ゼロの使い魔 〜犬神と少女〜   作:隙人

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九話

生徒たちの姿が消えた広場は元の静寂さを取り戻し、ゆったりとした時間が流れていく。

モロは広場の隅に移動すると、そこに腰をおろし何気なく空を見上げた。青々とした空には煌々と太陽が輝き、風に乗ってゆったりと雲が流れていく。時折、鳥たちが囀りながら飛び行く姿が目に映る。

 

世界は違えど、この空は何の変化もない。

 

そんなことを考えていたモロの耳に草を踏みしだく音が入る。その音はゆっくりとモロに近寄ってくる。音のする方へ視線を動かすと、二人の男女がこちらに向かってきている姿があった。まるで親子、もしかしたら孫と翁ほども年が離れているかと思わせる二人の人間だったが、その姿からはモロに対する警戒心がありありと伝わってくる。

 

その二人はモロの目前で立ち止まる。

 

「お主がミス・ヴァリエールの使い魔じゃな」

 

「ああ。そうだが、お前は何だ?」

 

「儂はここの校長をしとるオスマンじゃよ。さて、先ほどはうちの生徒が失礼なことをした。許してくれ」

 

オスマンと名乗った老人は年相応に体も細く、シワも深く刻まれている。特徴的な白い髭と長い白髪のせいでモロには何処かの仙人のように見えた。

 

「別に気になどしていない。もともとあの小僧に嗾けたのは私だからな」

 

「そうじゃったか…。まあ、それも何か意図があっての事じゃろう?」

 

「さあ、どうだかな」

 

オスマンの問いにモロははぐらかすようにそう答える。その顔にはいつものように不敵な笑みを浮かべながら。

 

「…ところで、お前は覗きの気でもあるのか?私の様子を物陰からこそこそと見ていたようだが」

 

「すまんのう。盗み見るつもりは一切なかったのじゃが、そなたのようなモノを見るのは久しくてのう。年甲斐もなく血が騒ぎおったわ」

 

「どういう意味ですか、オールド・オスマン?」

 

モロの姿をじっと見たまま呆然と立ちすくんでいた女が、ここで漸く口を開いた。

 

「ああ、お主には分からんか。…お主は『神獣』というのを見たことはあるかね?」

 

「い、いえ。これまで生きてきましたが、そんなものはお伽噺の中でしか聞いたことはありません」

 

「そうか、なら良い機会じゃ。今、その『神獣』様が目の前にいらっしゃる」

 

「………は?」

 

オスマンの唐突なその言葉にロングビルは理解が追いつかないでいた。ついに惚けてしまったのかともと思ったが、そのようにも見えない。

 

「本当…なのですか?」

 

「儂が嘘をついているように見えるかの?まあ、信じられんのも仕方なかろう。ただの大きな狼にしかお主には見えまいて」

 

オスマンはロングビルを横目に見ながら微笑みかけ、再びモロへと視線を戻す。

 

「どこぞの神とは存じあげぬが、改めて礼を申し上げまする。貴女様の気まぐれとはいえ儂の生徒を命ある姿で諌めてくれたこと、誠に感謝いたします」

 

オスマンはおずおずとモロに向かって頭を垂れる。

 

「もはや私は神ではない、今となってはただの一匹の山犬に過ぎぬ」

 

「…何やら訳アリのようじゃのう。よければその訳を…」

 

「私が言うと思うか?あまり調子に乗るなよ老爺。残り少ない命を自ら棒に振るうつもりか?」

 

「…いや、やめておこう。誰にでも知られたくはないことの一つや二つあるからのう。失礼なことを聞いた、すまぬ」

 

そういうオスマンの額からは一筋の滴が流れ落ちたのをロングビルは気づいた。

オスマンが狼が神でなくなったその理由を聞こうとした途端、この狼からの溢れんばかりの殺気が二人を襲った。それはロングビルが今まで感じ事がないほど濃密で、重くのしかかる。彼女には「死」そのもののように思えた。それは彼女の体の芯から凍えさせ震え上がらせる。

今こうして立っていられるのも精一杯な彼女とは対照的にオスマンは平然としているように見えた。これにはロングビルも流石としか思えない。だが、その頬に一筋の滴が零れ落ちるのを見て、オールド・オスマンもやはり人の子かと少し安心している自分に気付いた。

オスマンが素直に謝罪をすると、その殺気は少し弱くなったように感じた。だが、彼女の体はまだ震えが収まらない。震えを悟られまいと手足に力を籠め、気合を入れなおす

 

「それでいい。いらぬ詮索は寿命を縮めるだけだ」

 

「左様じゃな」

 

そう言うとオスマンは汗を拭う仕草を見せる。拭うほどの汗をかいてはいないのだが、こうでもしないと落ち着いていられない。

 

「…それで?お前たちは私に一体何の用だ?何も立ち話をしに来たわけではあるまい」

 

「そうじゃった。儂がお主の所へ来たのはお主のその胸のルーンが気になったからじゃよ」

 

「ルーン?…ああ、この文様か」

 

モロは自分の胸に刻まれたルーンに目を落とす。

 

「儂も実物は見るのは初めてじゃが、それは只の使い魔のルーンという訳ではないんじゃ」

 

「ほう」

 

「…それは『リーヴスラシル』のルーンじゃ。かつて我らが始祖ブリミルが使役していた使い魔に刻まれていたものでのう。虚無の使い魔の中でもその力は謎に包まれ、明らかになっておらんのじゃが…」

 

オスマンはさも重要なことの様にモロに言って聞かせる。

ロングビルは驚きのあまり唖然としているのかそれとも理解が追いついていないのか、恐らくは双方であろうが一言も口を挟もうとしない。

 

「だから何だ。私にこの得体のしれないモノが刻まれたからどうした。そんなことを言いに来たわけではないだろう?お前はその得体のしれないルーンが刻まれた得体のしれない獣が、手前の生徒に何かしようとしないか釘を刺しに来たのではないのか?」

 

オスマンの言葉をモロは鼻で笑い。呆れたように吐き捨てる。

 

「…お主には解っておったか。その通りじゃ。これでも教育者の端くれゆえ、預かり受けた子供らの安全を考えるのは当然のこと。もし、お主がそれをべらぼうに扱うような獣であったならば、わしはお主を打ち倒すつもりでここに来た」

 

「…それは、ご苦労なことだ」

 

互いに互いを見据えながら、沈黙の時間が一人と一匹の間に流れる。その間に割って入るものはこの場に誰一人としていない。ましてや、震えを抑えるのに精一杯のロングビルが出来るはずもない。

それを打ち破ったのは他でもない、オスマン自身だ

 

「…じゃが、それも杞憂に終わりそうじゃ。お主はそんな気を起こすような愚か者でないことは重々に分かったからのう」

 

オスマンは息を吐きながら肩を揺すって体をほぐす。若い頃は数々の死線を何度も潜ってきた彼だが、やはり歳なのかこのぐらいの緊張で体の筋肉が強張ってしまっていた。

 

「…そうか。…もう用は済んだか?」

 

「ああ、時間を取らせてすまんかった。ロングビル君、そろそろ引き上げようか」

 

「ええ…そうですね」

 

ロングビルは疲れ切ったような声色で応える。

 

「ではの山犬よ」

 

オスマンはモロに軽く一礼をすると、ロングビルを連れて広場を後にしていく。しばらくはその後ろ姿を見つめていたモロだったが、興味も失せ、また空へと視線を移した。

 

 

老いというのは怖いものだ。少し蹴つまずいただけで骨が折れるほどに体は脆く、脆弱になった。少し歩くだけで心の臓が悲鳴をあげ、早鐘を打ち、息も乱れるほど体力も衰えた。それらの弱点は魔法によって補ってきたが、今のこの身でどこまであの狼と渡り合えるか正直なところ自分にも測りかねていた。

自分が持つ魔術の中で最も威力の高いものをぶつけることが出来れば倒すことはできるやもしれないが、それを唱える隙をあの狼が与えてくれるはずもない。それに、奴に刻まれた『リーヴスラシル』のルーンがどんなものか不明な今は下手に手を出さない方が得策だ。

 

 

あの狼が私の生徒達に危害を加えることはおそらくないとは思える。だが、あやつの全てを信用するほど私も愚かではない。用心に用心を重ねるつもりでかからないといけない。そうでなければあっと言う間に喰われてしまう。

 

「面白い獣を召喚したのう。ヴァリエール君は」

 

「え?何かおっしゃいましたか?」

 

「ん。なに、ただの独り言じゃよ」

 

「そうですか…」

 

オスマンはいつものように笑いかけるが、ロングビルにはその笑みがとても空虚で作り物じみていることに気づいた。それもそうだ。自身が一番よくやっている笑い方にそっくりだったのだから。

それは裏では策略や策謀を巡らせ、それを悟らせないための作り笑い、いわば仮面だ。

こんな老人でもこんな顔をつくれるのかと内心ほくそ笑んだ。

 

「それでは、早く戻りましょう。いつまでも学院長が外出していては、教員たちも心配してしまいます」

 

「うむ、そうじゃの。ああ、ロングビル君。この後コルベール君のところへ行ってもう終わったことを伝えってやってくれ」

 

「畏まりました」

 

そして、ロングビルはいつものように慣れ親しんだ仮面を被る。誰にも自分の正体を悟らせないために。


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