたのは、マキアスのそんな質問だった。

「? どういうこと?」

 質問の意図がはっきりせず、エミナは聞き返した。

 すると、マキアスは言いにくそうに口をまごつかせると、絞り出すかの様な声を発してきた。

「……その、なんだ……君とレイルは、付き合っているのだろう? それなのに」

「他の男と2人きりで良いのか、ってこと?」

 マキアスが言い切る前にエミナが確認すると、彼は静かに頷いた。

「っぷ!」

 その様子を見て、エミナは思わず噴き出してしまった。本来であれば、レイルとの関係を指摘されたりすれば、顔を紅潮させ照れてしまうのだが、今はそれ以上にマキアスの態度に笑いが込み上げてきてしまったのだ。

「ちょ、何も笑うことはないだろう!?」

 マキアスの発言はこちらを気遣ってのことなので、笑うのは失礼だと思うのだが、それでも笑いを堪えるのは難しかった。

「――ッ、ごめんごめん。けど、マキアスってお堅いわね~」

「……それは、どういう意味かな?」

 マキアスの表情がムスッと不機嫌の色を帯びる。気遣いの発言を笑われた上に、自分の性分を茶化されているかの様に言われ、彼が気分を害さないわけがない。それが分かった上で、あえてエミナは言葉を続けた。

「だって、付き合っている人間が全員マキアスみたいな考えだと、世の中窮屈じゃない?」

「そ、それは……そうかもしれないが」

「もちろん、マキアスの言うことも理解出来るし、浮気は良くないわ。それに、その関係が築き上げる“2人の世界”はとても居心地が良いかもしれない」

 けど、とエミナは続けた。

「それは凄く限定的で閉塞された関係でしょ? 折角色んな人と出会っても、その籠の中に篭っていたら勿体無いじゃない」

「……なら君は、レイルが他の女性と一緒にいても」

「嫉妬は、するかもね。けど、心配はしないわよ?」

 エミナが即答すると、マキアスが良く分からないという風に首を傾げた。彼の疑問を解消するために、エミナはその問いに答えた。

「私にだって独占欲はあるわよ。けど、レイルの心が私から離れる心配はしてないの」

「それは、どうして……?」

「信じているから。ただ、それだけよ。……あ、もちろん、レイルに嫌われないように日々の努力は怠っていないわよ?」

「――!? き、君って人は」

 エミナが静かに、しかしはっきりと告げると、マキアスが顔を赤らめてエミナから背けてしまった。

「どうしたの?」

「き、気付いていないのか!?」

「だから何が?」

「ッ、今の凄い惚気だったぞ」

 マキアスに指摘され、エミナは先程までの会話内容を思い返した。

「――ッ!!?」

 エミナは勢い良くテーブルに顔をうつ伏せた。

顔が熱い。焼けるように熱い。恥ずかしすぎて焼け焦げそうだ。

 ――わ、私ってばなんてことを!

 普段のエミナなら、恥ずかしさのあまり、ここまでのことを言うことは出来ないはずだったが、今は何故か意識せずに自分の気持ちを口にすることが出来ていた。

 その後に羞恥に身を焼かれそうになってはいたが、この半月程の学院生活や以前のお茶会の影響で、エミナの羞恥心ないし心の箍が緩くなってきているようであった。

 ――まぁ、良い傾向と思いましょうか……

 ことあるごとに照れ過ぎるのは、付き合っているレイルにも申し訳ないと感じていたので、自身の変化を良いように捉えることにした。

「……コホン。ところで、その紙袋は?」

 マキアスがあからさまに話題を変えてきた。それは今のエミナにとっても有り難かったので、素直に乗っかることにする。

「さっきケインズ書房で買ってきた本よ」

 そう言ってエミナは中身を取り出して、マキアスに差し出す。

「これは……導力技術の本?」

「そ。今日から技術部に入部したから、その手の知識はしっかり押さえておこうと思って」

「技術部? 君が?」

 マキアスが目を剥いて驚いていたので、エミナは苦笑を溢した。

「そんなに意外かな? あぁ、でも、部長には泣いて喜ばれたわね」

 エミナは先程、入部届けを出しに行ったときのことを思い出した。

 技術部は現在、入学式の日に正門で会ったジョルジュのみが活動しているとのことで、入部希望者は大歓迎とのことだったのである。彼意外にも部員はいるらしいのだが、総じて幽霊部員と化しているとのことだった。

「そう言うマキアスは、部活は決めたの?」

「ああ。第二チェス部に入ろうと思っている」

「第二? ってことは第一もあるの?」

「そうだ。第二は平民生徒のみが、そして第一は貴族生徒のみが所属しているんだ」

 そう言うマキアスの顔が苦々しいものに変わった。

「部長のステファン先輩に聞いたところ、第二チェス部はいつも第一チェス部に苦渋を呑まされているらしい」

 それを聞き、エミナは思わず苦笑いを浮かべていた。

 ――こんなところにも貴族と平民の対立の構図があるなんてね……

 貴族平民両方が集うトールズならでは、ということだろう。それを両派の対立が根強いものと捉えるか微笑ましいものとするかは悩みどころだとエミナは感じた。

「ってことは、もしかしなくてもその第一チェス部に一泡吹かせてやろう、とか考えてたり」

「……元々チェスを嗜んでいたのもあるが、貴族生徒の鼻を明かすには丁度良いと思ったのは否定しない」

「相変わらず、貴族に対しての敵対心は凄まじいの一言ね。けど、Ⅶ組の副委員長として、もう少しクラスの雰囲気に気を遣って欲しいわね」

 エミナが言外にユーシスとの険悪な雰囲気について釘を刺すと、マキアスが申し訳なさそうにした。

 この半月、マキアスとユーシスは毎日の様に衝突を繰り返していた。殴り合いのケンカにならない様に、エミナやレイルを筆頭にクラスの面々で仲裁を心掛けているが、それでも2人が同じ場にいるだけで、場の空気は張り詰めたものになってしまう。

 マキアスもそれが分かっているみたいだが、それでもユーシスとの関係を改善させようとは思えない様である。

 何故彼の心をこうまで頑なにしているのかがエミナには分からなかった。

 ――革新派であるレーグニッツ帝都知事閣下の息子、ってだけが原因じゃないんでしょうけどね……

 気は引けたが、彼のこともミュヒトに頼んで調べてもらうことにして、今は少しでもクラスの雰囲気改善に出来ることをしておこうと決めた。

「マキアス。これ、何だか分かる?」

 

 

「む……?」

 マキアスは眼前に突き出されたものを見て、顔を顰めた。

 それは先程エミナから見せてもらった導力技術の本だ。

 彼女はそれを突き出し、これが何だか分かるかと問うてきた。普通に考えるならば『本』と答えればそれで良いのだろうが、わざわざそれを問い掛ける意味がマキアスには理解出来なかった。

 しかし、いつまでも無言でいるわけにはいかなかったので、見たままを答えた。

「どこからどう見ても本だろう」

「そう……じゃあ、こっちに来てくれる?」

「?」

 訳が分からなかったが、エミナに促されるまま、彼女の傍へと移動する。

「あ……」

 すると、彼女に突き出された本の裏側――エミナの側からすれば手前に、ティーカップが掲げられていたのに気が付く。

「エミナ君、流石にそれは反則じゃないのか?」

「くすっ……そうね。私もやられたときにはそう思ったわ」

 どうやら彼女もこの反則めいた問い掛けに引っ掛かった口らしい。

「それでもここにこの2つが存在することに変わりはない」

「え?」

 唐突にエミナが口を開き、真剣な表情で語り始めた。

「世界にとっての事実は常に1つ。けれど、それをどう解釈するかは、君の立ち位置や価値観などによって左右される」

「それは、一体……?」

 マキアスが問うと、エミナは遠く眺め、まるで何かを懐かしむかの様に口を開いた。

「昔、私にこの問い掛けをした人の言葉よ。自分にとっての真実は自分によって作り上げられる、って話。小さい頃はいまいち良く分からなかったけど、色んな経験を経た後だと『ああ、なるほどなぁ』って思えるようになったの」

 何故、その話を自分にするのか。マキアスは何となくだが、エミナが言わんとしていることに察しが付いた。

 ――貴族。そして、ユーシス・アルバレアに対する評価は僕自身が作り出しているに過ぎない?

 そんな馬鹿な、と頭を振ってそんな思考を振り払う。

 貴族という存在は、平民を見下し、古ぼけた特権意識にしがみ付く、卑しく傲慢な存在でしかないはずだ。

 その見方が自身の思い込みに過ぎないと言われて、どうして信じることが出来るだろうか。

「……………………」

 マキアスは口を噤み、自問自答を繰り返した。その様子をエミナは静かに見守るだけだったが、エミナがふと立ち上がり言う。

「さっきの言葉だけど、どう解釈するのもマキアスの自由だからね」

 そう言ってエミナは夕飯の買い物をして帰ると、この場を去ろうとした。

「ま、待ってくれ!」

 マキアスは慌てて立ち上がり、エミナを引き止めた。

「その、1つだけ聞かせて貰えないか……君から見て、ユーシス・アルバレアという奴はどんな人間なんだ?」

「そうね……」

 エミナは暫し考えた後、マキアスの目を見据え、柔和な笑みを浮かべて答えた。

「――白鳥よ」

「は……」

 思わぬ答えが返ってきたため、マキアスは呆気に取られた。

 それを気にすることなく、エミナはキルシェを後にした。

 マキアスは彼女の後姿を、ただ呆然として見送った。

 すると、ブランドン商店に向かうと思われた後姿が、左手に転進。士官学院の方角に突然駆け出してしまった。

 その様子も含め、理解不能であり、脳内は混乱を極めた。

「ふう……」

 嘆息と共に腰を下ろす。すると、身体がどっと重くなった様に感じられた。

 目にも疲れが溜まっている様だったので、眼鏡を外して指先で目元を揉み解す。

 ――勉強のし過ぎ、だけではないよな……

 先程の会話が原因だろう。

 今まで積み重ねてきた価値観が揺さぶられる会話は、精神的に疲弊するに十分だった。

「…………」

 彼女の言葉を思い返す。

『世界にとっての事実は常に1つ。けれど、それをどう解釈するかは、君の立ち位置や価値観などによって左右される』

 確かに立ち位置やものの捉え方を変えれば、マキアスの中にある感情も別のものへと変わるのかもしれない。それでもマキアスは、貴族に対する嫌悪を――いや、怒りを捨てることは出来なかった。

「…………姉さん…………」

 空を仰ぎ、マキアスは1人呟く。

 気付けば空は、茜色に染まり始めていた。

 

 




最近めっきり寒くなりましたね。どうも檜山アキラです。

今回、マキアスメインで描くつもりが、気付けばバカップルのいちゃいちゃが大半を占めていましたというタイトル詐欺まがいになってました。爆発しろ。
けど、後半でマキアスの悩み(というより葛藤?)らしきものを書けたかなぁと思うので許してプリーズ!

いやしかし、今回は難産でした。プロット段階ではもっとマキアスの内面を掘り下げてみようと思ったのでしたが、気付けばこんな形に……それもこれもレイルとエミナがイチャツクせいだー!(人のせい)
まぁ、それはともかく、今回のエミナが語った価値観などは結構賛否が分かれそうなものでハラハラしてます。


◆宰相閣下の次回予告コーナー◆

文学。
それは口伝により伝わる物語が、文字と言う媒介を得て後世に語り継がれるもの。
それはいつしか、空想・幻想・妄想が入り乱れる混沌の巣と化した。
そこで生み出されるのは虚実への羨望か、爛れた妄想か――
そして今日もまた、混沌の巣窟へと足を踏み入れる者が2人。
待ち受けるのは乙女の嗜みと呼ばれる悪魔の囁き。
極地に至るのは、彼か、彼女か……
次回、神薙の軌跡『新世界の扉』!
次回も貴方の心を――オーバーライズゥッ!!



何か嫌な予感しかしませんが、とにかく頑張ります!

あ、今回のラストでエミナが突然駆け出しましたが、行く先は次回で明らかにしますのでお楽しみに。
それでは、次回も楽しみにして頂けるのなら幸いです。

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