記憶の壊れた刃   作:なよ竹

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とりあえずやってみた

 第6宮(セスタ・パラシオ)の最上階にある部屋で背を床に預けていたグリムジョーが目を開ける。

 どうやら久しぶりに眠っていたらしい。また自分の物となった宮の天井は、相変わらず何も変わっていなかった。昔もこういうことがたまにあった。それからの癖で、グリムジョーは自分の従属官(フラシオン)たちがどこにいるのかを探すために無意識に探査回路(ペスキス)を広げようとし……止める。

 下官以外はもう誰もいない。グリムジョーだけだ。認めたくもない女々しさに顔を不機嫌に歪ませながら身を起こした。

 首を鳴らしながら部屋を出て、これといったアテもなく廊下を歩く。

 足音はひとつだけ。いつもなら宮を歩くときならば誰かしらグリムジョーのあとを追っていた。不機嫌なままの彼を(いさ)める小言のうるさい男は隣にいない。

 寂寥を覚えるガラではないはずだ。

 新しい従属官(フラシオン)を指名するつもりがないのも、そういった理由ではない。

 

「…………」

 

 ふと、気配を感じて、まっすぐ進むはずだった廊下を右に曲がる。

 しばらく進むと霊圧も明瞭になっていき、視界に朱色の髪が映る。分厚い扉の横の壁に背をもたれかからせ、形の良さげな胸を強調するように軽く腕組みをしながら、静かに目を閉じていた。このように黙っていれば知的な美貌の女が、グリムジョーの足音を耳にして薄く目を開ける。

 

「勝手に入ってきてるわよ」

「好き勝手に潜り込んでんじゃねえよ」

「仕方ないじゃない、出迎えもないし、あなただって一番上のほうから降りてこなかったんだから。それに帰れとも言われてませんでしたし? もしかして寝てたんですか?」

「うるせえ。なんの用だ」

 

 アネットは非難するような眼差しをグリムジョーに向ける。けれど口調だけは祝福するように、冷たく言った。

 

「とりあえず、第6十刃(セスタ・エスパーダ)復帰おめでとうございます。現世でもあんたが黒崎一護とかいう、ストロベリーなのにオレンジの髪の死神にやられたって聞いただけですし。任務成功も兼ねて、重ね重ね」

「てめえの耳は根も葉もねェことを集めるクセがあったのか? 俺はアイツにやれたつもりなんざ、これっぽっちもねえんだがな」

「そういうのはどうでもいいのよ。アタシはあなたのご機嫌うかがいのためにここに来たわけじゃないから」

 

 いつになくその口調は刺々しかった。

 

「……止めなかったわね? あの娘がルピのことを殺そうとした時に」

 

 グリムジョーは苦虫をかき集めて鍋で煮込んだものを丸のみしたような顔となる。

 あの少女がルピ・アンテノールの処刑をするだろうことは理解できていた。彼女の慈悲は、彼女が大切な人だと認めた相手にしか与えられない。だからこそ、彼女の十刃(エスパーダ)就任の時に難癖を付けてきた輩を、ためらいなく殺すことができた。

 しかしアネットが怒りを抱いているのは、そこについてではない。

 

「まさかあそこまでやるとは思っていなかった、なんて、言い訳するつもりなら。アタシはあなたのことを許さないわよ」

「許されるつもりなんざねえよ」

 

 キッ、とアネットが鋭い目つきでグリムジョーに詰め寄った。

 

「許されるつもりはない? それは、それはわざと見ないフリを続けるつもりだから言ってるんですか?」

「てめえに何が……」

「わかるわよ。だって、アタシはあの娘の保護者だから」

 

 ルピの処刑について、誰が見たとしてもやりすぎ(・・・・)であったと思うはずだ。体のパーツは指の第一関節にまで及ぶほど解体させられて綺麗に並べ立てられ、緻密に腑分けされた肉塊は血の水たまりに放置させられていた。検分しに来たザエルアポロでさえ「ここまでやるのかい?」と思わず口走ったほどである。

 長い時間を掛け、やっと拷問から解放された時でさえ、ルピは生きていたのだ。もう人としての原型を保たずに、だ。狂った者にさえ正気を疑われる所業だったのは間違いない。

 グリムジョーだって覚えてる。

 あの部屋の前でグリーゼと共に長い時間を待ち、ついに扉が開かれた時のことを。

 

『終わったよグリーゼ。……と、グリムジョー? あはは、キミも待っててくれたんだっ』

 

 弾んだ声でニルフィは喜んだ。そしてグリムジョーは一瞬とはいえ、言葉を失った。

 全身を返り血で汚しながらニルフィは、いつものように笑っていたから。シャウロンたちと一緒になっていたときや、お菓子を貰ったとき、そしてグリムジョーの隣で微笑んでいるときと同じ様子で、全身を赤く染めていた。

 そして手に持っていた、ずいぶんと体積の小さくなったルピを掲げる。

 

『これでもう、キミの悪口を言うヒトはいないよ!』

 

 アネットとしても想定外の出来事だっただろう。

 

「いい? アタシはね、ニルフィがやりたいようにやらせるつもりだけど、限度ってものがあるわ。このままあなたが曖昧な態度を取ってるとそんなものが無くなってくる。……そのせいで、きっとこれから、矛盾に悩んで答えを見つけられなくて壊れちゃうのよ。ーーアタシみたいに、ね」

 

 目を伏せるアネットに、グリムジョーは押し黙る。

 

「そんなのはアタシもグリーゼも望んでいませんし。それに、そんなことのためにあの娘に強くなってもらったんじゃないの。だから、ちゃんとあの娘のことを見てあげて」

 

 聞き終わり、深く深くため息を吐くグリムジョー。頭を乱暴に掻く様をアネットは何も言わずに見ていた。 

 グリムジョーは少し間を置いて、最後に一つ、今まで疑問であったことを尋ねる。

 

「なあ。なんであいつは、俺にあんな構おうとするんだ?」

 

 少し目を見開いたアネットは、なにを今さらと言いたげに、この場に来てから初めて口の端を吊り上げた。

 

「この城で、本当の意味で最初に助けてくれたのがあなただったからよ」

「……」

 

 それ以上は言葉を交わさずにグリムジョーがそばの扉に手を掛けた。室内というよりもホールといった内装の場所に出る。この宮で最も広い部屋といえるだろう。

 ディ・ロイたちがなにかあればこの部屋で騒いでいた。宴、だとかはしゃいでいたのを覚えている。くだらないと一蹴するグリムジョーを無理やり引っ張ってきて、それでも抵抗すればシャウロンの正論武装で言いくるめられてしまった。もう、一度も入るはずのなかった部屋は、使い手が消えてしまったからかひどく空虚だった。

 けれど今は違う。

 ホールの中央にぽつねんと立つ少女の小さな背が見えた。

 扉が開いたことに気づいて振り返る。

 

「ん、おはようグリムジョー。勝手に入ってきてるよ」

「てめえら、ここが自分の家だとか勘違いしてねえか?」

「家かぁ。あはは、そうかもね。もしかしたらホントにもうひとつの家かもしれないって思ってたかも。……家族は随分減っちゃったけど」

「減ったところでお前には十分他の奴らがいるだろ」

「それでも空いた穴は埋められないんだ。ううん、埋めたくなんてない。そんなことして忘れそうになるのが怖いから。歪ませられたくもないし、そうしようとした人は誰だろうとバツ(・・)を受けてもらわなきゃね」

 

 数時間前には血みどろになっていた右手を見下ろしながらニルフィが自嘲気味に呟く。口元を引き絞ったのは、悲哀のためか、あるいは憤怒のためか。

 けれどグリムジョーの目を見るときには天使のような微笑みを(たた)えている。人懐っこい子犬のように青年の元まで駆け寄り、無邪気で無防備な姿を晒した。擦り寄らんばかりの様子である。たとえグリムジョーが拳を振るおうとも、避けようとすらしないだろう。

 グリムジョーが言葉を選びかねている間に、突然ニルフィが悲しげな顔となる。

 

「……どうした?」

「あ、あの、ごめんね。現世で私、死神の一人も、その、殺せなくって帰ってきて。色々あってあいつを殺……ううん、言い訳しちゃダメだね。とりあえず戦線復帰させない程度に痛めつけてきたけど、グリムジョーの望んでた結果にできなかったの……。頑張るって言いながら、それすらできなくて」

 

 怯えるように体を震わせながら、顔色を伺うようにグリムジョーを見上げた。眉を顰めた彼を勘違いしてさらに言い募る。

 

「あ、あの! 私はもっと戦えるんだ! 前みたいに幻影使わないで、響転(ソニード)と白打だけで完封できるようになったし。ホントなら、もっと、戦えるの……。だからまた、チャンスをくれない、かな? どんな手を使っても殺すからさ、ルピさんみたいにッ。そ、それまで私のこと、好きに使っていいから。ただの慰み物でも、キミがそばに居てくれるなら……満足だから」

 

 嗚呼(ああ)嗚呼(ああ)。ここまで少女の口から言わせてしまうのか。尊厳さえ捨て去った奴隷のような言葉を使わせたことの原因が自分であることに、かつてないほどの苛立ちが胸の奥で(くすぶ)る。

 (すが)るような目をしたニルフィを見ていると、それが止まらない。知らずに溜め込んできた今までの鬱憤が全てぶり返してきたようだ。ほんの数瞬、下劣な(くら)い感情に身を任せて、この小さな少女にぶつけたい衝動に駆られる。

 だが、それをしてどうなるのか。むしろニルフィは涙を流そうとも何もかも受け入れようとするだろう。多数の者が望む比類ないほど甘く熱いモノで何もかも融かしてしまう。そうなればグリムジョーも後戻りできない。

 

「もう、いいんだよ」

「え?」

 

 グリムジョーがニルフィの頭に手を置く。不器用で、少し乱暴な手つきだった。そのままニルフィが本心を探るような目でグリムジョーを見つめる。

 

「行く前に言っただろ。もうそんなこと言うなってな。俺は、お前に無理やり何かを求めてるわけじゃねえんだ」

「そ、それって、私はいらない、ってこと? そんなのやだ!」

「最後まで聞け。いちいち相手の言ってることに反応すんな。自分で考えて、自分で行動しやがれ。それぐらいできるだろ」

「してるよ、そのくらい」

「俺から見りゃあただのイエスマンだぜ」

 

 不安そうな顔のままニルフィが頭を振る。

 

「でも! 何かしないとグリムジョーが、みんなが! 私から離れていっちゃって……」

 

 グリムジョーが屈んで視線を合わせる。そして初めて気づいた。この少女は、自分が思ったよりもずっとずっと小さな存在だったと。

 

「お前が望むってんなら、俺はどこにも行きやしねえよ。言っただろ。付いてくるなら勝手にしろってな。追い出そうとして帰らなかったのは今更だ。そんな貢ぐマネなんかしなくたって、お前が満足できるまで一緒にいてやる」

 

 償いとか落とし前とか、そういった良い意味も悪い意味も兼ねた言葉で表せる。けれどこれが最善の方法だった。今まで一面しか見れていなかったニルフィに、本当に大切なことを気づけさせるきっかけになるだろうから。

 

「……嘘だ」

 

 しかしニルフィは一歩下がると、疑心にまみれた視線でグリムジョーを穿つように見る。

 

「嘘……。そんな簡単に、手に入るものじゃないもん」

「手に入るんだよ。てめえは、ただやり方が回りくどかっただけだ」

「ち、ちがう。私の望んだものが、こんな簡単に手に入るはずがない。だって……だって!」

 

 少女はなにもかも否定するように髪を振り乱す。

 

「私が生まれてからずっと! 気が狂いそうなほど長いあいだ独りぼっちだった時間は何なの!? 信用できると思ったヒトが何度も裏切ったから、何度も食べてきたんだよ!? それでも、一緒にいるにはなんでもしてあげることが一番だって気づいてから、たとえ嘘でも、どんなことされても私は我慢してきたし……。それなのにっ。キミは見返りなんて求めないで一緒に居て、くれるなんて。ーー信じられるわけないじゃん!!」

「…………」

 

 なにもニルフィの一部の歪んだ思考回路は、破面(アランカル)となってから生まれたものではない。

 もはや固定概念が(ホロウ)の時に確立してしまっていたのだ。それゆえに、代償のない幸福など得られないと考えている。無理矢理にでも犠牲を作って安寧を得ようとしていた。

 ニルフィは誰にも会えなかったのだろう。逆に、グリムジョー、そしてハリベルは運が良かっただけだ。信用に値すると判断した仲間が見つかった。けれどニルフィは、いつも孤独の渦中にいたのだ。

 

「信じる信じないはてめえで勝手に考えてろ。付いてこようがこまいが、俺は一度も強制したりしねえよ」

 

 今まで勝手に付いてきた従属官(フラシオン)たちがいたのだ。今更、手のかかる妹のような少女が後ろをついてきたところで何が変わるのか。それに他の十刃(エスパーダ)たちだってそうだ。心の底からニルフィに何かをしてほしいと望んだりはしない。

 それは別に邪険にしているわけではないのだ。ニルフィが等価交換として考える代物が、本当は身近にあっただけで。

 けれど一朝一夕で根本的な考えを変えられるはずもなかった。

 

「……わかんない。わかんないよ。キミが離れて行っちゃわない確証なんて、無いのに。一緒にいられるのは、すごい嬉しいんだよ? だけど、繋がりが無くなったままだと、いつかキミが消えたら」

「消えねえしそん時は俺が死んだ時ぐらいだ。……今はまだ答えを出さなくていい。その空っぽの頭でよく考えろ」

 

 力なく頷いたニルフィは深く俯く。頭痛を耐えるように顔をしかめ、右手で顔を覆った。

 

「……ごめんね。今日はちょっと、すぐに帰るよ」

 

 おぼつかない足取りで扉の方へと歩いていく少女の姿は、とても脆そうだった。

 

 

 ーーーーーーーーーー

 

 

 リリネットにとって、ニルフィネス・リーセグリンガーという少女とは、一番の親友である。……親友の、はずだ。前置きで言わせてもらうと悪印象の類などはまったくない。けれど最近、一緒にいることで困ったことがあるのだ。

 以前リリネットはその親友に唇を奪われたことがあった。まあ誰に捧げようとも考えていなかったが、常識人としての意識が自衛として気絶し、起きてからニルフィに謝罪された。気まずさはあれど罰せようとは思わなかった。捨てられる五秒前の子猫のような目で見られれば、根が優しいリリネットでは無碍に扱えるはずもない。

 あのキスは過剰なスキンシップとして処理する。きっと現世でだって、人間はよくあんなことをしているはずだと。自己の正当化を謀り、とにかくそのときはニルフィを許し、良き友人のままであろうとしたのだ。

 問題はそのあとだった。それから何度か会うたびに、それが浮き彫りとなっていく。ーー近い。心理的どころか物理的にもニルフィはグイグイと距離を縮めてきた。許したことでさらに懐かれてしまったらしい。それでも近すぎやしないだろうかと何度も思った。鼻先が触れ合うことも度々有り、何度も強く抱きしめられた。あの自分よりも体温の高い肌が感じられるたびにリリネットの心臓の高鳴りは収まらない。

 自然、リリネットはニルフィの些細な動作ひとつを目で追ってしまうまでになった。

 これは友達としていいのかともんもんと考えながら、リリネットは第1宮(プリメーラ・パラシオ)の廊下を歩いていた。

 スタークのところにはアネットが来ている。大人の話だからと追い出され、一緒に来ているらしいニルフィを探し回っているのだ。

 曲がり角にさしかかろうとしていると、

 

「にゃーん」

「……猫?」

 

 壁の向こうからひょっこりと顔を覗かせた子猫の破面(アランカル)がいたことで足を止める。

 

「どっから入ってきたの? ここだからよかったけど、他の十刃(エスパーダ)のトコ行ってたら危な……一部からニルフィのところに送られそうだけど、とにかく危ないんだけど」

「んにゃーん」

「って、言ってもわからないか」

 

 クッカプーロ以外の小動物の破面(アランカル)は初めて見た。

 子猫は人を怖がらないようで、短い足を一生懸命動かしてリリネットの元へと近寄る。そしてリリネットの脚にすりすりと小柄な体をこすりつけた。

 

「ちょっ、くすぐったいって」

「にゃふん」

「……カワイイ」

 

 しゃがんだリリネットは子猫の体を撫でようとした。しかし子猫はその手をすり抜け、リリネットの胸元に飛びかかった。

 

「うわぁっ!?」

 

 子猫に、子猫に押し倒された。いくら自分が弱いとはいえ小動物に負けたことが情けないとリリネットは思う。

 しかしそんな彼女を知らぬとばかりに子猫は彼女の右耳を舐め始めた。ざらりとした舌が耳の中を弄び、その感覚で腰を浮かせる。

 

「ちょっ、やめ……舐めるのはニルフィだけ……ぁ、やーーやめろ猫公!!」

「ぎにゃふん!?」

 

 リリネットのチョップは見事に子猫の頭を捉えた。目がバッテンになった子猫の姿にノイズが奔り初め……姿が消える。体にかかる重さが少し増えた。そして子猫の代わりに、リリネットの耳に舌を這わせているフードをかぶった黒髪の少女が、愛想笑いでおどけた。

 

「え、えへへ。解けちゃった……にゃん」

「わああああああああっ!?」

 

 叫んだリリネットがニルフィを押し返す。コロコロ背後に転がっていく十刃(エスパーダ)の少女に震える指を突きつけた。

 

「ニ、ニニニニルフィ!? なに? え? ど、どうして」

「いたたた……。どうして突き飛ばすの。キミを舐めていいのは私だけなんでしょ?」

「そっ、それはあの、そう! ニルフィだけで十分って意味で……」

「私がいないと不足してるって意味でもあるんだよね」

「あ、そうか……って、よくあるか! てゆーか、さっきの猫は!?」

 

 ああそれか、とニルフィはフードを取りながら頷く。

 

無貌姫(カーラ・ナーダ)の応用、かな」

「でもあれって、前に見せてもらったけど消えるだけでしょ」

「だけってひどいなぁ。キミの首に甘噛みするまで、キミってば少しも気がつかなかったじゃん。あの時のリリネットの悲鳴ったらかわい……」

「それはもういいから!」

 

 湯気が出そうなほど赤面するリリネットを見て、ニルフィがくすくすと笑う。そしてあっさりと白状した。

 

「私の無貌姫(カーラ・ナーダ)って、つまるところ『何者でも無くなる』ことに特化してるの。自分の宮にいるウルキオラさんの前でブレイクダンスしててもまるで気づかれなかった優れもの」

「無視されてたんじゃない?」

「姿見せてる時にやったら、顔掴まれて外に放り出されちゃった」

「あ、そう」

「でね。『何者でも無くなる』ことを拡大誇張して、逆説的に、だからこそ『何者にでもなれる』ように改良したの。……なんて、偉そうに言ってるけど、自分だけの能力なのにまだ使いこなせないんだ。さっきの子猫の時だってあっさり解けちゃったから」

 

 さして威力のないリリネットのチョップ一発で解けてしまう変身だ。いくら霊圧や体重に至るまでなにもかも変化できても、それは所詮ハリボテでしかない。けれど隠業としては十分すぎるほどだろう。驚きを通り越してもはや呆れる。けれどニルフィはさほど頓着していないようで、笑いながらリリネットの耳元で囁いた。

 

「でも猫舌で舐められるの、気持ちよかったでしょ」

「ッ、~~~~~~~~!!」

 

 羞恥で顔から火が出そうだ。あの痴態を友人に見られるなど、軽く死ねる。

 だからムキになって否定した。

 

「そんなことなかったし。ただ、いきなりで驚いただけだから。気持ちよかったなんて一度たりとも思ってませんよーだ!」

 

 目の前の少女より、ほんの少しだけ高い身長と精神年齢から来るプライド。それが難しく考えることなくリリネットの口から出た。

 返答を待つためにニルフィを観察すると、リリネットはあることに気づいた。

 ーー疲れてるのかな?

 少し憔悴(しょうすい)した様子のニルフィが、

 

「へえ?」

 

 冷ややかに目を細める。

 

「私、嘘をつかれるのは嫌なんだ。ほら、正直に言ってよ。さっきも、この前も、『途中で止められたのが名残惜しかったです』って、さ」

 

 ずいっとニルフィが顔を寄せてきたことでリリネットは思わず後退した。繰り返せば当然リリネットの背は壁に当たり、これ以上下がることを認めない。

 

「そ、そんな恥ずかしい台詞(せりふ)言えるわけないじゃん! それに、あたしはそんなのじゃないから」

「ホントかな~?」

「ホントだって!」

「そんな必死なところも可愛いよ。でも、ね」

 

 こらえきれないように嗜虐的な笑みを浮かべたニルフィが、キスができそうな位置まで顔を寄せる。シャンプー。あるいはお菓子の甘い香りが、危険な花を連想させる。

 

「言ってなかったけどさ。キミは気づいてなかっただろうけど、あのキスをしたとき、キミってば最後のほうーー(よろこ)んで()いてたんだよ?」

 

 思考が止まった。

 

「……え? ウ、ソ……」

 

 正直言って、あの時の記憶はほとんど覚えていない。ただただ驚愕が内心を占め、とても記憶できそうな状況ではなかった。それでも、もしかしたら、などという考えが不埒にも頭の隅をかすめる。

 

「私はキミに嘘なんてついたことないし、これからもずっとそうだよ。今だって、ホントは期待してるんだよね?」

「そんな、こと……んぁっ!?」

 

 ニルフィの細指が、リリネットの鳩尾(みぞおち)から下腹部にかけて流れる薄い筋をツーッとなぞる。

 

「私はあの時からね、キミがよろこんでくれそうなことをしてきたんだよ。それなのに本心を隠して私に嘘つくなんて、いただけないなぁ」

 

 そのまま右の指でリリネットの唇にそっと触れた。あのキスの時から、ニルフィが頑なに触れようとしなかった場所。右手の二本の指を押し付けてニルフィが冷笑する。

 

「ーーほら、舐めなよ」

「……え?」

「嘘なんてついちゃう悪いリリネットに罰。さっき私は子猫を演じてたし、キミは子犬みたいにやればいいんじゃないかな。私が満足したら『気持ちよかったです』なんて、言っても言わなくてもいいから」

 

 リリネットは逃げられなかった。ニルフィが左腕でリリネットの腰を抱き、互いの体を密着させている。いまにルフィから逃げようとしたら、なにをされるかわかったものではない。押し切られていることを自覚しながら、せめてもの抵抗を示す。

 

「ま、待って。誰か、通るかもしれないから。下官もけっこう居て……」

「恥ずかしいの? でもダメ。見られたくないなら早く私を満足させたほうがいいよ?」

 

 短い呼吸を繰り返していたリリネットは、一度強く目をつむり、決意を固めようとする。これはまだセーフだ。ただの、まあ、ただのという枠組みにまだ入るのか疑問だが、人間もよくやっているはずの過剰なスキンシップの一環のはずだ。

 それに、

 

「…………」

 

 焦燥に染められたニルフィの目が、放っておけなかった理由の一つだ。

 いざ口を開きかけたとき、まどろっこしくなったのか指が強引に挿れられた。リリネットは目を見開く。反射的に閉じかけた唇を割って、口腔にねじ込まれる。さしたる抵抗はできなかった。すくんだ舌を指で挟まれ、リリネットはようやくのどの奥からくぐもった悲鳴を漏らす。

 

「ほら、自分からやってよ」

 

 冷たく言われ、リリネットはおそるおそる、指に舌を這わせた。歯を当ててしまわないように、そして音を立てないように注意しながら、ゆっくりと舌で舐める。柔肉を、舌先でつつくたび、包み込むように舐めるたび、ニルフィが肩を震わせる。何かに耐えるように眉をひそめ、潤んだ瞳でニルフィはリリネットを見入っていた。誰かがこの通路を通れば言い訳などできない状態だ。しかし本人の知らぬところで、リリネットは罪悪感と背徳感で、背を痺れさせている。

 されるままだったニルフィが突然指を動かし、今度はリリネットの舌をこねくりまわす。時には挟み、時には引っ張り、飲み込むことができなかったリリネットの唾液が顎へと伝う。

 

「ぁ……」

 

 ゆっくりと指が引き抜かれた。思わず、切なげな声が喉から溢れるのをリリネットは自覚した。唾液にまみれていやらしく光る指をこれみよがしにニルフィがゆっくりと舐め、得も言えぬ羞恥心でリリネットの顔がこれ以上ないほど赤くなった。

 

「ね、言ったでしょ?」

 

 否定の言葉が思いつかない。

 耳元で囁かれながら、弱々しく頭を横に振るだけだ。

 

「私、もう満足しちゃったんだ」

「…………」

「あ、もしね。これ以上が欲しかったら、『途中で止められたのが名残惜しかったです』って言いなよ。それなら私ももう少し付き合ってあげるよ。ーーだって、友達だからさ」

「…………す」

「え? なにかな、聞こえないよ」

「途中で止められたのが、名残、惜しかったです……」

「あはは、そっかぁ」

 

 切羽詰まった、余裕のないニルフィの顔。待って、と言う間もなく、リリネットは乱暴に唇を奪われた。

 ニルフィがリリネットを貪る。腰に回されたニルフィの腕はリリネットに怪我をさせないように注意が払われていたが、それでも、リリネットのささやかな抵抗を押さえつける。

 

「はっ、はぁっ、はぁっ……。ん、ふ……っ」

「ぁ、んっ……」

 

 混じりあった吐息とこぼれ出る嬌声が、互いに目を閉じてその感覚に集中する二人の意図しない欲求を駆り立てる。舌を絡ませ、唾液を飲み干し、何度も何度も。

 荒い呼吸を繰り返し、わざと音を立ててニルフィはただリリネットの唇を貪った。押さえつけられ、ふるふると震えていた。リリネットの腕から力が抜けていく。どれだけ貪っても、興奮は治まらない。それどころか、さらにエスカレートしていく。もっと、もっとと。動物的な欲求が頭の中を埋め尽くしていく。

 以前のキスよりも長いあいだやっていた気がする。そしてふいに、ニルフィが顔を離した。荒い息遣いに艶やかな吐息が混ざる。

 

「はぁっ、あ、んっ……」

 

 酸素を求め、だらしなく開いたリリネットの口から最早どちらのものかも分からないほど混ざり合った唾液が糸を引いて、こぼれ落ちた。

 押し付けるように密着させていた身体を少しだけ離して、ニルフィはリリネットの身体を撫でるように手を滑らせる。くすぐったさで、熱を持った体が身震いした。

 

「嫌だったかな?」

「……嫌なんかじゃ、なかった、けど」

「私のこと、嫌いになったかな?」

「はぁっ、はぁっ……。嫌いになんて、なるはず、ないじゃん。それに」

 

 リリネットが力の入らない身体を無理やり動かして、ニルフィに寄りかかる。黒髪の少女は悲しげな顔をしていた。それに聞かせるために、熱くなった喉を震わせる。

 

「どうしてあんたがこんなことしたか、わかってるから。こんなことしなくても、あたしたちは友達だからさ。……ずっと一緒にいられるんだよ。だから、無理やり心を殺して、こんなこと、しないで」

「……グリムジョーと、同じこと言うんだね」

「言うに決まってんじゃん。あんたが、そんな苦しそうな顔してるならさ」

「そうかな?」

「そうだよ。どんだけ時間あるかわかんないけど。少しずつでいいから、これから、あたしたちのことをーー信じて。見返りのない仲間ってやつをさ」

「…………」

 

 ニルフィは唇を尖らせてそっぽを向く。

 

「調子いいこと言うんだね」

「仲間で友達だし」

「……そっか。信じきれてなかったのって、私だったんだね」

 

 優しくリリネットを抱擁する。

 

「少しぐらい、信じてもいいかな」

 

 まだ完全にとは言い難いが、それでもやっと、ニルフィは違和感というものを形として捉えられた。それを取り除くかどうかはニルフィ次第だ。見失っていた目的と手段を見つけられるかどうかも、彼女次第。

 肩の力の抜けたリリネットの頬に軽く口づけをすると同時に呟く。

 

「私もこういうの、ただの作業としてやってたわけじゃないんだよ」

「ーーえ? それってどういう」

 

 ニルフィはくるりと身を翻し、

 

「……さて、と。なんかスッキリしたしアネットたちのところに戻ろうっと」

「待って! まだあたし力が抜けたままで……」

「それは、もう一度したいってこと?」

「ぁ、う。~~~~! もうからかうな!」

 

 何かが多少変わっても、リリネットはこの黒髪の少女に終始翻弄されることは変化しないらしかった。 

 リリネットは唇に指を這わせ、まだ感じられる温かさを振り払おうとした。




ニルリリ

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