白い雲海を眼下に収めながら、ルイズを乗せた船は青空を渡っていく。心地の良い陽気に当てられた男達が舟歌を歌い出し、甲板の上は活気付いている。
ルイズは一人、船室の中で呆然と窓の外を眺めていた。
「…」
この船に乗ってからずっと、部屋に閉じこもりこうして外を眺めて続けている。そうしているのも、船の中ではやる事がない、という理由の他ない。甲板にいれば船員達から邪魔扱い、船の中を歩き回れば危険だからと船長から注意される始末。船員達からすれば、彼女は大切な顧客。いくら横暴な形で出航させられたからといってそこは変わらない。もし、怪我でもされたら船の評判を落としてしまうことにもなりかねないのだ。
「…はぁ」
ここに来てもう10回は超えたであろうため息を漏らす。退屈しのぎにでもと外の景色を眺めていたが、それも数分で飽きてしまった。
ここにモロがいてくれたなら、そう思わないではいられない。いてくれたなら、悪態をつきながらも彼女を構ってくれるのに。
「…退屈ね」
今頃、モロはどうしているだろうか。昨晩船を見上げていたあの姿が今も思い出される。モロは彼女の言いつけを守るようなたちではないことは十分に知っているが、きっと来てくれるはずだ。
今にして思えば、自分は随分とあの狼に依存しているのだと思う。モロがいないというだけで心は不安に押しつぶされそうになるし、一人きりの寂しさは身を苦しめる。モロが来る前に散々そういうのを知ってきたつもりでいたが、所詮はつもり止まりだったということだろう。
「…モロ」
彼女は自分でもどうしてここまであの狼を恋しいのか、分かっていない。ただ、モロとともにいると心の安らぎを得ることができる。それは、幼い頃母の胸に抱かれていた頃の、心地のいい安らぎとに似ているかも知れない。
心の何処かで、母の面影をあの狼に重ねてしまっているのだろうか。
「…まさか、そんなこと」
ある訳がない。母は今も健在だ。寂しさから使い魔に親の面影を重ねようとするほど、自分は子供じゃない。頭を横に振り、誰に見せるでもない否定の意思を彼女はしめす。自分はもう大人なのだ。こんな情けない事で大事な任務も遂行できない、などということがあってはならない。
ルイズは自らの頬を叩き、己の心と体に叱咤をかける。大丈夫だ、例えモロがそばにいなくともこの任務はやり遂げてみせる。
決心を新たにした所で、部屋の中にノックの音が響いた。
「はい」
「ヴァリエール様。もう時期港に着きますので、支度の方なさっていてください」
「ええ、わかったわ。ありがとう」
ルイズは立ち上がり、背もたれにかけておいたコートに袖を通す。手荷物はないため、彼女の準備はこれで終わりだ。その胸にある小さな荷物の存在を確かめつつ船室を後にした。
それから数時間後、同じ空をモロを乗せた船が雲を割いて渡っていた。
モロは甲板の上に腰を落ち着かせ、目の前を流れる雲をじっと目で追っていた。
「…彼女が心配?」
ふいに、モロの耳を誰かの声がかすめた。少し目線を逸らすと、背丈に不釣り合いの長い杖を抱えたタバサがじっとモロを見つめていた。
「何の用だ」
そっけなさげにモロは呟く。
「別に。貴女が彼女を心配してるのかと思っただけ」
「何故私が奴の心配しなければならない。奴がどうなろうと、それは奴の行動が招いた結果だ。それをいちいち心配していては私の身がもたん」
「その結果によって彼女が死んだとしても?」
「ほう、貴様は小娘が死ぬと言うのか」
「…ないとは言えない。彼女と彼に託された任務は、誰かには目障りになるもの。昨日の襲撃はそれを阻止しようとするものだとは、容易に想像できる」
「それもそうだろうさ。あの男を遣わしたのは、この国の王女だ。となれば、小娘に何かを託したのにも、その王女が絡んでいるに違いない。何なら、あの小僧にでも聞けばいい」
タバサが背後を見ると、そこには樽にもたれかかり、青ざめた顔をしたギーシュの姿があった。船の揺れに気分を悪くし、今にも汚物を撒き散らしそうな雰囲気だ。
「そもそも、何故彼がこの件に関わっているの?」
「一昨日の晩、女が一人寮塔の中へ入っていくのを見た。恐らく、その女が小娘に今回の件を頼んだのだろう。それを小僧は盗み聞いていたようだ。いやはや、女の部屋を夜も更けたころ合いに尋ねるとは、あの小僧もなかなかいい趣味をしている」
「…そう」
タバサはため息を漏らすようにそう呟いた。彼女の表情からは感情を推し量ることは出来ないが、その短い言葉の中にはギーシュに対する落胆の色が含まれていた。もっとも、タバサの持つギーシュの評価なぞ、底が知れているとは思うが。
「小娘を気にかけるより、先にあの小僧の面倒を見てやれ。ここで吐かれてはたまったものではない」
「…ええ。そうする」
タバサは踵を返し、モロの前から去っていった。それを横目に抑えながら、モロはまた空を仰ぎ見る。
ルイズが心配ではないのか。タバサの言葉を無意識に反芻する。確かに今、ルイズは何らかの闘争の渦中に巻き込まれている。相手は邪魔をするためならば、殺すことも厭わない手合いだ。魔法もろくに使えない、身を守る術を持たない小童なぞ、何の障害にもなりえないだろう。
だが、人間とは己の命がかかればかかるほど、己でも意図しない力を発揮する。火事場の馬鹿力、とていうのだろう。生に執着し、死から逃れようと己の全てを賭ける。そうなった者達によって、奴らの生のために我らは淘汰された。
しかし、皆が皆そうでない。死が逃れ得ぬ者である事を悟り、生を諦める者達もいる。敵の牙に自ら腹を晒し、喰い千切られるのを待つだけの哀れな者達もだ。
ではあの小娘は。ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールはそのどちらだ。死から逃れようと争うのか。死を恐れ、震えているだけなのか。
分かるはずもない。小娘は小娘であり、私は私だ。どれだけ抗おうとそれは変わらない。奴がどうあり、どうなりたいのか。奴自身が見つけ出さねばならないのだ。
「…ん」
不意に何かの気配を感じた。気配だけではない。何かがこちらへ風を切って近寄ってくる。モロはその方へ目を向ける。そこには白い分厚い雲が青を覆い隠しながら風に流れている光景。何の変哲もない、随分見飽きた光景だ。だが、そこに妙な気配を感じる。
目を凝らすと、何か小さな影が雲の中にあるのが分かった。この船体の陰に隠れて分からなかった。それがどんどん肥大していく。いや、肥大するだけではない。その気配がこの船にどんどん近寄ってくるのだ。
「何か来る」
雲を裂き、現れ出たのは一隻の船。その船は船速を緩めることなく、モロの乗る船に突貫してきた。船の船首がモロの船の横腹に突き刺さり、船体は激しく揺さぶられる。
「空賊だ!?」
誰かがそう叫んだ。それを合図にして船首から次々に空賊なる者たちがモロの船に乗り込んでくる。その手には剣を握り締めている。
男たちの手際は素早かった。慌てふためく船員たちを次々に襲撃し、甲板を制圧。そして数人を船室の中へ送り込み、未だ状況を把握できていない船員たちを次々に拘束していった。モロの船の船員たちはろくな抵抗も出来ぬまま、ものの数十分で制圧されてしまった。
船室から二人の男に乱暴に連れ出される船長、その隣にいるのはキュルケ。赤髪を振り乱し、男に噛みついてはいるものの、軽くあしらわれ甲板の上に転がされる。丁寧な事に両手両足を縛り付け、身動きが取れないようにしてあった。
「命が惜しかったら大人しくじっとしてな」
空賊の一人がそう告げると、残りの者達に見張りを任せ船首から元の船へと戻っていく。かと思えばもう一人の男を連れ立って戻ってきた。
ぼさぼさの長い黒髪を赤い布で乱雑で纏め、長い無精髭と眼帯を付けた男。見るからに他の空賊と違うそのいでたちから、恐らくは空賊たちの頭を貼る男だとあたりを付けた。
「船長は、どこだ」
「私だ」
緊張しきった船長が、精一杯の虚勢を張り名乗りを上げる。頭はその方へ体を向けると、船長に近づき、その頬に刃を当てる。
「船の名前、それと積み荷は何だ」
「トリステイン。『マリー・ガランド号』。積み荷は硫黄だ」
船長の言葉を聞き、頭の口角がゆっくりと上がる。
「船ごともらった。代金はテメェらの命だ」
「な。話が違うではないか!?さっきの男はおとなしくしていれば命は助けると…」
「そうなのか。おい、誰かこいつらの命は取らねえってほざいた奴はいるか?」
頭は仲間にそう呼びかけるが、返事の代わりにうすら笑う声が甲板をつつむ。
「だ、そうだ。そんな戯言ほざいた覚えはねえとよ」
「そんな…」
残酷にも突きつけられた現実に、船長はただ頭を落とし、項垂れるしかなかった。
「お、この船貴族のガキまで乗せてやがる」
頭の興味はもはや船長になく、その背後に転がされているキュルケへと移っていた。キュルケの顔をくいっと上げさせるとその顔をまじまじと見つめ始める。
「へえ、年の割にいいカラダしてやがるな。それに顔も別嬪だ。おい今晩の相手してくんねえか」
その言葉の返事とばかりにキュルケの口から唾が飛び、頭の頬にあたった。
その瞬間、空賊たちの雰囲気が一瞬鋭い物に変わる。どんなものであれ、自分たちを率いる者が侮辱されること、それは自分たちも侮辱されること同じこと。次の頭の動き次第ではキュルケが嬲られてしまうこともあり得た。
「…おまけに肝も据わってる。なかなかどうして、いい女だ。奴隷商に売りつければ高値で売れそうだ」
だが、吐きかけられた唾を手の甲でぬぐい取ると、キュルケから目を離し、ぐるりと甲板を見渡し始めた。随分と懐広い頭だ。
「ほう、これはまたおもしれえモン乗っけてんな」
やはりと言うか、その目はモロの姿を捉えると喜々として近寄っていく。
「こいつは、お嬢ちゃんたちのペットか何かか。随分上等な犬っころを飼いならしているじゃねえか」
じろじろとモロの身体を目で嘗め回し、もの珍しさを隠そうともしない。
「ほら、ちちちち。こっちだ、ほら」
口を鳴らし、まるで子犬にでもやるようにモロの興味を引こうとする。
それを見てひやりと冷たい汗が学生三人の背に流れる。何せその正体を知っているのはこの三人しかいないのだから。その行為がモロの機嫌を逆なでることになろうとは、他の大人たちは知る由もない。
お願いだから、おとなしくしていて。そんな願いが三人の目からモロに注がれるが。
「…やれやれ。こんな小僧にこうまで舐められるとは、私も随分落ちたものだ」
「は…」
それは徒労に終わった。頭にしてみればどこから声が聞こえたのかもわかるまい。しかし、それを理解する前に、頭の胴体はモロの口に挟まれる。
「お、お頭!?」
突然の出来事に当惑する空賊たちをよそに、モロは頭を加えたまま、空賊たちの船へ乗り込む。それに続き頭の配下たちが次々とモロの後を追っていく。
「お、おい。テメェらのペットだろ。何とかしろ!!」
空賊の一人がそう三人に怒鳴りつける。
「無駄よ。あの狼は私たちの命令何て聞きやしないわ。誰かれ構わず尻尾を振るような奴じゃないのよ。そうだったら、どれだけましだったか」
キュルケがいう。その顔は勝ち誇ったかのような笑みを浮かべている。
「そんな馬鹿な事があるか!下手な嘘はやめろ!」
「嘘じゃないわよ。ねえ」
キュルケはタバサとギーシュに同意を求めるように視線を送る。空賊に抑えられている二人は、当然のように首肯する。ギーシュに至ってはぶんぶんと勢いよくだ。
「ふざけるな。こ、このままでは、殿下が…」
「ん、殿下?殿下っていったい誰の事よ」
「…」
犯してしまった失態の大きさが、冷や汗の流れるその顔からうかがえる。それを聞き逃すような耳をキュルケはしていない。
「あの男を助けなきゃいけないよっぽどの理由があるなら、言ってみなさいよ。それによってはあいつに口利きしてあげてもいいわよ」
「…だが、やつはお前たちの命令など聞かないんじゃ」
「命令は聞かなくても、お願いなら聞いてくれるかもしれない。顔を知らない連中より、少しでも顔を知ってる人間からの頼みなら、あの狼も聞き入れる可能性はあるわよ」
「…」
「だんまりする時間なんてあるの?今にも狼があんた達のお頭を食い殺すわよ。決めるならさっさとしなさい」
「…分かった。だが他言するなよ。ここにいる全員だ」
そう釘をさして、空賊は口を開いた。
場所は空賊の船の最後尾。これ以上進めないという所まで進み、モロは追ってきた空賊と対峙する。空賊たちは剣を手にじりじりとモロとの距離を詰めにかかる。が、その一歩手前でその足が止まる。
頭の命の境界線。これ以上足を踏み入れれば鋭い牙が容赦なく頭の腹を貫き、鮮血が甲板を彩る。そのぎりぎりのラインで空賊とモロは対峙している。
「は、離せ」
うめき声とも取れるその抵抗の声。当然モロには聞こえているが、わざわざ答える義理はない。じたばたと暴れよが何をしようが、それでモロの拘束から抜け出すことは出来ない。寧ろ、それによって傷つくのは頭の身体だ。
それが分かっているから、頭は四肢の力を抜き狼を刺激しないよう注意するよりほかない。頭の命はモロの気分でどうとでもできる。命を長らえたくば、そうするよりほかない。
「お頭を離せ、化け物」
剣を構えそう言う空賊。その剣に震えはなく、その佇まいから怖れより強い覚悟を感じる。
よく鍛えられている、モロはそう思った。ここに来て以来、モロの姿を目にした人間たちはモロを恐れ、臆する者達ばかりだった。それが普通の人間の反応であることは分かっている。しかし、今目の前にいる者達は人間に害なす化生から主を助け出さんとする忠臣たちの様だ。とても悪賊の類の者達には見えない。
(小僧の分際でよくもここまで多くの配下を付き従えているかと思ったが、こやつ、貴族の小童か何かか)
そう考えていると、空賊を押しのけむさ苦しい男どもの間からひょっこりと見知った顔が現れた。キュルケとタバサ、それにギーシュだ。
「モロ、お願いだからその人を離すんだ」
「…何故だ」
「その人、いえ、そのお方は僕たちが考えていたような人ではないんだよ。その人はアルビオン王国皇太子、ウェールズ・テューダー殿下なんだ」
「知らんな」
「話を最後まで聞いてくれ。実はルイズの任務は殿下に姫様からの手紙を送ることと、以前姫様が殿下に送った手紙を回収することなんだ。だから、ルイズの任務を無事に果たすためには、殿下が無事でいなくちゃならない。僕らの為とは思わなくていい、ルイズの為だと思ってその方を離してくれないか」
「それを信ずるにたる証拠でもあるのか。どこから仕入れた話しかは知らぬが、それが嘘偽りでないと何故鵜呑みにできるのだ」
「しょ、証拠なら、ある」
頭が口ごもりながら、言った。
「き、君が離してくれたなら、すぐにでも見せよう。だから、どうか離してくれないか」
先ほどまでの口調と打って変わった、柔らかな口調。これが本来の口使いなのだろう。
「…」
しばし沈黙の後、モロは口を開き、頭、もといウェールズと呼ばれる男を放してやる。突如として開放されたことで受け身の態勢もとれぬまま、男は甲板に強かに背を打ち付けた。
渋面を浮かべながら背をさすり、男は起き上がる。すぐに空賊たちが男に近寄ろうとするが、男はそれを手で制し、懐からを取り出し、それをモロに掲げて見せた。
「これが証拠だ」
それは透明な石を冠した指輪だった。陽光に照らされまばゆく輝くそれが何を意味するモノなのか、モロには分からない。だが、それを目にした三人の目は見開かれ、信じられないモノを見ているかのようだ。その様子を見ればそれが何であるにせよ、大層な代物であることは分かった。
「風のルピー…。アルビオン王家に伝わる秘宝だよ。これが私の身の上を証明する何よりの証拠だ」
男はそう言うとすっと立ち上がり、おもむろに髪に手をかける。ずるりとはがされたその下から出てきたのは整えられた金色の髪。それを皮切りに髭、眼帯を取り去り、頭に巻いていた布で汚れをぬぐい取る。
「改めて名乗ろう。アルビオン王国皇太子、ウェールズ・テゥーダーだ」
そう名乗る男は、悪賊になろうにもなり切れない、むしろそれらの者とは無縁の物腰の柔らかい男だった。