Fate/deep diver ~天月の逆杯~ 作:幻想の投影物
この二次創作には残酷なシーンが含まれています。
生理的嫌悪を覚えた方は、一気に中腹まで飛ばしてもかまいません。
なんちゃって。
そんな注意はどこにある?
ここにあって、どこにもない。
言葉遊びが好きなのに、言葉遊びが好きなのね。
―――否定はできないだって、だってだって、だって、だって? なんだってっっ、て、っ。
ああもう、現実は
疲れから来ていた眠りは酷く、例えるならば泥沼の中に沈んでいるかのような闇が瞼の裏側から遅い来るようだった。そういった彼女の睡眠という経験も、やはり時がたてば有限の終わりが訪れる。それは死のように唐突に訪れることもあれば、決まっていたひつ実だからと言って訪れることもある。
眠りとは、本当に
思っている間に、ぴくりと、不思議の国から飛び出して、現実の帽子を忘れて行ってしまったような少女が小さく薄い、それでいて非現実的なほどにはかなさを感じられる瞼をぱちぱちと瞬かせた。本当のアリスのようで、彼女はやはり紛い物でしかない。それでも言える事はただ一つ、彼女の中ではある一つの感情だけが支配していた。
――ああ、眠い。
起き抜けの人間としては、それはとても正しい反応だっただろう。ありすという彼女に対しての呼び名は諸説、俗称、あだ名、さまざまなものがあるだろうが、人間の少女の一人であることは間違いないのだから。
「……き…」
おきて、だって?
わかっている。ああ、わかっているから。今日くらいは寝かせてくれてもいいじゃない。
そんな頑張りに称されるような行為を求めて再び瞼を閉じた彼女は、なおさらに呼び掛けられ、体をゆすられる。だがしかし、どういったことだろうか? いつもなら、優しさを帯びた言葉が耳の中にすぅっと入っていき、この目が覚めるころには眠気の代わりに愛する者たちの笑顔が見えてくるはず。だというのに、あたしが感じているのは無骨で、冷たくて、痛いほどの小突く様な起こし方。
甘えだって分かってる。――――ああ、もうわかっちゃってるもの。
「おきろ」
ただ、この言葉はそんな優しさとは無縁な存在。
単に起きろ、という命令だけを含んだ。そんな冷たい感情が支配する、ありすが嫌いなことの一つであるようにも感じられる。だが、男の声、と言えば自分の父親、そして兄、そんな存在すべてになってくれるあの優しい悪の神様がいるはずなのに。
―――だから、気付いているんでしょう? 目を背けていたいだけ。
「おきろ、小娘」
いっそう、ゆすぶる力が強くなった。
だが、ありすの目は覚めることがない。
いいや、覚まさないようにしているといった方が正しいだろうか。
思い出した。思い出してしまっていたのだ。自分が眠った場所、その危険性と、最大の危険が近づいてくるかもしれないというのに、のんきに眠りこけてしまっていたということを。かの声はあの温かな神々がおわす聖域には非ず。その別の物であるが、一柱の神を盲目的なまでに進行し、おのれの妻と称したモンスターをただ、「愛」という一言とまぎれも無い意味で称えている狂人が訪れる危険地帯。
「…いた仕方あるまい、妻よ、この幼げな少女をどう見る?」
「ウーン……タベチャオウカナ。ドウシヨウカナァ……デモ、ヤッパリ」
ああ、
これが夢であったなら、赤の王でも誰でも良い。鏡の国の様に、胡蝶の夢を象る者ならばと現実から逃げたくなるのは当たり前。あたしはありす。ただのArisu。Aliceでも無ければ愛ちゃんでもないのよ。
だから、どうか今だけは。この恐ろしい怪物を遠ざけるだけの何かが欲しい。
この現実から逃避するための夢が欲しい。
―――でも、決して傷つけたくは無いのだけれど。
ぎゅ、目を瞑った音が耳に入る。こちらを観察しているのだから、確か…ランサーと言ったアレは気付いているのだろう。あの優しい兄でもあり、父でもある存在の敵だと言っても、あたし達はそれにあらがうことすら許されない。抗おうとすれば、世界そのものが自分たちを否定しに来るのだから。
アリスとの思い出を否定される? ―――なんて、無粋。
ありすである事さえ許されない? ―――なんて、残酷。
ああ、でも、残酷なのはあたし達だった。ありすとアリス。鏡の国の裏表。そうでしかない、そうであり続けるために、新しいお穴と新しい
殺す。なんて、分かっている。あたしは、罪を犯したアマガエル。女王のおやつを食べちゃって、べったりクリームを口に付けた哀れで家族もいるカエル。同情される事はあっても、物語で女王の残酷さを見せつけるためだけに、決して救われる事は無い。
あたしも同じ。だって、もう命の輝きはとうに尽きちゃって、あの優しく全てを受け入れる、雪よりも白くて闇よりも黒い太陽の中で一つになってしまう存在。
でも、でも…それでも生きたいよう。
「ランサー、ヤッパリ……イラナイ」
「ならば良し! おお、我が妻よ…その胃袋に、必ずや愛が詰め込まれんことを!!」
やっぱり現実なんて、無情だけど。
あたしもぼんやりわかっていたの、お兄ちゃん。
「―――――!」
掴む力が強くなり、取っ手が軋む。
アンリの中に蠢く無数の魂は、正しく宿主が全ての動き、魂の躍動、感情の変化をリアルタイムで把握されている。いうなれば、永遠の管理された楽園、それでいて管理者は何一つ手を出さない堕落の園が彼の中身。
だからこそ、分かってしまった。
きっと、彼女も粘っていたのだろう。嗚呼、しかし現実は無情である。現実から掛ける情けなんてものがあるのならば、今頃この世は寿命と言う現実から解放された命の戦場と化しているだろう。誰もが己の命を存続するため、欲望と命の終わりが相次ぐ世界へと。
だからこそ、予想はしていたがやはり訪れる終わりと言うものには悲しみが宿り、それらは悲しみを背負った人間を成長させるか、はたまた立ち止まらせるか。
当然、アンリは前者の存在。いや、そうでなければ、そう望まれているからこそ前者であり続けている。完璧でも無い、全てに救いを齎せるわけでもない。彼が望み、望まれている「道化」という役割こそを全うするが故に。道化には、お涙頂戴の場面しかないのだから、それに押し潰されていては道化足り得ない。
「ご主人様?」
「いや、悪い。ありすは死んじまったみてぇだ。…せっかく、体が残っていたのにな今頃、あの敵の槍でバンバラバンだ」
アリーナの目前、いまからでもすぐ転移が出来そうな位置で、アンリは哀しそうにしながら、それでもどこか達観した様子で淡々とありすの肉体が死した事を伝える。そこには上っ面の辛さは見てとれたが、死んでしまった事に対する追及も無い。当然のこととして受け入れているようだった。
キャスターは彼の言い分や態度に関して一言も、二言も言いたい事はあったが、所詮自分も同じ穴の狢であって、主人さえ無事ならありすが死んでもどうという事は無い。死んだ、そう聞かされて心にさざめく波はあったものの、波紋はすぐさま水のうねりに巻き込まれ、想像以上に早く落ち着いてしまう。
いや、どちらかと言えばストンと高い所から寸分違わず型に嵌るよう落とされ、見事に腑に落ちてしまったと言うべきだろうか。
「そうですか、それで?」
「魂はあっちで彷徨ってる。ありすの場合、肉体を何とか残したってだけあって、精神と魂はあちら持ちだからな。…ま、言いたい事はあるが回収しに行くぞ」
「…はい。仰せのままに」
だからと言って、二人は冷徹なまでにありすの「死」を受け入れた訳ではない。
心のさざめきも、すぐに掻き消されたのは心を凍りつかせたからではない。
全ては怒り。持ってはならぬ、高潔な武人達にこそ口酸っぱく駄目だと言われ、諌められるその感情。大いなるうねりが心の中を支配し、小さな悲しみの波紋を掻き消してしまっていたからだ。
どこまでも傍若無人な二人は、そんな怒りを諌められる相手もいない。そして、それを互いに止めあったりすることもない。ただただ、怒り。知人が殺されたのだ。戦う力を持つ自分が、どうして次は自分が殺される、などという恐怖に打ちのめされる暇があろうか、いや、そんな暇など無い。
アリーナの扉を開け放つ。扉と言う名のスイッチは、慎ましやかに急ぎながら二人を取り囲み、狩猟の場へと行かれる阿吽の二人を連れ込んだ。瞬間、その
頭上には6-2の文字。ありすが遺した勝歴がひっそりと、
どれほどの距離が瞬く間に圧縮されたのだろうか。
アリーナに願いと意志だけでハッキングを掛けていた彼は、距離と言う概念をその身に喰らって一歩を千里へ変えていた。そこから導き出される結果は、空間転移に等しき行為。恐らく全ての魔術師が涎を垂らして近寄る所業を、それこそ何の事も無いかのように繰り返した彼は目標の場所まで到達し、ゆっくりと跪いた。
「…ありす、とうとう死なせちまったなぁ」
―――ううん、お兄ちゃんと本当にずっといられるもん。これでいいの。
「もっと本音出してみたらどうですか? もう体もない、縋る事も出来ない第二、三要素の塊ですが…ありすちゃん、今回ばかりはご主人様をお貸ししますよ」
―――でも、お姉ちゃんにも聞いてほしいな。
「…そう、ですか」
光の玉。光球。ふわふわと、幻想的に浮かぶそれに話しかける二人は、片や一筋の涙を、片や変わることの無い、それでいて本質は優しさを携えた深い笑みを携えながら、言葉を掛ける。
言葉が水の様に、苗をすくすくと育てるがために。
―――ごめんねお兄ちゃん。あたし、無理したら罰があたっちゃった。
「罰だなんて、んなことはどうでもいいさ。お前が死んでも、魂が無事だったのが不幸中の幸い。……あー、いや、もう取り繕う必要もねぇか。……大馬鹿野郎、なに勝手に死んじまってるんだっつの」
それでもありすを怒鳴り散らす様な事はしない。優しげな笑みと、仕方がないなぁ。なんて、日常的な甘やかし様だ。彼の毒気の無い空気に便乗するように、キャスターも小さくため息を吐く。曰く、なんて軽率だったんだと言わんばかりに。
「救出作戦とかも立ててたんですよ? そんなご主人様との愛の結晶を根本から閻魔の前まで吹っ飛ばすような真似しちゃって、結構私も怒ってるんですからねー?」
―――あ。えと、…その。
「お前にしては毒が少ないかも知れんが、キャスターもそう責めてくれるな。……ああ、もう時間も無い、早々にオレの中に戻れありす。肉体は最早人間の物じゃなくなるが、これでお前さんともアリスとの約束通りずっと一緒にいてやれるからな」
―――ドジしちゃったなぁ。でも、ドジスン教授があまりドジしないのは何でかしら?
「腐っても教授って役に付けるからじゃねぇのか? 物語でも、作り話でも、現実らしさを織り交ぜないと、それは理解の及ばぬ夢の中。言動も、意志も、ほとんどが己の思い通りになってくれない夜の夢だ」
―――そっか。じゃぁ、お兄ちゃん。
「ん、なんだ?」
優しげに、光の玉を包み込むように持ったアンリは笑う。
―――おはよう。
「―――! …おはよう、ありす」
かくして、夢は此処で覚める。
現実に引き戻されたありすの行方は―――闇の中。
「ランサー、ナンカ“ワニ”ッポイノ…ゼ~ンブキエチャッタヨ…?」
「えぇい、何故見当たらんっ!? これほど妻が欲していると言うに!」
「ベツニホシクナイケド。ウ~ン、ヒマツブシ?」
「なら別によいか。では妻よ、昨日は来なかったがあの贄共は我らの元へ向かっている模様。早々に我が槍を串の様に、貴女の元へ捧げると―――」
狂っているランサーの声は、いくつもの風を切る音、そして地面に突き刺さり、槍に弾かれ、騒がしい破壊音が立てられることで唐突に区切られることになった。ワザとそう言った言葉の妨害をするためか、中には赤黒い剣の様な物の中に今にも割れそうなガラスの物体までもが加わっている。
「無駄無駄無駄無駄無駄ァ! このヴラドが! この程度で没する事などなかろうなのだぁ―――!」
手に持つ槍を回転させ、波濤を巻き上げそれごと落とす。
豪快、かつ繊細に。ランサーと言う精密な技巧をも得意とするクラスに押し込められたこの血に飢えし英霊は、まったく無駄のない動作で、彼の武功をランルーくんの目の前で立証するかのように武器の集中豪雨を弾き飛ばす。
「ムゥッ!」
「ッ…」
最後の一つ。少なくともそう見える半ばから折れた鉄パイプが槍によって吹き飛ばされると、それは武器を形作っていた側の相手に飛んで行き、ぐさりと肉の中に沈み込んで行った。返しとしては見事なカウンター。しかし、偶然にも先制攻撃へのお返しとしては十分すぎるほどのダメージを与えられたと言っても良いだろう。
だが、その人物はランサー達を前にして嗤った。嘲りである。そこには全ての狂気を弾き返したことに対する報奨も祝儀もなく、ただ目の前の者どもを不快そうに、かつ全てを受け入れようと、カエルを丸ごと飲み込む蛇の様な雰囲気にも似ているとランサーに感じさせた。
狂っているにしても、ランサーはバーサーカーでは無い。決して正常とは言えずとも、その澄んだ頭で以前の相手はこうも粘りつくような感覚は感じなかった筈であると結論を弾きだす。
「我が妻、下がっておれ。…これは愚かな領民の一つと同じ。親しき者を殺されたからと、無謀にも我が槍に連ねて掲げる首の一つとなった男と同じ目だ。癇癪を持った狂犬である! ああ、まったくもって汚らわしきその感情を、よく妻の前で見せられたものだ!」
「…………」
途中から癇癪を起した様な喋り方をするランサーに対し、アンリは自分の右腕に突き刺さった鉄に似せた何かの塊を引き抜くと、炉端に捨てるような手つきで無造作にソレを放り投げた。
当然、突き刺さっていたものがなくなり、つっかえを無くした血液――の代わりの黒靄――は天高く天井まで張り付く様な血液の如く大量に舞い上がる。
そこで匂うのは血の生臭さではなく、人間と言う種が負として抱えた生臭さ。決して抗う事の出来ない、精神と心を開放するような不快な空気に、最初に目を付けたのはランルーくんだった。
「コレ、キミノイチブダヨネ?」
「………ああ」
「オイシイ?」
「さぁな?」
彼女の何気ない指摘、興味本位から来るであろうその言葉に、此処にきてようやく言葉を返したアンリ。へらへらと、それでいて目が笑っていない。鷹よりもなお誇りは無く、例えるならば死体を喰らう猛獣ハゲワシ。そんな濁り切った瞳はランルーくんの原初の食欲と言う濁りに陥った瞳とぶつかり合い、両者の間にドロドロとしたデミグラスよりも濃い湿度が生まれ行く。
ねっとりと肌にべたつく様な、他人の唾液が体全体に付着するような不快感。じっとり、粘々とした空気は霊子の在り方をも変質させ、マスター同士の間に視覚化できる程の互いの想いを表していた。
曰く、食。
曰く、殺。
どろりと、空中で作られた溶けた何かが滴り落ちる瞬間。
「おおおおおおおおおおおおおおお!」
ランサーが初動を先に取った。
彼が動いた理由は簡単、自分の妻がまるで、意見が一致しているかのようにずっと見つめ合っていたのが許せなかったから。妻は尊ぶべき存在であり、その決断の先に自分の道があると思いこんでいるランサーであるからこそ、その最重要事項である妻を目で射抜く様な、視線を送っている。
傷つけそう、たったそれだけでも、聖人に触れるかの如き大罪であるのだ。その様な所業を許すほどランサーは非情に徹しきれないし、己を律する事も出来ない。―――まぁ、狂っていると言われればそれまでであるのだが。
思惑や性格はともかく、極限まで鍛えられ、戦争さえも経験しながら尚、怪物として捕えられる。単純な筋力だけなら、ただの人間から押し上げられた伝承としてもトップクラスを誇るB。神や神秘などが関わっていないという点において、感違いだけでこれほどの力を得るとはやはり驚きである。
そんな驚きをこの場の誰が思っている、と言う訳ではないが、それ以外の驚きならば奇襲と言う点においてアンリ達に齎すことは出来ていた。破格の力を持った初手は、しかし破格の鈍足によって打ち消される。されど鈍重な槍には異様な威圧感があり、それはアンリの足を竦めさせるには十分だったのかもしれない。
アンリの肩口から腰に掛けて、ギザギザとした穂先が力任せに薙ぎ払われる。途中で引っ掛かるような感触さえ無視するような一撃は、血肉をかき乱しながら直進し、目標を一刀のもとに斬り伏せる拷問交じりの攻撃であると言えよう。
「……これか? ありすは、こんな痛みを味わっちまったのか?」
―――ううん、頭をちょん切られちゃった。黒のウサギがお兄ちゃんなら、おじさんは黒の王様になるのかな。
「なるほど、赤と黒のコントラスト! 巨顔の女王にあてがう王は―――いや、既に愛する者を見つけたコイツにとっては意味がねぇかもなあぁ?」
「貴様何を言っている! 誰と喋っている!? 気でも違えたかこの謀反者めぇぇ!」
ただしアンリに物理的な攻撃は通じない。彼を傷つけるには霊格を破壊するような攻撃であるか、はたまた魔術による霊子構造への一撃によってしか肉体に関するダメージが通る事は無い。故に普通の攻撃は
加え、彼はダメージを受けた状態から急速に再生しているだけである。体や精神がボロボロになるまで「殺し続ける」ならば話は違うかもしれないが、生憎と痛みによって精神を壊されることには慣れっこ。すぐさま精神をも再生させる、正に溶けた鉄のような柔軟で、汎用性に富んだトンでも神経の持ち主。
故に、己の体に敵の武器が突き刺さっていても顔色一つ変えることは無い。そう、今の様に。
「ぐっ!? 貴様、我が槍をその体で止めたと言うのか! おお、この忌々しき宿敵よ! その醜悪な人の道を踏み外した体を我が妻の前に晒すとは何事かァ!?」
「どっかの牢獄に閉じ込められる事は嫌いな性分でな。……ところでキャスター、準備はとっくに終わってるよな」
「勿論ですとも。貴方様が傷つくのは見たくもありませんが……今度はあちらが現実の直視に耐えがたくなる番です」
「何ぃ!?」
ランサーが疑問の声を上げると、アンリ達が通ってきたアリーナの壁、先ほどまで自分たちのいた場所の壁に無数の札が突如出現した。アリーナの壁と外見を一体化させ、貼られていることを視認させなくする魔術やハッキング技術が使われているようだが、この程度、並みの英霊でも空気の流れで詠む事は十分可能な筈だった。それでもランサーが見落としていたのは、彼に高すぎる「信仰の加護」というスキルがあり、なおかつそれで狂ったように妻と敵以外を見るようなことが出来なかったからだ。
「よそ見してる場合か?」
アンリは常識外に伸ばした脚を鞭の様にしならせ、ランサーの槍を持つ手に衝撃を与えて彼の得物を奪うと、自分の切り裂かれた肩口から腰に至る傷を新たな泥で埋め直す。まったく傷の無い状態となった彼は、ランサーから奪い取った、槍兵が槍兵足り得るそのシンボルを己の物の様に振りまわし弄んだ。
「ぬぅぉおあぁああああああああああああああああ!」
当然ながら、己が握り続けた
呪符から与えられるマスターへの危険性も気にする必要が無くなった彼は、一刻も早くマスターを傷つける恐れのあるキャスターを排除すべく行動に移した。彼のあるいた箇所からは血染めの轍を見せつける槍が樹木の様に生え聳え、その槍の数々は全てアンリ達を狙う為に切っ先を向けている。射程圏内に辿り着いたランサーは剛速を以って一撃を振るい、詠唱途中のキャスターを貫かんと差し迫った。しかし、その望みが果たされる事は無く、急きょ狙いを定めた筈の一撃は上へと照準をずらす。
有り体に言えば、ランサーは足を挫かされていたのだ。
「おのれおのれこのような小手先にばかり頼る弱者がっ! 信仰を途切れさせることの無い私を! このような誉れ高き願いをその身に宿す妻を! 愚衆は認めることなく我らを怪物と蔑み続けるのだ! 我らが生きることに何の文句があろう!? 貴様らの様なものこそ、真に捧げられるに過ぎぬ愚物であると言う事を――」
そう言って、ギチギチと軋む筋肉の音が響き渡る。
攻撃が届かない? ―――ならば届かせよう。
意味無き事を止めろ? ―――ならば意味ある事にしてみせよう。
己が信じる正義と鉄槌の名の元に、己が裁くべきは妻の敵。大国の君主、法の頂点たる己らに逆らうことが罪であるのだと、この身の程知らず共に刻みつけてやろうではないか。
「証明して見せよう!」
「なっ―――」
アンリ、キャスター。それはどちらが漏らした声だったか。
ランサーの行動は奇怪としか形容のしようがない。彼は、己の槍で、己自身の心臓を突き刺したのだ。当然ながら、人の身でさえ無いアンリと違って
されど彼の表情は追い詰められた人物のソレでは無い。真に狙うべきものは何か、思考による結論を急がせる前に、アンリは己がすべき行動をとった。
「キャスター、術式の書き換えを! 呪符の行き届く空間にある此方へのダメージをオレに集めさせろ!」
無言でキャスターは、術式を「ラニの捨て身に匹敵する全方位による空間爆発」
再び、一瞬で体を形成し直したアンリは無手のまま、無謀にもランサーの元へと掛け込んで行った。そもマスターがサーヴァントと対面する事が自殺行為であるのだが、己は「死ににくい」と自己暗示さえ掛けているアンリには死への恐れはある。故に、死の襲い来る凶の方向を見定めながら、無事ランサーの懐に潜り込むことに成功した。
「むぅ…!?」
「この距離なら、宝具が当たる」
一日に何度でも、それでいて、同じ相手に何度でも使えるように調整の施された宝具。正確にいえば、彼の成長と共に彼こそがゾロアスターの悪神アンリマユだと世界が認めてくれたように格を上げて行った、本来のアヴェンジャーが持つ最弱の
「
「ぬぅぁぁあああああああ!!」
飼い犬に手を噛まれる、などと生易しいものではない。駄犬と見下していた相手が己の懐に入り、なおかつ己が既知の上に無い、聞き覚えの無い宝具を発動させようとしているのだ。そんな事を容認できる筈もなく、またここで己が宝具をまともに食らえば運命共同体である妻も消滅してしまう。
そんな、哀しい結末にさせるわけにはいかない。逝かれた頭でイカれた性能を誇る己の肉体に指示を送り、反射的に持っていた得物でギリギリ斬り落とせそうなアンリの腕を泥の飛沫へと変える。発光が一層強かった右腕の赤い軌跡が収まり、これで宝具の発動は防げたはずだと正気を見出したランサーはにやりと笑い、ふと気付いた。
―――何故、自分の思考はここまで落ち着き長引いている? そう、これではまるで……走馬灯のようではないか。
時すでに遅し、除夜の鐘は鳴らされ、その十数回目の傷の撃ち金と共に、アンリの笑みはニタリと張り付く。どこまでも、記憶に残させられる醜悪な笑みと共に、おぞましき未来を決定する声が耳を打った。
「
赤い光が彼の「右腕のあった場所」をそっくりそのまま形作り、サブリミナル効果を残しながら己の右腕に吸い込まれていく。肘から先の範囲はおぞましい異物感と嘔吐感を彷彿とさせる。
されど吐きだすは、己が胃の中に非ず―――
「ぐぅぉぉおおををををををををををををををををををををををををををををををををををををををををををををををを…をを、をおぉぉをををををおおおおおお!?」
最初から繋がっていなかったかのように、彼の腕はポロリと零れる。
さながら白き少女の首が落ちたかのごとく。領民の首が槍の穂先から外れたが如く。何もかもを切り裂き、串刺しにしてきた彼の趣向は因果となって戻ってきた。神の代行、悪の代名詞たる悪神が、己以外の悪たる存在は容認できぬと宣言するかのように。
雄たけび、絶叫。その入り混じった絶望と怒りの声は、来るべき敵への怨嗟を含む。しかし、含有する怨嗟と怒りは負の力。負の力はアンリの宝具によって魔力へ還元され、彼自身をいつまでも隠れスキルである「頭痛持ちEX」として苛む諦観の念に加えられるに過ぎない。
すなわち、アンリは敵として恨まれる度に力を増していく。まさに悪の権化、悪の化身として活動するに足る永遠の光の裏側。幸運だったのは、幾歳もの年月を過ごしてなお彼の精神は善良なままであり、虚構であり続ける事だろうか。
「あ~あ? 嬉しくないオヤジのポロリですねぇ。つーか? コレ重要あるんですかご主人様」
「ここで聞ける物でも無ぇっての」
―――なーんだ、ホントの黒の王様にはならないんだね。お兄ちゃんと違って。
「オレは赤の王の方がお前にとっては良いんじゃないか?」
―――ううん、黒ウサギさんの方が可愛いじゃない!
「おーい、そこのお二人…いや私には見えも聞こえもしませんけど、あっちもそろそろ復帰しそうですよ?」
相手の苦しむ姿にあらら、と自分やったとは思えない声を出していたアンリはキャスターの声でようやくありすとの話し合いから帰ってきた。どーしたもんだと視線を戻して見れば、先ほどより更なる殺気を含んだ、一般人ならそれだけで足を竦めてしまう覇気の籠った血走る目を向けた悪鬼が一人。
左手に持った槍を杖代わりにして、喪失した右手の先を嘆かわしいと言わんばかりに体で押さえ隠していた。
「くっ………このような、何故我々ばかりが……おのれ、おのれぇ…!」
「どうする? 決着はアリーナにするか? それとも……此処か?」
瀕死のサーヴァントに向かって、余裕かつありすを殺した怒り、そして捨て身の攻撃程度でそこまで無残になったのか、という嘲りを向けながらランサーを一瞥するアンリ。ランサーから奪い取った槍はキャスターに握られ、その切っ先はランサーの喉もとで静止しており、いつぞやの光景とは反対の立場を再現する有様だ。
そうしている間にも様々な事がランサーの頭をよぎるが、彼が真っ先に成すべきことは一つ。己が妻を無事に生還させ、必ずやこの者たちを「愛」という名を冠ずるディナーに並べる事。そのためには、心苦しいが――――
「……妻よ、此処は退かねばなるまい! この様な場で下がるなど―――非常に心苦しいが、胸が締め付けられ、杭を打たれた様な気分ではあるが! 我らが悲願を達成するためにも撤退は必須! 妻よ、我が信仰を邪魔する者どもを退けらぬなど、この醜態。だが、我が不覚をどうか許されよ!」
「―――――」
その感嘆が聞こえたのか、ランサーの姿は足元から消えて行った。
最後にアンリ達へ向けたのは、決して友好的とは言えない血走った悪意の視線。必ずや臓腑を引きずり出し、妻の前に並べてくれようぞと言われている様な気がして、アンリはその返答の代わりにせせら笑ってやった。
苦悶と、苦痛と、悲劇と、悲恋と、その全てを経験したヴラド三世公に対して最大の侮辱を込める。それがどれほど命知らずで恥知らずな行為であるのかを重々承知した上で、アンリは挑戦を投げかけたのだ。
ありすが殺された。肉体の死。これは避けようの無い事実であったとしても、何時しか訪れる結末であったと断じられていても、泡沫の夢ぐらいは見せていたかった。その僅かな光を、あのサーヴァントは電脳で死した物は全て分解されると知っていて、ランルーくんに捧げるために殺したのだ。不快、嗚呼不快以外の何物でも無かろうて。
「神、か」
「どうなさいました? あの煩いのにかなり傷つけられていましたが……その、もしかしてやっちゃいました? おつむの辺りとか」
「……むしろ、やってくれた方が良かったさね。オレみたいな薄情な奴は、少し後悔の感情を持つぐらいがちょうどいい。…なあキャスター、お前さん、アイツに対して怒りを持っているか?」
「当然です。少し煮え立ち切りませんが…それでも、炎は燃えておりますとも!」
「そうかい。その感情、大事にしてくれや」
達観した様子で、アンリは笑う。
「ご主人様、貴方様はもしや…怒りを、負を失ったのですか?」
「いんや。ちゃんと発生はするさね。…ただ、チョイと冷めるのが速いだけで、な。熱しやすく冷めやすいとは、どこのなぞなぞだって出し尽くした答えだろうに」
「その回答にご主人様の名前は無いでしょうけどー?」
「お、ナイスツッコミ。そうだな、それぐらいの軽さが丁度いいかもな」
あまりにも、ありすは重かった。
心が軋みそうなほど悲しみの染みに侵された筈なのに、その染みは瞬く間に自分の持つ全自動掃除機が吸い取ってしまう。怒りを掲げた筈なのに、汚いからと自分のクリーナーが全て綺麗にしてしまう。悲しみを携え続けることが出来ず、ムードメーカーとも見られる所以は此処に在ったんだ! だって、彼は自分の負でさえ吸い取ってしまうんだもの!
なんとも興醒め、つまらない劇。泣かないピエロは無価値です。世界から言われ続けて早幾歳? 私はもう覚えていません。彼が過ごした時間はあまりにも、そうあまりにも長すぎるのだから。
―――お兄ちゃん…。
「心配スンナ、すぐ、マイルームに戻ったラ、体を
―――違うの。
悲痛な叫びに、人間ではないから、吸い取れない負を抱えたまま。
人外幽霊ありすちゃん。不思議に鏡の映しみは、ごめんなさいと、謝った。
―――帽子、チェシャ猫にあげちゃった。せっかくアリスとおそろい、お兄ちゃんがあたしを殺してから持ち帰ってくれたものなのに。とっても大切、でも、結局死んじゃって…あたしは夢にもなれなかった。
「……ありす」
「ありすちゃん」
不意に、キャスターが声を挟む。
どこか声には、慈しみが。
「私にはまだ、貴女の声は届きません。ですが、ご主人様を悲しませるような事を言ったのは分かりました。…そうして、悲しみを撒き散らすよりもお泣きなさい。貴女は子供。私たち大人は貴女の行動で一喜一憂してしまう。だから、元気に無く貴女こそが私達が安心できる顔。アンリ様が貴女に肉体を与えた後、どちらにでも良いから飛びこんでいらっしゃい? 私達は、どちらも貴女を受け止めましょう。私達は、決して貴方を否定しません。……そんな事は、とっくの前に教えた筈ですよ」
―――お姉ちゃん。
語りかけるが、魂の呼び声は届かない。
キャスターは死者。ありすは死者。されど魂だけであるのと、肉体を持つものであるとでは、決して越えられない壁がある。死者は語らないのではなく、死者は語れない。だが、呼吸をしてこの場に肉の体を持つ者ならば――?
届いた。
きっと。
絶対に。
「ともかく、もう奴らも帰っちまったからな。…皆で帰るぞ」
「……はい」
どうにも小さな声に、アンリはクエスチョンを頭に浮かべる。
「どうしたよ、キャスター」
「いいえ、今更なんですが奴らの事です。あんなに想われて羨ま…じゃなくて、ああも狂える怪物と化してしまうほど純粋に、どこまでも純粋に荒れた英霊だったんですねって。知識の上でサーヴァントの事は知っていても、私達は座で別々。直接の面識はありませんから、少し印象が変わったかもしれません」
「歴史なんてそんなもんで、オレもそんなもんだ。死を貪り、死を冒涜する怪物は神にも言えること。神は簡単に
「そうですねぇ。私も、一歩間違えれば…いえ、あまり面白くない話なので止めておきましょう」
と言って、彼女はやっぱり早く帰りましょうとアンリの背中を押しながら急かした。その細腕からは常人では考えられない怪力が発揮されてぐいぐいとリターンポイントにまで彼を押しやろうとする。
あからさまでワザとな彼女の秘密の隠し様に、
「おやおや、オレの可愛い従者サマはどうにも隠し事が多いようでっ」
―――お姉ちゃんの秘密、いつかあたしも知りたいな。
「か、可愛いでくぁわ、わわ……コホン、そう言う不意打ちはめっ、ですよ! それから、乙女の秘密はそうたやすく探るものでもありませんっ!」
他にも、アンリとの別行動をしている時はお料理教室(ムーンセル改訂版)に参加しているのだが、その辺りはこの事象を観測している君達と私だけの秘密にしておこうではないか。
―――楽しそうだなぁ。
「なぁに、またすぐ戻って来れるさね」
本当に意味があるかは別として。
そんな言葉は、喉にポイ。
前書きに深い意味はありません。
それでも疑い深い方は、鏡の前で「お前は誰だ?」って自分に言い続けてみるといいですよ。
その前に、ちゃんと効果を調べておいてください。
貴女は貴方は、鈴木さんでも山田さんでも、誰でもなくなってしまいます。
鏡の国にはあるんです。実在するのが「名無しの森」。あなたがとらえた、あなたは囚われた。
そろそろ本格的に後書きスタート。
上の説明文はマジですので、やらない方がいいです。
やったら自我が死にます。冗談抜きで。(たぶん)
そういうわけで、ありすちゃんには二度目の死を遅れながらにプレゼントさせていただきました。
やったねありすちゃん! せいやくがとけるよ! やめろなんて、誰も言わない。
…おや、少し最近ちょっとほんの疲れが溜まっているようです。
狂気的な文が多くなってきましたね。こうして細かい事を気にするのが、僕の悪い癖でして。
どこの特命課? なんて聞いてはいけません。
それでは皆皆様、よき黄金週間を!
私達は黄金の四角形と黄金の回転を探してきます。習得できた日に、次話で逢いましょう!