大内家の野望 作:一ノ一
南郷谷の長閑な空気は、大内軍と島津軍の邂逅によって崩壊し、物々しく物騒な緊張感に包まれていた。
領民は山野に逃れ、あるいは地元の長野家等に徴兵されて人夫として駆りだされている。
日増しに馬防柵や櫓が設けられ、長大な陣城に代わっていく南郷谷。対立する島津軍もまた、大内軍に対抗するべく柵や空堀を作っていた。
互いの陣は目視で確認できるほどに近く、真正面から向かい合っている。阿蘇五岳を背負った平野部に陣を敷く大内軍に対して、島津軍は、背後に回りこむことができないので、戦うとなれば正面からのぶつかり合いになるのは目に見えている。
白川を天然の堀とする大内家の陣容は、あからさまな守りの姿勢であった。攻める島津軍と守る大内軍という形で戦を展開する意図は明白で、長期戦の構えである。
大内軍としては徒に島津軍と戦う必要はない。
彼女たちの北上を阻止できれば、義隆が後詰の兵を送ってくれる。時を稼げば数的優位に立てるのだから、それまでは拮抗した戦を続けるのが吉であった。何も無理をして勝敗を決する意味はないのだ。
その一方で島津軍は戦い、勝利する必要に駆られている。時間と共に不利になるのならば、早期に決着をつけるために迅速に攻勢に出なければならない。
互いの置かれた状況を考えれば、自然と早期開戦という結論に落ち着く。
そうして、晴持が戦場に到着してそう日が経たないうちに銃火と共に戦は始まった。
明朝のことであった。
島津軍の先陣が白川の対岸に押し寄せ、鉄砲と矢を放ってきた。
鉄砲を逸早く量産し、部隊に配備したのは大内家であるが、島津家もまた鉄砲に早い段階から興味を示し、量産体制を構築していた。
鉄砲伝来の地とされる種子島では良質な鉄を産出し、火薬の材料となる硫黄を大量に入手できる硫黄島を領有している島津家は鉄砲を生産し、部隊に配備する地力があった。
よって、初戦は様子見を兼ねた射撃戦となった。
白川も川幅はさほど広くない。川岸からならば、対岸まで鉛弾を届けるには十分であった。この日は風もなく、銃撃も矢も相手方に存分に届けられた。
「さっそくか。何とも、気が早い」
遠眼鏡で晴持は前線の様子を観察した。平地のため、櫓をいくつも設けて、指揮官は高所から戦場を俯瞰している。その一つに、晴持は登ったのだ。
初戦が始まったのは、右翼からであった。やって来た敵は三〇〇人程度であろうか。率いる将は誰か分からないが、川を渡ってくる様子はない。
「挑発か」
「間違いなく」
答えたのは宗運であった。
険しい表情で、銃撃戦が行われている右翼前方を見つめている。
「あれは、阿蘇の兵か?」
「いいえ。ですが、肥後の国人です。宇土の名和家が中心となっているものと」
「そうか。まだ、島津本隊は動いていないわけだ」
肥後国人の忠節を確認するためか、それとも名和家の者が自ら率先して先陣を切ったのか。
「名和家、というのは……」
「悪党から成り上がった古い一族です。何でも、後醍醐天皇より八代を賜ったのだとか。その八代を巡って、相良家とは長年抗争が絶えない一族でした。阿蘇家や甲斐家とも領土問題を抱えていたので、肥後国人の中では逸早く島津家に就いたようです」
「根っからの島津派ってことか」
「そういうことになります」
宗運や義陽ともともと対立していたのであれば、島津家の北上に真っ先に味方をするのは自然であろう。
名和家そのものはさほど大きな勢力ではない。阿蘇家ほどの政治的な価値も感じられない。となれば、島津家の中で生き残りを図るには、自ら危険な役割を引き受けるしかないのだ。
「敵に引き摺り出されることがないようにと」
「承知しました。右翼、いえ全体に再度伝令を飛ばします」
「頼む」
島津軍が大内軍を倒すためには、こちらの隙を突いて陣を瓦解させるしかないだろう。
守りを固めている間は如何に島津家であっても付け入ることはできない。足並みを揃えて迎撃していれば、精強な軍団を追い払うことも可能である。
開戦から半刻ほどが過ぎて、戦線は少し広がった。右翼で小競り合いを続けていた名和家のほかに、左翼でも島津側に味方した甲斐家や阿蘇家が押し出てきたのである。銃撃と挑発を繰り返し、死傷者が立て続けに出た。敵も味方も鉄砲と矢で傷つき、倒れていく。
それでも、銃声の数の割には死傷者は少ない。
互いに竹束を全面に押し出して銃弾を防いでいるためだ。確実に敵の命を奪うには、もう少し距離を近づける必要もあった。
■
駒返城から戦場を眺める歳久は表情を変えることなく、落ち着いていた。
いざ戦が始まってしまえば後には退けない。覚悟を決めた島津の姫は、心身ともに強靭だ。
明朝から始まった銃撃戦は果々しい結果を出さないままに推移し、名和家、阿蘇家共に十数名の死傷者を出して撤退した。
「どうされます?」
と、歳久は家臣に尋ねられた。
「続けます」
「渡河は?」
「もうしばらく後で。今は、相手の出方を伺う場面です」
初戦から全力投入というわけにはいかない。
まず、付け入る隙があるのかどうか。なければ、どのようにして作るのかというのを探る必要がある。そういった策略が一切通じないのならば、やむを得ない。力を頼みにして攻撃を加えることになる。
もっとも、力攻めは多大な危険を孕む。特に守りを固める相手に突っかかれば、撃退される可能性が飛躍的に高まるし、こちらが壊乱する恐れもある。
肥後国人を使い敵陣の固さを確認し、攻めどころを調べるのだ。
「敵右翼の先手は相良。左翼は……黒木?」
「筑後の国人であるとのこと。恐らくは龍造寺家と決戦した黒木郷の領主ではないかと」
「ああ。筑後衆ということですか」
敵の陣割もある程度分かった。歳久がよく知る肥後国の国人だけでなく、筑後国からも国人が押しかけてきた混成軍だ。
「敵陣は大きく分けて大内、大友、筑後肥後国人衆に分かれると」
「大内家と大友家は、同一ではないのですか?」
「そうですね。政治的には大友家は大内家に取り込まれていますが、風土気質面では独立しています。つい最近まで、九国北部を領有する大国だったのです。そう簡単に大内家に心は寄せません。上はともかくとして……」
大友家の上層部は、大内家に臣従を明確にしている。大友家の新当主は大内家の血を引く者で、義隆の姪だ。事実上、大内家に取り込まれているも同然である。
しかし、下の者たちはどうか。
大友家に長年仕えてきた者たちがどこまで大内家に従っているというのか。
もともと大友家そのものが分裂の危機であったのだ。大内家に従うことを内心で嫌がっている者も少なくないのではないか。
現状、大内家と干戈を交えたのは他国の者だけだ。島津家の将兵はまだ戦っていない。そろそろ、こちらの島津兵が焦れてくることであろう。
じりじりと動かない戦局。
日は中天に差し掛かった。
そろそろ頃合か。
「先手の山田殿に兵を進ませてください」
「ハッ」
しばらくして、離れ六つ星の旗が動いた。
山田有信の兵が、喊声を上げて大内軍に向かっていく。それに合わせて、どっと島津軍の先手が駆け出した。
薩摩山田家は平将門の叔父、平国香に始まる歴史ある家である。有信の祖父が、島津中興の祖とされる島津日新斎と争い、臣従したことを契機に島津伊作家に仕えるようになった。祖父は不幸にも讒言によって命を落としたが、その子、そして孫は宗家を継いだ島津伊作家に変わらぬ忠誠を誓っている。
有信は、川岸まで行って鉄砲を撃ちかけ、矢を飛ばし、そして渡河を試みる。
阿蘇家を味方にした島津家は、白川のどこが浅く渡りやすいのかを心得ている。そこに銃火に臆せず山田隊が押し入った。
さらに、先陣を切った山田隊に負けじと島津軍の将兵が続く。
鉄砲と矢の援護を受けて、矢弾に傷つきながら島津軍の先手が敵左翼とぶつかった。
山田有信は、日向国高城を守っていた武将だ。耳川の戦いのきっかけとなった城を、大友軍の大軍を相手にして島津軍本隊が反撃態勢を整えるまで死守した武将である。
島津宗家に対する忠節も厚く、どの戦場で倒れて死んでも本望であると熱弁するほどであった。
だからこそ、この危険な先陣を任せた。敵の大軍に向かっていくには、死を恐れない猛将が先頭に立つ必要があった。
彼女の勇姿で、背後の兵卒が奮い立つ。鉄砲も矢も、戦場の熱狂の前に霞み、島津軍は一本の川のように纏って大内家の左翼に喰らい付くのだ。
近付く兵が射殺される。辛うじて銃火を突破した兵も柵に阻まれている間に、槍で突かれ、矢弾に倒れる。
そうして、大内軍の守りを突破できないままに山田隊は退却を余儀なくされた。川を渡っての退却で、後ろからさらに矢弾が飛んでくる。這う這うの体で有信は逃げ帰ってきた。
初日の戦は、島津軍が跳ね返される形で終わった。
夜の帳が降りて、戦は小休止となった。
大内軍の戦略からして夜襲はないと思われるが、篝火を大いに焚いて夜襲に備えさせた。
そして、歳久は密かに下山して、山麓の山田家の陣を尋ねた。
傷ついた有信は、地面に蓆を引いて寝そべっていた。天井のない完全な屋外である。周囲は陣幕で囲っているものの、野ざらしも同然である。
歳久に気付いた有信は、無理矢理身体を起こそうとする。それを制して歳久は声をかけた。
「お疲れ様です、山田殿」
「申し訳ありません。不甲斐ない姿をお見せしてしまいました。敵陣に切り込み、首を討とうとしたものの、力及ばず」
「いいのです。あなたはよい働きをしてくれました。むしろ、あの戦場を生きて戻ってきたことがありがたいと思います」
「戦場の露と消える覚悟でしたが、家臣に諫められ、こうして戻ってきた次第です」
端から死を賭して突撃した。歳久が命じたが、有信は決してその策を嫌悪していなかった。
「全力で死を前提とした突撃をしてくれる方はそういません。あなたは、文字通り奮戦してくださいました。それが、重要なのです」
「明日以降もこのように?」
「はい」
歳久は頷いた。
暗がりで有信には表情がまったく見えなかったが、決して悲観した顔をしているわけではない。
「相手を本気にさせるには、わたしたちが本気で戦わなければならないのです。命を賭して、死を前提として、本気で戦い、本気で勝利をもぎ取るための突撃をしなければなりません。それくらいの気迫を大内に見せ付ける必要があります。そして、あなたの戦振りは見事にわたしたちの本気さを示してくれました」
「久しぶりに、我武者羅に戦わなければなりませんね」
「はい」
頷いた歳久は小さく笑った。
「そういうの、得意ですよね」
「薩摩大隅育ちは大概そうでしょう」
多くの将兵が小さく貧しい領地を巡って戦いに明け暮れた日々があった。島津家という肩書きも分裂して入り乱れ、多くの血が流れた。今の島津家はそうした日々を勝ち抜いて、強大化したたたき上げの兵卒を多数抱えている。
「明日も突撃を?」
「ええ。明日も同じように。必要ならば、明後日もその次も、何度でも攻め立てます」
■
よく飽きもせず繰り返せるなと、感心する。
歳久が何度でも攻め立てると宣言したことなど知る由もないが、現実に晴持は島津軍の断続的な攻撃を目の当たりにしていた。
先手が代わる代わる大内軍に突っ込み、銃撃戦を演じ、時には渡河を図った。その度に、島津軍は大内軍の銃火を浴びて屍を曝し、次々と白川に底に沈んでいった。
「島津には大将が討たれた場合、その仇を討たない限りは部隊全員を切腹させるという軍律があると聞きますが……」
床机に座る晴持に光秀が困惑したように話しかけた。
初戦から五日が経ち、島津軍の攻勢は変わらない。日に数度、喊声を上げて突撃をしてくる。最初こそ、様子見の銃撃戦に終始していたが、今は前衛を磨り潰すつもりなのかと思えるほどに苛烈に攻め込んでくる。
多くの将兵が水底に沈み、枯れた田に倒れている。
「意図が見えない。まさか、本当に手がなくて突撃を繰り返しているわけではないだろう」
あの島津家がそんな愚を犯すとは思えない。それとも、晴持の過大評価であったのだろうか。
銃声が南郷谷に轟く。
乾いた冬の風に乗って、遠くまで轟音が響き渡る。
銃撃戦によってこちらにも、多少なりとも死傷者が出ているが、島津軍の死傷者は大内軍の死傷者の数倍にもなるだろう。
中には柵に取り付き、乗り越えてくる猛者もいるが尽く討ち死にしている。
「頭がおかしいのか。死を恐れないって、簡単に言うけど……そんな単純なものじゃないだろう」
つい、そんなことを口走ってしまう。
武門の家系に生まれると、大概の者は死を恐れない猛将たらんとする。生き恥を嫌う民族性というか、武将の生き様のようなものが呪いのように纏わり付いている。いつの時代の武士も軍人もそういう理念で現実に打ち勝とうとする。もちろん、人間は生き物だ。本能的に死を忌避する。だから、死ぬと分かっていて討ち死に覚悟で行動するというのは、本能に打ち勝つ教育や環境があってのことだ。
朝鮮戦争の際に、中国軍は米軍が仕掛けた地雷原に犯罪者を突撃させて地雷原を突破しようとしたと聞いたことがある。
島津軍がしていることは、それに似ている。違いがあるとすれば、突撃してくるのが犯罪者ではなく、島津軍そのものであるということか。
「やっぱり、考えなしに突撃させているとは思えないな」
長期戦を嫌うにしても、ただ突撃を繰り返すだけでは事態の打開には繋がらない。
総攻撃というほどではないにしても、非常に力の篭った突撃は、ともすれば柵を突破してこちらの懐に飛び込んで来かねない勢いがある。
「その通りです。あの島津家が無策に攻撃していると思うのは危険です」
凛とした声。
車椅子で現れた道雪は、いつもと変わらぬ優美な容貌で微笑を湛えている。――――そこに、余計な感情はない。ただ、場を和ませるための技術の一つであって、内心の余裕はなく、冷静に戦の趨勢を見つめている。
「道雪殿、そちらの様子は?」
「こちらの変化はありません。島津軍の攻撃は先手部隊によって完全に阻まれておりますので。前線の被害が徐々に広がっていますが、損耗の度合いは島津の方が大きいでしょう」
「俺たちが見た通りか」
「今のところは。ですが、晴持様が仰るように、島津がこれで終わるとは思えません。どこかで、さらに大きな攻勢を仕掛けてくると思っていいでしょう」
「どこか、とは?」
「それは分かりません。ですが、彼女たちの狙いは十中八九、あなたです」
道雪が晴持を指差した。無礼、と咎める者はいなかった。それを分かった上で道雪は晴持を指差している。それだけ差し迫った状況であるということを端的に伝えているのだ。
「島津にはそれを為すだけの力があり、策があると考えて事に当たるべきでしょう」
道雪が言うことはもっともだ。
ただ、それが何か分からないのが不安だった。
これまで、見事な戦術でジャイアントキリングを達成してきた島津家が無為に将兵の命を散らせているとは思えない。
無策な突撃に見えることが、異質さを際立たせていた。
戦は膠着状態に入り、守る大内軍と攻める島津軍という構図に変化がないまま一月余りが経過する。
島津軍の攻撃も数日置きに小規模なものが断続的に続いていたが、大内家の守りが決壊するようなこともなく、島津軍が目を見張るような横槍を入れてくるようなこともなく、石橋を叩いているような慎重な戦運びが継続していた。
じりじりと島津軍は大内軍の前衛を削っている。
だが、それだけではジリ貧であるということくらい、誰もが分かっているだろう。島津軍が削った大内軍以上の人員を島津軍は喪失しているはずだからだ。
彼女たちの次の一手がどのようなものなのか、ということを大内軍の誰もが図りかねている。
守りを固めるということは、結局のところ相手の出方を待つということだ。受身である以上、敵の策を事前に潰すというのは困難であった。
大内軍左翼先手部隊は、国人衆の混成部隊である。国人それぞれは、単独で備を作れるほどの兵がいないので、より大きな勢力に与力してその指揮下に入る。
左翼先手は筑後国の黒木隊が取り纏め、複数の国人たちを束ねている。
その中に日向国から参陣した伊東家も入っていた。
日向国に根を張る伊東家は、南北朝時代までは日向国の守護であった島津家に仕えていたが、その後島津家が分裂し内乱状態に陥るとその影響下から独立し、日向一国を支配するまでに成長した。
それが、数年前までの伊東家である。
今は、島津家に追い落とされ、大内家に拾われる形で何とか日向国の中央部に領土を保持している。
島津家は旧主であると同時に、仇敵でもあった。
この度の出兵では島津家への抑えのために兵を割いたため、伊東家の将兵は200余名と言ったところであろうか。
率いるのは伊東祐兵。伊東家の当主である義祐の孫に当たる。
「また島津が攻め寄せてきた」
わっという島津軍の大声に、祐兵は眉根を寄せる。
まだ歳若い元服を済ませたばかりの武者である。
彼がいるのは最前線である。島津軍の猛威を間近で受ける位置である。
左翼を任された国人たちと連携して、柵に近寄ろうとする島津軍を押し返すのがここ最近の祐兵の仕事であった。
「戦ではあるのだろうが、戦とも思えぬなぁ」
繁栄を極めた伊東家を追いやり、没落させたのは他ならぬ島津家である。その島津家が、柵を越えることなく屍を曝し、無為な突撃を繰り返している。
まるで、岩に叩きつけられる波のように、跳ね返されては散っていく。
銃声が鳴ると同時に、敵軍の誰かが倒れる。簡単な仕事だ。こちらは向かってくる敵に、飛び道具を浴びせかけるだけなのだから。
「祐兵様。島津軍が撤退して行きます。如何なさいますか?」
「如何も何も、柵の守りを固めよというのが総大将の方針であろう。ならば、そのようにすればよい」
柵に篭り、敵を撃つ。
本当にこれだけなのだ。
この一月余り、島津軍は徒に突撃を繰り返しては、返り討ちに遭ってばかりである。
「さすがの島津も大内家を前にしては形無しですね」
「このまま戦が進めば、自ずとお味方の勝利は間違いありませぬ」
口々に家臣たちが祐兵に声をかける。
今日も一日が終わった。島津軍を追い散らした国人衆たちは、夜襲に気をつけつつも、戦場の愉しみとして酒を口に運び、労を労いあった。
「南郷谷が島津の墓場になるのも時間の問題よ。彼奴らはこの柵よりこちらには一歩も踏み込めぬわ」
「島津の姫も、そろそろ頭を垂れに来る頃合ではあるまいか」
「あの鬼とまで恐れられた島津義弘が地に伏す時が近いか。雌伏してきた甲斐があったというものよ」
伊東家の島津家への反感は強い。いや、伊東家だけではない。島津家に領地を追われた国人や小領主は少なくないのだ。その島津家が、まったく歯が立たない。まるで的当てのような感覚で、バタバタと敵が倒れていく。
強大だったはずの敵が、逆に自分たちの手で倒されていくというのは、嗜虐心を煽る。
「殿、しかしこのままでは伊東の名が立ちませぬ」
祐兵に酒を注ぎながら、伊東家の重臣である落合兼朝は静かに語りかけた。
「名が立たぬ?」
「はい。確かにここを守るは我等のお役目。ですが、直接切り結ぶでもなく、鉄砲と矢によって追い払うばかりでは武門の名折れでございましょう」
「それは確かにそうだ。言わんとすることは分かる」
「私は無念です。島津の首が目の前にあるというのに、これをただ見ているだけというのは。逃げる敵を敢て生かしても、翌日には我等を討ち取りに来るだけ。戦えるときに戦わず、情けをかけるのは、後々の禍となりはすまいか……」
「落合殿。仰ることは分かるが、我等は白川を死守するのが役目。確かに武門の意地もあろうが、貝の如く守り、攻め寄せる島津を退けることが肝要であると立花様も仰っていたではないか」
祐兵は大友家に起居していたことがあるので、道雪とも顔を会わせたことがある。左翼中段には元春の部隊が配置されており、背後に元春がいてくれるというのは強い安心感を与えてくれる。
「左様です。私も分かっておりますが、何よりも悔しいのです」
「悔しい?」
「日向一国を治めていた太守たる伊東家が、今や……」
兼朝はふと周囲を見回し、喧騒に満ちた陣内に目を配ってから声を潜めた。
「このような小さな陣に、それもどこの馬の骨とも知れぬ黒木家の采配を受けねばならぬということが、堪らなく悔しい。一つ、敵のよき大将首と手合わせし、伊東を再び日向の太守としたいと思うのはおかしいことでしょうか」
「む、ああ。何もおかしなことではない。それには同意する」
祐兵も伊東家の繁栄を知っている。もちろん、父が様々な問題を抱えていたことも事実であり、困窮と命の危機に陥った苦しい時代も知っている。
「俺も、叶うのならば伊東家をあるべき姿に戻したいと常々思っていたところだ」
「さすがは祐兵様です。此度の戦で武功を挙げれば、大殿も喜ばれましょう」
「だが、柵を越えず、島津を追い返すというのが、此度の作戦の要であろう。それはどうするのだ?」
「島津軍は思いのほか柔弱。この一月、彼奴らは寄せては退くを繰り返すのみです。数日の後にまた攻めてくるでしょうが、何のことはありません。また追い返せばよいのです。そして、敵はいつも通り追い討ちをしてこないと油断するでしょうから、そこを追撃してしまうのです。そうすれば、祐兵様は多くの首級を挙げ、第一の武功を立てることができましょう」
「ふぅむ、なるほど」
祐兵は興味を持ったようで、重臣の言葉に耳を傾けた。
日向国のごく一部に追いやられた伊東家を再興するには、確かな武功を挙げて大内家から領土を与えられなければならない。
そのためには、確かに守っているだけでは状況の改善には繋がらないのだ。島津家は倒せても、伊東家には
「しかし軍規に反する行いだと、後で非難されてしまうのではないか?」
「祐兵様、お忘れですか。大内家が何を大義に日向に押し入ってきたのか」
「それは……阿喜多様を救援することだろう」
「如何にも」
兼朝は満足げに頷いた。
阿喜多は、祐兵の亡き兄義益の妻で、一条家から輿入れしてきた姫である。まだ幼さを残した年齢で、今は豊後国で寺に入っている。
総大将である晴持にとっては、姪に当たる人物で、日向国に討ち入った際の大義名分は阿喜多の安全を確保するというものであった。
「大内家にとって伊東家は特別なのです。何せ、日向にて島津と睨み合っているのは他ならぬ我等なのです。さらに阿喜多様の存在……多少軍令に背いたとしても、成果さえ挙げていれば問題にはなりませぬよ」
「なるほど……確かに……」
伊東家の立場は決して安定しているとは言えないが、大内家にとっては島津軍の日向国討ち入りを防ぐ防波堤の役割をしている勢力だ。一条家との血縁もある。黒木家のような島津家と国境を接していない勢力と違い、その有無が戦の趨勢に関わると言ってもいいだろう。
国境の言わばどちら側でもない勢力を如何に引き入れることができるかというのも、戦の重要な視点になる。明確に大内家に味方をすると表明している国境沿いの国人が伊東家という名のある勢力なのは、大内家にとって非常に大きい――――と思えた。
「多少の非難は成果で黙らせることもできましょう。何より、伊東家は日向の名族。このまま、名を挙げずに燻っていることがどうしてできましょうか」
「ああ、そうか。確かにその通りだ」
酒を口に運びながら、祐兵は頷いた。酔いが回っているので、気分もいい。
「して、どうするのだ? 何か考えがあるのか?」
「簡単なことです。島津軍の撤退に乗じて、追い首をすればよろしい。これまで見てきたとおり、この守りを突破することなど、彼奴らには不可能。となれば、逃げ惑う鼠を駆除するが如く首を取れましょう。どの道、我等が出れば、他の者どもも負けじと兵を繰り出します。時節を誤らず、思い切って駆けなければ、名を挙げる機会はありませぬ」
「うむ」
祐兵は頷いた。
そして、周囲に目を配る。
酒が入って喧騒はさらに大きくなっている。二人の声は、誰にも聞こえていないようだった。
「この儀は直前まで誰にも話してはなりませぬ」
「味方にもか?」
「無論です。黒木等に抜け駆けされては、堪りませぬからな」
「もっともだ」
伊東家が第一に功を立てるためには、一番に飛び出す必要がある。左翼の国人たちは決して伊東家に肩入れしてくれているわけではないのだ。
彼等は味方であると同時に功を争う好敵手である。出し抜くには、情報を漏らさないように細心の注意を払わなければならない。
祐兵はさらに酒を煽った。
酔い潰れるほど飲みはしない。夜襲にも備えなければならないからだ。それでも、気分が高揚する程度には酔いが回った。
果たしてこの昂揚感は酒の所為だけではないだろう。
己が、一廉の武将として名を挙げる好機が目の前に迫っている。そういう実感が、ふつふつと祐兵を滾らせているのであった。