廃屋の森から離れ、学院へと戻った三人は、その足で学院長室へ向かった。フーケは馬車の中に残し、衛士の一人に見張りを頼んでおいた。
本塔の長い階段を上がり、やっとの思いで学院長室に辿り着くと、その大きな扉をルイズがノックする。
「どうぞ」
嗄れた、だが、威厳を感じる男の声が扉の向こうから聞こえる。その声の後、ルイズは扉を押し開いた。扉の先にはオスマンとその傍らに、本来ならロングビルが立ってあるだろう場所にコルベールが立っていた。
オスマンは彼女たちに席に座るように手で促す。それに素直に従い、三人は黒い革張りのソファにその腰を下ろした。それを確認すると、二人はその体面にあるソファに座る。
「…フーケの捕縛、及び『破壊の杖』の奪還に成功したことをここにご報告いたします」
ルイズが少し緊張しながらも、いつも通りの声色を意識してオスマンに話す。それに続いてその両手で抱えていた『破壊の杖』をオスマンに差し出す。これをオスマンの代わりにコルベールが受け取った。
「…お主らは儂の予想を遥かに上回る働きをしてくれた。学院長として鼻が高いわ」
そういってオスマンは突然立ち上がり、三人に近寄った。突然のことにどぎまぎとしている三人をよそにオスマンは悠々とその目の前でしゃがみ込む
「じゃが、そんな事より…」
そして、一番はじに座るルイズの頭に手を置き、愛しい孫を愛でるように、慈愛に満ちた笑みをその顔に浮かべながら、柔らかい手つきで撫で始めた。それを順繰りに、隣に座るタバサ、キュルケとその手を移し、同じ様に撫でてやる。
「儂は、お主らが無事に帰って来てくれたことが何よりも嬉しい」
この歳になって頭を撫でられることになろうとは思わなかった三人は、オスマンの行動に少々面食らっている様子だった。
「さて、お主らが『破壊の杖』を奪還し、フーケの捕縛を成し得たその経緯を詳しく聞かせておくれ」
オスマンは席に戻り、改めて三人にその経緯の説明を求めた。ここを三人を代表してルイズがその説明を始めた。
「なるほどのう。まさか、ロングビル君がフーケだったとは…。わしも見事に騙されておったわ」
「オールド・オスマン。失礼ながらミス・ロングビル、いえ、フーケとはいったいどこで知り合ったのです?」
ご自慢の髭をいじりながらため息を漏らすオスマンに、コルベールは尋ねる。
「それは、あれじゃよ。ほれ、一時期秘書を公募していた事があったじゃろ」
「ええ」
たしか、一昨年の冬ごろだったとコルベールは記憶している。オスマンの気まぐれで一と月の間、街に秘書の公募をかけたことがあった。
「そのすぐ後じゃよ。彼女が儂の元を訪ねてきてのう。本当に直ぐじゃったから儂も驚いたわい」
「因みに、なぜ採用されたので?」
「彼女が適任だと思ったからじゃよ。あの後待っておっても現れるような気もせんかったし、現に現れんかったからのう。教養も十分、人柄もまずまず。肝もすわっとるし、魔法もそこそこ扱える。そして、何より顔がいい。あれ程の人財は他にはおらん」
「ですが、その中身は…」
「中身がどうなっとるかは他人にはわからん。そんなことは儂にもわからんし、それこそ神のみぞ知ることじゃ」
オスマンはヒゲを弄る手を止め、その手を顎に当て、何か考えるそぶりを見せる。
「…うむ。今、フーケはどこにおるかの?」
その問いに、タバサが静かに口を開く。
「…馬車の中に」
「ふむ。では、少し会ってみることにするかの」
「一体何をされるおつもりですか?」
眉根を寄せ、怪訝そうな表情を見せながらコルベールは尋ねた。
「そう怖い顔をするなコルベール君。何、少し話をしようと思っただけじゃよ。そう心配することでもないわい」
「ですが…」
なおも食ってかかろうとするコルベールを、オスマンはその口より先に手でそれを制する。
「年寄りの気まぐれぐらい、付き合う余裕は君にはないのかね?」
「…分かりました。お伴します」
溜め息を一つ付きながら、コルベールはこの老人の気まぐれに付き合う事にした。こうなったこの人はもう誰の言うことも聞かない。頑固でわがままで、まるで子供のようだ。昔からその性質を直して欲しいと言ってみてはいるが、いっかなそのそぶりすら見せない。治す気などさらさらないということだろう、
「うむ。では案内をしてくれるかの?」
その言葉を合図に、その場にいる五人が腰を上げ、部屋を後にした。
私は今、夢を見ているのだと思った。夢だと分かる夢というのは誰しも一度は体験するものだが、今のこれが夢だということは間違いがなかった。なぜなら、普段見ている高さではなく、ちょうどしゃがんだ時の高さ、子供の見ている世界が目の前に広がっていたからだ。
それは私がまだ幼かった頃の光景。厚い雲が空を覆い隠して、今にもザアザアと雨を落としてきそうな、そんな空だった。私は私の家に長年仕えている執事と共に屋敷の奥の部屋で遊んでいた。父と母の姿はここにない。少し用があると言って、部屋を出て行ってしまった。その時父と母は普段なら着もしない、箪笥の肥やしか飾りにしか使われていない防具を着込んでいた。貴女は彼と遊んでいなさいと、部屋を後にする際、母は私の頭を撫でてくれた。その時の私は何も知らなかった。知ろうともしていなかった。私の父が何を守ろうとしたのかも、私の母が父と運命を共にしようとしていたことも、何一つ知らなかった。
轟音が玄関の方から聞こえた。それと同時に人間の怒号と悲鳴が扉の先から押し寄せてきた。
執事は震える私をそっと抱き寄せ、優しく撫でてくれた。それだけで私は安らぎを覚えた。
執事は私の手を取って、部屋の奥へと進んでいく。そこにある戸棚の本を左右に動かし、戸棚の奥の板を押し込む。すると、戸棚はゆっくりと内側に開いていき、隠されていた廊下が私の目の前に現れた。
「お嬢様。この廊下をお進みください」
ここを?
「そうです。このまま真っ直ぐ行けば外へ出られます。外へ出ればご当主様のご友人の方が待っておられますので、その方と行動を共にしてください」
お父様は?それに、お母様はどうされたの?
「ご当主様も奥方様もお忙しいようですぐには来られないそうです。ですか、御用件がお済みになりましたら、お嬢様の後を追いかけるといっておられました」
じゃあ、貴方は?
「私は…お二人のお手伝いをせねばなりません。何せ、私はこのサウスゴーダ家の執事でありますから」
そう。…すぐに来てくれる?
「ええ、仕事が終わり次第。この老体に鞭打って掛けていきますぞ」
ふふふ。分かった。じゃあ先に行っているわね。
「ええ。それではお嬢様、お行きなさい」
私は執事の手を離し、薄暗い廊下を進んでいった。その時の私は執事の言葉を信用しきっていた。だって、今まで執事か私に嘘をついたことなんてなかったから。
「…お嬢様。…どうか、…どうかお元気で」
そんな言葉が聞こえた気がした。だけど、私は振り返らずに廊下を進み続けた。
この時、私は幼い時分ながら、今、何が起きるのか想像出来た。だが、敢えてそれを口にしようとは思わなかった。口にした途端、それが現実になってしまうような気がして怖かったのだ。
そうして進み続けると、屋敷の裏にでた。そのすぐ目の前には馬車があり、男が一人立っていた。
男は父の知り合いだと言っていた。執事の言っていた友人というのはこの男だろう。私は男に促されるまま馬車に乗り込み、馬車はすぐさま走り出した。
そのすぐ後、屋敷から轟音が聞こえた。馬車の車窓から屋敷を見ると、屋敷から火の手が上がっていた。火は瞬く間に屋敷を呑み込み、全てを焼き尽くしていく。
私は馬車を止めるように男に言った。だが、男は聞く耳を持たなかった。
私は夢中で叫んだ。父と母を呼び続けた。屋敷が見えなくなろうとも、声が届かなかろうとも、周りを憚ることなく、叫び続けた。
「お父様!?」
フーケはそう口にしながら、硬い馬車の床から飛び起きた。見張りについていた衛士は驚いてフーケを見やるがすぐに視線を前へ戻す。
「…はあ、またか」
またあの夢だ。普段ならそのなりを潜めている記憶が、夢となって時たまひょっこり顔を出してくる。その度に身体はひどくべたつき、嫌な汗が額を流れる。
フーケはそう言って額に手をやろうとする。だが、いつまでたっても利き手の腕がやって来ない。不思議に思いその手に目をやる。其処には腕がなかった。あるのは氷付けにされた腕の無い肩だけだ。
「ああ、そうだった。…私の腕、取られたんだっけ」
皮肉気に笑みを浮かべ、自分の体たらくに呆れた。あの小娘が使い魔を連れて来ない時点で警戒しておくべきだったのだ。運がいいと思っていた自分が恨めしい。それをしていなかったためにこんな無様な格好になってしまった。
「…これじゃあ、どうやっても稼業を続けるのは無理じゃないか」
片腕を、しかも、利き手を奪われたとなれば、もはや盗みを続けるのは難しいだろう。と言っても、この後牢獄送りにされる身にとってみれば、至極どうでもいいことだった。
「つらいか?」
そんなことを考えている時、聞き覚えのある声が馬車の外から聞こえた。その声は自分に向けられているようだ。フーケはその方を見やる。そこには今一番会いたくない獣がいた。フーケは眉間にしわを寄せ、渋面を作る。私の腕を捥いだ張本人がいったい何の用だ。そう顔で訴えかける。
「あの時、お前の体を噛み砕いてさえいれば、そうつらい目に合わんで済んだものを。惜しいことをした」
「その通りさ。あの時、一思いに殺してくれていればね。あんたが私を生かしたから、牢屋にぶち込まれる羽目になったのさ」
「…ふっははは」
「…何がおかしいんだい?」
「あれ程死に恐れ慄いていた女が、よくもそんな事がほざけたものだ」
「…うるさい」
私の腕を噛み千切ったと思えば、こうして冷やかしに来る。本当に何を考えているかわかったものじゃない。それだから、こんなにも憎く疎ましく思い、そして、こんなにも恐ろしく思えてしまう。
「お前が死のうが死にまいが、どうでもいい。私が手を下さずともお前はじきに死に絶える。だが、その前にお前に聞きたいことがある」
「なんだい?」
「お前はあれを盗み出して何を成さんとした?」
「あれ…ああ、あの杖か。別に。あれで何かどうこうしようとは思ってなかったよ。金になるから盗んだだけさ」
「…そうか」
「なんだい?あんた、あれに興味でもあるのかい?」
「…少しな」
そういうと狼は立ち上がり、奥の茂みへと姿を消していった。一体あれの何処にあの狼の興味をそそるものがあったのか、私には分からない。少しそこの所に興味が湧くが、それを聞いてもあの狼はきっと答えないだろう。そういう奴なのだと、この短い間に思った。
衛士の奴は狼の姿にビビって縮こまっていたが、姿が消えた途端にまた素知らぬ顔で監視についている。
狼がいなくなったらいなくなったで、随分と静かで、退屈だ。これから、処刑台に登るまでこの退屈な日々が続くと思うと、嫌気がさしてくる。
と、私は思っていたのだが、どうもこの日はそう退屈せずに済むらしい。衛士の背中ごしから、以前の上司がこちらに歩み寄ってくる姿が私の目に映った。