大内家の野望 作:一ノ一
遠目に宗運が巻物を盆に乗せて歩いているのを見た。
この前も、同じような状況で倒れていた。季節は夏の真っ盛りで、夏ばてで調子を崩す者も少なくない時期である。
晴持の傍に仕えている家人の中にも、調子を崩す者がちらほらと出ていた。
対策として、とりあえず身分ある者には梅干しを食べることを奨励し、そうでない家人には低濃度の塩水の摂取を呼びかけた。
梅干しは栄養価が高く、塩分を摂取することもできる。疲労回復にはもってこいで、熱中症対策には都合がいい。
古来、薬としても利用されている梅干しは、戦略物資の一つでもあり、戦国大名は挙って梅の植樹を奨励している。足軽から一軍の将に至るまで、梅干しを戦に持ち込んでいるのは、それだけ食物としても消毒薬としても優秀だからである。
長期間の保存にも耐えられる超優秀な食べ物だが、戦略物資であるがゆえに家人に毎日支給するというわけにもいかないのが残念なところであった。
ともかく、熱中症は意識付けで予防できる。
水分と塩分補給を怠らないよう通達してからは、目に見えて体調不良の訴えは減少した。
夏の耐え難い暑さも、それを過ぎれば懐かしいものとなる。秋の色が濃くなればなるほど、夏の暑さが偲ばれるものだ。
この夏も、そう長くは続かない。あと一月もすれば、稲穂が黄金に実るだろう。
熱中症は、適度な休養と水分、塩分摂取で対策できるが、宗運のあれはどうしたものか。
「甲斐様は、どうもお休みになっておられぬ様子」
と、女中が耳打ちしてくる。
「夜も働いているのか」
「そのようです。蝋燭を灯して、なにやら書物に目を通しておられます。勉学に励まれているとのことですが、ここ三日は蝋燭が消えてから甲斐様がお部屋から出るまでに二刻ほどしか」
「ほとんど寝てないじゃあないか」
そこまで多くの仕事を宗運に振っているわけではない。彼女がその能力の範囲内でできる仕事をしてもらっている。
晴持の家臣は彼女だけではない。事務仕事を一人で背負い込むことはないのだ。必要に応じて、仲間内でやり繰りしていいのに、それができていないのか。あるいは、女中が言ったように個人的な勉強により多くの時間を費やしているのだ。いずれにしても、このまま放置するわけにはいかない。
日が沈めば眠り、日が昇れば起きるというのが基本的なこの時代の生活だ。
蝋燭の明かりも、それほど強いわけではない。蝋燭の明かりで勉強するのは、より疲れを増すことになる。体力が落ち込んでいる宗運が、そんな無理をこれからも続けようとしているのは大問題であろう。それを、晴持に報告しないのも困ることだ。
「君にも無理をさせた。今日は一日、休んでくれて構わない。これは、お礼だ。取っておいてくれ」
と、宗運の動向調査に当たってくれた女中を労い、褒美を取らせる。
彼女も、夜から朝にかけてじっと宗運の部屋を見てくれていたのだ。疲れる仕事をさせてしまった。
残るは宗運をどうするかだ。
宗運は所謂有能な働き者になるわけだが、明らかに無理を重ねていてこっちが心配になってしまう。
家臣が無理をしているのなら、それを止めるのも上司の仕事であろう。
大内家はホワイト企業であるべきなのだ。過労で倒れるなど容認できないことである。
「言って聞くなら、もう解決してるんだけどな」
働くなとは言えない。早く寝ろと頭ごなしに命じることも現実的ではない。晴持に仕え始めた当初は、こうではなかったはずで、ここ二、三ヶ月の間に無理をするようになっているようだった。
何かあっただろうかと振り返って見ても、思い当たる節はない。
宗運に何度か確認したが、「わたしは、大丈夫です」とか「まだまだ余裕はありますから」とか言うのだ。無理をしているという自覚がないのか、意図的に隠しているのかだが、晴持が口頭で注意しても効果があるようには思えなかった。
真面目な働き者が、労働環境について上司に相談するのが困難だということは、晴持はよく承知しているし、だからこそ、できる限りコミュニケーションを取るようにはしているが、身分や立場から相手のほうが萎縮してしまうことも珍しくない。価値観の違いもあって、なかなか困難な課題であった。
不幸中の幸いなのは、日が暮れれば仕事の効率が著しく下がると言うことだ。蝋燭の明かりの下で仕事をするよりも、翌日に持ち越したほうが効率がいい。夜遅くまで仕事をするという状況は、自然と発生しにくくなっていた。
その上で宗運は夜な夜な何かしら、仕事を探して取り組んでいたり、勉強したりしている。頑張ることは悪いことではないが、何事も限度はある。
頑張る理由を聞き出し、無理をしている事実に気付かせることができるかどうかだが、恐らくは晴持では難しいのだろう。
■
夜、眠れないことがある。
最近はそれが特に顕著になってきて、眠れないから蝋燭に火を灯して本を読み漁っている。そうして、眠気が来るのを待ち続け、やっと少し眠いなと思ったところで東の空が白んでくる。そうすると、眠ると起きれなくなるので眠らない。そんな日々を繰り返していると、睡眠時間がどんどんと減っていく。体力が低下している自覚もあった。その所為で、倒れてしまい晴持に介抱されるという失態を曝してしまった。
このままだと良くないのは百も承知だった。何れは仕事が回らなくなるだろうという危機感もある。晴持からは休むように言われたが、それはできないと心の底から反発心が浮かび上がってきてしまう。
晴持の前で倒れ、介抱されるという無様を曝したのだから、それを取り戻すには
「そろそろ」
この日、ほどほどの眠気が来たので蝋燭の火を消した。
布団に潜って、まどろみに揺蕩う。
身体が疲れているが、気持ちは逸っている。まだ何かできるはずだといつも考えている。眠るために目を瞑っても、頭の中では一日を振り返り、次の日の仕事のことを考えている。
スッと身体の力が抜けて、意識を落とす。
眠っている自覚があるのは、眠りが浅い証拠だ。
「阿蘇家を頼むぞ、宗運」
旧主の言葉が不意に蘇る。
病床にあって、阿蘇家の未来を案じた人物だった。
長い付き合いで、実力も人望も申し分なかった。阿蘇家という歴史ある大家の命脈を続けるために、その人生のすべてを擲った人物で、そんなだからこそ、宗運もまた自分の人生を賭ける思いで一身を捧げたのだ。
相良家と結び、大内家を頼り、阿蘇家が大名として名を残せるよう尽力した。島津家が攻めてこようと、大内家を頼みとして迎え撃てば、阿蘇家は独立を維持できる。
それは、決して夢物語ではなかった。
不安はあったが、自信もあった。
阿蘇家は一致団結し、島津家という未曾有の大敵を退けるはずだった。
「……何ゆえに阿蘇家は屈したのだ?」
病床に伏した旧主の顔が、豹変する。
瞳が熾火のように燃えている。宗運は竦みあがった。心臓を鷲掴みにされたように固まってしまう。
「神代より続く阿蘇が、島津に屈したのは何故だ」
申し訳ありませんでしたと旧主にひれ伏した。
主君に合わせる顔がない。
あれほど信頼を寄せてくれたのに、彼が死去した直後にすべてが瓦解した。後を継いだ惟種は、宗運の言葉よりも親島津派の言葉を信じた。
ならば、自身が咎められる謂れはない――――と、開き直れるほど宗運は柔軟に考えることはできなかった。
『何かできたはず』
という思いは消えることなく、胸の中に漂っていた。
「阿蘇家が島津に頭を垂れたのは誰の所為じゃ」
「甲斐殿がもっと上手くことを運べばこうはならなかった」
旧主の顔がかつての同僚に変わる。
ぐるりと周りを取り囲まれて、言葉の刃で滅多刺しにされる。
違う、とは言えない。否定できない。あの当時、阿蘇家の家政を任されていたのは宗運だ。宗運の日頃の行いが、阿蘇家のあの結末に繋がったのだとしたら、言い訳のしようがない。
夢の中で、期待に応えられなかったことを旧主に詫び続け、同僚からの非難に曝され続ける。
そして、今後は同僚が晴持に変わる。
今の主だ。宗運を拾い上げ、再起の機会をくれた恩人だが、今は恐怖しかない。晴持が口を開くが、声が聞こえない。ただ、恐ろしい。感情だけが先走り、何も分からない。身体が動かず、息苦しさで胸が潰れそうだ。
目の前が黒塗りになった直後に、眩い光がどこからともなく差し込んできた。
「ぅ、ぁ……」
見慣れた天井。障子戸から朝日が差し込んできて、宗運の顔を照らしていた。朝日の眩しさで、目が覚めた。身体がずっしろと重くて、寝汗が酷い。井戸に行って、水浴びをしなければと上半身を起こした。
「はあ……」
ため息をつく。まったく休めた気がしない。目元を擦ると濡れていた。
「涙……」
何か酷い夢を見たような気がする。
思い出そうにも思い出せないが、苦しい夢だったのは分かる。
眠れないというよりも、眠るのが恐ろしいのだ。
頭を空っぽにすることができず、常に恐ろしさに追われている。
自分でも理解できない焦燥感が、宗運から休むという選択肢を奪っている。
また苦しかった。きっと、今日の夜も同じだろう。蛇が全身に絡みついて、這いずり回っているかのような不快感だ。
宗運は、気持ちを落ち着かせるために井戸に行き、冷たい水を頭から被った。
冷たい井戸水が心身に染みて、頭がすっきりするような気がする。
今はとにかく仕事をしていたい。
仕事に没入しなければ、心穏やかに過ごせないと思った。手早く朝食を摂り、政務に入り、筆を執る。書状に目を通し、先例と比較し、必要に応じて晴持に裁可を仰ぐ。一日は慌しく、今日もすぐに夜が来るだろう。
「甲斐殿、お時間よろしいですか?」
「明智殿? ええ、構いません」
宗運に声をかけたのは光秀だ。
宗運と同じ、晴持の祐筆の一人で、共に仕事をする機会が多々あった。
とても能力のある人物で、一緒にいて学ばされることも多い。
それに、最近妙に綺麗になったような気がする。やはり、晴持と関係を持ったからだろうか。光秀が恥らいながら教えてくれたことだ。彼女から口止めをされているが、その分かりやすい態度の所為で公然の秘密になっていた。
「晴持様からすぐに来て欲しいとのことで、お声がけをしました」
「え? あ、左様ですか。承知しました。すぐに伺います」
晴持からの呼び出しとなれば、すぐに向かわなければならない。
何かあっただろうかと思いを馳せていると、
「甲斐殿」
と、光秀が声をかける。
「はい?」
「……いえ、何でもありません。呼び止めてしまって、すみません」
珍しく歯切れがよくない。
しかし、必要なことならば、光秀が口を噤むことはないだろう。光秀が何でもないというのなら、今はそれでいい。
あまりここで長話をしても、晴持を待たせてしまう。
「では、これで」
「はい、お身体にはお気をつけください」
「……もちろんです。ご心配をおかけしました」
光秀からも心配されて、宗運は申し訳ない気持ちになる。
この前倒れたのが、広まってしまったのだ。
人の口に戸は立てられないという。仕方のないことだが、顔を合わせるたびに体調を気遣われることになってしまった。気恥ずかしいことこの上ない。自分の体調管理の悪さが招いたことだが、時間を巻き戻せるのなら、あの日の朝に戻ってきちんと対策を取りたかった。
宗運は足早に晴持の下に向かった。
「晴持様、宗運です。ただいま、参りました」
「ん? 宗運か。入って」
気さくな返答に、深刻さは感じない。
何か問題が起こった、ということではないらしい。少し安心した。
奥座敷で胡坐をかいている主の前に罷り出て、平伏しようとする宗運を晴持が止める。
「堅苦しいのはなし」
「は、はい」
これは、未だに慣れない。
晴持の気性はとにかく誰に対しても平等に接しようとする。自分の立場を分かっていないというわけではないので、公の場ではそれ相応の口調、仕草をするが、それ以外の場ではまるで友人に語りかけているかのように振る舞う。
宗運に対しても、家人に対してもそうだし、街の人々に対してもそうだった。これには、いい面と悪い面の両方があるが、現状、そうした気性は好意的に見られていた。
戦で明確な実績を挙げているおかげだろう。
晴持を侮る言説は、今のところ聞かない。
晴持がそれでいいのなら、宗運がそれを改めさせる権利はないので、宗運のほうが慣れていかなければならないことであった。
「あの、ご用件は?」
と、単刀直入に尋ねた。
世間話に呼んだということはないだろう。何か、仕事を与えられるのであれば、可及的速やかに処理してみせようと気合を入れた。
「……まあ、いいか。宗運に、一つ頼みがあるんだ」
「はい。何なりと」
宗運は身を乗り出した。
どんな命でも受けるという姿勢を表明するのだ。
「これを福崎に持って行ってほしい」
「書状? 福崎というと、義陽にですか?」
「そう」
晴持は頷いた。
手渡された一通の書状は、何の変哲もない。きっちりと封をされていて、内容は窺い知れない。
山口から福崎は、それなりの距離がある。馬を乗り潰しでもしない限りは一日二日で往復できない。
「すぐに戻ってこられないので、こちらの仕事に支障があるかもしれませんが……」
「こっちのほうが優先順位が高い。後回しにできる仕事は帰って来てからでいいし、そうでないものは光秀に引き継いでくれ」
「あ……はい、承知しました」
光秀に引き継ぐというところで、引っかかりがあったが、断わることもできないので頷いた。
僧侶でもなければ、山伏でもなく、あえて宗運に持たせる書状の中身が気になったが、開けるわけにはいかない。
「路銀は後で渡す。向こうに着いたら義陽によろしく伝えて欲しい」
「はい、お任せください」
何はともあれ、任されたからには全力でこれに応えるのみだ。
宗運は書状を大切に懐に納めて、その場を辞した。
福崎には何度か通っているので、道も所要時間も分かっている。
休まず歩き続けて一日と少しの距離だ。現実的には片道でも二日から三日はかかると見ていい。
光秀への仕事の引継ぎや準備を考えると、出立は二日後の朝が最短だろう。
義陽に会えると思えば、道中辛くはない。勝手知ったる九国の道というわけではないが、近況報告も兼ねて福崎に向かうとしよう。