Fate/deep diver ~天月の逆杯~ 作:幻想の投影物
見苦しくも続けてしまいました
Brack extreme
堕ちていく。
ただ、ひたすらに。
我々は知る由もない、世界の狭間だった。
ただ、世界の衝突を避けるためだけに作られた緩衝剤。
無というゼロを置くことにより、有を成り立たせる形容しがたきもの。
ただ広く、ひたすらに狭く、何もかもが概念的に働かず、独自のルールのみが自由に存在する混沌とした無の果て。
ただ一人、そこには全ての内包せし魂を失った有体があった。
黒く、泥のようにこびりつく小汚さ。
ずいぶんと以前に命の光をなくしたにもかかわらず、精神と魂のみで存在する現実世界の謀反者。誰が見ても偏に悪と断じ、手を指し延ばすのもけがらわしいと感じる悪意の塊。
それが、それこそに、実態を見出すというのならば。それはただ一人の愛する者とともに消えることすら許されなかった憐れなるモノ。
伸ばした手は虚空をつかむ。感触のある虚空は、空気が凝縮されているか、目に見える不可視の物体がそこにあるか。我々の知る由ではないのだろうとは推測しつつ、彼はその手につかんだものを用もないと言わんばかりに手放した。
掴みなかったものは、こんなものではない。己の魂を分け与え、ただ寄り添ってくれる博愛をくれたただ一人の存在。そこに男女としての愛は無く、人間としての数多なる愛にしか意味を作れない歪な関係を持った存在。それこそが、彼の愛した、彼が愛されたただ一人の存在。
想う女は純粋な人ではなく、己もまた人を捨てたただの泥。ああ、無機物と人外の寄り添う姿。いかなる無様さか、いかなる滑稽さか。かつての対峙せし、
いや、それらもまた泡沫にすぎぬ。
泥の底より出でて、ぱちんと弾ける無数の泡。彼にとって人間とは、そうして泥の存在を主張してくれるようなものでしかなかったのだろうか。いや、親身になって愛を囁くべき存在であったはずだ。そして何より、形容しがたき悪であろうとも、その悪を取り除いてなお愛でるべき、矮小にて尊大、卑賤にて高貴。それこそが、人間であったはずだ。
再び、堕ちる。堕ちていく。
かつての神は、選択を無くすといった。たった今、確かに己は選ぶ権利すら剥奪されている。ああ、嗚呼、全くその通り。悲観すべき感情は、己そのものが吸い取り、昇華し、力と成す。悲しむべき感情すら取り上げられた、哀れなる獣。人を捨て、命を超え、世界をまたにかけ、何一つとして成長なく、当初からはおおよそかけ離れた変化を見せる泥。
泥もまた流体。流れる。流れていく。
何一つとして選択肢を与えられない哀れなる存在は、再び、世界を超える選択を迫られた。想いし者に、魂の片割れを
深淵たる闇。この意識を持つ者は、嘆きながらに落ちていた。されどその嘆きすら、己の体が力へと還元してしまう。彼にとって負の感情などという人間らしいものは、持つことすら許されないかのように。だが、それでいいと彼は、アンリは思う。
人ではないのだ。罪であるのだ。己のあるべき魂の階位。それを逸脱し、世界からはじき出される運命を自ら受け入れた世界の渡航者。そのような無責任極まりない己という個など、負の感情を持つことすらおこがましい。
魂を分けた片割れ。あるべき恋をも無くした、その他ありとあらゆる愛を抱いた彼女の喪失。それは何よりも苦しかったが、それすらも、彼にとってはもはや過去。あの世界から零れ落ちてから、はてさて、どれだけの時間が経過していたのだろうか。
一時間、一日、一週間、一カ月、一年、一世紀。時間のくくりはありとあらゆる混沌に覆い隠される。体感したこの狭間での日々に、時間という概念は働かない。記憶に残そうとも、何をしていたのかということのみに集約し、約数時間前に何をしていたという時間の部分は完全に分離され、破却される。
嗚呼、暇だな。と彼はごちる。
海面を漂う海藻は、死滅したがゆえに身を任せ続ける。
死にながらにして生の体を持つ彼は、死なずして混沌の狭間へと身を投げた。
収束するのは光。いや、差し込んでいるのが光であったか。曖昧という言葉ですべてが片づけられる世界。その、狭間の空間。彼はこの長い長い世界旅行の果てに、一瞬の間に次の世界へ放り込まれることが決定した。
この間、ずっと鍛錬を怠っていたという訳でもない。ただただ、己の内面へと埋没し、かの御仏に浄化されし魂がいた己の中で武をふるう。相手は、己―――が模したかつてのサーヴァントたち。しかし結果は、悉く惨敗。それも当然だろう。
キャスター、あの存在は、やはり大きい。それを再認識するぐらいに、アンリという単体の戦力は弱かった。たった一人では何もできないという典型例を体現した存在。他人がいなければ何をするにも不完全。その内に、外に、他人という存在があってこそ彼は初めて意味ある結果を残すことができる。意義ある過程を過ごすことができる。
さぁ、光はもう目の前だ。
小さな、小指の爪先程の小さな穴。とてもではないが、人間一人が入れるはずもない穴を除く。混沌とした世界につながるそんな小さな穴は、やはりそうした穴が開くだけの理由があるらしい。アンリの保有する泥の、ほんの一部の邪悪さを感じる魔力が流れている。
この先にあるのは外道の法か。はたまた邪悪が放つ強大な力の跡か。
張り巡らせる様々な憶測を―――すべて投げ捨てる。
新たな世界に、無粋な感情は何一つとして必要はないだろう。あまりにも身勝手な理由を抱きながら、彼はその形を崩していく。偽物で作った、生前のガワを模した人型ではない。彼が元あるべき姿、不定形で流体かつ増量し続ける悪なる泥。眼前にある、針の開けた穴よりもなお細かな空間のほつれに、彼は泥の先からぬるりと這い擦り込んだ。
どうにも、無気力だ。彼は新たな世界に来て数日間、そのようなことを思い続けている。片手に持ったたい焼きをかじりながら、味を楽しみつつ彼が来たことで自動的に治安が良くなり始めた再開発されはじめた都だったものを練り歩いているのだが、とてもではないが、その姿は英霊として戦うものには見えようもない。
黒地に赤色で「泥遊び厳禁」と書かれたTシャツの上に、適当な黒いコート。冬用のジーンズは少し格好つけている世代の普通の青年にしか見えない。もっとも、そのTシャツだけは誰が見てもセンスなしと断言できるだろうが。
さて、そんな彼がこの世界にきてやってきたことは、まぁ情報収集である。
一度自分の力の起源となっている世界に紛れ込んだからか、この冬木という街の存在する世界はまたもや聖杯戦争の舞台となっているらしい。召喚時に流れ込んできたサーヴァントとしての知識からしてそれは確実である。ただ、惜しむらくは自分が月の聖杯戦争と違ってマスターではなく、サーヴァントとしての地位しか持たないということだ。
その右手に残ったキャスターの令呪。かつて己の体表に描かれた呪いの紋様よりもなお赤き輝きを放っていたそれは、今や灰色の色を失った刺青としての意味しか持たない。このシステムは、令呪という名称を同じくしても、
「……どうにも、疲れちまうわなぁ」
心労、というものでしか彼に疲労するという概念はない。
肉体はガワを形作った偽物。泥遊び、泥人形。ただし悪意によって作られる。
始まりの姿は、どことなく、あの月の聖杯を求めた時のものに似ていた。
数日前、だった。
ほんの数日前。彼はこの世界を訪れた。
しかしそれは、阿鼻叫喚の世界から始まっていたのだ。
怨嗟、生への渇望、死の諦観。大々的な感情は、この程度。
あとはその下に連なる、感情という人間特有の醜いものが巻き散らかされたばかりの都市に、彼はその災厄となったものそのものを通して生まれ出でた。彼に肉体という概念は意味がないが、その時にどうやら受肉らしき概念を受けたらしく、この世界にいても妙な抵抗感や排斥感、世界の抑止力から送られるような圧力はない。
だが、この光景はどうにも思えぬ死の楽園。ただ一言、その悪意の泥――己の本質と似て非なる物へ飲み込まれた人間が暮らす土地を、巴アンリは馬鹿げたように呟いた。
「救いようがねえよ、まったく」
己に助けを求めたのか、原爆の被害者のように外皮が焼けただれたゾンビのようになってなお、まだ命がある者たちが手を伸ばす。しかしそれを、彼は自らの泥で押しつぶし、救われない聖杯へと吸い込まれる筈の魂を奪い取りながら殺していった。
着々と、3秒の間に10人分の魂が己の偽りの楽園たる「内側」へと入り込んだ。最初のなぜ殺した、という心地の良い敵意と殺意がアンリに向けられ、そうしてようやくアンリはこの世界で己の存在に軛を打つ。
はっきりとした肉体を得た彼は、サーヴァント・アヴェンジャーとしての服装を隠さぬまま悠々とその地獄の中を練り歩いた。
手がのばされては、勝手にその命は潰える。
手がのばされては、アンリが命を摘み取る。
その、ただひたすらな繰り返し。10秒後に終る命を1秒後に吸い取って、彼は着々と己の中から消えたはずの魂を補填していった。
ただの作業にしか見えずとも、彼にとっては貴重な魂。消費されるばかりのこの世界で、せめて正しい輪廻に戻してやるべき運び屋。かつて力を与えてもらった神のもとへとこれらを運び、もしくは以前の「セイヴァー」のように浄化と共に昇天させてもらう。
その過程で、自分が憎まれるほどその魂は穢れを落としていき、より清純となって輪廻を遂げる。Win-Winの関係だな、といつか笑ったこともあった気がする。ただ、力として飼殺すだけが自分のやり方ではないとアンリは再び己を嘲笑った。
さて、そんな地獄だった場所から正しく蜘蛛の糸としての役割を果たそうと死した町を練り歩いていたところ、ふと彼は人間の形を保った、それでいて無事なものを見つける。
それは、母の骸に抱かれている子供であったり、這う這うの体で助かって何とか歩けるといった具合の大人たちである。
さすがに、この恰好のままでは怪しまれる。まだ生きた人間に悪意をもらうのは早いだろう。そう判断して、アンリはいつものライダースジャケットをいくらかボロボロにし、自分の肉体がいかにも怪我を負ったという風に作り替える。
そうして、悪人面を彷彿とさせながら凡人の域を出ない顔を明るく形作り、その生存者たちの場所へと走り出した。
「おおーい、テメェらも無事だったか!」
「誰だ…生き残りが、まだいたのか?」
その生き残りは、およそ10人ほどの集団。自分が生まれた爆心地にも同じ意味の場所から少し離れた場所とは言えど、運が良かったのか、何かの巡りあわせか、病院に運べば普通の生活を送れるだろうほどの軽傷な者たちばかりだった。
その集団の中でも、老け込んだ、年長者として代表にでもなったのかボロボロの衣服になりながらも手放しに自分以外の生き残りがいたことへと、瞳に喜色を浮かべて歓迎する。その歓迎にアンリはつけこみ、よかった、と一息をついた。
「なんだったんだろうなこの火災……せっかくベンキョーして日本に来たのに、散々だなぁオイ」
「ああ、外国の方か? すまないが、手を貸してくれ。そこの兄さんと、二人の子供が歩けないんだ」
「こんな時だ、協力してくれると助かる」
五体満足、といった風の男の声。そちらを見れば、なるほど。両足を折ったり、腹に刺さった物の激痛のせいで動けないらしい3人の重症者がいる。
「この子の家族は?」
「いや……崩落した家から、偶然泣き声を聞いて助けたんだ。恐らくは」
「そうかい、いらねぇ事聞いちまったな」
「と、ともかく。近場の病院まで運ぼう。深山町の方までは火災は流れてないらしい。大橋を渡れば脱出できると思う」
「そうだな、外人の兄ちゃんはそこの子を一人頼んだ。俺は、こいつを背負っていくから」
そう言って、年長の彼は腹に血濡れの何かが突き刺さった青年を抱え上げた。
改めて見れば、女性の姿は2人ほどけが人が3人、5人の壮年の男性がこの集団にいるらしい。じゃあ、11人目か、と割とどうでもいいことを考えながらアンリは子供の一人を抱え上げる。両足が折れ、骨が突き出ているのに気絶していないその子は、痛いだろうに泣き疲れたのか、そんな気力すらないのかぐったりとしながら時折痛みにうめく程度の反応しか見せなかった。
ざりざりと、綺麗なアスファルトだったらしい道を踏みしめながら、土地勘のある先導の壮年についていく。命あってのものだねか、この行進に会話らしい会話はない。憔悴しきった、人間のもろさが見えていた。
それから、数十分後。ようやく橋を渡り切った彼らは、アンリ含めて橋の方で待機していた救助隊に保護された。ここまで運んできた重症者は先にヘリコプターへと預けられ、他の者は緊急搬送用の車両に乗り込んで病院へと向かう。
アンリも偽装した傷跡にガーゼを張られながら、大人しくそれに従い近場の病院へと担ぎ込まれるのであった。
その後日、医者の話によればこの火災で新たに戸籍登録などの手回しがなされるようで、災害の生き残りにはこれからも暮らしていけるような配慮がなされるのだと話を聞かされた。これ幸いと、新都の方に暮らしていたという嘘をついたアンリは、これに乗じてこの町で暮らす権利を手に入れることにした。
追って、連絡があるからと渡された簡易携帯端末と名刺その他を支給されたバッグに入れながら、しばらくは病院近くの施設で暮らすことになるらしいと今後の身の振り方を思い出す。
そうして施設とやらの方に向かおうとしたところ、ふと、彼は「魔力」の整った流れがあることに気づいた。
「……あれは」
その光景は、なんとも言葉にしがたい光景だった。
黒づくめの、ボロボロのコートを羽織った男性に、喜んでいるらしい赤銅色の髪を持った男児。年のころはおよそ5~8といった曖昧なところか。どうにも、その髪色や子供らしくない空気が年齢をあやふやにさせる。
しかし問題なのは、その光景にアンリが見覚えがあったということだ。
彼の頭の中では、その光景からとあるシーンが思い浮かぶ。
数十年と世界を渡り歩き、時を過ごしても、彼には人間の記録方法は通用しない。一度得た記憶を呼び覚ましながら、知識と今の光景を照らし合わせ、そして納得した。
この世界は、自分が望んだこの力の源流。イメージ元となったあの世界だと。
そう思ってからの行動は早い。その二人のもとへと近づいた彼は、すぐさま話をしようと口を開き―――
「ただいまー……」
そして、数日前の回想から今に至る。大きな日本屋敷の門を潜り抜け、手ぶらのまま玄関から靴を脱ぎ、遠慮もなく奥へと進む。それもそうだ、もう、この家は自分が暮らす家でもあるのだから。
右折した先にある居間には向かわず、土蔵にいちばん近い部屋へ。そこで寝呆けている黒い物体をみつけた彼は、何の遠慮もなくソレを踏み抜いた。
「起きろクソ親父」
「ゲッフゥ!?」
黒い物体は人であったらしい。コントのようなわざとらしい悲鳴を上げながら京セ体的に目を覚まさせられた彼は不服そうであったが、その訪れたアンリを見るや否やすぐさま目付きを敵意入り混じった警戒のものへと移行させた。
雰囲気は重く、先ほどまでの軽い空気は霧散したことがよくわかる。
「君か、またぞろ殺そうとでもしているのかな」
「バッキャロウ、んなことするよか怨霊吸ってきた方がマシだっての。今日もダイブするから体貸せ、半死人」
「……それで、いつも聞くが君が何をしたいのかが分からないな。僕は君に救われるようなことも、何もしていない。それどころか……」
「愚痴言ってる暇あるなら少しでも殺した人間背負う覚悟決めろ、正義とかいう自分の信念ですらなかったもんに振り回された挙句の果てがアレなんだ、生きて幸せになって存分にあの世で殺されてこい。それが一番の罰だっつの」
「……そう、かもしれないね」
敵意は、失墜へと変化する。
何もかも、憔悴しきって諦めたようにも見えるこの男、くたびれたオッサンといった風情のただの人間にしか見えない彼は、正真正銘この冬木という町が炎に包まれる原因となった内の一人、第四次聖杯戦争のマスターのうちの一人である。
名前は、「衛宮切嗣」。名は体を表す、というように聞いたままの起源をもち合わせた魔術師であり、かつてはその魔術師らしくない現代兵器の多用、数多の害となり世界を賑わせようとした魔術師を一般人ごと巻き込み永遠に沈黙させる「魔術師殺し」という異名を持ち合わせた男であった。
それが、今では呆けて力をも無くしたように見える老人のごとき雰囲気しかまとえていない。それが、この男がすべてを失い、それでも生きているという証のようなものであろうか。何かを取り戻そうとする気兼ねを失い、それでも何かに縋り付いている彼はさながら彼が殺し続けてきたうちのグールの一体のようでもある。皮肉なものだ。
「生きろ、生きてりゃ死後は考えなくていい。罪なんざバレなきゃいい。知られても経験がそいつの感性を誤魔化してくれる。嘘ついて、負に塗りかたまってても、生きればいいことも悪いことも全部やってくるさね」
「……ひどい奴だ。君が士郎のそばにいることが、不安でならないよ」
「カッ、そいつはいい。だったら不安解消できるように精々生きて未来でも掴んでろ」
切嗣の額に手を当てる。一瞬身をこわばらせた彼は、彼の言葉で未来という単語に小さな反応を見せた。目をつむり、彼の邪悪な波動を受け入れるように。
「それじゃ……お願いするよ」
「応、あと一週間もすりゃ全部持ってける。魔術刻印含めて精々があと50年の命だろうが、ゆっくり馬鹿どもが馬鹿やらかさないよう生き延びな」
この家の結界を揺るがすが、決して外には漏れ出ない程度の衝撃が波を打つ。黒々とし、嫌悪感を与える魔力がただ、切嗣の額に集中して流れこんでいく。彼の体の一部が人間の魂の根源へと、額という物理的な位置から侵入したのだ。人の体積を大きく超えた泥の量は、下手を打てば内側から切嗣という男が風船のように弾けてしまう危険性もはらんでいる。
しかし、これも既にこの数日間続けてきたもの。双方ともに慌てる様子もなく、ただ事の成り行きを見守るかのように、当事者たちは現代社会においてこの世在らざる筈の魔術といったファンタジックな行為を行っていた。
そうして、切嗣から逆に吸い上げるようにしてアンリの手のひらへと悪意の魔力が戻っていく。注ぎ込んだ分よりも量を増した本家本元の聖杯の汚染された魔力は、アンリの中で渦巻く力の一つと化した。
「……体治るまで無茶はやめろよ。休ませて、魂を安定させろ。まだ何かしようとしているのなら、な」
「わかってるさ。言われるまでもないよ、サーヴァント」
せめてもの反抗的なものいいに、アンリは肩をすくめるばかり。アンリとて、この家に滞在する時に話せることはすべて話している。抱いていた愛の意味は違えども、それぞれに愛しき人を亡くしたばかりのシンパシーはあったのだろう。向けられた中身の無い悪意を浴び、何を思ったかくつくつと肩を上下させて切嗣の部屋を出て行った。
するするする、ぴしゃり。
閉められた戸の音を聞いて、ようやく緊張が解けた切嗣はごろりとその場に寝転んだ。先程よりもずっと体は軽くなり、感じていた魔力的な恐ろしげな死の気配も己の中から消失している。
切嗣は彼の話を思い出す。彼は、おおよその定義としてはこの冬木に存在する聖杯の泥と同質の存在でありながら、サーヴァントとしての側面をも持っているのだと言っていた。しかし、明確な指向性と意志を持っているかが、この地にある泥との決定的な差であるとも。
「……治ったら、どうしたらいいんだろうね」
失ったばかりの男が、何かを取り戻すために行動を決意するには、まだ時間が必要らしい。光を映さない瞳をぼうっと天井に向かせながら、衛宮切嗣は現状の不可解さをかみしめていたのだった。
「ういっす、坊主。帰ったぞー」
「おかえりー」
切嗣の部屋を後にして、アンリは衛宮邸の居間へと訪れていた。
アンリも士郎に乗じて切嗣に引き取ってもらった形となるため、戸籍上は苗字が違うが住所を同じくして暮らしている。そして、その際にも士郎へはある程度のアンリという存在に対して話してある。もっとも、まだ士郎が魔術について教わろうとはしてこないために、せいぜいが一般人レベルの紹介だったが。
なんにせよ、早々にして打ち解けた二人はこの数日間で、家事に対する師匠と弟子のような関係になっていた。アンリの記憶の奥底にあるブラウニーと名高い家事スキルを修得すると見越しての行動だったが、実際のところは簡易的な料理ですらも焦げと炭の塊にしてしまう切嗣の料理スキルの低さ、そしてこの広い家での三人暮らしを何とか成立させるための最終手段でもあったらしい。
また、アンリは、我々が想像する「バゼットのサーヴァント・アヴェンジャー」ではなく、彼自身の前世の姿やそれに加味した青年(約24~28歳)の姿であったため、大人として士郎は彼のいうこともすんなり聞き入れてくれる。たった数日しか過ごしていなかったが、変な不信感もなにもなく、士郎のおかげでアンリはこの家に溶け込めたというのが正しい認識だろうか。
「今日は炒めもので済ませちまうぞ。いつかうまい飯作れるようさっさとオレの飯スキル突破してくれよ」
「わかってるって。それに料理って楽しいからさ、兄ちゃんに言われるまでもないよ」
「かっかっか、ソイツはいい。将来が楽しみな
じゃっじゃっ、とフライパンを振るって炒飯を作り上げていく。アンリの腕前は月の聖杯戦争でみせたようにオーソドックスなものしか作れないが、手際の良さと評価は余程でなければ不味いとは言われない類のレベルだ。
正しい教え方はせず、日々精進あるのみと士郎に教えながら、アンリはひょいひょいと米をひっくり返し、士郎に切ってもらった玉ねぎ他炒飯用の野菜を放り入れる。豪快さは飛び散るような危なげはあったが溢れることもなく、野菜の焼ける香ばしい匂いがキッチンに充満し始めた。
「さすがに黄金たぁ、行かねえわな」
「うん? 何のことさ」
「いんや、坊主が気にすることじゃねえとも。オラ、そろそろ出来っから皿持ってこい」
「分かった」
「美味しそうな匂いじゃないか」
士郎が皿をセットしていると、シャッと襖が開いてくたびれた男が現れる。
「って、なんだ。君か」
「ぃよう子煩悩。坊主のメシ食いたきゃあと数ヶ月は待ってろ駄目男」
「ひどいなぁ、僕って君にそう言われるようなことしたかい?」
「雰囲気見りゃ分かる」
「……そういうのは、せめてこっちに向き直って言うもんだと思うよ」
フライパンを振るっているアンリが背を向けたまま言った言葉に、苦い笑みが浮かぶ切嗣。そこに士郎が持ってきた皿を並べて、そこにフライパンから赤みがかったケチャップ味の炒飯が3等分された。
「まだ味噌とか買ってきてねえんだわ。切嗣、テメェの口座いい加減オレに使わせろ」
「嫌だよ、君はあくまで衛宮姓じゃないだろう」
「悪用なんざする筈ねーっての。オレがそんなに不誠実なヤツに見えるか?」
「兄ちゃんは鏡で悪人面見たほうがいいよ」
「…こうなったもんは
「君はそういう悪意の方が好ましいんだろう?」
「それとこれとは話が別だ、ってか、んな話題ガキの前で持ち出すなよ」
減らず口を叩き合いながらも、ひょいひょいと食卓が並べられていく。まだまだ不格好な、士郎の切った玉ねぎ。伝手で切嗣が貰ってきた肉の薄切り。それらをまとめて作り上げたアンリの炒飯。
3人共が何かを失っていたが、また、この食卓では新たに得たものもあったらしい。
キャラがぶれているような気がしてならない。