目が覚めれば見慣れた天蓋がある。ぼーっとした表情のままのニルフィがゆっくりと起き上がり、目をこすりながら可愛らしくあくびをした。小さな口からは八重歯が覗く。
「みゅう……」
頭をふらふらと揺らしながら
最近、ニルフィの睡眠間隔が短くなってきている。そしてよく眠るようにもなった。寝ることを我慢し続ければ電源が切れたロボットのように、突然眠りの世界に突入することだってある。それだけ抗えないものだ。
眠る前にはたしか……リリネットに思いっきり抱きついたところで記憶が途切れていた。そこからアネットに回収させられたか。
「ん~……! よく寝すぎたぁー」
「あぁ、おフロ入ろっかな」
下官に世話を見てもらえばいいのだろうが、以前そうした時アネットがものすごく不機嫌になったのだ。だから風呂に入るときはアネットと一緒にと思っている。
ネグリジェを脱ぎ捨て、適当に死覇装を羽織る。はだけているがどうせあとでまた脱ぐのだと、時間を惜しんで寝室を出た。アネットの霊圧は宮の内部を移動中だ。用事がないときはいつもそこにいるから、彼女の部屋で待ってたほうが早い。
ニルフィはいまだに寝ぼけ眼のままあっちへふらふらこっちへふらふら、非常に危なっかしい足取りでアネットの部屋を目指し、ようやく覚えた道順で迷うこともせずにたどり着く。
まだアネットは来ていない。
一応ノックをしてその扉を開けた。
「......よし、間違ってなかった」
満足そうに頷いた少女は部屋の中へと入る。あまりここへはやって来たことはない。アネットのことは大好きだが、この部屋はあまりニルフィにとっては心休まる場所ではなかった。最初に訪れた時から感じていたことだ。
多数の者はアネットの性格から、タンスいっぱいのニルフィ用の可愛らしい服を溜め込んでいるとか、派手な内装を凝らしていると予想するだろう。けれどそれはまったくの間違いである。
ひどく殺風景なのだ。
狭い正方形の部屋には家具は一人用のテーブルと椅子だけしかない。ウルキオラの宮もこんなものだが、あそこは椅子一つだけでも広大な空間があった。むしろ狭いこちらの部屋のほうが空虚に思える。それは使用者の性格からしたギャップも理由だろう。
あとで聞いた話だが、ニルフィがリリネットと初めてキスを交わした部屋が、もともとアネットの部屋だったらしい。
「ーー本?」
けれど今日はテーブルの上に置かれているものがある。物珍しさでニルフィが覗き込んだ。
古い、今にも風化してしまいそうな革表紙の本だった。表紙は擦れて題名は読めない。以前は無かったはずだが、たしかリリネットとキスをした日にアネットがニルフィに付いてきたのは、宮に忘れたものを取りに来たと言っていたのを思い出す。これが、そうなのだろうか。アネットが
子供特有の興味心が顔を出す。見かけだけ淑女然としたアネットが彼女自身のために得たであろう本とは、どういったものなのだろう。
ニルフィは表紙に手を掛けてめくってみた。
破かないように細心の注意を払い、ぱらぱらと流し読みをしていく。道順以外の記憶力になら自信がある。一秒に一枚をめくっていくペースでも、ニルフィは本の内容を頭で理解できた。
なんのことはない、ただの恋愛小説だ。数百年前の現世でもこういったものが世に流れていたのだろう。
一人の女の主人公が、幼馴染二人に恋心を寄せられる話だ。ただ、その幼馴染は少年と少女。つまり異性か同性かということ。そこ以外は取り立てて変わった様子もなく、もう少しで主人公がどちらを選ぶかというところになり......。
「ーーニルフィ? なにしてるんですか?」
「わ!?」
いつのまにか扉を開けていたアネットの声で我に返る。
「え、と。その、おフロ入りたくてアネットのこと待ってたんだけど、暇だったから、つい」
「ああ、いいのよ。別に怒ってるわけじゃないから」
「ごめんなさい」
「だからいいって言ってるでしょ。見られて困るものなんて、この部屋に隠せるはずないじゃない。隠し事なんて胸の内にしかやりませんし」
ニルフィのそばに寄るアネットが、閉じられた本の表紙を撫でる。
「もうだいぶ前に手に入れたものでね。現世じゃもう出回ってないと思うわ。それくらい、古い本なの。中身も古臭かったでしょ」
「......よく、わかんなかった」
「ふふ、まだ理解できなくてもいいんですよ」
理解できないことといえば、まだニルフィはアネットやグリーゼについて深く知らない。表面を撫でるような情報しか聞いたことがなかった。
いや、原因はわかっている。深く知ろうとしなかったのは怖かったからだ。
なにかを知ったからといってこの関係が脆く壊れるとは思っていない。しかし、直接聞こうとして顔を上げても、小首をかしげるアネットの顔を見ると途端勇気がなくなってしまう。
だから誤魔化すことしかできない。
「早くおフロ入りたい」
「あらら、そういえばそうでした。......でもこぉんな服をはだけさせちゃって、誘ってるの? どうせお風呂に入るんだし、今からでも濡れてく?」
「濡れ......? なんで濡れちゃうの?」
「フフッ、それを今からよがり狂うまであなたの体に教え込んであげ......ちっ、グリーゼがプレッシャー掛けてきたわね。どんな地獄耳なのかしら。ごめんなさいね、今度教えてあげるわ」
優しげな表情でアネットがニルフィを抱き抱える。
疑問が
もやもやした気持ちのままニルフィは風呂場へと抱えて行かれた。
「............」
身体を洗い終わりアネットと共に湯船に浸かっている。アネットの膝の上に抱えられたまま、ぼーっと湯気のあとを目でおっていた。抱きしめてくれる腕が心地よかった。
そしてついに膨れ上がっていた疑問を我慢できなくなった。
「ねえ、アネット」
「どうしたんですか?」
「......ラティア・ツーベルグ」
ニルフィがその名を口にしたとき、アネットがスッと目を細める。
「誰から訊いたのかしら。まさかグリーゼってワケじゃないでしょ」
「アーロニーロから。この前の鬼道の練習の時に、ね。でもアーロニーロのことを怒らないであげて。ずっと
「へえ」
しばらく考えるように沈黙していたアネットは冷たい口調のままニルフィの肢体を撫でる。
「ニルフィ? ヒトって知られたくないことがいっぱいあるのよ? そこにわざわざ土足で踏み込むなんて、好奇心は猫をも殺すって言葉を知らないのかしら。それとも本当に猫になりたいの?」
「ぁ......」
アネットの右手がニルフィの右膝からだんだんと上に滑っていく。
脚の付け根まで来ると際どい部分を焦らすように撫でまわし、よくわからない感覚にニルフィは吐息を吐くように声を漏らし、身をよじった。
「どこまで訊いたのかしら。場合によってはあの試験管野郎の頭を破裂させるわよ」
「ん......ラティアさんっていう、アネットの
「他には聞かなかったの?」
「あとは本人に訊けって、アーロニーロさんが」
少し前にとうとう折れたアーロニーロが条件を出した。すなわち、憶測にしかならないことは話さないと。それが彼なりの誠意なのだろう。アネットに対しても、ニルフィに対しても。
少ししか情報を引き出せなかったが、アネットが
愛撫する手を止めたアネットがニルフィの耳元で囁く。
「どうしていまアタシに、そんなことを訊くんですか? アーロニーロから教えてもらってからそれなりに時間が経ってるわよ」
「ホントなら、アネットが自分から私に話してくれるまで待つつもりだったよ。きっと話してくれるって疑いもなく信じてた。アーロニーロから聞いたことも、ずっと胸に締まっておくつもりだったんだ」
「じゃあ、どうして?」
「アーロニーロが最後に言ったんだ」
『ーーお前とアイツは似ていたよ』。何気なく付け加えた一言が、ニルフィのなかで大きなしこりとなっていた。
少女は酸素を求めるような短い呼吸を押しとどめ、か細い声で言う。
「それで、思ったの。キミが私と一緒に居てくれるのは、私とラティアさんを重ねてるだけだからじゃないのかって」
そこまで考えたときの感情はいまだに整理できていない。
自分と他人を重ねているだけでも一緒に居てくれるのならすごく嬉しい。けれどその中に、なぜか空虚な悲しみがあった。他人に目を向けすぎていた弊害だ。ニルフィは自分のこととなると、途端に頭がうまく回らなくなる。
言葉に表現できないが、アネットの目を自分だけに強引に向けさせるのは、なぜかやってはいけない気がする。
それは大切な人を侮蔑してはいけないのと同じ気がした。
後悔とやるせなさで震えるニルフィ。アネットはため息を吐き、皮肉そうに口の端を吊り上げる。少女に投げかけたのは、肯定でも否定でも侮蔑の言葉でもなく、過去を懐かしむような声だった。
「ラティア、ね。なんだか久しぶりに聞いたわ」
ぽたり、とアネットの朱色の髪の先から水滴が落ち、水面に波紋をつくる。
「すごく、弱い娘だった。とてもじゃないけど
「リスに!?」
「あ、違いました。ーー
「
あのふわふわと飛ぶ羽の生えた虫相手にどうやったら吹き飛ばされるのだろうか。吹き飛ばされるまでのシチュエーションすら謎だ。そしてなぜ戦闘になった。
「昔の
フッ、とアネットが遠くを見て、
「黒歴史だけど、ウルキオラ並みに昔はスカしてたアタシはいろんなことに無頓着でした。だけど、それでもなお、現世でいえば女子高生くらいの姿をした美少女を手元に置くとは、アタシのフェチズムの片鱗は数百年前からあったみたいね」
色々台無しである。
「どういう人だったの?」
「金髪の小さなポニーテールが可愛くて、人一倍元気な娘だったわ。最初はうるさくて何度殺そうと思ったか。弱いくせにアタシの心配をして指図するの。まるで天真爛漫って言葉がヒトになったみたい。......こんな世界に生まれること自体が間違ってたって思うほどにね」
濡れたニルフィの髪に指を絡めるようにアネットが少女の頭を撫でた。
アネットの目はラティアのことを話すと楽しそうに輝く。それを見上げながら、黙ってニルフィは話の続きを待つ。
「何年経ってからだったかしら。代わり映えのない生活だったけど、ラティアが隣にいることが当たり前になってたわ。あの娘のおかげで気取ってたアタシは居なくなって、今のアタシがいるわけですけど。それからまた何年も経ってアタシは気づいた。ラティアに惹かれてるってことをね」
甘美な蜜を味わうようにアネットが目を閉じる。
「優しくされたことなんてなかったからかしら。無鉄砲なアタシをいつも心配してくれるあの娘に、いま思ってもチョロイほど傾倒しちゃった。ーー
「......うん。ちょっと、ううん、すごく羨ましい」
「フフ、素直な娘は好きよ」
「ふん、続きは?」
「そうね。向こうも立場とかを気にしない性格だったし、なあなあで受け入れてくれたわ。外野がどう言おうと、冷やかしてこようと、逆に熱いを通り越して灰にさせてやった。それだけアタシにとって、彼女は好きな相手になってた。ニルフィが部屋で読んだ本もその時に手に入れましたっけ」
恋とかそういう感情が欠落しているのはニルフィも経験がある。だから今までの暴走がその原因となった。そうなると必ずアネットが忠言してくれたのは、彼女も同じ道を進んだことがあるからなのか。
「愛してたの?」
「もちろんよ。友愛も親愛も情愛も恋愛も性愛もすべて、その時に覚えたんだから」
歪んでる、とはニルフィには言えなかった。どちらかといえばニルフィだって似ている。少女はその対象が多いだけで、女はただ一人にすべてを捧げた。それだけの違いでしかない。
ぎゅっと、アネットがニルフィを包む腕に力を込めた。
「でも、綺麗でありながら
ニルフィを抱きながらアネットは腕を上げ、湯を
「さっきも言ったみたいに、昔の
朱色の双眸が光を帯びた。
「たまたまアタシたちが近くにいるときに戦いが始まったの。ラティアは、弱かったあの娘は、開始早々の余波で死んだわ。ハハハ、いつからだったかしら。あの娘は弱いけど死ぬはずがないって錯覚してたのは。アタシはしばらく呆然としてたわよ。居なくなったあの娘の腕だけを抱えて、それで名前を呼び続けて」
「......アネットは、それからどうしたの」
「原因になった
そこからは当たり前のようにトントン拍子に進んだ。
「
「アネットは悪くないよ。悪いのはーー」
「ありがとう。そう言ってくれるだけで嬉しいわ。でも罰が無かったとしても、ラティアが居なくなったアタシには
途中途中におどけた様子で語り続ける。それでも声が、抱きしめてくれる腕が、かすかに震えていることにニルフィは気づく。
大切な者が居なくなってしまって、どれだけ辛かったのだろう。ニルフィは、シャウロンたちが死んでもまだアネットたちがいた。代わりではなく心の拠り所がまだあったのだ。けれどすべての愛を一人に捧げていたアネットは、すべてを失ったことでどれだけ苦しんだのだろう。
「ああ、そうだ。覚えてる? あなたが初めて
「あっ、見てたんだね。どうせなら助けて欲しかったよ」
グリーゼとのチェイスを観戦する視線がいくつかあったことに気づいていたが、その中にアネットもいたことには素直に驚く。
「そこで初めて、アタシはあなたのことを知った。似てるって思いましたよ。髪の色も身長も声も肌もなにもかも違うのに、似てると思った。ほかでもないラティアに」
だから、アネットはニルフィの
それだけは改めて訊きたくなかった。今の関係が壊れてしまうのが怖いと本能が叫んでいる。
......けれどそれはただの思い込みで。
「でもね、ニルフィ。あなたはあなたよ。どれだけラティアに似ていても、あの娘がもうどこにもいないのは理解できてる。アタシはあなたをラティアとして見たことなんて一度も無い。それだけは覚えておいて欲しいの」
弱々しくアネットを見返す。
「......ホントに?」
「当たり前でしょ。......ラティアの他にも、アタシのことを好きだと言ってくれる相手がいるのに、それを他人に見立てるなんてことはしたくないのよ」
「私を、私として見てくれるの?」
「大切なあなたが望むなら、どれだけ愛してあげてもいいですよ。それがどんな形であれ、ね」
「............」
ニルフィは体の向きを変え、アネットと鼻のふれあいそうな距離で向き合う。真っ直ぐ見つめ合い、それぞれの金と朱の瞳が熱を帯びる。
「私は大好きだよ、アネットのこと。キミが私を好きでいてくれるのなら、私もずっとキミを愛してあげる」
「ありがとう。それだけで十分よ」
互いに額を触れ合わせた二人は小さく笑いあい、腰に腕をまわして顔を近づけ、そしてーーーー。
ーーーーーーーーーー
それなりの時間のあと風呂から出て、ふらふらと頭を揺らめかせるニルフィを代えたシーツの上に寝かしつける。
疲れてしまったからだろう。二ルフィを疲れさせてしまったアネットにも責任があるが、寝室に戻ってきたニルフィに再び睡魔が襲ってきたようだ。最近の睡眠時間は不安定になっている。寝落ちすることも珍しくなくなり、うとうとしてきたらとりあえず寝室に連れて行くのだ。
「ねたくな~い......」
「辛くなるのはニルフィですよ」
布団をかけ直してあげたアネットがニルフィをなだめる。
「ねたくないよぉ」
「そう言いながら睡魔には勝てないんですから、無理しないでください」
「みゅうぅ......」
必死に睡魔と闘っているようだが、少女の目には
「ねたく、ないの」
「どうしてそんなに抵抗してるのよ。ほら、次起きるまでアタシがそばに居てあげるから。安心しなさい」
「......こわいの」
「怖い?」
アネットが聞き返す。
「めがさめたら、また砂漠のまんなかだと思うと、こわいの。これが夢なんじゃ、ないかって。ぜんぶ無くなるのが、こわいの。だがら......ねたくないよぅ」
触り心地の良い黒髪を撫でたアネットは、苦笑気味に嘆息する。
アネットは腕を伸ばして少女の小さな手を握った。
「ほら。これで、アタシはずっと一緒に居るわよ。だから、ね? いまは寝なさい。あなたが起きてもちゃんと隣に居てあげるから」
見えているかも怪しいが、ニルフィはわずかに頷いて
離すものかというように固く握られた少女の手を包み、虚空を見上げながらアネットが小さく零す。
「怖い、か。アタシも............あぁ、怖いなぁ」
その呟きは部屋の薄闇に紛れて消えた。
『冬休みの宿題』
あからさまに書いた百合じゃなくともエロく見えるのはなぜか。三十文字以内で答えよ。
今年最後の更新です。
読者の皆様、いいお年を。
来年もこの稚拙な作品に目を通していただければうれしいです。作者も花咲爺さんレベルで百合の花を咲き誇らせていきたいと思います。では、アディオス!!