学園内はテスト期間の真っただ中にあった。それさえ乗り切れば、学生たちにとっては待ち遠しかった夏休みが待っている。
土曜日で授業が午前中に終わり、午後、寮長室で僕と二木さんは二人でテスト勉強をしていた。何故、寮長室でテスト勉強をしているのかと言うと、以前まで女子寮の寮長であるあーちゃん先輩の手伝いを佳奈多さんと二人でしていたからだった。
「本当に助かるわ。 ありがとう、二人とも」
風紀委員の仕事とは別に、あーちゃん先輩の手伝いも普段から行っているものだ。
そして今回、僕も二木さんと一緒にあーちゃん先輩の手伝いをしていると……
「そういえば、もうすぐ期末テストねぇ。 二人は勉強とか、してる?」
唐突に、あーちゃん先輩が僕たちに問いかけてきた。
書面に筆を走らせていた僕はその作業を一時中断し、答えを返そうとする前に、あーちゃん先輩がすかさず続けた。
「どうせなら、ここで勉強していきなさい」
あーちゃん先輩はニッコリとした笑顔でそう言った。
僕と、そして二木さんでさえ、あーちゃん先輩は敵わない先輩だ。二木さんは少し不満そうな表情だったが、あーちゃん先輩の気持ちも無碍に出来ず、こうして僕たちは手伝いが終わった後も寮長室に残り、テスト対策の勉強をしている。
ちなみに当のあーちゃん先輩は「私はお邪魔みたいだから、ごゆっくり~」と、なんだか変な気遣いをさせてしまったみたいで、僕と二木さんを残して寮長室から出て行ってしまった。
そしてかれこれ三十分、僕たちは無言で、ペンを走らせる音だけを響かせながら、勉強をしていた。
でも、頭が良い二木さんとテスト勉強をすることは、僕にとっては助かっていた。
僕がわからない所を聞くと、二木さんは決まって「なに? こんなのもわからないの?」と相変わらず棘のある返事をくれるのだが、そう言いつつもちゃんと丁寧に教えてくれる部分が、二木さんらしい。
「二木さんは本当に頭がいいね」
褒め言葉のつもりで僕は言うが、二木さんは逆に怪訝な表情を浮かべる。
「…いい、直枝? 人というのは最初から頭がいいわけではないのよ。 しっかりと勉強して、懸命に努力するからこそ、人は必要な知識を得ていくの。 直枝だってちゃんと勉強して努力すれば、すぐに私みたいになれるわ」
「そ、そうかな……」
「努力をしない人間は、その程度の人間なのよ」
相変わらずの容赦ない言葉。だけど、その言葉の真理には、二木さんの隠された過去が垣間見える。
二木さんは家族や親族同士の因縁で、常人には想像できないような努力を重ねてきた。ここに二木さんがいるのは、二木さんの生きる上での努力があったからこそだった。
「私は最初から頭がいいわけじゃない。 陰でちゃんとやってるだけよ」
風紀委員長として、二木の名字を背負う者として、常に上に立つ者でなければならない。
そんな重圧(プレッシャー)が常に彼女にあるのだ。
「そうだね……ごめん、二木さん」
「あなたが謝ることじゃないわ……」
それを最後に、二木さんは黙々とノートにペンを走らせ、教科書にマークを付けていく作業に戻った。僕も、目の前の広げられた問題を前に、ペンを走らせる作業を再開する。
さらに時計の針が進み、二人のテスト勉強は黙々と続けられる。
そんな中、僕はチラリと、ノートに視線を集中させる二木さんの顔を見詰める。
僕は葉留佳さんの言葉を思い出す。
確かに、僕と二木さんは付き合っているが、まだ恋人らしいことはしていないのも事実だった。最近やっと手を繋いだ程度。まだ、キスもしていないという中学生、いや小学生並みの恋愛経験しかない。
急ぐ必要はないのかもしれないけど、妙に葉留佳さんの言葉が引っ掛かる。
自分たちのペースでやればいい、そうは思っていても、僕の心は正直に焦っている。
実際、二木さんに恋人らしいことをしてあげたいのも事実だ。そして僕自身もそれを望んでいる。
二人の男女が個室にいて、ただ黙々とテスト勉強をしているというこの光景は客観的に見れば如何なものだろう。
おかしいことではないかもしれないけど、もし葉留佳さんが見れば、また落胆されるかもしれない。
僕は二木さんの彼氏として、どうすればいいのかな。
そんな風に悩んでいる僕に、二木さんが怪訝に問いかけてくる。
「……どうしたの、直枝?」
二木さんの声に、僕はハッと我に帰る。
「何か思い悩んでいるみたいだったけど、そんなに難しい問題でもあった?」
「い、いや……その…!」
二木さんのことで悩んでいたとは言えないよね。
僕がなんて返そうか迷っていると、二木さんは一瞬悲しげに瞳を細くした。僕は、それを見逃さなかった。
「……?」
「………直枝、ちょっと聞いてもいいかしら」
どうしてだろう、今の二木さんを見ると、どこか違和感を感じる。
まるで別人のように一変して、暗い雰囲気が身に纏う。
「なに?」
二木さんは口を開きかけたが、戸惑うようにぐっと口を紡ぐ。だが、また躊躇気味に開かれ、言おうかどうかを迷っている。
そして、意を決したように、二木さんは口を開いた。
「……葉留佳のこと、なんだけど」
―――葉留佳さんのこと?
二木さんの口から出てきた、葉留佳さんの名前。仲直りして以来、二人は仲の良い姉妹に戻ったみたいだが、今の二木さんの口から出る葉留佳さんの響きは、どこか悲しげだ。
「葉留佳さんが、どうかした?」
僕が聞き返すと、二木さんは少しの間沈黙したが、やがてやっぱり悲しげに口を開く。
「葉留佳、どこか変わった所とか、ある…?」
「変わった所?」
意外な内容だった。葉留佳さんに変わった所があるかなんて、どうしてそんなことを聞くのだろう。
「……いや、特に変わった所は見てないけど」
「本当に?」
「……うん」
詰め寄るように言われると、ちょっとぐらりと揺らぐ。いや、確かに葉留佳さんの変わった所なんて、覚えがない……と、思う。
「どうして? 葉留佳さんに何かあったの?」
僕がそう聞くと、二木さんは珍しく戸惑いがちに返答する。
「……ううん。 直枝がわからないなら、別に構わないわ」
あっさりと、二木さんは首を横に振った。
「え?」
「私の、気のせいかもしれないし」
そう言う二木さんの表情は、相変わらず悲しげだった。
でも、双子の姉妹である二木さんがそう感じているのなら、きっとそうなんじゃないだろうか。僕なんかより、二木さんの方が信頼があるんじゃないかと僕は思うけど……
「……そう、直枝は……まだ、わからないのね」
「?」
どうしてだろう、僕は二木さんの口から意味深なことを聞いた気がした。
「ねえ、直枝……」
「な、なに? 二木さん」
二木さんの口から出る言葉に、既に僕は緊張していた。
今までのこともあって、今度はどんなことを聞かれるのか、言われるのか、最早僕には想像ができなくなっていた。
ただ、これだけはわかる。
いつも棘のある口調、凛々しくも強い眼差しを宿した瞳、凛とした態度、時に見せる彼女の女の子らしさ。
それらの二木さんとはまた別の、どこかで見たことがあるような、悲しげな二木さんが僕の目の前にいた。
「……私は、直枝の恋人よね?」
突然、そんなことを言われた僕の心臓がドクンと、強く脈打った。
悲しげに、どこかのか弱い少女のような甘い、弱々しい声。
そして二木さんのその言葉に、どんな意味があったのか。この時の僕にはまだわかっていなかった。
「……うん。 僕は、二木さんの恋人だよ」
その言葉を返した僕の顔が、熱くなるのを感じる。
そして、目の前の二木さんもまた、ほのかに頬を朱色に染める。
「………………」
僕はやっぱり、二木さんに恋人らしいことをしてあげられていないのではないか。
そして、二木さんはどうしてそんなに悲しそうなのか。
僕や葉留佳さんのことが関わっているのか。
とにかく、せめて今の僕が二木さんにしてあげられることは、これしかないと勝手に思った。
「二木さん、気晴らしに外に出てみない?」
「え…っ?」
僕はある提案をしてみた。二木さんはきょとんとした表情になる。
それもそうだ。テスト期間の真っただ中なのに、外に出ようだなんて。
「明日は日曜日だしね。 こんな気晴らしもいいと思うな」
「で、でも直枝……」
「行こうよ、二木さん」
僕の誘いに、二木さんは戸惑いを隠せなかったが、やがて僕の誘いに乗ってくれた。
「し、仕方ないわね……」
「ありがとう、二木さん」
「……ふん」
照れつつも、了承してくれた二木さんに、僕は感謝する。
そして僕たちはとりあえず目の前にある勉強を再開することにした。二人だけの寮長室には、日が暮れるまで、いつまでも筆が走る音が響いていた。